ド・モルガンの法則

勉強会

夏休みとはいえ宿題と休み明けテストの準備で苦労している長男が毎日連絡してくる。最近はもっぱら勉強に関する質問である。今は数学の「集合」の復習をしているようでド・モルガンの法則を用いた問題の質問が多い。1問につき20分程度の解説動画を作って送り、あとで電話でその内容を確認する方法をとっている。数学も良いのだが物理を質問してくれないかな?と期待している。たくさん伝えたいことがあるのに。

集合

自分も高校時代には苦手意識をもっていた「集合」という単元。理屈で考えればわかりそうだが複雑になると頭が混乱してくる。基本的なところでいえば集合Aと集合Bというふたつの集合に対してその交わりを学ぶ。

A ∩ Bと表現すればAでありかつBである共通部分を表す。また
A ∪ Bと表現すればAまたはBのいずれかであればよい、となる。

たとえば

集合A={1,3,5,7,9}
集合B={1,2,3,4,5,6,7}

というふたつの集合があったとすると

・A ∩ B={1,3,5,7}となる。また
・A ∪ B={1,2,3,4,5,6,7,9}となる

ある条件に当てはまったものをその集合の「要素」というが昔、ある写真家さんが面白いことを言った。

「世の中には2種類のカメラがある。ライカとそれ以外だ」

相容れない、共通要素のないふたつの集合、「ライカ」と「ライカ以外」という関係については生意気ながら納得できる。安全確実に良い写真を撮るにはCanon 5DやCanon Rを使用する。失敗のない写真が撮れる。しかし、趣のある写真を撮るならやはりLeica Q2を使う。どうでも良い話であるが、集合という考え方の面白さを改めて実感している。

どちらかひとつ

集合には共通部分も存在する。ある書物を読んでいて考えさせられることがあった。例えばこのような集合があったらどうだろうか。

全体集合U:クリスチャン

集合A:日曜日を礼拝日として守っている

集合B:土曜日(安息日)を礼拝日として守っている

集合C:聖書の価値観のみを大切にして信仰生活を送っている

集合D:世の中の価値観に合わせて信仰生活を送っている

共通部分はあるだろうか。あるとしたらどこだろうか。

読んだ書物の中には次のように書かれていた。

今日、宗教界は憂うべき状態にある。神の恵みは軽んじられた。多くの者は、 神の律法を廃し、「人間のいましめを教として教え」ている(マタイ 15:9)。わ が国の多くの教会に、無神論が流行している。それは、聖書を公然と否認する広 義の無神論ではなくて、キリスト教の衣をまとった無神論で、聖書が神の啓示で あるという信仰をくつがえしている。熱烈な献身と生気にあふれた敬神の念は、 空虚な形式主義に所を譲った。その結果、背信と快楽主義がはびこった。「ロトの 時にも同じようなことが起った。・・・・人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様 であろう」とキリストは言われた(ルカ 17:28,30)。日ごとの記事は、こ のみ言葉の成就を証拠立てている。世界は、急速に滅亡にひんしていた。間もな く、神の刑罰が下り罪と罪人とは焼き尽くされなければならない。
人類のあけぼの電子版 p121   ソドムの滅亡

間も無くイエス様が再臨されるこの時代、最終段階は「印」が押される。「獣の印」か「神の印」のどちらかである。中間は無い。必ずどちらかの集合に属すことになる。自分の行動の全てをもう一度吟味して、心の奥底にある動機が何であるかを見極める必要を痛感している。

最終時代に、宗教界に見られる腐敗と背信とは、「地の王たちを支配する大いなる都」 バビロンという幻によって、預言者ヨハネに示された(黙示録 17:18)。滅亡 に先だって、「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、 その災害に巻き込まれないようにせよ」という招声が天から発せられる(同・ 18:4)。ノアやロトの時代と同様に、罪と罪人とから、はっきり分離しなけれ ばならない。神と世との妥協はあり得ない。地上の宝を得るために引き返すことは できない。「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ 6:24)。
シデムの谷の住民のように、人々は、繁栄と平和を夢みている。神のみ使いは、 「のがれて、自分の命を救いなさい」と警告する。しかし、別の声は「あわてる ことはない。心配することはない」という。天は、すみやかな滅亡が犯罪者に臨 むと宣言しているのに、人々は「平和だ、無事だ」と叫ぶ。平原の町々は、 滅亡の前夜、快楽にふけり、神の使者の恐怖と警告をちょう笑した。しかし、 こうしてあざけった者らは炎の中で死んだ。恵みの戸は、あの晩、ソドムの 邪悪で軽率な住民に対して永遠に閉ざされた。神を常に侮ることはできない。
人類のあけぼの電子版 p122   ソドムの滅亡

「良くなりたいか」  李 根完 牧師

 

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究極の試練

イシマエルとの別れ

アブラハムの生涯は悩みと苦悩の中にあって祈り抜き神様と共に生きた生涯だったといえる。神様から「我が友」との言葉を頂くほどの信仰者である。老齢のアブラハム夫妻に子どもが与えられ、アブラハムから生まれた子どもたちがこの地に満ちることが神様の約束であった。今のように聖書があり同じ信仰を持つ仲間の証を自由に聴くことのできる時代ではない。時々、神様ご自身が語られたり啓示を与えることでそれを信じた。しかもその語りかけや啓示は数年或いは数十年に一度の割合。神様からの言葉を心に刻みつけて数十年信じ続けることは現代よりもはるかに難しいことだと思う。約束の成就が遅れているように感じたアブラハム夫妻は妻の侍女との間に子どもをもうけることが神様の約束だったのではないかと思いハガルとの間にイシマエルをもうける。しかしこれは神様の方法ではなかった。それから更に時を経て約束の子イサクが誕生する。しかし、約束の子どもの誕生でサラとハガルの関係は更に悪化し子どもの成長する環境として相応しくないという理由で、サラはハガルトイシマエルを追い出すようにアブラハムに提案。不承不承アブラハムはこれを受け入れ彼らを家から追い出すことに。子どもを失うことの辛さ、悲しさ、寂しさ、そして自分の判断が間違っていたことに対する後悔の念がアブラハムを苦しめた。神様は約束の子がサラとアブラハムとの間に生まれるように計画したのにそれを待てず自分たちの方法で子どもをもうけたこと、そしてサラを妹だと半分偽ったことをについてアブラハムの信仰を更に完成させる必要を感じられたようだ。

神は、アブラハムを信仰の父として召されたのであるから、彼の生涯は後世の人々の信仰の模範となるべきであった。しかし、彼の信仰は完全ではなかった。 彼はさきに、サラが妻であることを隠し、こんどはハガルと結婚して神への不信を示した。神は、彼が最高の標準に達するために、これまでまだだれも召されたことのないきびしい試練に彼を会わせられた。彼は、夜の幻の中でモリヤの地に行き、そこで示される山の上で、むすこを燔祭としてささげるように命じられた。
人類のあけぼの電子版 p107  信仰を試されたアブラハム

苦悩

イシマエルを失い、今度はイサクをささげるようにとの命令を神様から受ける。自分の知り合いの中にはお子様をなくされた方がいらっしゃる。癒えることのない心の傷を考えると胸が張り裂けそうになる。癒えない心の傷が少しでも和らぐことを祈ることしかできない。聖書の文面だけを読めば人ごとのように思えてしまうが自分が遭遇している場面だと思って読めば苦しくて読めなくなる。

彼は、天幕にもどって、イサクが若者らしく無心に熟睡しているところへ行った。父親は、むすこのいとしい顔をしばらくながめていたが、身震いして離れ去った。彼は、サラのところへ行ったが、サラもよく眠っていた。もう1度むすこを抱かせるために、彼女を起こすべきであろうか。神の要求を彼女に知らせるべ きであろうか。彼は、自分の心中を彼女に打ち明けて、この恐ろしい責任を彼女 にも共に負ってもらいたいと思った。しかし、彼女は、自分を妨害するかも知れ ないと恐れて思いとどまった。イサクは、彼女の喜びであり誇りであった。彼女の生命は彼にしっかり結ばれていて、母の愛情から、彼を犠牲にすることを拒む かも知れなかった。
人類のあけぼの電子版 p109   信仰を試されたアブラハム

アブラハムの生涯中の最長の日が、やっと暮れかけていた。むすこも若者たちも眠っている間、彼は祈り通した。そして、彼は、天使があらわれ、試練はもうすんだ、イサクを傷つけずに母親のもとに帰してもよいというのを期待していた。 しかし、彼の心の苦悩は取り去られなかった。長い日がもう1日続き、その夜も 彼は心を低くして祈った。しかし、耳に聞こえるのは、彼のむすこを奪い去る命令であった。サタンは、疑いと不信を耳もとでささやいたが、アブラハムはその 声にさからった。彼らが、3日目の旅を始めようとしたとき、アブラハムは、北のほうを見ると、モリヤの山には約束のしるしである栄光の雲がかかっていた。 そして、彼は、語りかけた声が天からのものであることを悟った。
それでも、アブラハムは神につぶやかず、主の恵みとまことの証拠を考えて心を強くした。このむすこは、予期しないのに与えられた。尊い賜物を与えたかた は、ご自分の与えたものを取りもどす権を持たれないであろうか。すると信仰は、 約束をくりかえす。「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。
人類のあけぼの電子版 p109  信仰を試されたアブラハム

真の理解者

イサクをささげる苦悩を誰よりも理解できる方が父なる神様である。大切なひとり子イエスキリスト様を死に渡さなければならなかった。

しかし、むすこを死にわたすという父の犠牲の大きさを理解できるのはただ神だけである。アブラハムは、別れの光景を神以外のだれにも見られたくなかった。 彼は、若者たちに残っているように命じ、「わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」と言った(創世記 22:5)。た きぎは、犠牲となるイサクが背負い、父は、刃物と火を持って一緒に山頂さして登った。このように、おりと群れから遠く離れたところで犠牲の羊はどこから来 るのかと、イサクは心の中で不思議に思った。彼は、ついに、「父よ、・・・・火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」とたずねた。ああ、これはなんという試練であったことだろう。「父よ」という愛のこもった言葉が、どんなにアブラハムの心を刺したことであろう。まだ知らせることはできなかった。 「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」(同・22:7,8)。
彼らは、定められた場所で祭壇を築き、その上にたきぎを置いた。そして、アブラハムは震える声で天からの言葉をむすこに知らせた。イサクは、自分の運命 を知って恐れ驚いたけれども、さからわなかった。彼は逃げようと思えば、彼の運命から逃げることができた。悲しみに打ちひしがれた老人は、恐ろしい3日間の苦悩に力がつきていて、元気な若者の意志に逆らうことはできなかったことで あろう。しかし、イサクは幼いときから、すぐに信頼して服従することを学んで いたから、神のみこころが知らされたとき、彼は喜んで従った。彼はアブラハム と同じ信仰を持っていたから、自分の生命を神の供え物としてささげる召しを受 けたことを名誉に感じた。イサクは、父をいたわり、悲しみを軽くしようと努めた。そして、父の弱々しい手を助けて、綱で自分を祭壇に結びつけるのであった。
人類のあけぼの電子版 p110   信仰を試されたアブラハム

試練の意味

苦しい状況。試練。それが仮に本人の蒔いた種であったとしても聖書の世界では因果応報とは言わず摂理と考える。原因がどこにあろうとも試練は神様の許しの中で起きている。その意味が分からず苦しむ。人生を諦めたくなる。刹那的な生き方になってしまう。しかし、アブラハムの生涯を追体験するときに試練が鍛錬であり人の品性を更に清め高貴なものにするためのものであることが分かる。歓迎できることではないが、それが最善の道だと信じることはできる。

神が、アブラハムにその子を殺すように命じられたのは、アブラハムの信仰をためすとともに、彼の心に福音を現実的に強く印象づけるためでもあった。あの恐ろしい試練の暗黒の数日間の苦悩は、人類の贖罪のために払われた無限の神の大犠牲を、アブラハムが自分の体験によって学ぶために神が許されたのである。 自分のむすこを捧げることほど、アブラハムの心を苦しめた試練はなかった。神は、苦悩と屈辱の死に、み子を渡された。神のみ子の屈辱と魂の苦悩を見た天使たちは、イサクの場合のように、介入することが許されなかった。「もうそれでよい」という声は聞かれなかった。堕落した人類を救うために、栄光の王はご自分 の生命をお捧げになった。神の無限のあわれみと愛の証拠として、これ以上の強力なものがあるだろうか。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらな いことがあろうか」(ローマ 8:32)。
人類のあけぼの電子版 p112  信仰を試されたアブラハム

2022813 「喜びが満ちあふれるため」 安息日礼拝LIVE配信

 

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親、指導者が伝えるべきこと

富んでも謙虚に

ここに、アブラハムの高潔、無我の精神があらわされた。これと同様の立場に おかれたとき、なんと多くの人々が、自分の権利や優先権を主張してやまないこ とであろう。こうして、どれほど多くの家庭が破壊されたことであろう。どれほ ど多くの教会が分裂して、真理の働きが悪人たちのぶべつと物笑いの種になった ことであろう。「わたしとあなたの間にも・・・・争いがないようにしましょう」。親 族関係だけでなくて、真の神の礼拝者でもあるから、「わたしたちは身内の者です」 とアブラハムは言った。全世界の神の子らは、1つの家族である。そして同じ愛 と融和の精神が彼らを支配しなければならない。「兄弟の愛をもって互にいつくしみ、 進んで互に尊敬し合いなさい」とわれわれの救い主はお教えになった(ローマ 12:10)。誰にでも礼儀正しくすることを身につけ、人々からしてほしいと思うことを、喜んで人々にするならば、人生の不幸の半分はなくなってしまうことであろう。
人類のあけぼの電子版 p92  カナンにおけるアブラハム

とりなし

アブラハムは、愛する父親に訴える子供のような確信をあらわした。彼は、天 の使者のそばに近づいて熱心に訴えた。ロトは、ソドムの住民にはなったけれど も、彼は、住民の罪に参加していなかった。アブラハムは、人口の多いこの町に、 真の神の礼拝者がほかにもあるにちがいないと思った。そう考えて、「正しい者と 悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。・・・・ 全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」と彼は訴えた(同・18:25) アブラハムは1度だけでなく何度も願った。願いが聞かれるにつれて大胆になり、 もし、10人の義人がソドムにいたならば、町は救われるという確証をついに得た。
アブラハムは、滅亡にひんした魂への愛に動かされて祈った。彼は、腐敗した ソドムの町の罪はきらったが、罪人が救われることを願った。アブラハムがソド ムのために抱いた深い関心は、われわれが悔い改めていない人々に対して感じな ければならない切実な思いを示している。われわれは、罪を憎まなければならな いが、罪人には、憐れみと愛を持たなければならない。われわれの回りには、ソ ドムにのぞんだのと同じように、希望なく恐ろしい破滅に陥っている魂がある。
人類のあけぼの電子版 p99  カナンにおけるアブラハム

伝えるべきこと

アブラハムは、彼の子供たちと家族を愛していたので、彼らの信仰を保護し、 彼が彼らに与えることのできる最も尊い遺産として、神の律法の知識を彼らに教 えた。これは、彼らが世界に伝えるべきものであった。すべての者が、天の神の 統治下にあることを教えられた。親が子供を圧迫したり、子供が不従順であった りしてはならなかった。神の律法が各自の義務を示していたから、それに服従す るものだけが、幸福と繁栄を得ることができた。
彼自身の模範、彼の日常生活の無言の感化は、不断の教訓であった。王たちの賞賛 をかちえたゆるがない高潔な精神、慈愛と無我の精神による親切は、家庭でも発揮さ れた。生活に芳香がただよい、品性の気高さと美しさとは、彼が天と結ばれていること をすべての者にあらわした。彼は、どんなに卑しい身分の奴隷の魂も軽視しなかった。
人類のあけぼの電子版 p101  カナンにおけるアブラハム

神の律法が、宗教的指導者にさえ軽視されることは、大きな害悪を生んでいる。 神の律法は、もはや人間を拘束しないという教えが一般に広まっているが、これ は、人々の道徳に偶像礼拝と同じ結果を与えている。神の清い律法の要求を低下 させようとする人々は、家族と国家の組織の根底に直接攻撃を加える。信仰は持 っていても神の律法に従っていない親は、主の道を守るように家族に命じない。 神の律法が、生活の規準にされていない。子供たちが、それぞれの家庭を築くと きに、彼ら自身が教えられなかったことを子供たちに教える義務は感じない。今 日、不信仰な家庭がこんなに多いのはそのためである。堕落がこんなに深く、広 く及んでいるのもこのためである。
親自身が、全心をこめて、主の律法に従って歩かないかぎり、子供たちに服従 を命じることはできない。この点に改革が必要で、深く、広い改革が行われなけ ればならない。親に改革が必要であり、牧師に改革が必要である。彼らの家庭に、 神が必要である。もし彼らが変化を希望するならば、彼らの家庭に神の言葉を入 れ、その勧告に従わなければならない。それは、彼らに語る神の声であり、それ に絶対に服従すべきであることを、彼らは子供たちに教えなければならない。
人類のあけぼの電子版 p102 カナンにおけるアブラハム

あまりにも多くの家庭で、祈りがなおざりにされている。親たちは、朝夕の礼 拝をする時間がないと考えている。彼らは、植物を繁茂させる輝く日光や雨、聖 天使の保護などの豊かな恵みに対して、神に感謝する時間を少しもさくことをし ない。彼らは、神の助けと導きを求め、家庭にイエスがおとどまりになるように、 祈りを捧げる時間を持たない。彼らは、神についても天のことについても考えず、 牛馬のように働く。彼らが何の望みもなく、失われることのないように、その贖 いとして、神のみ子は生命をお与えになった。人間は、それほど尊い魂を持って いる。それだのに、彼らは滅びてしまう獣と同様に、神の大きな恵みに感謝する ことをしない。
人類のあけぼの電子版 p103  カナンにおけるアブラハム

聖書研究ガイド 37課.

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信仰の継承

ある牧師先生の死

いつも穏やかで心の底から神様を信頼し神様と共に生きる牧師先生だった。子どもたちもとても穏やかで素直な子ばかりであった。自分は教員としてこの子たちと出会い関わらせて頂いた。そして今でもその親交を続けさせていただいている。自分の理想とする家庭はまさにこの牧師先生のご家庭だった。夫婦関係も子どもの育て方もすべて真似したかった。

この牧師先生が北海道伝道旅行の終わりに自分のいる青森の医院を訪問して下さった。残念ながら自分はお会いすることができなかったが、先生ご夫妻がお帰りになった翌日にこの訪問のことを伺った。この時お会いできなかったことが神様のご計画であったとはいえ今も悔やまれる。

この旅行から自宅に戻られ2日後に先生は倒れた。搬送先の病院でこのままいつ息を引き取ってもおかしくない状況で奇跡的に10日間生き続けご家族を励まされた。実はこの時、先生のお子さんからメールをいただきお父様が倒れて危険な状況なので祈ってほしいと伝えられた。そのメールを受け取ったのが新幹線の中であった。母が2回の脳梗塞を発症しその後コロナに感染し非常に危険な状況であることを知らされ東京に向かう新幹線の中。東京に行ったところでコロナに感染している母に面会することはできない。それは分かっていたが、状況を飲み込めない父を少しでも励ます為にもとりあえず向かった東京。その車内で読んだメールだったので母の事も勿論そうであるがこの牧師先生のためにも真剣に祈った。そして教え子たちが支えられるよう、神様に願った。

数時間、もっても3日と言われた命が奇跡的に10日間支られこの牧師先生はしばらくの眠りについた。生きてご再臨を迎えることが夢だったこの牧師先生の願いは違う形で聞かれた。

信仰の継承

この牧師先生の告別式はオンラインで配信された。自分も視聴させていただいたが寂しさの中にも希望があり、イエス様が確かに生きて働かれることを実感するものだった。そして、今日この息子たちと奥様が教会で「信仰の継承」という証をされている動画を見つけた。視聴しながら何度も胸が熱くなった。家族や愛する人々に真剣に信仰を継承したいと生き続けたこの牧師先生の生き様が立体的に浮かび上がった。本当に感動した。もっと神様を信じないといけない、そう生き方をしたいと強く思った。

アブラハム

今読んでいる書物も今日からアブラハムの生涯に入った。波乱万丈の生涯を送ったアブラハム。多くの富に恵まれ指導者、父祖としても尊敬を集め信仰の父とも評されるアブラハムだがその生涯は決して平坦ではなかった。試みの連続であった。しかしどのような場面においてもアブラハムは神様の言葉を信じ、見えない方の存在を意識して歩み続けた。そして子孫達が神様の道からそれないことを願い祈り続けた。まさに信仰の継承を願った生涯だった。

亡くなった牧師先生やアブラハムの生涯をたどりながら、こんな自分にもまだ家族や愛する人たち特にかつての生徒達に出来ることがあるような気がしてきた。

主は、摂理のうちに、この試練を与えて、服従、忍耐、信仰などの教訓を教え ようとなさった。この教えは、後で苦難に耐えるように召されるすべての人のた めに記録されることになった。神は、神の子らを彼らの知らない道に導かれるが、 神は、神に頼るものを忘れたり、見捨てたりなさらない。神はヨブに苦難がのぞ むのをお許しになった。しかし、神は、彼をお見捨てにならなかった。神は、愛 するヨハネが、パトモスの孤島に流されることを許された。しかし、そこで神の み子がヨハネに会われた。そして、彼の幻は、不滅の栄光に輝く光景で満たされ たのである。神は、神の民が試練に会うのを許される。それは、彼らが神に誠実 を尽くし、服従することによって、彼ら自身が霊的に豊かになるためである。 さらに、彼らの模範によって、他の人々に奨励を与えるためである。「主は言われ る、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それ は災を与えようというのではなく、平安を与えようとするもの」である(エレミヤ 29:11)。われわれの信仰を最もきびしく鍛え、神は、あたかもわれわれを見 捨てられたのかと思わせるような試練そのものが、実は、われわれがすべての重 荷を主のみもとにおろして、それに代えて彼がお与えになる平和を味わうことが できるように、われわれをキリストのそば近くに導くべきである。
人類のあけぼの電子版 p89  神の召しに応じたアブラハム

渡部ファミリーによる証

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話しを聴けない親

医療現場と教育現場

医療現場は多少の例外はあっても話しをする患者さんとそれを聴く医療者は双方とも同じ方向を向いている。患者さんも自分の状況を伝えようとするし医療者もその声を真剣に聴き何を訴えているのかを聞き分けようとする。こういう現場では理解もしやすいしそうでなくてはならない。しかし教育現場では必ずしもそうならない。必死に訴える生徒に対して真剣に聴こうとしない教員。或いはその逆もあり、教員が一生懸命に生徒の声を聴こうとしているのに生徒の方が心を開けず本音を言わないことがある。医療現場と教育現場の違いは何なのかを考えてしまう。ひとつには信頼、かもしれない。患者として医師の前に出れば目の前の医師を信頼するしかない。しかし教育現場はそうはならない。目の前の教員が信頼できる人物かどうかの品定めからはじまる。

親の悩み

先日、ある保護者さんから連絡があった。お子さんのことで相談があるとのことであった。お子さんの高校進学を機にきちんと向き合おうとしたが、お互いに向き合えなくなっていることに気づき悩んでいるとのことだった。今まで一生懸命に愛情を注いで育てて来られた親御さんなのでそれほど深刻ではないと思ったが親御さんは憔悴しきっている。お子さんからは「自分に意見を言わないど欲しい、自分を否定しないで欲しい」と言われたそうだ。親御さんと話していくうちに少しずつ理由がわかって来た。

子どもの叫び

お子さんとも話した。屈託無くよく話してくれる。苦手意識のある科目もあるのでそのことを話題にすると是非教えて欲しいというのでオンラインで補習授業を行なっている。その中でいくつか見えて来たことがある。このお子さんは、自分の叫び声をきちんと正確に聴いて欲しい、というのがそもそもの欲求であった。しかし、親御さんはそれを解決しよう、或いは問題を回避しようとしてお子さんが話し終わる前に自分に意見を述べてしまう。それが正論だとわかるから、お子さんの方が口を閉ざしてしまう。そのようなことに子どもの方が辟易して、ここにきて爆発しているようであった。

叫びを聴く

親御さんともう一度話した。親御さんも真剣に悩んでおられるので傷つけないように言葉を選びながらお話しした。子どもの話を十分に聴けていないところに問題の根っこがあることを指摘すると親御さんも心当たりがあったようだ。しかし、更に付け加えた。「お子さんの本音は言葉で表現されるとは限りません。多くの場合言葉とは反対の欲求を持っています。お子さんの言葉を丁寧に聴きながら、しかし心を理解することが必要です。少し難しく感じるかもしれませんが、深い愛情をもって育てて来られた親御さんには必ず心の叫び声が聴こえます。だから何を訴えているのかをよく考え心で聴いてください」と。

子どもだけではない。みんな「だれか自分を分かって、理解して」と叫んでいる。

 

「神がご一緒の世界」 大川牧師 第3礼拝 (2022.8.7)

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避難指示

豪雨

日付が変わり9日になってすぐに青森県地方に大雨注意報が出された。その後雨は断続的に降っているが9日午前11時40分以降警報に変わった。自分が住む田舎館村は弘前から車で10分程度のところであるが近くには岩木川という一級河川が流れている。これがものすごい勢いで水位を増し午後からは弘前を中心に避難指示に変わった。何度も何度も携帯が緊急速報を伝えるのでこのチャイムの音にも慣れた。どうしても今日中に弘前に行かなくてはならないので先ほど行って来た。確かに岩木川の支流は橋の欄干に届きそうな勢いで水位が増している。平川という地域があるがこちらの方が深刻で間も無く平川が溢れるのではないかとの情報が入った。それにしても、スマホを通して警報チャイムは鳴り各地から「大丈夫?」との連絡がひっきりなしに入るが、現地はそれほどでもない。また緊急性を感じることもない。テレビを観ないせいもあるが、どこか人ごとのようにも感じている。

ノアの洪水

今、ノアの洪水の場面を書物で読んでいる。自分で計算したからかなり怪しいが天地が神様によって創造されてから1636年後にノアの洪水が起こった。この120年前、神様はこの不品行と偶像礼拝に満ちた世の中を一掃することを決めた。そしてノアに水害から逃れるよう箱舟を作るよう命じた。今まで雨を観たことのない人たちに水害を説明するのは非常に困難だったと思う。そしてそれ以上に神様に立ち返ることを促すことは困難だったことだろう。書物によれば全ての人が悪に手をそめていたわけではなく神様に立ち帰ろうとした人もいたようである。しかし、120年間ノアをバカにして罵った結果実際に起きた洪水によって彼らは滅んでしまった。

水は最高の山より15キュビット(約7メートル)も高く増した。箱舟は五か月も の間風波にもまれてただよったので、箱舟のなかの家族は死んでしまうのかと思 ったことがたびたびあった。それは、苦しい試練であった。しかし、ノアは、神 のみ手がかじをとっていることを確信していたので、彼の信仰はゆるがなかった。
水がひき始めると、主は、一群の山々に保護された場所に箱舟を漂着させられ た。ここは神の力によって保存されていたのである。山々は、距離がわずかしか 離れていなかったから、箱舟は、この静かな港のなかをただようだけで、果てし ない大海に漂流しなくなった。これで暴風雨にほんろうされて疲労した船のなか の人々に大きな安らぎが与えられた。
人類のあけぼの電子版 p74  約束の虹

洪水のときに、地球の全面が変化した。罪の結果、第3の恐ろしいのろいが地 上に下った。水が減り始めるにつれて、山や丘は濁水の海にかこまれた。至ると ころに、人間や動物の死がいが散乱していた。主は、こうしたものが残って腐敗 し、空気を汚すのをお許しにならなかった。そこで神は、地球を一大埋葬場とさ れた。水をかわかすために吹かせられた強風は、非常な勢いでそれらを動かした。 ある場合には、山々の頂上さえ洗い去って死がいの上に、木、岩、土などを積み 上げた。同様の方法によって、洪水前の世界を豊富にして、飾り、また、人々が 偶像視していた金、銀、高級木材、宝石などは、人々が見つけたり、捜し出した りできないように隠されてしまった。激しい水の勢いで、土や岩がこれらの宝物 の上に積み重なって、ある場合にはその上で大きな山になったりした。神は、罪 人たちが豊かになり、繁栄すればするほど堕落するのをごらんになった。豊かに お与えになる神の礼拝に導くはずの宝が礼拝され、その反面、神はあがめられず、 軽べつされた。
人類のあけぼの電子版 p76  約束の虹

このとき、広大な森林が地下に埋没した。これは石炭になり、現在の鉱脈にな り、また、多量の石油を産出している。石炭と石油はときおり地下で引火して燃 える。こうして、岩石は熱し、石灰石は焼け、鉄鉱が溶ける。石灰石に水がかか ると、しゃく熱度が高まり、地震、爆発、噴火などの原因になる。火と水が、岩 と鉱脈に触れると、大きな地下爆発が起こり、鈍い雷鳴のような音がする。空気 は熱く、息苦しくなる。こうして噴火が起こる。熱せられたものが十分に発散さ れないでいると、地は、海の波のように震動して隆起し、大きなきれつを生じて、 時には都市、村落、火をふく山々までのみこんでしまう。こうした驚くべき現象 は、キリストの再臨と世界の終末の直前には、もっとひんぱんに激しくなり、滅 亡がすみやかに近づいているしるしとなる。
人類のあけぼの電子版 p77  約束の虹

警報

今も岩木川や平川とその支流の水位が危険な状況にあり警報が鳴り続いている。世の中のいたるところに、神様からの愛の警報が鳴り響いている。人の愛が冷える様を通して警報を発している。次々の発生する疫病を通して警報を発している。地震や戦争、地球規模の争いの予兆を通して警報を発している。ノアの箱舟は船の内側からドアを操作できなかった。出入り口の扉は神様ご自身が閉められた。更に扉が閉じてから7日間は何も起こらなかった。しかし、大雨と地から湧き上がる大水は起こった。神様の言われたことは必ず起こるのである。避難できるのは今だけだということを忘れてはいけない。

【速報】青森・弘前市が「緊急安全確保」警戒レベル5を発令(202289日)

 

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立佞武多(たちねぷた)

各地のネプタ

昨年はコロナの影響で大きなイベントが軒並み中止になった。五所川原の立佞武多は当初開催を決定していた。が、直前になって中止が発表された。青森県はコロナの感染者が少ないのであまり目立たないが人口も少ないので実は感染者の割合はかなり高い。そんなこともあり是非観覧したいと思っていた立佞武多に行けずじまいになってしまった。地元「川部」のネプタが2日間だけ出た。扇ネプタというのだろうか、テンプレートがありそれにその年の絵が描かれる形式である。そう言えば、青森に来て目についたのが色々なところに置かれている扇ネプタの骨組み。田んぼの真ん中やちょっとしたスペースに置かれており、しかも骨組みだけなのでこれが一体何なのかしばらく分からなかった。

ネプタも青森県内至る所で行われる。青森ネプタ、弘前ネプタ、黒石ネプタ、平川ネプタ、そして五所川原ネプタ等。全てのネプタ祭りに行ったわけではなくネット上にある動画を視聴しただけなのだがその土地によって異なる雰囲気があることが分かる。掛け声も違う。「ラッセラー、ラッセラー」という掛け声は全国的に有名になっていると思う。他にも「ヤーヤドー」というものもある。弘前や平川はこの掛け声だったと思う。特に平川は世界一の扇ネプタが有名であるが、この掛け声が怖くて好きになれない。右翼団体の街宣カーが大声で怒鳴りながらしゃべっていることがあるがそれにそっくりである。地元の人には怒られてしまうがやはりこの掛け声は怖い。そして五所川原。こちらは「ヤッテマーレ、ヤッテマーレ」という。言葉の意味は乱暴だが、恐ろしさは感じない。

五所川原の立佞武多

念願叶って今年は3年振りに開催されたので観に行くことができた。今まで何度か「立佞武多の館」には行ったことがある。御所芦原の立佞武多は制作されると3年間稼働する。3年が過ぎると新しい立佞武多に代を譲り引退する。だから「立佞武多の館」に行けば3基のねぷたを見ることができる。20メートルを超える大型ネプタなので、館では立佞武多を囲むように螺旋の回廊があり全方向から立佞武多を見学する。恐ろしさを感じるほど巨大であり、かつ精巧に作られている。自分の住んでいるところから五所川原までは一本道で、30分程度で行けるのだが一本道なだけに渋滞が予想されるので五能線に乗って行った。普段は閑散としている五所川原液が改札からごった返していた。駅前通りを進み、ネプタの出発点である「立佞武多の館」まで歩くのだがどこからこれだけの人が集まったのかと思えるほどの人だかり。19時の出発の時には町中が熱気に包まれるのが分かった。「ヤッテマーレ、ヤッテマーレ」という掛け声とともに順番に3基のネプタが館を出る。これが今まで観たかった立佞武多か、と感無量になった。

夢中になって写真や動画を撮った。あとで動画に編集してみたが、撮影の腕もあり他の人のように現地の熱気や立佞武多の壮大さを伝えられるものにはならなかった。これはやはり現地で見ないと伝わらないのかもしれない。何れにしてもとても良い経験をさせてもらった。

五所川原立佞武多2022

 

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広島原爆の日

平和記念式典

昨日、8月6日は「広島原爆の日」であった。77年前のこの日を思い記念式典が行われた。自分もインターネットのライブ配信を観ていた。懐かしい平和公園や原爆ドーム、見ているだけで色々な思い出が蘇り複雑な心境になった。松井市長や岸田総理、グテーレス国連事務総長、そして湯﨑知事の挨拶やメッセージが放映されていた。こども代表の言葉にも重みがあり感動した。

広島平和の歌

式典の中で「広島平和の歌」が伴奏とともに歌われたが、被爆から2年後に作られ今まで歌い継がれてきた。歌詞の内容から当時のご苦労と思いが伝わってくる。鐘に込められた思いが伝わってくる。

広島平和の歌

作詞:重園贇雄(しげぞの よしお)
作曲:山本 秀(やまもと みのる)

雲白く たなびくところ
空のはて 東に西に
おお高く こだまひびけと
鐘は鳴る 平和の鐘に
いまわれら 雄々しく起ちて
その栄え ここに興さん

波青く たゆとおところ
海のはて 南に北に
おお遠く 祈りとどけと
鐘は鳴る 平和の鐘に
いまわれら 試練を越えて
その行手 ここに仰がん

風清く かがやくところ
国のはて 世界の友に
おお熱く 想いかよえと
鐘は鳴る 平和の鐘に
いまわれら 手をさし伸べて
その睦み ここに歌わん

平和の琉歌

自分が「平和の琉歌」という曲に出会ったのは20年以上前だったと記憶している。当時、沖縄には年に3,4回ダイビングのために訪れていた。ダイビングの最終日は必ず「ネーネーズ」という沖縄民謡やオリジナルの歌を歌うユニットのライブに行っていた。ネーネーズが毎回必ず歌うのが「平和の琉歌」という曲だった。この歌の出所が分からなかった自分はてっきりネーネーズのオリジナルソングだと思っていた。しかし、サザンの桑田佳祐さんが作詞作曲してることを後になって知り大変驚いた。沖縄に20年以上足繁く通って、少しずつ沖縄の人の気持ちや沖縄戦の意味が分かりはじめた頃だったのでまさかこの曲を内地の人が作詞したとは思わなかった。「アメリカの傘の下」はもっと踏み込んだ見方をすれば「アメリカの持つ核という傘の下」という意味になる。この緊張感の上に本当の平和があるとは思えない。

平和の琉歌

作詞・作曲 桑田佳祐

1  この国が平和だとだれが決めたの 人の涙も渇かぬうちに
アメリカの傘の下夢も見ました民を見捨てた戦争の果てに
蒼いお月様が泣いております 忘れられないこともあります
愛を植えましょう この島へ 傷の癒えない人々へ 語り継がれていくために

2  この国が平和だと誰が決めたの 汚れ我が身の罪ほろぼしに
人として生きるのを何故にこばむの 隣り合わせの軍人さんよ
蒼いお月様が泣いております 未だ終わらぬ過去があります
愛を植えましょう この島へ 歌を忘れぬ人々へ いつか花咲くその日まで

戦争

広島といえば岸田総理の本家があるところ。広島や核に対する特別な思いを持っていることと思う。色々な事情や人に配慮するため、言いたいことが言えず出たい会議に参加できない面もあると思う。総理の挨拶を聴きながらご苦労があることを感じた。また一方で間違いなく世界は第三次世界大戦に向かって舵を切ったとも感じている。我が子が戦争の犠牲にならないことを心から願うものである。本当の平和。真の平和は戦争のその先にあることには共感するが、その戦争は同じ人間がつくる別の国との戦争ではなく「サタンとか悪魔」と言われる存在との戦争である。これに勝利しなければ真の平和は訪れない。サタンの敗北は既に決まっているが、最後の悪あがきで少しでも敗戦国に加盟する人をあの手この手で引き摺り込んでいる。サタンにつくのか、勝者となるキリストにつくのかどちらかを選ばないといけない状況になっている。全ての人が聖書を読んで何が真実であるかを吟味しイエスキリストを選ぶことを心から願う。大人数がいる方は滅びの方かもしれない。みんなが正しいと言ったことが偽物かもしれない。聖書を読み、真の平和を作り出す人になることが求められている。

今日の御言葉

「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。」
ヨハネの黙示録 21:4 口語訳

ネーネーズ 月に謳う (平和の琉歌) Pray To The Moon TBNYD13

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現実と夢

母との再会?

14時から母とのアンライン面会ができると言われていた。オンライン面会は病院の1階にある特別な部屋に面会者が出向きそこにあるタブレットで病室にいる母に面会出来るというもの。オンラインではあるが面会室に入れるのは2人までとのことだったが事情を説明して3人入れてもらったようだ。姉夫婦と父の3人である。私と弟はLINEで画面越しの更に画面越しで母を見ることができた。元々の認知症に加えて今回の2回の脳梗塞により更に認知機能が落ちていた。父のことを理解できない。しきりに母は自分の弟の名前を呼んでいた。面会後、父は自分がわかってもらえなかったことにショックを受けていたようだがこれもまた現実のことである。特別に危険な状況の中にあってただひたすら祈ることしかできなかったが、今日生きている母を見てとても感動した。時々祈りながら母がこの地上にいないのではないかと思うことも度々あったので母との再会?は非常にインパクトがあった。LINE越しで母の顔を見ることはできたが母から自分を見ることは出来なかったのでとても不思議な気持ちになった。

電話の後、兄弟で少しだけ今後のことを話し合った。今後のことは容態次第だが近いうちにリハビリ病院に転院することになる。そして問題はその後である。どこで誰が両親の面倒を見るのか。一番動きが取りやすいのは間違いなく自分だと思う。在宅での仕事があればヘルパーさんの協力をいただきながら自分が面倒を見ることができるのではないかと思っている。しかし姉はまた違う考えを持っているようだ。今後状況に合わせて対応していく必要がある。

あの時のまま

今日もオンラインの礼拝を探してメッセージをたくさん聞いていたが、卒業生の話を久しぶりに聴くことができた。教頭をしているときに、ある担任の先生が体調不良で休職したため自分が教頭を兼務しながら担任になった時の生徒である。以前にも彼のことを投稿したことがあったが非常に実直で素直で常にクリスチャンとしての生き方を意識する素晴らしい生徒であった。そして今日の彼もあの時と全く変わらず、高校時代に黒板消しを決して忘れなかったように今も教会周辺のお掃除をしていることを知り胸が熱くなった。写真が上手でホームルームの記録写真は彼が全部撮ってくれた。だから自分はホームルーム全員ではなくカメラマンである彼を撮っていれば良かった。彼には人を癒す特別な力があったので時間を見つけては彼の部屋を訪問した。行くと嬉しそうに色々な写真を見せてくれる。自分も鉄道に興味があるので彼の撮影した鉄道写真を見せてもらい長期休暇を利用して旅をした時の話をたくさん聞かせてもらっていた。家族で信州の山に登った経験はとても嬉しかったようで何度も美ヶ原の写真を見せてくれた。卒業後も悩むことはあるようで、神様はなぜこのような若者が苦しみにあうことを許されるのかと思ってしまったが、それでも彼が必死に前を向いていることをとても嬉しく思った。礼拝メッセージの中で転校のことなどを語っているが、彼は学力面でも非常に真面目に取り組みいつも学年では上位の成績をおさめていた。将来は車のデザイナーになることを夢見ていた。神様から多くの祝福をいただきながらこれからも自信を持って生きていかれることを心から願うものである。久しぶりだが、彼に手紙を書いてみよう。

天沼教会202286日「主に仕える喜こび」杉本謙裕

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試練

暗闇の中でも信頼する

「私たちが神の摂理のうちに試練に耐えるよう召されているのなら、それを私たちの唇に置かれるのは御父の御手であることを覚えて、その十字架を受け、 その苦い杯を飲みましょう。 日の光の中と同じように暗闇の中でも主に信頼しましょう。 主は私たちの幸せのためにすべてのものをお与えになるのだと信じましょう。 ・・・苦しみの夜にも、私たちはカルバリーの十字架で示された愛を思い出すとき、どうして感謝をもって心を高め、賛美の声を上げずにいられるでしょうか」(『教会への証」 5316ページ、英文)

悩みの炉

神は、常に神の民を悩みの炉の中で試みてこられた。クリスチャン品性という純金から不純物が取り除かれるのは、炉の火の中においてである。イエスは、この試練を見守っておられる。彼は、尊い金属をきよめて、彼の愛の輝きを反映させるのには、何が必要であるかを知っておられる。神は、綿密なきびしい試練によって、そのしもべたちを訓練なさる。神は、ある人が神のみわざの進展のために役立つ能力を持っているのを見られて、そのような人々をためされる。神は、摂理のうちに、彼らの品性をためす地位に彼らをおいて、彼ら自身でも気づかなかった欠点や弱点をあらわされる。神は、彼らがこれらの欠点を直して、奉仕にふさわしいものになる機会をお与えになる。神は彼ら自身の弱さを示して、神に頼ることをお教えになる。なぜならば、神が彼らの唯一の援助者であり、保護者だからである。こうして、神の目的は達成される。彼らには、大目的達成のための教育、訓練、鍛練、準備などが与えられる。彼らの力は、そのために与えられたのである。神が彼らを活動に召されるとき、彼らは準備が整っている。そして、天使たちは、地上の働きを完結するために力を合わせるのである。

人類のあけぼの  上   p128

フェイク者のフェイク 田渕裕長老

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