ヤコブの悩みの時2

はじめに

今日も昨日引用した書物から、その続きを紹介したい。

恐るべき苦悩

サタンは神の天使たちの前でヤコブを訴え、彼は罪を犯したのであるから自分には彼を滅ぼす権利があると主張して、エサウに働きかけて彼のほうへと向かわせていた。そして、ヤコブの長い苦闘の夜の間、サタンは、彼に自分の罪を思い起こさせて、失望に陥れ、彼が神にすがっているその手を引き離そうとした。ヤコブはほとんど絶望しそうになった。しかし彼は、天からの助けがなければ自分は滅びるしかないことを知っていた。彼は、自分の大きな罪を心から悔い改め、神の憐れみをこい求めた。彼はその目的をすてようとはせず、しっかりと天の使いを捉え、苦悶の叫びをあげて熱烈に懇願し、ついに勝利したのであった。サタンは、エサウを動かしてヤコブに立ち向かわせたように、悩みの時に、悪人たちを煽動して神の民を滅ぼそうとする。そして彼は、ヤコブを訴えたように、神の民に対する非難を申し立てる。彼は、世界を自分の手中にあるものと考えている。しかし神の戒めを守る小さな群れが、彼の主権に反抗しているのである。もし彼が、彼らを地上から一掃することができるなら、彼の勝利は完全なものとなる。彼は、天使が彼らを守っているのを見て、彼らの罪が許されたことを推測するが、彼らの調査が天の聖所において決定されたことは知らない。サタンは、自分が彼らを誘惑して犯させた罪を正確に知っている。そして彼は、それらを神の前に大きく誇張して示し、この人々は自分と同様に神の恵みから当然除外されるべきであると主張する。主が、彼らの罪を許しながら、サタンとその使いたちを滅ぼすことは、正当ではないと彼は宣言するのである。サタンは彼らを、自分のえじきであると主張し、滅ぼすために自分の手に与えられるべきであると要求する。サタンが、神の民をその罪のゆえに責める時に、主はサタンが、彼らを極限まで試みることを許される。神に対する彼らの信頼、彼らの信仰と堅実さとが、激しく試みられる。彼らは、過去をふりかえると、望みを失ってしまう。なぜなら、その全生涯の中に、よいところをほとんど見ることができないからである。彼らは、自分たちの弱さと無価値とを十分に自覚している。サタンは、彼らの状態は絶望的で、彼らの汚れたしみは洗い去ることができないと思わせて、彼らを恐怖に陥れようとする。サタンは、彼らの信仰をくじいて、彼らを彼の誘惑に負けさせ、神に対する忠誠を放棄させようと望むのである。神の民は、彼らを滅ぼそうとする敵に取り囲まれるが、しかし彼らの味わう苦悩は、真理のために受ける迫害を恐れてのものではない。彼らは、自分たちがすべての罪を悔い改めているかどうか、また、自分たちの中の何かのあやまちによって、「全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう」という救い主の約束の成就を妨げるのではないか、ということを恐れるのである(黙示録 3:1 0 )。もし彼らが、許しの確証を持つことができるならば、拷問も死をもいとわないであろう。しかし万一、許しに値しない者であることがわかって、自分自身の品性の欠陥のゆえに生命を失うようなことがあれば、それは神の聖なるみ名を辱しめることになってしまう。彼らは、至るところに反逆の陰謀を聞き、暴動が活発に起きるのを見る。そして彼らの心の中には、この大いなる背教が終わるように、そして悪人たちのよこしまが終わるようにという、強烈な願望と熱望が起こる。しかし、彼らが、反逆の活動をとどめるよう神に祈っていながらも、自分自身には悪の大きな潮流に抵抗する力も押し返す力もないことを感じて、激しい自責の念にかられる。もし彼らが、彼らの全能力を常にキリストの奉仕に用いていたならば、そして力から力へと進んでいたならば、サタンの勢力はこれほど優勢な力をもって襲ってはこないだろうと、彼らは感じるのである。

金は火で練られる

彼らは、彼らの多くの罪をこれまで悔い改めたことを指し示して、神の前で彼らの心を悩まし、「わたしの保護にたよって、わたしと和らぎをなせ、わたしと和らぎをなせ」という救い主の約束をこい求める(イザヤ27:5 )。彼らの信仰は、祈りが直ちに答えられないからと言って、なくなってしまわない。激しい不安、恐怖、苦悩に苦しみながらも、彼らは祈り求めることをやめない。彼らは、ヤコブが天使をつかまえたように、神の力を捕える。そして、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と彼らは心の中で叫ぶのである。もしヤコブが、欺瞞によって長子の特権を得た罪をあらかじめ悔い改めていなかったならば、神は、彼の祈りを聞き、憐れみ深く彼の生命を保つことを、なさらなかったであろう。そのように、悩みの時においても、神の民は、恐怖と苦悩にさいなまれている時、まだ告白していない罪を思い出すならば、彼らは圧倒されてしまうことであろう。絶望が彼らの信仰を断ち切り、彼らは神に救いを求める確信が持てなくなることであろう。しかし、彼らは、自分たちが無価値なことを深く感じてはいるが、告白すべき罪を隠してはいない。彼らの罪は、前もってさばかれて、消し去られている。彼らは、罪を思い出すことができない。神は人生の小さなことにおける不忠実を見のがされると、サタンは多くの者に思い込ませている。しかし、主は、ご自分が、悪を是認することも大目に見ることもなさらないかたであることを、ヤコブの取り扱いにおいて示された。罪の言いわけをしたり、隠したりして、それを告白せず、許されないまま、天の書に残しておく者は、みなサタンに負けてしまうのである。口でりっぱなことを言い、栄誉ある地位にあればあるほど、その人々の行動は、神の目には嘆かわしいものであり、大いなる敵サタンの勝利はいっそう確実なのである。神の日のための準備を遅らせる者は、悩みの時やそれ以後においては、準備することができない。こうした人々は、すべて絶望である。なんの準備もせずに、最後の恐るべき争闘に当面するこれらの自称キリスト者たちは、絶望して、激しい苦悶の叫びをあげて彼らの罪を告白する。そして悪人たちは、彼らの苦悩をながめて勝ち誇るのである。このような告白は、エサウやユダの告白と同じ性質のものである。これをなすものは、罪そのものではなくて、罪の結果を悲しむのである。彼らは真の悔い改めをしておらず、悪に対する嫌悪感がない。彼らは刑罰を恐れて罪を認めるのである。そして、昔のパロのように、刑罰が取り除かれるとまた天に反抗するのである。ヤコブの生涯はまた、欺かれ、試みられ、罪に陥れられても、真に悔い改めて神に立ちかえった者を、神は見捨てられないという保証でもある。サタンはこのような人々を滅ぼそうとするが、神は天使を遣わして、危機の時に彼らを慰め、保護されるのである。サタンの攻撃は、激しく、断固たるもので、彼の欺瞞は恐るべきものである。しかし、主の目はご自分の民に向けられ、その耳は彼らの叫びを聞かれる。彼らの苦悩は大きく、炉の火は彼らを焼き尽くすように思われる。しかし、金を吹き分ける者であられる神は、彼らを火で練った金として取り出される。この最も激しい試練の時における、神のその子供たちに対する愛は、彼らの最も輝かしい繁栄の時と同じように、強く、やさしいのである。しかし、彼らは、火の炉に投げ入れられる必要がある。キリストの姿が完全に反映されるように、彼らの世俗的なところが焼きつくされねばならない。

われわれに必要なもの

われわれの前にある苦悩と苦悶の時は、疲労と遅延と飢えに耐えることのできる信仰、すなわち、激しく試みられても落胆しない信仰を要求する。その時に備えるために、すべての者に恩恵期間が与えられている。ヤコブは、断固として屈しなかったために勝利した。彼の勝利は、しきりに願い求める祈りに力があるということの実証である。彼のように神の約束をしっかりとつかみ、彼のように熱心で忍耐強い者はみな、彼が勝利したように勝利するのである。自分をすて、神の前で心を悩まし、神の祝福を求めて熱心に祈り続けようとしない者は、それを受けることができない。祈りによる神との格闘―このことを知っている人がなんと少ないことであろう。熱烈な願いをもって、心から神によりすがり、全力を注ぎ出す人がなんと少ないことであろう。嘆願者の上に、言葉では表現することのできない絶望の波が押し寄せる時に、確固不動の信仰をもって神の約束にすがる者が、なんと少ないことであろう。今、少ししか信仰を働かせていない者は、サタンの欺瞞の力と良心を強制する法令の下に屈してしまう危険が多分にある。そして、たとい彼らが試練に耐え得ても、常に神に信頼する習慣を養ってこなかったために、悩みの時には、さらに大きな苦難と苦悩に陥ることであろう。彼らは、自分たちが学ぶことを怠っていた信仰の教訓を、恐るべき失望のもとにあって学ばなければならなくなる。われわれは今、神の約束を試すことによって、神をよく知らなければならない。天使は心からの熱心な祈りをすべて記録している。われわれは、神との交わりを怠るよりも、利己的な満足を求めることをやめるべきである。神の是認の下にある最低の貧困、最大の自己犠牲は、是認のない富、栄誉、安楽、友情にまさっている。われわれは、時間をかけて祈らなければならない。もしわれわれが世俗のことに心を奪われているならば、主は、金、家屋、肥えた土地などの偶像を、われわれから取り去ることによって、われわれに時間をお与えになるかもしれない。もし青年が、神の祝福を求めることができる道のほかには、どんな道に入ることをも拒むならば、罪に誘われることはない。世界に最後の厳粛な警告を伝える使命者たちが、冷淡で無気力で怠惰な態度でなくて、ヤコブのように、熱烈に、信仰をもって神の祝福を祈り求めるならば、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」と言うことのできる多くの場所を見いだすであろう(創世記 32:3 0 )。天は彼らを、神と人とに勝つ力をもった王子たちとみなすのである。
各時代の大争闘 「大いなる悩みの時」より引用

2020年12月19日 礼拝 「信仰によって神のわざを見る」 森田一男名誉牧師

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