2つの言葉
1週間ほど前と、今日の事。読んでいる書物にとても考えさせられる言葉があった。考えさせられる、と言うより深く自分を見つめ反省する機会となった。
信じる
ひとつ目は聖書研究のテキストに書いてあった言葉。
「私たちは本当に聖書を信じているだろうか。私たちはこの聖句の中に示されているような神の知識を得ることができると、 本当に信じているだろうか。 私たちは神の口から出る一つひとつの言葉を信じているだろうか。 私たちは預言者や使徒たちによって語られた、すべての光と祝福の創始者であり、 すべての豊かさと満ちあふれるものを宿しておられるイエス・キリストの言葉を信じているだろうか。 私たちは本当に神とその御子を信じているだろうか」 (「アドベン チストレビュー・アンド・サバスヘラルド」 1889年10月1日号、 英文)。
自分自身に信仰を生み出し育む力が全くないことを自覚するものである。無いから与えていただかないといけない。もっと求めるべきであると思った。
牛
ふたつめの言葉。これは今朝読んだ箇所に書いてあった言葉。
1匹の牛が鋤と祭壇の間に立って、「どちらにも用意ができている」、 すなわち畑で働くためにも、あるいは燔祭の壇にささげられるためにも 用意ができているという言葉が書いてある絵がある。これが真の神の子の態度であって、自ら進んで義務の要求する所に行き、己を捨ててあがない主のご用のために喜んで犠牲をささげるのである。
ミニストリーオブヒーリング電子版p381
この言葉は特に心に刺さった。まだ自分の計画、野心の様なものが神様の考えるご計画にアドバイスしている構図が自分の中にある。全てを委ねる事ができていない。
この絵がどこにある誰の作品なのかはまだ調べていないが自分の弱点を短い言葉で的確に言い当てている。
内省、いや猛省である。
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