新年を迎えるにあたり

新年に対する考え方の変遷

私が小さい頃は新年を迎える準備を色々と忙しくやっていた。ハンドバッグ職人の父は年末ギリギリまで仕事をして納品する。12月30日の午後になってやっと大掃除が始まる。畳を干し、障子紙を張り替え家中の埃を落とす。それが31日昼過ぎまで続く。それが終わると年末の買い物。当時は三ヶ日を休む商店が当たり前だったので買い物を済ませておかないとどうにもならない。お菓子もたくさん買ってもらえる。また新しい洋服も買ってもらえる。昔は欲しい時に洋服を買うのではなく年末に買ってもらうのが我が家の習慣だった。そして家に帰ると夕食の準備。大晦日は必ず「すき焼き」と決まっている。この日は父が料理を担当する。食事が終わると家族で紅白を観ながらトランプをする。それが我が家の新年の迎え方だった。しかし、今は違う。元日から開いているお店がほとんどだ。そもそも年末文化、新年を迎える文化はコンビニの登場によって変化したと考えている。準備をしなくても新年が迎えられるようになったからだ。いつでもコンビニに行けば大体のものが揃う。新年を迎える準備から福袋を買う文化に変化して来たのがここ30年間の日本の変遷だと思っている。

新年を迎える精神

精神的には新年を迎える準備をする人も多い。新年に新しい決心をして何かに取り組もうとする。自分も新年を迎えるにあたり今までたくさんのことを決心し、しかし継続しないで終わってしまった。自分はクリスチャンなのでイエスキリストとの関係をもう一度見直したいといつも考えるが結局例年と同じような関係、熱くもなく冷たくもない生ぬるい信仰しか持てないでいる。今年こそなんとかしたいと思いながら何年同じことを考えて来たことだろう。

新年を特別な思いで迎えた人

私のブログで何度か紹介したことがある19から20世紀初頭に活躍した女性クリスチャン、後世に励ましとなる文章を数多く残したエレン・ホワイトという人が次のような詩を残している。

 

新しい年を前にして私は行く道を知りません

しかし過去を支えてくださった神は

その哀れみで将来を明るくしてくださる

離れていれば暗く見えるものも近寄れば明るいように

 

他を望まず、知らなくてもただ進みます

一人で光の中を行くよりは

主と暗闇を行きたいのです

見える道を行くよりは

信仰で主と共に歩みたいのです

 

私の心は閉ざされた将来の試みにひるみます

しかし愛する主が選んでくださったものならば

悲しみません

「主がご存知なのです」とささやいて

私は涙をおしとどめるのです

 E.G.White

 

彼女はこの詩を19世紀後半に記したと言われている。同じ信仰を持ち二人三脚で頑張って来た夫に先立たれ、また自分の所属する教会から、排斥運動を起こされこれからどのように歩んで行けば良いのか途方にくれる年末にこの詩を書いた。彼女の信仰は自分の過去を支えてくださったことに裏づけされている。どういう将来になるか分からないけど、唯一の頼みが神様の存在だと告白している。ある程度将来が見通せる道を「自力」で歩むのではなく、一寸先は闇という状態を「神様と共に」歩むことが自分の幸せだというのだ。

自分は将来のことが恐怖で仕方がない。これからどうなるのか?仕事も家庭も。そんな不安の中を生きる自分にとって、この不安の中でどのように生きるかを明確に教えてくれる教科書的な詩である。この拙文を読んでくださる方々に神様の祝福があり、幸せに満ちた2021年となることを祈りたい。

泣くことの大切さ

sachiさん

高校3年生を担任したある年、私のホームルームにsachiさんがいた。彼女は非常に明るくいつも周りの人を気遣い雰囲気をよくすることができる。時々ハメを外すこともあるが周囲からは親しまれ信頼もされていた。彼女は福岡出身。高校卒業後は地元福岡の女子大への進学を希望していた。絵が大好きでイラストを学ぼうとしていた。彼女はお母さんとふたり暮らしをしている。彼女が小学5年生の時にお父様が倒れて急逝された。お母様の話ではお父様の死を受け止めながらも前向きに明るく生活し、むしろお母様の方が励まされているという。中学から本校にやってきて6年目。お父様がいないことなど微塵も感じさせない明るい生活ぶりを5年以上続けてきた。ところが、私が担任になってから少しずつ彼女の様子が変わってきた。毎日登校時の表情を見ているがsachiさんの目は虚ろだったり時に睨むように何かを見ているようなこともあった。最初は自分が担任になったことで相性が悪く不機嫌なのかな、と思っていた。が、決して彼女は私に対して反抗的だったりぞんざいな態度を示すことはない。むしろ休み時間などに教員室にきて色々とおしゃべりをして行く状態だった。少し気になったのでお母様に電話をして最近の気になる様子を報告した。自宅ではそのような様子を見たことがないのでお母様も理由は分からない、とのことだった。それからしばらくして事件は起きた。ある日の起床時にsachiさんが手首から血を流していた。幸い見つけたのが同級生で機転を利かせて最大限の配慮をしてくれたおかげで他の生徒には見られていない様子だった。リストカットである。しかし、自分の知っているリストカットのパターンとは少し違っていた。夜中、ひと目のないところで手首を切っている。しかも彼女はそのことを全く覚えていないという。明らかに普通のリストカットとは違う。少し嫌な予感がしたので担当の舎監に、特別に気を配って見ていて欲しいとお願いした。のちに私の奥さんになる舎監だ。とてもよく面倒を見てくれ逐一報告してくれた。そしてそれからおよそ1週間後、また事件が起きた。今度は放課後、自分のベッドでまた手首を切った。ベッドにはたくさんのお父様の写真が置かれていた。この時も同室の同級生が発見してくれ教員にだけ伝えてくれたので他の生徒に見られることはなかった。が、同室の同級生も気がきではないし友達が手首を切ったとなればそれだけで動揺する。直ぐにお母様に連絡して病院受診を勧めた。お母様も直ぐに同意してくださり県内で最も有名な心療内科に予約を入れた。それまでは担当の舎監が自宅で彼女をケアーしてくれた。3日後に予約が取れたのでsachiさんと担当舎監、そして私の3人で病院に行った。寮生活の情報は舎監の方が圧倒的に持っているので彼女の同行はありがたかった。いくつかのテスト、面談の結果解離性障害と診断された。医師が言うには恐らくお父様の死を十分に受け止め切れていないことが原因とのこと。sachiさんと話したところ、彼女には心当たりがあると言う。

泣くことの大切さ

sachiさんはお父様の急逝を受け止めながらもお母様を支えなくてはいけない、と言う気持ちになったと言う。寂しかったけどお父さんはきっとどこかで生きていると思うようにして、自分が落ち込まないように気をつけていたとのこと。確かにお母様の話では葬儀の時もsachiさんは終始笑顔であったという。医師は「辛くて涙が枯れるほど泣くことが次のステップにつながります。泣くことで死を少しずつ受け入れることができます。それができなかったので今頃このような症状が出てきているのだと思います。昔はお父さんが生きていると思って生活できたけど、成長するに従って現実的にお父さんの死を受け止めている自分と、どこかでお父さんが生きていると思い込んでいる自分にギャップが出てきてしまったようです。でもこれは一次的なもので必ず元に戻りますから心配しないでください。」とのことだった。お母様にもこの状況を伝えたところ、心配なのでしばらく自宅で静養させたいとのことだった。翌日、彼女を博多の自宅まで送った。お母様にも「必ず元どおりになるとお医者さんが言っていました」とその部分を強調した。とりあえず1,2週間様子を見て学校に戻れそうなら帰らせます、と仰った。sachiさんのことを考えると胸が痛くなった。彼女はどれだけ不安だっただろうか。無意識のうちに自分が自分を傷つけているのだから。いつの間にか自分を殺してしまうのではないかと言う不安もあったと思う。こんな不安を感じながら生きなくてはいけないsachiさんが気の毒でならなかった。

不思議な出会い

sachiさんが自宅に戻っている間、彼女の進学について私なりにできる備えをしておこうと考えていた。彼女の進学したい大学の説明会が比較的近いところで行われることを知ったのでその説明会に参加してみた。福岡の、しかも女子大ということで福岡から距離のある当地の説明会にはさほど多くの人はきていなかった。一通りの説明が終わり面談という形での質疑応答の時間になった。私はある男性の先生と面談させていただくことになった。生徒の中に第一志望で受験させていただく生徒がいること、地元の大学でイラストを含む美術系の勉強をしたいと考えていることなどを話した。その先生も地元と子ということでかなり興味を持ってくださった。色々と質問に答えて行くうちに徐々にその先生の顔色が変わり、また質問の内容も変わってきた。そしてその先生が「もしかしたら違うかもしれませんが、その受験しようとしている生徒さんのお名前ってsachiさんではないですか?」と聞かれた。こちらの方が驚いた。「そうです。その通りです。」と答えると先生は興奮気味に、「途中からもしかしたらと思って聞いていました。そして彼女が中学から全寮制の学校に行き福岡を離れていたことを思い出していたんです。」この先生は大学で授業を教えているが、自宅を解放して剣道の道場を開いているという。sachiさんは小さい頃からこの道場に通い、かなり優秀な剣士だったらしい。sachiさんから剣道の話を聞いたことはなかったが腕前は大したものだったらしい。そこからはもう意気投合して「指定校扱いで受験できるようにします」とその場で確約していただき、それ以降も本校を指定校と認定してくれるようになった。世界は広いようで狭い。

その後

sachiさんはおよそ3週間後に学校に戻ってきた。地元の心療内科にも通い症状も出なくなり安定している状態だった。早速彼女に大学説明会に行きそこであった話をするととても驚いていた。剣道の先生が大学の先生になっていることにも驚いていたようだったが非常に喜んでいた。安心した様子だった。彼女はその後大学を卒業して就職し、今は結婚して幸せな暮らしをしている。忍耐することは必要だし大切なこと。しかし自分の感情をきちんと表現することの大切さも学べた。そういえば聖書の「ヨハネの黙示録」には、天国においては涙を流すことがないと約束されている。

人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

And God shall wipe away all tears from their eyes; and there shall be no more death, neither sorrow, nor crying, neither shall there be any more pain: for the former things are passed away.

ヨハネの黙示録21:4

間も無く2020年が終わろうとしている。コロナに振り回された1年だった。悲しい別れがあった。多くの涙が流された。もう涙を流さなくて良いところを思いながら年の瀬を平穏に過ごしたい。

恐怖と希望

昔から怖いもの

昔から怖いもの、苦手なものがいくつかある。先ずは高いところ。高所恐怖症である。自分が小さい頃は高島平団地ができ徐々に高層建築物が主流になりつつある時代だった。近所に15階建のマンションができ数名の転校生がそこから同じ小学校に通っていた。ある友達がそのマンションの5階に住んでいたが彼の家から帰るときにエレベータではなく外階段を使って降りたときにものすごい恐怖を感じた。眼下に迫る川越街道に吸い込まれるような気がして這うようにして階段を降りたことを記憶している。同様の症状で大好きだが中々慣れなかったのが飛行機。上空で揺れた日には恐怖で気分が悪くなった。その後、隔週で東京や沖縄に行くようになり嫌でも飛行機を頻繁に使うようになり慣れたがやはり高いところは苦手だ。また地震も怖い。関東は地震の多いところなので地震慣れしそうなものであるが中々そうはならない。地震が来るたびに柱にしがみ付いたり、揺れを少しでも和らげようと?地面を押さえたりする。無意味なことであるが何かをしないと怖くて仕方がない。しかし、最も怖いものは「死」だった。小学6年生、正確には中学校入学式の日に祖父の葬儀を行っていた。いとこの死、そして祖母は自宅で亡くなったのでその一部始終をずっと見ていた。今まで何人もの方の「死」を比較的近いところで見てきたがやはり怖いものである。特に自分の親にその時が訪れるのが恐怖で仕方ない。

聖書には「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)

と書いてあるが人は必ず死ぬ。誰もこの死から逃れることはできないのである。どれだけこの世で富と名声を手に入れ、或いは莫大な財産を得ても死から免れることはないのである。この「死」がとてつもなく怖い。いや正確には「怖かった」。

人に与えられている時間

人が生きていられる時間がどのくらいあるのかは神様しか知らない。私の従兄弟は3歳で白血病を患い5歳で亡くなった。たった5年間の時間しかこの世で生きることができなかった。私の次男は生と死の間を彷徨い数回の手術の後命が支えられ現在7歳になった。初めは2日生きられないかもしれない命とも言われた。今回この「死」をテーマにしたのは、昨晩ある方の訃報に接したからである。「歌のお兄さん」でおなじみ今井ゆうぞうさんが亡くなった(NHKニュースより引用)。長男が小さいときに大変お世話になった。子どもだけでなく親の自分も「歌のお兄さん」の笑顔にどれだけ励まされたか分からない。NHKという組織、会社は嫌いだがこの番組は大好きだった。長男もお兄さんと一緒に歌うことが大好きだった。そんなお兄さんが43歳という若さで急逝した。脳内出血とのこと。本当に悲しかった。妻にもすぐにこのことを伝えたが子どもには内緒にしておくことにした。いずれ分かるかもしれないが敢えて伝えないことにした。自分より一回り以上若い方が亡くなることもショックであった。人はいずれ死ぬのだがやはり若い方の死は堪える。  

死生観

キリスト教の死生観は他の宗教と少し違う。キリスト教の中でも違いがあるが聖書を忠実に解釈するならば、人は死んだのち「眠った状態」になる。直ぐに天国に行くのではない。クリスチャンに「亡くなって直ぐに天国に行く」という理解をしている人がいるが聖書のどこにもそのような記述はない。眠った状態からやがて起こされる時がくる。それがイエスキリストの再臨の時である。このときに救われる人が復活する。これが第1の復活である。復活し1000年の間イエスキリストと共に天にて生活をする。1000年後に次の復活がある。人間の中で神を神と認めない生活をした人たちが復活するのである。これが第2の復活である。彼らは神の裁きを受けなぜ滅びるのか理由を説明され燃える火と硫黄の中で焼き尽くされてしまう。そしてこの地上に全く悪の存在がなくなったところで全てが新しく清められ、ここで永遠に神と共に生活し続けるのである。第一の復活で蘇った人たちはその人が最も元気だった頃の肉体が与えられる。神様の国では結婚の制度はないが自分のかつての伴侶や子どもたちのことは分かるという。即ち生き別れた、或いは死別したあの人に再会できるのである。これがクリスチャンがもつ天国の希望なのである。今井ゆうぞうさんがクリスチャンかどうかは分からないが、イエス様を知らずに或いは信じずに亡くなることは次に繋がる希望がないのである。キリスト教は至極単純である。「イエスキリストを、自分を救ってくれる存在として信じるだけで救われる」というのだ。救われるために良い人になるよう要求されるわけではない。もっと悔い改めて清い生活をするようになってから救われるのでもない。今の状態で「信じるだけ」で救われるのだ。勿論クリスチャン生活をより楽しく充実させる生き方は奥深いが入り口は「信じるだけ」なのだ。自分が何歳であろうと明日生きている保証は誰にもない。もしも今死んでしまったら次に復活するのは第1の復活か第2の復活かのどちらかである。第1の復活でよみがえるために今できることが「イエスキリストを信じる」ことだけである。イエスキリストの何を信じるのか。それはイエスキリストが

・自分の罪の身代わりとして十字架で死んでくださったこと

・死んで墓に葬られたこと

・3日目に蘇ったこと

・今は天にて自分のために罪のとりなしをしてくださっていること

これを信じるだけで良いのである。これがキリスト教である。逆に言えばこれ以外の要求をするキリスト教会はカルトや異端かもしれないので要注意である。もしイエスキリストを信じることに興味があればコメント欄にてコンタクトをとっていただきたい。私には十分な知識がないので自分が信頼している牧師を紹介したいと思う。この拙文を読んでくださるあなたが第1の復活で蘇る人であることを心から願っている。

警察に捕まった話

ふたりの女子生徒

高等学校で担任をしている頃の話。その年は珍しく2年生を受け持っていた。高校で担任をするときはほとんどが3年生だったので2年生を受け持つのは久しぶりだった。この学年は中学生の時に、自分も中学の担任をしていたので全員ではないが半分近くの生徒を受け持った経験がある。中学時代はなかなかユニークな学年であった。とにかく楽しむことが大好きな男子としっかり者が多い女子。集団で行動するときは女子がリーダーになることが多かったが男子もそれをすんなり受け入れていた。女子が男子を諭す場面も多く精神的には女子の方が2歳ぐらい年上のように感じた。高校ではその反動が出たのか女子の方が賑やかで楽しいことを好むようになっていた。この学年の女子にanとrieがいた。ふたりとも中学時代に担任した生徒だ。当時は楽しいことが好きだけど基本的に真面目なanとルールが大嫌いなrieだったがこのふたりがとても仲が良かった。学校のルールから外れようとするrieをanがサポートするような関係ではあったが精神的にはrieの方がお姉さんだった。ふたりとも家庭的に少し満たされないところがありその辺も意気投合した理由なのかもしれない。高校2年生の時にこのふたりが同じホームルームになった。ただ、私のクラスではない。隣のクラスだった。しかし何かにつけてふたりは私のところによく来ていた。色々なくだらない話しをしてくれる。くだらない話だがとても面白いのでこちらも引き込まれてしまう。実はこのふたり、話しがとても上手なのである。嘘や空想の話も実話のように感動的に話すことができるため素人は簡単に騙されてしまう。私は関わりが長いので彼女たちの嘘の話や偽りの涙を見破ることができる。そんなふたりだけど憎めない、大切な存在であった。

学校脱出

本校は土曜日の午後、何も活動がない生徒は夜まで暇になる。その代わり日曜日は朝から授業になる。ある土曜日の午後、このふたりは山奥のこの学校から抜け出してバスと電車を使って少し大きな街まで無断で外出した。勿論これは校則違反であり、無断外出をした時点で停学以上の重い指導になってしまう。anとrieがそんなことをしているとは考えてもいない自分に、夕方電話が掛かってきた。その街(市)の警察署から。「anさんとrieさん、おたくの学校の生徒さんで間違い無いですか?」と唐突に生徒の名前を出してきた。「はい、間違いありません」「で、あなたが担任の○○先生ですね」…違う、彼女たちは隣のクラスの生徒で自分のクラスでは無い。しかし警察からの電話ということは彼女たちがまた嘘をついて私を担任と言っているに違いない、と昭和38年製のカンピュータが瞬時に答えを出したので「確かに私が担任です」と答えた。警察の話によると彼女たちはその街まで行き好きなものを食べたりして過ごしていたらしいが最後に万引きをしたとのことだった。お店の人がそれを見つけすぐに警察に通報したとのこと。とにかくすぐに車で彼女たちを迎えに行った。警察では散々絞られたようでうつむいて反省している様子のanとrie。警察も「かなり反省をしているようです…」と言っていた。が、恐らくそれは違う。面倒なことになったとは思っているが反省はしていないはず。警察官に「騙されていますよ」と言いたくなった。このまま説教をされて済むものと思っていたがそうはならなかった。お店が正式に被害届を出すと言うことで彼女たちから事情聴取をすると言う。今日はしないがこれから毎週日曜日にその警察にくるよう命令された。勿論、担任と思われている自分も一緒にである。

警察での取り調べ

とにかくこの問題をどのように解決するのが良いことなのかを考えた。無断外出をしているだけで停学以上の指導、しかも万引きで警察のお世話になっているとなれば退学は避けられないかもしれない。退学は避けたかった。とりあえず校長先生に相談した。当時の校長先生は自分を教員に引っ張ってくれた、授業中に居眠りをする物理のA先生だった。ふたりの間には特別な信頼関係があった。だから校長に問題の全てを話し、退学にならないように解決したいと自分の気持ちも伝えた。校長も理解してくれ「お前の好きなようにやってごらん。フォローはする。そして最終的な責任は取ってあげるから心配するな」と言われた。とりあえず校長以外には内緒で毎週警察署に行くようになった。お弁当持参で来いと言われていたのでコンビニでお弁当を買って警察に行く。取り調べは3人別々に同時進行で行われる。所要時間はだいたい4,5時間。結構な長期戦である。「こんなことも聞くのか?」と言う質問もあった。「それは学校としての守秘義務がありますのでお答えできません」と彼女たちの家庭環境について答えを拒否する場面も多くあった。そんなことが4週間ほど続いて調書ができた。それを今度は警察の方から学校に出向き調書を読み上げ間違いがなければ署名をさせられる。学校に警察が入ると物々しくなるので学校のゲストルーム(校舎棟からは離れたところのある)で校長、anとrieと私の4人が警察官3人を迎える形で面談した。結局家庭裁判所は免れた。とりあえず警察との問題は解決した。勿論学校として問題発生の翌日には当該店舗には謝罪に行っている。あとは彼女たちに対する学校の指導をどのようにするかを決めなくてはならない。

anとrieの指導

彼女たちは家庭的に満たされない部分があり、停学で家に帰したところで親御さんの協力が得られる可能性は極めて低かった。結局校長宅と私の家でふたりを謹慎させることにした。学校には「anとrieの日常的な行動が良くないので問題を未然に防ぐと言う意味で校長と私の家で預かり数日間様子をみる」と校長が説明してくれた。未然に防ぐ、ってもうすでに警察まで行っているのにと内情を知っている身としては笑ってしまうような理由であった。万引きと無断外出と言う問題であるがこの問題をある程度解決するまでに6週間以上の時間が掛かった。学校のルールの中だけで解決しようとすると、どうしてもうまくいかないことがある。ルールを定め懲罰としての量刑を考えることは難しくない。しかし難しくないのは教員の方で、難しくないから教員は生徒が問題を起こしても悩まず思考を停止したままで指導ができる。しかしここに生徒の生い立ちや適性を考える「感情」が入ってくるときに教員は悩む。生徒が問題を起こしたときにはそれ以上に悩むことが教員の責務だと考えている。そうしないと生徒はそこから成長していけない気がするのだ。生徒に対する「愛」を優先したとき、やはり悩むと思う。この悩みこそが教育現場には必要なのだと思っている。現在、教員免許は10年毎に更新を受けなくてはならない制度がある。2年間の猶予があるがその間に必要な単位を取るのである。自分は更新時に教頭だったのでこの更新講習を受けたことはないが妻の更新講習を一緒に放送大学で受けたことがあった。正直な話、これが何の役に立つのかよくわからなかった。全てが不要とは思わないが教育現場に欠けているもの、或いは教員に欠けているものを補う講習ではないと思った。「とりあえずこんなことでもやってみましょう」程度の講習である。この講習を受けたところで日本が抱える教育問題の根幹にメスを入れることは決してできないと思った。教育ってもっと単純だし、もっと奥深いはずなのに。文科省がそもそも教育を理解していないのではないかと思ってしまう。

みんな悩んでいる

波風立てない友達関係

高等学校で担任をしているときの事。ある年ayaちゃんという女子生徒がいる3年生のホームルームを受け持った。結構明るくてノリの良い学級であった。少しハメを外してしまうこともあるが基本的には優しく思いやり深い生徒が多いクラス。担任が何もしなくても自分たちで楽しめる雰囲気がある。女子には例によってグループがいくつか存在したがみんなで何かをやるときにはその垣根を超えて仲良くできる生徒が多く、担任としては非常にやり易い学級だった。ただ、ひとつだけ気になる問題があった。それはayaちゃんのこと。彼女は運動も勉強もでき周りからは一目置かれているがそれ以上に非常に強く意見をいうことがある。そのため周囲が萎縮してしまう。若干短気なところもあるのでayaちゃんが怒り出すとほとぼりが冷めるまで周囲は存在を消すかのごとく静かにしている。この点は非常に気になっておりいつか折を見て注意したいと考えていた。

チャンス到来

ayaちゃんのことを気にしながら、何か良い機会はないかと考えていたが意外にも早くチャンスがやってきた。中学、高校合同の企画で「夏祭り」というプログラムがある。各学級ごとに模擬店を出し食事や飲み物、かき氷やその他のデザート、あるいはヨーヨー釣りや輪投げ、射的などのゲームを担当するのだ。屋台作りは各学級に任せられ決められた予算の中でよりそれらしい雰囲気の屋台を作る。生徒たちは自分のホームルームが担当する屋台を作ったり実際の販売など役割を分担する。この屋台を決める作業は、まず各学級から第1希望から第3希望までの希望屋台を生徒会に提出し、競合した場合はクジで決める、と言う段取りになっている。学級で夏祭り屋台の意見をまとめる時のことだった。ある生徒が「かき氷」を提案した。結構これに賛同する生徒が多かったのだが「かき氷」と誰かが提案したその時、間髪入れずに
「無理無理無理!」
とayaちゃんがその意見に対して否定的な発言をかなり大きな声でした。普段、自分はあまり生徒を叱らない。特に他の人がいる前で叱ることは絶対にしないのであるが、この時は絶好のチャンス到来と思い意図的にayaちゃんを叱った。

「ayaちゃん、無理ってどういう意味?今は誰もが自由に意見を言って良い時間だよ。それを発言するそばから無理って否定されたら意見が言えなくなるよ!」

とかなり強い口調で叱った。
「はぁ、○○(私のファーストネイム)何言ってるの?」
と反撃してきた。自分は結構多くの生徒からファーストネイムで呼ばれるので良い悪いは別としてこの点は全く気にならない。もっというと呼び捨てにされることは自分にとってそれほど大きな問題ではない(感覚が違っていたら申し訳ない)。私は反撃してきたayaちゃんの机まで歩いていき
「自分の意見がどれだけ多くの友達を遮ってきたか理解しているの?ayaちゃんは王様でも無ければ何しても許される存在ではないんだよ。そこはもっと理解しないと寂しい友達関係しか構築できないよ。」
ともうひと押ししたら
「○○(私のファーストネイム)、お前ムカつく。気分悪いから帰る。」
と言って彼女はどこかに言ってしまった。凍りつくような教室の雰囲気。でも、これも想定内だし、ここからが本当の指導。

「今ayaちゃんが出て行ったけどどうしてだと思う?」
全員下を向いたまま顔を上げようとしない。2、3名の女子は泣いていた。

「質問を変えます。ayaちゃんはみんなにとって友達ですか?」
数名の生徒が頷いた。
「本当に友達なの?私には本当の友達には思えないよ。みんなが無理してayaちゃんと関わっているようにしか見えない。」
と指摘した。

「みんなが本当にayaちゃんの友達だったら、少々怖くても勇気を出して彼女を注意しないといけなかったんじゃないかな?彼女に何も言えなくて、言葉を飲み込んだことが彼女を孤立させたとは思わない?はっきり言うけどayaちゃんを孤独にさせたのはみんなだよ。もっと思っていることをはっきり言わないと。相手の様子を考えてあげることは勿論大切なこと。でも言わなくちゃいけない言葉を飲み込むことは、『あなたは私の友達じゃないよ』と言うのと同じことだよ。今後ayaちゃんとどう言う距離感で関わっていくかはそれぞれがきちんと考えるように」

そんなことを話してホームルームを終えた。

みんな悩んでいる

その日の夜、女子寮に行きayaちゃんを訪ねた。少し気まずそうに、しかし挑戦的な目をしてayaちゃんが玄関までやってきた。
「少し話せる?」
と聞くと半分不貞腐れた態度で
「別に」
とだけ返事をした。最初は自分が一方的に喋った。ayaちゃんが教室を出た後どのような話をしたのか、その後のクラスの雰囲気など。その上で今どのような気持ちなのか、またあの時どのような気持ちだったのか話してくれるよう促した。ayaちゃん曰く、自分は常に疎外感を感じていた。自分の意見がすんなりと通れば通るほど友達から敬遠されていることを実感していた、とても寂しかった、とのことだった。ayaちゃんは全てを分かっていた。彼女なりに傷つきそれに必死に耐えていた。とても辛かったと思う。周りも悩んだし傷ついた。ayaちゃんも同じだ。こうやってみんなで悩んでみんなで傷つくことが大人になるステップだと思う。

その後ayaちゃんと

高校3年生は将来に向けての実際的な一歩を踏み出さないといけない時期である。ayaちゃんは「臨床検査技師」を目指している。学力的にも高い能力を持っているので大学に行くことも勧めたがお母様ひとりで彼女を育てていることもあり、ayaちゃんなりにできるだけ早く社会に出て経済的に自立したいと考えていた。そのため四年制大学ではなく専門学校への進学を希望していた。彼女の家は東京の中野。私の実家からさほど遠くないので夏休みに自分が帰省した際ayaちゃんと都内の専門学校を5校ぐらい一緒に回った。彼女がとても気に入った学校が一校あったので、後日今度は私一人で再度その学校を訪問した。そしていろいろな話をさせていただく中で指定校扱いでの受験を認めていただくことができた。勿論ayaちゃんには内緒である。結局ayaちゃんはこの学校に合格し臨床検査技師の資格を取得し今は検査技師として仕事をしている。

コロナ禍にあってオンラインでの授業を採用せざるを得ない状況になっている。やってみるとオンラインで結構いろいろなことができることに気付く。もしかしたら学校そのものがバーチャルな存在であっても良いのではないかと言う意見も当然出てくるだろう。物理的な学校の存在意義を挙げるとするならば、そこに集まる人がぶつかり合いながら傷つき悩み次のステージに上がって行くこと、だと思う。

今頃どこで何をしているのかな?

クリスマスの思い出

クリスマスも過ぎ世間は年末年始の雰囲気一色。クリスチャンの自分は、クリスマスであたかも日本中がキリスト教ムード一色になったと思ったのにそれが終わった途端に神道、仏教の雰囲気で包まれるこの移り身の早さに驚かされる。フィリピンは9月からクリスマスの準備が始まり町中にその雰囲気が溢れるという。日本のクリスチャン人口はカトリック信者を含めても1%以下と言われているから仕方ないのかもしれない。クリスマスは過ぎてしまったけれどこの時期になると忘れられない思い出がある。思い出と言っても淡い、素敵な雰囲気の思い出ではない。教員になって間も無くの頃、今とは違い新任教師が長期休暇中の日直を担当する。夏休みも5日の休み以外は日直をしていた。冬休みは12月30日まで日直で学校に残らなくてはならなかった。東京の実家に着せできるのは31日から2日まで。今の教員は新任でも日直などやる必要はない。時代なのか。一人で寂しいクリスマを迎えることにしていたが高校時代からの同級生が同じく日直で学校に残っていた。彼とは性格もタイプも違ったが何故か気が合うので一緒に行動することが多かった。そんな彼から「クリスマスはうちで過ごさないか?簡単なパーティーをしようと思う。」との誘いを受けた。違う。彼はパーティーを企画するような人間ではない。とても古風だし家には殆ど家財道具を置かずテナーサックスと好きなジャズのCDと勉強机、そして少しの本があるだけだ。着ている物も毎日同じ。生徒の名前を覚えない彼は女子生徒に対して「そこのねーちゃん」と呼ぶ。今ならそれだけで問題になる。そんな彼がクリスマスパーティーなど企画できるわけないのだが暇なのと怖いもの見たさで招待されてみた。食事は水炊きだった。大量の大根おろしがあったのをよく憶えている。クリスマスとは違う感じがしたが仕方ない。和やかに会話をしながら食事を済ませた。「さぁ、盛り上がって参りました!」とふたりしかいないのに悦に入っている彼がおもむろにスケッチブックを持ってきた。「今から絵を描こう」というのである。私は驚くほど絵が苦手であり下手である。幼稚園児にも笑われる絵しか描けない。自分にはできないと断ったが彼は「大丈夫。上手な絵ではなく正確な絵を書くことが大切だから。」と言ってお皿にイカを載せてきた。イカをスケッチするのがクリスマス会のメインイベントなのだ。これが彼の考えたクリスマス企画の限界である。全く面白くないクリスマス会だったが毎年このクリスマス会を思い出しては笑っている。そういう意味では思い出深いクリスマスだったのかもしれない。

彼について

彼の名前はhideji。本名である。高校の頃から若干かわっていた。真冬でも半袖で過ごし、風呂に入ると鼻からお湯を吸い込み口から吐き出していた。中学時代に亡くした父親を心の底から尊敬し机にはいつも父親の写真をおいていた。高校卒業後は酪農家を目指し北海道の大学に進学した。その時に理科の教員免許も取得し、結局教員になった。高校の理科教員として採用され、当時の基礎科目「理科1」という授業を受け持った。理科の物理・化学・生物・地学の全分野を浅く広く扱う科目である。生物は彼の専門なので問題はなかったが物理を教えるのが負担だったらしくいつも私のところにやってきては授業ネタを探していた。その都度アドバイスをしたが、彼はできるだけ毎回演示実験を行いわかりやすく説明したいとの希望を持っていた。それもできるだけ派手でウケる演示実験をしたいという。完全に物理を冒涜している。慣性力の演示では台車を作ってそれを廊下で走らせる。走らせるというか押して走るのである。途中でゴムを仕掛けたザルに入れたボールが上に飛び上がるようにしてまた元のザルに戻ることを演示した。何故か私を授業のアシスタントのように使うようになり彼の授業には毎回同席した。「質量保存の法則」の演示では、まず体重をはかり牛乳を1リットル飲む。そして体重がほぼ1kg増えていることを演示するのだ。ただ、この「理科1」の授業は連続で行うことが多く、この実験も3学級連続して行った。3番目の授業では気持ち悪くなり途中で牛乳を吐き出してしまった。教室のあちこちで聞かれる悲鳴をものともしないhidejiは吐いたにも関わらず体重計に乗り、結局体重が減っていた。また、授業の内容と実験の関連付けが難しいと反対したにも関わらずどうしてもhidejiがやりたいというので不承不承やった実験がある。ブルーシートの上で瓶を割りその上に上半身裸のhidejiが仰向けで寝転ぶ。その上にブロックを置き更に上に乗せたレンガを私が大きなハンマーで叩くというもの。今なら捕まるレベル。これを分圧の実験としてやりたいというのだ。女子生徒の「きゃー、やめてー」などの悲鳴がhidejiをよりやる気にさせる。結局2学級ではうまくいったが問題の3学級目で、調子に乗ったhidejiが十分に細かくなっていない破片を避けることなく乗ってしまった。その時点でhidejiの顔が若干歪んだがやれというので打ち合わせ通りやった。「はいこの通り」と背中を見せると血だらけだった。何故、物理の実験で血が流れるのか。とりあえずhidejiには保健室に行ってもらい後の授業を自分がした。馬鹿すぎるけど憎めないhideji。大切な友人である。

ヤマギシ

そんなhidejiとの職場での交流もそれほど長くは続かなかった。それから3年ぐらいした頃、hidejiに微妙な変化が起こった。あれだけ好きだったjazzのCDを全部処分してしまった。売って換金したという。hidejiは給料を殆ど使わない。だから経済的に困る生活はしていないのだ。またある時は彼の財産であるテナーサックスをやはり売ってしまった。また換金である。不審に思った自分は「何故大切なものを処分するのか?」と問い詰めた。今のように断捨離などという言葉がない時代である。hidejiがいうにはヤマギシに入るというのだ。当時言葉だけは知っていたが実態はよく分からなかった。今のヤマギシのシステムはよくわからないが当時は個人の財産を全てヤマギシに渡してしまう。私有財産の放棄を要求する時点で怪しい。しかも家族という絆も解かれるという。子どもはみんなの子どもであり共同体全体で育てるというのだ。200%怪しい。hidejiには絶対に騙されているから行くなと言った。しかし彼はヤマギシこそ自分の理想郷と言って譲らない。最後は喧嘩になった。暴力的な喧嘩になった。彼は手をあげなかったが私は彼を殴った。そして話は夜中まで平行線をたどるだけだったが、自分も一度ヤマギシの実顕場に行って観察することを条件にその晩は別れた。次の休日にふたりで実顕場に行った。独特な雰囲気があった。自分には馴染めない環境だったがhidejiにはここがあっているのかもしれない。もう一度彼を説得したがそれも通らず結局hidejiはその年度で退職しヤマギシに行ってしまった。その後ヤマギシの色々な問題が浮き彫りになり社会的にも叩かれるようになった。hidejiはその後ヤマギシを去り海外で協力隊のような仕事をしていると風の便りで聞いた。もう25年ぐらいhidejiには会っていない。もう一度会いたい。本当に良い友人だったのに。クリスマスになると毎年hidejiのことを思い出す。

アンパンマンの思い出

全寮制に集まる生徒

本校は教育的観点から全寮制を採用している。どれほど家が近くても家から離れ寮で生活する。朝6時の起床から22時の消灯まで全員が同じようなパターンで生活する。掃除も洗濯もベッドメイキングも布団干しも全て自己で行わなくてはならない。授業中、急に天気が悪くなると気になるのが朝干してきた布団のことだ。そんなことを気にしながら生活する高校生はあまりいないと思う。ルームメイトと相談して平等に部屋の掃除をする。個人の持ち場は勿論自分で整理整頓する。あまりにも汚れている場合は舎監から呼び出され注意を受ける。お風呂も16時30分から19時までの間しか入れないので自分の予定に合わせて入浴時間を決めなくてはならない。食事の時間も勿論決まっている。遅れたら食べることはできない。携帯電話、スマホは毎日舎監に預ける。21時半から消灯の22時までの30分間のみ返却され使用できる。かなり厳しい印象を受けるが、生活している当の本人たちは毎日充実している様子。スマホやコンビニがなくてもそれが当たり前の生活なので自分なりに他の楽しみを見つけている。携帯を使わない分、コミュニケーションがダイレクトで友達関係はかなり濃密である。このような特殊な環境なので集まってくる生徒も様々である。まず地域は国内の至る所から集まる。文字通り北海道から沖縄まで殆どの県をカバーしている。外国からの生徒も数名いる。韓国、中国、アメリカ、イギリス、フィリピンなど。集まる生徒の多くが本校のキリスト教教育に賛同して入学してこられる。なのでその背景となるご家庭がクリスチャン家庭であることが多い。しかし中には、子どもの生活を矯正するために本校を選ぶ家庭もある。また出張や転勤が多く、親御さんが子どもの面倒を見ることができない家庭もある。特殊な事情として親御さんの事情、特に離婚などで両者が子どもの世話をすることを拒否した結果として本校の門を叩く例もある。経済的にも学力的にも大きな違いがある。しかし色々な環境から本校に集まってきても寝食を共にし濃密な友達関係を築いているので一般的にはあまり見られない光景も見られる。例えば東大を目指している生徒が、高校卒業も怪しいような成績面で低空飛行を続けている生徒に進路相談をしたり、女子から注目されるモテ男君が彼女に振られたと言って、モテない君に励ましてもらったり。学力や経済力を人を判断する基準になっていないのが本校の特徴なのかもかもしれない。

とにかく明るいjunさん

junさんはとにかく明るい女子生徒。入学当初から明るかった。友達関係も女子特有のグループを作ることはなく誰とでも仲良くすることができる。また誰に対しても壁を作らないため多くの友人から信頼されていた。また、彼女のキャラクターが所謂「天然」なのだ。学力も高く定期考査ではトップクラスの成績をとる割にとぼけたことを本気で言うことが多く、その辺も彼女が周りから親しまれているところなのかもしれない。junさんは高校2年生の頃から何故か私がいる教頭室に遊びに来ることが多くなった。多くなったと言うより殆ど毎日くる。この辺も他校と違うところだと思うが、本校の教員室は休み時間になると生徒が多く集まる「溜まり場」になる。教員室のハードルが非常に低いのである。その中にある教頭室なので教頭室にも多くの生徒が用もないのに集まってくる。junさんは毎回友達を連れて来ては何かを話して帰って行く。私も仕事の手を止めて話しに付き合うのだが、ある時気づいたことがあった。junさんのカバンにアンパンマンのキーホルダーがつけられていた。別に女子なので特に気にしなかったが、彼女の筆箱や財布もアンパンマンのデザインだったので余程好きなのだと思った。洒落ではなく本気で好きなようだ。高校2年生でアンパンマンが本気で好きと言うのは大丈夫かな?と一瞬不安になったが50歳を過ぎても名探偵コナンが好きな自分が人のことを言えないと思った。

アンパンマンが好きな理由

またいつものように教頭室に遊びに来ていたjunさんに
「アンパンマンが好きなんだね」
と何気なく言ってみた。すると彼女は
「そうなんです。私、アンパンマンが大好きなんです。何で好きなのか知りたいですか。教えてあげますね。」
と知りたいとも何とも返事をしないうちから彼女はひとりで喋り始めた。その日は友達もいなく彼女だけだったので何と無く話す気になったのかもしれない。彼女はお祖母さんと生活している。ふたつ上の兄と一緒にお祖母さんがお世話をしてくださっている。お母様が病気と聞いたことはあったが深い理由はその時まで分からなかった。

「私の両親は、自分たち子どもが小さい頃に離婚したんです。そして母に引き取られ母は祖母と暮らすため実家に戻りました。当時はまだ祖父も生きていたので祖父母と母、そして私たちの5人で生活していました。でも、母が出て行ってしまったんです。ある日突然に。」

と何かコメディーの一場面を紹介するかのように笑いながら面白そうに話してくれた。その、ある日…のこと。

「その日、何と無くいつもと違う雰囲気を感じていたんです。部屋は綺麗に片付いていたし母は大きな荷物を準備していたし。嫌な予感がしたのでその日、幼稚園に行くことを強く拒んだんです。でも母はそれ以上に強く促すので、仕方なく幼稚園に向かいました。その途中でやっぱり帰る、と泣きましたが母は困りながらも頑張ろう、と励まし幼稚園に連れて行こうとしました。そしていつまでも泣くので途中のコンビニで私の好きなアンパンマンの絵本を買ってくれたんです。幼稚園から帰ったらたくさん読んであげるから、と約束してくれたので仕方なく幼稚園に行きました。そして時間になって家に戻るとき祖母が迎えにきていました。家に母はいなかったんです。朝買ってもらったアンパンマンの絵本が部屋においてありました。祖母に母がいないことを伝えると、そのうち帰ってくるよと励ましてくれアンパンマンの絵本を読んでくれたんです。母とはそれっきりです。」

junさんにとってアンパンマンはお母さんとの果たされなかった約束の証でありお母さんに対する叫びでもあったことを理解し涙が止まらなかった。junさんはあっけらかんとして

「やだ、先生泣いちゃったんですか?私の話し方が感動的過ぎました?」

といつもの調子である。

ドラマではこう言う話を観たことがあるが現実に生徒がそれに巻き込まれていると思うと辛かった。

今日は12月25日、クリスマス。この日をイエスキリストの誕生日と言って祝うが実際には12月25日ではない可能性が高い。またイエスキリストが生まれてから西暦が始まったと言われているが実際にはイエスキリストが生まれたのは紀元前である。それは別問題としてイエスキリストはこの地上に「人々を招くため」に来られた。本来神であられた方が人間となってこの地上に誕生された。キリスト教の世界では神であるイエスキリストが人間として生まれたことを「受肉(じゅにく)」と言うそうだ。イエスキリストは勿論全ての人を招いているが、特に罪の重さに耐えきれなくなった人、孤独に耐えられなくなっている人、自分を無価値な存在と思い自死を考えている人などを招こうとしている。そしてその人たちのために最高のプレゼントである「救い」を、ご自分が十字架で死ぬことを通して与えたのである。

junさんはこのキリストの愛に触れて心が癒され、しかし母親に叫びたい気持ちをイエスキリストにぶつけながら毎日を笑顔で過ごしている。先日も彼女と連絡をとった。元気に看護師として働いている。彼女なら病床にある人の痛みと苦しみが分かるはずだと確信している。このクリスマス、本当の幸せや本当のプレゼントが何かを考えてみることは大変意義深いことだと思う。

祈りを聞かれる神

昨年の今頃

今日は2020年のクリスマスイブ。1年前のことを考えていた。1年前、今よりも死に対する憧れが強く薬を飲んだり、地元のとても立派な橋から飛び降りようとした。病院から貰う睡眠導入剤の殆どを日常で使うことはなく何度でも死ぬことが出来るぐらいの量を確保している。その一部をのんでしまった。幸か不幸かその途中で偶然妻がその様子に気づき死には至らなかった。次の飛び降りは正に今のような年の瀬。物理的にも精神的にも居場所を失い追い詰められて橋から飛び降りようとした。山と山を繋ぐとても大きな橋だ。飛び降りれば確実に死ねる。恐怖もあったがその一瞬を乗り越えられればあとはもう絶対に苦しむことの無い世界が待っている。引き寄せられるように車を停めて徐に闌干に近づいた。これも幸か不幸か後ろから警察車両が追跡していたことを確認していなかった。「何をしている?」と聞かれ咄嗟に「下の様子をみようとしていました」と説明するとこの場所が駐停車禁止であることを注意された。警察の対応からこちらが何をしようとしていたのかは既にお見通しの様子であった。事情聴取を受け解放された。この時も死ねなかった。しかし、残念なことだが同じタイミングで私のかつての生徒であり元親戚であったso君がこの時別の場所で命を落としていた。詳しい様子までは聞かなかったが自死のようである。彼は若くして将来を期待された優秀な心臓外科医である。海外で研鑽を積みそこでの経験を数冊の書籍にまとめた。帰国後、最初の頃は日本でも優遇されていたようであるが日本の医局の体質なのか徐々にいろいろな場面から外され干されるようになった。結局大学病院を追われるように退職して地方の病院に移った。彼の能力、心臓外科医としての力が発揮できない病院である。その後も数回病院を転々とするが彼が心臓外科医として現場に戻ることはなかった。そんな矢先の死であった。彼の死を半年後に知った。もし彼が追い込まれていることを知っていたならば、同じように追い込まれている自分ならどのようなアドバイスができただろうか。それは分からない。分からないが知りたかった。苦しむ彼に寄り添いたかった。

祈 り

30年以上教員生活を送っていれば色々な事がある。卒業していった全員が幸せであった欲しいと願いながらも実際はそうはならない。特に生徒の自死はこたえる。間違ったことを教えていたのではないかと自分を責める気持ちにしかなれない。今まで担任した生徒の中には1名自死を選んでしまった生徒がいる。担任はしていなくても自分が関わった生徒で自死を選んだ者はもう少し多い。本当に悲しい事だ。とても大きな矛盾だが自分は死にたいと思い実際に行動を起こしたが、人の自死には耐えられず苦しむ。2020年も12月になってから意識して毎日祈っている事がある。それは、寒い時期になると特に将来が見通せなくなって自死を選んでしまう人が増えるが、自分の教え子でそのような苦しい場面を通過している人がいれば神様がその人を私に教えて欲しい、何もできないがその人のために祈り続けるので是非その人を教えて欲しい、と毎日祈るようになった。そのような祈りを始めて3週間ぐらいになる今日、2020年12月24日、神様はこの小さな祈りを聞いてくださった。

sho君の事

今朝、職場から連絡があった。卒業生のsho君が私と連絡を取りたがっている。学校から私の連絡先を教えることはできないのことを伝えると彼の方から電話番号を教え、この番号に連絡して欲しいと伝言してきた、とのことだった。早速の教えられた番号に電話をした。数回のコールの後彼が出た。高校を卒業して10年ほど経つが高校時代のままの声だ。sho君は少し足にハンディキャップを負っていて両手の杖を使わないと自力で歩行する事ができない。でも彼は何でも最後まで諦めない青年だった。どれどけ時間がかかっても人と同じようにやり遂げることをいつも目指していた。校内マラソン大会でも彼の不屈の精神は発揮された。所定の時間を過ぎても遅くなった選手を回収するバスには決して乗らず大会が終了しても尚、走り続けた。結局大会は終了したが殆どの生徒がsho君が競技を続けていることを知り彼のゴールを待っていた。大会が終了してから1時間以上経過してからsho君が戻ってきた。大歓声に迎えられ彼はゴールした。特に彼の同級生は涙を流しながら伴走し、そのゴールを自分のことのように心から喜んでいた。そんな頑張り屋さんのsho君が「今、とても悩んでいるんです」と電話口で話してくれた。理由は職場での彼の仕事が少し遅く、会社全体の作業進行に支障が出ているとのこと。それを職場から指摘されて悩んでいるとのことだった。高校時代は「どれだけ時間がかかっても良いからやり遂げることに意味がある」と教えられ、それを信じて決して途中で投げ出さない生き方をしてきた。しかし職場では「時間内に仕事ができないのは努力が足りないからだ」と指摘され、学校で習ったことと逆のことを言われた気がして、混乱した自分は何を信じて良いのか分からなくなった、というのだ。職場の環境について聞いてみると、社内では彼を受け入れる体制やムードがきちんとしており非常に働きやすい環境とのこと。いじめやハラスメントは全くない様子であった。まずsho君に学校と職場の違いについて説明した。会社は社員を大切にしながら利益の追求という大目的があるので会社が言っていることは至極当然のこと。しかし「生き方、人生」というロングスパンで考えた時には学校で習った価値観の方がsho君を幸せにすることを伝えた。その中で彼の生活について聞いてみると半年前に自分用のマンションを購入したとのこと。正直な話、これにはとても驚いた。彼がどの程度の収入を得ているのかは分からないが彼の住む地域でマンションの購入となるとかなりの犠牲が伴うはずだ。また親御さんと同居していれば色々な面で助けてもらえる事が多いはずなのに敢えて自立、自活を決意したのだ。彼と同年代で持ち家に住んでいる卒業生を他に知らない。そのことをずっと彼に話し本当に素晴らしいことを彼に何度も伝えた。その電話の最後に「今のままで十分勝負できているから、あとは自信を持つことが大切だと思う。会社にはできる限りの誠意を見せたら良いと思う。可能ならば残業してもやり残しを翌日に持ち越さないなど。」と話した。電話の最初と最後で声のトーンが全く違っていた。何かあればすぐに電話をすることを約束してもらい電話を切った。僅か1時間ほどの会話だったが、色々なことに感動した。sho君があの時のまま真面目かつ誠実に社会に貢献している様子を知ったことも感動だった。彼が大きな買い物をするにあたり社会的信用を得ていることを知ったのもすごく嬉しく感動した。しかし一番感動していたのは、「今、苦しい局面を通過している卒業生を教えてください。力になることはできませんがその人のために祈り続けます。」と祈りを始めてから3週間たらずで、この祈りが聞かれたことに感動したのだ。神様は今も確実に生きて人々の祈りにこたえ、人々を助けようとしている。人々を救いたいと切望しているのである。神様を実在の存在として再認識できたことが本当に嬉しい。クリスマスイブの今日、本当の意味で自分を幸福にしたいと考えている神様に出会う人が一人でも多く与えられることを祈るものである。

良い勉強になったこと

保護者や生徒からの評価

自分は生徒のことになると周りが見えなくなってしまう。学校組織に所属するものとしてやるべき範囲があると思うが、その範囲がよく分からない。生徒に目が行くとその範囲を簡単に逸脱してしまうのである。本来決してしてはいけないことであるが家庭の問題にまで踏み込んでしまうことも時としてある。ある女子生徒の時もそうだった。お母様からの愛情を感じられないという子どもからの相談を何度も受けていた。勿論このようなことをそのまま母親に話したら大変なことになる。家庭内のことを学校に漏らしたということで生徒と母親との関係が更に悪化することが容易に予想できる。しかし生徒からの相談も深刻である。そして何とかして欲しいと要望をするようになってきた。幸いそのご家庭は学校から1時間ほどのところに住んでいらしたので一度母親とだけ面談することを承諾してもらった。学校で娘さんがどのように頑張っているか、周囲から認められたいと努力している様子などを報告した。「そのままでも十分に評価されているのに、まだ努力するお嬢さんはとても健気ですね。もしかしたらお母様がそういう風に頑張ってこられたんですかね?」と誘いの質問をしてみた。女子生徒が母親から受け入れられていないと感じるとき、その多くが母親と祖母(母親のお母さん)との関係に起因していることが多いことを経験的に知っていたのでそのような質問をした。「そうなんです。実は私の母は私をそのままの状態で受け入れることができない人でした。子どもの前に一人の女性として自分を育てたかったようで、女性はそんなことをしてはいけない、女性ならこれぐらいのことはできないといけない、というのが母の口癖でした。もしかしたら自分がそうされてきて嫌だったのに、無意識のうちに娘にもそうしていたかもしれませんね。」と母親の方から心当たりを話してくれた。「たといそうであったとしてもお嬢さんはお母さんのことが大好きですから心配いらないですよ。」と言うとお母さんは急に泣き出した。泣き出したというより号泣した。その後親子関係の大きな変化があったと嬉しそうに女子生徒が報告してくれた。本来この辺りの話には立ち入らないのが教員のモラルであると思うが、生徒の幸せという観点で考えるとどうしても自分が何かの行動を起こさなくてはいけない気になってしまう。そのように生徒ファーストで行動するため多くの生徒や保護者から信頼されてきたし、多くの相談を打ち明けられてきた。時には、あるお父様から自分には別の家庭があると打ち明けられたこともあった。評価されたいためにしているのではない。していることが評価になっているだけのことだ。だからそのような評価に気付きながらも気にすることなく、勿論それを鼻にかけることもなく仕事をしていた。

Aさんのこと

ある年、Aさんがいるホームルームを担任した。前の担任からAさんの指導には気をつけてください、と申し送りがあった。教員にとって申し送りは大事なことであるが自分は既往歴以外の申し送りをほとんど無視している。というか全く聞いていない。先入観ができてしまうからだ。生徒は学年が上がりクラスメイトも変化し担任も変わったところで心機一転頑張ろうとしている。全員ではないにしてもそういう生徒が多くいる。それなのに教員が古い情報を持ち続けることは決して良い結果にならない気がするので申し送りを聞かないのである。Aさんは嫌なことがあると直ぐに周囲のせいにして、また逃避する傾向がある。彼女の逃避は自宅に帰ること。一度自宅に戻ると1週間ぐらい帰ってこない。だから結構な数の欠席があった。逃避は自分を守るためにする行動で決して悪いことではない。逃避しないと更に悪い結果を招いてしまうこともあるので「学校を休むだけで済んでよかった」と捉えることもできる。しかしこのまま社会に出て行った場合同じようなことが起きたらどこに逃避するのだろうか。やはり自宅なのだろうか。それとも食べることや趣味、ギャンブル、飲酒に逃避するのだろうか。将来的なことを考えると逃避傾向を自分で理解してそれをコントロールできるようになる必要があると考え、「自律」を彼女の指導目標にした。新年度開始早々Aさんがやってきて「同じ学級に○○さんがいない。もう学校を辞めたい」と訴えてきた。早速きた。親友の○○さん以外の人と仲良くするのが苦手なのである。「おそらく○○さんも同じことを考えていると思うのでふたりで、各々の学級紹介やその日の出来事を毎日話し合う時間を持ったらどうかな?」と提案して見た。何とかその時はその提案に食いついてきたが1週間もしないうちに「同じクラスに親しい友人がいないから家に帰りたい」と訴えてきた。色々な提案をして見たが今回はなかなか埒が明かない。本人が家に帰ってリセットする以外に方法はない、の一点張り。仕方がないので「仮に家に帰ったとして、何日で戻って来られる?」と聞くと「1週間」というのでそれは長いからもう少し自分でコントロールできるようにしようと提案すると「4日」と訂正してきた。その約束の範囲でということで自宅に戻ることを許可したが、結局4日では帰ってこなかった。4日目の朝に高熱が出たので病院に行くとの連絡が入った。「そうですか。承知しました。学校にも説明しないといけないので診断書、或いはそれが無理でしたら領収書のコピーでも良いので持参してください。」とお願いした。結局1週間後に帰ってきたが診断書も領収書も持参していなかった。親御さんに催促の連絡をすると「実は病院には行かなかった。家でゆっくりしていたら次第に良くなっていったので様子を見て1週間で学校に帰らせた」とのことだった。一応失礼のない範囲で、今回の約束が4日であったこと、通院が必須というので、診断書か領収書のコピーを持参することをお願いしたがどれも守れなかったので次回同じような要求をされても応じられない可能性があることを丁寧に伝えた。因みにこのご家庭は毎回お父様が電話の対応をされる。こちらの説明に苛立ち喧嘩腰であることが伝わってきた。「学校のメンツのためじゃない。お子さんのためなのですよ。お父さんが本当の意味で協力してくれなかったらこの子の将来はどうなるのですか?」と心の中で叫んだ。この一件があってから、昨年とは違い簡単には家に戻してくれない状況を理解したのか自宅逃避の要望はその後ほとんんど無くなった。

2学期の懇談会で

本校の場合、保護者会は2日に分けて行われる。生徒による学習発表、担任との面接、舎監との面接を行いPTA総会やクラス懇談会などが行われる。高校3年生の2学期といえば年度も後半で懇談会の話題も「今まで3年間(一貫校なので長い人は6年間)お世話になりました。」と感謝の言葉が続き、それまでも決して楽ではなかった親業もこれでひと段落する安堵とこれまでを振り返って思い出すのだろうか涙を流す方が多い。そして私に対して感謝の言葉を述べてくださる。私に対する感謝は良いので…と話しても同じような内容になってしまう。そしてAさんのお父さんの番になった。「えー、皆さんはこの担任の先生に色々と面倒を見てもらい感謝をされているようですが、私は敢えて反対の意見を述べさせていただきます。」と私が至らなかった点について色々と挙げて話された。最初は驚いて動揺したが途中から「本当にそうだな。お父様のいう通りだな。」と思えるようになってきた。途中で別のお父様が「もうそのぐらいにしてもらえませんか。少なくとも私たちは担任の先生に感謝しているんだから。最後にそういうことを言われると気分が悪い。」と発言された。しかし自分はもう少しこのAさんのお父様の話しを聞いてみたかった。懇談会が終わってから足早に立ち去ろうとするAさんのお父様をお呼びしてそのあとの話しを聞かせていただいた。自分の欠点が浮き彫りになった。自分はAさんを何とかしないといけない、とは思ったがそのままのAさんを理解し受容しようとはしていなかったことに気付かされた。そのことをお父様にお話しして謝罪した。Aさんのお父様も「そこまでの話じゃないし先生に謝ってもらったらかえって申し訳ない」と恐縮されていた。が、とても大切なことを教えていただいた。彼女のためと言いながら、本当に彼女のためだけを考えていたのか。自分ならAさんを自宅に戻さない指導ができることを見せたかったのではないか。Aさんのためと言いながら結局は学校の都合で指導を行ったのではないか。もっと平たく言えば指導に従わない彼女に対して悪い感情を抱いていたのではないか。その全てが思い当たった。他の保護者がいる前で恥をかくようだったが、いつの間にか思い上がっていた自分を砕くのにはちょうど良いお灸だった気がする。

教員の勘違い

心の中では違うことを思っていても保護者は「先生」といって頭を下げられる。そういうことが日常的になっているのでいつの間にか教師は勘違いをするようになってはいないだろうか。保護者は自分に頭を下げているのではなく「先生」という権威に対して頭を下げているだけ。ひとりの人間として、決して頭を下げてもらえるような存在でないことは自分がよくわかっている。私たちの模範となってくださるイエス・キリストはこの件について明確に述べている

<聖書の言葉>

しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。

マルコによる福音書10:43,44

今の言葉で言う「サーバントリーダーシップ」である。恥はかいたが非常に大切なことを学ばせてもらった経験である。

浪人時代について

失意のどん底

高校時代、3つのことを決心してスタートさせた。

①毎日最低5km、できれば7km以上走ること。

②自分が決めたことはどれだけ辛くても最後までやり続ける。

③うまくいかなくても自分以外のせいにしない。

中学校からの継続ということでサッカー部と聖歌隊に所属した。特にサッカー部の練習はかなり厳しかったが練習の前か後に必ず7kmは走るように心がけた。お陰様でこれは高校を卒業する時まで継続することができ、3年次には校内で一番速く走れるようになっていた。恐らく3年の時に出した1500mのタイムは未だに更新されていないのでは無いかと思う。聖歌隊の練習も結構きつかった。先生はとても穏やかな方だったが2つの聖歌隊に所属していたため練習がほぼ毎日行われるような状態だった。コンサートの前などは自習時間も練習に充てていたので勉強にも支障が出ていた。そのような中、受験を考えていたので受験勉強の時間を捻出するのが結構大変だった。朝があまり強く無いので毎朝5時に起きて勉強に励んだ。同級生には4時、あるいは4時半から取り組んでいる人もいたので自分は遅く起きる方だった。夜は日付が変わるまで勉強するようにしていたので毎日睡眠時間は4時間半ぐらい。四当五落と言われていた時代だ。また休み時間も教室の移動以外は席を立たずに英単語の復習などをしていた。勉強時間が足りなかったが、それでもクラブや聖歌隊は決して辞めなかった。自分はどちらかというと頭の回転が遅い方なので人の何倍も努力しないといけなかったが可能な限り自分を追い込んで学習した。少なくともそのつもりだった。だから、どこかに合格できるような気がしていた。しかし、結果は全部不合格。1つも受からなかった。今でも覚えている。最後の合格発表が「芝浦工業大学」。今のようにネットで合否がわかる時代では無い。合格発表の日に受験上まで行って掲示板で合否を確かめるのである。朝、家を出る時、おもむろに父が封筒を渡してくれた。「万が一今日合格していなかったらこのお金で予備校の入学手続きをして来なさい」と言われてお金を渡された。悔しいやら申し訳無いやらで気持ちが爆発しそうだった。芝浦工大まで行って合否を確認したがやはり名前はなかった。あれほど頑張ったのに…。頑張りが評価されるのではなく頑張った結果として得点できた人が評価されるのが受験だ。自分は評価されなかったのだ。何か社会が「お前は不要な人間なんだ」「お前は役に立たない、いてもいなくても同じ存在なのだ」と言っている様な気がして、気づけば新宿のホームで泣いていた。あの界隈に予備校がある。代々木、高田馬場。いくつか行ってみた。●●予備校、●●ゼミナール、●●学院、●●塾。地名を変えただけで基本的にこの4つのパターンの使い回し。どこも自分には合わない気がした。というよりそもそも浪人する気持ちになれなかった。

落ちこぼれ

来年合格したいから浪人するわけであるが、自分はそのスタートラインにすら立っていない。社会からつまはじきにされた気がしたので、素直に浪人という社会のシステムに自分を適応させることができなかった。結局色々と考えた挙句、新宿から中央線で高円寺というところまでいきその駅前にあった予備校に入学することにした。昼間部ではなく「夜間総合文理コース」というコースだ。ここなら昼間部のおよそ半額。これにオプションとして午後からの単科ゼミを受講すれば良いと考えた。朝から自習室は使える。しかも、真面目にやる気になれなかったのでその足でアルバイトも決めて来た。真剣に浪人するのではなくアルバイトをしながら様子見をしようとしていた。実際6月半ばまでアルバイトをしていた。しかもこの頃パチンコも覚えた。友人が教えてくれた。今、その実力はないと思うが当時はアルバイトをしなくてもパチンコで稼げる程度の腕にはなっていた。浪人時代に一番嫌だったことは「今何しているの?」と聞かれることだった。「浪人している」と言えず、しかし大学生でも高校生でもない。仕方がないので「高校と大学の狭間にいます」と答える様にしていた。本当に自分が落ちこぼれたことを自覚する1年だった。夕方から夜の講習に入る休憩時間にバルコニーに上がり外を眺めるのが習慣だった。目の前を総武線、地下鉄東西線が走る。ちょうど5階のバルコニーと電車の高架が同じ高さなので時々電車内の人と目があう。みんな疲れた様子で下り電車に乗っていた。しかしその疲れた様子が自分にはものすごく格好良くて羨ましかった。「この人たちは社会から必要とされ、今日も社会に貢献して疲れているんだ。凄いな!」と心から感心していた。それに比べて今の自分の惨めなこと。本当に情けなかった。

母親への反抗

自分は親を尊敬しているし大好きである。が、この浪人時代は気持ちが荒んでいて、親に対してとても反抗的だった。社会に反抗できない分、親に八つ当たりしていた。特に母親にはひどい対応をし続けた。本当に申し訳ない限りである。母は小言をいうこともあるが浪人時代に自分を叱りつけたことはなかった。また母はどれだけ前日怒っていても翌日は必ず笑顔に戻っている。その様な安定した親だから余計に反抗していたのだと思う。ある日食事にすき焼きが出て来た。少し嬉しかったが顔に出してはいけない。家では笑顔を見せないことにしているから。母が気を使って「お肉、たくさん食べなさい」と言って私の器に取り分けてくれた。嬉しかったはずなのに「肉は嫌いなんだよ」と思ってもいないことを言ってしまった。「あ、そうだったの。じゃぁ、野菜をたくさん食べて」と言って野菜を入れてくれた。それ以降自分の器に肉はのらなくなった。肉を1年間食べなかったら本当に嫌いになってしまった。昔はあれほど好きだったのに今では肉を触ることすらできないビーガンになってしまった。本当に母親には申し訳ないことをしてしまった。

予備校の校内模擬試験

高円寺の駅前にある予備校は、電車だと40分ほどかかるが環七を通るバスを使うと20分で着ける。通学には不自由しなかった。高架下にあった長崎ちゃんぽんのお店は安くてとても美味しかった。ちゃんぽんが確か260円だった気がする。予備校には面白い人がたくさんいた。毎日(冬でも)裸足でくる人。靴下を履かない裸足ではなく靴を履かない裸足の人。何かの願掛けか修行なのか。ずっと教務課の人だとばかり思っていた人が実は東大一直線の3浪の人だったとか。ある英語の先生は「今度の日曜日に201教室に集まってください」と告知してきたので補講でもしてくれるのかな、と思ったら「僕のコンサートを行います」と言っていた。高円寺阿波踊りにも予備校挙げて参加する。色々なグループが阿波踊りを披露する中で一際活気がなく沈んだ表情なのが我らが予備校生たち。冬の風物詩とも言えるのが大晦日の徹夜授業。毎年テレビ中継が入るほど有名だった。今は芸術系コースのみの予備校になっているようだ。この予備校で週に一度校内模擬試験が行われる。科目ごとに順位が出され上位20位までは名前と出身高校の名前が予備校前の掲示板に貼り出される。通行人が見える所に貼り出されるのだ。私も数回物理で名前がでた。自分の名前はどうでもよかったが出身高校の名前が出るのはとても嬉しかった。そうなのだ、物理はそこそこ成績がよかった。しかし数学が致命的なのだ。先生からも進路を変えるようにアドバイスされるほど深刻な成績だった。どんなに頑張っても点数が取れない。できる科目と全くできない科目で悩む日々が続いた。

父との洗足式

なかなか理解してもらえない儀式がキリスト教会にはある。教団教派によってやり方は違うが一般には聖餐式、と言われる儀式がそれだ。私の協会では聖餐式の前に洗足式という儀式を行う。これはイエスキリストが師であるにも関わらず弟子たちの足を洗われたことを記念して、2人ひと組になり足を洗い合う。椅子に座っている人の足をその正面に跪くもう1人が祈りの後に片足ずつ洗面器で足を洗うのである。この儀式の後、聖餐式と言ってパンとブドウジュースをいただく儀式に移る。浪人時代のある時この洗足式があった。自分は教会に数名の友人がいたので、誰とやろうかなと探していると後ろから「今日は一緒にやろう」と父に誘われた。正直言って恥ずかしかったし断りたかったがその理由が見つからなかった。結局父とやることになった。父がまず私の足を洗ってくれた。父が私のために祈ってくれている。少し周りもざわついていたので何を祈っているのかよく聞こえなかった。が、次の瞬間まだ水の中に足を入れていないのに、足に水がかかるのがわかった。祈りの最中なので目をつぶっていたが、それが何かを確認するために薄眼を開けると、父の涙だった。自分も泣きそうになった。その瞬間に何かが分かった気がした。今まで自分だけが落ちこぼれで、自分だけが辛くて、自分だけが肩で風をきって社会に反抗しようと考えていたけど両親は自分以上に傷ついている、と気がついた。こんなことも分からないから浪人するのだと、改めて自分の愚かさに気づかされた。この時から将来に対する不安は解消されないまでも、一人ではないという気持ちになれた。

目標を見定めて、敢えて後退

結論から言えば色々な方にお世話になり、また多大な迷惑をおかけして何とか浪人生活は1年で卒業できた。人生で味わった最初の大失望の経験だった。しかしこの経験があったからこそ次のステップ、さらに厳しい試練に遭遇しても自死を選ばないで生きられたのだと思う。受験、あるいは大学という明確な目標を見定め、努力してそれを乗り越えれば良いわけである。高跳びの選手は軽く走ってバーの高さを確認すると、目の前の目標に背を向けて敢えて後ろに下がる。当たり前である。助走のために後退するのだ。浪人生活は自分にとって助走のための後退であった言える。人生にも同じようなことが言える気がする。目標が高ければ高いほど助走をつけなければならないから遠くに後退する必要がある。人生で後退を余儀なくされている人がいるとするならば、それは聖書的に言えば更なる飛躍に必要な経験と言える。イエス・キリストという人は公の生涯に入る前にバプテスマ(洗礼)を受けた。その直後荒野に導かれ断食をする。そして悪魔から3つの誘惑を受ける。祝福を受けるために神がまず用意されるのは「荒野の経験」即ち「後退」である。この経験をしている人がいるならば是非勇気を出していただきたい。荒野は祝福に変わる。父が私の辛いときによく言ってくれた言葉がある。
「1日で最も暗いのはいつかわかるか?」
「真夜中」
と答えると
「違う、夜明け前だ」と。最も暗い次の瞬間、夜が明けることを忘れないで欲しい。