自分の無力さ

 教員生活を振り返ってみると一番長くやっていた仕事がホームルーム担任、しかも高校3年生。次に多いのが中学3年生の担任。およそ30年ぐらい前の話。これまでの教師生活で自分のホームルームから退学者を出したのは一度だけである。家庭の事情による自主退学、生徒指導上の問題で退学になること問わず30余年でただ一人の退学者しか出していない。しかしこの退学者のことが未だに気になっており祈りの課題となっている。

 彼女はOさん。問題行動も確かに多いが思ったことを直ぐに言ったりやったりすることで友達関係がギクシャクすることもある反面リーダーシップをとって集団を導くこともできる。優しく思いやり深いところも彼女の素晴らしいところである。特に後輩の面倒をよく見るので人望も厚く信頼されていた。何回か生徒指導上の問題を起こしていた彼女は私が担任する前から「次は大ですよ。今度問題を起こしたら退学です。」と釘を刺されていた。

 彼女は大きな街の有名な歓楽街でお店を営む家庭に育った。住宅兼店舗でご両親は夕方から二人でお店に出る。夕食はお金を渡されその歓楽街の適当なお店(と言ってもほとんどが呑み屋さん)でとり夜の街を遊び歩いて飽きると家に帰って寝るという生活を小学生の頃から続けていた。そのようなOさんに、コンビニや携帯なし、テレビなし、外出はできず周りは山だけ、起床6時消灯21時30分

<font=red>テレビ❌ 携帯❌ 外出❌ 起床6時 消灯21時30分</font=red>

の生活は少年院のように感じたかもしれない。だから本人の感覚では『ちょっとしたいたずら」が学校としては進退を問われるような重大な問題になってしまう。彼女と話すと常に「ここの生活が厳しいから嫌なのではない。私は誰からも期待されていないし誰からも関心を持たれていない。」という。

 お忙しいご両親なのでOさんゆっくり話す時間が取れないのかもしれない。で、今回とても大きな問題を起こしたのである。因みに私はというとそれまで副担任だったのに初めて一人で担任をさせてもらえるチャンスが与えられ気合いも入っていた。また不良品の中の不良品を代表するような自分なので彼女の言っていることが心に刺さって来る気がした。しかも今回後輩を巻き込んで二人でやったことでもあった。

 Oさん曰く、「先生絶対に言わないでね。実は彼女(後輩)が興味を持ってやっていたことなんだ。私は、そんなことしたらダメって注意をしたんだけど止められなくて。そして二度目も彼女から誘ってきた。一緒にやりましょうって。絶対ダメと止めたけど彼女(後輩)は絶対にやると言って聞かない。だから仕方なく自分は見つからないように見張り役をやっていた。そうしたら先生(私ではない別の先生)がきてその様子を見つけた。咄嗟に彼女を別の部屋に押し込んで証拠となるブツ(物)を自分が持って先生に捕まったの。でも彼女は元々私のせいで問題を起こすようになったから絶対に彼女を守りたい。だから今回のことは絶対に言わないで内緒にして。私だけ指導を受けるように黙っていてね。」という話だった。

 なるほど、と思って聞いていたが
「なんでそこまでして後輩をかばうの?そもそも君の行為は後輩をかばうことになっているのかな?」
 というと
「自分が初めて必要とされたんだよね。彼女は本気で自分を頼り必要としてくれた。今までそんな経験なかったから嬉しくて。」
「でも真実が闇に包まれると君はおそらく退学になるよ」
「それでも大丈夫。人から必要とされたという自信で生きていける気がするから。」

 正直返す言葉がなかった。あれから30年経った今の私なら全く別の対応をしていたと思うが知識も経験もノウハウも何もない自分にはただただ彼女の寂しさとそれを潤す人からの信頼になんとも切ない気持ちになって涙を流すことしかできなかった。彼女の指導を決める会議が行われた。私から事情説明をして、現在のOさんの反省などの様子などを話した。会議初日の雰囲気は9割の先生が退学を提案する感じだった。このまま議論を進めても良いことはないと翌日に会議を伸ばしてもらうことをお願いをした。結局その日はそのまま終了。会議直後信頼している居眠り物理のA先生に彼女から聞いた全てを話し、どうしたら良いかを相談した。色々とアドバイスしてくださった。

 そして翌日の会議。彼女の退学に反対する先生が自分を含めて3人になった。しかし話しは平行線でもう一日結論を先延ばしにすることとなった。

 会議3日目。新米の自分が勇気を振り絞って先輩の先生方と渡り合って発言した。怖かったけどOさんをなんとか学校に残したい一心で精一杯の反抗をした。そして先生方の急所とも言える部分に食い込んだ見た。

「先生方は退学と仰るが、彼女は家に戻ると信仰教育を受けられる環境にないのです。寮が無理なら我が家で預かります。我が家から登校させます。彼女をイエスキリストに導くのか否かが関わって来るとても大きな問題です。私が全ての責任を追うのでどうか退学以外の指導を考えて欲しい。」


と食い下がった。そこで発言したのがチャプレン。チャプレンというのは学校や病院、軍隊などにつく牧師のこと。このチャプレンが


「大丈夫。Oさんのことは僕が面倒を見ます。彼女が退学になっても週に一度は家庭訪問をして聖書研究を施し学校にいるのと同じくらいの濃度で信仰教育をするから安心してください。」


この発言で会議は大きく傾いた。結局Oさんは退学となってしまった。何度も泣いた。そしてOさんに詫びた。

「先生、ありがとう。私は大丈夫だよ」

 という言葉が余計に辛かった。本来退学を伝えるのは校長の仕事であるが、私が本人を連れて保護者の元に送り届け一部始終を話して引き渡した。本当に辛い経験であった。この後Oさんには何度も電話で連絡をし困っていることがないか、力になれることはないかを尋ね近況を話してもらっていた。驚いたのはあのチャプレン。同僚だから悪くは言いたくないが家庭訪問など一度もせず電話すらしていないとのこと。私は自分の教団の指導的な立場の人には問題を感じる人も多くいるけど牧師に対しては非常に信頼している。それは今でも変わらないが、このチャプレンを見てこういう牧師もいるのだと失望した。

 因みに平成最後の年に突然彼女が御詩人と一緒に学校を訪問してくださったようだ。私を尋ねてきてくださったようだが生憎その日は出張で不在。対応した教員が出張で不在であることを告げ連絡先を聞いておいてくれた。その後すぐに彼女に電話をしていると相変わらずあの時の口調のまま。少し酒灼けした声にはなっていたがあのままだった。

「先生に会いたかったんだけど。でもまた会いに行くね。」と言いながら

「そうだ、一つ相談があるんだけど…」
 とお子さんのことを話し始めた。公立中学校の2年生だけど少しやんちゃな女の子さんのようで学校ではよく注意をされるとのこと。彼女が何度も

「大したことじゃなくてちょっとしたことが積み重なって…」

 というのでそのちょっとしたことが何かを聞いたら喫煙と男子に対する暴力とのこと。相談というのは今の学校にいずらくなったので私のいる学校に転校できないか?とのこと。

「そうか」と言いながらも
「うちは厳しいからね…」と言ったら
「そうだよね」と笑っていた。

 イエスキリストという人はこういう方を受け入れたのではないのか、教員を続けながらいつも考えさせられることである。

思い出すと笑ってしまう出来事

 大学生に入学するとすぐに教会の牧師先生から青年会の責任者になって欲しいと言われた。青年会長というものだ。どこの教会にも性別や世代などでグループがあるが私の行っている教会では30歳までを青年会というグループに分ける。当時教会の青年会メンバーは季節参加者も含めると30名ぐらいいた。レギュラーはその半分ぐらい。頼まれたのでその青年会長という役を引き受けた。何をして良いのか分からないのでとりあえず礼拝以外の日(私の行っている教会は土曜日が安息日で礼拝日)にも集まって聖書研究や日頃の出来事を分かち合うプログラムを持った。また修養会と称して夏はキャンプ、春は伊豆大島に渡って聖書の勉強会をした。

 同じ教団の教会が関東だけでも20ぐらいありその殆どに青年会が組織されていた。一つの教会だけでなく関東の教会に集う青年が一堂に会す組織をつくったらより充実したプログラムを持つ事はできるのではないかという話になり、先輩である横浜の教会の青年会長がこの組織のリーダーになった。そして何も分からないまま私が副リーダーになってしまった。活動も多岐にわたっていた。教会に来やすいようにとスポーツ交流会や音楽会、夏に行っていた修養会は100名を超える参加者で賑わった。冬はスキー修養会、クリスマスのキャロリングで表参道をねり歩き、本職のシェフを招いてイヤーエンドパーティーなども行った。一つの教会の活動とこの関東全体の青年会活動共に充実していた。

 スポーツ交流会の一環としてテニストーナメントを提案したのはリーダーの山口さん(男性、実名)。どうせやるなら本格的にやりたいということで色々な部門に分けてそれぞれの優勝と準優勝を表彰する事になった。この山口さん、思いつくのはいいけれど実働部隊は常に私を指名する。会場となるコートは教会が所有しているので問題ないがその他のものは全て私が調達する事になった。差し当たってトロフィーと楯を準備しないと銘板を作るのに時間がかかる。今みたいにネットで検索できる時代ではない。自分の勘ピューターでトロフィーを扱っているお店を必死に思い出した。そう言えば小学生の頃電子部品を買いに神田の方に行っていた御茶ノ水に向かう坂の途中にトロフィーを扱う店があったことを思い出した。とりあえずお茶の水に行ってみた。

 昔のままの佇まいでその店はあった。早速幾つかのトロフィーと楯、それにつけてもらう銘板を注文した。こちらが学生だと分かったためか邪険に扱われた。私も少々気分を害したが個人の客ではなく教会のメンバーとして来ているのでぞんざいな態度も取れない。出来るだけ丁寧に受け答えをして注文完了。一週間ほどで仕上がるので取りに来るよう言われた。正直な気持ちを言うと邪険に扱われ心も折れかかっていたので受け取りに行くのは山口さんにお願いできないかと考えた。

 電話で注文が完了したことと一週間後に出来上がること、そしてそれを山口さんが取りに行くことを伝えた。「何で東京にいる君が行かないで横浜の僕が行くのか」と叱られた。付け足しとして、注文した楯の一つは今回の企画のものではなく山口さんが個人的に作ったものらしい。で、領収書を分けるようにと面倒な指示まで頂いた。仕方がないので一週間後、引き取りに行った。対応したのはまたあのおじさんだ。憂鬱な気持ちになった。

 商品を受け取り確認を済ませて

「領収書をお願いできますか?」
  と言うと想定内の返答。

「え、領収書いるの?ったく」
 すみませんと恐縮しながらお願いした。

「で、宛名は?上でいいの?」。
言い忘れたが関東の教会が集まった組織を「関東連合青年会」という。なんとも仰々しい名称である。

「すみません。宛名は一枚を関東連合青年会に、そしてもう一枚を関東連合青年会山口宛でお願いします」

と言った途端におじさんの表情が明らかに変わった。

「あ、間違えた。これ値引き前の値段だ。お客さん、割引しておきますね。」

「それと山口の後に組はつけなくていいですか?」

明らかに任侠的な集団と勘違いしている。それからお店を出るまで終始媚びるような笑顔で対応してくれた。キリスト教会の組織で関東連合青年会、やはりそぐわない気がする。35年以上前の話だが今でも思い出すと笑ってしまう。