ダビデについて

旧約聖書にダビデという人が出てくる。また旧約聖書の「詩篇」にはダビデの歌がたくさん出てくる。ダビデ(David デイビッド)とはどのような人なのか。自分が思い描くダビデ像とは。
ダビデはイエスリストが誕生するおよそ1000年前、イエスキリストと同じベツレヘムで生まれる。父親はエッサイ。クリスマスに歌われる讃美歌の歌詞に出てくる「エッサイの根より生い出でたる…」のエッサイである。実はイエスキリストはエッサイ、ダビデの20数代後の子孫になる。小さい頃は羊飼いとして過ごした。羊飼いは放牧する羊の番をしながら野宿することも多く、彼は一人の時間を神と交わり竪琴を弾いて過ごしていた。話しは変わるがイスラエルの国はエジプトでの捕虜生活(奴隷生活?)からモーセとアロンまた次世代のヨシュアによって約束の地カナンに入ることができた。すんなり行けばさほど遠くない距離を彼らは40年間の放浪生活の後たどり着いた。この40年間に、神様を忘れて好き勝手なことをして叱られ、ごめんなさいと謝ってまた好き勝手なことをする。そんなことを繰り返してた。そのため迂回を続け40年もかかってしまった。神様はもともとイスラエルに王は必要ないと仰っていたがイスラエル人が執拗に王を求めるので不承不承サウルを初代の王としてたてた。2代目にこのダビデが就くがそこに至るまでに色々なことがあった。まず伏線としてイスラエルがペリシテ軍との戦いが挙げられる。

<聖書の引用>
 さてペリシテびとは、軍を集めて戦おうとし、ユダに属するソコに集まって、ソコとアゼカの間にあるエペス・ダミムに陣取った。 サウルとイスラエルの人々は集まってエラの谷に陣取り、ペリシテびとに対して戦列をしいた。 ペリシテびとは向こうの山の上に立ち、イスラエルはこちらの山の上に立った。その間に谷があった。 時に、ペリシテびとの陣から、ガテのゴリアテという名の、戦いをいどむ者が出てきた。身のたけは六キュビト半。 頭には青銅のかぶとを頂き、身には、うろことじのよろいを着ていた。そのよろいは青銅で重さ五千シケル。 また足には青銅のすね当を着け、肩には青銅の投げやりを背負っていた。 手に持っているやりの柄は、機の巻棒のようであり、やりの穂の鉄は六百シケルであった。彼の前には、盾を執る者が進んだ。 ゴリアテは立ってイスラエルの戦列に向かって叫んだ、「なにゆえ戦列をつくって出てきたのか。わたしはペリシテびと、おまえたちはサウルの家来ではないか。おまえたちから、ひとりを選んで、わたしのところへ下ってこさせよ。 もしその人が戦ってわたしを殺すことができたら、われわれはおまえたちの家来となる。しかしわたしが勝ってその人を殺したら、おまえたちは、われわれの家来になって仕えなければならない」。 またこのペリシテびとは言った、「わたしは、きょうイスラエルの戦列にいどむ。ひとりを出して、わたしと戦わせよ」。 サウルとイスラエルのすべての人は、ペリシテびとのこの言葉を聞いて驚き、ひじょうに恐れた。(サムエル記上17:1-11)

ペリシテ軍の強者、ゴリアテという大男が出て来て誰か自分を倒せる者はいないかと言っている場面である。ここの出てくるのが一介の羊飼いであるダビデ少年。神様のお力により石投げ器(長尺の革の真ん中に石を置きそれを包むようにして振り回しタイミングよく石を飛ばす装置)でゴリアテの眉間に命中させ一撃で彼を倒す。この戦果がありサウル王はダビデを召しかかえ待遇良く自分の右腕とした。ちなみにサウル王の息子にヨナタンという青年がいるが彼とダビデは大変仲が良くどのような状況でも互いに互いのことを第一に考える間柄になった。ダビデの名声が高まるにつれてサウルはこのダビデに嫉妬するようになりまた自分の王位を狙っていると思い込み何度もダビデを殺そうとする。しかしどの場面でも神様はこのヨナタンを用いてダビデの命を助けるのである。それだけではない。ダビデにサウルを殺す機会が訪れたときも彼を殺さず、更にのちのペリシテとの戦いでサウルとその息子大親友のヨナタンがなくなったときには衣を裂いて泣いた。

これらののちダビデは第二代王として40年に渡りイスラエルを統治するようになる。神に対して常に敬虔で神と共に歩む人生を送って来たダビデだったが一方で権力は彼を徐々に盲目にして行くのであった。人を殺し神様の喜ばれないことを行った。
特に有名なのはバテ・シバ(バト・シェバ)との姦淫。ある日城から下を見るとバテ・シバが行水で裸になっているのを目撃する。彼女にはウリヤという旦那がいる。が、彼は現在戦争で出兵中。しかも彼は軍の責任者でもあった。バテ・シバと関係を持ったが次第に彼女が妊娠することに気づく。これはまずいとダビデはウリヤを戦場から戻し妻とゆっくり過ごすよう促す。しかし責任感の強いウリヤはそれを断る。仕方がないのでこのことが公にならないよう、ウリヤを戦火の最も激しいところに送ってしまう。結局ウリヤは戦死する。

そして次の王となるソロモンが誕生する。イスラエルは第三代王のソロモンの後北イスラエルと南ユダ王国に分裂しそれぞれ王を置くことになる。
ダビデは晩年自分の生涯を振り返りいかに自分が間違ったことを繰り返して来たのか、そしてそのような愚かな自分に神様は何と慈しみ深く愛を注いでくださったかを思い徐々にあの羊飼いだった少年ダビデの頃に戻って行く。
そしてダビデは一つの決心をする。神様のために神殿を建てたい。これがダビデの真心からの願いであった。ダビデはこのことを神様に願い出た。ところが神様からの返答は意外なものだった。

<聖書の引用>
 しかし主はわたしの父ダビデに言われた、『わたしの名のために宮を建てることはあなたの心にあった。あなたの心にこの事のあったのは結構である。 けれどもあなたはその宮を建ててはならない。あなたの身から出るあなたの子がわたしの名のために宮を建てるであろう』と。(列王記上8:18,19)

神様のために真心から贈り物をしたいと申し出たのにそれを断られてしまうのである。そしてソロモンがその神殿を建てる。ダビデはどのような気持ちだっただろうか。折角神様のために何かできることはないかと考え最高のことをしたいと申し出るのにそれを断られてしまう。私だったらヤケを起こすと思う。「神様そうですか。それならいいですよ。神様の思うとおりにしたらいいんですよ。」といじけることだろう。

しかしダビデはそうではなかった。彼はソロモンがまだ王になって力も経験もないからといって事前に神殿に必要な資材を全て集めておくのである。それだけではない。石工や大工なども雇いソロモンの命令に従うよう手配をしていたのである。イスラエルに建てられたこの神殿を「ソロモンの神殿」や「第一神殿」と呼ぶが私の意見としては「ダビデの神殿」といっても良いのではないかと思っている。

神様は強敵ゴリアテを倒すために名も知られぬ人を用いるが、逆にこれはこの人が適任という場面で全く違う人を用いることがある。ダビデの人生がそれを教えてくれる。特に神様から「あなたではない」と言われるときどのような態度をとるか、とれるかは大きな意味を持つような気がする。決して神様はダビデを見捨ててつまはじきにしたのではない。それが神様の長期計画における計画だったのだ。自分が、自分がと自分を主張しないと不利益を被る。しかしキリスト教では自己実現ではなく神様の計画を実現することが要求される。これに従うのは結構難しい。

由布岳遭難事件

教員になってまだ間もない頃(確か2年目か3年目)の出来事。毎年5月になると中学3年生は一般で言う修学旅行に出かける。本校では「修養会」と言う。観光を目的とした旅行ではなく多少観光はするものの聖書を土台とした勉強会が中心となる旅行である。

初日は長崎に入り平和祈念館や26聖人記念館を見て二日目から湯布院入りする。卒業生が営むペンション(と言っても50人は宿泊、研修ができる施設)を拠点として毎日聖書研究やグループディスカッション、レクリエーションや観光を行い夕方からまたキリスト教プログラムが始まる。全行程4泊5日の旅となる。

湯布院入りして2日目のメインプログラムが由布岳登山。1600m弱の比較的登りやすい山である。非常に美しい山で遠くから見ていてもその雄大さと美しさに魅了される。登りやすいと言っても登山なので入念な準備や打ち合わせを繰り返して当日を迎えた。私は毎年修養会の引率で同行し由布岳も何回も登っているからかなり慣れていた。男女でペースが違うため女子が先に登り約1時間遅れで男子が登り始めるという計画を立てていた。私は女子の先頭を任された。女子のしんがりは女性の先生だったが登山直前で足を痛めた生徒がおりその生徒のフォローをするため結局私一人が女子のグループ(生徒21名)を引率して頂上を目指すこととなった。

当時、由布岳は入山口を入るとすぐに直進する道と右に折れる道とふたつあった。予定では直進ルートを通るはずだったが何度も通っている道で少々飽きていたので、本来は絶対にしてはいけないことだがその場になってルート変更をした。右に曲がるルートを選んだ。若干険しい道になるが直進ルートよりも距離が短い。興味のあったルートではあるが初めて通るルートだ。後ろの生徒たちもまさか引率者が行ったことのないルートを選んだとは思いもせずただついてきた。歌を歌ったり色々な話をしながら歩いていたが道が段々と茂みに入っていくのが分かった。若干不安を感じたが近道だからそういうルートなのだろうと思いながら進んでいくと更に大きな岩場。2mぐらいの岩を登らないといけない。「こんなに難しいのかな?」と一抹の不安をおぼえながらも岩の上から生徒たちの手を引っ張り一人一人を登らせた。そしていよいよ道がなくなった。藪をかき分けるようの進むしかなかった。この辺りでやっと登山道を外れている自覚を持った。が、一番いけない教師の例が自分である。
「先生、この道あっているんですか?」という質問に
「大丈夫。何度も来ているから。」と笑顔で嘘をついた。
生徒たちも不安と疲れで限界状態。半べそをかきながら必死にこらえる生徒、跪いて祈る生徒。やっと自分のおかれている状況と自分の全てが間違っていることに気づかされ
遭難‼️  遭難⁉️ 遭難‼️  遭難⁉️ 遭難‼️  遭難⁉️ 遭難‼️  遭難⁉️
「もしかしたら間違えたかもしれない」とやっと生徒に打ち明けることができた。その時点で登山開始から2時間ぐらい経っていた。現代のように携帯電話がある時代ではない。手元にあるのはCB無線機一台。打ち合わせていたチャンネルで男子グループに呼びかけるも応答はない。後でわかったことだがその頃山の肩の下に入っていたようで電波の状態も非常に悪いところにいたようだ。前にも進めず戻ることもできない。明らかに遭難している。唯一ありがたかったのはまだ日中で気温も暖かかったこと。生徒たちは日頃の信仰教育の成果かみんなで円陣を組み一人一人順番に祈っている。本当に申し訳ないことをしてしまった。自分の命と引き換えにこの21名を助けてほしい、と自分も必死に祈った。祈りが終わり生徒たちに
「ごめんね。申し訳ない。」と謝罪すると
「大丈夫だよ。先生のせいじゃないし。神様が必ず助けてくれるからそれを信じて讃美歌を歌おう。」と言ってくれた。
「いや先生のせいだしそれ以外の理由はないよ。」と心の中で思った。登山から3時間ぐらい経った。讃美歌を歌う彼女たちの声が届いたのか少し上の方から声が聞こえた。
「おーぃ。どこにいる?声を出し続けて❗️」男子たちの声だ。助かった、と思った。生徒たちも同じことを考えたようで残ってる力を振り絞って交互に声を出し続けた。勇敢な男子生徒たちが女子生徒の声を頼りに降りて来てくれた。私たちは頂上に比較的近いところにいたようだ。男子生徒が藪をかき分け道無きところに道を作って近づいて来てくれた。

結局私たちはそのまま助けられ、一度頂上まで上がり正規のルートで下山した。後発の男子が、途中で女子と会うことがなかったのに頂上にもいなかったのでどこかで迷っているとすぐに理解してくれていたようである。本当にありがたい。助かった。助けられた。その後同行していた教頭先生に呼び出され叱られたことは言うまでもないが、叱られて済んだからよかった。これで生徒に何かあったら…。考えただけでも恐ろしい。この日自分は教師として、集団を導くものとして、そして人としてやってはいけないことの全てをしてしまった。いまでもこの学年の生徒に会うとこの時の話題が出てくる。恥ずかしいけど笑い話にできたからよかった。自分に教師としての自覚と責任感、適性が全くないことを思い知らされる出来事であった。