「情報」免許取得の道のり

高校の指導要領が変わる

今から20年近く前、正確には2003年頃だったと記憶しているが高等学校に新しく「情報」という教科が導入された。どうでも良い話であるが「教科」と「科目」という言葉は一般に混同して使われることが多いが教育現場ではこれらを使い分ける。例えば「教科」といえば理科でありその中に「科目」である「物理基礎」「化学」などである。「芸術」という教科に「音楽Ⅰ」や「工芸」と言った科目がある。即ち2003年からスタートした「情報」は「教科」であり「科目」ではない。「情報」という教科を全ての高等学校は設置しなくてはならないしこれを「生活実習」など他の科目で補うことも許されない。「情報」という教科には「情報A」「情報B」「情報C」という科目が当時存在した。他の多くの学校が導入したように本校も「情報A」を導入した。そこまでは何でもない話であるが大きな問題が2つあった。ひとつはハードの問題。情報教育というからにはそれに相応しい設備が必要だ。それほど余裕のある学校ではないがふたつの教室をひとつにつなぎ、当時としては斬新だった光回線を導入した。IBMのデスクトップやノートパソコン、教員用のコンピュータやサーバーの設置などを行った。当時としてはかなりの設備投資であり他校に先駆けて導入したため同県の学校から何名も視察に来られた。とりあえずハードは整ったが次の問題はソフト。教える教員がいないのだ。教える技術はあっても免許を持っている教員がいない。というかそもそもそのような免許が存在していなかったのだ。そこで県教委は対策として3年間に渡り「情報」の教員免許を講習と試験で取得させるようにした。期間は夏休みの3週間。この講習を受ける人は恩恵もあるが大変だと思った。自分は物理や数学、そのほかの授業で20コマ近く教えており教員の中では教えるコマ数が最も多かった。だからのんびり構えていたがある日突然校長先生に呼ばれ「今年の夏休みに教員免許を取りに行ってもらうから」と軽く言われた。夏休みはダイビングの計画もあったし釣りやキャンプにも行きたいのに…。少しだけ泣きそうになった。

講習開始

そんなことを言っても仕方がない。命令だから気持ちを切り替えて頑張るしかない。講習は毎日9時から17時まで、昼に1時間の休憩がある。講習開場が家から2時間ほどかかる場所だったので通うのは難しいと判断し寝泊りだけできる施設を学校が用意してくれた。それだけでもありがたい。コンピュータは毎日扱っていたがまだまだ手書きの時代である。成績表の所見や学籍簿、調査書など学校のフォーマルな書類は全て手書き。コンピュータは自分で発行する学級通信や授業資料を作成するために使う程度。しかも私が使うのはMac。今のようにAppleがメジャーではない時代、30年ほど前からずっとMac一筋でやって来た。だからWindowsマシンというものを殆ど触ったことがない。なのに講習はWindowsマシンは当然使えますね、というところから始まる。理解できる授業もあったが半分ぐらいは理解できなかった。そして何と言ってもきつかったのが毎日出る宿題。その殆どがHTMLで書くような課題で意味がさっぱりわからない。一日の授業が終わるとすぐにネットカフェに行きそこに入り浸る。とにかく宿題を終わらせないといけない。宿題の意味をネットで探すところからスタートするわけだから日付が変わっても終わらない。粗末なできだがなんとか終わらせて宿に戻るともう2時。そのような生活を続け金曜日になると自宅に戻る。最初の1週間で5キロ痩せた。形相も変わった。しかばねの顔になっていた。これをあと2週間も続けるのかと思ったら涙が出てきた。日曜日の夜に宿泊施設に戻る。車で行くのだが足が進まない。2時間で行ける距離だが途中で何箇所も寄り道をする。6時間以上かけて戻った。翌月曜日からまた地獄の授業。同じことが繰り返された。この週はプレゼンをすることが多かった。10名ぐらいのグループでひとりずつプレゼンをして行く。他の人のレベルの高さに圧倒される。そして例の宿題地獄は続く。生徒が宿題を出されてどれだけ嫌な気持ちになるのかよく分かった。この週もなんとか乗り切った。金曜日の夕方に自宅に戻った。翌日土曜日は地元の花火大会が開催された。田舎にしてはかなり盛大な花火大会で県内外から多くの人が訪れる。ふさぎ込んでいても仕方ないと花火大会に行った。綺麗な花火だったのを鮮明に覚えている。この花火が終わったらまた地獄が始まる、と思ったらまた涙が出てきた。そして日曜日。夕方から宿泊施設に戻った。前週同様2時間の道のりを嫌々6時間かけた。「よし、最後の1週間だ。」という気力はない。とにかく1日1日が地獄なのである。慣れることもなく新しい試練が怒涛のごとく押し寄せる。何度も挫折しそうになった。というか挫折したが講習はそれを許してくれない。講習の後半で気付いたのだが、最初は教室いっぱいに生徒(授業を受ける我々教員)がいたが最終週は1/3ぐらいが空席になっていた。因みにこの講習は1日でも休むと教員免許は発行されない。体調不良など許されないのだ。鬼の県教委、いつか襲撃してやると心に誓った。それでも時間が過ぎ最後の試験まで漕ぎ着けた。試験も小論文形式の問題だったように記憶している。易しくはなかった。結果などどうでも良かった。とにかくこの空間、この縛りから解放される喜びを早く味わいたかった。

プレゼント

全ての講習を終え、宿に戻って帰る支度をしようと思ったが急に毎日通ったネットカフェが懐かしくなりまた行ってみたくなった。ネットカフェにくる度に嫌な気持ちになっていたけど今日は違う。同じ景色なのに全く違う場所に映る。中にこそ入らなかったがお店に前で「今までありがとう」と小声で言ってみた。ヤバイ人である。それから少し街中を歩いた。いつも俯いて下ばかりみて歩いていたから気づかなかったがデパートのディスプレーも夏物から秋物に変わっていた。何の気なしに好きなROLEXの時計を扱うお店に入ってみた。それまでROLEXのGMTマスターという時計を使っていたが同社のシードゥエラーという時計がずっと気になっていた。今のように正規店では殆ど見かけられない、という時代ではなかったのでそのお店にもあった。価格も現在のような値段ではなく50万円ほどだった。それをみながら「欲しい、買いたい」という気持ちが募っていった。「このままでは衝動買いしそうだ。まずい…」一度落ち着こうと近くに喫茶店に入ってよく考えてみた。が、買う理由しか頭に浮かばなかった。そして最終的に自分を納得させた理由が「これだけ頑張ったから自分に何かプレゼントをしないといけない」だった。カード払いが嫌いなので近くの銀行でお金をおろし先ほどのお店に戻った。そしてそれを購入した。あれから20年近く経つが今でもあの時のROLEXは自分の腕につけられている。

ROLEX SEA-DWELLER

蛇足でありがこのシードウェラーはクロノメーターである。クロノメーターは手巻き、自動巻の時計に対して与えられる品質保証である。特にその精度が正確であるものに対して与えられる。私のシードウェラーは自動巻きであるため腕につけたままである。夜眠るときだけ外す。時刻合わせは小の月から大の月に変わる時だけで十分。今回は10月1日に時刻を合わせ12月1日にもう一度合わせた。60日ぶりの時刻合わせだが30秒までは狂っていなかった。そこそこの上等なクォーツ時計でも2ヶ月で1分ぐらいは狂う。なのに自動巻、機械式でこの精度である。ROLEXの技術力恐るべし。時間を知るために時計を見るたびのこの辛かった講習を思い出す。そしてどんなに辛いときでも「きっと今度も乗り越えられる」という勇気をもらえる。

ストッキング事件

恐ろしかったこと

卒業式前の様子

新任の頃、初めて迎える卒業式。中学の教員として初めて迎える卒業式だったが勝手が分からず自分が動く分だけ誰かに迷惑を掛けてしまう状態だった。本校の卒業プログラムは金曜日から3日間続く。金曜日の「卒業献身会」土曜日の「卒業礼拝」およびその夜に行われる「これまでの3年間を振り返る会(通称ハイライト)」、そして日曜日の「卒業式」。連日行われる性格の違うフォーマルな式典なので準備も様々で、先輩の先生に指示をしていただきながら卒業プログラムに備えた。また、当時卒業アルバムの他に3年間の一人一人の歩みを綴った文集と写真集をプレゼントしていた。全て教員による手作りなのでこの作業がとても大変。卒業前から製作にかかるがそれでも卒業式前は徹夜になることも珍しくないという。全体像が見えない中言われたことをひたすらこなす毎日が続いていた。そしていよいよ卒業プログラムが始まる前日、木曜日の夜にとんでもないことが起きた。全ての教員が自分の役目を果たすべく一生懸命に仕事をしている中である先生が私に「女子生徒のストッキングの準備はできていますか?」と確認して来た。これは既に指示されていたので準備したことを伝え確認していただくために現物を見ていただいた。すると
「あれ、数が少ないですね。これで卒業生と在校生全員分ありますか?」
と言われた。
「え、在校生の分もですか。私が用意したのは卒業生の分で在校生のは用意していません」
と答えるとその先生が急に青ざめ
「それはまずいよ。先生、今から何とかして」
と言われた。ストッキングなら何でも良いわけではない。本校指定の色があり、学校から1時間ほど車で行った制服屋さんに行かないと本校の指定ストッキングは買えない。

制服屋さんに

その時点で時刻は21時を回っていた。とりあえず制服屋さんに電話したが当然お店は閉まっており返答はない。仕方がないので会社ではなく社長さんのご自宅に電話してみると幸い連絡が取れた。事情を話すと人の良い社長さん自ら店舗に出向いて店を開けるからそこまで取りに来て欲しいとのことだった。お礼を述べ直ぐに制服屋さんに直行した。とんでもない失敗をした反省と、まだまだ学校に戻ってやらなくてはならないアルバム作りのことで落ち込んだ。とにかくやらなくてはいけないことを一つ一つ確実にこなさなくてはならない。制服屋さんには23時頃到着した。夜遅い時間なのに社長さんが待っていてくれた。本当に申し訳ない。在校生のストッキングを受け取り帰路についた。制服屋さんから学校まではいくつかのルートがある。どの道も距離はほとんど同じである。海沿いを走って後半山を上がっていく道、最初からダラダラと山を登っていく道等々。少しでも早く帰れるようにと車通りの少ない、最初から山道を登っていくルートを選択した。帰ったらどの仕事を優先しようか、でもストッキングを頼まれたときは確かに卒業生の分と言われたよな、など色々なことを考えていた。街灯も無い車のライトだけが頼りの寂しい道である。兎に角1秒でも早く帰らないといけないので恐らく法定速度を超過するスピードで走っていたと思う。

怪しい車との遭遇、そして生還

学校まであと半分、という地点に来て気づいた。少し前から眩しいと感じていたが後ろの車がハイビームで近づいていた。眩しいのでルームミラーの角度を変えそのまま走行していたが後続車はどんどん近づいてくる。この時間にこの道を通る車は珍しいので異様な雰囲気を感じた。こちらも引き離そうと少し速度をあげた。すると更に速度をあげて近づいてくる。そして完全に自分の車の3mぐらい後方をぴったりくっついて、しかもハイビームで走行して来た。今で言うところの「煽り運転」だ。ミラーで確認すると黒塗りの車だった。急に背筋が凍る気持ちになった。自分が住んでいる県は全国でも比較的有名な任侠的な組織があり県庁所在地に行くとそのような方々を見かける。しかも数週間前にある事件が起きていた。任侠的な人が別の任侠的な人と争い殺されその死体を地元では有名な海岸に埋められたという事件。間違いない、後ろの車は893だ。山の細い道ということもあり車線は追い越し禁止の黄色車線。兎に角急いで少しスペースのある路肩に車を止めて後ろの車をやり過ごした。無事、自分の車を追い越してくれた。「助かった」という気持ちになった。そしてまた車を走らせると何と先ほどの黒塗りの車が今度は20km/hぐらいの低速で走行している。「えぇ!」と声が出た。自分の車が遅かったので煽られていたのではなかったのか?兎に角その低速車の後ろをついて行くしかなかった。しかし自分は1秒でも早く学校に戻って仕事をしないといけない。しばらくはこの低速に付き合ったが我慢できなくなり追い越した。そして逃げるように速度をあげて走行した。「やっぱり」嫌な予感は的中した。後続車はすごい勢いでしかも今度はパッシングしながら自分の車の直ぐ後ろについた。「これ、殺されるやつだ」と何と無く直感した。そして後続車はしばらく煽って勢いよく自分の車を追い越ししばらくするとまた20km/hの低速になる。このようなことを3回ぐらい繰り返した。そしてついにこの車が止まり、自分も止まらされた。「殺される」、本気で思った。黒塗りの車から運転していたチンピラ風の男が出て来てとても怖い形相で矢継ぎ早に何かを行って来た。地方の言葉だったのでよく理解できなかったが、雰囲気は「てめーぶっ殺すぞ!」だった。そしておもむろに後部座席に座っている親分と思しき人に「どうしますか?」的な質問をしていた。とりあえず胸ぐらを捕まれた。殺されると思ったが自分には一つだけ心に引っかかることがあった。これが事件になってテレビや新聞で報道された時、どういう風になるんだろう。「私立学校の教員、謎の死。胸を刺され死亡。車の後部座席には大量の女性用のストッキングが。ストッキングをめぐるトラブルか?」そうだ、今車にはストッキングが大量に入っているんだった。ここで死んだらただの変質者になってしまうかもしれない。親の名誉、学校の名誉のためにもそれだけは絶対に避けたい。もはやこれまでか、というときに考えたのはセーヌ色のストッキングのことだった。絶体絶命という時に後部座席から「おい!」という声がしてそのチンピラは手を離した。「おぉ!助かるのか?」と期待した。そしてそのチンピラが「この黄色い線はどういう意味かわかるか?」とおかしな質問をした。震える声で「追い越し禁止です」と答えると「おまわりのいうことを聞かなくちゃダメだろ」と叱って来た。言っておきますが最初に黄色い線を超えたのはそちらですから。何とか任侠的な人から解放され震える自分を落ち着かせてから再度運転した。そして学校に戻った。まだ数名の先生がアルバム作りに奔走されていた。「お疲れ様」「遅かったね」など労いとも嫌味とも取れる言葉をかけてくださった。「実は殺されかけたんです」と言ったところで誰も信じないだろうし、精々「どこかで休んで来たんだろう」ぐらいにしか思われないだろうから「すみません。眠くてゆっくり走ってしまいました」とだけ伝えた。今は笑い話だけどあの時は本当に自分の最期を覚悟した。それでも生きなくちゃいけないと思わせてくれたのがあのストッキングだった。