何で自分だけ
なかなか思い通りの道が開かれず、いつも自分だけ損をしているように感じる。何で他の人はうまく行くのに自分だけうまく行かないのだろうか?自分の人生の8割は喜びがなく試練を耐える日々、なぜ他の人のように幸せになれないのだろうか。特に凄い人生を期待しているわけではなく人並みの平凡な幸せがあれば十分である。しかし自分にはそれが与えられない。そのようなことを考えることが多い。で、行き着くところ「自分は神からも人からも必要とされていない存在なのだ」と思ってしまう。これが繰り返されるのでとても辛く生きづらい。これを読んでくださっている方にも同意してもらえるのでは無いかと期待している。しかし全然違った発想をすることもできる。その発想をするためには聖書の知識が少しだけ必要になる。
ヨブの場合
聖書をダンロードして読んでくださったであろうか?youversion或いは「聖書」と検索すると出てくるはずである。是非ダウンロードして聖書を読んでいただきたい。聖書の中に「ヨブ記」というところがある。ヨブという実在の人物に関する記録を綴ったところである。ヨブという人は正しく神様を心から信じ悪いことをしない人物であった。男の子7名、女の子3名の子どもがあり家畜は羊7000頭、ラクダ3000頭、牛500くびき、雌ロバ500頭、また多くの僕を抱える裕福な家庭を築いていた。
ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。
彼に男の子七人と女の子三人があり、
その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。
そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。
そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。
ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。
主は言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。
サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。
しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
主はサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンは主の前から出て行った。
ヨブ記1:1-12
サタン(悪魔のかしら)はこのヨブの本性を暴くことを、彼のことを信頼している神に許可を得ている。もしもヨブに与えているものを全て取り上げたらヨブはあなた(神様)など信じるわけがない。あなたを信じることが利益に繋がるから信じているだけなのだ、とサタンは主張する。即ちヨブの信仰は「ご利益(ごりやく)信仰なのだ」と神様に言うのだ。「ならば彼から全てのものを奪ってみるがよい。それでも彼はわたし(神)を信じるはずである」と神様が反論。こうしてヨブから次から次へと子ども、家畜、その他の財産が全て取り去られて行くのだ。神様はヨブを信頼しているので全てのものを取り去ることを願ったサタンに許可を与えた。
ペテロの場合
新約聖書にペテロという人物が出てくる。元々はガリラヤ湖で漁をして生活を支える人物である。向こうっ気が強く弟子の中でもいつも出しゃばる人物である。それでいて失敗の多いペテロであるがイエス・キリストは彼をこよなく愛した。また信頼していた。イエス・キリストが復活後しばらくして天に帰られて以降使徒たちの中心的な人物として熱心に伝道活動をし殉教する人物である。このペテロやその他の弟子たちに対してサタンは攻撃を仕掛けようと神様に許可を得るのである。
シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。
ルカによる福音書22:31
サタンは人を試す(試練にあわせる)時に神に許可を得るということがヨブやペテロの記事から確認できる。神様は彼らを信頼しているために「試練を与えても大丈夫」と判断されるというのだ。
今の自分の当てはめてみると
自分の生活が試練だらけで幸せなどとは程遠いということは、この聖書の意味をそのまま理解するならそれは「神様から信頼され、サタンが試練を与えても大丈夫」と判断されているということになる。また神様は自分たちの限界を知っておられるので耐えられる試練までにしておけとサタンに命じるというのだ。
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。Ⅰコリント10:13
神様から信頼されているからこれだけ多くの試練がある、と考えることもできる。キリスト教信仰の魅力はこういうところにある。