師匠と弟子

職人の子

私の父はハンドバッグを作る職人である。もうほとんど仕事はしていないが90歳を過ぎても現役で仕事をこなせるだけの技術がある。もともと教員志望であり大学でも教員免許を取得した。歴史好きの父は社会の教員免許を取得したのだ。しかし父の父、私の祖父が心臓を患っていたので家業を継いで子どもたち(父にとっては兄弟たち)を養っていかなくてはならなかった。祖父の仕事はがま口職人。財布ではなくがま口である。これを作っては浅草の浅草寺周辺で売っていた。わずかな稼ぎにしかならない仕事だったらしい。しかも少し働いては休まないと心臓が持たない。父は祖父からがま口作りの手ほどきを受けたがもう少し割の良い仕事をしないと生活できない、とハンドバッグ職人を目指した。目指したと言っても今のように誰かが教えてくれるわけでもなく、ネットでそのノウハウを身につけられる時代でもない。ハンドバッグを買って来てそれを分解して造り方を真似た。なかなか難しい仕事であったが生きるか死ぬかの追い込まれた状況の中必死に技術を習得した。そして立派なハンドバッグ職人として生活できるようにまでなった。自宅の一室で作業をしていたので家にはハンドバッグが沢山あった。ピエールカルダンのハンドバッグが特に多かったのを覚えている。小さい頃は父の仕事を手伝うのが大好きだった。仕事を手伝うと、ラジオを消して色々な話をしてくれるのだ。側で習った通りにミシンをかけた後の糸処理をした。父は落語がすきなので落語を子どもに分かるように話してくれた。両親、祖父母、兄弟3人の7人がいつも一緒にいる家が大好きだった。ところがある時から家族が一人増えたのである。父からハンドバッグの作り方を習いたいと栃木から修行に来た方が同居することになった。毎日8人で生活し更に賑やかな家族になった。経緯は分からないがハンドバッグ職人に弟子入りしたいと、電話帳で一軒一軒探して我が家にたどり着いたようだ。父に弟子がいると言うことが何と無く誇らしかった。

イエスの弟子

聖書の後半を「新約聖書」と言う。新約聖書はイエスキリストの誕生とその生涯から始まる。イエスキリストが公の前で伝道する頃、既に「バプテスマのヨハネ」と言う人が活躍していた。この人も大衆に向けて伝道する仕事をしていた。バプテスマとは洗礼の事である。当時は同じ名前の人が多かったので日本でいう「屋号」のようなものを名前の前につけて呼ぶのが習慣だった。ヨハネ、とだけ言ってもどのヨハネかわからないのでバプテスマのヨハネ(或いは洗礼者ヨハネともいう)と言っていた。他にも父親の名前をとって「ゼベダイの子ヤコブ」やイエスキリストを銀貨30枚で売った「イスカリオテのユダ」などが挙げられる。このバプテスマのヨハネには弟子が何人かいた。ある時バプテスマのヨハネは自分のことを次のように言った。「私は水でバプテスマを授けるが、あなた方の知らない方が、あなた方の中に立っておられる。それが私の後においでになる方で、私はその人の靴紐を特値打ちもない」と。そしてこのイエスに興味を持った、ヨハネのふたりの弟子がイエスの後をついて行った。このイエスに「ラビ(先生)どこにお泊りなのですか」と尋ねるとイエスは「来てごらんなさい。そうしたら分かるであろう。」と言って彼らを招いた。ついていったふたりのうちのひとりは「シモン・ペテロの兄弟アンデレ」であった。アンデレともうひとりはイエスに興味を持ってついていった。これは紀元1世紀当時のユダヤ教の習慣であった。弟子になる方が師匠を決めその人にずっとついていく。いつか師匠の方から声をかけてくれ正式に弟子となる。父のところに栃木からやって来た職人志望の人と同じパターンである。しかし、イエスキリストは多くの場合、当時の習慣とは異なった方法で弟子を集められた。即ち弟子志願者が師匠を選んだのではなくイエス・キリストの方が弟子を選んだのである。

<聖書の言葉>

そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。
(マタイによる福音書4:21,22)

また以前に書いたブログに登場したマタイという人も同じである。

<聖書の言葉>

そののち、イエスが出て行かれると、レビという名の取税人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると、彼はいっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた。
(ルカによる福音書5:27,28)

その多くの場合がイエスの方から近づいて、イエスの方から声をかけて招いたのである。イエスキリストは十字架にかかる直前まで弟子たちに多くのことを教えた。最後の晩餐が終わってゲッセマネというところに行く途上でも非常に重要なことを教えた。そして次のように言われた。

<聖書の言葉>

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
(ヨハネによる福音書15:16)

イエスキリストは、能力が高く正義感が強く、多くの試練を乗り越える力のある人を弟子として招いたのではない。うまくいかないと肩を落としている人、人々から蔑まれ孤独の中にいる人、怒りっぽく感情的な人、お調子者、学歴の無い地方出身の冴えない人、このような人を集めたのである。選んだのはイエスの方だった。しかも最後の最後まで物分かりが悪いこの弟子たちもイエスによって訓練され鍛えられ、12人の弟子のうち裏切ったユダのほか、11名中10名がイエスキリストの名の故に殉教の死を遂げるまでに成長したのである。

選ばれたのは12人だけではない

弟子として12名を選んだイエスキリストであるが、今もイエスキリストはその後に続く弟子を探しておられる。AD1世紀の習慣とは異なった方法、即ち師匠の方から近づいて来て弟子として招いてくださるのである。この拙文を読んでイエスキリストに興味を持ってくださったあなたを弟子として招いているのである。何のために?「実を結ぶため」とヨハネの福音書は語っている。実を結ぶ、とは具体的にいうと「神様のことを人々に伝え、その人が新たに神様を信じる人になること」である。何故、伝道を人間がしないといけないのか。神様が伝道したら手っ取り早いのではないか、と思ってしまうがそうではないようだ。キリスト教の神様は何かをする時、特に伝道をする時には人を用いるようである。米国で活躍した女流クリスチャンにエレン・ホワイトという人がいる。その人が書いた書物に中に次のように書いてあった。

「石を取りのけなさい」(ヨハネ 11:39)。キリストは、石にそこをどきなさいとお命じになることもできたし、また石もその声に従ったであろう。キリストはご自分のそば近くの天使たちに石を取りのけるように命じることもおできになった。キリストのご命令に、目に見えない手が石を取りのけたであろう。しかしそれは人間の手で取りのけられねばならなかった。こうしてキリストは、人は神と協力することを示そうと望まれた。人の力でできることには、神の力は呼び求められない。神は人の助けなしにはすまされない。神は人を強め、彼が自分に与えられている才能と能力とを用いる時、その人と協力される。(エレン・ホワイト 各時代の希望 中巻P351

キリスト教の神は、神様の方から近づいて来てくれる。修行をして立派な状態になって神に近づくのではない。欠点だらけで、自分自身に嫌気がさして、もう死のうかと思っているその状態でイエスキリストは招くというのである。この拙文を読んだこともあなたに対する招きである。その招きにあなたはどう応えるだろうか。

イエスキリストの誕生を思う(その2)

その1を読んでない方はこちらから

別のシナリオ

この学級には人一倍律儀で恩を決して忘れない生徒takuくんがいる。彼は責任感が強くやり始めたことは必ず最後までやり抜く根気強さと不屈の精神を持っていた。一つだけ難があるとすればそれは彼の気性。普段は温厚なのだが怒ると誰も止められなくなってしまう。そして手をあげてしまう。takuくんはこのホームルームがスタートした時、すなわち3年の1学期、寮長に選出された。良いリーダシップで集団を導き同級生からも後輩からも慕われ一目置かれていた。ところがあることが起こってtaku君は2学期の前半に手をあげる、所謂暴力事件を起こしてしまった。このことが問題となり無期限の謹慎指導になってしまった。指導の内容を伝えるためtaku君と一緒に沖縄の自宅に向かった。taku君が如何に慕われ良い働きをしてきたかをお母様に伝えその上で暴力は社会に出れば即犯罪として扱われてしまうのでここで良い反省をしましょう、という趣旨の話をした。よくご理解くださり面談を終えた。その後、本人や家族の意向もあり2週間に一度は彼のところに家庭訪問し学習課題を一緒にしたり近況を報告し合う様校長より指示された。最初のうちは彼も良い反省をして課題にも積極的だったが10月頃から少し希望を言うようになった。
「先生、僕学校に戻りたいんですけど無理ですかね?」
「そうだね、いまは少し難しいかも知れないね。でも時がきたら教師会に提案してみるからもう少し待ってね。」
と諭すように言った。素直に聞き入れ
「先生、お願いします」
と涙目で頭を下げた。教員にはいろいろなタイプの人がいるので「暴力」と聞いただけで心を閉ざしてしまう先生もいる。彼の人間性や事の顛末を理解しようとせず「暴力」は「排除」と言う短絡的な発想になる先生が多かった。その様子を知っていたから教師会に提案するのは少し難しいと考えていた。次の家庭訪問でもtaku君は同じことを言ってきた。
「まだ教師会には提案していませんか?是非お願いします。」
また哀願されてしまった。難しいだろうと思いながらtaku君の願いなので色々な理論武装をして少しだけ根回しもして思い切って11月のある教師会で提案してみた。同情的な意見もある中でやはりtaku君の学校生活復帰は困難だと実感した。このまま学校に戻ることに固執したら保証されている卒業まで危うくなってしまう。とりあえずその場は一旦取り下げ次週の教師会に再提案することにした。その前にまたtaku君の家庭訪問をした。教師会の様子をオブラートに包みながら、でも少し難しかった、とだけ伝えた。すっかり肩を落としたtaku君は泣いていた。彼は心から自分の学校を愛していた。また仲間を愛していた。この涙を、反対票を投じた先生たちにみてもらいたいと思った。そして2回目の教師会提案。やはり難しかった。叶わなかった。しかしこれをtaku君にどうやって伝えようか、本当に悩み苦しむ日々が続いた。そして1つの結論に至った。この判断は決して良い判断ではない。良い判断ではないと言うより組織人として決してしてはいけない判断だ。それは十分理解していた。でもtaku君と教師会の気持ちの両方が理解できる自分にはこの方法しかなかった。今だったら恐らく別の判断をしていたと思うがまだまだ未熟な教員なので仕方ない。学校に内緒でtakuを自宅に宿泊させる、そして最後のホームルームパーティーのときだけ担任ができるクリスマスプレゼントとしてtaku君に登場してもらうと言うサプライズ企画。これが「別のシナリオ」だ。ホームルームパーティーの途中「担任からのクリスマスプレゼント」と言うコーナーを入れてもらった。クリスマスケーキに入刀する前に私が
「今日が最後のホームルームパーティーだけど、何か足りない気がしない?」
と質問してみた。勘が鈍いのかわざとなのか
「先生の元気」
と答えた生徒がいた。
「それもそうだけど…」
と言うと数名の生徒が
「taku君」と言ってくれた。
「そうだね、takuがいないとこのクラスは全員とは言えないよね。で、今日はtaku君に電話をしてみましょう。」
と言って校舎のトイレに隠れているtaku君に電話をする。
「もしもし、taku君?元気?今何しているの?」
などとどうでもいい会話をしている途中でtaku君が
「パーティーか、いいな!僕もそこに行きたいよ。」
「じゃ、来ちゃいなよ」
と言うと
「うん、行くよ」
と言ってtakuが教室の後ろのドアを開けて入ってくる。
「えー、きゃー、おー」
などの奇声が教室に響き騒然となる。一部の男子が泣いている。ずっと会いたかったらしい。勿論、学級の生徒にもtakuにもこのことは絶対に誰にも言わないこと、と念をおした。実はこのシナリオがあったので救急車に乗れなかったのである。事故の時も、その後も帰りの遅い自分をtaku君は私の家でずっと待っていたのだ。taku君がいる以上何としても、彼と学級の生徒を会わせなくてはならない。その後で自分が命を落とすならそれでも構わないと本気で思っていた。パーティーも終わりtaku君と一緒に逃げるように自宅に戻った。家に帰っても痛みと吐き気で眠れなかった。翌日、taku君を沖縄便の飛行機に間に合うよう公用車を借りて送り届けその後あまり記憶がない。多分同僚にお願いして病院に連れて行って貰ったと思う。足は打撲だけだった。肋骨と肋軟骨の骨折。吐き気が引くまで3日間の点滴入院になりその後も治療やリハビリに通った。今でもあの事故現場を通るときにtaku君のことを思い出す。taku君はその後も何かにつけて連絡をしてくれる。

イエスキリストの犠牲

自分は骨折程度で済んだけどイエスキリストという人は人を愛するあまり自分を十字架で殺してしまった。人の罪を贖うには罪のない血が必要であったからだ。自分のような無価値な人間の、いや人間未満の存在であるこの不良品のために命を投げ出してしまった。間も無くクリスマスのシーズンである。何故か愛する人と過ごすことやプレゼントが強調されるクリスマス。しかしこの日は無価値でどうしようもない人間未満の自分のために十字架の死に向かって歩まれるイエスキリストの誕生日なのである。世界中の人が、この日にイエスキリストという人、あるいはこのかたの愛に心を向けてくれたら、と願うばかりである。

聖書アプリ

聖書アプリをスマートフォンに導入していただけただろうか。是非特別な年2020年のクリスマスを記念して聖書アプリをインストールしていただきたい。今回紹介したいのは以前同様「YouVersion」という聖書。そして運転中にも聴ける「ドラマ聖書」のふたつである。どちらも無料。YouVersionはオフラインで使用できるがドラマ聖書はネットに接続する必要があるのでその点だけ注意が必要。そマートフォンで「聖書」あるいは「聖書アプリ」と検索するとこの2つは上位に出てくるのでダウンロードしていただきたい。

 

イエスキリストの誕生を思う(その1)

ホームルームパーティー

ゆっくりと、しかし確実にその8トントラックは路肩に避けた自分の車に近づいてきた。車体を回転させながら。「頼むからこの車にぶつからない様に!」と心の中で祈った。本当にゆっくりと時間が流れた。

18年前のちょうど今頃、私は交通事故を経験した。物損事故は2回ほど経験していたが人身事故は初めて。この日は2学期期末試験の最終日、木曜日である。月曜から続いた試験も4日目の木曜日で終わる。この木曜日は午前と午後で全く性格の違う1日になる。午前は試験のために必死に勉強に向かう生徒たちも午後は、夕方から始まるホームルームパーティーのために意気揚々準備に取り掛かる。ホームルームパーティーというのがなかなか理解されないかも知れないが、教室に学級のメンバーが集まりゲームや食事、出し物などをしながら楽しい時間を過ごすというもの。自分はこのパーティーが大好きで毎回全力で取り組む。夏は生徒を海に連れて行き海水浴を楽しみ夕方からBBQを楽しんだ。2学期末は雪も降るほど寒いので教室でクリスマスパーティーをすることにしていた。高校3年生なので学級で行うパーティーは今回が最後になってしまう。3学期は卒業前に後輩たちが色々な催し物を用意してくれる。ホームルームパーティーは基本的に生徒が立案準備を担当するが試験終了直後に行われるため最終の準備が不十分になってしまうことが多い。そのため木曜日の午後は最終準備で結構忙しくなる。この日もあと1時間半ほどでパーティーが始まるという頃になってひとりの役員が血相を変えて「先生、風船を準備し忘れました。今から買ってきてもらえませんか?」と言ってきた。外はすでに雪が降っており積もり始めていた。いつもなら車で20分ほどで買い物ができる隣町に着くがこの雪だともう少し時間がかかりそうだ。本音を言えば風船を使うゲームを他のものに置き換えてそれは省こう、と言いたかった。が、彼女はこのゲームを何日もかけて考えたらしい。何としてもこのゲームをしたかった様なので「分かった。今買ってくるから少し待っていて。」と伝え急いで買い物に走った。かなり雪も強めに降ってきた。隣町までの行き方は3つのルートがある。1つは景色はいいが遠いのでパス。もう一つは平坦な道が続くけど若干距離が長いルート。もう一つは最短ルートだがアップダウンの多いルート。しかもこのルートの途中には地元の人しか分からない凍結ポイントがある。ちょうど冷たい風が吹き抜けるところらしく50mに渡り夕方から凍結する。冬場はこのルートを避け2番目のルートを使うことが多いがこの時は時間が無かったので、ついつい最短ルートである「最高に危険なルート」を選択してしまった。隣町まであと半分という場所にこの凍結ポイントがある。いつもなら凍結している様子は目視できるが生憎この日は雪なので凍結しているポイントが見えない。自分の車はこの坂を登る途中で凍結ポイントを通過する。が、その時坂の上を見てみると8tのトラックが降りてきた。しかも少しスピードが出ている。少し嫌な予感がしたので雪道は登り優先であるが敢えて上りの自分が車を路肩に寄せて止まった。トラックはスピードを落とすために下り始めてからブレーキを踏んだ様子。自分も大型を運転するが雪の下り坂でブレーキを踏むなんて考えられない。しかもトラックがブレーキを踏んだのが凍結ポイント。「あぁ、危ない」と思った次の瞬間にトラックは制御不能状態になっていた。慌てる運転手の顔がはっきり見えた。逆ハンだ、と届かない声で叫んだ。逆ハンを知らないのか、焦っただけなのか、は分からないが勢いよくこちらに向かってくる。「もうだめだ」と思った次の瞬間トラックが自分の脇をすり抜けた。と同時に回転してトラック後部が私の車に遠心力をつけて思いっきりぶつかった。しばらく意識がなくなり、呼吸ができなくなった。

交通事故の記憶

「大丈夫ですか?」と大丈夫でない自分に他の通行人が声をかけてくれた。運転席はドアがあかない。助手席を確認しようとするが前が潰されているので下半身が動かせない。ようやく後ろの座席から人が入ってきてくれた。このころやっと自分でも呼吸している意識が戻った。とにかく首、足、特に胸と腹部に強い痛みを感じていた。誰が連絡してくれたのか警察車両がきてくれた。どうでも良いことかもしれないが、自分には風船を買う使命があるのでそのことが気になって仕方なかった。警察がすぐに救急車を手配した。その間2回ほど嘔吐した。痛いのと気持ち悪いのとで警察の質問にも十分に答えられなかった。今の自分に必要なのはこの痛みと吐き気から解放されて風船を手に入れること、それしかなかった。しばらくして救急車がきた。すぐに名前や年齢を聞いて救急車に乗る様促された。「首を打っている可能性がありますので固定する担架に乗ってもらいます」と言われた。ここで急に思い出した。今は病院に行っている場合ではないことを。「病院にはいけません。担架にも乗りません。」と駄々っ子の様に言った。ここから警官と救急隊員の説得が始まる。「あなたは頭を強打している可能性があります。先ほども嘔吐していましたがこれが事の重大さを示している証拠です。救急車に乗って病院に行かなければあなたは今晩命を落とすかもしれないんですよ。」と言われた。そうかもしれない。その自覚はあった。しかし乗れない。風船のことが理由ではない。自分にはこの救急車に絶対に乗れないとても大きな理由があるのだ。「その、病院に行けないほど大事な理由ってなんですか?命と引き換えにするくらい大事な理由って何ですか?」とかなり強く聞かれた。どうせ理解されない、深い深い理由があるけど絶対に理解されない。でも言うしかないので意を決して言ってみた。「パーティーです」。一同ポカーンとしていた。『はぁ?パーティー?そんなのいつでもいいじゃないですか。」「いゃ、今日じゃないとダメなやつです。」その頃、この地方では今でいう婚活パーティーみたいのものがあった。過疎の地域なので人口を増やすためなのか、人の流出を防ぐためなのか分からないがいたるところにあった看板、「あなたもタイ人と結婚しよう!」という婚活パーティーの案内。どうやら警官と救急隊員はこのパーティーを連想したらしい。まさかホームルームパーティーとは思わないだろう。そんなもの一般的に認知されていないし。それからも何度も説得されたが絶対に救急車に乗らないと拒み続けた結果「本当に死んでも知りませんよ」と言われながら「乗車拒否証明書」という書類にサインをさせられた。そして救急隊員は去って行った。警察も現場検証を終えて帰って行った。私は車をレッカー移動してもらい同僚に迎えにきてもらい風船を買うことなくそのまま学校に戻りホームルームパーティーに向かった。ちなみにこの時の保険会社が双方とも「損保ジャパン」だったがこれがひどい対応だった。内容は書けないがこれだけの事故であったにも拘らず保険金が怪我に対するものだけで車の物損に対しては支払わないと言ってきた。ご承知の通り損保ジャパンは金融庁からの指導を受け保険金不正未払いなどで業務停止などの指導を受けた。自分の事故もその後3度にわたって第三者が入って調べやっと交渉に応じる様な状態だった。今は業務姿勢も改善しているかもしれないが本当にひどい会社だったのでこの事故が一応の解決をした後すぐに別の保険会社に加入した。今でも損保ジャパンに入っている人にあうとこの時の話をして「損保ジャパンはすぐに解約したほうがいいよ」と言っている。

パーティーにて

生徒たちは他の教員から自分が事故に遭ったことを知らされている様だった。だから自分が教室に行くと皆沈んでいたし活気がなかった。そこに事故の当事者が現れたから生徒たちは驚いていた。「大丈夫だんですか?病院に行かなかったんですか?」なかには「死んだと聞きました…」って誰がそんなことを言ったんだ。兎に角例の女子生徒のところに行き「ごめんね、風船が買えなかったんだ」と謝罪した。風船は他のホームルームが分けてくれたから大丈夫だったとのこと。少し安心したが、じゃぁこの事故は何だったのだろう?と思ってしまった。私は声もほとんど出せないので教室の片隅でのけぞる様に座って彼らの楽しむ様子を見ていた。途中とても面白い場面が何度もあった。そもそもパーティーなのだから笑いはつきもの。しかし今の自分には笑うことは全身の痛みに直結する。「頼むから笑わせないでくれ」と言いたくなった。何故こんな思いまでしてこのパーティーに参加しないといけなかったのか。それには自分だけが知っている別のシナリオがあったからだ。  イエスキリストの誕生を思う(その2)に続く

パン職人に!

いきさつ

本校は開校45年を迎えるがその前身は千葉県にて同じ学校名で教育活動を行ってきた。小学校から大学までが同じキャンパス(中学だけ少し離れていたが)にあった。宣教師が設計しただけのことはあり広い芝生のスペースがキャンパスの中央にありそれぞれの建物に向かう小径(サイドウォーク)を生徒たちが行き交う。屋根が高く平家でも二階かと思うほどである。キャンパス内には立派な天文台もあり皇室の方も見学に来られたことがあった。その広大なキャンパスの一角に健康食品を扱う工場があった。そこでは全粒粉を基本としたパンやクッキー、豆乳、肉のような食感のグルテンなどが作られキャンパスで消費する他全国に流通していた。教会では「聖餐式」という儀式が行われる。キリストの最後の晩餐(過越の晩餐)を記念して行う儀式だがその時にイースト菌を使わないパン(実際はクラッカーのようなもの)が使われるがそのパンもこの食品工場で作られていた。今ではかなり有名でどこのスーパーにも多くの種類がおかれている「グラノーラ」などもここで作られていた。しかし建物の老朽化や環境問題で学校ごと移転することになり45年前に現在の場所に移転してきた。しかし移転したのは小学校から高校まで。大学と食品工場は千葉県の他の場所に移転した。そのような経緯があり移転後は食品を自己生産できなくなり外注に頼るようになった。当然パンも外注がメインになった。歴史のいくつかの場面で職人さんが校内のベーカリーでパンを焼いていた時期はあるが基本的には外注していた。それは私たちの学校の姿では無いと、15年ぐらい前に職人を招いて本校の職員がパン職人の研修をすることになった。1年半あまりの修行期間であったがその職人さんも居なくなり、いよいよ研修を受けた本校職員がパンを焼くこととなった。開始当初はそこそこのパンを焼いていたが1年もするとまたパンが外注になってしまっていた。その職員が他の仕事も兼ねており忙しくて手が回らないのが理由だった。折角職人さんに教えていただいたのに勿体無い、と思いながらしばらくそのままの状態になっていた。が、やはりこれは学校の財産の問題だと気づき、当時教頭をしていたが自分が製パンの研修を受けることを申し出た。期間は1年。その間に修行しその技術を他の職員に継承していくシステムを作ろうと思った。これがパン職人を志すようになった経緯である。

研 修

いよいよ製パンの研修が始まった。職人から習った本校職員が教えてくれる。一度に食パンを15本(45斤)ぐらい焼くので材料はミキサーを使って混ぜ、こねる。グルテン質が出てくるまでこねるのだが温度が高くなってはいけない。途中で温度を確認しながら生地がガムのように伸びる頃合いを見計らって作業を終える。因みに本校のベーカリーで使うのはもちろん強力粉であるがかなりの割合で全粒粉を使う。またドライイーストではなく天然酵母を使う。「ドライイーストを使いたいな」と思うことが何度もあった。天然酵母はホシノ酵母などの既製品を使うのではなくレーズンを発酵させて作る、所謂自家製天然酵母である。毎日2,3回発酵の状態を確認しながら一番良い状態の酵母を使う。まさに酵母を育てるのだ。また使う酵母が決まったら今度は全粒粉に混ぜて種作り。この種が半日強で膨らめば美味しいパンの出来上がりが期待できる。だからパンを焼きたいと思ってもその前の工程が約1週間ぐらいかかるので、1週間先の作業を見越して仕込みをしなくてはならない。ドライイーストなら焼きたい時にいつでも焼けるし発酵ムラもない。最初は何度も失敗した。もともと才能がないことは分かっていたが失敗が続くとやはり落ち込む。しかし自分がパン職人にならなければこの学校のパンの文化は継承されなくなると心に言い聞かせ頑張った。本を読みなぜうまく行かなかったのか、その原因を探った。食パンの次に覚えたのがカンパーニュ。これは考え方によっては食パンよりも優しいのではないかと思った。食パンにしても何にしても全てのパンに手ごねの過程がある。この手ごねの技術を習得するのにも結構な時間がかかった。空気を抜くだけでなく慣れてくると生地の感触からどのようなパンになるのかが想像できた。手の感触で「あ、少し硬い」と思ってもこの段階での修正は効かない。「失敗かも」と思ってもとにかく焼き上げるしかないのだ。因みに自分はパンが大嫌いで自分から進んで食べることはない。焼きあがったパンの試食をして味を確認したこともない。別の人に味見してもらい意見を聞く。正直な気持ちはパン職人ではなくそば打ち職人を目指したかった。

良いパンを焼くために

1年の研修期間を終えてまた教頭職に戻った。が、製パンはそのまま続けた。毎日空いた時間にパンを焼いていたのだがほとんどんが夜中に作業をすることになる。またその頃から同僚で製パンを学びたいという人が数名いたので協力してもらい作業をしていた。生地を作る作業だけは人に任せられなかったがそのほかの工程は任せていた。同じ材料、同じ方法で作っているが毎回違ったパンが焼きあがる。勿論酵母の状態が良い時期と悪い時期という季節的なものもあるがそれ以外の要因でも違ってくる。生徒に提供するパンなので素人ながら少しでも美味しく健康的なパンを目指すのであるが毎回同じようにはできない。パンがまさに生き物であることを物語っているようである。拙い経験しかない自分が言うのもおこがましいが、少しの「まぁ、いいだろう」が各工程にあるとそれは最終的にとても大きな妥協になってしまう、ことを学んだ。どの工程においても「これで大丈夫」と言えないと最終的に美味しいパンにはならない。また作るとにきは生き物を扱うように愛情を込めることも美味しいパンを作るのに大切な要因だと思う。少し気持ちが苛立っている時に焼いたパンは決して美味しいパンには仕上がらない。また時間にゆとりがない時は決してパンを作らないようにしている。パンは生き物であるからこちらが急いでいる様子が伝わってしまう、そのように感じることが多い。パンは決して急いで作ってはいけない、これは常に守っている。パンの種類や数量によって焼き上がりまでの時間は異なるが必要時間の1.2倍の時間がない時には決して作らないようにしている。工程に4時間かかる時は5時間弱の作業時間が無いと作れない。

パンと教育

パンを作っていて常に考えていることがある。それは教育の働きとパンを作るプロセスが似ていると言うことである。パン、特に本校のように自家製天然酵母で作るパンの場合思いつきではできない。事前に良いプランを立てそれに向けて最低1週間以上前から準備する。愛情をかけ決して焦らず、こちらにいつも時間的精神的ゆとりがあることをパンに示すことが良いパンを作るコツだと思っているが教育現場でもこれと全く同じ理屈が通じる。生徒を思いつきではなく良く見極める。特にその良い部分を見極めるところからスタートする。時間をかけて準備して愛情を注ぎ続ける。どのような時にも寄り添えるように時間的、精神的ゆとりを必ず持って接する。これを繰り返すことが教育では不可欠である。パンを作るようになって大切なことをたくさん学ばせてもらっている。これからも製パンの奥深さから多くのことを学ばせてもらえることだろう。

うまく行かない人生

何で自分だけ

なかなか思い通りの道が開かれず、いつも自分だけ損をしているように感じる。何で他の人はうまく行くのに自分だけうまく行かないのだろうか?自分の人生の8割は喜びがなく試練を耐える日々、なぜ他の人のように幸せになれないのだろうか。特に凄い人生を期待しているわけではなく人並みの平凡な幸せがあれば十分である。しかし自分にはそれが与えられない。そのようなことを考えることが多い。で、行き着くところ「自分は神からも人からも必要とされていない存在なのだ」と思ってしまう。これが繰り返されるのでとても辛く生きづらい。これを読んでくださっている方にも同意してもらえるのでは無いかと期待している。しかし全然違った発想をすることもできる。その発想をするためには聖書の知識が少しだけ必要になる。

ヨブの場合

聖書をダンロードして読んでくださったであろうか?youversion或いは「聖書」と検索すると出てくるはずである。是非ダウンロードして聖書を読んでいただきたい。聖書の中に「ヨブ記」というところがある。ヨブという実在の人物に関する記録を綴ったところである。ヨブという人は正しく神様を心から信じ悪いことをしない人物であった。男の子7名、女の子3名の子どもがあり家畜は羊7000頭、ラクダ3000頭、牛500くびき、雌ロバ500頭、また多くの僕を抱える裕福な家庭を築いていた。

ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。

彼に男の子七人と女の子三人があり、

その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。

そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。

そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。

ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。

主は言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。

主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。

サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。

あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。

しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

主はサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンは主の前から出て行った。

ヨブ記1:1-12

サタン(悪魔のかしら)はこのヨブの本性を暴くことを、彼のことを信頼している神に許可を得ている。もしもヨブに与えているものを全て取り上げたらヨブはあなた(神様)など信じるわけがない。あなたを信じることが利益に繋がるから信じているだけなのだ、とサタンは主張する。即ちヨブの信仰は「ご利益(ごりやく)信仰なのだ」と神様に言うのだ。「ならば彼から全てのものを奪ってみるがよい。それでも彼はわたし(神)を信じるはずである」と神様が反論。こうしてヨブから次から次へと子ども、家畜、その他の財産が全て取り去られて行くのだ。神様はヨブを信頼しているので全てのものを取り去ることを願ったサタンに許可を与えた。

ペテロの場合

新約聖書にペテロという人物が出てくる。元々はガリラヤ湖で漁をして生活を支える人物である。向こうっ気が強く弟子の中でもいつも出しゃばる人物である。それでいて失敗の多いペテロであるがイエス・キリストは彼をこよなく愛した。また信頼していた。イエス・キリストが復活後しばらくして天に帰られて以降使徒たちの中心的な人物として熱心に伝道活動をし殉教する人物である。このペテロやその他の弟子たちに対してサタンは攻撃を仕掛けようと神様に許可を得るのである。

シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。

ルカによる福音書22:31

サタンは人を試す(試練にあわせる)時に神に許可を得るということがヨブやペテロの記事から確認できる。神様は彼らを信頼しているために「試練を与えても大丈夫」と判断されるというのだ。

今の自分の当てはめてみると

自分の生活が試練だらけで幸せなどとは程遠いということは、この聖書の意味をそのまま理解するならそれは「神様から信頼され、サタンが試練を与えても大丈夫」と判断されているということになる。また神様は自分たちの限界を知っておられるので耐えられる試練までにしておけとサタンに命じるというのだ。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。Ⅰコリント10:13

神様から信頼されているからこれだけ多くの試練がある、と考えることもできる。キリスト教信仰の魅力はこういうところにある。

洪水伝説

イエスの涙

聖書の中にイエス・キリストが泣かれる場面が何箇所かある。例えば友人ラザロが亡くなったとき。イエスはこのラザロを復活させられるがその前に涙を流された。また滅びゆくエルサレムを前にして泣かれた。神が魔法使いで自分が考えた通りに何でもできるとするならば嘆かわしい状況に対して泣く必要は無い。イエス・キリストは100%神であるがまた一方で100%人間であることが、この「泣く」という動詞から理解できる。あれほど救いたかったイスラエルの民がメシア(救い主)であるイエスを拒否したためその救いの対象が異邦人(イスラエル人以外の人間)にまで拡げられた。異邦人を救うこともイエスキリストの願いであったがイスラエルの人々を救うこともまた悲願であった。それまで奴隷生活をエジプトで送っていたイスラエルの民を救い出すためにモーセというリーダーを選出した。モーセとその兄アロンが初代リーダーとなって200万人とも言われる大群衆を導き約束の地、カナンまで逃れる。途中で色々なこと起こるがその都度神様はイスラエルの民を訓練し、許し、また裏切られるということを繰り返した。それでもイスラエルの民を何とか救いたく長く忍耐し続けた。イスラエルの民に対する特別な思い入れがあるからではない。アブラハムとの約束を果たすためである。この民を何とか救いたい、それが神様の御心なのだ。イエスの時代、即ちAD1世紀のユダヤ人も神様が与えたイエス・キリストという人物には懐疑的でそのメシア性を認めようとしなかった。何とかそれを理解できるようイエス・キリストも大変な努力をされるが多くの場合それが実を結ぶことはなかった。愛する民が滅びゆく現実にイエスは彼らを慈しみ、愛おしんで泣かれた。

ノアの箱舟

ノアという人物がいる。「ノアの洪水」或いは「ノアの方舟(はこぶね)」という言葉からノアという人物を知っている方も多いと思う。そのような名前の車があったように記憶している。ノアにはセム、ハム、ヤペテ、という3人の息子がいた。ある時神様はノアに方舟を作ることを命じるのである。そのころの人類は非常に乱れており特に不品行、不道徳がまかり通る時代だったので神に従わない人間を洪水で滅ぼすことを決めた。また神様が最初に創造された動物たちも種を超えて交わるようになり、天地創造の時に創られた動物以外の無秩序な交配によって生まれた生物がたくさんいた。これらを一掃するが神様に従う人間と、神様が最初に創られたオリジナルの動物は残したくノアに洪水から逃れるための手段として箱舟を作るように命じたのである。箱舟のサイズや作り方は神様が事細かに指示した。そのことは聖書に記録として残っている。ノアは指示通り木を切り出して方舟を作るが完成までに120年かかる。気の長い話である。その間、ノアは方舟を作るだけでなく人々に間も無く洪水でこの世が滅びること、この箱舟に乗りさえすれば神様によって守られ命を失うことはないと教えた。3人の子どもたちと協力して船を作りメッセージを伝え続けた。120年間も。実はこの時の人類はまだ雨というものを知らない。雨というものを体験したことがないからそれによって(実際には雨だけでなく地中からも水が沸いて洪水となる)洪水が起こるなど信じることができなかった。来る日も来る日もメッセージを伝え続けるノア家族に対して、彼らをバカにし罵声を浴びせる周囲の人々。昨日も雨なんて降らなかったから今日も降らない。そう思ったのかもしれない。しかし神の時は必ず来る。ある日色々なところから動物たちが整然と自ら動いて箱舟に入って来た。その様子に周囲の人も驚きながらも「まさか洪水なんて」と思った。そしてノアと3人の子ども、更にそれぞれの奥さんの合計8名が箱舟に入ると扉が閉められた。この扉はノアが中から閉めたのではない。神様が外から閉めたのである。そしてそれから40日間雨が降り続いた。結局箱舟の扉が閉められてから1年ほどで彼らは箱舟を出ることができた。新しい人類はこの8名からスタートするのである。

化石の問題

一応理科の教員免許を持っている立場から言わせてもらうと、化石は長い時間を掛けてできるものではない。よく化石のできる過程を説明する本に、まず生物が死んでその上に何百年、何千年という時間をかけてゆっくりと堆積物が積もることで化石ができると書いてあるが全くのナンセンスである。遺骸があればそれを食べる動物がいる。それを分解する生物がいる。堆積の途上で強風に晒されたり水に流されたりする。長い年月、同じ場所に生物の遺骸がそのままの状態を保ってそこにとどまり続けることは不可能なのである。化石ができる条件は非常に短時間にとてつもない大きな力(圧力)が加わることなのである。化石が色々な場所で見つかることからノアの洪水が局地的なものではなく地球規模の洪水であったことがわかる。以前、専門家の先生にご指導いただき米国に恐竜の化石を探しに行った経験がある。米国のグランドキャニオンやモニュメントバレーは洪水の水がひいたときに大地を削った跡だと説明された。世界のいたるところに洪水の爪痕が残っているのである。

現代版ノアの方舟

いよいよ終末が近づいていることが色々な観点で叫ばれる昨今、例えば南海トラフによる地震一つとっても大変な出来事が間も無く起こることは予想できる。しかし現実的にはそのために備えることはせいぜい家庭用の避難グッズ程度。聖書は明確に世の終わりを預言しているし、そこから逃れる唯一の道、「イエスキリストを信じる」という逃れの方法も教えている。しかし世の人々はこれには全く関心を示さない。日本に至ってはクリスチャン人口1%程度。イエスキリストはこの状況をどのように見ているだろうか。「日本人はやっぱりダメだな。でもアメリカ人やフィリピン人、韓国人はイエスを信じる人が多いから彼らがいるから良しとするか」と思っているだろうか。前述の通りイエスは泣かれる神である。愛する日本、日本人のために、彼らの滅びに対して泣いておられる。いかにして日本人にイエスキリストを伝えることができるのかと考える毎日であるが、もしもこの文章を読んでくださる方がいれば是非ともイエスキリストという人を知ってほしい。そのために聖書を読んでいただければ幸いである。聖書は安くても3000円程度、高価なものになると1万円以上する。しかし現代は聖書のアプリというものが存在する。幾つもあるので無料のものを是非ダウンロードして読んでいただきたい。色々な読書プランなどを組んでくれるプログラムもあるので個人的には「YouVersion」というアプリがおすすめである。日本語訳にもいくつか種類がある。新共同訳、口語訳、リビングバイブルなどがある。わかりやすいのはリビングバイブルかもしれない。また英語版もダウンロードできるようになっているので是非試していただきたい。聖書に親しんで、あなたのことを心から愛しあなたが滅んでしまうことに心からの涙を流す神様に出会っていただきたい。

「情報」免許取得の道のり

高校の指導要領が変わる

今から20年近く前、正確には2003年頃だったと記憶しているが高等学校に新しく「情報」という教科が導入された。どうでも良い話であるが「教科」と「科目」という言葉は一般に混同して使われることが多いが教育現場ではこれらを使い分ける。例えば「教科」といえば理科でありその中に「科目」である「物理基礎」「化学」などである。「芸術」という教科に「音楽Ⅰ」や「工芸」と言った科目がある。即ち2003年からスタートした「情報」は「教科」であり「科目」ではない。「情報」という教科を全ての高等学校は設置しなくてはならないしこれを「生活実習」など他の科目で補うことも許されない。「情報」という教科には「情報A」「情報B」「情報C」という科目が当時存在した。他の多くの学校が導入したように本校も「情報A」を導入した。そこまでは何でもない話であるが大きな問題が2つあった。ひとつはハードの問題。情報教育というからにはそれに相応しい設備が必要だ。それほど余裕のある学校ではないがふたつの教室をひとつにつなぎ、当時としては斬新だった光回線を導入した。IBMのデスクトップやノートパソコン、教員用のコンピュータやサーバーの設置などを行った。当時としてはかなりの設備投資であり他校に先駆けて導入したため同県の学校から何名も視察に来られた。とりあえずハードは整ったが次の問題はソフト。教える教員がいないのだ。教える技術はあっても免許を持っている教員がいない。というかそもそもそのような免許が存在していなかったのだ。そこで県教委は対策として3年間に渡り「情報」の教員免許を講習と試験で取得させるようにした。期間は夏休みの3週間。この講習を受ける人は恩恵もあるが大変だと思った。自分は物理や数学、そのほかの授業で20コマ近く教えており教員の中では教えるコマ数が最も多かった。だからのんびり構えていたがある日突然校長先生に呼ばれ「今年の夏休みに教員免許を取りに行ってもらうから」と軽く言われた。夏休みはダイビングの計画もあったし釣りやキャンプにも行きたいのに…。少しだけ泣きそうになった。

講習開始

そんなことを言っても仕方がない。命令だから気持ちを切り替えて頑張るしかない。講習は毎日9時から17時まで、昼に1時間の休憩がある。講習開場が家から2時間ほどかかる場所だったので通うのは難しいと判断し寝泊りだけできる施設を学校が用意してくれた。それだけでもありがたい。コンピュータは毎日扱っていたがまだまだ手書きの時代である。成績表の所見や学籍簿、調査書など学校のフォーマルな書類は全て手書き。コンピュータは自分で発行する学級通信や授業資料を作成するために使う程度。しかも私が使うのはMac。今のようにAppleがメジャーではない時代、30年ほど前からずっとMac一筋でやって来た。だからWindowsマシンというものを殆ど触ったことがない。なのに講習はWindowsマシンは当然使えますね、というところから始まる。理解できる授業もあったが半分ぐらいは理解できなかった。そして何と言ってもきつかったのが毎日出る宿題。その殆どがHTMLで書くような課題で意味がさっぱりわからない。一日の授業が終わるとすぐにネットカフェに行きそこに入り浸る。とにかく宿題を終わらせないといけない。宿題の意味をネットで探すところからスタートするわけだから日付が変わっても終わらない。粗末なできだがなんとか終わらせて宿に戻るともう2時。そのような生活を続け金曜日になると自宅に戻る。最初の1週間で5キロ痩せた。形相も変わった。しかばねの顔になっていた。これをあと2週間も続けるのかと思ったら涙が出てきた。日曜日の夜に宿泊施設に戻る。車で行くのだが足が進まない。2時間で行ける距離だが途中で何箇所も寄り道をする。6時間以上かけて戻った。翌月曜日からまた地獄の授業。同じことが繰り返された。この週はプレゼンをすることが多かった。10名ぐらいのグループでひとりずつプレゼンをして行く。他の人のレベルの高さに圧倒される。そして例の宿題地獄は続く。生徒が宿題を出されてどれだけ嫌な気持ちになるのかよく分かった。この週もなんとか乗り切った。金曜日の夕方に自宅に戻った。翌日土曜日は地元の花火大会が開催された。田舎にしてはかなり盛大な花火大会で県内外から多くの人が訪れる。ふさぎ込んでいても仕方ないと花火大会に行った。綺麗な花火だったのを鮮明に覚えている。この花火が終わったらまた地獄が始まる、と思ったらまた涙が出てきた。そして日曜日。夕方から宿泊施設に戻った。前週同様2時間の道のりを嫌々6時間かけた。「よし、最後の1週間だ。」という気力はない。とにかく1日1日が地獄なのである。慣れることもなく新しい試練が怒涛のごとく押し寄せる。何度も挫折しそうになった。というか挫折したが講習はそれを許してくれない。講習の後半で気付いたのだが、最初は教室いっぱいに生徒(授業を受ける我々教員)がいたが最終週は1/3ぐらいが空席になっていた。因みにこの講習は1日でも休むと教員免許は発行されない。体調不良など許されないのだ。鬼の県教委、いつか襲撃してやると心に誓った。それでも時間が過ぎ最後の試験まで漕ぎ着けた。試験も小論文形式の問題だったように記憶している。易しくはなかった。結果などどうでも良かった。とにかくこの空間、この縛りから解放される喜びを早く味わいたかった。

プレゼント

全ての講習を終え、宿に戻って帰る支度をしようと思ったが急に毎日通ったネットカフェが懐かしくなりまた行ってみたくなった。ネットカフェにくる度に嫌な気持ちになっていたけど今日は違う。同じ景色なのに全く違う場所に映る。中にこそ入らなかったがお店に前で「今までありがとう」と小声で言ってみた。ヤバイ人である。それから少し街中を歩いた。いつも俯いて下ばかりみて歩いていたから気づかなかったがデパートのディスプレーも夏物から秋物に変わっていた。何の気なしに好きなROLEXの時計を扱うお店に入ってみた。それまでROLEXのGMTマスターという時計を使っていたが同社のシードゥエラーという時計がずっと気になっていた。今のように正規店では殆ど見かけられない、という時代ではなかったのでそのお店にもあった。価格も現在のような値段ではなく50万円ほどだった。それをみながら「欲しい、買いたい」という気持ちが募っていった。「このままでは衝動買いしそうだ。まずい…」一度落ち着こうと近くに喫茶店に入ってよく考えてみた。が、買う理由しか頭に浮かばなかった。そして最終的に自分を納得させた理由が「これだけ頑張ったから自分に何かプレゼントをしないといけない」だった。カード払いが嫌いなので近くの銀行でお金をおろし先ほどのお店に戻った。そしてそれを購入した。あれから20年近く経つが今でもあの時のROLEXは自分の腕につけられている。

ROLEX SEA-DWELLER

蛇足でありがこのシードウェラーはクロノメーターである。クロノメーターは手巻き、自動巻の時計に対して与えられる品質保証である。特にその精度が正確であるものに対して与えられる。私のシードウェラーは自動巻きであるため腕につけたままである。夜眠るときだけ外す。時刻合わせは小の月から大の月に変わる時だけで十分。今回は10月1日に時刻を合わせ12月1日にもう一度合わせた。60日ぶりの時刻合わせだが30秒までは狂っていなかった。そこそこの上等なクォーツ時計でも2ヶ月で1分ぐらいは狂う。なのに自動巻、機械式でこの精度である。ROLEXの技術力恐るべし。時間を知るために時計を見るたびのこの辛かった講習を思い出す。そしてどんなに辛いときでも「きっと今度も乗り越えられる」という勇気をもらえる。

ストッキング事件

恐ろしかったこと

卒業式前の様子

新任の頃、初めて迎える卒業式。中学の教員として初めて迎える卒業式だったが勝手が分からず自分が動く分だけ誰かに迷惑を掛けてしまう状態だった。本校の卒業プログラムは金曜日から3日間続く。金曜日の「卒業献身会」土曜日の「卒業礼拝」およびその夜に行われる「これまでの3年間を振り返る会(通称ハイライト)」、そして日曜日の「卒業式」。連日行われる性格の違うフォーマルな式典なので準備も様々で、先輩の先生に指示をしていただきながら卒業プログラムに備えた。また、当時卒業アルバムの他に3年間の一人一人の歩みを綴った文集と写真集をプレゼントしていた。全て教員による手作りなのでこの作業がとても大変。卒業前から製作にかかるがそれでも卒業式前は徹夜になることも珍しくないという。全体像が見えない中言われたことをひたすらこなす毎日が続いていた。そしていよいよ卒業プログラムが始まる前日、木曜日の夜にとんでもないことが起きた。全ての教員が自分の役目を果たすべく一生懸命に仕事をしている中である先生が私に「女子生徒のストッキングの準備はできていますか?」と確認して来た。これは既に指示されていたので準備したことを伝え確認していただくために現物を見ていただいた。すると
「あれ、数が少ないですね。これで卒業生と在校生全員分ありますか?」
と言われた。
「え、在校生の分もですか。私が用意したのは卒業生の分で在校生のは用意していません」
と答えるとその先生が急に青ざめ
「それはまずいよ。先生、今から何とかして」
と言われた。ストッキングなら何でも良いわけではない。本校指定の色があり、学校から1時間ほど車で行った制服屋さんに行かないと本校の指定ストッキングは買えない。

制服屋さんに

その時点で時刻は21時を回っていた。とりあえず制服屋さんに電話したが当然お店は閉まっており返答はない。仕方がないので会社ではなく社長さんのご自宅に電話してみると幸い連絡が取れた。事情を話すと人の良い社長さん自ら店舗に出向いて店を開けるからそこまで取りに来て欲しいとのことだった。お礼を述べ直ぐに制服屋さんに直行した。とんでもない失敗をした反省と、まだまだ学校に戻ってやらなくてはならないアルバム作りのことで落ち込んだ。とにかくやらなくてはいけないことを一つ一つ確実にこなさなくてはならない。制服屋さんには23時頃到着した。夜遅い時間なのに社長さんが待っていてくれた。本当に申し訳ない。在校生のストッキングを受け取り帰路についた。制服屋さんから学校まではいくつかのルートがある。どの道も距離はほとんど同じである。海沿いを走って後半山を上がっていく道、最初からダラダラと山を登っていく道等々。少しでも早く帰れるようにと車通りの少ない、最初から山道を登っていくルートを選択した。帰ったらどの仕事を優先しようか、でもストッキングを頼まれたときは確かに卒業生の分と言われたよな、など色々なことを考えていた。街灯も無い車のライトだけが頼りの寂しい道である。兎に角1秒でも早く帰らないといけないので恐らく法定速度を超過するスピードで走っていたと思う。

怪しい車との遭遇、そして生還

学校まであと半分、という地点に来て気づいた。少し前から眩しいと感じていたが後ろの車がハイビームで近づいていた。眩しいのでルームミラーの角度を変えそのまま走行していたが後続車はどんどん近づいてくる。この時間にこの道を通る車は珍しいので異様な雰囲気を感じた。こちらも引き離そうと少し速度をあげた。すると更に速度をあげて近づいてくる。そして完全に自分の車の3mぐらい後方をぴったりくっついて、しかもハイビームで走行して来た。今で言うところの「煽り運転」だ。ミラーで確認すると黒塗りの車だった。急に背筋が凍る気持ちになった。自分が住んでいる県は全国でも比較的有名な任侠的な組織があり県庁所在地に行くとそのような方々を見かける。しかも数週間前にある事件が起きていた。任侠的な人が別の任侠的な人と争い殺されその死体を地元では有名な海岸に埋められたという事件。間違いない、後ろの車は893だ。山の細い道ということもあり車線は追い越し禁止の黄色車線。兎に角急いで少しスペースのある路肩に車を止めて後ろの車をやり過ごした。無事、自分の車を追い越してくれた。「助かった」という気持ちになった。そしてまた車を走らせると何と先ほどの黒塗りの車が今度は20km/hぐらいの低速で走行している。「えぇ!」と声が出た。自分の車が遅かったので煽られていたのではなかったのか?兎に角その低速車の後ろをついて行くしかなかった。しかし自分は1秒でも早く学校に戻って仕事をしないといけない。しばらくはこの低速に付き合ったが我慢できなくなり追い越した。そして逃げるように速度をあげて走行した。「やっぱり」嫌な予感は的中した。後続車はすごい勢いでしかも今度はパッシングしながら自分の車の直ぐ後ろについた。「これ、殺されるやつだ」と何と無く直感した。そして後続車はしばらく煽って勢いよく自分の車を追い越ししばらくするとまた20km/hの低速になる。このようなことを3回ぐらい繰り返した。そしてついにこの車が止まり、自分も止まらされた。「殺される」、本気で思った。黒塗りの車から運転していたチンピラ風の男が出て来てとても怖い形相で矢継ぎ早に何かを行って来た。地方の言葉だったのでよく理解できなかったが、雰囲気は「てめーぶっ殺すぞ!」だった。そしておもむろに後部座席に座っている親分と思しき人に「どうしますか?」的な質問をしていた。とりあえず胸ぐらを捕まれた。殺されると思ったが自分には一つだけ心に引っかかることがあった。これが事件になってテレビや新聞で報道された時、どういう風になるんだろう。「私立学校の教員、謎の死。胸を刺され死亡。車の後部座席には大量の女性用のストッキングが。ストッキングをめぐるトラブルか?」そうだ、今車にはストッキングが大量に入っているんだった。ここで死んだらただの変質者になってしまうかもしれない。親の名誉、学校の名誉のためにもそれだけは絶対に避けたい。もはやこれまでか、というときに考えたのはセーヌ色のストッキングのことだった。絶体絶命という時に後部座席から「おい!」という声がしてそのチンピラは手を離した。「おぉ!助かるのか?」と期待した。そしてそのチンピラが「この黄色い線はどういう意味かわかるか?」とおかしな質問をした。震える声で「追い越し禁止です」と答えると「おまわりのいうことを聞かなくちゃダメだろ」と叱って来た。言っておきますが最初に黄色い線を超えたのはそちらですから。何とか任侠的な人から解放され震える自分を落ち着かせてから再度運転した。そして学校に戻った。まだ数名の先生がアルバム作りに奔走されていた。「お疲れ様」「遅かったね」など労いとも嫌味とも取れる言葉をかけてくださった。「実は殺されかけたんです」と言ったところで誰も信じないだろうし、精々「どこかで休んで来たんだろう」ぐらいにしか思われないだろうから「すみません。眠くてゆっくり走ってしまいました」とだけ伝えた。今は笑い話だけどあの時は本当に自分の最期を覚悟した。それでも生きなくちゃいけないと思わせてくれたのがあのストッキングだった。

むっちゃんとおばあちゃん 2

2学期最初のお見舞い

夏休みが終わって2学期になった。新学期早々むっちゃんが来て「先生、おばあちゃんのところに行きましょう」と言った。彼女もずっとおばあちゃんに会いたかったようだ。直ぐにおばあちゃんのいる病院に行ってみた。ところが…おばあちゃんのベッドには誰もいなかった。病室が変わったのか或いは退院したのかと思い看護師さんに聞いてみた。するとおばあちゃんは容態が悪くなり遠くの大きな病院に転院したとのことだった。容態が悪くなった?、肝臓の数値が悪いだけじゃなかったのか?少しだけ嫌な予感がしたがそのまま1時間ほど離れた病院に行ってみた。おばあちゃんがいた。久しぶりに見るおばあちゃんだったが7月に見たおばあちゃんとはかなり違う。黄疸が出ており素人目にも状態が良くないことは理解できた。しかもベッドで起き上がることもできず、少し目を開けてか細い声で「むっちゃんかい?よく来たね。会いたかったよ。」と言った。むっちゃんも何かを悟ったのか努めて明るく「おばあちゃん、とっても会いたかったよ。でもおばあちゃんの顔を見ることができて安心したよ。」と話した。おばあちゃんの様子から会話ができる状態でないことは良くわかった。なので少しの時間、おばあちゃんの耳元で夏休みの出来事などを話した。目を閉じながら、でも時々軽く頷いてむっちゃんの話しを聞いていた。5週間の夏休みがおばあちゃんをこんなにも変えてしまうことを痛感した。病院が遠くなったこともあり前ほどお見舞いには行けなくてなったがそれでも2回ほどお見舞いに行った。いつものようにおばあちゃんは目を瞑って時々頷く状態だった。お見舞いの帰りには毎回「おばあちゃん、そろそろ帰るから」と言ってむっちゃんは讃美歌を歌ってそのあと枕元でお祈りをした。讃美歌を歌うと毎回おばあちゃんは頷きながら涙を流した。1学期とは違ってお見舞いの帰り道が何とも重苦しい雰囲気に変わった。

体育祭の日

盛り上がる学校行事の一つが「体育祭」である。所謂運動会。勿論運動の苦手な生徒もいるので全員が楽しんでいるわけではないと思うが、本校の体育祭は色々な性質の競技があり運動が苦手でも楽しめる。徒競走では普段見ることのできない生徒の緊張した表情を写真に収める事が出来た。クラブ対抗リレーはもはやパフォーマンス大会。各チームが真剣に練習したダンスを基本とした応援合戦。全員が必ず50m以上を走らなくてはならない全員リレー。そしてホームルーム対抗の「先生万歳!」。担任がバトンとなり2人3脚、3人4脚、馬跳び、大縄跳び、タイヤ引きなどとにかく担任が倒れるくらいハードなリレー等々。何度も練習した甲斐あって先生万歳では私たちのホームルームが優勝した。体育祭の夜は任意ではあるがほとんどの学級で「お疲れ様会」のクラスパーティーを行う。勿論私たちのホームルームもパーティーをしたのだが、会の最初で少し胸騒ぎがして「今日のうちにおばあちゃんのところに行っておいたほうが良い」気がした。むっちゃんの他におばあちゃんと知り合いだった生徒が3名いたので、クラスリーダーにパーティーを任せて私たちはおばあちゃんのところに出かけた。1週間ぶりだったが明らかに弱っている。肩で呼吸をするようになり意識もない状態。病室に入って「むっちゃんが来たよ」と言ってみんなで枕元を囲むように集まった。少し辛そうにしているので生徒たちが背中と足をさすった。苦痛の表情を浮かべる意識のないおばあちゃんに向かって彼女たちはいろいろなことを語りかけていた。「おばあちゃん、今日は体育祭があったんだよ」「むっちゃんのホームルームは1番になったよ」「おばあちゃん、なかなか来られなくてごめんね」などと語りかけた。時々おばあちゃんは痛みに顔を歪めるような表情をして「うぅー」と苦しそうな声を出す。私は耐えきれず、看護師さんのところに現状を話しに言った。「おばあちゃんが苦しそうにしている。痛み止めなどを打ってもらうことはできないのか」と。年配の看護師さんだったが「あぁ、あのおばあちゃんなら苦しそうな顔をしてももう意識はないから痛みも感じていないはず。今からする処置もないからそのままにするしかない。」と言った。そしてその時おばあちゃんが肝臓癌であることも聞いた。痛みがあるかないか本人じゃなければ分からないはず、と何ともこの看護師さんの対応が無慈悲で癪に触った。因みに、この看護師さんとのやり取りで医療者の意識、心の持ち方をきちんと教育する必要があることを感じ、医師や看護師になる生徒が多い本校に、医療コースを設置することを決めた。どのような状況であっても医療者は最期の最期まで患者さんとその家族に寄り添わないといけないと痛感する出来事だった。おばあちゃんの様子を見ていてそう長くないことは理解できた。今晩か明日か、そのぐらいの長さだと直感した。このままずっと病室にいたいのだが彼女たちの門限があるのでそろそろ帰らなくてはならない。でももしも今晩おばあちゃんが息をひきとるような事があれば誰にも看取られずひとりになってしまう。とにかくおばあちゃんがひとりで寂しくならないよう「おばあちゃん、今日はみんなでここにいるから安心してね。」と耳元で言い、おばあちゃんの好きな讃美歌を3曲歌ってお祈りしてもう一度「みんなでここにいるよ」と言い残してそっと病室を出た。みんな泣いていた。帰りの車の中、1時間の道中であったが誰も口を開く事なくおばあちゃんのことを考えていた。彼女たちを寮に送り、パーティーを仕切ってくれたリーダーにお礼を言いに男子寮に行った。そしてその晩は寝たが早朝の電話で起こされた。おばあちゃんが朝5時前に、イエス様の再臨を待ち望みつつしばらくの眠りについたことを知らされた。すぐにむっちゃんたちにも報告した。私たちが病室を去った8時間後におばあちゃんは亡くなったのだ。本当に悲しいお別れになってしまった。翌日、おばあちゃんの亡骸が本校のチャペルに帰って来た。ご親族が本校での葬儀を希望されたからである。葬儀にはむっちゃんも参列していた。むっちゃんにとっては本当のおばあちゃん同様の存在で、彼女の心の支えでもあった大切な方だ。おばあちゃんと出会って約半年間。とても良い交わりをさせていただいた。むっちゃんにとってどれほど大きな出会いだったか分からない。またおばあちゃんにとっても、神様が与えてくださった濃密な半年間だったに違いない。前日心に誓った通りそれから約4年の準備期間を経て本校におばあちゃんを記念するかのごとく医療者進学コースが誕生した。現役医師や看護師、PTなどによるレクチャーもたくさんあり、病院実習もするかなり本格的な授業だ。このコースを設立するのは非常に困難で障害や妨害も多かったがおばあちゃんのこと、そして病院で出会った看護師のことを思いながら何とか開設にこぎつけた。毎年、このコースのオリエンテーションでおばあちゃんとむっちゃんの話しをすることにしている。ジェラール・シャンドリーという人が次のような言葉を残している。

一生の終わりに残るものは我々が集めたものではなくて我々が与えたものである。
ジェラール・シャンドリー

おばあちゃんは最後までむっちゃんに与え続けてくれた。そしてクリスチャンとしての立派な人生を全うされた。イエス様がご再臨される時おばあちゃんとむっちゃんは再会する。その時何を話すのだろう。「あの時の葛餅、蒸しパン、みんな美味しかったよ」とむっちゃんの手を両手で握りながらおばあちゃんは大喜びでむっちゃんと再会するのだろう。死別はとても寂しく悲しいものだが再会の希望があるのはクリスチャンの特権だと思う。今でもむっちゃんとおばあちゃんのことを思い出すと涙が出てくる。本当に素晴らしい出会いを経験させてくださった神様に心から感謝したい。

むっちゃんとおばあちゃん 1

むっちゃんとの出会い

それまで沖縄にある系列中学校で教員をしていたが元の古巣に戻るよう辞令があり高校教員に戻った。沖縄に転勤して数年が経っていたので知っている生徒といえば沖縄の中学校から進学した10名ほどの生徒だけだった。少し心細かったがやるしかないと腹を決めた。与えられたのは高校2年生の担任。その中の数人は沖縄の中学校出身だったので知った顔もあり少し安堵した。が、最初の申し送りで言われたことがあった。「先生の学級にむっちゃんという生徒がいます。彼女は生徒指導を受けて4月から戻ってきます。最初は反省の指導からお願いします」とのことだった。謹慎指導の後学校でも指導するのが本校の習慣であるが、初対面でしかも女子生徒の指導となるとどのようにしたら良いか一瞬考えてしまった。男子なら数日自分の家に泊まらせてそこから学校に通わせ生活を共にしながら色々な話をすることで指導に換えることができるが女子生徒だと自分に家に泊まらせるわけにもいかない。どうしようかと悩んだ末に先輩の先生から良いヒントを頂き少し他の人に入っていただいて指導に協力していただこうと思った。学校の近くに住むおばあちゃんである。おばあちゃんは私たちの教会のメンバーでもあるしお話しも上手なので少し手伝ってもらうことにした。新学期初日、むっちゃんと会った。とても笑顔が素敵な細かい気遣いができる生徒でだった。明るい挨拶をむっちゃんの方からしてくれ「色々とご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」と丁寧な挨拶をしてくれた。初対面ということでそういう対応なのかと思ったがその後も同じような態度だった。ただ、なかなか面白いところもあり、むっちゃんを3年生の時も担任したが将来の夢を聞いたときに「海賊になりたいんですけど海賊になる専門学校ってありますか?」と真顔で聞いてきたことがあった。ワンピースという漫画の影響らしい。ふざけているのかな、と思い「一応あることはあるよ」と答えた。

むっちゃんとの出会いむっちゃん指導

例の反省を促す指導の件であるが、週に1回おばあちゃんを訪問して色々な話しをするということにした。その時おばあちゃんは体調を崩しており近くの病院に入院していた。おばあちゃんを見舞う最初の日、むっちゃんと女子寮の舎監で家庭科教諭の女性教員(後々私の奧さんになった人)と私の3人で病室に行った。事前に連絡はしてあったのでおばあちゃんも大歓迎してくださった。初対面なのにむっちゃんとおばあちゃんはとても息があった。本当のおばあちゃんのようにむっちゃんの話しをよく聞いてくれた。小一時間病室にいたのでそろそろ引き上げようと「おばあちゃん、また来週きますね」というとおばあちゃんはいつでも大歓迎だからおいで、とむっちゃんの手を両手で握って嬉しそうにしていた。帰りの車の中で「おばあちゃんは葛餅が好きと言っていました。先生、今度行くときは葛餅を作って持って行きたいんですけど」というので女性教員に「先生が指導してくださいますか?」と尋ねると快諾してくれた。結局むっちゃんは1週間が待ちきれずに3日後にまたおばあちゃんを見舞った。今度は葛餅を持って。手製の葛餅を見ておばあちゃんはまたむっちゃんの手を両手で握って「ありがとう ありがとう」と言って涙ぐんでいた。おばあちゃんも数年前にご主人を亡くされずっと一人だったのでむっちゃんの訪問や優しさが身に染みてたのだろう。因みにおばあちゃんは肝臓の数値が悪いので入院しており、また良くなったら退院するとのことであった。むっちゃんの指導とは名ばかりで私がしたことは車の運転だけ。おばあちゃんとお話しするだけでむっちゃんの持ち前の優しさがさらに輝くようになり、またおばあちゃんも非常に喜んでくださった。週に2回のペースでおばあちゃんのところに行っては手作りのデザートを食べてもらいふたりで何かを話しているようだった。途中から、自分がいない方が話が盛り上がる様子だったので廊下で待機するようになった。むっちゃんは誰にも話していないこともおばあちゃんには話していたようである。恋愛相談もしていたというから、それを聞いてアドバイスできるおばあちゃんもなかなかの強者であると思った。楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、いつの間にか季節は夏になりむっちゃんも夏休みで自宅に帰省する事になった。帰省の前日、再度おばあちゃんのところに蒸しパンを持ってお見舞いに行った。「明日自宅に帰るからしばらく会えなくなるね。でも9月には戻ってくるからまた沢山お話ししようね。それまでにおばあちゃんが退院していたら家に行くから待っていてね。」とむっちゃんはおばあちゃんに挨拶した。おばあちゃんも少し寂しそうな笑顔で「元気でね。またいつでもおいで。」と言ってくれた。こうして1学期間のむっちゃんとおばあちゃんとの交流は一旦終了となった。もう指導期間などとっくに過ぎており個人的な交流としてやっていた。むっちゃんもこの3ヶ月で更に大きく成長した。本当におばあちゃんとの出会いに感謝したい。
「むっちゃんのこと2」に続く