The Last Night

今日の出来事

引っ越しの準備も十分ではない中だったが、今日は以前住んでいたアパートを引き払う日。立会いが必要とのことで2時間ほどかけてアパートに行き最後の点検の立会いをした。ちょうどその時友人もきていたので、今まで仲良くしてくださった方々にも挨拶をしようと、その友人の職場まで出かけた。今度その職場の責任者になる方が丁度いてその方は以前の上司だったので話に花が咲き少し話し込んでしまった。その後友人や他のお世話になった方々にご挨拶をしてその場を後にした。

自宅に戻って引っ越しの準備をしていたら牧師先生から電話があり、今から挨拶に伺いたいとのことだった。その後すぐに牧師先生ご夫妻がいらしてくださりしばらく会話をして最後にお互い祈りあって別れた。自分が祈る時、この牧師先生には本当にお世話になってきたので離れるのが辛く涙がこぼれてしまった。本当に良いお交わりをさせていただいたことを神様に心から感謝したい。その後しばらくすると先ほどの友人からLINEがありこれから夕食を持参してこちらに来るとのこと。引っ越しの準備の中だったので人をお迎えできるようなスペースもなかったが結局友人はその他の友人も連れ3名できてくださった。たくさんの食材を買い込んできてくださり、時間がないので30分と言っていたがその4倍も話し込んでしまった。非常に楽しい時間で心が和んだ。彼らが帰る時、車まで送り手を振りながら別れたが、ずっと涙が止まらなかった。どこにいても「不要」「出ていけ」としか言われなかった自分にこうやって気遣いしてくださる方々がいることが本当に嬉しかった。人は一人では生きていけないことを痛感した。

最後の「祈りのロード」

と言うことで間も無く日付が変わる。明日は長距離運転もしないといけないから早く寝なくてはならない。しかし長年愛用してくた「祈りのロード」今から最後のお祈りをしに出かけよう。先日数えてみたがこの土地に初めてきたのが中学2年生の時。それから浪人、大学、他の学校に勤務している8年を除いて35年ここにいたことになる。東京の実家よりもはるかに長い時間を過ごした場所。ここを離れるのは本当に辛い。できることならここで二人の子どもを育て成人させたかった。でも仕方ない。全てを神様にお委ねして、明日はここを出て行こう。さぁ、もう一度「祈りのロード」、最後の「祈りのロード」に行こう。

A True Friend

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母は涙乾く間なく

長かった反抗期

自分は小さい頃から家族が大好きだった。祖父母、両親、兄弟、そして職人さんと一緒に住んでいたのでなかなかの大所帯だった。いつも家には全員がいて明るくて暖かい家庭だった。だから家を離れることが苦痛で仕方なかった。家にいることが何よりも好きでいつもハンドバッグを作る両親祖父母の側にいて話をするのが大好きだった。そのような子どもだったから保育園に行くのが大変だった。保育園は何と言ってもお昼寝があって園にいる時間が長い。それが苦痛で仕方なかった。だからいつも保育園を脱走していた。母と一緒に保育園に行くのだが母よりも早く家に帰っていることすらあった。毎日泣きながら保育園に通っていたので両親も可哀想に思ったのか執拗には行かせなかった。そんな家族大好き少年だったが、いつの頃からか長い反抗期が始まった。それも母親に対して。非常に悪い態度をとって母を困らせていた。特にひどかったのは浪人時代だったと思う。大学に落ちたのは自分の責任なのに、なぜか社会に対して反抗心があった。そして社会の代表としてなぜか母を敵視するようになってしまった。本当は好きなのに何故か素直になれなくて「うるせーな」「邪魔だから向こうに行けよ」などと悪態をついていた。大学後半には少しずつ落ち着いたが、母が喋るとイライラすることは変わらなかった。そしてそれが大人になってからも続いた。「少しうるさいよ。わかっているから黙っていて」などと悪い態度を取り続けていた。心の中では「お母さん、ごめんなさい」と言いながら…。自分は肉が食べられないのだが、それは浪人時代に端を発している。浪人中のある日、夕食がすき焼きだった。少し嬉しかったのだがここで嬉しそうな顔をしてはいけないと思い「なんで中学校、高校と菜食主義の学校に行って自宅に戻ったら肉が出るんだ」と少し怒ってみた。全然本心ではない。ところが母が「そうだったわね」と小麦粉で作る「グルテン」を持ってきて私だけ別メニューになってしまった。本当は牛肉が食べたかったのに。しかし、自業自得である。それ以降我が家では私だけ肉のないメニューになってしまった。そして1年間肉を食べなかったら急に肉が嫌いになってしまったのである。

今日の電話

今日は3月30日、父の91歳の誕生日だった。事前にプレゼントを送っておいたのだがそのお礼の電話が掛かってきた。しばらく父と話していたが「じゃあ、お母さんにかわるよ」と言って母が電話に出た。認知症の母なので何度も同じ話をループするのだが、今日は夫婦関係のことを中心に話した。「どうしても別れるの?あんただって病気なんだし一人で生活して行くのは辛いでしょ」「子どものためにも夫婦で生活できる努力をしなさい」などと何度も同じことを言われた。昔だった「うるさいな」「もうわかったからあっちに行けよ」と言っている場面である。しかし今は違う。「そうだね」「お母さんの言っていることが正しい」と相槌を打っている。「すぐには回復しないかもしれないけれど、根気強く奥さんと話し合ってごらん。必ず分かり合えるから」とも言う。今は離婚届が送られてきて、サインをしないから毎日のように催促の連絡が来ることを知らない母はそんなことをアドバイスしてくれる。しかし、素直な気持ちで聞いていると本当にそんな気がして来る。「もうそう言う段階じゃないんだよ」と言いたいけれど、よくよく聞いてみるとイエス様が弟子たちに言った言葉にダブって聞こえる。イエス様は、一晩中漁をしても魚が獲れない弟子たちに向かってもう一度網をおろすことを命じられた。漁師の力量からいえば弟子たちの方がはるかに優れている。いわばプロフェッショナルの弟子たちが一晩中網を打っても魚が獲れなかったのである。しかしお言葉ですからと網をおろしてみるとおびただしい量の魚が獲れ船が沈みそうになるのである。母の言葉が、その時のイエス様の言葉に重なった。もう一度コンタクトをとってみようかな、と思った。母とは40分ぐらい話したがずっと泣いていた。本当に申し訳ない。

母は涙乾く間なく

母だけではない。父もそうだ。超高齢のふたりが57歳の息子のために涙を流しながら不憫に思い同情してくれる。そして涙を流しながら祈っていてくれる。自分はいつになっても親を越えられないと痛感した。両親の涙が自分を子どもでいさせてくれる。「ずっとお父さん、お母さんと一緒に住んでいたらいいよ」とも言っていた。「仕事をしないと子どもの学費が払えないから」と言うと「そうだね」と納得しながらもまた涙声で「あんたがかわいそうなんだよ。いいからうちに帰っておいで」と言ってくれる。自分のような不良品がいる限り本当に両親は涙乾く間なく祈り続けないといけない。ありがたいし、勿体無いし、申し訳ない。

幻の影をおいて

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新しい事

友との語らい

今日は朝から引越しに関する事で動き回っていた。まずはタイヤの処分。今履いているタイヤの他に8本のタイヤがあるのでそれらを地元の車屋さんにお願いして処分してもらいに言った。その後今度はバイクの名義変更。このバイクはかなり思い入れのあるバイクで中古で買ったから15年以上乗っているスーパーカブだ。塗装なども変えてダブルシートに付け替えボアアップもしてかなり充実した内容になっているが引越しなので手放すことにした。まだ貰い手は見つからないがとりあえず今日は廃車の手続きをして来た。その後、引っ越しの荷物の中で人のあげる家財道具などを友人に手伝ってもらって運び出した。そのあと退職金や車の保険、確定拠出年金などの説明を受けに学校の事務所に行った。家の中の片付けが殆ど出来ない1日ではあったが充実はしていた。中でも家財道具の搬出を手伝ってくれた友人と夕食を一緒にした。彼がいろいろな話をしてくれたので学校の情報や今後の方向性などもよく理解できた。そして彼が新年度から新しい役職に就くことを聞かされた。全寮制の学校なので寮には「舎監」という先生がいるが彼は新年度からその舎監のリーダーである舎監長をするとのこと。彼はその重責に押し潰されそうだと落ち込んでいた。しかし、自分には彼ならできると思っているし適任だとも思っている。彼がどうしたらうまくやっていけるかを聞いて来たのでいくつかの質問に答えた。

他の同僚と

舎監チームとどのように関わることが舎監長として大切なのかを聞かれた。自分にそのようなことが分かる訳もないが教頭時代のことを思い出してアドバイスをした。その一つはとにかく同僚を信頼すること。舎監長は、舎監の目を頼りに生徒を見ること。自分から全ての生徒を見ようとしたら本来の仕事ができなくなってしまう。本来の仕事は舎監スタッフに気持ち良く働いてもらい、彼らを信頼し切ること。そして彼らを常に励ますこと。これが舎監長の仕事であることを伝えた。舎監全員で話し合う「舎監会議」では誰かに恥をかかせるような注意をしないこと。個人的な場所、当該の舎監スタッフと二人だけになる場所で注意をしたり励ましたり褒めることを伝えた。とにかく舎監が前向きに働いてくれれば生徒がハッピーになれる訳だから、生徒のために舎監長は舎監スタッフを大切にすることが大事であると話した。友人もなるほどと言いながら聞いていた。舎監スタッフに毎日LINEなどでメッセージを送り励ますことを強く勧めた。表情の冴えないスタッフには「何か困ったことがあったら何でも相談してね」と優しく声をかけるように勧めた。

最も大切なこと

しかし、これらは小手先のこと。本当に大切なことは何か。現在学んでいるダニエル書でいくつか痛感していることがある。その一つが「ダニエルは祈りの人である」ということだ。ダニエル書というと預言がメインになってしまうことが多い、しかしダニエル書が伝えているのはイエスキリストであるし、信仰者特に「祈る人」としてのダニエルである。ダニエルは王様の勅令に反してでも真の神様に祈ることを決してやめなかった。幻の解き明かしができることを真剣に祈り求めた。また、ユダヤの民のために真剣にとりなしの祈りを捧げた。常にダニエルの生活では祈りが中心になっているのである。このことを友人に話した。一番大切なことは小手先のことではなく、舎監スタッフを心から愛して彼らのために真剣に祈ること、そして何よりも大切なことは寮に住む全ての生徒の名前を一人一人あげて毎日祈り続けること。この祈りがなければ全寮制の寮など簡単に潰れてしまう。大きな問題が一つ起こればそれだけで寮は愚か学校そのものが潰れてしまうのである。だから祈って、祈って、祈り抜くことを彼に強く勧めた。夕食を終えて彼の自宅まで送った時「祈ってください」と彼が言って来た。彼のこれからの仕事、ご家族の祝福などを祈らせてもらった。祈りあえる友人がいることの幸せをしみじみと感じた。

主の祈り

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親不孝

父との電話

今日、実家から電話があった。昨日、姉が私の近況を両親に話すと言っていたのでそのことだろうと思い電話に出た。父からだった。昨日は3日早い91歳の誕生日会をしてもらった様なのでそのことを話したが、直ぐに「その後大丈夫なのか?体調は大丈夫か?」と自分のことを気にかけてくれた。青森に行くことは昨日聞いた様なので、途中で実家に寄って休憩することを伝えると「いつでも大歓迎だから遠慮なく来なさい」と言ってくれた。人と話しをする事が無く、いつも「不要だ」「いらない」「出て行け」とばかり言われているのでこういう言葉をかけて貰うとそれだけで涙が出て来てしまう。父も何かを悟ったのか「お母さんに変わるから待ってね」と言ってそそくさとかわってしまった。

母との電話

「もしもし」
いつもの母の声だ。認知症の母は繰り返し同じことを話し同じ質問をする。
「仕事は青森になったって聞いたけど、青森の学校に行くの?」
「学校じゃ無くて病院だよ。これから病院で働くんだよ」
「病院の学校で働くの?」
「病院の学校じゃ無くて病院で患者さんやデイサービスの利用者さんの送迎をするんだよ。あとは院長先生のお手伝い」
「もう少しで定年なんだからもう少し学校にいさせてくれたらいいのにね。ここまで頑張ってきて教頭先生になったのに最後は冷たいね」
「そうじゃないよ。学校は今生徒が減っているからひとりの先生を雇うのが難しいんだよ。僕が休んでいる間に他の人が代わりに入ったから僕が抜けるのは当然なんだよ」
「じゃぁ、青森の学校に行くの?」
こんな感じで話がずっと同じところをループする。不思議と母に対してイライラはしない。何度聞かれても同じことを答える。でも、今日は母と話しながら涙が出てきてしまって途中から泣き声になってしまった。まずいと思いながらも上ずった声はどうにもならない。何度も同じことを聞いている母だけどやはり息子のことが心配で不憫なのだろう。母も泣き声になって声を詰まらせていた。
「◯◯さん(妻の名前)は一緒じゃないの」
「そうなんだ。沖縄にいるんだよ」
「別れちゃったの?」
「今の所まだ別れていないよ」
「そうなの…」
また母が泣いている。
57歳になってまだ親に心配をかけている親不孝もの。本当に生きる価値がないと心の底から思った。
「一人だと寂しいでしょ。青森まで運転するのも大変だからお父さんにそっちに行って貰うようにするから」
91歳の父が一人で来られるわけないし来られたらそれこそ大変なことになってしまう。
「大丈夫だよ。ずっと一人だから慣れているしお父さんが来ても車にいっぱい荷物を積んで走るから乗る場所がないよ」
「そうなの、何でも言って来なさい。お父さんをそっちに行かせるから」
とまた同じことを言っている。もう何を話しているのかよく分からない。とにかく両親の愛情に包まれて嬉しいいのと、親不孝の自分が情けないのと、今までずっと誰にもさらけ出せなかった感情が一気に溢れ出てしまったのとで涙が止まらない。
「ずっとうちにいなさい」
本当に泣けた。
「そうもいかないよ。働かないと子どもを育てられないから」というのがやっとだった。

居場所

自分はこの1年半で自分の居場所を次々と失って来た。物理的な居場所、精神的な居場所共に失って来た。不要、出て行け、必要ない、ばかりが自分に浴びせられて来た。仕方ないことだと自分でも受け入れている。実際その通りの存在であることは自分がよくわかっている。しかしずっと同じことを言われ続けたらやはり心底その通りだと思ってしまう。自分は勿論だが、世の中には居場所がない人がどれくらいいるのだろう。ひとりぼっちの人、集団や家族といても居場所がない人、今日寝る場所がない人、色々な境遇で辛い思いをされている方がいるのだと思う。自分がもしももう少し立ち直ることができたら、居場所のない人に寄り添える人間になりたいと思う。居場所がないのは辛い。

神様はどれほど大きな罪を犯した人間にも、イエス様を信じるのであれば天国に迎え入れてくださる。「おかえり、わが子よ」と言ってくださる。居場所のない人間にとって「おかえり」と言ってもらえることはどれほど感動的なことか。「おかえり、わが子よ」と歌っている讃美歌がある。

welcome home children

 

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不安しかない

行き先

長い間悶々としてきたが昨日遅くになってやっと新しい仕事を決めた。提示はしばらく前からあったがその気になれなくて給与面で折り合いがつかないなどを理由に断っていたところだ。場所は津軽、青森県である。住んだことがある最北端が茨城県である自分にとって本州最北端の青森県に行くということはかなりのチャレンジである。雪深いところであることは想像がつく。その中でドライバーの仕事を中心に病院の営繕などの仕事をするらしい。今いるところは寮生活をする長男とも近い距離なので会おうと思えばいつでも会える。しかし青森まで行ってしまうとそう簡単に会うことはできない。今の状況なら、経済的な面も考えるともう家族に会うことは諦めないといけないのかもしれない。一縷の望みで家族が再び回復したら、などと考えることもあるが沖縄にいる家族からも遠く離れてしまう。沖縄人の妻は寒いところが苦手である。全ての望みを諦めるしかないのか。しかし、現実問題として長男の学費を出してせめて中学校はこのまま転校せずに卒業させたい。そして希望の高校に進学させたい。そのためには収入を得なくてはならないし、この歳で新しい仕事で毎月13万円の学費がかかる子どもを抱える人間を雇うところなどそうあるものではない。色々と就職先を探してみたが手取りで20万円を超えるところはそう簡単に見つかるものではない。手取り20万円ということは基本給が30万ぐらいないといけないわけだからなかなか難しい。今までよりも経済的にはさらに厳しくなるが津軽で雇って頂く事しかない様に思えてきたのだ。

本当の理由

しかし経済面では、もしかすると実家に戻ってゆっくり探せばもう少し良いところが見つかる可能性はあった。実際、実家のすぐそばの施設では教育職に近い仕事内容で手取り25万近くまで行く職場もあった。そちらにしようかと何度も迷ったが結局津軽にした。そこに住んでいらっしゃる方もいるので失礼なことを言ってはいけないが、今の自分には津軽に行くポジティブな理由は殆どない。津軽と聞いただけで「津軽海峡冬景色」の歌が頭を駆け巡る。魅力が殆どないところになぜ決めたのか。理由はひとつだけ。実はこの病院の院長先生がクリスチャンで非常に伝道熱心な方である。自分の聖書研究の成果をハードカバーの、しかも写真が沢山入った本にして多くの方々に無料で配布しているのである。勿論自費出版である。自分の懐にはお金を残さず全てを伝道のため、もう少しはっきり言えば全てをイエス様のために捧げている方なのである。この院長先生の生き方に憧れて、その先生の側で鞄持ちでもさせていただきたいと思った、これだけが津軽を決めた理由である。自分は伝道をしたいと常々考えていた。このブログも読者は非常に少ないが自分なりの伝道ツールなのである。休職している間、他の人が世の中のため、また神様のために役立つ仕事をしているのに自分だけ取り残されて何もしていないことが悲しくて仕方なかった。何とか自分の様なものを器として用いていただけないか、と毎日祈り続け与えられた答えが祈りのミニストリーであった。自分の祈りが非常に長い時間を要するのは、これが自分にできる唯一の神様に対する献身だったからである。だから今回直接伝道に携わる方の側で仕事ができることはこの上ない喜びである。しかし、前述の通りそれ以外は何の魅力もない。むしろ子どもにあえなくなる、家族から更にとおざかる、知っている人がいない、気候が違いすぎるなどマイナス要因しかない。

それでも

アブラハムは信仰によって今まで住み馴れた土地を離れて神様が示される見ず知らずの土地に向かって出て言った。アブラハムに比べたら津軽に行くくらい何でもないことである。でも不安しかない。

「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。 信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。 彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。」

ヘブル人への手紙 11:8-10 口語訳

主はそこに

 

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寂しい

引っ越し第一弾

今まで住んでいたアパートを今日引き払った。もう一度引き渡しの立会いで行かなくてはならないがおよそ1年住んだアパートを離れた。非常に寂しくなった。そして更に寂しいのは、今まで家族で住んでいた自宅に戻ってきているということ。いろいろな思い出がたくさんある家に戻り引越しの準備をする寂しさと言ったらない。恥ずかしいが何度涙が出たかわからない。気が狂いそうになる。戻らない、戻れない日々を思い出しては懐かしさと後悔が交互にこみ上げてくる。

これから

本当にどうなるんだろう?家族がいないと何もできない自分が何とも情けない。もう少し強い人間だと思っていたがこれ程弱くだらしない人間だと気付き自分でも驚いている。自分にあるのは神様の存在だけ。今日も引越しをしながら、あまりにも落ち込んだので聖書の勉強をいつもの様にして見た。今日勉強した時に読んだ参考書に次の様な言葉が書かれていた。

世界の情勢も、あるいは個人の色々な生活も、人生もそれこそ荒れ狂う海の様にしか見えないことがある。しかし、天上にはいつも必ず、神様の御座がある。そして全てがそこに書き留められ、全てがそこから導かれている。また、全てに時が定まっている。…私たちがしばしば、地上の騒乱とか獣とか、あるいはいろいろな失敗とか、失望とか、混乱とか、そういうものしか目に入らない時に、もっと上を見上げてごらんというのがこのダニエル書7章である。上には御座が設けられていて、そして「日の老いたるお方」が座しておられる。その前には「人の子」がおられて私たちのために全てをなしてくださっている。

神様の存在にしがみついて生きていくしかない。

Coming Home

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ダニエル書9章

聖書本文

「メデアびとアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤびとの王となったその元年、 すなわちその治世の第一年に、われダニエルは主が預言者エレミヤに臨んで告げられたその言葉により、エルサレムの荒廃の終るまでに経ねばならぬ年の数は七十年であることを、文書によって悟った。 それでわたしは、わが顔を主なる神に向け、断食をなし、荒布を着、灰をかぶって祈り、かつ願い求めた。 すなわちわたしは、わが神、主に祈り、ざんげして言った、「ああ、大いなる恐るべき神、主、おのれを愛し、おのれの戒めを守る者のために契約を保ち、いつくしみを施される者よ、 われわれは罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて、あなたの戒めと、おきてを離れました。 われわれはまた、あなたのしもべなる預言者たちが、あなたの名をもって、われわれの王たち、君たち、先祖たち、および国のすべての民に告げた言葉に聞き従いませんでした。 主よ、正義はあなたのものですが、恥はわれわれに加えられて、今日のような有様です。すなわちユダの人々、エルサレムの住民および全イスラエルの者は、近き者も、遠き者もみな、あなたが追いやられたすべての国々で恥をこうむりました。これは彼らがあなたにそむいて犯した罪によるのです。 主よ、恥はわれわれのもの、われわれの王たち、君たちおよび先祖たちのものです。これはわれわれがあなたにむかって罪を犯したからです。 あわれみと、ゆるしはわれわれの神、主のものです。これはわれわれが彼にそむいたからです。 またわれわれの神、主のみ声に聞き従わず、主がそのしもべ預言者たちによって、われわれの前に賜わった律法を行わなかったからです。 まことにイスラエルの人々は皆あなたの律法を犯し、離れ去って、あなたのみ声に聞き従わなかったので、神のしもべモーセの律法にしるされたのろいと誓いが、われわれの上に注ぎかかりました。これはわれわれが神にむかって罪を犯したからです。 すなわち神は大いなる災をわれわれの上にくだして、さきにわれわれと、われわれを治めたつかさたちにむかって告げられた言葉を実行されたのです。あのエルサレムに臨んだような事は、全天下にいまだかつてなかった事です。 モーセの律法にしるされたように、この災はすべてわれわれに臨みましたが、なおわれわれの神、主の恵みを請い求めることをせず、その不義を離れて、あなたの真理を悟ることをもしませんでした。 それゆえ、主はこれを心に留めて、災をわれわれに下されたのです。われわれの神、主は、何事をされるにも、正しくあらせられます。ところが、われわれはそのみ声に聞き従わなかったのです。 われわれの神、主よ、あなたは強きみ手をもって、あなたの民をエジプトの地から導き出して、今日のように、み名をあげられました。われわれは罪を犯し、よこしまなふるまいをしました。 主よ、どうぞあなたが、これまで正しいみわざをなされたように、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山から、あなたの怒りと憤りとを取り去ってください。これはわれわれの罪と、われわれの先祖の不義のために、エルサレムと、あなたの民が、われわれの周囲の者の物笑いとなったからです。 それゆえ、われわれの神よ、しもべの祈と願いを聞いてください。主よ、あなたご自身のために、あの荒れたあなたの聖所に、あなたのみ顔を輝かせてください。 わが神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、われわれの荒れたさまを見、み名をもってとなえられる町をごらんください。われわれがあなたの前に祈をささげるのは、われわれの義によるのではなく、ただあなたの大いなるあわれみによるのです。 主よ、聞いてください。主よ、ゆるしてください。主よ、み心に留めて、おこなってください。わが神よ、あなたご自身のために、これを延ばさないでください。あなたの町と、あなたの民は、み名をもってとなえられているからです」。 わたしがこう言って祈り、かつわが罪とわが民イスラエルの罪をざんげし、わが神の聖なる山のために、わが神、主の前に願いをしていたとき、 すなわちわたしが祈の言葉を述べていたとき、わたしが初めに幻のうちに見た、かの人ガブリエルは、すみやかに飛んできて、夕の供え物をささげるころ、わたしに近づき、 わたしに告げて言った、「ダニエルよ、わたしは今あなたに、知恵と悟りを与えるためにきました。 あなたが祈を始めたとき、み言葉が出たので、それをあなたに告げるためにきたのです。あなたは大いに愛せられている者です。ゆえに、このみ言葉を考えて、この幻を悟りなさい。 あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。 それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。 その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。 彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。」

ダニエル書 9:1-27 口語訳

「In the first year of Darius the son of Ahasuerus, by descent a Mede, who was made king over the realm of the Chaldeans— in the first year of his reign, I, Daniel, perceived in the books the number of years that, according to the word of the Lord to Jeremiah the prophet, must pass before the end of the desolations of Jerusalem, namely, seventy years. Then I turned my face to the Lord God, seeking him by prayer and pleas for mercy with fasting and sackcloth and ashes. I prayed to the Lord my God and made confession, saying, “O Lord, the great and awesome God, who keeps covenant and steadfast love with those who love him and keep his commandments, we have sinned and done wrong and acted wickedly and rebelled, turning aside from your commandments and rules. We have not listened to your servants the prophets, who spoke in your name to our kings, our princes, and our fathers, and to all the people of the land. To you, O Lord, belongs righteousness, but to us open shame, as at this day, to the men of Judah, to the inhabitants of Jerusalem, and to all Israel, those who are near and those who are far away, in all the lands to which you have driven them, because of the treachery that they have committed against you. To us, O Lord, belongs open shame, to our kings, to our princes, and to our fathers, because we have sinned against you. To the Lord our God belong mercy and forgiveness, for we have rebelled against him and have not obeyed the voice of the Lord our God by walking in his laws, which he set before us by his servants the prophets. All Israel has transgressed your law and turned aside, refusing to obey your voice. And the curse and oath that are written in the Law of Moses the servant of God have been poured out upon us, because we have sinned against him. He has confirmed his words, which he spoke against us and against our rulers who ruled us, by bringing upon us a great calamity. For under the whole heaven there has not been done anything like what has been done against Jerusalem. As it is written in the Law of Moses, all this calamity has come upon us; yet we have not entreated the favor of the Lord our God, turning from our iniquities and gaining insight by your truth. Therefore the Lord has kept ready the calamity and has brought it upon us, for the Lord our God is righteous in all the works that he has done, and we have not obeyed his voice. And now, O Lord our God, who brought your people out of the land of Egypt with a mighty hand, and have made a name for yourself, as at this day, we have sinned, we have done wickedly. “O Lord, according to all your righteous acts, let your anger and your wrath turn away from your city Jerusalem, your holy hill, because for our sins, and for the iniquities of our fathers, Jerusalem and your people have become a byword among all who are around us. Now therefore, O our God, listen to the prayer of your servant and to his pleas for mercy, and for your own sake, O Lord, make your face to shine upon your sanctuary, which is desolate. O my God, incline your ear and hear. Open your eyes and see our desolations, and the city that is called by your name. For we do not present our pleas before you because of our righteousness, but because of your great mercy. O Lord, hear; O Lord, forgive. O Lord, pay attention and act. Delay not, for your own sake, O my God, because your city and your people are called by your name.” While I was speaking and praying, confessing my sin and the sin of my people Israel, and presenting my plea before the Lord my God for the holy hill of my God, while I was speaking in prayer, the man Gabriel, whom I had seen in the vision at the first, came to me in swift flight at the time of the evening sacrifice. He made me understand, speaking with me and saying, “O Daniel, I have now come out to give you insight and understanding. At the beginning of your pleas for mercy a word went out, and I have come to tell it to you, for you are greatly loved. Therefore consider the word and understand the vision. “Seventy weeks are decreed about your people and your holy city, to finish the transgression, to put an end to sin, and to atone for iniquity, to bring in everlasting righteousness, to seal both vision and prophet, and to anoint a most holy place. Know therefore and understand that from the going out of the word to restore and build Jerusalem to the coming of an anointed one, a prince, there shall be seven weeks. Then for sixty-two weeks it shall be built again with squares and moat, but in a troubled time. And after the sixty-two weeks, an anointed one shall be cut off and shall have nothing. And the people of the prince who is to come shall destroy the city and the sanctuary. Its end shall come with a flood, and to the end there shall be war. Desolations are decreed. And he shall make a strong covenant with many for one week, and for half of the week he shall put an end to sacrifice and offering. And on the wing of abominations shall come one who makes desolate, until the decreed end is poured out on the desolator.”」

Daniel 9:1-27 ESV

ダニエルの祈り

ダリヨス王が即位したのはバビロンが滅亡した翌年のことでB.C.538年であった。ダニエル書6章と同じ年であった。ダニエルはエレミヤ書を研究しているうちに捕囚期間が70年であるという預言に気づいた。そしてその捕囚期間が間も無く終わる(捕囚はB.C.605年に始まったから)ことに気づきながらも依然としてイスラエルの民が心からの悔い改めをしていないことを憂い神に対して嘆願を始めた。その断食の祈りが9章の前半に記録されている。イスラエルの民は異国の地に安住していた。祖国に帰って崩れ去ったエルサレム神殿や城壁を迅速に復旧させメシアを迎えなくてはならないという使命を忘れていたのである。

祈りの応答

ダニエルの祈りに即答するかのように天使長のガブリエルがダニエルの元にきた。そしてこれから先のことに関する預言のメッセージを語るのである。

70週

70週は490日、聖書の原則に従ってこれを解釈するならば70週は490年を表す。これが定められた、とある。これは切り出す、割り当てる、のような言葉に解釈できるヘブル語である。どこから切り出されているかというと8章に出てきた2300の夕と朝から切り出されているということになる。即ち2300年と同じ起算点からこの490年が始まることを意味している。8章と一緒に解釈するならば、9章の70週は8章の2300日の一部であり、罪を犯した人類の救いのためにユダヤ人が働く期間として特別に切り分けられた、とっておかれたという意味になる。

その起算点は「エルサレムを立て直せ」という命令で始まる。このエルサレム再建命令はいくつかある。前提としてエルサレム神殿の再建ではなく街とエルサレムの自治権など全てを回復する命令である。このような勅令は

①クロス王の元年 B.C.538年

②ダリヨス1世の第2年 B.C.519年

③アルタシャスタ王の第7年 B.C.457年

④アルタシャスタ王の第20年 B.C.444年

の4回出されているが前述の要件を全て満たしているのは③のB.C.457年となる。
この事実は宗教改革以来多くの学者によって確認されてきたがそのひとりが昨日の投稿で紹介したアイザック・ニュートンである。彼は20以上の古代日蝕の記録を調査してペルシャ王アルタシャスタの第7年のB.C.457年であることを天文学的に立証した。

預言の内容

70週:70×7=490年
人類の救いを成し遂げるためにイスラエルの民とエルサレムのために定められた期間。起算点はB.C.457年

7週:7×7=49年
エルサレム復興の期間。この間にネヘミヤによる城壁の復興があった(B.C.444年)がB.C.408年までエルサレムが再建されたかは不明。

62週:62×7=434年
約束された救い主イエスキリストを迎えるための期間。この期間が終わるA.D.27年にイエスはバプテスマを受けてメシアとしての公生涯が始まる。ルカ3章23節によればイエスは30歳で公生涯を始めている。

1週:1×7=7年
ユダヤ人のための最後の期間。この期間に「メシアなるひとりの君が来る」と預言されている。

1週の半ば:7÷2=3年半
イエスがバプテスマを受けてから3年半になるA.D.31年の春にイエスキリストは十字架につけられて亡くなった。それにより旧約時代から続いた羊ややぎなどの動物を燔祭として捧げる犠牲制度が廃止された。

7週の終わり:A.D.34年
イエスが十字架で死なれたA.D.31年春から3年半が経過したA.D.34年、ユダヤ人たちは議会で悔い改めを訴えたステパノを石で打ち殺した。それによりユダヤ人のための70週(490年)は終わり異邦人に福音がのべ伝えられる様になった。

まとめ

聖書の預言の正確なことには本当に驚かされる。全てが預言通りに進んでいる。いろいろなことがあっても人類歴史を全て支配していらっしゃるのは神様であることを改めて実感するものである。自分はダニエル書を学びながら、最初の頃は預言に興味がありその成就をみては神様の偉大さに驚かされるということを繰り返していたが、最近は少し違ってきている。ダニエル書といえばとかく預言に目が行きがちであるが、ダニエルの信仰生活そのものに心動かされる。ダニエルは心から神様を信頼し祈り続けた人だということを学べば学ぶほど実感できる。「祈りの人ダニエル」は自分の信仰生活の模範であり先生である。ダニエル書を学びながらひとつの解説動画を見つけた。これはイザヤ書の解説ではあるが内容的にはこのダニエル書にもつながる部分があると思う。是非この動画も視聴して頂きたい。

光風台教会 東清志牧師による聖書研究ガイド 21年1期13課

 

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ダニエル書8章

聖書本文

「われダニエルは先に幻を見たが、後またベルシャザル王の治世の第三年に、一つの幻がわたしに示された。 その幻を見たのは、エラム州の首都スサにいた時であって、ウライ川のほとりにおいてであった。 わたしが目をあげて見ると、川の岸に一匹の雄羊が立っていた。これに二つの角があって、その角は共に長かったが、一つの角は他の角よりも長かった。その長いのは後に伸びたのである。 わたしが見ていると、その雄羊は、西、北、南にむかって突撃したが、これに当ることのできる獣は一匹もなく、またその手から救い出すことのできるものもなかった。これはその心のままにふるまい、みずから高ぶっていた。 わたしがこれを考え、見ていると、一匹の雄やぎが、全地のおもてを飛びわたって西からきたが、その足は土を踏まなかった。このやぎには、目の間に著しい一つの角があった。 この者は、さきにわたしが川の岸に立っているのを見た、あの二つの角のある雄羊にむかってきて、激しく怒ってこれに走り寄った。 わたしが見ていると、それが雄羊に近寄るや、これにむかって怒りを発し、雄羊を撃って、その二つの角を砕いた。雄羊には、これに当る力がなかったので、やぎは雄羊を地に打ち倒して踏みつけた。また、その雄羊を、やぎの力から救いうる者がなかった。 こうして、その雄やぎは、はなはだしく高ぶったが、その盛んになった時、あの大きな角が折れて、その代りに四つの著しい角が生じ、天の四方に向かった。 その角の一つから、一つの小さい角が出て、南に向かい、東に向かい、麗しい地に向かって、はなはだしく大きくなり、 天の衆群に及ぶまでに大きくなり、星の衆群のうちの数個を地に投げ下して、これを踏みつけ、 またみずから高ぶって、その衆群の主に敵し、その常供の燔祭を取り除き、かつその聖所を倒した。 そしてその衆群は、罪によって、常供の燔祭と共に、これにわたされた。その角はまた真理を地に投げうち、ほしいままにふるまって、みずから栄えた。 それから、わたしはひとりの聖者の語っているのを聞いた。またひとりの聖者があって、その語っている聖者にむかって言った、「常供の燔祭と、荒すことをなす罪と、聖所とその衆群がわたされて、足の下に踏みつけられることについて、幻にあらわれたことは、いつまでだろうか」と。 彼は言った、「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」。 われダニエルはこの幻を見て、その意味を知ろうと求めていた時、見よ、人のように見える者が、わたしの前に立った。 わたしはウライ川の両岸の間から人の声が出て、呼ばわるのを聞いた、「ガブリエルよ、この幻をその人に悟らせよ」。 すると彼はわたしの立っている所にきた。彼がきたとき、わたしは恐れて、ひれ伏した。しかし、彼はわたしに言った、「人の子よ、悟りなさい。この幻は終りの時にかかわるものです」。 彼がわたしに語っていた時、わたしは地にひれ伏して、深い眠りに陥ったが、彼はわたしに手を触れ、わたしを立たせて、 言った、「見よ、わたしは憤りの終りの時に起るべきことを、あなたに知らせよう。それは定められた終りの時にかかわるものであるから。 あなたが見た、あの二つの角のある雄羊は、メデアとペルシャの王です。 また、かの雄やぎはギリシヤの王です、その目の間の大きな角は、その第一の王です。 またその角が折れて、その代りに四つの角が生じたのは、その民から四つの国が起るのです。しかし、第一の王のような勢力はない。 彼らの国の終りの時になり、罪びとの罪が満ちるに及んで、ひとりの王が起るでしょう。その顔は猛悪で、彼はなぞを解き、 その勢力は盛んであって、恐ろしい破壊をなし、そのなすところ成功して、有力な人々と、聖徒である民を滅ぼすでしょう。 彼は悪知恵をもって、偽りをその手におこない遂げ、みずから心に高ぶり、不意に多くの人を打ち滅ぼし、また君の君たる者に敵するでしょう。しかし、ついに彼は人手によらずに滅ぼされるでしょう。 先に示された朝夕の幻は真実です。しかし、あなたはその幻を秘密にしておかなければならない。これは多くの日の後にかかわる事だから」。 われダニエルは疲れはてて、数日の間病みわずらったが、後起きて、王の事務を執った。しかし、わたしはこの幻の事を思って驚いた。またこれを悟ることができなかった。」

ダニエル書 8:1-27 口語訳

「In the third year of the reign of King Belshazzar a vision appeared to me, Daniel, after that which appeared to me at the first. And I saw in the vision; and when I saw, I was in Susa the citadel, which is in the province of Elam. And I saw in the vision, and I was at the Ulai canal. I raised my eyes and saw, and behold, a ram standing on the bank of the canal. It had two horns, and both horns were high, but one was higher than the other, and the higher one came up last. I saw the ram charging westward and northward and southward. No beast could stand before him, and there was no one who could rescue from his power. He did as he pleased and became great. As I was considering, behold, a male goat came from the west across the face of the whole earth, without touching the ground. And the goat had a conspicuous horn between his eyes. He came to the ram with the two horns, which I had seen standing on the bank of the canal, and he ran at him in his powerful wrath. I saw him come close to the ram, and he was enraged against him and struck the ram and broke his two horns. And the ram had no power to stand before him, but he cast him down to the ground and trampled on him. And there was no one who could rescue the ram from his power. Then the goat became exceedingly great, but when he was strong, the great horn was broken, and instead of it there came up four conspicuous horns toward the four winds of heaven. Out of one of them came a little horn, which grew exceedingly great toward the south, toward the east, and toward the glorious land. It grew great, even to the host of heaven. And some of the host and some of the stars it threw down to the ground and trampled on them. It became great, even as great as the Prince of the host. And the regular burnt offering was taken away from him, and the place of his sanctuary was overthrown. And a host will be given over to it together with the regular burnt offering because of transgression, and it will throw truth to the ground, and it will act and prosper. Then I heard a holy one speaking, and another holy one said to the one who spoke, “For how long is the vision concerning the regular burnt offering, the transgression that makes desolate, and the giving over of the sanctuary and host to be trampled underfoot?” And he said to me, “For 2,300 evenings and mornings. Then the sanctuary shall be restored to its rightful state.” When I, Daniel, had seen the vision, I sought to understand it. And behold, there stood before me one having the appearance of a man. And I heard a man’s voice between the banks of the Ulai, and it called, “Gabriel, make this man understand the vision.” So he came near where I stood. And when he came, I was frightened and fell on my face. But he said to me, “Understand, O son of man, that the vision is for the time of the end.” And when he had spoken to me, I fell into a deep sleep with my face to the ground. But he touched me and made me stand up. He said, “Behold, I will make known to you what shall be at the latter end of the indignation, for it refers to the appointed time of the end. As for the ram that you saw with the two horns, these are the kings of Media and Persia. And the goat is the king of Greece. And the great horn between his eyes is the first king. As for the horn that was broken, in place of which four others arose, four kingdoms shall arise from his nation, but not with his power. And at the latter end of their kingdom, when the transgressors have reached their limit, a king of bold face, one who understands riddles, shall arise. His power shall be great— but not by his own power; and he shall cause fearful destruction and shall succeed in what he does, and destroy mighty men and the people who are the saints. By his cunning he shall make deceit prosper under his hand, and in his own mind he shall become great. Without warning he shall destroy many. And he shall even rise up against the Prince of princes, and he shall be broken—but by no human hand. The vision of the evenings and the mornings that has been told is true, but seal up the vision, for it refers to many days from now.” And I, Daniel, was overcome and lay sick for some days. Then I rose and went about the king’s business, but I was appalled by the vision and did not understand it.」

Daniel 8:1-27 ESV

2つ目の幻

ダニエルはベルシャザル王の在位第3年に当たるB.C.548頃にふたつめの幻を見た。この時ダニエルはエラム州の首都スサにいた。この幻は7章の幻の続きである。

第1の獣は雄羊で2本の角を持っていた。これはメディアとペルシャを表している。7章の「体の一方をあげた熊」として現れたメディアとペルシャが8章では「長さが異なる2本の角を持つ雄羊」として表現されている。最初はメディアが主導権を握ったがのちにペルシャによってふたつの国が統一された。両国は親族であり継続的に共存した連合国であった。この雄羊は西、北、南に突撃した。西はクロス王によるB.C.547年のリディア征服、南はB.C.525年カンビュセス2世によるエジプトとエチオピア征服、北はダレイオス1世によるB.C.513年のスキタイ遠征を表している。

第2のの獣は雄ヤギでギリシャを表している。雄ヤギの目の間にある著しい角はマケドニア帝国のアレキサンダー大王を示している。7章では鳥の翼が付いている豹として、8章ではその足が土を踏まないほど早く走る雄ヤギとして表現されている。そしてこの角であるアレキサンダー大王は32歳の若さで亡くなってしまうがこれが角が折れた、ということになる。彼には後継者がいなかったので4人の将軍が覇権争いをするようになる。「天の四方に向かって」分かれることになった。即ち、東はセレウコス、西はカッサンドロス、南はプトレマイオス、北はリシマクスによって分割された。ダニエル書の預言の正確さがこういうところを見てもわかる。

そして次に小さい角が現れる。この小さい角がローマでありローマ教皇圏である。ローマはB.C.65年マケドニアを滅亡させてシリアを属国とし2年後にはパレスチナをローマ帝国に組み入れた。B.C.30年、南方のエジプトを征服し甚だ大きく成長した。またローマ皇帝によるユダヤ人やクリスチャンに対する迫害もあった。A.D.70年、エルサレムと神殿が崩壊された時110万人ものユダヤ人が殺された。また2世紀までに皇帝礼拝を拒んだ多くのクリスチャンが殺された。中世においてカトリック教会に従おうとしない多くの神に忠実な民や指導者たちを宗教裁判にかけ火刑に処した。従って8章の小さな角は多神教ローマとローマ教皇権のふたつを象徴している。

期間に関する預言

ダニエル書8章14節からは期間に関する預言が出てくる。2300の夕と朝の預言である。1日を1年とする聖書の解釈では2300日は2300年を表す。同様に70週の預言も出てくるが1週が7日なので70週は490年を表す。この章には出てこないがこの起算点は「エルサレムの再建命令」が出たB.C.457年を起算点としている。(9章)そうすると次のような年代が出てくるのである。また「正しい状態に復される」という文言からこの日が聖所が1年に一度清められる大贖罪日であると考えられる。それはユダヤ暦の7月10日、太陽暦では10月22日となり、1844年10月22日にイエスキリストが再臨されると解釈した。

再臨運動

米国バプテスト教会信徒説教者であったウイリアム・ミラーはこの預言の解釈を何年にも渡って研究し1844年10月22日がイエスキリストの再臨する日だと結論づけた。そしてこの再臨運動は瞬く間に米国のみならず世界中に知られるようになった。多くの人は財産を捨て、職を捨てて再臨の準備をした。そしてこの日を待った。しかし、実際にこの日にイエスキリストは再臨されなかった。多くのものが「大失望」を経験し去っていった。しかしこの計算はウイリアム・ミラーだけでなく多くの聖書学者、科学者が計算で導いていた。有名なところではアイザック・ニュートン(万有引力などで有名な)もこの日を算出している。であれば時は間違っていない。内容が間違っていたことに気づきミラーをはじめ失望を経験しながらもキリスト教信仰を捨てなかった人たちが聖書研究に再び没頭した。そして、ついに理解した。すなわちこの日にイエスキリストは聖所から至聖所に入って新しい奉仕を始められたことを。この日から人々の全てが記録されている資料を調査して審判を行う、「調査審判」或いは「再臨前審判」が開始されたと結論づけた。

どのタイミングで自分の審判が行われているのかは誰も分からない。しかし、聖書は別の場所で「今は恵みの時、救いの日である」と述べている。まだ、私たちにはチャンスが残されている。イエスキリストを自分の救い主として受け入れ信じること、要求されているのはこれだけである。この投稿を読んでくださる方がイエスキリストを心から信じらえるよう心から祈るものである。

主、来たりたもう

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いよいよ

ここを選んだ理由

何も見えない、将来が見えないままこの土地を離れる。この住まいに引っ越してきたのは2020年4月27日。ゴールデンウィーク前に引っ越してきた。所謂中心地からは3kmぐらい離れており、買い物などをする大型ショッピングモールなども1kmぐらい離れている。近くにはファミリーマートとすき家があるぐらい。それと少し離れたところに警察署と自分が通った教習所がある。自分が好きな天然温泉も徒歩10分以内のところにある。「凄く」では無いが比較的便利なところだと思っている。警察署が近いこともあってサイレンの音が多いことには閉口したがそれ以外は気に入っていた。決して便利では無いけれど歩くことが好きな自分には歩いていける場所がたくさんあるのでとてもよかった。目の前は海で朝早くから漁に出る船の音がする。色々な良いところがあるのだが、それは引っ越してきて分かったこと。引っ越してくる前に何を考えてここに決めたのか。その理由はただひとつ。次男がお世話になった病院が近くにあるからだ。別居している次男に何かがあって入院するようなことがあっても、近くに住まいがあれば色々な意味で役立つと思ったからだ。結局この1年、救急で搬送されたことが2回あったそうだが2回とも現在住んでいる沖縄の大きな病院にて治療を受けた。勿論、彼の全ての記録が私がいる近くの病院に残っているので沖縄から連絡があり色々な指示を受けながら治療に当たってくださったことを聞いた。

生きるか死ぬかの瀕死の状態で生まれてきた次男。お母さんが抱っこできたのはほんの5秒。すぐに救急車にて搬送された。そして搬送されたのがこの病院である。病院に着くなり胃から空気を抜く手術、そして胃瘻を作る手術が行われた。何も分からないまま、ただただ次々と渡される承諾書にサインをするしかなかった8年前。命に関わる手術も2回あった。夫婦で涙を流しながら祈り続けた病院。大方の手術が終わる頃から原因不明の周期性嘔吐症が始まった。自家中毒の年齢にしては早すぎる。どう考えても原因が分からない。しかし嘔吐は4,5日続き2日ぐらい調子がよくなるもののすぐに嘔吐発作が始まる。子どもが嘔吐で苦しむ姿を見るのが苦しくて辛くてたまらなかった。この嘔吐症状はそれから3年以上続いた。生後すぐに入院したときは4階のNICUに入院したがその後は7階の小児病棟に移った。親がつきそう入院生活が始まった。日曜の夜から金曜の夕方までを妻が看て、金曜の午後から日曜の夜までは自分が看るローテーションを組んだ。それでも妻の負担は大きかった。かかってくる電話の声や内容から限界が近づいていることは分かった。しかし、自宅には長男がいるので彼のお世話もある。遠足のほか毎週金曜日はお弁当の日だったので自分が作った。料理は好きだがお弁当作りにはセンスが必要だと思い知らされた。いつも長男に申し訳ないと思いながら男料理のお弁当を持たせた。

この病院では何度も手術を受け、辛く長い入院生活があったが何故かこの病院を見ると昔のことを思い出して落ち着くのである。子どもは病院と極力関わらないで生きていて欲しいが、しかしこの病院の前を通ると次男がいるような気がして懐かしくなる。時々涙が出る。そんな懐かしい病院の近くだから、約1年前ここに住むことを決めた。いまでも家族に会いたくなるとこの病院の前にくる。

ヘリポート

この病院の屋上にはヘリポートがある。時々子どもの調子が良い時は許可をもらって屋上に上がらせてもらいことがあった。しかし緊急ヘリが着陸すると屋上は閉鎖になる。また6階以上の病室は窓を閉めなくてはいけなくなる。時々この病院の前を通るとヘリが着陸する場面に遭遇することがあった。次男はヘリではなく高速を使って救急車で搬送されたが、いまでも救急車や緊急ヘリを見かけると「みんな道を開けて、緊急車両最優先で…」と心の中で叫んでしまう。また病院の前を通ると「今日この病院で命を落とす人がいませんように」「付き添い看護で疲れているお母さんやご家族をどうか助けてあげてください」と自然に祈りの言葉が出てくる。本当に失礼な言い方だが、次男が生まれてきた時は本当に毎日死を覚悟しないといけない状況だったので「同じ染色体異常でもダウン症の方がよかった」と何度も思った。前述の通り周期的に嘔吐を繰り返すから食べることができなかった。このようなこともあるので胃瘻を閉じる時にはかなりの覚悟が必要だった。胃瘻があればなんとかなる。しかし胃瘻が閉じられてしまってからは本人の意思で食べるしかない。本人も嘔吐が怖くてなかなか食べようとしない。またベッドの上だけが彼の生活空間だから歩く必要がなくなかなか歩けなかった。日記では2歳になってやっと歩けたと書いてある。言葉も覚えられなかったし何より体重が増えなかった。

妻も同じことを考えていたようだが何度死のうと思ったか。苦しむ次男が可哀想でたまらなかったのだ。

思い出

そんなたくさんの思い出がある街だがいよいよ出発だ。次男を置いてこの土地を離れるような気がして後ろ髪を引かれる思いだ。なんとも寂しい。しかし仕方ない。

 


(何度も危ない手術を成功させてくださった小児外科部長の先生)

 

本当にこれからどうなるのか。全く分からないがひたすら神様を信じて進むしかない。今日与えられた聖書の言葉がある。

「主は、安心して身を寄せることのできるとりでです。 誰ひとり、このとりでに入って来て、 私を殺すことはできません。 主は、身を隠すことができる険しい山であり、 私の救い主です。 だれも近づくことのできない岩、安全を守る塔、 また私の盾です。 私はただ、主に叫び求めさえすればよいのです。 そうすれば主は、あらゆる敵から助けてくださいます。 ああ、主をほめたたえます。」

詩篇 18:2-3 JCB

主はそこに

 

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結婚記念日

17年前

このような状況にいる自分であるが今日は結婚記念日である。2004年3月22日、自分たちは結婚した。近くのホテルにあるチャペルで挙式。信頼する牧師先生に司式をお願いし自分たちは神様の前で誓約し夫婦となった。またそのホテルにあるバンケットルームをお借りして、自分たちがアレンジした菜食メニューで披露宴を開催していただいた。お越しくださったのはおよそ200名。手前味噌だがとても思い出に残る良い式だった。自分が大好きだった妻のおばあちゃんもこの時は存命でわざわざ沖縄から駆けつけてくれた。この時、少しだけハプニングがあった。実は式の1週間ほど前から体調が良くなかった。学期末、年度末の疲れぐらいに思っていたが日に日に腹部の痛みが増してくる。そしてどうしても我慢できず、式の前日(日曜日)に救急で少し離れた医療センターに運ばれた。診察したのは結構気の強そうな女医さんで明らかに自分より年下であった。触診や血液検査の結果「盲腸ですのですぐに手術をしましょう」と言われた。翌日結婚式を控えているのでそれは出来ないというと「死んでもいいんですか?」と言われた。かなり強い語調でこちらの事情などどうでも良いという感じであった。一度は手術を受けようかとも思ったがそうなれば結婚式はできなくなる。関東や沖縄など遠方から既に親族やお客様が来られている。今更キャンセルできない。どうしようかと悩んでいたら、妻が「あの人に代わってもらおう」と言い始めた。自分の同級生で同じ職場で働く友人がいる。彼はなんとなく顔立ちが自分に似ているのである。妻はその友人に代役をお願いして結婚式をするから手術を受けたほうが良いのではないかとアドバイスしてくれた。一瞬そうだな、とも思ったがやはり誓約がある。一般のキリスト教式結婚式で行われる、偽牧師がやる誓約とは違う。こちらは本物の牧師先生が神様の権能を授かって式をしてくださり、その前で誓約するのだからやはり本人でないとまずいと思い直し、気の強い女医さんにどうしても手術はできないことを伝えた。医師はかなりご立腹の様子ではあったが翌月曜日が祝日のため医療機関はやっていない、そこで式場近くにある救急病院に連絡をしてくれ何かあった時の対応を頼んでくれた。また、手術までは薬で落ち着かせるが痛み止めなど定時に飲むことをきつく言われた。結局式や披露宴の合間に係りの人が薬を持ってきてくれそれを飲み続けて何とか式を終えることができた。式の翌日、すぐに病院に行くつもりだったが親戚をお見送りしたり色々しなくてはならないことが立て込んでいて3日ほど病院に行けなかった。実家の両親も帰路についたのでそろそろ病院に行こうと思ったが、すぐに病院に行くことを約束していた例の女医さんのところには、これだけ遅くなってしまったので行きづらくなってしまった。仕方がないので近くの総合病院に行った。一通りの検査をして結果を聞いてみて驚いた。自分は盲腸ではなかった。こちらの先生がいうには「憩室炎」とのこと。盲腸に症状も痛む部位も似ていることから間違われることがあるという。「その女医さんもまだ若いから間違えてんだろうね。手術しなくて正解だったよ」と言われた。憩室炎は手術で治るのかを聞いてみたが、根治には至らないという。再発する可能性が高く、自分は手術を勧めないとその医師はいった。結局投薬で様子を見ることにした。色々なことがあってバタバタとしてしまった結婚式だったが一生の思い出となる式となった。

そして今

今は何度も書いているが妻から離婚届が届き、離婚を催促される日々を送っている。結婚後いろいろなことがありながらも二人の子どもにも恵まれ、特に下の子の命が支えられそれなりに幸せを感じていたが、自分が幸せを感じるのと反比例して妻は徐々に自分に対する気持ちを失って行ったのだと思う。別居から離婚請求、そして失業。この17年間の自分の変貌がドラマのようだなと思ってしまった。どこまでも落ちて行く。祈っても祈っても道は祈った方向と反対の方に導かれる。神様が舵を取っているのでこちらの方に落ちて行くことがご計画なのだろうか、とまた不信仰な気持ちになってしまう。昨日、自分が住んでいた家に引越しの荷物を少しだけ整理するために行ってみた。1年ほど前までここで家族4人が生活してきたことを考えただけで涙がこぼれた。情けない。本当に惨めになってしまった自分が情けない。家族のためにもしっかりしないと行けないと思いながら、やはり泣くことしかできない。帰りに、遠回りにはなるけれどいつも自分が祈るために通っていた通称「祈りのロード」を通って帰ってきた。当時、家族もいたので家で泣くこともできなかった。だから夜な夜な車でこの「祈りのロード」に出かけ叫びながら、大泣きしながら祈りつづけていた。あの時の祈りは全てその通りには聞かれず、祈ったのと反対の方向に導かれた。人間的には状況は悪くなる一方にしか見えない。

今言えること

3日ほど前に「ダニエル書」の勉強を終えた。が、自分ではもう少し深く学びたい気持ちがありもう一度ダニエル書を最初から学ぶことにした。今日は第3章を学んだ。3章はネブカデネザル王が巨大な金の像(高さ27m)を建立しそれを国民に拝ませる命令をだす場面から始まる。しかしダニエルの友人3人はこの命令に従わなかった。王はもう一度猶予を与えるがそれでも彼らは金の巨像を拝むことをしなかった。立腹したネブカデネザルは彼らを普段よりも7倍熱く燃やした炉に投げ込んだ。投げ込んだ屈強な人々が焼け死んでしまうほどの火炎であった。しかし、投げ込まれた3人の青年の他に天使のようなもう一人が現れて火の中を歩いている姿がネブカデネザルには見えた。そして炉から出てきた3人の青年は髪の毛一本すら燃えつくことはなかった。そのようなところを学んでいた。ある解説書にはこの炉はこの世の中であると考えることができると書いてあった。この生き地獄のような世界に生きる自分たちに、火の災いが襲うことが無いようイエスキリストが常にそばにいて守ってくださっている、と。どん底のどん底で迎えた結婚記念日。17年目の結婚記念日はとんでもない状況の渦中にあるが、イエス様が共にいてくださる、という信仰はまだ少し残っている。こんな状況だからこそ、より近くにいてくださっているはずであることを信じたい。しかし神様の存在を確認できる術がないので、また神様の祝福から遠く離れてしまっている気がして少しずつ神様が見えにくくにっていることも事実である。そんな状況だからこそ、自分の信仰を奮い立たせる意味でもこう言いたい。「たといそうでなくても神様は共にいてくださっている。イエス様が自分を必死に守ってくださっている」と。

あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。イザヤ43:2

When thou passest through the waters, I will be with thee; and through the rivers, they shall not overflow thee: when thou walkest through the fire, thou shalt not be burned; neither shall the flame kindle upon thee.

神は我がやぐら

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