天つ家郷(あまつふるさと)

神様、あなたに会いたくなった

「神様、あなたに会いたくなった」
非常に短い詩であるが八木重吉さんの作品である。高校生の時にこの詩を知ったがそれ以降何度もこの心境になった。無性に神様に会いたくなる。
今日は久しぶりに仕事が休みになったのでどこかに出かけようかとも思ったがいざ休みをもらうとなかなか行動できないものである。聖書の勉強をしたり部屋を片付け洗濯をして少しヴァイオリンを弾いていたらいつの間にか午後になっていた。どこに行くともなく、とりあえず母の日のプレゼントを見つけようと外出した。その後岩木山の麓まで行ってみた。残念ながら今日は濃い雲が岩木山を覆っており全景をみることはできなかった。運転しながら祈っていたが祈れば祈るほど神様の存在や天国について考えるようになり、無性に神様に会いたくなってしまった。いますぐイエス様がご再臨され、迎えに来てくれないかなと本気で考えていた。
普段、ご高齢の方を車に乗せることが多い。また病院に勤務していることも影響しているのかもしれないが命ということについて今まで以上に深く考えさせられる。外来や透析の患者さんを後ろに乗せて思うことは「この方は天の御国に入れるだろうか」ということだ。本当に不謹慎なことだが「このまま10年生き続けるのは難しいのではないか」と思うような人ばかりを車に乗せている。この人たちに天の御国を紹介し、また神様を紹介できるのは自分しかいないのではないかと思ってしまう。普通の会話でも上手に伝わらないのに聖書に話や神様の話が伝わるのだろうか、と思ってしまう。伝えたいがその勇気もない。毎日そのような悶々とした思いで運転している。

天国のこと

エレン・ホワイトという人が書いた著作の中から天国やそれに関連する記述だけを抜粋した本がある。日本ではその書名を「天つ家郷(あまつふるさと)」としている。この中にとても素晴らしい言葉が掲載されている。

私たちは、自分たちが味わった、最も辛く、大きな試練を思い出そうとして見ましたが、それさえも、天の栄光の尊い価に比べると、あまりにも小さく、取るに足りないものに見え、口にするのもはばかられる思いがしました。そしてただ、「ハレルヤ!天国はこんなにも素晴らしいのに、なんと安く、容易に手に届くのだろう」と、叫び、黄金の竪琴をかき鳴らし、天に響かせました。
天つ家郷 p86    霊の賜物 2巻 p34,35

天を目指す地上の旅人のために、天には家があります。義人のためには衣があり、栄光の冠と勝利のシュロの葉も添えられています。神のみ摂理の内にあって起き、私たちを悩ませてきたすべてのことが、きたるべき新しい世界で明白にされます。理解に苦しんだことが、その日には意味を把握できるようになります。恵みの神秘が私たちの前に明らかにされます。私たちの限りある心と目では、ただ混乱、破綻、約束の不履行としか見えなかったところに、私たちは最も完全で美しい調和を見ることができます。最も苦しい試練のように思われた体験も、実は無限の愛の神がお与えになったのだと言うことを知るようになります。すべてのことが相働いて私たちの益となるようにして下さった主イエスの優しい愛のご配慮を悟る時、私たちは言葉に言い表せないほどの栄光に満ちた喜びにあふれるに違いありません。
天つ家郷 p227.228   教会への証 9巻286-288

安息日を迎えた。今まで以上に神様と交わることのできる祝福の日である。多くのプロテスタント教会の信者さんも真の安息日を守らず日曜日に礼拝を行う。神様が安息日の真理を全ての方々にわかりやすく示してくださることを祈るものである。そしてこの安息日、間も無く行くことのできる天国について考えて見たいと思う。

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神様のお導き

動けなくなる時

日、火、木は遠方の透析患者さんを迎えに行くため通常は7時に出発。今日もそのつもりで7時に病院を出たが殊の外空いていた。普段渋滞する道もすんなり通れたので予定よりも10分早くつくことができ近くのコンビニで時間調整。そこで理解した。今日は旗日だということを。そうか、巷はゴールデンウィークだ。こちらは日曜診療をしているクリニックだからゴールデンウィークなど無縁である。その後も外来や透析の患者さんを病院にお連れした。送迎の運行も時間通りに進み人数は多かったがなかなかスムーズに仕事ができた。車の中でも祈りながら運転し神様をとても近くに感じながら仕事ができた。感謝すべきことが沢山あった1日だった。仕事が終わる直前まで本当に晴れ晴れとした気持ちで過ごせた。が、急に暗雲が心を騒がせた。暗雲と言ってはいけない。iPhoneの「写真」アプリである。このアプリが過去の写真をハイライトで表示してくれるのである。今日は何故か次男の写真ばかりが20枚ほど表示された。全て別れる半年前に撮られたものだった。次男と別れたのが2020年3月6日。何となくそのような日が来るような予感がしていたので、その数ヶ月前から次男とは色々なところに出かけた。船に乗りたいというので船にも乗った。お気に入りの滝まで出かけた。馬に会いたいというので牧場にも行った。空港の公園で長い滑り台で何度も滑った。探検をするために山にも出かけた。それぞれの場所で撮った写真が急に表示されたのである。これらの写真を見たら、急に動けなくなってしまった。この時の思い出に自分自身が持って行かれてしまい何もできなくなってしまった。仕事が終わっているにも拘らず退勤すらできなくなってしまった。ただただ子どもに会いたい、そのような気持ちで心がいっぱいになってしまい涙がこぼれた。

心の中に完全に癒えない傷のかさぶたのようなものがある。それが今回のようなきっかけでかさぶたが剥がれてしまう。そしてまたその傷口から血が出るのである。痛いから、心が痛くなるから「神様助けてください」と祈る。このような試練を通過しなくてはならない理由は何だろう。ひとつは、神様が祈りに導いているから…かもしれない。もうひとつは他者の心の痛みを理解しそれを察知できるため。このふたつぐらいしか思いつかない。神様にはもっともっと深い理由があるのかも知れない。

ひとつのドアが閉まるの別のドアが

そんな悶々とした気持ちで何とか家に戻った。悲しい気持ちを押し殺して直ぐに聖書の勉強をした。黙示録の勉強ももう少しで終わりになってしまう。聖書の勉強を終えて少しぼーっとしていたら同級生からメールが来た。時々メールをくれる友人だが、讃美歌を一緒に歌おうとのお誘いであった。彼は不思議と自分が落ち込んでいるときに讃美歌を歌おうと誘ってくれる。同級生4人で組んでいるリモートコーテット(カルテット)でまた讃美歌動画を作ろうという企画に誘ってくれた。落ち込んでひとつのドアが閉まると別の祝福のドアが開かれ自分を支えてくれる。本当に嬉しい神様のご配慮である。

自分が抱えている問題について解決があるのか、この長いトンネルがいつ終わるのか不安になることが良くある。が、神様がいらっしゃるから必ず今回のトンネルも出口があり祝福の道に変えていただけると信じている。

辛くなった時、苦しくなって生きる意味を見失いそうになるときに観る讃美歌の動画がある。少し古い映像だがこのグループには自分の親しい友人もいるのでこのグループの讃美が好きだ。Golden Angels – The Missionと検索してみるといくつも違うメンバーの、また違うアレンジの讃美を聞くことができる。是非視聴していただきたい。

Golden Angels – The Mission

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神様と自分と問題

今日のこと

今日は少し気分を変えたく送迎のスタートを30分早くした。コース上に神社がありそこに隣接する公園の雰囲気が非常に良いのでそこでゆっくりお祈りしてから1日を始めたかった。神社でお祈りというのもいけないのかとも思ったが仕方ない。一日の無事や家族のこと両親のこと、妻の両親のこと、牧師先生や病気の方々、卒業生や重荷を負っている方々のことを祈った。そして車を走らせ送迎に向かった。自分はあまり運転が好きではないし技術も無い。どちらかと言えば運転歴は長いが下手だと思う。なので技術がない分真心込めて運転しようと心がけている。患者さんのことを第一に考え、特に透析後の疲れた患者さんが車酔いしたり気分が悪くならないよう心がけている。常に同じ速度で運転しブレーキは極端の早めから衝撃がないように、また加速も体が後ろに押されないようゆっくり加速することを心がけている。ある女性の患者さんをお送りしたのだがこの方は昔長距離トラックも運転していたという。しかも競走馬を乗せていたというからベテランである。プロを乗せて走ることほど緊張することは無い。毎回、「今の加速は少し衝撃があったかな」「路面の状況を無視して振動が多かったけど大丈夫だったかな」などと気にしていた。が、今日はこの方が「これ飲みな」と言って缶コーヒーをくださった。自分はコーヒーが好きなのだが何故か缶コーヒーを飲むと気持ち悪くなる。しかし今日はありがたく頂戴して飲ませていただいた。その後ヘビースモーカーの方を乗せて病院に向かった。かなりの匂いだ。病院でこの方を降ろした後も匂いが残ってしまった。仕方がないので窓を全開にしてしばらく走った。今日は「経札おじいちゃん」の送迎はなかったので線香臭からは解放された。殆どの場合、1人ずつを送迎するのだがその度にひとりひとりの人生の重さを感じる。勿論人を乗せて走るということはその人自身の命を預かるわけだからより慎重になるが、その人のこれまでの歴史や生きてきた証も同時にお乗せしていることを考えると自分の責任の重さに圧倒される。できることなら、雪が降る前にこの仕事を辞めたい。送迎が嫌なのではない。慣れない雪道を走ってこの患者さんにもしも何かの危害を加えてしまったらどうしようと毎日真剣に悩んでいるのだ。雪の前に退職するか、再臨がくるか、あるいは異常気象で青森だけ雪が降らない冬を迎えるとか。

神様と問題と自分

多くのクリスチャンはそれに気づいて実行していることだと思うが、自分には最近になってやっとわかってきたことがある。恥ずかしい話であるが今更である。聖書研究とは別に現在ヨブ記を読んでいるが、ヨブの信仰の持ち方や神様との距離の取り方を行間から読み取り気づいたことがある。ヨブは神様に対して不平を言ったり、こんな自分なんてあの時死んでいればよかったのだ、などと言ったりしている。しかし、よくよく読んでみるとヨブは神様とヨブの2人だけの関係を中心にして、その周辺で起こっている問題を認識している。即ち、神様とヨブという二者の関係が円の中に確立されており、その円の外側に問題をおいている。それがヨブ記を読んだ感想である。しかし自分は違う。自分という人間が1人で存在していて、自分に何かの問題が起こると自分とその問題を一つの円の中に閉じ込めてしまう。そして神様に助けを求める。しかし、あくまでも自分と問題は円の中に存在し神様にはその円の外から助けてくれるよう要求している状態なのだ。上手に説明でいていないと思うが、自分の信仰が直ぐに失望に向かいサタンの思う壺になっているのは、神様と自分と問題の三者をおいている位置関係がまずいことに気づき始めたのだ。自分に負いきれない問題を必死になんとかしようと頑張っている、しかしどうにもならないので神様に助けを求めるが神様がそれに沈黙されるので失望してしまう。これが毎度毎度の思考パターンである。求めるべきは問題の解決ではなく神様の存在そのものであるはずなのにそれをいつも忘れてしまっている。神様に対する捉え方が「問題を解決してくれる便利屋さん」程度になっており、それが解決してもらえないと「もう人生なんてどうでも良い」と自暴自棄になる。これではまずい。本当にまずいと真剣に考えるようになった。もう一度神様との関係を構築し直さないと。

It Is Well with My Soul

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何故天国に行きたいのか

 今日のこと

今朝も送迎の途中で電話があり外来のおじいちゃんを迎えに行って欲しいと言われた。昨日投稿した記事にある「経札」のおじいちゃんである。行ってみるといつもいる部屋のドアが開いており玄関も空いていた。少し認知症も入っているので万が一どこかに出歩いて分からなくなっていたらどうしようと不安になった。とりあえず自分がきていることを知らせるために自宅前に車を置いて徒歩でそこらへんを探し回った。これは本来病院の送迎がする仕事ではない気がしたが、自分の親だったらどうするだろうと考え探し回った。10分ぐらい周辺を探し歩いたが見つからなかった。もう一度家に戻ってみるとおじいちゃんがいた。軽く手を挙げて「よろしく」と言って車に乗った。どこにいたのか今でも分からないがとりあえず見つかったので病院に向かった。今日はどうしてもやりたいことがあった。それは自分の務める病院で外来受診すること。結構遠くの送迎もある日で、更に医療ゴミも多い日だったので時間内に終わるか不安だったが何とか終えることができたのでそのまま外来に向かった。先日血液検査などを受けてそのままになっていたので今日は薬をもらいたく受診した。先ほどまで職場にいた人たちが受付や医療スタッフとして周りにいたので何とも恥ずかしい気持ちになった。先生の人柄が出る優しくも的確な診断で自分の悪いところが全て分かった。しかも以前に他の病院でも指摘されたことなど全てがその通りだった。おっとりしていて人柄はとても良いが腕前も素晴らしい院長だと悟った。結局処方箋をもらい今日は終了。外来の時に少し待つ時間があったのでカバンから「聖書研究ガイド」と言う冊子を取り出して読んでいた。そこに次のようなことが書かれていた。

ここで特に興味深いのは、主がアブラムに「わたしはあなたの盾である」と言われていることです。人称代名詞(あなたの)は通常、個人的な関係を表すために用いられます。神は彼と一対一の関係を望まれましたが、私たちに対しても同じです。

神の名称として「盾」が用いられるのは、聖書においてここが最初です。聖書中、他の聖書の記述が神についてこの言葉を用いることはあっても、神ご自身を表すためにお用いになったのは唯一ここだけです。

「キリストが私たちに対してお持ちになる関心は、ありふれたものではなく、母親がその子どもに対して持つそれよりも強いものです。…キリストは、あなたの安全を彼の保護のもとに置かれる。…私たちの人間的な弱さは私たちが天父のみもとに行くのを妨げない。キリストが、私たちの取りなしのために死なれたからである」(エレン・ホワイト)

天国のこと

自分は何故天国を望みそこに行きたいと思っているのだろうか。天国に行ってやってみたいこと、会ってみたい人、話したい人等々はあるが天国を望む理由ではない。やはり天国を望む理由はただ一つ、そこにイエス様がいらっしゃるからだと思う。イエス様は世界中の、しかも今だけでなくこの6000年に渡る人類歴史の様々な人をお救いになる。その数はおびただしい数になると思う。自分が救われる時にはその中の1人として救われると思っていた。しかし、前述の文を読んでいてそうではないように思えてきた。イエス様はこの自分を個人的に救い、ご再臨の時には個人的に声をかけてくださるのだと思えた。「おかえり。地上では色々な苦労があったけど全部見ていたよ。よく頑張ったね。よく耐えたね。失敗もたくさんあったし罪もたくさんおかしたけどそれは全部精算済みだから心配しなくていいよ。君が天国に来ることを信じて心待ちにしていたよ。本当におかえり」、そんな言葉をかけてもらえるような気がした。そのような光景を思い浮かべただけで涙が出てきた。人の目から全く涙をぬぐいとってくださる天国であるが、感動の涙も流さないのだろうか?涙もろい自分はイエス様に声をかけていただいただけで大泣きしそうだ。多くの中の1人ではなく自分1人を個人的に救ってくださるイエス様の愛に心から感動した。

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落胆しない考え方

今日の出来事

今日は朝一の透析患者さんが入院していて当病院にいるので迎えの必要がなく別の外来患者さんの迎えを応援することになった。最初の方は少し遠くの患者さん。週に3度外来に通ってこられる。次に迎えに行ったのが透析の患者さん。比較的近い距離にご自宅があり道も分かりやすいため苦労はない。しかもこの患者さん(おばあちゃん)はいつも色々と声をかけてくださる。青森の生活に慣れるために多くの情報を提供してくださる。非常に愛想がよく優しいおばあちゃんなのでこのお宅の迎えは心が弾む。次は予定外の外来患者さん。この人は少々認知症気味のおじいちゃん。もう一人のドライバーさんに対して悪態をつくことがあったので今日は代わりに迎えに行って欲しいとのことだった。先日この方のご自宅は習っていたのですぐにご自宅に向かった。この方は毎日外来に来られる。北海道に住む息子さんからの以来で毎日外来に通わせて欲しいとのことだった。おじいちゃん一人で暮らしているため、言い方は悪いが安否確認のために送迎無料の当院が利用されているような形である。おじいちゃんは耳が遠く寝ていることがあるので部屋の中まで入って起こすよう家族から言われている。おじいちゃんの自宅に行ってギョッとした。家の玄関を開けたところから壁や柱一面に経札が貼られている。見ているだけで胸が締め付けられそうになる。クリスチャンの環境で育ってきたので経札だらけの家など見たことが無い。それでも言いつけを守らなくてはいけないと思い中に入った。「おじいちゃん、おはようございます。入りますよ」と声をかけながら部屋のドアを開けるとすぐそこにおじいちゃんが寝ていた。洋服を着て寝ていたので迎えを待っているうちに眠ってしまったのかもしれない。枕元に入れ歯があった。大きな声を数回かけるとやっとおじいちゃんが起きてくれた。が、分からない津軽弁を入れ歯無しで喋るからいよいよ分からない。とにかく笑顔で「迎えに来ました」と何度も言うとやっと目が覚めたのか理解してくれた。迎えってまさかあっちの迎えと勘違いしたのではないかと一瞬動揺した。おじいちゃんを車に乗せて走り始めるとやはり臭う。お線香の匂いだ。患者さんを乗せて密室になるのでどうしても気になるのが匂いである。お線香の匂いはまだ耐えられる。一番苦しいのはやはりタバコである。透析患者さんにヘビースモーカーが2人いる。この人たちを乗せる時は気づかれないよう事前に窓を少しだけ開けておく。そうしないと吐きそうになってしまう。

仕事中に数件メールが入った。あとで確認してみるとかつての保護者からだった。自分の退職した旨が機関紙に載っていて驚いた、とのメールだった。そう言う発表があったのか、と思いながら自分のことではあるがどこか人ごとのように考えていた。

あるメッセージ

患者さんを乗せていない時間に講演会や礼拝のメッセージを聞くことが多い。今日もある牧師先生のメッセージを聞いたいた。このお話は過去にも数回聞いたことがあるはずなのだが、今日は聞きながら「そうそう」「まさにその通り」と車の中で独り言を連発した。苦難に直面して神様に祈るも沈黙し続ける神様に対して様々な思いが湧き上がってくる。不満、不平等感、文句、神様に対する失望等々。ヨブの人生をなぞりながらそのような場面に遭遇したらどうすべきか、と言うことをお話ししてくださっている。自分が下手な説明をするとかえって混乱してしまうかもしれないので是非このメッセージを聴いていただきたい。クリスチャンであってもなくても苦しみ、悲しみに直面している人には是非聴いて欲しいメッセージである。

メッセージはこちら(人生の重荷を軽くする三つの話 2、落胆しない考え方)

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我がゆく道、いついかに

思い出

自分のスマホには「写真」と言うアプリがあり過去の写真が日替わりで画面に表示される。1ヶ月前や一年前の今日の写真などが表示される。これが自分を今の現実から急に幸せな過去に引き戻すので涙が出てしまったり、懐かしさにため息が出てしまったりする。今日は1ヶ月前の写真が急に表示された。広島市内のアパートを引き払う直前に撮った写真だ。荷物を全部片付け綺麗になった部屋を撮影した。日記を読み返してみたら、3月25日はまだ青森に行くことが決まっていなかった。一度そのような話があったが給与の面で折り合いがつかず断ったと25日の日記に記してあった。1ヶ月前には自分が青森で病院のドライバーをしていることなど想像できなかった。毎日患者さんの送迎をしてドアの開け閉めをして戸口で「お疲れ様です」「ご利用ありがとうございます」「お大事になさってください」と頭を下げ、また少し遅れたりすると文句を言われるがそれに対しても終始笑顔で「申し訳ありません」と頭を下げる自分を想像することはできなかった。運転が全て終了したところで病院中のゴミを集めていることを誰が想像できたであろうか。病院だから感染ゴミという危険なゴミも処理する。それも全て自分がやる。入院病棟や処置室、透析病棟に行って「失礼します」と言ってゴミ箱に手を入れてゴミを拾い上げ回収する姿を1ヶ月前には想像できなかった。勿論最初は子どもの学費を作るためにどのような仕事でもさせていただくという気持ちでここにやってきた訳だが、いまはイエス様が仕える人になることを教えてくださったのでその模範にしたがいたくやっている。少なくとも5年前の自分とは全く違う仕事をしている。人間、どのようにでも変わるものだと思った。

今朝の礼拝

今朝は早朝に透析の患者さんを迎えに行かなくてはならず早朝出勤したが、朝の礼拝に5分遅れで戻って来ることができそのまま礼拝に参加した。今日は院長先生のお話だった。途中からだったので内容の全ては分からなかったが、現在病院になるM.R.I.の調子が思わしくなくこれをリース交換するために業者と話し合った時のことを礼拝で紹介してくださった。院長先生は現在72歳。リース会社は言いにくそうにしかし明確に「今後先生もいつまでこの仕事を続けられるか分からないので」とリースに対して慎重な意見を述べていたとのことだった。院長先生も「10年後医師を続けていられるか分からないのは勿論だが明日この命が取られるかもしれない状況を毎日過ごしている」とお話しくださった。その通りである。私たちの誰一人明日の保証はないのだ。明日生きているという保証はないのである。自分の尊敬する先輩で中学生の時に大変お世話になった方がおよそ1年前に急逝した。昼まで児童と一緒に遊んで汗をかくぐらい運動をしてその後の昼休みに少し休んでいる時にそのまま息を引き取られたのだ。神様が「お疲れ様。もうここまででいいですよ。世の終わりの大変な状況を経験しないで再臨まで少し休みなさい」と言って眠った状態にしてくださる。そのような日がいつくるか、殆どの人が分からないのだ。分かっているのは病院で命の期限を切られ闘病生活をしていらっしゃる方のごく一部なのかもしれない。何れにしても私たちは一瞬先のことまでも分からないで生活している存在なのだ。だから次の讃美歌が心の響く。

わが行くみち いついかに
なるべきかは つゆ知らねど
主はみこころ なしたまわん。

そなえたもう 主のみちを
ふみて行かん、ひとすじに

In some way or other the Lord will provide;
It may not be my way,
It may not be thy way;
And yet, in His own way,
“The Lord will provide.”

Then, we’ll trust in the Lord,
And He will pro-vide;
Yes, we’ll trust in the Lord,
And He will pro-vide.

我がゆく道

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主に帰ろう

安息日のルーティーン

今日は安息日で礼拝日。朝から弘前のある方を訪問して教会までお連れする奉仕をさせていただいた。病院の送迎の方は毎日行っているので道も覚えてきたが、この方は週に一度の訪問なので今日も間違えずに行けるか不安だった。ナビのついていない車での迎えだったのでカンピュータナビを使ってなんとかたどり着いた。その方をお乗せして教会までのおよそ30分間、色々なお話をさせていただきながら運転していた。その方は昔大型トレーラーや夜行バスなども運転していた経験があるとのことでプロドライバーである。訳あって運転をされなくなったとのことだが、ただでさえ上手ではない自分の運転が恥ずかしく萎縮してしまった。その方はトレーダーで結構景気の良い話もされていた。自分はそのような方面に全く明るくないので説明されても意味はよく分からなかった。教会について、聖書研究の時間と礼拝の時間を過ごして帰ってきた。家に戻ってから他の教会の礼拝メッセージを色々と検索して聴いていた。その中で非常に心引かれるメッセージがあった。

苦しみの意味

広島にある教会の牧師さんが話していたことだった。聖書の中にハンナという女性が登場する。旧約時代の預言者、指導者として有名なサムエルと言う人がいるがその母親である。ハンナは長い間子どもができず悩み悲しんでいた。夫エルカナにも相談するが埒が明かない。もう一人の妻であるペニンナには子どもが与えられていた。そして子どもが生まれることでこのペニンナがハンナに辛く当たるようになる。その屈辱もありハンナは神様に必死に祈るのであるがなかなかこの祈りが聞かれない。食べることもできないほど苦しみ祈り続けた。そしてある時、ついにこの祈りが聞かれる時が来るのである。そしてこの祈りが聞かれ、生まれてきたのがサムエルであった。

神様はハンナの真心を求めるが故に彼女の胎を閉ざされた。今日、聴いたメッセージによれば「苦しみの意味」は神様からの招きであるとのことだった。神様は一人一人を心から愛し「災いの計画」ではなく「平和の計画」を持ってくださっている。自分の祈りがことごとく神様から無視されている状況いついて本当に苦しんできたが、今日の礼拝メッセージで少し光が見えた気がした。必死に祈り神様に訴え続けてきたが、実は必死に求めていらしたのは神様の方で私の応答を求めていたのかもしれない。聖書のホセア書には次にような言葉がある。

「さあ、わたしたちは主に帰ろう。
主はわたしたちをかき裂かれたが、
またいやし、わたしたちを打たれたが、
また包んでくださるからだ。

 Come, and let us return unto the LORD:
for he hath torn, and he will heal us;
he hath smitten, and he will bind us up.

ホセア6:1

自分なりに必死に神様にすがり祈り続けてきたつもりだったが、神様の期待されているものではなかったのかもしれない。もう一度自分自身を見つめ直し信仰をいただきながら祈り続ける日々を送りたいと思う。「主に帰る」、自分のようなものを招いてくださる「主に帰る」ことを真剣に考えたい。

「悲しみから歓びの歌へ」(メッセージは24:20から)

主に帰ろう(讃美歌)

 

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平和をつくりだす人

Naokoのこと

少し前にnaokoから電話があった。残念ながら仕事時間中で電話に出ることができず仕事が終わってからメールにて電話に出られなかったことを詫びた。彼女は現在米国ワシントン州に住んでいるためこちらの終業時間は彼女の真夜中になるためメールにした。その後何度かやりとりがありもしも今日(日本時間4月23日金曜日)休みがもらえたなら電話をすることを伝えていた。西海岸に電話するときは日本時間の昼頃に掛けると現地は夜なので繋がりやすい。今日もその時間にかけて見ると彼女と話すことができた。彼女は昨年の記事でも投稿したが米国にて歯科医をしている女性である。自分が教員になった時の高校3年生で物理の授業を教えた。彼女の目標は歯科医師であったが少し点数が足りないため毎日夜間に補習をしていた。1時間が3600秒であることを即答できずに一生懸命時計の文字盤を数えたり、現役で歯学部が合格しなかったために留学すると言って自分を驚かせた人物である。詳しくは「生徒の夢」という投稿に記してあるのでそちらを一度読んでいただきたい。元々非常に明るい女性であるが今日も常に明るく、自分を笑わせてくれていた。決して状態の良くない自分であるがいつの間にか彼女のペースに引き込まれて大いに笑わせてもらった。不思議なのは彼女は日本語を使う環境が全くないにもかかわらず、日本語力が全く衰えていないこと。海外に30年もいて日本語を全く使わなければ、日本語もかなり怪しくなって来るが彼女にはそれが全くない。やはり天才なのかもしれないと改めて感じた。話すだけで人を幸せにできる人というのはやはりいるのだと思った。そういう能力が与えられているのか。彼女も決して順風満帆で苦労が全くなく能天気に明るくしているわけではない。聞けば先日もお母さんが倒れてしまいそれを心配する毎日を送っている。それでも常に明るく人を笑顔にしてくれる。

人のために生きる人

元自分の親戚(義理のいとこ)で心臓外科医をしていた青年がいる。彼もまた人のために生きたいと常々考えていた人物である。さだまさしさんの代表曲の一つである「風に立つライオン」のモチーフとなった柴田紘一郎(しばた こういちろう)医師に魅せられこのいとこも単身留学してその腕を磨き上げた。

突然の手紙には驚いたけど嬉しかった
何より君が僕を怨んでいなかったということが
これから此処で過ごす僕の毎日の大切な
よりどころになります ありがとう ありがとう
ナイロビで迎える三度目の四月が来て今更
千鳥ヶ淵で昔君と見た夜桜が恋しくて
故郷ではなく東京の桜が恋しいということが
自分でもおかしい位です おかしい位です

三年の間あちらこちらを廻り
その感動を君と分けたいと思ったことが沢山ありました
ビクトリア湖の朝焼け 100万羽のフラミンゴが
一斉に翔び発つ時 暗くなる空や
キリマンジャロの白い雪 草原の象のシルエット
何より僕の患者たちの 瞳の美しさ

この偉大な自然の中で病いと向かい合えば
神様について ヒトについて 考えるものですね
やはり僕たちの国は残念だけれど
何か大切な処で道を間違えたようですね
去年のクリスマスは国境近くの村で過ごしました
こんな処にもサンタクロースはやって来ます 去年は僕でした
闇の中ではじける彼等の祈りと激しいリズム
南十字星 満天の星 そして天の川

診療所に集まる人々は病気だけれど
少なくとも心は僕より健康なのですよ
僕はやはり来てよかったと思っています
辛くないと言えば嘘になるけど しあわせです

あなたや日本を捨てた訳ではなく
僕は「現在」を生きることに思い上がりたくないのです
空を切り裂いて落下する滝のように
僕はよどみない生命を生きたい
キリマンジャロの白い雪 それを支える紺碧の空
僕は風に向かって立つライオンでありたい

くれぐれも皆さんによろしく伝えて下さい
最后になりましたが あなたの幸福を
心から遠くから いつも祈っています

おめでとう さようなら

常に人を幸せにすることだけを考えて生き続ける人がいる。自分には真似のできない生き方である。まるでイエスキリストのような生き方である。聖書には次のような言葉がある。

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。

 Blessed are the peacemakers:
for they shall be called the children of God.

マタイによる福音書5:9

いつか自分も人を幸せにできるような大きな人間になりたい

さだまさし×佐渡裕 「風に立つライオン」

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イエス様のご再臨

遅れているのか?

色々な意味でイエス様のご再臨が本当に間も無くあるように感じている。思っている以上に早くイエス様は来られるのでは無いだろうか。

自分がよく知るある方のお話である。その方は数年前に最愛のお母様を亡くされた。お母様と言ってもかなりのご高齢で間も無く100歳を迎えるという年齢で亡くなられた。寿命とは言え最愛のお母様を亡くされたこのかたは非常に落ち込み悲しんだ。そしてその死から5年が過ぎる今でもその悲しみが癒えないという。そして、その寂しさを何に向けているかというと伝道である。本職は他にあるが伝道に力を注いでいる。70歳を超えても現役の医師であるが仕事以外の時間を捻出してキリスト教関係の書物を執筆し出版された。休みなく働き現在も週末には伝道講演会を毎週開催している。何故、そこまで身を粉にして伝道するのか。それは早くご再臨が来てお母様にお会いしたいからだという。

自分も別の意味で早くイエス様がご再臨されないかと思うことがある。苦しい境遇の中で必死に生き続けている方がいらっしゃる。泥水を飲むような生活に甘んじていらっしゃる方がいる。お子様を亡くされて生きる希望を失ってしまった方がいる。そのような方を見るたびに、イエス様のご再臨が早く来てくれないと、本当に苦しんでいる方々が救われないと思ってしまう。

特急ひたち3号

大した知識はないが自分は昔から鉄道ファンである。乗るのも見るのも好きである。ある時何気なく鉄道関係のチャンネルをYouTubeで検索していたところ心に刺さる動画を見つけた。場所は千葉県にあるJR「柏駅」。東日本大震災で一部区間が不通となっていた特急ひたちが全線開通となり柏駅に入線する場面である。ホームには係員の放送が流れる。「本当に、本当に長らくお待たせいたしました」と9年ぶりとなる電車の入線が遅れたことを詫びている。普段駅で流れる放送はの「お待たせしました」は大した時間経過ではない。山手線であれば2,3分のことである。どれだけ電車がこないところでも1日に1本は来る。つまりどれだけ待ってもせいぜい24時間である。しかしこの電車は9年間入線しなかった電車である。本当に感動的な構内アナウンスで涙が流れた。

イエス様のご再臨

イエス様のご再臨はどうなのだろうか。再臨を待ち望みつつ眠りについた方々は本当にたくさんいらっしゃる。また今生きている我々の中にもイエス様を心から持ち望んでいる人がたくさんいる。多くの人が待ち望んでいるご再臨。今はまだきていないが、柏駅に特急ひたちが入線したように、イエス様のご再臨も必ず現実のこととして起こる。その日を心から待ち望み、今日できる備えをしたいものである。

ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

The Lord is not slack concerning his promise, as some men count slackness; but is longsuffering to us-ward, not willing that any should perish, but that all should come to repentance.

第2ペテロ 3:9

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それでも

厳しい1日

今日は仕事も忙しかったが、それ以上に妻からの攻撃がすごかった。ひっきりなしにLINEに怒りのメールが届く。何を誤解しているのかとにかく文句を言いたくて仕方ない様子。妻は自分にしか当たることができないのでとにかく耐えるしかない。返信が無いと言ってはさらに逆上してしまう。運転中は勿論無視しているが仕事の合間に返信をすると余計にヒートアップする。罵詈雑言、なんでもありだ。本当に悲しい気持ちになり、また心が苦しくなった。毎日必死に祈っているのに神様は一向にこの祈りには応えてくださらない。応えて下さらないだけでなく更に悪い状況に進んでしまっている。本当に疲れてしまった。今も無視しているがLINEにメッセージが送りつけられている。

そのような中で昨年秋に行われて伝道講演会のメッセージを聴きながら心を癒していた。以下今日聴いたメッセージの内容である。

それでも…失望落胆しない生き方

人生には色々なトンネルがある、高速道路などのようにトンネルの前にトンネルの長さが記されていると分かりやすい。「あなたの抱えているこの問題は後3ヶ月で解決しますよ」などのように。しかしそうはなかなかならないものである。サタンが人間を破滅に追い込むために一番効果的で最もよく使う武器が「失望・落胆」だという。今日は私たちを取り巻く「失望や落胆:について考えたい。

人生を生き難くする6つの思考回路がある

①白か黒かの考え方
②拡大解釈
③「どうせ」「きっと」という考え
④~でなければならない
⑤(人の)心の読みすぎ
⑥レッテルを貼る考え

現在、総人口の11.3% が恐怖症を経験し、全般性不安障害にかかる人が年に3%いると言われている。

聖書の中にも燃え尽き、不安や恐怖のためうつ状態になった人が挙げられている。ダビデ王、預言者エリヤ、ヨブ等々。使徒パウロもその一人である。彼が経験した苦難は数知れない。投獄、むち打ち、半殺し、棒で叩かれる、石で打たれる、難船、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難など。何度も失望落胆し「もうダメかもしれない」と思ったパウロが「失望落胆しない生き方」を教えている。彼は人一倍落胆する状況の中で実際そう仕掛けている人物である。その秘訣は次の③つである。

①目に見えるものに捉われない。目で見ることのできないものをみようとすることが大切。目に見えないもの = 神様

②外なる人は衰えてもうちなる人は日々新たにされる。今まで大切に思ってきたもの、ことが壊れて行くことがある。しかしその時神様は新たなものをあなたの中につくりだしてくださっていることを忘れないように。鳥に歌を教える時には鳥かごに黒い布をかけ暗い状態にして教えると覚える。神様は人生の暗闇の中でしか教えることのできない歌をあなたに覚えさせようとしている。

③今のの失望落胆する出来事を他人のそれと比較して天秤にかけてはならない。自分の失望する出来事を天秤に置いたなら反対側には「天の御国」を置いてその重さを測ること。

籠の中の鳥は真昼の間や、また他の声を聞く時には飼い主が教えようとする歌を決して歌わないものである。これを少し、あれを少しと部分的に覚えるだけで決して完全なメロディー全体を覚えない。しかし飼い主が籠をおおい、その鳥に教え込もうとする歌だけが聞こえる場所に置くと暗い中で、鳥はその歌を全部覚えるまで何回も繰り返し歌い、ついに完全なメロディーを歌い出す。それから鳥を外に出すとその後はいつでも明るみでもその歌を歌うことができる。そのように神も、その子らを取り扱われる。私たちに対しても教えようとなさる歌があり、苦悩の暗黒の中で私たちがそれを覚えてしまうとその後はいつでもそれを歌うことができるのである。

ミニストリーオブヒーリングP456

→では神様が私たちに教えたい歌ってなに?
「神様に全てを委ねること」
「神様に全てを委ねることこそ失望落胆しない生き方。

メッセージ(2020年10月14日)はこちら

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