久しぶりに

今日のこと

今日もいつもと同じ様に5時過ぎに起床した。が、出勤できないのでゴロゴロとしていた。二度寝したわけではないが何と無く布団の上で本を読んだり聖書を読んだりしていた。朝食を摂ってボーッとしていたら午前9時過ぎにP.C.R.検査の受付をしてくれたクリニックから電話があった。相手が凄く恐縮した声で話すので「もしかしたら陽性だったのかな?」と一瞬不安になった。自分は濃厚接触者を車に乗せていたということで検査を受けた。即ち濃厚接触者の更に濃厚接触者として待機していた。そして濃厚接触者は陰性だった。だから自分も陰性だろうと思ったが、同時に最悪のことも考えた。即ち濃厚接触者が陰性で自分が陽性判定が出ること。こうなれば感染経路も分からないし、自覚がないから何人もの患者さんを車に乗せて送迎してしまっている。勤務先の医院でクラスター騒ぎになったら自分は首をつるしかない。そんな最悪なことも考えていたから、電話の暗いトーンが恐怖になった。が、次の瞬間「陰性でした」と言われて本当にホッとした。そのことをすぐに勤務先に報告した。「院長と今後のことを話し合って折り返し連絡します」とのことだったが5分後に電話があり「陰性で濃厚接触者も陰性だから問題ありません。すぐに出勤してください」と言われた。この様な展開を想像していなかったので出勤する準備は出来ていなかった。慌てて準備をすませ仕事についた。慌ただしかったが出勤できて本当によかった。やはり仕事ができるということは感謝すべきことでやっと社会の一員に戻れた気分だった。

もうひとつのこと

自分が出勤するのを今や遅しと待っている(?)人がいた。初対面の中学生だが、仕事場でお世話になっている方のお嬢さんだ。中間試験が終わって一息つくための中間休みで自宅に戻って来ている。彼女の家庭教師をすることを約束していた。勿論仕事があるので合間を縫っての勉強会ではあるが久しぶりに人に勉強を教えることができるので、自分はこの機会をとても楽しみにしていた。送迎がひと段落したところで彼女のところに行って自己紹介をした。そして数学から勉強することにした。今日の勉強は連立方程式。中学生にも分かる説明をしようと久しぶりに頭をフル回転させて頑張った。数の概念、特に正負の概念が少し曖昧になっている気がしたので数直線を何度も書きながら説明した。久しぶりに勉強ができ、しかも人に教えることができとても充実した時間を過ごさせてもらった。そしてとても楽しかった。明日も一緒に勉強することにしている。明日は数学と英語の2教科を勉強しようと思っている。彼女の母親曰く「be動詞が分かっていない」とのこと。自分も中学生の時にbe動詞がよく分からなかった。自分が勉強した頃は「…である」と説明されたが、これは正しくないことが後々分かった。しかし正確にbe動詞を説明しようと思えばかえって難しくなってしまう。聖書の中にもbe動詞が有名な聖句がある。”I am that I am.”という言葉だ。神様が自分自身を紹介するときに用いた表現である。日本語ではこれを「私はありてあるもの」と訳している。むしろ分からない。何れにしても明日の仕事、そして勉強会が楽しみである。短期間限定の教師復活。ありがたい。

When I Cry | Fountainview Academy | Official Cover | 4K

 

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不思議なこと

今日のこと

P.C.R.検査を受けて2日が経過したが今日は検査結果の連絡がなかった。仕事は休まなくてはならないので自分の代わりに休日返上で出勤してくださる方に対して本当に申し訳ない。早く検査結果を知らせてもらえないものだろうか。結局今日も1日家に篭り聖書研究や聖書通読などに時間を使った。それでも暇だったのでピアノやバイオリンの練習をして料理をした。久しぶりに友人が電話を掛けてくれたので良い時間も過ごせた。明日こそは検査結果が知らされないかと期待してしまう。これ以上休むのは本当に申し訳ないし自分自身の気持ちも滅入ってしまう。

祈りがこたえられている?

昨晩ある人から電話があった。自分の所属するキリスト教会の前総理(総代表)からだった。この人は自分を教育の世界から追いやろうと企てた中心人物のひとりなので正直言って話をする気にもなれなかった。憮然とした態度で電話に対応した。また話の途中で自分が務めていた教育現場がその責任者あるいは教育界のトップの誤ったリーダーシップでどれほど大きな問題が起きていたのかも話した。総理なのに教育現場のことは全く知らなかったようで愕然とした。学校が潰れるかもしれないほど大きな問題が起こっていたにも拘らず教育局長が意図的に情報を隠蔽したために総理もそれらの大事件を知らされていなかったようだ。話の後半で「実は君の奥さんから、自分の主人を何とか教育の世界に復帰できるよう尽力して欲しいと頼まれた。それで電話を掛けたのだ」と言われた。頭が真っ白になる思いだった。一瞬何を言っているのかが理解できなかった。自分に対して何度も離婚を要求して来て、攻撃的な態度を決して緩めない妻がそのようなことを頼んでいたとは俄かには信じられなかった。暴力的な言葉で執拗に自分のことを攻撃してくるのが日常的になっている妻が、何故自分の教育界への復帰に心を注いでくれるのだろうか?不思議でたまらなかった。またこれが本当なら心から感謝すべきことである。勿論妻の思いに対して。また今まで長期に渡って祈っても一向に神様はその祈りを聴いてくださらなかった。聴いて下さらなかったというよりむしろ逆の方向に自分を導かれた。それに失望を感じる毎日だったが神様が祈りにこたえてくださったのだろうか?そうだとしたらこれこそ奇跡であり感謝すべきことである。本当に嬉しかったが、自分はその元総理に言った。「今の学校(自分がかつて務めていた学校)はほとんどの教員が自分のことしか考えられず、神様を見上げて教育活動を行なっていない。そして何より生徒を見ていない。だから生徒のちょっとした変化にも気づくことができず生徒からも不信感を持たれている。この状況が改善されない限り学校は本当に立ち行かなくなってしまう。今年度の新入生はたったの39名である。学則定員70名に対して39名である。この状況を救えるのは自分が最も信頼している2人の教員だけである。ひとりは他の教員から暴力被害を受け理不尽な理由で教育局長により転勤させられたM先生。そしてもうひとりが自分の妻である。この2人が学校を変える力を持っているので、本人たちがどのようなことを言おうとも何としても彼らふたりを学校に戻すよう」要求した。この元総理も相当腹黒い人物なので自分の心からの訴えをどのように捉えたかは分からないし果たしてそのようになるかも分からない。しかし何よりも神様は全ての状況をご存知でそれらを支配しておられる。その支配者である神様がこのふたりを教育現場に戻してくださることを心から祈るものである。

Golden Angels 10th Anniversary Concert ‘Singing Missionary’ –
We Will Meet Again

 

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祈り

今日のこと

安息日である今日、本来ならば教会で礼拝をする日であるがP.C.R.検査の結果が出るまでは外出自粛、人との接触は厳禁なので自宅にてオンライン礼拝をした。いくつかの教会の礼拝メッセージを視聴しながら色々なことを考えさせられた。奇しくもそのうちふたつの教会はメッセージのテーマが「祈り」であった。ともに切り口は違ったが終末時代に生きる自分たちが何よりも大切にすべきことが祈りであることを教えてくれた。そして諦めずに執拗に祈り続けることの大切さを教えていただいた。
夕方、ひとりの卒業生から連絡がありしばらくやりとりをしていた。本投稿でも何度か紹介したことがある青年で現在EVA航空でパイロットをしているN君からの連絡だった。N君は昨日遅くにもメールをくれていたがその時は他愛も無い近況報告のやり取りで終わった。が、また今日も連絡があったので何か話したいことがあるのでは無いかと思いゆっくりと聞くことにした。段々と問題の核心に迫って来た。彼は海外(台湾)勤務なので日本から台湾まで「出勤」しそこから乗務に入り終わると日本に帰ってくるという生活を続けている。ところが、このコロナの影響で日本に帰ると2週間の隔離生活に入ってしまうので、3ヶ月間乗務し続け休みをためてそれで日本に帰国するスタイルに変更しているとのこと。奥様、可愛い2人の幼いお嬢さんたちに会いたい気持ちを我慢して仕事に従事している。また乗務のあとはホテルから外出することはできずその都度P.C.R.検査を受けているという。「この生活ももう限界です」と泣きそうな声で言っていたのが本当に気の毒でたまらなくなった。コロナの影響がこういう形で出ていることも知らなかった。彼のためにも真剣に祈る必要を感じた。

祈り

自分が祈りについて何か語れるほど信仰や知識があるわけでは無いので19世紀から20世紀にかけて活躍した女性クリスチャンで著作家のE.G.Whiteさんの言葉を色々な書物から抜粋して紹介したいと思う。

祈っても祈っても道が開かれないように思えることが度々あります。神様は本当におられるのだろうかと。「しかし彼は私の歩む道を知っておられる。彼が私を試みられるとき私は金のようにでてくるであろう。(ヨブ23:10)」ヨセフもヨブも神は何一つ無駄なことはなさらないと信じていました。だから次のように言えたのではないでしょうか。「私の足は彼の歩みに堅く従った。私は彼の道を守って離れなかった(ヨブ23:11)」と。E.G.White 今日の光 p20
私どもの祈りが聞かれないように見える時も、み約束にかたく頼らねばなりません。なぜならば、祈りが答えられる時が必ず来て、私どもが最も必要とする祝福を受けることができるからであります。
E.G.White キリストへの道 祈りの特権 p127

神の民の捧げる祈りを神がお聞きにならないと言う恐れは全くない。私たちは誘惑や試練にあった時に失望落胆に陥り熱心に祈り続けなくなってはいけない。・・・この母親に、これほどの求めてやまぬ心を起こさせたのはキリストご自身であった。裁判官の前で訴えるやもめに勇気と決意を与えたのもキリストであった。又幾世紀もの昔、ヤボクの渡し場で不思議な格闘の際に、ヤコブに同じ不屈の信仰を与えたのもキリストであった。こうしてご自身が人の心にお植えになった確信に対して主は必ず報いをお与えになったのである。・・・これらの天の使いたちによって人の子らの言葉と行いがもれなく記録されている。神の民に対する残酷と不正行為、悪人の権力によって、神の民に加えられた苦痛もみな天に記録されるのである。
E.G.White キリストの実物教訓p158

祈りは魂の呼吸であり、すべての祝福はいのりを通ってきます。人が自我に気づき、悪を悔い改め、いのりを捧げるとき、神はその苦闘をみられ、その葛藤を見守られ、心からの祈りに心を留められます。神は指をその人の脈に置かれ、脈拍のすべてを書き留められます。
E.G.White 2001年度2期今日の光P33

我々はもっと密室で祈らなければならない。キリストはぶどうの木で我々はその枝である。そして我々が成長して豊かに実を結ぼうと思うならば我々は生きたぶどうの木から絶えず水分と栄養分を吸収しなければならない。我々はぶどうの木から離れては何の力もない。イスラエルの中に信仰と力が何故もっとないのだろうかと私は天使に尋ねた。「あなたがたは主の手をあまりにも早く離しすぎる。あなたの願いを御座に訴え強い信仰をもって訴え続けなさい。約束は確実である。あなたがたが願い求めることは受けると信じなさい。そうすればその通りになる」と天使が言った。それから私はエリヤのことを示された。エリヤは私たちと同じ人間であったが熱心に祈った。彼の信仰は試練に耐えた。彼は主の御前で七回祈った。そしてついに雲が現れた。我々は確実な約束を疑い我々の不信仰のために救い主の御心を傷つけていることを私は悟った。「武具を身につけなさい。その上に信仰の盾をとりなさい。それが悪しき者の放つ火の矢から心臓、すなわち生命そのものを守るのである」と天使が言った。もし敵が失望した者をイエスからそらして自分たちを眺めさせ、彼らにイエスの尊さ、イエスの愛、イエスの功績、イエスの大きな哀れみなどを考えるかわりに自分たちの無価値なことを考えさせることができるならば、彼は彼から信仰の盾を奪い去って自分の目的を達成することができる。人々は敵の火のような攻撃にさらされる。であるから弱い者はイエスを仰いでイエスを信じなければならない。その時彼らは信仰を働かせるのである。  
E.G.White 初代文集 P152、3

2021年5月29日 「ある父親の祈り」 礼拝LIVE配信 メッセージは25:35から

2021年5月29日 礼拝「万物の終りが」伊藤裕史牧師  メッセージは23:45から

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いつの間にか

今日のこと

今日はいよいよP.C.R.検査に行った。場所がわかりにくくて何度も行ったり来たりを繰り返してしまった。予定の時間より30分ゆとりを持って出たから良かったけどギリギリに出発していたら間違いなく遅刻だった。時間になったら車のまま検査場であるテントに向かう。そこに厳重な防護服を着たスタッフの方が3人いらして1人の方が検査をしてくれた。以前にYouTuberの瀬戸弘司さんの動画で唾液をたくさん取られると聞いていたので少し多めに水を飲んで行ったが、実際の検査はインフルエンザと同様の鼻の粘膜から採取する方法だった。スタッフの方が真面目な顔をして「右の鼻と左の鼻、どちらがいいですか?」と聞いてきたのでマスク越しに吹き出してしまった。近くのスタッフも必死に笑いを堪えていた。別に鼻に右利きとかないからどちらでも良かった。10秒ぐらいで終わってしまった。因みに自分は濃厚接触者のそばにいたということで検査を受ける羽目になったのだが、その濃厚接触者は陰性だった。これで自分も陰性だと思ったが、逆に妙なプレッシャーを感じてしまった。これでもしも自分が陽性だったらどうだろう。感染経路が全く確認できない。しかも何度も送迎をしているからどこで誰にうつしているか分からない。ここはなんとしても陽性になってはいけない、と心に誓った。結果は2,3日後らしいが現在弘前管内が非常に混み合っているとのことでもう少し遅れる可能性があるとのことだった。自分が自宅待機をすればその分誰かが自分の代わりに休日返上で仕事をしなくてはならないのだ。何としても早く仕事に復帰しなくては。検査を終えて家に戻り自宅でひそりと過ごしていた。夜になって久しぶりに長男とLINEをしてみた。

成長している

長男の近況も気になりどんな様子かを尋ねた。比較的元気そうで安心した。そろそろ学校に戻る方向で考えるのはどうかと持ちかけてみた。勿論本人もできることなら学校に早く戻りたいとのことだった。しかし自分の楽器にいたずらをした人が出てこないと悶々とした気持ちが晴れず今後の寮生活や寮長としての責任を果たす上でも支障があるとのことだった。とにかく先生たちに対しては非常に失望しているようで教師を全く相手にしていなかった。そのような中で、ある親友の話をしてくれた。同級生の彼は頭脳明晰で全国模試でも30位以内に入る実力を持っている。しかし、この学校に来て先生たちから色々と言われるようになり辛くなってしまい先学期(2年の3学期)はほとんど学校に戻ってこなかった。長男はこの子の悩み、先生たちに対する不満などをよく聞いていたようだ。そして彼は小学校時代にいじめを受けていたこともありそのことも長男に話していたようだ。その子にとって毎日が地獄だったが唯一救いだったのが心療内科の先生だったという。その先生からたくさんの励ましをもらった彼はできれば自分も心療内科医になりたいと思っていることも長男に話し、長男も彼に自分の夢や医療系の話をしていたという。長男が友達一人一人のことをよく見ていて、人の良いところだけを見ながら付き合っていることがよく分かった。この学校の先生のことは大嫌いだが友達や先輩のことは大好きだという。学校で問題があって、母親の元に帰って引きこもっているのかと思ったが長男なりに色々なことを冷静に考え前向きに捉えていることがよく分かった。自分は子どもたちを自分のポケットの中で育てたいと思っていたので、いつの間にか外の世界で成長している長男にハッとさせられた。色々なことを長男から学ばせてもらった気がする。
広島三育学院中学校バイオリン・チェロ「Coming Home」

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終了

コロナの続報

昨日、コロナの濃厚接触者の近くにいたということでP.C.R.検査を受けるようクリニックを紹介された。当医院の指導でそのクリニックに行ったが結局検査をすることはなく検査の予約だけをしてくれた。それでも診察料として2000円近くとるのだからどういう仕組みになっているのか分からない。とりあえず明日28日金曜日に弘前の医師会病院で受けるよう支持された。昨日はそれで終わったのだが職場からの連絡で検査までは出勤するようにとの指示だった。少し違和感もあったが指示に従って今日は早朝から出勤した。幸いというか、今日迎えに行くはずだった人が当の濃厚接触者なので送迎の仕事はなかった。しかし仕事はしないといけないので自分なりに気を使っていくつかやらなくてはならない仕事のうち人との接触がない仕事をすることにした。それは草抜きだ。これが結構大変な作業である。面責は広いが入り組んでいるので作業がしにくい。今まで何日もかけて作業してきたがすでに終了したところにまた草が生えてきている。とりあえずそこは無視してまだ手をつけていない場所の草を抜いた。腰が痛くてたまらない。1時間ほど作業した頃だった。職場から電話があった。やはり検査で陰性が出るまで自宅にて待機してくれとのことだった。当然そういう指示が出るだろうと思っていたところで今日の出勤命令だったのでおかしいとは思っていた。とりあえずなるべく人に会わないように注意して病院を後にした。急いで自宅に戻ったがまだ午前中である。急に仕事がなくなってしまい何をして良いのか分からなくなってしまった。とりあえずルーティーンである聖書研究と聖書通読をしてその後バイオリンの練習をした。部屋を掃除して洗濯をしてやっと昼過ぎ。なかなか手強い。時間がすぎるのが遅い。仕方がないので料理をして気分を変えようとした。色々と作ってしまったが食べる人がいない。4人で食べても食べきれないほど作ってしまった。その後聖書を読んだりYouTubeを視聴して何とか時間を潰した。

退勤命令で感じたこと

仕事は決して楽ではないし、今の仕事が自分にあっているとも思えない。できれば転職したいとすら考えている。しかし、そんな仕事でもなくなるとなんとも寂しいものである。一時的であるとはいえ今の職場は自分を必要としていない。というか職場にいてはいけない存在になってしまったのだ。以前の仕事は自分にしか果たせない責任もありそれなりに専門職でもあった。しかし、今の職場、今の仕事は今日自分が死んでも誰でも代わりが務まる仕事なのだ。運転免許さえあれば誰でもできる仕事をしているにすぎない。そう考えると何でこの仕事を選んでしまったのかと思う。切羽詰まった中で子どもの学費を稼ぐためにそれ以外の道がなかったからなのだが、それにしても誰にでもできて専門職でもなくすぐに代わってもらえる仕事はやはりやりがいに欠ける。仕事ができない寂しさと、誰にでもできる仕事を自分は必死に従事していることに何か恥ずかしさと複雑な感情を抱いてしまう。教員に戻れたらどれだけ良いだろう。そんなことを考える1日であった。いよいよ明日はP.C.R.検査。これで陽性だったらいよいよどうなるんだろう。今のところ症状らいしいものは何も出ていないが、無症状の人もいるというから何とも言えない。ここで人生が終わってもいいんだけどな。

Shout To The Lord – Hillsong Worship

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コロナは突然に

濃厚接触者

今日は送迎スタッフが1人休みを取る日なので少し忙しかった。送迎の他に草抜きや医療廃棄物の処分などいくつかの仕事もあるので結構疲れた。一日の最後にゴミの処理をするのだがこれが結構時間のかかる作業で1時間程かかる。その作業もほとんど終わりかけの頃、夕方だというのに何となく院内がざわついている印象があった。送迎スタッフの方が「何かあったのかね?院長先生がコロナがどうとか言っていたけど」というのでまた感染騒ぎかなと思った。1週間前もそのようなことがあった。透析患者さんが友人数名でスナックで飲み食いしていたそうだがそのうちの1人がコロナに感染していた。うちの透析患者さんが濃厚接触者となり院内に緊張が走った。透析はしないと命に関わるのでかなり特殊な環境で透析治療を行った。結局この患者さんは陰性だったので事無きを得たのだがまた同じようなことが起こるのかな、と不安になった。これが医療現場で働くということなのか、と現実の緊張感や切迫感を肌で感じた。

今日のこと

その後院内で情報が整理され何故か自分が呼ばれた。やはりうちの透析患者さんが濃厚接触者であることが判明したとのことであった。その患者さんは妹さんと同居している方だが、妹さんが福祉施設で働いておりその職場でクラスターが発生し罹患した。同居しているお兄さんでもあるこの透析患者さんが濃厚接触者としてP.C.R.検査を受けることになった。で、何故自分が呼び出されたかというと、実はこの患者さんは遠方からこられている方で片道1時間ほどかかる。このかたの送迎は私だけがすることになっている。他の患者さんはその時に手の空いてる人が協力しあって送迎するのだが、この方だけは自分以外誰も送迎しない。実は昨日もこの方の送り迎えをした。片道1時間ほどかかるので往復で2時間、この方と車中で過ごす形になる。自分が濃厚接触者の濃厚接触者というとことですぐに病院に行くように言われた。指示されるままに指定の病院に行った。自家用車で行ったのだが車中で検査ができるものと思っていた。が、結局検査はできなかった。P.C.R.検査の予約をしてくれただけだった。明後日の13:30に弘前市にある医師会病院で検査をするとのことだった。現在弘前市は毎日感染者が増え続けておりかなり大変な状況である。検査が受けられなかったので未だ自分がどのような状態なのかは分からないが感染しているという前提で過ごさないといけないと思っている。とにかく人に接触しないこと、これしかない。

もし感染していたら

やはり自分が感染していたら、と考えてしまう。非常に不謹慎であるが正直なことをいうとコロナに感染して命が尽きるのであれば今の自分はそれを素直に受け入れられると思う。自分がかつて居た教育界からは陰謀もあり嫌われるだけ嫌われて追い出された。怒りもあるけれど道理の分からない自分を神だと思っている教育局長に怒りをぶつけるだけ無駄だと思っている。彼を神様が裁いてくださるのだから自分は黙していようと思っている。が、そこまで毛嫌いされ妻からもゴミ扱いされる人生ならばこの辺が潮時とも思っている。だからコロナで全てが終わるのであればそれはそれで良いことだと思える。両親に葬式を出させてしまうこと、最後まで子どもに会えなかったことは心残りだが仕方ない。自分のことはそのように理解できる。しかし自分が最も恐れているのは、今日も送迎で何人も車に乗せてるのである。流石に1時間以上かかる遠方の方はいないが30分近くお乗せしている人はいる。透析患者さんだけでも今日は5人乗せているし、外来患者さんも合わせるともっと多くの人を乗せてしまっている。しかもその殆どがご高齢の方なのである。自分は死んでそれで終わりで良いが、人様を殺めてしまう可能性があることを考えると本当に苦しく、また辛くなる。どうか仮に自分が陽性でも今日車にお乗せした患者さんには絶対に感染していないようにと祈るものである。本心をいえばコロナといってもどこか対岸の火事のように考えていたが、医療現場で働くようになって非常に身近なものであることを今回学ばせていただいた。

【LIVE配信】スーパームーン×皆既月食――Total Lunar Eclipse 2021,Japan

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4年前のこと

5月になると

昨日、5月24日は自分の恩師でもあり自分が教員になってから多くの場面で一緒に働いてくださりご指導くださった先生の命日だった。亡くなる数年前に膀胱に癌が見つかりその治療を受けていた。先進医療である「膀胱温存治療」を行った。この術式ができるのが大阪医科大学の先生だけだそうでそこに入院した。一度は快方に向かう状況にもなったがその後骨転移などが見つかり数回の入退院を繰り返した。当時、まだ自分も教員(教頭)だったので学校のスケジュールを見てその先生を見舞った。丁度中間試験の時期なので試験が終わった直後に大阪に向かい先生の病室を尋ねた。何度かお見舞いには行っているので勝手は分かっている。いつものように同僚でもあり奥様に迎えられ病室に入り先生と色々なお話しをした。少し黄疸が出ているのと目があまり良く見えなくなっていることが気になった。私に向かって「もう少し近くに来てもらえる?先生の顔がよく見えないんだ」とおっしゃっていた。結構近い距離にいたがそれでも見えないようだった。長居して疲れさせてしまってはいけないと早々に引き上げようとしたが、何度か引き止められ結局1時間以上話し込んでしまった。帰りがけに奥様が1階の出口まで送ってくださった。「今、ギリギリの状態なんです。もうお医者さんもその時を待つだけだと言っているので希望はないんです」と話してくださった。自分の方が受け止められない言葉だったので「そう言わずに祈りましょう」と言ってその場でお祈りをして病院を後にした。帰りの新幹線でその先生のこと、先生とのたくさんの思い出をひとつづつ丁寧に思い出していた。

メール

夜遅くなって家に着いた。もう一度先生のことを神様にお祈りしてその日は就寝した。翌日も仕事をしながら祈り続けた。癒し主なるイエス様は必ず奇跡を起こしてくださると信じていた。人にはできないことも神にはできる、と聖書に書いてあるではないか。イエス様が少し触れてくださるだけで一瞬でこの癌が癒される、そう信じていた。そしてその晩、23時を回った頃奥様からメールが届いた。「今主人が息を引き取りました」と。信じられなかった。癒されることだけを信じ祈って来たからそのメールの文字は認識していたが意味は理解できなかった。そして、それから学校で行う前夜式、告別式の段取りを組み始めた。何となく成り行き上自分が葬儀委員長のような立場に担ぎ出されてしまい、お世話になった恩師のためと心を込めていろいろな準備を整えた。昔の同僚である先輩の先生方に、その先生が亡くなられたことを電話で連絡した。電話をするたびに昔の楽しかった思い出が鮮明に思い出されて泣けて泣けて仕方なかった。先輩の先生方に電話をしながら「これからどうしたらいいんですか」と泣きついた。本当に心が引き裂かれるような別れだった。

昨日のこと

先生が亡くなって4年が経つ。時が解決してくれると思っていたが、なぜか年々寂しさが増していく気がしている。そして奥様にメールを送った。「今年もこの日がやって来ました。時が心を癒すと思っていましたが、あの時よりも寂しさが増しています」という内容だった。すぐに奥様が電話をくださった。いつも明るくひょうきんな奥様なので、「青森で何しているの?」「津軽弁は分かるようになったの?」などと明るく話していただいた。ずっと笑いながら話していたが、一瞬「でもね、この時期。緑が綺麗で自然界が喜んでいるような時期だけど、自分にはこの時期が一番辛いんだよね。やはり辛い」と言っておられた。当然である。部外者の自分ですらこれだけ悲しいのだから、奥様の辛さや悲しさは想像を絶するものだと思う。聖書には天の御国に迎え入れられる時私たちの目から涙が全く拭い取られるという。もはや死もなく、苦しみも労苦もない。早くそのような天に御国に行ってみたい。

講演会「天国に行こうとしているのです」河原久名誉牧師 2020-4-18

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変化と変化率

岩木山の変化

しばらく天気の悪い日が続いていた。曇り、急に土砂降りの雨などが続いていたが今日は久しぶりに雨の降らない1日だった。患者さんの送りの帰り、久しぶりに岩木山を見た気がした。そして驚いたことがあった。それは雪がかなり解けて減っていること。雪のある岩木山はなかなか雄大だが雪が解けて山肌がはっきり見えるとかなり険しい山であることが分かる。岩木山の雪は毎日少しずつ解けていたのだと思うがしばらく見なかったので大きな変化に気づいた。これが今日の岩木山である。

これを見るとまだ上の方に雪が残っているので解けている印象はないが1ヶ月ほど前の岩木山の写真と比較しているとこうなる。

こう見るといかに解けたかが分かる。
身長も少しずつ伸びているがしばらく会っていない小さい子の背丈を見ると急激に大きくなったように感じる。数学的にいうならば身長の伸びをグラフの縦軸にとり、時間経過を横軸に取ることにより身長の平均的な伸び率がグラフから読み取れる。数学ではこれを平均変化率あるいはグラフの傾きという。横軸は何でも良いのだが、日常生活の中では時間を横軸に取ることが多い。横軸に時間、縦軸に位置をとるとその変化率のことを速度という。更に横軸に時間、縦軸に速度をとるとその平均変化率は加速度とも言われる。時間経過(時間の変化)に対する何かの変化を見ると色々なものの移り変わりがよく分かる。写真などはその良い例かもしれない。

横軸に時間以外のものをとったら

送迎の道すがら、時間以外の要素を横軸にとったらどうなるのかと考えていた。例えば、数値化することはできないと思うが「神様との距離」を横軸にとり縦軸に「叶えられた祈りの件数」をとったらどのようなグラフになるのだろうか。或いは「祈りと聖書通読に費やした時間」を横軸にとり縦軸には「神様のことを瞑想し考えた時間」を取るとどうなるだろう。もしかしたら比例の関係、即ち直線グラフではなく二次曲線になるのかもしれないと考えていた。自分の信仰生活を振り返えると上がったり下がったりの繰り返しだが、しかし試練や抱える問題の深刻さを横軸に、そして神様との親密さを縦軸にとるならばこれも二次曲線になるのではないかと思った。今、自分の生活から神様や神様のことを考える聖書研究や聖書通読、祈りの時間がなくなったらどうなってしまうのだろうと不安になる。少し前まで、それらがなくても結構普通に生活できていた。少なくともできていたように感じていた。しかし今は絶対に無理である。神様がいてくださること、その神様を信じられること、その神様に祈れることが絶望の縁を歩く自分にとってどれだけ大きな支えになっていることか。本当に感謝なことである。
2021年5月22日「苦難の中のヨセフ」礼拝LIVE配信

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聖書看板

東北ならでは?

青森に来ていくつか気づいたことのひとつに「聖書看板」が多いということが挙げられる。前職の広島でも時々見かけることはあったが、青森に来てからは頻繁に見かけるようになった。東京で育ったので浅草など人の多いところや歩行者天国に行くと大きな看板に「死後に裁きがある」などと書かれていて独特の口調で語る説教っぽいテープを何度もリピートしている街宣の人を見かけることが多かった。彼らも実はこのキリスト看板と同じ団体の人とのことだった。この活動をしているのが「聖書配布協力会」という団体とのこと。宮城県に本部をおくことから東北地方にはこの「キリスト看板」が多く存在するとのことであった。

聖書配布協力会

Q:キリスト看板は全国にどれくらいあるのか
A:およそ50万枚。ただし沖縄県には存在しないとのこと。
活動範囲は東北地方から東日本へと拡大して行ったが25年ほど前からは西日本にも活動範囲を広げている。
看板の種類はおよそ200種類。大型のものではたたみ一畳ほどの大きさのものもある。ほとんどが金属製だが中にはステッカータイプもあるとのこと。
看板の性質上いたずらをされたり壊されたりすることもあるようだがすぐに修繕や取り替え作業にかかるとのこと。また看板を貼らせてくれる協力的な家はあまりなく1日に10軒ほど開拓できれば良い方だという。

聖書配布協力会とは (聖書配布協力会HPから引用)
「聖書配布協力会」は、日本をはじめ世界中に、
聖書のことばを伝えることに専念しているキリスト者と、
それを支援するキリスト者の集まりです。
「地は、神の前で堕落し、地は、暴虐で満ちていた。」
と、聖書にあるとおり、今の時代は乱れに乱れています。
その中にあって、「聖書のことば」をそのまま伝えることを目的に、
互いに助け合って活動しています。

主な活動として (聖書配布協力会HPから引用)
・全国の小中学校、高等学校の児童生徒の希望者に 聖書の分冊を無料で配布。
・人が多く集まる路傍において、聖書のことばを放送。
・キリスト者による個人伝道活動。
・プラカードや看板による聖書のことばの伝達。

この時代の街宣活動

看板のインパクトは結構強烈である。人を恐怖に陥れる戦法なのか見ていて「自分はこんな恐怖心を煽る宗教団体に所属しているのか」と思ってしまう。もう少し違うイメージで人々の心に迫れると良いのではないかと思うが、その姿勢には非常に感服するところがある。自分にはそのようなことはできないしましてや街宣など怖くてできない。昔、自分がまだ大学生だったことアーサー・ホーランドという牧師が新宿のアルタ前の信号で夕方になるとメッセージを語っていたのを思い出す。ガードレールの上に乗り「そこの道行く綺麗なお嬢さん、こちらの疲れ切ったご主人…」信号待ちの40秒間で人々を惹きつけるメッセージを語るのである。何度か当時の写真週刊誌「focus」にも掲載された記憶がある。今ならスマートにYouTubeで顔出しなしでメッセージを伝えることができる。しかし、自分は古いタイプの人間なのか、こういう身体を張った活動にある種の説得力を感じている。ネットは一度の多くの人を情報の中に落とし込むことができる。一方街宣や直接メッセージは一度に聞いてくれる人の数が非常に少ない。非効率的である。が、訴えるものがある。別の言い方をするならばハートがある。ジャパネットTakataも興味あるが、秋葉原の駅前で包丁の路上販売している人の方が話術も技術も優れている気がする。情報を伝える方法にもアナログとデジタルがあるとするならば、デジタルは人の視聴覚に訴えアナログは人の心に訴えている気がする。アナログとデジタルがもう少しお互いを認め合えるともっと正確で心に訴える情報を届けられる気がする。
「信じること」アーサー・ホーランド牧師@罪友教会(2018/06/03)

キリスト教

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何で泣いたんだろう?

今日のこと

10時からの集会に出席するために10分前に到着できるよう家を出た。が、教会についてみるとすでに集会が始まっていた。今日は9時30分から開始だったとのこと。結構こういうことがある。週によって集会の開始時刻が変わり、またその連絡があまり徹底されていないのがこの教会の特徴かもしれない。恵まれた集会と礼拝の時間を過ごして家に帰ってきた。安息日は教会で祝福された余韻に浸りたい気持ちがありまず聖書通読の続きをした。通読を始めてから2週間が過ぎたが毎日10章を読むことは続いている。今日は民数記。明日から民数記の続きと申命記になる。通読の後ヨブ記の聖書研究をしてその後、色々なところで行われた礼拝を視聴した。広島教会、東京中央教会などいつもの順番で視聴したが光風台教会の順番になった。本当に申し訳ない視聴の仕方なのであるが、光風台教会は牧師先生のメッセージの時は視聴しその他の方がお話をされる時はパスして昼食をとる。今日は残念ながら牧師先生の話ではなかったので昼食にしようかと思ったが、一瞬聞こえた礼拝メッセージの声が聞き覚えのある懐かしい声だったのでそのまま視聴した。ずっと昔から友人であり尊敬する先輩でもある上谷先生が礼拝のメッセージをしていた。まず子ども向けの話に非常に感動した。是非視聴していただきたいのでネタバラシはしないがとにかく良い話だった。そして大人向けの話がとても良かった。先生の教師として経験された事を元にメッセージは進んで行く。この話の中に投稿のタイトルでもある「何で泣いたんだろう?」という言葉が出て来る。詳しくは是非視聴していただきたい。

実物教訓

前述の礼拝メッセージを視聴しないと意味が分からないと思うが、自分は教員をしている頃あることがあまり好きではなかった。集団の中に何かができない生徒、助けを必要としている生徒を中心にみんながその生徒に手を差し伸べることによって集団が強い絆で結ばれて行く、という展開やそのような教育手段である。確かにその効果はある。あるが多くの場合その集団に目を向けて教育効果を評価する。しかしその「できない生徒」がどういう気持ちでいるかにはあまりスポットが当たらない。自分はそのような生徒の気持ちが気になってしまうのでこのような手法が好きではないのだ。今回のメッセージのもそのような話が出て来る。しかし、なぜか嫌な気持ちになることはなかった。違和感を感じることもなかった。何故だろう。今日はずっとその事を考えていたが、ひとつの答えにたどり着いた。それは、メッセージを語る上谷先生が本当の弱者の気持ちを十分に分かっている先生だからだ。色々な事情を抱えながら、それでも前向きに感謝を忘れずに生活する上谷先生の人柄を知っているからだと思う。本当の苦しみを知っている人の生き方は何も語らなくても人に訴える力がある。上谷先生は正にそのような方だと思う。とても良いメッセージなので是非視聴していただきたい。

2021年5月22日 安息日礼拝〈ライブ〉

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