どうして?

目次
  1. 弱者
  2. 試練

弱者

今日は教会で短いメッセージをすることになっていた。先日職員礼拝で3年前に被災した「西日本豪雨災害」について話したのだが同じ内容で教会でも話して欲しいとの依頼を受けたためだ。先日話した時はノンクリスチャンの方が多かったが今日は基本的にクリスチャンばかりの集会だったので切り口やまとめ方も少し変えてお話しした。実は昨日からとても悲しい気持ちを抱えていた。福岡で起きた保育園児が送迎バスに置き去りにされ死亡するという悲惨な事件を知ってしまったからだ。これから小学校に入学する時期で出来ることがどんどん増える成長段階である。ネットでもこの子が無邪気に笑っている姿などが何度も映し出され涙が止まらなかった。なんで?どうして?という疑問しか出てこない。なぜこういうことが起きてしまうのだろう。この子が暑くて苦しんでいる姿を想像するだけで心が張り裂けそうになる。鍵を開けてドアを開ける術が分かっていたら簡単に出られたのに。保育園で出欠確認をしていたら大人が気づけたはずなのに。表現が悪くて申し訳ないが大切な命の無駄死にの様な気がしていたたまれない。誰が悪いとかではなく、朝家を出るときにまさか自分が今日命を落とすなど考えもしなかったこの子を生き返らせて欲しい、お母さんにこの子を返して欲しい。その思いだけである。いつも立場の弱い人、力の弱い人が犠牲になる。本当に悲しいことである。実は自分もこれに似た経験をしてしまったことがある。昔、家族で宮崎に行ったことがあった。自家用車で行き数日宮崎で過ごして広島に戻ってくる途中でのこと。この日は寒波で山口県に入ってから雪が路面を覆う様になっていた。高速を降りて海沿いを走らないといけなくなり高速を降りる前にサービスエリアで少し休憩し今後の方針を練り直すことにした。この時、ほんの一瞬だったが運転席から降りてドアを閉めて体を伸ばした。そして助手席にいた当時の奥さんも同じ様に車を降りた。すごく寒かったので子どもを助手席に乗せてそのまま降りたのだがそのすきに子どもが運転席に移って集中ドアロックを閉めてしまったのである。エンジンはかけっぱなしで鍵はついたまま。一瞬でパニックになった。ドアを開ける様に色々と言ってみるがまだ幼い子どもには意味が伝わらずどうしようもなかった。JAFを呼ぶか。不幸中の幸いだが暖房をつけた状態なので外に出された親たちは凍えそうだったが子どもは暖かい車内で終始笑顔でいてくれた。が、次の瞬間思い出した。この様なときのためにフロントのナンバープレートの裏側にスペアーキーを磁石で貼り付けていたことを。それを取り出してことなきを得たが一瞬パニック状態になってしまったことを思い出す。

試練

コロナの感染者も東京ではいよいよ4000人を超えてしまった。全国の感染者も12000人を超えてしまった。何か先が見えない長い長いトンネルに入り込んでしまった気分である。新たな感染症、疫病がこの冬に流行らないとも限らない。これから地球はどうなってしまうのだろう。聖書の預言によれば、残念だがこれから先世界が良い方向に進むことはないことが記されている。もっと危機的な状況を通過する様になるのだろう。本当に恐ろしいことである。世界や地球の状況もそうであるが、自分たちの個人的な生活にも多くの試練や困難がおとずれる。絶体絶命の状況を経験されている方もいるかもしれない。旧約聖書には信仰の父と言われたアブラハムという人が登場する。この人も数々の試練を経験する。例えばイシュマエルという子どもがいたのだが、これは奥さんとの間に生まれた子どもではなかった。そして神様が子どもを与えると約束されたのは正妻であるサラとの間に生まれることになっていた。先走って女奴隷ハガルとの間に生まれたのがイシュマエルであった。正妻との間にイサクが生まれたことによりサラはこのイシュマエルがイサクに悪影響を与えると言ってハガルとイシュマエルを家から追い出す様にアブラハムに要求するのである。子どもと別れる辛さを経験したことがあるアブラハムであるが再び子どもを取られる試練が襲ってくる。神様が与えると自ら約束してくださったイサクを燔祭として捧げる様に、という命令だった。イシュマエルに続いてイサクもか、とアブラハムはひどく落ち込んだに違いない。しかし、アブラハムは神様を全的に信頼していたのでその命令に従った。いよいよイサクをささげるべく刃物を振り上げた時に神様は「そこまで」と言ってくださった。物凄い苦悶の時を過ごしたに違いない。色々な試練を経験するとき、それでも神様を信頼して委ねることが出来るかが問われているのだと思う。難しい。

これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。
創世記22:1-3

2021年7月31日 礼拝LIVE配信

メッセージは16:50から

【熱中症】5歳男児死亡…保育園バスで意識不明 福岡(2021年7月30日放送『news every.』より)

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危機に備える

世の終わりの前兆

昨日に続き今日もコロナの感染者が全国で1万人を超えてしまった。今までも危機的な状況だったがいよいよ手遅れ、というところにきてしまったのかもしれない。度重なる、また解除されない緊急事態宣言にも慣れてしまい言葉遊びのようになってしまっていることが要因のひとつかもしれない。営業の自粛を求められているお店などはもう店をたたむしか無い状況に追い込まれているがそれをあざ笑うかのように人の往来はどんどん増えている。また色々なところで事故や災害の知らせを耳にする。夏は特にそういう季節だから心して居ないといけない。実際、今日は遠出をしていたのだが十和田湖を抜けた山道で乗用車が5台衝突事故を起こしていた。時々降る雨が非常に激しく国道とは言え山道で非常に狭いため慎重に走らないとすぐに事故が起きてしまう道だ。自分も何かの手助けをしなくては、と思いながらこの時自分も重大なトラブルに巻き込まれていたのでそのゆとりがなかった。そのことは後述する。聖書にも世の終わりに際して戦争、偽キリストの出現、争い、地震、飢饉、偽預言者の出現、不法の蔓延、人々が愛情に乏しくなるなどの預言をしている。またエレンホワイトという人も世の終わりに起こる諸事件を次のように述べている。

今私たちは固い地盤の上にいるが、次の瞬間には足元の地盤が持ち上がってくるかもしれない。地震は最も予期しない時に襲ってくる。

エレンホワイト 終わりの時代の諸事件 P22

人の子が天の雲の中に現れる前には、自然のあらゆるものが激しく揺さぶられる。天からの稲妻は地上の火と一体となり、山々は炉のように燃えさかり、町や村は激しい溶岩の流れに襲われる。地殻の大変動によって、土の中の溶融した岩石の塊が水の中に投げ込まれて水は沸騰し、岩や土が飛び散り大地震が起きて、多くの人命が失われる。

エレンホワイト 終わりの時代の諸事件 P23

絶体絶命

前述の通り今日は遠出をしていた。青森にいる以上一度は行ってみようと思っていたところに行った。結論から言えばあまり行く価値の無いところだったが話のネタに、と思って片道2時間半かけて行ったのである。どこに行ったかは今日は割愛する。国道102号線を黒石方面に進み黒石を超えて十和田湖を目指す。目的地は更に先だが山を超えて行くため道も険しく、またガソリンの消費も進む。自分の車はプリウスなので1リッターあたり25kmぐらい走る。が、山道なので途端に燃費が落ちた。家を出るときには目盛りが半分より少し下だったので給油をしないで出かけた。それが間違いだった。途中で急にゲージの消灯が早くなりあれよあれよというまにあと2目盛りしか無くなってしまった。途中にはガソリンスタンドが1軒しか無い。しかもそのスタンドの営業時間がタッチの差で過ぎてしまい給油の可能性がなくなってしまった。そこに例の大雨。バケツをひっくり返した様な勢いで降る雨と残り少ないガソリンのため急に心細くなってきた。加えて十和田湖畔の山はクマが出る。もしも山の中で車が止まってしまいJAFを呼んだとしても来てもらえるまで車で待機しなくてはならない。その間にクマが出たらどうしようかと絶望的な気持ちになった。明日は教会で短いお話をする様に言われているがそれもキャンセルしないといけない。募る不安の中運転を続けていたが遂に一番したのゲージ目盛りが点滅に変わってしまった。いよいよ終わりである。ここからあと何キロ走れるのか。黒石まではまだ30km以上ある。絶対に無理だ。黒石まで辿り着けない。無理だと思うが、しかし山にとどまることもできない。どこまでいけるか、とにかく祈りながら進むしかなかった。エアコンを止め少しでも下り坂になればアクセルを離しゆっくり進んだ。目盛りの点滅という現実を見ると不安しかないのでとにかく礼拝のメッセージを流しながら神様のことだけを考えながら車を走らせた。

そして

結論から言えば、結局ガソリンスタンドまで奇跡的に辿り着けた。本当に奇跡だと思った。一晩山の中で過ごすことも覚悟していたから文字通り生還した気分だった。大きな不安に押しつぶされそうになったが、それでも少しは冷静でいられたのは恐らく礼拝メッセージを聞いていたためだと思う。現実はゲージ目盛りの点滅する状況。しかしその点滅には目を向けず心の目を神様に向けていたことが大きな力になったのだと思う。実生活も同じだと思った。現実の世界には人を不安に陥れ絶望的な気持ちにさせることばかりが勢揃いしている。しかし視線を転じて神様の方に向けると愛に溢れた、自分のために働いてくださるイエス様にお会いできる。現実の世界を見る以上に神様の世界を見続けている必要があることを痛感した。

聖書研究ガイド21年3期5課

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信仰

AD31年

イエス様が十字架のかかる直前。用意されたロバに乗ってエルサレムに入城された。一日中城内を見回り遅くなったのでその日はベタニア村に退かれた。

翌日、イエス様と弟子たちがベタニア村からエルサレムに向かう途中お腹が空いたのでイチジクの木を見つけて実がなっていないかと近づいてみた。ところが実のなる時期ではなかったので何も見つけることができなかった。イエス様はこの木に向かって「今から後いつまでも、お前の実を食べる者がないように」と言われた。そしてエルサレムに着き宮に入られた。以前にも同様のことをされたが、そこで商売をする人々を追い出し始めた。これが2度目の宮清めである。イエスはその時に「『わたしの家は、全ての国民の祈りの家と唱えられるべきである』と書いてあるではないか。それだのにそれを強盗の巣にしてしまった」、と言われた。

そしてその日の夕方都を出ると今朝イエス様が呪われたイチジクの木がすっかり枯れているのを弟子たちが見つけた。その時イエス様は神様を信じることを強く勧めた。

イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。

And Jesus answering saith unto them, Have faith in God.
For verily I say unto you, That whosoever shall say unto this mountain, Be thou removed, and be thou cast into the sea; and shall not doubt in his heart, but shall believe that those things which he saith shall come to pass; he shall have whatsoever he saith.

マルコによる福音書11:22,23

今日の御言葉

今朝与えられた御言葉は前述の御言葉の次の部分である。

そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。

Therefore I say unto you, What things soever ye desire, when ye pray, believe that ye receive them, and ye shall have them.

マルコによる福音書11:24

よく知られている御言葉である。が、これを実践するのは容易なことではない。祈ったことがすでに叶えられたと信じる信仰が自分には無い。神様を信じ、祈ったことが成就することを信じることができたらどれだけ幸せなことだろう。

なぜ信じられないのか

何故自分は祈ったことが叶えられると信じることができないのだろうか。理由は簡単である。今見えている世界、現実の世界からの情報があまりにも多いからである。また現実の世界を見続けそこで生きてきたから今の状況を見て次はこうなる、というのが何となく分かる。突然大きな変化が起こることはまずないのである。見えている世界からの情報があまりにも多すぎるために見えていない世界を信じることができないのである。ならば、見えていない世界を心の眼でもっと見続けることでそこからの情報を多くすることはできるのではないか。理屈から言えばそうである。が、これを実践するのは非常に難しい。難しいけれど現在チャレンジしている最中である。

『饅頭のような聖書の22の話』第13回「あなたの祈りを聞いて動いてくださる神がおられる」10月15日 講師:河原 久

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決して失望してはならない

患者さんからの言葉

今日の送迎で一番最初にお乗せした透析患者さんのこと。75歳の女性だがこの方は津軽弁を使わずに自分に理解できる言葉で話してくださるのでとても助かる。いつも自分のような者にも配慮してくださり色々と声を掛けてくださる。青森には慣れたか、食事はどうしているのか、家族と離れて寂しくないか等々。本当に心優しい方である。今日はこの方がご自分の生い立ちを少し話してくださった。6歳の時にお父様を亡くされその後お母様が女手一つで子どもたちを育ててくれたという。母親の苦労を見ているから自分も早く独り立ちして母親を助けたいと思っていたという。その後結婚して現在の土地に引っ越してきて夫婦で運送業を始めた。子宝にも恵まれ3人の女の子が与えられたという。全てがうまく行っている時はトラックを10台所有して多くの従業員を使っていた。しかしまさにこれからという時、この女性が50歳の時にご主人が病気で急死してしまう。子どものことや会社のこともあってどうしようかと途方にくれるが兎に角一生懸命働いた。そしてトラックを少し減らして堅実な経営をしてなんとか子どもたちを育て上げたという。この方が言うには、小さい頃に父親を亡くしているからその時の苦労を思い出すと色々な困難が乗り越えられるのだそうだ。今も透析治療の合間を縫って現役で会社をやりくりしているが、苦労は決して悪いものではないと言う。そしてどのような時にもいつも感謝の心を忘れなければ道は拓けると教えていただいた。

嵐の中でも

人生の先輩から教えていただくことは非常に意味深い。毎日、人生の嵐を経験しているが今日もかなり強烈な攻撃が何度もあった。子どもが学ぶ中学校の先生が余計なことを妻に報告したことがきっかけでトラブルは発生した。学校の先生もこうなることを知っていてわざとやっているのではないか、楽しんでいるのではないかと思えるようなことをされた。本当に苦しくてたまらないのだが、今朝教えていただいたことをずっと思い出していた。長い長いトンネルをいつ抜けられるのかは分からないけれど神様だけを頼りながら必死祈って生きるのもある意味祝福なのかもしれない。今日は嵐の中で色々なことを考えさせられた。

エレンホワイトの言葉

「たとえこの宇宙にあなたのことを心に留めてくれる人が一人もいなくてもイスラエルの主なる神は憐れみと優しさと同情に満ちた思いをもって、あなたに目を留めてくださる。あなたが失望・落胆するとき、主はあなたの強い衝動をご覧になる。あなたは偉大な牧者イエスのふところにあって最も深く、豊かで、活力に満ちた同情にあずかる。」

「神の導きのみ手を求めて手を差し伸べているすべての者にとって、最も落胆している時が、神の助けが一番近いときである。」

「キリストはすべての人の苦しみ、すべての人の悲しみを知っておられる。彼はご自分と軛を共にするすべての魂の軛の重さを知っておられる。私たちが心の奥底に感じていても表現することのできない悲しみを知っておられる。たとえ人が私たちに同情してくれなくても、誰も同情してくれないと感じるには及ばない。キリストは知っておられる。」

「決して失望してはならない。失望した人は何もできない。サタンはあなたを失望させようとしている。神に仕えても無駄だ、何の益にもならない、この世の楽しみと喜びを満喫するのも悪くない、と彼は言う。」

「神が夜の暗い時に歌を与えてくださることを覚えなさい。暗闇があなたを覆うように見えても、雲を見てはならない。黒雲の向こうには、つねに輝く光がある。巣はすべての魂のために光を備えておられる。希望と喜びに向かって、心の扉を開きなさい。」

King’s heralds Never Give Up

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医者いらず

りんご

毎日職場には車で通勤している。歩いてもいける距離だが何と無く車で行ってしまう。駐車場は職場の前の道を挟んだ向かいにある。が、この駐車場のすぐ後ろがりんご畑。何もわからないうちはりんごの白い花を見ては感動したりりんごの実がつくと喜んでいた。ところがあるとき気づいたのだがりんごにはほとんど毎日のように農薬をかける。本当に毎日のようにかけるのである。自分の車は黒系なのでこの薬が散布されると途端に汚くなってしまう。特別車に気を配っている方ではないがそれでも週に2度洗車をしないと恥ずかしい状態になる。ひどい時は週に4回洗車したこともあった。りんごは医者いらずの食べ物と言われるけれど、こんなに薬を巻いて大丈夫なのかな?と不安になる。青森に来て初めて分かったことである。ちなみに、昔はよく見かけたりんご箱。最近はほとんどがダンボールになってしまったので全く見かけなかったが青森にきてからりんご箱が作られている工場やそれを運ぶ様子などを頻繁に見かけるようになった。まだりんご箱は健在なのだ。

丈夫な人

医者いらずと言えばイエス様の言葉を思い出す。

イエスはまた海べに出て行かれると、多くの人々がみもとに集まってきたので、彼らを教えられた。また途中で、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをごらんになって、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
マルコによる福音書2:13-17

当時の徴税人はユダヤ社会からひどく嫌われていた。ローマの手下となり同胞から税金や通行税を取り立てる。この仕事は入札制だったようでローマにいくら収めるかを申告し一番高い金額を提示したものがこの仕事にありつける。最初に提示した金額をローマに収めることさえ怠らなければあとは徴税人の自由になる。税金や通行税をいくらにしようがそこは言い値である。だから法外な金額を提示することもある。敵国を隠れ蓑にして私腹を肥やす徴税人はユダヤ社会から村八分にされた存在である。誰からも相手にされないので徴税人同士、また遊女や犯罪者が友達となる。またユダヤ社会の家は非常にオープンで家の中で食事をしている様子を外から見たり外から中の会話に入ることもできる。イエス様の粗探しをして何とか追い詰めようとする律法学者たちは、ユダヤ社会では忌み嫌われる存在である徴税人や犯罪者たちと食事を共にするのはなぜかと質問した。
その答えが
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」
という言葉だった。

残念ながらこの律法学者はイエスのアイロニーに気づく力を持ち合わせていなかった。義人などこの世界のどこにも存在しないことを理解していなかった。

M.R.I.

いよいよ職場に新しいM.R.I.が入ることになった。工事費を含めておよそ1億。後継者のいない院長先生は72歳。どこのリース会社も借金を断ったがそれでもM.R.I.を新調したい院長先生の祈りが届いたのだろう。お金を貸してくれるところが見つかり早速発注した。機種の選定で何故か全くの素人である自分にも意見を求められた。院長先生のこだわりは刺青の人が火傷をしない、ということだった。磁力が増せが解像度も良くなる。しかし刺青の人が火傷をしてしまうようではいけないというのが院長先生の第一条件だった。なぜかこのクリニックを訪れる患者さんには刺青の人が多い。青森は喫煙率が非常に高いという話は聞いているけれど刺青率が高いとは聞いていない。うちのクリニックに限ったことなのだろうか。自分は刺青が大嫌いだし、している人を見ると嫌悪感に近いものを感じてしまう。クリスチャンなのにこの程度の心の狭さなのである。しかし院長の口癖は「イエス様はどのような人も愛されましたから…」である。口先だけの偽善的クリスチャンである自分の姿がどれだけ醜いか、院長先生と一緒にいると嫌という程痛感する。

Take 6 – Come Unto Me | Live in Munich (1990)

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変わらないもの

職員礼拝

職場では毎朝8時30分から礼拝が行われる。土曜日以外の毎日行われるが自分は送迎の都合で出席できない日がある。月曜日は比較的出席できる率が高いのだが、そのこともあって今日月曜日は自分が礼拝の担当になっていた。心をイエス様に向けるためのショートメッセージをするのである。出席者の半分以上はノンクリスチャンの方である。この方々が毎朝讃美歌を歌い主の祈りもするのだから凄いと思う。ただ聖書のメッセージがどこまで届いているのかは疑問であった。職場の服務規程に毎朝の礼拝に極力参加すること、という項目があるため仕事をクビにならないために参加している、と言っても良いかも知れない。勿論ノンクリスチャンと言ってもイエス様を求めている人もいるだろうから一概に義理や強制で参加しているとは言えない。全員がクリスチャンだったら話せることも多いのだがノンクリスチャンに向けてイエス様のメッセージを語ろうとすればかなり悩んでしまう。結局、3年前に経験した「西日本豪雨災害」について話すことにした。画像と動画を用いてメッセージをしたが次のようにまとめた。

「聖書には終わりの時代に自然災害や疫病、飢饉、戦争などがあると預言されている。毎年夏になると色々な場所で自然災害や事故のニュースを見聞きする。それらが起こる前に備えをすることは非常に大切なことだと思う。これが自然災害や事故だけなら少し人ごとに思えてしまうが、心の中の災害を含むと全ての人がその被災者になる可能性が充分にある。この心の災害に遭ったことを考えてみたい。もしかしたら今日、多くの悩みや苦しみ困難があってやっとの思いで出勤した方もいるかも知れない。心の中に逆巻く大波、大嵐で心が壊れそうになっている人がいるかも知れない。そのような方に対して聖書はこう言っている。

あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
There hath no temptation taken you but such as is common to man: but God is faithful, who will not suffer you to be tempted above that ye are able; but will with the temptation also make a way to escape, that ye may be able to bear it.
第一コリント10:13

またこの世の苦しみや困難をご自分の痛みとして理解してくださるイエス様は、私たち人類を2度と苦しむ事がない新しい世界に連れて行こうとしている。その場所がどのような場所であるかは黙示録が語っている。

また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
黙示録21:3,4

人々の幸福にしか関心がないイエス様に目を向け続ける1日を過ごしたい」と。

本当は

礼拝のメッセージは誰かをイメージして考えたわけではない。むしろ自分自身に対する自戒と励ましの意味を込めて考えたものである。職場には多くのクリスチャンでない方がいる。自分は今までクリスチャンの中でしか働いた事がない。なのでノンクリスチャンがいる職場は新鮮であり同時に怖さもあった。自分という人間をみてクリスチャンがどのような人種なのかが計られてしまう、そんな気がして怖かった。だからどんなに落ち込んでいても、家を出るまで「死による解決」だけを考えていても職場では一切そのような個人的な感情を表に出さず、とにかく明るく笑顔を忘れずに、また大きな声で挨拶することだけを意識してきた。仕事が終わってタームカードを押した瞬間に朝のどんよりとした気分に戻るのである。そのような生活だから自分自身がもっときちんとしないといけないと毎日反省している。前日、少し上向きになって夜を迎えても翌朝はまたどん底に突き落とされた気分で1日が始まってしまう。「いつまでこの生活が続くのだろう」「いつまでこの希望のない生活をしなくてはいけないのだろう」「子どもの学費を払い終えたらもう人生を終えても良いかな」などと神様が悲しむことばかりを考えて1日がスタートする。起きてから出勤までおよそ1時間ぐらいの余裕があるがその間ずっと悶々と悩み続けているのだ。こんな生活が本当に嫌で神様に助けてくださいと真剣に祈る毎日である。

昨日も今日も

今朝与えられた聖書の言葉は有名な聖句であるが読んでみてとても励まされるものだった。

「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」
ヘブル人への手紙 13:8 口語訳

イエス様は決して変わることのない方。約束を必ず守られ、昨日言ったことを今日は撤回する、ということもない。不安定、不透明な時代に決して変わらない存在があることは本当に頼もしいことだし素晴らしい。このイエス様を信頼してもう少し歩いて行こうと思う。

20210724礼拝 説教 東清志

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集め、導き帰る

Tokyo2020

連休もなくオリンピックをゆっくりテレビで観戦するような状況ではないが色々なメダルの速報も飛び込んできてそれぞれのアスリートが最善の努力をしている様子を肌で感じている。が、自分は競技自体よりもこの大会の開催のことをずっと考えている。昨年行われる筈だった大会。もしかしたら昨年の方がまだ状況は良かったのかも知れない。延期や会場の変更、人数制限から無観客への変更、大会の主だった人の辞任や解任。どこまでイレギュラー続きなのだろう、と思ってしまう。中止を大声で叫ぶことはさほど難しくない。しかしこの大会の中を担いでいる人たちは逃げたくても逃げられない、誰が協力者なのかも分からない、成功したところで労いの言葉と同じぐらいの批判の声を浴びせられることを覚悟しているのだと思う。自分は詳しい事がわからないので表面的な事しか言えないが、この時期に行うオリンピック、パラリンピックはやはり日本でしかできなかったのではないかと思っている。自分は決して国粋主義者ではないが、冷静に考えてこのようないばらの道を文句も言わずにただ粛々と準備を続け安全と感動を届けられることを最優先にする姿勢は日本人にしかない気質のような気がする。これで、大会が終わり日本に待っているのは想像を超えた感染者の拡大。でも、海外からある人々以外は入れなかったので感染を海外に広げることは最小限に抑える事ができる。世界中がテレビで沸き立った後のコロナのゴミを日本人は自国で受け止めながらそれを解消していくのだろう。これこそ当初の「お・も・て・な・し」精神だと思う。だから自分は日本人がメダルをとってもとれなくても、日本は大きな金メダルに匹敵することをしたと誇りに思っている。この大会をずっと支えておられる方々に心からの感謝をしたい。こんな素晴らしい国なのに、残念ながらクリスチャン人口は1%未満と言われている。神様がこの国を憐れみ祝福してくださり多くのクリスチャンを与えてくださることを心から祈るものである。

聖書通読

教会のおばあさんから刺激を受け、毎日10章ずつ聖書を読んでいるが今はエレミヤ書を通読している。前から何度も開いて読んでいるところであるが今日改めて読みながら心から感動した。

「主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る。 主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。 その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。 あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、 わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。」 エレミヤ書 29:10-14 口語訳

勿論一義的にはバビロン捕囚について述べているところであるので安直な解釈や適応をすべきではないと思っている。が、やはり神様が回復してくださるというお約束はとても嬉しいし心が弾む。苦難を神様の怒りと捉えてしまえばそれまでだが、それが災で終わるのではなく平安、将来、希望を与えるものであるところに神様の計画の奥深さを感じる。そして神様を一心に求めれば自分のような者にも会ってくださるという素晴らしい約束が与えられている。神様が元の場所に再度集めてくださる、本当に感謝すべきことである。

【感動のドローン!!】東京の夜空に美しい地球 Tokyo Olympics .The earth in the night sky of Tokyo comes to mind

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手を置く

内村航平選手

インターネットのニュースで内村航平選手の予選通過できなかったことを知った。一生懸命に努力してこの日に備えてきたのにまさかの落下。本人は本当に辛く失意のどん底に突き落とされたのではないかと思う。多くの世界でそうなのかもしれないが一瞬の、またひとつのミスが命取りとなりその後の運営を決定づけてしまう。本当に気の毒で仕方ない。勝つことだけに情熱を注いできたアスリートたちは自分のような者には決して分からない苦労があり、またそれを乗り越える強靭な精神力があるのだと思う。内村選手がインタビューで自分はもう檜舞台から去った人間、これからは後輩のことを考えて何をすべきかを決めて行きたいと語っていたという。こういうことで世代交代していく世界というのもまたシビアだとつくづく思う。

五所川原立佞武多

世代交代で思い出す事がある。五所川原の立佞武多である。当初8月4日から開催が発表されていたネプタ祭りもコロナの影響で中止が発表された。これで2年連続の中止である。五所川原の立佞武多は3基が街を練り歩く。3年を過ぎたネプタが翌年には解体され新しいものに世代交代するのである。今年の予定されていた3基は最も新しい「暫」、次に新しい「かぐや」そして最も古い「神武天皇 金の鵄を得る」。今回もし開催されていたら「神武天皇 金の鵄を得る」をみる最後の年となるはずだった。聖書の中にもバプテスマのヨハネという人物が登場する。彼は野生的な生活をしながら自分の後にくるイエスキリストを紹介し、また弟子をつくっていた。かなりの人気があった事が聖書の記事からうかがえるがイエスキリストの登場とともにその露払いの仕事も終わりに近づく。彼の弟子だった人もイエスキリストの元に行ってしまう。しかしバプテスマのヨハネはそれで満足だった。世代交代という厳しい現実の中で何を見ているかでその行動が大きく異なる気がしている。

手を置く

今日の礼拝はオンライン放送によるビデオ礼拝だった。牧師が他の教会と兼ねている地方教会にはありがちなことである。堀牧師という先生がお話をしてくださったが非常に感銘深く、初めて知ることを教えていただいた。話の中心テーマはイエスキリストに頼る、委ねるということだった。イエスキリストの十字架以前には人の罪を贖う方法として犠牲制度がとられていた。動物(主に傷のない子羊)に手を置き人間の罪をその動物に移し、その動物を殺し血を流す事で一時的に罪が清められるという制度である。手を置くことで罪が移るという考え方には疑問があるかもしれないが、罪を人のせいにすることは良くあると思う。聖書の中にもアダムとエバが最初の罪を犯した事が書かれている。神様からのけん責に対してアダムは「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」、とエバに罪をなすりつけようと転嫁の努力をする。しかもここでアダムはエバだけでなく、「あなたが一緒にしたあの女」と神様にも責任を転嫁しようとしている。罪はなすりつけるという考え方は罪が起こった時からあった考え方なのである。何れにしても子羊の頭に手を置いて自分の罪を移すのである。この時の手の置き方がどうであったかを堀牧師は教えてくれた。自分は子羊の頭に軽く手を置くイメージだった。しかし実際はそうではなかったようだ。子羊に対して罪を犯した人間が全体重をかけるように手を置いていたというのだ。イエスキリストに頼る、委ねるということは自分の一部ではなく全体重を任せることでありそこに信仰があることを教えていただいた。この点について自分には思い当たる節がある。神様を完全に信頼し祈り続けているのだが、どこかでそれが答えられなかった時に失望落胆してしまう状況を思い浮かべてしまう。その時のために予防線として全体重ではなく一部は自分の考えや納得できる状況に残して祈っている事がある。今日の礼拝説教でこれが全くの見当違いで神様に対する冒涜であることを学んだ。また別の説教で「什一献金」で神様を試みてみよ、というお話を伺った。困窮する中での什一献金は非常に困難であり信仰が必要である。しかし必ず神様はその状況を変えてくださることを約束しておられ、またこの事で神様を試みても良いとおっしゃっている。もっと真剣に神様を信じきる事、委ね切ることを学んでいかないといけない。たくさんの祝福をいただいた安息日だった。

2021年7月24日 安息日礼拝〈ライブ〉
メッセージは1:04:16から

五所川原立佞武多の館の動画

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Tokyo 2020

混沌

オリンピック、パラリンピックがいよいよ始まる。自分が生まれた翌年に東京オリンピックが開催されたから人生で2度目の東京オリンピックを経験することになる。今は青森にいるので東京オリンピック・パラリンピックの盛り上がりムードはあまり感じられない。というか地元ではほとんど話題になっていない。それよりも昨年開催されなかったねぷた祭りが開催されることの方が大きな話題になっている。五所川原のネプタ祭りは8月4日から。携帯に飛び込んでくるニュースを見ていたがブルーインパルスのデモフライト、またコロナ感染者の報道などオリパラを歓迎するニュースとそれを批評する話題とが入り乱れており混沌としている状態が青森にいても伝わってくる。無観客で開催されるオリパラだが、元々はコロナに打ち勝って勝利の祭典にしようという意気込みで当事者の方々はご苦労されてきた。日本人は色々な意見を持つ人がいるがいざという時には一致団結できる国民だと思っていたが今回のオリパラに関しては少し違う側面を見せられた気がする。いつになっても平行線のまま賛成派、反対派がそれぞれの意見をぶつけ合っている。自分は開催に賛成している。だからいう訳ではないが、反対派はオリパラに反対な人とコロナを盾に単に政府や自治体のしていることに対して批判しているだけの人もいるように思う。何か大義名分を後ろ盾にして批判を繰り返す、そのような人が多くなっているなというのが率直な感想である。混沌とした状態から何かが生まれるのだろうか。

安息日

今週もあっという間に過ぎてしまい安息日に入る事ができた。今週は特に激しい信仰の戦いをほんの少し経験した。まだまだ序の口だとは思うが色々なことを考えさせられた。そして最終的に神様に頼ることを学んだ。イエス様の十字架上で発した7つの言葉があるが、その最後の言葉が神様に頼る、委ねる祈りだった。

そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。

And when Jesus had cried with a loud voice, he said, Father, into thy hands I commend my spirit: and having said thus, he gave up the ghost.
ルカによる福音書23:46

神様にお委ねすることの難しさを経験した。お委ねするといいながらまだ自分自身の手に握り続けている願いや祈りがあることを示された。これも含めてお委ねしなくてはならないのに。不信仰を示されサタンからも攻撃された。非常に激しく攻撃された。信仰がないこと、そんなことでは神様が祈りを聞いてくれるはずないと言われ続けた。当たっているだけに傷ついた。重荷と悶々とした思いを持って、傷ついた心を癒していただくべく安息日に入った。この日、神様とだけ時間を過ごして全ての悩みを聞いていただき心を回復していただこうと思っている。世の中には無事に安息日を迎えられない人もいるだろう。そのような中で平安に安息日を迎えられることを心から感謝したいと思う。

真の信仰は、約束された祝福が、実現しそれを感じることができる前 に、それをつかんで自分のものとする。われわれは信仰をもって、第2の幕の中に、われわれの願いをささげ、信仰によって、約束された祝福をつかみ、それを自分たちのものとして主張しなければならない。それから、われわれは、祝福を受けることを信じなければならない。なぜならば、信仰が祝福をつかんでいるのであって、み言葉にあるとおりに、それはわれわれのものだからである。「なんでも祈り求めることは、 すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであ ろう」(マルコ 11:24)。ここに、われわれが祝福を受けたと感じる前に、受けることを信じる信仰、すなわち、真の信仰がある。約束された祝福が実現して、それが自分のものとなった時に、信仰はそれにつつまれてしまう。しかし、多くの人々は、聖霊を豊かに受けている時に、大きな信仰を持っていて、聖霊の力を感じるのでなければ信仰を持つことができないと考えている。このような人々は、信仰と信仰によって与えられる祝福とを混同している。われわれが聖霊に欠けていることを感じる時こそ、信仰を働かせるべき時である。厚い黒雲が心を閉ざすように思われるその時に、生きた信仰によって、暗黒をつらぬき、雲を散らさなければならない。真の信仰は、神のみ言葉の中に含まれた約束に基づいていて、そのみ言葉に従う者だけが、その輝かしい約束を自分のものにすることができる。
エレン・ホワイト 初代文集 電子版p88.89

「饅頭のような聖書の22の話』第4回「神と人間との間における幸せの規則『十戒』1〜4」10月6日 講師:河原久

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信仰の薄い者よ

水の上を歩くペテロ

弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。 しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。

And when the disciples saw him walking on the sea, they were troubled, saying, It is a spirit; and they cried out for fear.But straightway Jesus spake unto them, saying, Be of good cheer; it is I; be not afraid. And Peter answered him and said, Lord, if it be thou, bid me come unto thee on the water.And he said, Come. And when Peter was come down out of the ship, he walked on the water, to go to Jesus.But when he saw the wind boisterous, he was afraid; and beginning to sink, he cried, saying, Lord, save me.And immediately Jesus stretched forth his hand, and caught him, and said unto him, O thou of little faith, wherefore didst thou doubt?
マタイによる福音書 14:26-31

その日は波乱万丈の1日だった。バプテスマのヨハネが殺されたことを聞きひとり静かに祈ろうと思ったイエス様を群衆が取り囲み祝福や教えを乞う。心優しいイエス様は群衆に対して人々を癒すなどその必要に応えられた。群衆との時間もあっと言う間にすぎあたりは段々と日が沈みそうな時間になってしまった。男だけでも5000人はいる大群衆である。彼らを解散させようとした弟子を制して群衆に食べ物を与えようとイエス様は提案なさった。5つのパンと2匹の魚しかなかったがそれを大いに祝福し大群衆が十分に食べられる量に増やしそれを分けてあげた。食事の奇跡を行ったのち群衆を解散させ、疲れている弟子たちを船に乗せて強いて向こう岸におやりになった。イエス様はひとりで山に向かい祈り、また船に乗った弟子たちをご覧になっていた。しかし生憎の逆風で船は向こう岸に向けてなかなか進む事ができない。そのときイエス様はこぎ悩む弟子たちのところに行くべく水の上を歩いた。弟子たちは一瞬幽霊だと思ったがイエス様であることを明かしてくださったのでホッとする。水の上を歩いていたイエス様を見て自分もそのようなことをしたくなる弟子がいる。好奇心旺盛でいつも「ハイハイ」と一番に手をあげるタイプのペテロである。イエス様に願って水の上を歩かせてほしい、と願うとイエス様が「ではこちらに来なさい」と手引きしてくださる。一歩また一歩と歩き始めたが急に吹き付ける強風に心が奪われると途端に溺れてしまった。すぐさまイエス様が助けてくださったのでことなきを得る、そのような場面である。

祈りのチャレンジ

最近、自分はふたつの不可能と思えることを祈ろうとチャレンジを始めた。ところが、これが実に難しい。難しいだけではない。祈る前に比べて心に逆巻く波風が強くなっていることを実感している。「こんな祈りをしなければ失望もしないし、不安にもならなかったのに」と思ってしまう。祈れば祈るほど現実にも目が向いてしまい、「これは絶対に無理だ」と言う気持ちが以前よりも大きくなる。それでも信仰を与えていただき祈る。祈れば余計に失望する。その繰り返しである。ペテロはイエス様を見つめていた時は水の上を歩けた。しかし強風や足元の大波に目を向けた途端に溺れてしまった。今の自分と全く同じである。神様だけを見上げその偉大な力をみ続けている時は「きっと大丈夫だ」と言う信仰すら与えられる。しかし一瞬でも現実を見てしまうと「絶対に無理。そんな奇跡が起こるなんて信じられない」と言う気持ちになる。心の中で神様と悪魔が戦っている。神様の力を過小評価しているのではない。実際に祈りながら周りの景色を見るといつも綺麗にそびえる岩木山がある。「この山は誰がつくったと思っているのか」と言われているような気がする。「勿論神様です」と神様の偉大な力を認めることはできる。信じる事が難しのは神様の力の大きさではなく、その力を自分のような小さき者のために用いてくださるのかと言うことである。自分が神様から愛されていることはわかっているつもりである。でも今まで何度も祈って失望してきたからまた同じではないかとも思ってしまうのである。本当に情けない。信仰の薄い者というより信仰のない者である。本当に神様に申し訳なく思っている。この不可能と思える祈りにチャレンジしてからより一層サタンからの攻撃が激しくなっていることも実感している。それでも神様を信じ続け祈り続ける事ができるのだろうか。不安だが進むしかない。今与えられた御言葉がまさに自分に対して警鐘を鳴らしてくれた気がしている。

今朝の御言葉

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」
ヘブル人への手紙 11:6 口語訳

讃美歌21 458「信仰こそ旅路を」多重録音

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