新型コロナ

ワクチン接種の賛否

コロナの恐ろしさを日々感じ怯えながら生活している。青森も八戸を中心の感染者が増えていることや、自分の仕事がお年寄りと近い距離で接することが多いため万が一自分が感染してそれを知らずに高齢者の方にうつしてしまったらとんでもないことと思い細心の注意を払っている。病院で働くものとしてワクチンの接種をした方が良いと言われているが今の所打っていない。特に自分なりのフィロソフィーがあるわけではない。何と無く副反応が恐ろしくて打てないだけである。できればこのまま接種しないでやり過ごせたら良いなと思っているがそうも言っていられなくなるような気がしている。実は自分の職場環境でワクチン接種後にふたりの方が亡くなっている。ひとりは系列の介護サービスで働く看護師さんのご主人。この方は60歳の方だが健康体で仕事も普通にしている方だった。が、先週の木曜日にワクチンの接種をして急に調子が悪くなりうちの医院に来た。この時は自分で運転して来られたのだが大事をとって入院することになった。容態も安定していたので点滴をしながら経過観察をしていた。金曜日はかなり落ち着いた様子だったので一応週明けにCTを撮ってから問題なければ退院する予定になっていた。ところが土曜日の夜から急に容態が変化し日曜日の早朝亡くなった。院長もかなり驚いており予想外の結末に肩を落としていた。

もうひとりの方は透析の患者さんである。通院して透析治療を受けている男性だがやはりワクチン接種後体調不良を訴えてきた。そのまま入院となったが大腸を始め色々な器官に問題が次々と生じ結局弘前大学病院に転院となった。その後も内臓が壊れていくように不調となり大学病院に入院して3週間で亡くなった。このようなケースを間近で見ており、また院長もワクチンの影響をかなり疑っているので影響があってもおかしくないと思っている。自分は打ちたくないが、打たなくてはいけない人たちもいる。実は長男も接種している。受験生ということもあるが、寮に入っているために長期休暇で飛行機に乗る。何度も検査を受けさせられた上でワクチンを接種していないと乗れない雰囲気があるという。そのためこの夏休みを利用して接種した。卒業生の中には医療系の大学に進学した人も多くいるが実習に行く前には必ずワクチンを接種することが義務付けられているという。自分の主義主張が通る者ではない。自分も送迎で車に乗って患者さんを送り迎えするので接種しておいた方が良いに決まっている。が、その決心がつかない。ワクチン接種も怖いし、打たないで感染するのも怖い。本当にどうしたら良いのか分からない。原始的な方法だが、やはり以前のように生活の保証をした上で外出禁止の10日間を過ごすしかないのではないだろうか。そんな気がしている。

肝炎

今では考えられないが、自分が小学生の時には集団予防接種があると体育館に並ばされて一人ずつ注射を打たれた。考えられないのはその方法だ。子どもには量が多いのか、注射を途中でやめて次の児童が残りを摂取される。勿論注射針はそのままである。これが現在の肝炎に繋がり国がその責任を追うことになった。今のコロナワクチンも全ての行政関係者が「とにかくワクチンを接種してほしい」と訴えているがしばらく先になって健康被害が出始めるとそんなこと言った覚えはないと言い出すのかも知れない。国の政策でもそうだがみんなが一つの方向に進むことに対して常に警戒心を持っている。本当に大丈夫なのだろうか、と常に考えている。疑い始めるとキリがない。例えばコロナワクチンの接種について順番があったが「重症化しやすい高齢者から」というのは実は亡くなってもワクチンのせいなのか持病のせいなのかが曖昧になるため、或いは非常に失礼な言い方だが訴訟になっても賠償金の安い人から、という人体実験的な意味があっての優先順位だったのではないかと思ってしまう。因みに、うちは院長がワクチン反対派なので院内スタッフでも接種している人は3割程度である。何が正しくて何が間違っているか、よくよく吟味して自分で結論を出していかないといけない時代になって来た。そしてその拠り所になるのがやはり聖書だし日々の祈りだと思っている。イエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わることのないお方である、と記されている通り時代や流行に左右されないイエス様に従うことこそ最善で安全な道であると確信している。

【独自】ワクチン“異物混入問題”との関連は? 30歳男性が死亡 両親は・・・

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牛のつき棒

シャムガル

今日も色々なことがあり多くのことを考えさせられる1日であった。朝起きて一生懸命祈ってやっとの思いで出勤した。毎日のことである。出勤の1時間半前に起きてずっと祈り続けている。神様の助けがなければ一瞬たりとも生きていけないことを自覚している。将来のことを考えると不安と失望しかない。このまま青森に居続け孤独と寂しさに耐えながら生きて行くことを考えると希望を失ってしまう。そんな気持ちから1日が始まるのでとにかく祈るしか道がない。一生懸命に祈っても心はまだ晴れない。しかし時間なので不承不承出勤する。職員礼拝で引用された聖書の言葉が

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
マタイによる福音書11:28-30

だった。み言葉に支えられる思いで仕事につくことができた。

仕事中に透析の看護師さん(男性)から明後日の祈祷会で聖書の解説を依頼された。突然だったのでとても驚いた。今祈祷会では「士師記」を学んでいるが自分は聖書の知識が乏しいのでできればお断りしたかった。が、毎日お世話になっている方からの依頼だったので引き受けることにした。休憩時間も聖書を読んで予習した。予習も良いが今までの流れをおさらいしておかないといけないと思い士師記を最初から読み返した。士師記の中盤は12人の預言者が列記されその活躍が記録されている。有名なのはサムソンやギデオンといった士師であろう。そのほかカレブの弟であるオテニエル、女預言者デボラ、変わり種のエフタなどもいる。その中でたった1節しか記述がない「シャムガル」という預言者に目が止まった。彼はペリシテ人を相手に粗末な道具で戦うのである。口語訳聖書では「牛のムチ」とあるが英語を訳すと「牛のつき棒」となっていた。牛を追う時に使う棒で長さが2.4mぐらいあるとのこと。持ち手部分が太く周囲15cm、先に行くほど細くなり先端には鉄の頭がついている。このようなとても粗末な武器でペリシテ人600人を殺したと記録されている。とにかく1節だけの情報なので詳しいことは全くわからない。どのようにして600人ものペリシテ人を殺すことができたのか。昨今の自爆テロでもそうはいかない。ちなみにサムソンの最期、自爆テロとも言える行為で殺したペリシテ人は3000人。話を戻すがたかが牛のつき棒である。これで600人を討つことができたのはなぜか。武器の能力ではない。神様と繋がっていることによる勝利だとしか言いようがない。どのような小さな能力、乏しい力であってもそこに神様との結びつきがあるのならば能力の大小は一切関係ない。

生徒のこと

教員だった頃、このシャムガルのような経験を何度も体験した。能力的には決して十分ではない生徒たちが自分の夢を叶えて行くのである。叶えるのではなく、神様によって叶えていただいている様子を何度も見てきた。その中でも最も多いのが意思である。その能力があって医学部に進学する生徒も多くいたが、しかし半分ぐらいは能力的には不足を感じる生徒だった。人間的な見立てでは何年浪人しても難しいと思える生徒が医学部に進学するのである。また経済的にも難しいと思える状況に神様はご介入される。医師だけではない。パイロットや弁護士、デザイナー、ミュージシャン、研究者等々。奇跡としか言いようがない事象を何度も見せられてきた。だから能力の大小で人を判断しないよう心に決めている。神様のご介入さえあれば不可能は可能になる。ある本の言葉を思い出した。

もしわれわれが自分自身の考えにしたがって計画すれば、主は、われわれをわれわれ自身の誤りの中に放置される。しかし神の指示にしたがっていて、それでも苦境におちいるようなことがあれば、神は、われわれを救ってくださる。われわれは落胆してあきらめてしまわないで、どんな危急の時にも、無限にどんな手段でもお用いになれる神に助けを求むべきである。われわれは、しばしばきびしい境遇にとりかこまれることがあるが、そういう時こそ絶対の信頼心をもって神によりたのまねばならない。神は、主の道に従おうとして困難におちいっている魂を1人ももれなく守ってくださる。
エレン・ホワイト 各時代の希望 電子版 p379

何に目を向けるか、何に頼るか、そして何に委ねるか。大切な選択である。

#7 士師記【60分でわかる旧約聖書】中川健一

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緊急対策

青森でも

8月27日、青森県は危機対策本部会議を開きイベントの中止や公共施設の使用中止を盛り込んだ緊急対策パッケージの実施を発表した。首都圏や沖縄、現在緊急事態宣言が出されている地域に比べたら規模も人数も少ないが、青森県内の過去からの推移や人口などから鑑みると決して楽観できない状況になってきている。現在4日連続で100人越えの新規感染者が発生している。少なく感じるかもしれないが少し前まで多くても20人程度の新規感染者だったので爆発的に増えている印象がある。弘前の飲食店では「県外者お断り」の張り紙が色々なお店に出されている。夏休みを利用して青森を訪れる旅行者を結構な人数見かけた。川部駅という五能線と奥羽線のターミナル駅が最寄駅なのでいつになく人が多かったのを記憶している。自分はできるだけワクチンを接種しないでやり過ごしたいと思っているので、職場と家以外は最低限の買い物だけにとどめ外出を極力しないようにしている。ただ、色々な事情から仕事が休みになる金曜日には半日でも自然界に出かけるようにしている。県内の「自然界」は人が少なく殆ど他の観光客に会うことがない。

くろくまの滝

今回行ってきたのは鰺ヶ沢町にある「くろくまの滝」である。白神山地からのアクセスと鰺ケ沢からのルートがあるが鰺ヶ沢からのルートが断然良い。白神山地から行くと途中未舗装の道を20kmぐらい走ることになる。鰺ヶ沢からでも、途中にかなり狭くなった道を通らなくてはならないので対向車が来ないか不安になる。途中に「種里(タネサト)城跡」があったので少し寄り道をしたが大したことはなかった。鰺ヶ沢の街から1時間弱走っただろうか。やっと目的地に到着した。滝までは徒歩で山を登る。600mで所要時間は15分。暗門の滝もそうだったが青森の観光地は良くも悪くも観光地化されていないので、人もいないし丸裸の自然界に入って行く恐怖がある。色々なところに「野生の猿に注意」と書いてあった。また暗門の滝では熊に注意と書いてあった。おそらく熊も出るのだろう。前回の教訓を生かして土鈴を持ってくるべきだったが忘れてしまった。仕方がないのでスマホで音楽を大音量で流し時々拍手をするなど自分の存在を知らせるべく音を出すことに夢中になっていた。写真も撮りたいので結構忙しかった。写真に夢中になって後ろを振り向くと熊がいた、なんていうことがないように後ろを振り返りながらシャッターを切った。この滝が「日本の滝100選」にも選ばれるほどのもので落差が85mある。実に見事な滝であった。

 

くろくまの滝

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イスラム国空爆

代償を支払わせる

ISによる自爆テロに対する報復としてアメリカ軍がドローン無人機による空爆を実施したとのニュースを観た。バイデン大統領は「テロに関与したものは追い詰めて代償を支払わせる」と宣言しているという。争いが絶えないことに対する悲しみを覚える。元々はアブラハムの子どもたちだったのに、と思う。キリスト教も聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的として「十字軍」を派遣した。宗教が絡むと争いは感情的なものから信仰的なものに変化するのでタチが悪い。自分もクリスチャンであるが宗教という枠組みでキリスト教を捉えることには抵抗がある。純粋にイエス様を尊敬しイエス様のように生きたいと思っているだけである。しかもイエス様は戦争や争いを預言してはいるがそれを肯定したり積極的に争うことを勧めてはいない。むしろ非暴力を貫かれた。米国やイスラム原理主義者たちが報復合戦を繰り返している以上平和など望めるわけもない。本当に悲しいことである。

混乱させる人

今日も教会に行き礼拝をした。礼拝の前に行われる聖書研究の時間も礼拝同様とても恵まれた学びができるので好きな時間である。ところが、毎回この時間を妨害する人がいる。牧師がいるときは結構大人しくしているが牧師がいない週は聖書とは関係なく自分の発言できる話題に引き込もうとする。この方は初老のおばさんでこの教会を昔から支えてきたという自負があるらしい。だから何かにつけて自分がどのように教会を守ってきたかを自慢する。聖書の学びをほとんどしてこないのに発言だけはしたいらしく、新聞で読んだことや人の意見に対する反論をしている。教会でこの人はどのように思われているのか分からないが信徒たちは比較的この人を受け入れている雰囲気である。教会の理事でもあり何かにつけて、自分が教会書記なので全てを把握しないと気が済まないという雰囲気を出してくる。正直言って、この人がいるから聖書研究の時間が苦痛でたまらない。特に司会者に意見を求められそれに答えると聖書とは全く異なった観点から反論してくるので意見を言うことも躊躇する。本音は「発言したいなら聖書をもっと学ぶべきだし、聖書と違う話をしたいのならば教会外でやるべきだ」と言うのが自分の考えで常に穏やかではない。

何のために

自分が安息日を守り、更に土曜日に教会に行く意味を考えていた。嫌な思いをし、また人に対して攻撃的な気持ちを持つために安息日を守っているわけでも教会に行っているわけでもない。クリスチャンと言いながらその実前述の報復合戦をする人たちと同じではないか。こう言う争いの気持ちが火種となり分裂や分派が起こるのだろう。分派といえば自分の所属する教団にも分裂はある。あるグループは熱心に聖書に従おうとして別れて行った。またあるグループは長年の教団内で起こった問題を取り上げ三面記事的にそれを糾弾することが正義だと思ってバーチャル教会を立ち上げている人もいる。先ほどもFacebookを見ていたら、バーチャル教会の指導者がコメントをしているを見てしまい情けないきもちになっている。どこかで争いがなくなりみんながイエス様のようになれたら、と心の底から思う。そして醜い自分の心がイエス様によって聖化されることを祈るばかりである。世界の不穏な状況から自分の醜い姿を見せられた一日であった。

 

「イスラム国」空爆 メンバー殺害 自爆テロ受けアメリカが報復

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きかれた祈り

子どもの祝福

車を運転している時に突然電話がなった。車を止めて電話に出るとかつての同僚であった。何かにつけて近況報告をしてくれる律儀な友人である。何かがあったのかな?と少し心配になった。実は彼は1年前にも電話をくれた。近況報告ということで電話をくれたのだが、しばらく前即ち2020年2月に双子の赤ちゃんを死産で失ったことを教えてくれた。電話を受けたのが散歩中で外にいたが涙が止まらなくなってしまった。悲しすぎる現実をこの夫婦は受け止めてきたのだと思ったら余計に辛かった。原因はわからないが、学校の仕事で奥様が寒い中重い荷物を運ぶ作業を長時間させられていたという。本人たちは恐らくそれが原因だったのではないかと考えていた。何が原因であっても死産は辛い。双子ちゃんの葬儀もこの夫妻だけで執り行ったそうだ。自分も子どものことではずっと苦労してきたから、子どもが与えられることも不思議だし五体満足で健康に生まれるなど普通のことでは決してないことを理解している。本当に辛い日々を送ってきたのだと思う。「やっと最近心の整理がついてきたので報告の電話をしました」と言っていたのでお子さんを失ってから半年以上経ってからの報告である。その日から、彼らご夫妻に必ず神様の時が来て元気な赤ちゃんが与えられることを毎日祈り続けた。
そして今日の電話は3日前に無事に女の子が生まれたという報告だった。本当に嬉しかった。自分のことのように嬉しかった。赤ちゃんが与えられたこと、また神様が多くの方の祈りに応えてくださったことが嬉しかった。信仰が萎えそうになっていた時だったのでとても励まされた。引き続き祈り続けることを約束し電話を切った。

そういえば今朝与えられた聖句を思い出した。

すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
マタイによる福音書7:8

安息日

今日も自然界の中で祈りサンセットを迎える前に帰ってきた。今週も全てが終わり創造の記念であり、贖いの記念である安息日を無事に迎えることができた。安息日を無事に迎えられることは決して当然のことではない。アフガニスタンの自爆テロのことも聞いているが多くの地域で争いが続き弱い立場の方々が犠牲になっている。自称メンタリストのYouTubeでの発言が炎上し本人も謝罪のコメントをしているがなかなか収まる気配が無い。しかしこのメンタリストを叩く意見がネット上に溢れているが、発言している人のどれぐらいが本気で弱者のことを考えているのだろうか。ホームレスや生活保護受給者に対して日頃から何かの助けをしているのだろうか。もしかしたら「あのような人にならないように」と自分を戒め子どもを教育しているのでは無いだろうか。しかし、一旦誰かが不用意な発言をすると烈火のごとく怒り出して発言する。それが正義だと思っているのだろう。そのような偽りに満ちた社会で平安に安息日を迎えるということがどういうことなのかを深く考えさせられた。

聖書研究ガイド21年3期9課

 

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落ちないリンゴ

落ちたリンゴ

今日、職場の前のリンゴ畑で無人市が立っていた。リンゴが一袋100円。大きさもまちまちであるが袋には4,5個のリンゴが入っている。それほどリンゴが好きなわけではないがいつも農薬で車が汚されてきたのでどれぐらい美味しいリンゴになっているのかを試すべく一袋買ってみた。まだ食べていないので味は分からないが、売り場に「訳あり品」と書かれていた。色や大きさが異なることから恐らく収穫前に落ちたリンゴだと思う。「落ちたリンゴか」とつぶやきながら以前に「落ちないリンゴ」というのがあったことを思い出した。

落ちないリンゴ

調べてみたら落ちないリンゴを販売しているのはいつも買い物に行くイオンのそばで家から5分ぐらいのところにあるお店だった。

奇跡体験!アンビリバボー2020年7月9日では「ミラクルアイデア連発!あなたならどうする?」と題し、大型台風で9割のリンゴが収穫前に落下し農家に大打撃が起き、窮地乗り越えた仰天のミラクルアイデアとはが紹介されます。

おそらくリンゴ台風と呼ばれ、津軽地方を襲った1991年(平成3年)9月28日の最大風速50m/sの大型で非常に強い台風の台風19号の事ですね!

この台風により収穫前のリンゴが木から落ち、9割がたのリンゴが地面に落ちてしまいました。

しかし、リンゴ農園経営者達のピンチをチャンスに変えたアイデアが、幸いにも落ちなかったリンゴを縁起物として受験生向けに「落ちないりんご」として全国の神社で販売した所、話題となり通常のリンゴよりも高い価格設定にも関わらず瞬く間に完売!

受験生をかかえるご家族や何かの資格にチャレンジする方は、興味を持たれる事でしょう。https://tvreview.tokyo/unb-ochinairingo/より引用

落ちてしまったリンゴ

台風に耐えて落ちなかったリンゴ、立派である。しかし自分はそういう存在ではない。真っ先に落ちてしまうリンゴだろう。しかし、落ちてしまったリンゴもまとめて破格で売られる。見栄えも味も見劣りがする。しかし、それを必要とする人が稀にいるかも知れない。お金は無いがリンゴが欲しい人、傷物でも良いので大量に必要な人、天然酵母を作るので見栄えは気にしない人等々。自分の同級生を見渡しても軒並みすごい人たちばかりがいる。社会的に成功している人、社会的知名度の高い人、不労所得を得ている人、会社役員。自分はそういう人たちとは全く別次元に暮らしている。いわば社会の負け組である。情けないと思うことも多々あるし惨めだとも思っている。しかし命がある限りこの命をイエス様のために使うことができないかとも考えている。落ちてしまったリンゴだがイエス様のご用のために何かできないだろうか。

よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
ヨハネによる福音書12:24

逆転の発想!「落ちないリンゴ」平成3年第19号台風の事例から

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米国「コロナ発生源」公開へ

不都合な事情

インターネットのニュースを見ていたら、米国が数日中にコロナの発生源について調べた調査結果を公開するとの報道があった。これに対して中国が「結果ありきでいくつかの証拠を提示している卑劣な行為」と批判している。中国には知られたくない或いは公になっては困る事情があるのかも知れないし、米国にも色々な事情があるのだろう。そういうことをしている余裕があるのだろうか。世界が協力してこの深刻な状況を乗り越えていかなくてはならない時なのに。もっと世界中が落ち着いたところで冷静に判断すべきことだと思う。コロナで失う命がなくなることを目標に世界が一致するときで、利権や一国の事情を追求することで更なる被害や争いを起こす時ではない。このような危機的な状況にあっても人間はまだ争ったり人を批判したり利益の追求に暴走できる生き物なのだと改めて痛感している。人間の血にはそのような性質が刷り込まれているのかも知れない。

今日の聖句

今朝送られてきた聖書の言葉はコリント人への第二の手紙4章だった。

だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
コリント人への第二の手紙4:16

年齢を重ねることに伴い肉体的な力は衰えて行く。確かにそうだと毎日痛感している。しかし聖書によれば信仰の霊を受けている自分たち(パウロ達)の心は日々新たにされ益々勢いを増してくる、というのである。パウロはこの章でイエスキリストが私たちの中で生きる、というニュアンスのことを繰り返し述べている。即ち日々新たにされる「内なる人」とはイエス様にその心を明け渡してイエス様の心である「聖霊様」に生きていただく人のことを指している。前述の通り人間には潜在的に悪い力による支配がある。放っておけばその悪の心が成長して後戻りできない状況になってしまう。しかし翻って心の支配権を悪ではなく聖霊様にお委ねすることで全く別の方向に導かれて行く。そのようなことを教えてくれる今日の聖句だった。自分の心の支配を何に任せるかは非常に大きな問題だと思う。

【まとめ】米国“コロナ発生源”公開へ 中国反発・・・(2021年8月25日)

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夏休み延長

それぞれの事情

送迎車を走らせていると制服姿の中学生らしき方々の自転車登校風景に出くわす。今日はかなりの数だったので昨日或いは今日から新学期が始まったのかも知れない。気付いたのが、殆どの学生さんが日焼けをしていないこと。コロナの影響で殆ど家に居たのだろうと勝手に想像していた。青森は夏休みを短くしその分冬休みを長くすると聞いていたので今週から本格始動なのだろう。青森は比較的感染者の少ない県ではあるがそれでも感染者数は確実に増えている。八戸ではクラスターが発生しており決して楽観できる状況ではない。感染者は増えているが学校は予定通り開始できるので一安心である。が、横浜市や川崎市そして那覇市などは夏休みの延長を決めている。自分の次男も那覇市立の小学校に通っているのでその影響を受けることになる。昔、自分が中学生や高校生だった頃に夏休みが延長されたことがあった。中学2年の時にそれまで千葉県袖ケ浦市にあった学校(中学と高校)がそのまま広島県三原市に移転した。東京に生まれ育って西の方には縁がなかったが中学2年で新幹線に乗って広島まで行った。広島と言っても市内ではない。山陽本線に乗り換え更に車で20分ぐらいかけて山を登る。辺りには民家も無いような寂しいところに移転した。赤松ばかりの山中だったので秋には松茸が嫌という程取れたが今は松も枯れてしまい松茸もほとんど取れない。このキャンパスにはいくつか問題があったが、一番大きな問題が水だった。とにかく水がない。当時中学生、高校生で500人いた時代である。キャンパスに住む教員を含めると600人以上が暮らしていたのだが、水は全て井戸水を組み上げて賄っていた。元々は水があまり出ないところだったのでとにかく水がなかった。洗濯やお風呂は一日置き。飲み水にも事欠く状況だった。そのため朝食時に洗面道具を持って食堂に行き食後は寮に戻らず山の湧き水で洗面をすませていた。そして自分が中学2年、最初の夏休みが延長されたのだ。記憶がはっきりしないが恐らく1ヶ月ぐらい延びたと思う。勿論原因は水不足である。同じ理由で高校生の時にも数週間夏休みが延長されたと記憶している。あの頃は夏休みの延長など決して起こるはずないことが起こったので幸せの絶頂だった。しかし、今の児童、生徒、学生の皆さんは休みが延長されても大して嬉しくないと思う。楽しみたい学校生活、学校行事にも制限がかかり全てが中止や規模の縮小を余儀なくされそれに慣れてしまっているような気がする。現在、教育現場では家庭科の調理実習はあるがそれを食べることはしない。体育も競技スポーツはせず個人練習に徹する。何かを思いっきりする、という経験ができなくなっているのが現状だと思う。まだ、新学期がスタートできるところは恵まれているのかも知れない。自治体の判断で夏休みの延長、更には修学旅行の延期や中止を強いられることもあるのだろう。自分の長男も2学期に修学旅行が予定されているがこれすら開催されるか不透明である。

責任

自分はバブルの時代も経験している。バブルの終盤が自分の大学時代であった。大学そのものは毎日勉強とレポート、そしてアルバイトと教会活動に追われる忙しい日々だったが日本中が何かおかしくなっている雰囲気を感じていた。そして自分もどこかおかしかったように記憶している。アルバイトをしていたのは荻窪のレストラン。本店は東京駅の八重洲口にあったが結構大きな売り上げを出す店舗だった。荻窪の店舗は八重洲ほどではなかったがそれでも周辺のお店よりは売り上げていたと思う。普通に働いていたがアルバイトのくせに昇進して行き思わぬチャンスに恵まれ店長にまでなってしまった。正社員を含め従業員が40名ほどいる店舗である。大学3年から店長になったがシフトや仕入れメニューなど全てを自分が取りまとめていた。企画を立ち上げれば全て当たるイケイケムードの時代だった。お金は沢山もらえたが残念ながら使うところがない。仕方がないので電車がある時間帯であるにも拘わらずタクシーを利用していた。ROLEXを買う、服を買う、靴を買う、コース料理を食べる、タクシーに乗る。これがお金の使い道だった。それから徐々に日本が冷え込んで行くのだが酸いも甘いも経験してきた。また、自分が本当に調子に乗っているというか舐めているな、と思うことがある。自分の父の時代は戦争も経験した時代である。また自分の子どもの時代はコロナで若さを爆発させることができず夢を持ちにくい時代である。その狭間にあって自分は何不自由なくやりたい放題やってきた世代である。そんな恵まれた時代を過ごしてきたので何かしら現代社会に貢献することが責任であると思っているが、今の自分にはその責任を果たせるような力もない。どの世代に対しても本当に申し訳ない気持ちでいっぱいである。

今の小学生、中学生に夢を尋ねてみるとなかなか答えられない人が増えてきたという。夢を持ったところで社会の流れやその時の事情でうまくいかないことを体験的に知ってしまったからだろうか。本当にかわいそうである。若い世代には大きな夢を持ってもらいたいしそれが実現することを信じて欲しい。そう思えなければそれは大人の責任なのかも知れない。若い世代の方々が、困難な社会でも夢を追いかけて行ければどれほど幸せだろうか。この世代が大人になった時に「自分たちは学生の頃コロナ騒ぎで大変だったな。でもあの時の苦労を乗り越えたから今の社会の苦労なんて大したことないな」と言えたらどれほど良いだろう。また、これまでの「自分さえよければ」という発想が根底にある教育や競争社会に変化が現れたら良いと思っている。「結局自分のために生きたところで得られるのは富、名誉などだけ。それは人生の最後にはあまり意味を持たない。しかし人のために生きることは富や名誉にはつながらないかも知れないけれど本当の幸せには直結している」と多くの人の価値観や意識が変化したら社会も変わるかも知れない。

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
ピリピ人への手紙2:13

東京でも夏休み延長相次ぐ 江東区や調布市…9月初旬まで

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Apple Watch series6

腕時計マニア

小さい頃から腕時計に対して興味があった。腕時計に、というより小さいものに憧れがあったのかも知れない。それまでの真空管からトランジスタそしてICに変わる時代を生きてきたのでラジオがポケットに入る大きさになったのは驚異的であった。自転車のハンドルに細工をしてトランジスタラジオを取り付け日頃から聞いていたおませ小学生だった。祖父が持っていた懐中時計にも興味があった。あの頃は電車の運転士も懐中時計を運転台に置いていたのでいつも格好いいな、と思っていた。そして腕時計は父親のを借りてつけるのが好きだった。金色のセイコー。独特の雰囲気があって綺麗だな、と思っていた。自分の腕時計を買ってもらったのは中学生になったときだった。あの頃はクォーツがまだまだ発売から間がなく主流は自動巻だった。CITIZENの時計が自分が所有した最初の腕時計だった。今でも実家のどこかにあると思う。かなり気に入っており高校を卒業するまで使っていた。その後何故かROLEXに興味を持つようになり、大学に入ってすぐにファーストROLEXを買った。オイスターデイト、というモデルで数年後に手放してしまうのだが今でもあれが最高の時計だと思っている。その後父親にプレゼントするためにブラックダイヤルのROLEXを買った。自分のROLEXはオイスターデイトを下取りに出してデイトジャストに変更した。その後GMTマスターを購入し更にそれを処分して現在のシードゥエラーを所有するようになった。何故かROLEXを使うようになってからたくさんの時計を所有するようになった。一番多かったのはSwatch。一番多いときはSwatchだけでも30本ぐらい所有していたと思う。季節ごとに新しいラインが発売されるのでそれを買い続けていたらいつの間にか増えてしまっていた。またGショックも多かった。最も多かった時期は恐らく全部で50本ぐらい所有していたと思う。今思うと何故そのようなことをしていたのか理解できない。その後徐々に処分して現在はROLEXシードゥエラー、Apple Watch series6、sucubapro Z1(ダイブコンピュータ)、vivofit3、そしてROLEX デイトジャストブラックダイヤルの5本を所有している。あの頃の狂っていた時代からすると大幅なダイエットである。今でもほんの少し興味を持っている時計がある。興味があると言っても写真で見たときに「格好いいな」と思う程度である。ROLEXのヨットマスターロレジウム、これはとても格好いいと思う。

Apple Watch series6

今朝、起きた時からApple Watchの挙動がおかしかった。何度かリセットしていたが画面が指の動きを認識しなくなっていた。しばらく触っているうちに画面の感触に違和感を感じたので少し力を加えて見たらそのまま画面が外れてしまった。そしてその時点で壊れてしまった。このApple Watchはまだ1年使用していない。前のは3年使用していたのであまりにも短命だった。壊れた原因は何と無くわかっている。

実はこのApple Watchをできるだけ大事にしようと購入してすぐに液晶保護のフイルムを貼り更にべセルを保護するためのガードをつけていた。恐らくこのガードが良くなかったのだと思う。ガードには本体との間に僅かながら隙間ができる。その隙間から水が入り、画面と本体の接合部付近を常に水で濡らしているような状態を作っていた。これが画面が剥がれてしまった理由だと思う。また中のユニットが断線して画面が指の動きに反応しなくなったのだと思う。短命だった。

そして

このApple Watchも決して安くはなかった。Apple storeで購入したが5,6万円ぐらいしたと記憶している。物欲をエネルギーにして生きていたあの頃だったら大失望だったと思う。ところが、今日Apple Watchの最期を見届けた時も何も感じなかった。不思議である。ものに対するこだわりが無くなっている。仕事の途中だったが一度家に戻り代わりの時計をつけて仕事場に戻った。代わりの時計はROLEXシードゥエラーだった。これは大事な時計なのでゴミの処理などをするいまの仕事につけたことは今まで一度もなかったが、今日は迷いもなくROLEXにした。極端な話、一番大事だと思っていたこのROLEX が仮に今なくなっても恐らく何も感じないのではないかと思う。

人は一番次元の低い欲求が満たされると次の欲求に気持ちが移るという。例えば食欲は最底辺にある欲求だろう。食欲が満たされなければ、それだけを求め続ける。それが満たされて初めて次の欲求に移行して行く。今の自分にとって物欲は満たされなくてはならない欲求の更に上の次元にあるものなのだろう。では、今満たされることを求めている欲求とは何か。恐らく神様との関係だと思う。今の自分にとってこれだけは決して取り去られてはならないものだし、また「もう十分」というところまで満たされているわけではない欲求である。神様との関係を犠牲しても手に入れたいものがあるのだろうか。恐らく今の自分にはないと思う。Apple Watchを失って自分の必要がより鮮明になった一日だった。

【こころ食堂聖書研究】8.死と復活

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セルフネグレクト

患者さん事情

今日は日曜日だが診察日なので出勤。しかし今日は比較的空いていた。時々待合室を覗くがレギュラーの患者さんが来ていないと調子が悪いのでは無いかと心配になる。本当は調子が悪い人が来るところなのだが。詳しいことは分からないが、素人目に見て本当に治療が必要な人は恐らく半分もいない気がする。本当に調子が悪ければもっと大きな病院に行っているだろう。患者さんの6割はご高齢の方で、その中にはお子さんが県外に出ている方もいらっしゃる。県外のお子さんが自分の親を心配して毎日医院に行くようにしている例も良くある。こちらは外来患者さんも送迎するので電話をかけて自宅で待機しているだけで事足りるのである。遠方に住む子どもにとっては安上がりな安否確認である。しかもうちの医院は朝9時から正午まで、午後2時から午後5時まで、午後6時から8時までの長時間開院の医院なので利用しやすい。こちらに勤めるようになった当初は、必要のない人が利用していることに違和感を感じていたが最近はこれも大切な医療のひとつなのかも知れないと思うようになってきた。自分の親も、超高齢のふたりが綱渡りのように生活している。姉が仕事の合間に面倒を見てくれているが距離も離れているのでそれほど頻繁に様子を見に行けるわけではない。そのようなとき、近くにふたりの健康状態を含め様子を見てくれる人がいれば凄く助かるし安心できる。うちの医院はまさにそのような社会のニーズにも応える側面も持っていると言える。

誰にも知られずに

昨日、いつもチャンネル登録をして視聴しているyoutubeチャンネルで衝撃的な動画を観た。特殊清掃の現場を手伝いながら取材をするものだったが、まだ若い50代の男性が誰にも知られずに亡くなっておりしばらくしてから発見される現場の様子だった。セルフネグレクトの定義はご高齢の方を対象とした言葉のようなのでこの50代の方には当てはまらないのかも知れないが、状況からいえばやはり自分のことができなくなっているのでセルフネグレクト同様のケースであると言える。以前にもこのチャンネルでは特殊清掃の現場を取材していたが今回もそれに続く第二弾として非常に衝撃的な内容だった。視聴するうちに途中から「これは人ごとではない」と思うようになった。自分も一人で暮らすようになってしばらくになる。昨年は仕事もしていなかったので亡くなっていても誰にも気付かれない状況だった。今は仕事をしているので出勤しなければ何らかの連絡があるだろうし連絡がつかなければ自宅まで誰かが訪ねてくれるだろう。万が一亡くなっていても1週間放置されることはないと思う。が、金曜日、土曜日が休みなので木曜日の仕事が終わってすぐに事切れてしまえば日曜日の昼ごろまでは発見されない可能性がある。

コロナ

動画の中でもコメントされているがコロナ禍で外出がままならないため自宅でひっそりと誰にも看取られずに亡くなっていくケースが増えているという。命の灯火が消えていく恐怖と孤独の恐怖が同時に襲って来る。そのような耐えられない状況をたったひとりで迎えることがどれほどのことなのか。想像しただけで恐ろしくなる。昔、マザー・テレサの紹介番組を見たことがある。孤独と死期の恐怖を少しでも和らげるようにと「死を待つ人の家」というものを彼女は作った。断末魔でもシスターたちが手を握り「大丈夫だよ」と言い、寄り添うことでひとりではないことを悟らせるそうだ。今はコロナ禍で寄り添うことも場合によっては許されないことがある。それでもひとりではない、決してひとりではないと言ってくださる天の神様がそばにいてくださることを自覚できたらどれほど良いだろう。

モザイクなし】大量の生活ごみに埋もれた孤独死の現場を特殊清掃~原状回復までに密着

 

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