もう一つの大切なこと

幕屋建設

モーセ率いるイスラエルの民はそのまま進めば1ヶ月もしないうちに到着するであろう約束の地カナンに行くのに40年もかかった。その間、神様はイスラエルの民を教育し、この民族を通して異邦人にも神様の祝福をもたらすことを考えた。しかし、イスラエルの民は神様に対して不平を言ったり不従順であったり神様のご計画の通りには育たなかった。エジプトを出た第一世代の中ではヨシュア、カレブなど少数を除いて約束の地に入ることは許されなかった。そんなポンコツイスラエルだが素晴らしいと思える場面もいくつか存在する。自分が好きなのは幕屋建設の場面である。
幕屋建設には多くの職人と材料、費用が必要だった。それを集める場面だが、神様は心からのささげ物しか喜ばれないことをモーセを通して仰った。
「モーセはイスラエルの人々の全会衆に言った、「これは主が命じられたことである。 あなたがたの持ち物のうちから、主にささげる物を取りなさい。すべて、心から喜んでする者は、主にささげる物を持ってきなさい。すなわち金、銀、青銅。 青糸、紫糸、緋糸、亜麻糸、やぎの毛糸。 あかね染めの雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、 ともし油、注ぎ油と香ばしい薫香とのための香料、 縞めのう、エポデと胸当とにはめる宝石。 すべてあなたがたのうち、心に知恵ある者はきて、主の命じられたものをみな造りなさい。 すなわち幕屋、その天幕と、そのおおい、その鉤と、その枠、その横木、その柱と、その座、 箱と、そのさお、贖罪所、隔ての垂幕、 机と、そのさお、およびそのもろもろの器、供えのパン、 また、ともしびのための燭台と、その器、ともしび皿と、ともし油、 香の祭壇と、そのさお、注ぎ油、香ばしい薫香、幕屋の入口のとばり、 燔祭の祭壇およびその青銅の網、そのさおと、そのもろもろの器、洗盤と、その台、 庭のあげばり、その柱とその座、庭の門のとばり、 幕屋の釘、庭の釘およびそのひも、 聖所における務のための編物の服、すなわち祭司の務をなすための祭司アロンの聖なる服およびその子たちの服」。 イスラエルの人々の全会衆はモーセの前を去り、 すべて心に感じた者、すべて心から喜んでする者は、会見の幕屋の作業と、そのもろもろの奉仕と、聖なる服とのために、主にささげる物を携えてきた。 すなわち、すべて心から喜んでする男女は、鼻輪、耳輪、指輪、首飾り、およびすべての金の飾りを携えてきた。すべて金のささげ物を主にささげる者はそのようにした。 すべて青糸、紫糸、緋糸、亜麻糸、やぎの毛糸、あかね染めの雄羊の皮、じゅごんの皮を持っている者は、それを携えてきた。 すべて銀、青銅のささげ物をささげることのできる者は、それを主にささげる物として携えてきた。また、すべて組立ての工事に用いるアカシヤ材を持っている者は、それを携えてきた。 また、すべて心に知恵ある女たちは、その手をもって紡ぎ、その紡いだ青糸、紫糸、緋糸、亜麻糸を携えてきた。 すべて知恵があって、心に感じた女たちは、やぎの毛を紡いだ。 また、かしらたちは縞めのう、およびエポデと胸当にはめる宝石を携えてきた。 また、ともしびと、注ぎ油と、香ばしい薫香のための香料と、油とを携えてきた。 このようにイスラエルの人々は自発のささげ物を主に携えてきた。すなわち主がモーセによって、なせと命じられたすべての工作のために、物を携えてこようと、心から喜んでする男女はみな、そのようにした。」
‭‭出エジプト記‬ ‭35:4-29‬ ‭口語訳‬‬

この訴えに対してイスラエルの民は心からの捧げ物を携えて来た。奴隷生活から解放される際にエジプトから持って来たものだ。彼らは惜しげも無く心からささげた。結果、どうなったか。

「そこで、モーセはベザレルとアホリアブおよびすべて心に知恵ある者、すなわち、その心に主が知恵を授けられた者、またきて、その工事をなそうと心に望むすべての者を召し寄せた。 彼らは聖所の組立ての工事をするために、イスラエルの人々が携えてきたもろもろのささげ物を、モーセから受け取ったが、民はなおも朝ごとに、自発のささげ物を彼のもとに携えてきた。 そこで聖所のもろもろの工事をする賢い人々はみな、おのおのしていた工事をやめて、 モーセに言った「民があまりに多く携えて来るので、主がせよと命じられた組立ての工事には余ります」。 モーセは命令を発し、宿営中にふれさせて言った、「男も女も、もはや聖所のために、ささげ物をするに及ばない」。それで民は携えて来ることをやめた。 材料はすべての工事をするのにじゅうぶんで、かつ余るからである。」
‭‭出エジプト記‬ ‭36:2-7‬ ‭口語訳‬‬

多すぎるから、もう持ってこないようにと言われたのだ。ポンコツイスラエルも良いところがあるものだと感心する場面である。

教勢(きょうせい)

教会の人数や献金額、年毎のバプテスマ数などをまとめて教勢という。自分が所属する教団の教会員数は世界全体では2000万人超、日本では15000人ほどである。世界全体で見ると教勢が伸びている国も多くあるが日本だけを見たときにそれは確実に下降傾向にある。信徒数が減ることで教会に勢いがなくなり、関連する機関(学校、病院、食品事業、出版事業等々)も経済的には悪化の一途を辿っている。自分が働いていた学校も全盛期は中学生150名、高校生350名の大所帯だった。学校の規模からいえば大きいとは言えないが全寮制の学校としてはかなりの規模だった。しかし現在はこの1/3程度にまで落ち込んでしまった。よく「少子化」を理由にする人がいるが決してそうではない。少子化の現在も生徒を集める学校の勢いは凄まじい。また内々の情報ではあるがある一つの機関を丸ごと消滅させる方向もほぼ決まっているという。食品事業も縮小傾向。「時代にあったスタイル」を提唱する方が機関の方向性を決めているのだが、この方はなんでも縮小するのが最優先と考える。現状ではその判断は致し方ないところだろう。

しかし

教勢については再生をかけて多くの人が身を粉にして奔走し必死に頑張って来た。それでもダメだったのである。ただ、自分にはどうしてもまだ一つやり残していることがあるように思えてならない。イスラエルの民が祝福を受けたのがどのような時だったのか、士師の時代にイスラエルの民がどこで失敗し、どこで神様の助けをいただいたかは誰でも分かることである。その誰でも分かることをまだやっていない気がする。経済的に立て直すことの前に本気で信徒が取り組むべきことは一つだけだと思っている。
聖書研究ガイド21年4期1課

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聖霊の働き

祈祷会

今日はとても嫌なことがありショックを受けていた。普通の人なら何でもなく流せることなのかもしれないがずっと引きずってしまうところを見るとやはり自分はまだ病気なのかな、と思わされた。同じ送迎のドライバーが先週事故で怪我をしてしまった。自転車通勤の途中で、スピードを出しすぎてカーブを曲がりきれず田んぼに突っ込んでしまった。幸い骨折はなかったが打撲と擦傷がひどく職場である病院に入院することになった。全治1週間とのこと。そのため、ドライバーが一人いない状態で、おまけに今日はもう一人が休みだったので透析患者さんを自分一人で送迎することになっていた。時間がかち合うことがあるのでかなり緊張しながらミスなく仕事をしようと思っていたが、朝の迎えで自分を落ち込ませることが起きた。その方はGさんと言い、関連のサ高住に入居している。半年ほど前、自分がこの仕事を始めて間もなくGさんを迎えに行く途中で事故渋滞にひっかかり予定の時間を15分ほど遅れて迎えに行ったことがあった。その時は烈火のごとく怒り狂っており非常に暴力的だった。80を過ぎた高齢者だが元トラックドライバーということで凄むところがある。それ以来Gさんは自分のことを心の底から嫌っているようだった。自分はそれに気付いていたが上司からの命令であれば当然嫌ですとは言わない。久しぶりにこのGさんを迎えに行ったのだが、体が御不自由なので車に乗るときも介助が必要になる。自分が後ろから支えるような姿勢をとった瞬間(津軽弁なのでよくわからないが、恐らく)「馬鹿野郎、触るな」と叩かれた。その後も「早くドアを閉めろ」非常に暴力的な言葉を連発していた。自分は今まで教育現場にいたので、いきなり怒り出す人に慣れていない。自分も短気だが人が怒っている様子にはドキドキしてしまう。以前にも書いたが、津軽に来て短気な人にたくさん会った。自分にこの仕事を教えてくれた人も非常に短気で、言葉が通じないこともありとにかく叩くことが多かった。他の患者さんにも3分が待てずに「何していたんだ、遅いじゃないか」と怒り出す人が数人いる。

自分は親からも殆ど叩かれたことが無いし暴言のような言葉に慣れていない。どんなにイライラしても必ず相手の言い分を聞く、という職場に長年いたのでこういう対応にショックを受けてしまう。Gさんのことでずっと落ち込んでいたが、気持ちがなかなか回復せず結局今日の仕事が終わるまで引きずってしまった。

今日は水曜日で祈祷会だが、人が少し怖くなってしまったので欠席しようと思った。家に戻って聖書研究や聖書通読をしてからシャワーを浴びた。しばらく祈っていたが、「すぐに祈祷会に行きなさい」という促しを感じた。

祈祷会

今日はどうしても人に会いたく無い、などと女子中学生のようなことを考えていたが強引に押し出そうとする力を感じた。「神様、もう時間が過ぎています。今から行くよりも、自宅でゆっくり神様と交わりながら祈りたいので今日は祈祷会を欠席します」と祈っても祈祷会に行くようにとの促しは強まるばかりだった。仕方がないので不承不承支度をして出かけた。

教会に着くといつものメンバーの他に初めてお見かけする方が一人いらっしゃった。いつも士師記を読んで祈りの時間に入るのだが、今日はこのYさんの聖書や神様に関する質問時間になっている様子だった。Yさんは数年前に当院のスタッフに出会い聖書を読むようになった。また自分たちの教会が独自に発行しているキリスト教書(主にエレン・G・ホワイトという人が幻を受けて書いた書物)も多く読んでいる方だった。Yさんはたまたま教会に電気がついているので立ち寄ったのだとか。その後もYさんの質問コーナは続いたが気づくと自分に対して集中砲火のように質問して来た。他教派の解釈と自分たちの教会の解釈の違いなども含めてできる限りの質問にお答えした。このYさんがとにかく聖書に通じている方で、こちらが舌を巻くほどだった。

Yさんは、個人で聖書を読むことは好きだが教会に行けば煩わしい人間関係もあるので行きたくないと仰っていた。そのような自分に聖霊の神様は助け手となってくれるのか、と切実な質問をされた。キリストの十字架の贖いについても質問され、罪祭が屠られ血が祭壇の四隅に塗られ脂肪が焼かれた後の聖所に於ける祭司の働きを説明した。祭司の働きと贖いについてはもっともっとアドバンスコースだと思うのだがYさんはこの辺りにも精通している。

神様は今日Yさんと出会うことを計画し祈祷会に行くように強く促してくださったのだとやっとわかった。

聖霊の導き

聖書には知識が豊富で神様に近い存在について紹介している。ニコデモ、アリマタヤのヨセフなどはすぐに思いつく人物だと思う。Yさんとお話しさせて頂いた時に、どこかニコデモに重なるような気がした。神様は聖霊様を通してこのYさんに強く働きかけていらっしゃることがよく分かった。信仰の薄い自分にもそれが分かった。最後にYさんと共に祈って祈祷会を終えた。普段よりも大幅に時間が過ぎてしまったが神様が直接関与してくださった特別な時間を過ごすことができた。Gさんのことでひどく落ち込み、この仕事を辞めようと思ったが一日の終わりにはYさんを通して素晴らしい祝福を与えてくださった。

2021年9月11日 主に用いられるとき
メッセージは13:40から

キリスト教

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神様の応答

Apple Pencil 2

祈りながら、迷いが生じることがある。そんな時に神様に何が正解なのかを教えてくださいとお願いする。また、自分の祈りが御心にかなっているかどうかがわからなくなる時、印を求める祈りをすることがある。イエス様は終末時代に与えられる印はヨナの印以外には与えられないと仰っている。またみ言葉を通して多くの示唆を与え正解に導いてくださる。しかし、時として個人的な祈りに応えるべく印を与えてくださることがあるように思う。少なくとも自分はそのような経験を何度もした。

ここ数日、というかいつもそうであるが悶々とする日々が多く祝福の印、いつも神様が一緒にいてくださり守ってくださっていることを分かりやすく教えてください、と祈り続けていた。実は、先日も投稿の中で紹介した聖書の言葉が自分に対する約束として受け止めて良いのかどうかをずっと神様に祈り求めていた。このみ言葉を後ろ盾にして大胆に恵みの座に近づくことが良いことなのかどうか自信がなかったのだ。

その御言葉が

「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。
創世記 28:15 口語訳

である。この御言葉を忘れないよう家中に貼ってある。またこの聖句を歌にして覚えている。それほど自分には欠かせない、掛け替えのない御言葉なのである。しかしこれは兄との再会で恐怖と、神様を信頼する信仰との狭間で心が揺れ動いているヤコブに対して与えられた言葉。ベテルでの非常に限られた場所、対象、時、背景に与えられた神様からの言葉である。これを自分に対して語られていると受け止めて良いものかとずっと思い悩んでいた。そんな悶々とした思いが背景にある中で、神様が共にいてくださる印を求めて祈っていた。以前のように「このような印を与えてください」とは祈らなかった。ただ自分にわかる方法で教えてくださいと祈った。

神様が自分の前から消え去ったApple Penchil 2。これについても無いと不自由ではあったが、ノートとペンがあれば事足りるので、必要ならば神様が与えてくださるだろう、と真剣には探していなかった。一応心当たりの車のディーラーには探しに行ったが無かったのですっかりこのことを忘れていた。ところが今日になって急に…。

一日の送迎業務が終わって最後の消毒、吹き上げ清掃をしていた。常に助手席には人を載せないので助手席側のドアを開けることが殆どないのだが、今日は消毒のついでに助手席側のシート下も拭き掃除をした。普段はやらないのに今日に限って何と無くやった。シート周りを全て消毒して、ドアを閉める前に何気なくドアの内側にある深めのポケットに手を入れたら少しゴミらしいものが手に触れた。捨てようと取り上げてみると、ゴミの中からなんと探していたApple Pencil 2が出て来た。絶対におかしい。ここには絶対にあるはずが無い。助手席に落とすわけないし、ドアのポケットに入るわけがない。なのにあった。

偶然なのかもしれない。しかし、自分にはこれが神様からのメッセージであることがよくわかる。

「私はここにいるよ、片時も離れずあなたのそばにいるよ」

と語りかけてくださっているのが良くわかる。

今日の御言葉

今朝与えられた聖書の言葉である。

「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」
ピリピ人への手紙 2:13 口語訳

【字幕】死ぬとき生まれる時(人生がどん詰まった時どうしたら良い?)

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思い出

小さい頃、今では見る影もないが痩せすぎており虚弱体質だった。小学校に入学するも持病の頭痛が頻発し欠席も多かった。一度は普段とは違うお医者さんにかかり「脳膜炎」との診断を受け即入院となってしまった。実際には脳膜炎ではなかったのだが1週間ほど入院した。両親は自分が健康でないことを心配し柔道を習わせた。習うのは良いが練習が厳しくて、またうまくできないと竹刀で叩かれるので道場に行くのが恐怖でならなかった。結局健康体にもなれず、柔道の技も上達しないうちにやめてしまった。

何で自分は頭痛で悩まないといけないのだろう、と子どもながらに思って居た。病弱だったが少しだけ良いこともあった。東武東上線、中板橋駅が地元であるがこの線路を隔てた弥生町というところにかかり付けのお医者さんが居た。車など無いので母が自転車に乗せて診療所まで連れて行ってくれる。かなり牧歌的というか解放的な雰囲気で診察室と待合室が同じ部屋である。必ずお尻に注射をされるのだが毎回泣いてしまう。すると順番待ちをしている患者さんが「ぼく、頑張れ!男の子だから泣かない!」と激励してくれる。痛い注射を打たれてまた自転車で帰るのだが、決まって母がアイスクリームを買ってくれる。「みんなには内緒だよ」と言って食べさせてくれる。これが嬉しくてたまらなかった。自分は勉強も出来ないし落ち着きも無いので母からは叱られることが多いのだが、こうして優しくしてくれる母が大好きだった。

高校生の頃から少し母親に反抗するようになってしまいそれが結構長期間続いた。特に浪人中は自分を合格させなかった大学をはじめ社会全体が敵に思えていた。そして社会の代表として母親に八つ当たりしていた。本当に情けないことである。聖書の教えで「両親を敬え」とあるのに、それが真理だと信じているのにどうしても母親に対して素直になれなかった。本当は心の底から大好きな存在なのに。思い出しただけでも、その頃の自分を殴りたくなる。自分の対応にも常に優しく接してくれる母、いつもいつも心の中で「お母さん、ごめんなさい」と言い続けていた。

今回、この春から転職した時も母が就職祝いだと言って大金を渡してくれた。実際には自分たち兄弟が毎月両親に仕送りをしている。そのような経済状態の中で本当に大金を渡してくれたのだ。受け取らない、と何度も断ったが「どうしても受け取ってくれ」と泣かれてしまったのでとりあえず預かることにした。こんなバカ息子のこともいつも気にかけてくれる両親、そして母なのだ。

そんな母が

夜は結構早めに寝てしまう。運転の仕事なので居眠りをしてはいけないので22時過ぎには寝てしまう。また朝早く起きてお祈りをするので、遅くまで起きていると早く起きられない。昨晩というか日付が変わって今日の1時頃に姉からLINEが入っていた。朝の4時に目が覚め確認したところ、母の体調が悪く今日病院に行くことになっている、とのことだった。症状が書いてあったので素人ながら「帯状疱疹」ではないかと思った。眼底の痛みと頭痛。恐らく眼部帯状疱疹ではないかと思った。実はかつて受け持った生徒が母と全く同じ症状だった。彼はその後左目の視力を失った。まだ中学3年生である。

義兄が朝から母を病院に連れて行ってくれる予定だったが痛みが強すぎるため救急搬送された。皮膚科の対応ができないとのことで脳神経外科で即入院となった。やはり帯状疱疹だった。自分は帯状疱疹の経験が無いのだが、吐き気や頭痛、眼底の痛みを想像しただけで泣けてくる。母がどれだけ苦しい思いをしたのか、一睡もできず苦しんだことを想像しただけで心が壊れそうになる。

自分のせいで

帯状疱疹は自己免疫力が低下した時に、神経に潜んでいた水痘・帯状疱疹ウイルスが活性化することで発症する。この自己免疫力の低下の原因には色々なものが考えられるがストレス、家老、加齢が挙げられる。この「ストレス」に心当たりがある。実は2,3週間ほど前に母に対して少し強い口調で言ってしまったことがある。母は認知症なのでいま話したことをすぐに繰り返す。それをよく理解しているので何度でも同じことを話すようにしているのだが、自分が触れたく無い話題を何度も何度も蒸返したので、少し感情的になってしまい「お母さん、その話はもうよそう!」とかなり強い口調で言ってしまった。かなり冷たい雰囲気の間があり、しばらくの沈黙の後母が「じゃあ、無理しないでいつでもこっちに帰って来なさい」と言って電話を切った。

普段優しく接している自分が、昔の反抗期のような口調で言ってしまったのでそれが心に残りストレスになってしまったのだと思う。母を病気にしたのは自分だ、という気持ちでずっと後悔し祈り続けた。

帰って来なさい

いつも母は、「無理しないで帰って来なさい。青森にいても友達がいないんでしょ?うちに帰って来なさい」と何度も何度も言ってくれる。この言葉を聞くと泣けてくる。自分だって帰りたい。仕事があるのなら、収入につながることがあるのならすぐにでも実家に戻りたい。ばかみたいな話だが、在宅でできる「映像クリエーター」を真剣に考えたこともあった。しかしすぐに収入につながるかどうか、恐らく無理だろう。だからありがたい誘いだが「大丈夫だよ、こっちには友達もたくさんいるし毎日楽しくやっているよ」とうそぶく。友達などいない。青森にきて楽しいと思ったことは一度もない。ただ神様とだけ生きているので充実はしているし無意味では決してない。でも何度も実家に帰りたい気持ちになった。優しい母のいる実家にいますぐ帰りたいと何度も思った。仕事で102号線をよく使うのだが、運転しながら「神様の時が来たら、この道を通って東京そして広島に帰れますように」といつも祈る。

実家に帰りたい。そしてイエス様が迎え入れてくださる永遠の御国に帰りたい。

20210925礼拝 説教 東清志

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木には望みがある

植物の命

職場での仕事内容だがメインは送迎である。透析患者さん、外来患者さんの送り迎えをする。循環バスのように決められたルートを走るのではなく患者さんの自宅に迎えに行き同じ場所に送り届ける。この仕事を始めて半年が過ぎるので大半の患者さんの家は覚えた。送迎の仕事の合間にいくつかやるべき仕事がある。先週からやらなくなったが医院開院当時からのカルテをスキャンする仕事。これは素人目に見ても膨大な量なので10年かかっても終わらないと直感した。能率の悪い方法でスキャンし続けるのかをもう一度質問してみたが、やるとのことだったので無謀とも思える仕事を続けて来たが、しばらく前にスキャンをしないで廃棄処分することが決まったという。半年間の仕事が無駄に終わってしまった。一般からは考えられないが、この職場ではヘッドになるような人が3,4人居てそれぞれが話し合わず思いつきで事を進めようとするのでこういうことが頻発する。33年間組織で働いて来た自分にはあまりにも次元が違いすぎてついて行けないところである。話がそれたが、送迎以外にやっている仕事で結構な労力を要するのが「草取り」の仕事である。これはかなり根気がいるし体力的にもきつい。ただ、自分はこの仕事が大好きである。何故なら、草取りをしている間はずっと神様と対話し祈ることができるからだ。車の運転中も祈り続けているが、あまり祈りに集中し過ぎると危ないので時々は信号も見るようにしている。そうすると祈りが途切れてしまうのである。しかし草取りは祈りながらやってもそれほど危険はない。ただ、やってもやってもすぐに草が伸びてしまう。2日前に綺麗にしたところがうっすら緑色になっている。植物の生命力に圧倒される。

ネブカデネザル

わたしが床にあって見た脳中の幻の中に、ひとりの警護者、ひとりの聖者の天から下るのを見たが、彼は声高く呼ばわって、こう言った、『この木を切り倒し、その枝を切りはらい、その葉をゆり落し、その実を打ち散らし、獣をその下から逃げ去らせ、鳥をその枝から飛び去らせよ。ただしその根の切り株を地に残し、それに鉄と青銅のなわをかけて、野の若草の中におき、天からくだる露にぬれさせ、また地の草の中で、獣と共にその分にあずからせよ。
ダニエル書4:13-15

ダニエルの信じる神様が本物であると認めることもあったネブカデネザル王。しかし一方で自分が築いたバビロニア帝国の素晴らしさに酔いしれることで真の神様を忘れてしまうことも多々あった。そしてこのネブカデネザル王に対して一つの夢が与えられた。王はこの夢の意味が分らなかったのでその解き明かしをダニエルに依頼する。

ダニエルは躊躇しながらも王に促されてその解き明かしをする。その夢はネブカデネザル王自身に対する預言的夢であった。繁栄の後王は気が狂ってしまい獣のような生活を余儀なくされる。国民から見捨てられ獣のように暮らすこと7年の時を経る事を伝えた。そして実際ネブカデネザル王は7年の間野をさまようことになった。

ここでネブカデネザルを象徴する大木を根こそぎ切り倒すのではなく、切り株を地に残しその根が枯れないようにした。ここにネブカデネザル再生の可能性が残った。

ヨブ記には次のような言葉がある。

木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、その若枝は絶えることがない。
ヨブ記14:7

この7年ののちネブカデネザルは天を見上げて正気に戻った。そして彼の名誉、光栄、王国も戻って来た。以前にも勝る栄誉に包まれたと聖書には書かれている。

神様は人を正しい道に導くため
・罪を示し→悔い改めるなら
・その場から離し
・一人静かに神と交わる時間と空間を与え
・繁栄を回復する

このプロセスでユダヤ人ではなく異邦人を回復しているところも非常に興味深く励まされるところだと思う。

一人一人にまだ可能性がある。再生の希望がある。価値のない自分のような者にその希望を見出してくださることは何と素晴らしいことか。

2021年9月25日 「木には望みがある」 安息日礼拝LIVE配信
(メッセージは22:22より)

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再臨の希望

眠り

60年近く生きて生きたので色々な方の死を経験した。自分が最初に死を目の当たりにしたのは小学6年生の時だった。同居の祖父が亡くなった。数ヶ月の入院生活後しばらくの眠りについた。なかなか死を受け入れることができず、寂しさと悲しさを抱えていたが寂しがることも出来ないまま全寮制の中学校に行くことになった。祖父の告別式が中学の入学式と重なっており、告別式の直後で心の準備ができていないうちに当時千葉県にあった全寮制のミッションスクールへと向かった。入学式やオリエンテーションに出席していないので勝手が全くわからない。毎日泣いていた。家が恋しくてたまらなかった。今すぐ全寮制の学校を辞めて自宅に帰りたいと毎日思っていた。唯一の支えが、1kmほど離れた高校のキャンパスに姉がいたことだった。次に経験した死は祖父の死から5年後。今度はやはり同居していた祖母が亡くなった。祖母は自宅で亡くなったので、その亡くなる一部始終を見ていた。死が怖くてたまらなかった。愛する家族を飲み込んで行く死が憎くて怖くてたまらなかった。その後、親しかった教会員が数名亡くなった。そして自分の先輩や同級生の死も経験した。大学4年になる前の春休みに友人が亡くなった。同じ研究室に配属されていた友人である。2月に、4月から始まる研究室メンバーの顔合わせ会をしたのが彼と会った最期になってしまった。肝臓ガンだった。また教員になって2年目に同級生の女子が白血病で亡くなった。中学から一緒だった仲間で、前述の通り中学校に遅れて入ったのでオリエンテーションを受けておらず分らないことだらけだったが彼女が色々と面倒を見てくれた。同級生の死は本当にショックだった。まだ25歳という若さである。その翌年にやはり中学から一緒だった仲の良い友人が亡くなった。やはりガンだった。彼が亡くなる2年前に沖縄で開催された教会の青年大会で会ったのが最後となってしまった。高校卒業後初めての再会だったが空白の時間などなかったかのように寮で過ごしたあの頃のようにすぐに高校生に戻れた。彼は医学部に進学し医師になった。就職してすぐ健康診断を受けガンが発見された。手遅れだった。それから2ヶ月で彼はイエス様の再臨を信じてしばらくの眠りについた。教員になった同級生数名と一緒に神戸で営まれた告別式に参列した。背中を丸めた、見覚えのあるお父さんとお母さんがとても小さく見えた。

色々な死を経験して来たが関わった生徒が亡くなることほど辛く苦しいことはない。3年前、自分が沖縄で教員をしていた時に担任した女子が幼い二人のお嬢さんを残して亡くなってしまった。そのほかにも数名亡くなっているし自分が把握していないだけで更に多くの卒業生が亡くなっているかもしれない。

つーぐー

自分が所属する教団は何故か狭い範囲で結婚することが多く、知らないうちにどなたかと親戚関係になっていることがある。自分の家も結構多くの家系と繋がっており、先日もある牧師先生から自分と親戚である事を伝えられ驚いた。
つーぐーは親戚である事をよく理解していたし、教え子でもあるのでとても仲良くしていた。つーぐーが中学の時に彼と出会ったが、高校では担任もしていた。つーぐーは音楽の才能に恵まれ曲もかけるしバイオリンやギターも得意だった。だからつーぐーや他の生徒を誘って弦楽アンサンブルを作り夏休みを利用して沖縄の教会で音楽の奉仕をしたこともあった。いつも正直で常に神様だけを見つめるつーぐーからいつも多くの事を教えてもらっていた。心が落ち込む時、つーぐーと話していると希望が湧いてくる。常に前向きで屈託無い笑顔を忘れない彼は年下ではあったが自分を支えてくれる大きな存在だった。そんな彼が今から6年前に亡くなった。明日が高等学校の卒業式、という時にこの知らせを聞いた。動転してしまった。つーぐーがこの世から居なくなるなんて考えられなかった。今すぐつーぐーのいる沖縄に行きたかったが卒業式の段取りは自分一人でやって来たので他の人に頼めない。また司会進行の責任もあるのでとりあえずすぐに沖縄に行くことは断念したが、崩れるように膝をつき祈った。祈った、というより「主よ、何故ですか?」とずっと言っていたように記憶している。本当に悲しい出来事だった。つーぐーの笑顔が今でも自分の心に残っており、そんな彼に語りかけたくなる衝動に駆られることがある。

先ほど、YouTubeで「私と神様シリーズ」を視聴している時につーぐーの妹さんの証を偶然聴かせていただいた。泣けて泣けて内容が今ひとつ入ってこなかった。とにかくつーぐーに会いたくてどうしようも無くなってしまった。親戚であり教え子、そんなこと以上に私を支えてくれた心の友であるつーぐー。彼がどれほど大きなものを、どれほど沢山残してくれたかはかりしれない。悲しみしかないが、間も無くイエス様がご再臨されてつーぐーに会えることだけが唯一の希望である。

16 Ai Miura 【私と神様シリーズ】

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オンライン・アウトリーチ

Uber Eats

昨年、広島市内で休職していた。目の前が海というロケーションで漁船やレジャーボートなどが係留されているところだった。日曜日ともなると午前4時ごろから出航する船があるので結構うるさかったが嫌ではなかった。コロナのこともありあまり人がいるところに出かけることはなく家のそばにあるイオン、イオンの中にあるジム、宇品港などで時間を過ごしていた。頻繁に見かけるUberの配達員。広島市内はレンタルサイクル(アシスト付き自転車)が盛んなので自転車を借りてUberの配達をしている人も多く見かけた。そして、自分もやってみようかな?と真剣に考えた。配達にも興味があったが、自宅に居ながら食品を注文し受け取れるのはとても面白い。小さい頃は出前をお願いすることも多かったが成人してからは殆どない。いつかUberを利用してみようと思っているうちに津軽に来てしまった。

Uberとは違うが最近オンラインによる伝道活動が増えている気がする。自分が所属する教会の中にも教会員個人がチャンネルを立ち上げて一生懸命福音宣教に携わっているのをよく見かける。中にはかつて生徒と教員という立場でかかわらせていただいた方も多く居て、彼らからたくさんのことを教えていただき祝福をいただいている。自宅に居ながら好きなチャンネルを視聴して多くの恵みを受けられるのは本当に恵まれていると思う。

今日の祝福

今日は休みをいただいたので家の事を済ませて外出した。あいにくの雨だったのでいつものように自然界に出かけることはできなかったが祈るために車を走らせた。昨日投稿した記事に出てくる大学受験に備えて浪人している人、そして彼女のお世話をしてくれているかつての生徒にリンゴを送りその後は当てもなくひたすら祈りながら車を走らせた。いつものようにヤベツの祈りから始め家族や肉に連なる全ての人、全国の牧師先生、癒しを必要としている方々、かつての同僚や友人、そして自分のことや悔い改めの祈りなどをした。が、なかなか今日は心が重く気持ちが晴れなかった。自分を祝福してくださいという祈りは神様に届かなかったのかな?と不信仰な事を考えながらサンセットも近づいて来たので家に戻った。夕飯、そして明日料理をしなくていいように準備をしている時に、最近視聴しているオンライン講演会「私と神様」シリーズを視聴していた。みなさんがそれぞれに神様と出会った経緯やその時のエピソードなどを語ってくださり毎回本当に祝福されている。今日、聞かせていただいた方も非常に大きな困難の中で神様と出会い心が神様に取り扱われるという経験をされた。証を伺っているうちにこちらも泣けて来て料理どころではなくなってしまった。そうか、これが今日祈って与えられた祝福なのか、とやっと合点がいった。
色々なご苦労や辛い経験をされて居ながらそれでも神様に対する信頼を持ち続けることは決して容易なことではないはず。しかしそれを可能にしているのもまた神様なのだと痛感した。

今日の聖句

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」
マタイによる福音書 6:33 口語訳

14 Chihiro Suzuki【私と神様シリーズ】

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Apple Pencil 2

勉強会

今年になってあるひとりの卒業生に対して数学などの勉強会をしている。勉強会と言っても質問がきてそれにネット上で答える、という形式にものだが必要に応じてその単元全般の解説を行う。非常に原始的な方法だが一番やりやすかったので紙に手書きで解説と解答を書きそれを写真に撮ってLINEで送るという方法を取っていた。が、写真だと影ができてしまったりピントがあってなくて不鮮明になってしまうので途中からiPadを使うことにした。始めからこちらを使えば良かったのだが、iPadでは「Good Notes」というアプリを使っているのだが拡大して書くため全体が把握しずらく一枚の紙に書くほうが楽だったので敢えてiPadは使わなかった。Good Notesを使うことで、色を変えてマークしたり図形を綺麗に描いたりできとても重宝している。基本的には手書きにしているが必要に応じてテキストファイルにすることもできる。今日も休憩時間にこのGood Notesを使って質問に対して返信をしていた。

勉強会の時間も非常に貴重だが、彼女のことを毎日祈り続けているので勉強を通して近況を知ることができるのは非常にありがたい。彼女は現役合格ができずに現在受験勉強をしているのでは無い。高校を途中で辞め高校卒業程度検定試験に合格して上級学校の受験資格を得た。彼女は看護大学に進学したく受験を考えたが経済的な理由、また親御さんの都合などが相まって浪人することとなった。周りの友達は高校にそのまま在学して卒業して上級学校に進学して…なんで自分だけこういう人生を歩んでいるのだろう、と悩んでいないか常に心配している。また今年の春には重篤な病で入院していた。生涯背負っていく病だ。だから彼女の心と身体を神様が全て癒してくださるように祈っている。

ところで

仕事が終わって家に戻るとまたいくつか質問がきていたのでそれに返信しようとiPadを使おうとした。が、肝心のApple Pencilが無い。タブレットに文字や絵を書くためのペンである。勿論インクが出るようなものではない。これがなくなっている。カバンの中を何度も探したが見つからない。今日は仕事の途中で1時間半ほどディーラーに行ってブレーキパッドの交換をしてもらった。あるいはそこに忘れたのかもしれないと電話をしてみたがなかった。乗っていた病院の車、自家用車等々自分の足跡を辿って全ての心当たりを探してみたがなかった。物欲はないのでこれがなくても対してショックではないが勉強会のツールを失ったという意味では少々痛手である。先ほど神様にお祈りした。自分の何か態度が悪くて神様に心を向けさせようとApple Pencilを隠されたのかもしれない。理由はわからないが神様がこの状況を許されているのでしばらくはこの不自由な生活に慣れてみようと思う。必要ならばまた神様が与えてくださると思う。

今日の聖句

「主の恵みふかきことを味わい知れ、 主に寄り頼む人はさいわいである。」
詩篇 34:8 口語訳

6 Yoko Lamn【私と神様シリーズ】

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ヤベツの祈り

今更

ずいぶん前に「ヤベツ(ヤベヅ)の祈り」がクリスチャンの間で流行った。書籍も出版され、その祈りが聞かれたという証も多く聞かれた。実は最近、久しぶりに「ヤベツの祈り」という言葉を聞いた。とても懐かしい響きであるとともに、昔流行ったので何となく「今更ヤベツの祈りか」とも思った。

聖書に突如として出てくるヤベツ、そしてその祈り。

「ヤベヅはイスラエルの神に呼ばわって言った、「どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみをうけさせられないように」。神は彼の求めるところをゆるされた。」

And Jabez called on the God of Israel, saying, Oh that thou wouldest bless me indeed, and enlarge my coast, and that thine hand might be with me, and that thou wouldest keep me from evil, that it may not grieve me! And God granted him that which he requested.

歴代誌上 4:10 口語訳

内容

意味はいたってシンプルである。

・恵みを与えてください(祝福してください)

・国境(地境)を広げてください

・御手が私を守り災いから遠ざけ苦しみを受けないようにしてください

たったこの3つのフレーズで完結している。

自分なりにこの祈りを今日何度かしてみた。但し、畏れ多いというかこのような祈りをする資格があるのかもよく分からなかったので聖書の言葉を思い出しながら祈ってみた。

以下自分の祈り

神様、自分は神様の祝福をいただくのに相応しい存在ではありません。しかし、あなたの祝福からもれたら生きることもできません。あなたは聖書の中で次のように言われました。

あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。(イザヤ43:4)

この御言葉が私にも投げかけられていることを信じ、またパウロの次の言葉に励まされて大胆に祈ります。

だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。(ヘブル4:16)

どうか自分を神様の祝福から漏らさないでください。どうしてもあなたの祝福が必要です。お願いいたします。どうか小さく貧しいこの器を忘れないでください。

地境、自分の影響が及ぶ範囲のことでしょうか?自分は人様に影響を与えられる存在ではありません。ただ、自分の嗣業、伝道地として与えてくださった家庭、家族を特別に守ってください。家族が全員神様を心から礼拝するものでありますように。また自分がとりなす多くに方々のための祈りをどうかお聞き届けください。私に対する回答が遅れても構いません。しかし、とりなしの祈りをしている方々に対してはどうしても必要があって祈っていますので一瞬でも遅れることが無いよう速やかにご対応ください。よろしくお願いいたします。

多くの不安や恐れを感じ、困難の中で生活しています。しかし、世の中には自分など比べ物にならないほど苦しい状況の中で必死に戦っている方々がいます。どうかその方々を特別に守ってください。そして僭越ながら私をもお守りください。困難に押しつぶされる思いで毎日を過ごしています。どうか災いから遠ざけ苦しみから私をお救いください。

イエスキリストの御名を通してお祈りいたします。アーメン。

祝福

この祈りをして、既にたくさんの祝福をいただいた。米国に住む卒業生が電話をかけてくれ神様のことを思いっきり語り合えたこと、自分のような者のために祈ってくださる方が与えられたこと、職場で非常に優しく支えになる言葉をかけていただいたこと、急に次男が電話をしてくれたこと、今晩の祈祷会で特別な恵みをいただけたこと等々。

自分を祝福してください、などとおこがましくてなかなか祈れない。人のためには祈れるけど自分もために祈るのは抵抗がある。それでも祈ってみるとすぐに印を与えてくださった。ヤベツの祈り、恐るべし。自分の信仰の励みになる。

15 Haruna Fukumoto 【私と神様シリーズ】

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中秋の名月

今日は中秋。今年は中秋が満月に重なるので、この記事を投稿したら月の写真を撮影しに行ってみようと考えている。職場の駐車場が比較的広くて好条件なのでそこで撮影してみようかと企んでいる。月は自転周期と公転周期が同じであるために、地球には同じ面しか見せていない。地球から言えば同じ面しか見せてもらっていないのである。その裏側がどのようになっているのかを知りたく旧ソビエト連邦の宇宙探査機ルナが1959年に打ち上げられ、3号が月の裏側の撮影に成功した。その10年後、米国はNASAのアポロ計画に乗り出し1969年月面着陸を成功させた。人類が初めて月面に降り立ったのは後にも先にもこのアポロ計画のみである。2018年には中国の「じょうが4号」が月の裏側に探査機の着陸を成功させた。384000kmと地球から一番近い衛星ではあるが、そのお隣の星でさえ未だに分からないことがたくさんある。ちなみにアポロ計画の後地球に月の石や砂を持ち帰ったが、自分が小学生の頃池袋にある東武百貨店でその展示をしていた。今でもあれが本物だったのか甚だ疑問である。

満月

ここ数年はできていないが、ダイビングが趣味でよく潜っていた。ポイントは毎回沖縄。慶良間諸島や慶良間諸島に向かう途中の無人島(チービシ)などが手軽なので好んで潜っていた。海に潜っていると自分の存在の小ささ、また自分の抱える問題の小ささに気づかされる。そして大自然の法則に従う生物たちの営みに心震える思いを何度もした。サンゴの白化現象が深刻な問題となって久しいが、このサンゴの産卵が必ず6月の大潮の日と決まっている。これは本当に不思議である。月、特に満月が地球や生態系に及ぼす影響がとても大きいことを感じさせられる。満月の日は出産が多くなる、と助産師さんから聞いたことがある。また自分の古くからの友人は満月になると豹変する。だから満月の日になると奥さんは友人に近づかないと言っていた。引力だけでは説明できない何かを天地創造の時に神様は組み込まれたのかも知れない。

人類の一歩

アポロ計画に参加した宇宙飛行士たちは、地球に帰還後人生の価値観が大きく変化したという。

・アポロ15号ジム・アーウィン
「宇宙飛行までは、私の信仰は人並み程度のものでした。それと同時に、神の存在に人並み程度の疑念も持っていました。しかし宇宙飛行によって、それらの懐疑は吹き飛びました。神がそこにいるということが如実に分かるのです。こんな精神的な内的変化に私自身も驚きました。その臨場感は知的認識を媒体にするのではなく、直接的な実感でした。私がそこにいて君がそこにいる。そんな感じでした。神に何を祈っても、神は無言です。それが当然であると私は考えていました。しかし、そのとき、確かに神が声を出して答えてくれるわけではないのですが、まるで超能力者同士のコミュニケーションのように、神がそこに在るのが分かり、パーソナルな関係の中で語り合ったのです。姿が見えないことの方がおかしくて、私は振り返って神の姿を探したほどでした。しかし神は超自然的にあまねく遍在しているのです」

・アポロ16号のチャーリー・デューク
「1978年4月、ハイウエイを走っているとき、突然私はイエスが神の子であり、神であるという確信が持てたのです。目的を持って創造されたものであり、その目的とは、あらゆる生命が神に仕えることだと考えるようになりました。それまでの私の人生はすべてなにかを『得る』ことを目的としてきましたが、それ以来、『与える』ことが私の人生の目的となりました」

・アポロ14号のエド・ミッチェル
「私は科学的真理と宗教的真理という二つの相克をかかえたまま宇宙に行きました。宇宙ではほとんど一瞬の内に、この長年悩み続けた問題の解決を見ました。人間はただの知的動物なのか、宇宙は物質の偶然の集合に過ぎないのか、我々はどこに行こうとしているのか、宇宙や人間は偶然に創生されたのか、そんな疑問であります。こんなああでもないこうでもないという考えていた疑問が、宇宙では、瞬間的に解決されました。問いがあり、答えがあるという二段階のプロセスがあったというより、すべてが一瞬でした。宗教学でいう神秘体験とはこういうことなのでしょう。瞬間的に真理を知ったという思いでした。
世界は有意味です。私も宇宙も偶然の産物ではない。すべての存在がそれぞれの役割を担っています。それぞれに神的プランが働いているのです。生命はその神的プランに従って進化しつつあるのです。個別的生命は全体の部分です。個別的生命が部分を成している全体がある。すべては一体です。一体である全体は、完璧であり、秩序づけられており、調和しており、愛に満ちている。この全体の中で、人間は神と一体なのです。自分も神の目論見に参与している一人なのです。
神とは、宇宙霊魂あるいは宇宙精神(コスミック・スピリット)であると言えます。宇宙知性(コスミック・インテリジェンス)とでも表現しましょうか。ともかくその大いなる思惟に従って進行しているプロセスがこの世界なのです。人間の思惟はそのスペクトラムに過ぎない。宇宙の本質は、物質ではなく、霊的知性であります。この本質がいわゆる神なのです。」

そして彼は最後に警告を発する。
「現実の人間はエゴの塊であり、様々のあさましい欲望、憎しみ、恐怖などにとらわれて生きています。自分のスピリチュアルな本質などはすっかり忘れて生きています。そして、総体としての人類は、まるで狂った豚の群れが暴走して、崖の上から飛び降りようとしているのも同然の行動をしています。それが集団自殺に等しい行動であると気付かないほどに愚かな状態なんです。」

アポロ15号のアーウィンはキリスト教伝道師となった。更にその活動に、アポロ15号のアル・ウォーデン、アポロ16号のチャーリー・デューク、スカイラブ4号のビル・ポーグなどが加わったという。

人類が月に降り立って残した第一歩よりもキリストがこの地上に残された足跡の方が遥かに尊い。

【LIVE】六本木ヒルズ展望台から「中秋の名月」を配信

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