弟子たちとペテロ

タラント

連日雪が降っているがまだ積もってはいないので車で教会に行った。今日の聖書研究はかなり活発な意見交換がなされた。「悔い改め」がテーマだったのだが、人が悔い改めるのはその罪に対してではなく罪の結果に対してであること、またそもそも人は真の悔い改めが自力ではできないのでは無いか、などの意見があり非常に考えさせられた。

教会から戻り、まだまだみ言葉を心に蓄えたくいくつかのオンライン礼拝を探していた。するとある教会で「タラントのたとえ」を題材にしたメッセージが語られていた。興味があったのでそのまま視聴した。タラント(またはタラントン)とは聖書に出てくる言葉だが神様が人に与える「能力、才能」を表すことば。テレビなどに出てくる人に対していう「タレント」はここからきているらしい。1タラントは当時の労働者1日あたりの賃金6000日分と言われている。仮に1日の稼ぎが1万円なら1タラントは6000万円ということになる。このタラントを、主人が僕に託して本人は長期間旅に出てしまうのである。3人の僕に対して5タラント、2タラント、1タラントを託した。この3人のうち2タラント、5タラントを託された僕はそれを用いて商売し、元金を2倍に増やした。ところが1タラントを託された僕はその元金を失ってはいけない、主人に怒られることを恐れそのお金を土に埋めた。その後主人が戻って来て粗利を聞くのだが1タラントを埋めた僕が、その1タラントを活かさなかったため叱責を受け持っていた1タラントを没収され5タラントを託された僕にあげてしまう、という話である。

「また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。 すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。 五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。 二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。 しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。 だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。 すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。 主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。 主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。 そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。 すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。 それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。 さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。 この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。」
マタイによる福音書 25:14-30 口語訳

自分に託されたタラント

今日の礼拝メッセージでは、あなたは与えられたタラントを人々にためにまたイエス様のために用いていますか?と問いかけられた。

本当のことを言うと自分に与えられているタラントが分からない。命、時間、健康、体力、神様を知っていること、等々。考えればいくつかは挙げられるがそれらは自分だけに与えられたものではない。また、ここ数年ずっと否定されてきたので、自分が人や神様のために役に立つなどとは考えられなくなってしまった。しかし、神様はまだ何かを自分に与えてくださっていると思うのでしばらくの間、自分にとってタラントとは何かを考えてみたいと思う。

もしかしたら

こんな自分だが、今の自分に与えられているタラントがあるとするならばそれはもしかしたら「自分のように自己肯定感が低い人、否定され続けた人の気持ちが分かる」ことなのかもしれない。

十字架のあと、イエス様は墓にいる天使を通して次のように言われた。

今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。

 But go your way, tell his disciples and Peter that he goeth before you into Galilee: there shall ye see him, as he said unto you.

マルコによる福音書16:7

ペテロはあれほどイエス様に忠誠を尽くし従っていくと言っておきながら鶏がなく明け方までに3度も「イエスという人物と私は全く関係ない」と言ってしまった。ペテロはそんな自分が不甲斐なく、「自分などもうイエス様の弟子でも使徒でもない」と思っていたのだろう。そんなペテロの気持ちを察してイエス様は「弟子たちとペテロのところに行って」と仰った。自責の念と失望、自己嫌悪で自分などイエス様の弟子ではないと思っているペテロに対して「そんなことはない。今でもお前は私の弟子であり使徒であり私の愛の対象なのだ」という気持ちを込めてペテロを名指しで呼んでくださったのだろう。

自分にもその招きが向けられているのかもしれない。

2021年11月27日 「三番目の僕とならないために」(メッセージは5:44から)

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