再臨の望み

月蝕

今日は部分月食。部分と言っても98%が欠けるのだからほぼ皆既月蝕である。夕方、月を眺めていたがなるほど確かに欠けて行く様子がはっきりと分かった。天体の動きは非常に神秘的で、また法則に従って現在も寸分の狂いもなく運行している。

以前働いていた広島で、仕事帰りが日付を超えることはザラだった。というか殆ど毎日0時を回ってから家に帰っていた。家と学校が徒歩でも5分以内ということもありついつい夜中まで仕事をしてしまっていたが、この時期は東の空からオリオン座が上ってきて綺麗な姿を見せてくれる。オリオン座には特別な思い入れがある。東の空から雲に乗ってご再臨されるイエスさまはオリオン座の中空を通過してくると言う。だから毎晩仕事帰りにオリオン座を見て「今晩は来てくださるかな?」などと再臨に思いを馳せていた。

父との会話

今日、食卓で両親と色々な話をしていた時のこと。色々な話と言っても認知症の進んだ母も会話に参加するので同じ話を何度も繰り返すだけなのだが、その中で父がいくつかの質問をして来た。2年ほど前まで父は原宿にある教会まで電車に1時間半程乗って通っていた。が、母が教会に行く途中で倒れたり危険なことが何度かあったので現在は自宅でオンライン礼拝をしている。父は教会に行きたくて仕方ないのだ。礼拝ができることはありがたい。しかし教会員との交わりを好んでいたので教会に行って人と話したくて仕方ないのだ。そんな父がして来た質問。

父「最近、教会ではどう言う礼拝メッセージが多い?再臨の話は良くされるのか?」

私「再臨の話もあるし、日常生活でどのように清くなれるか、所謂『聖化』に関するメッセージも多いよ」

父「再臨は近いかな?」

私「思っている以上に近いと思うよ」

父「そうか。そうだといいな。お父さんは毎日今日が再臨の日でありますように、と祈っているんだけどなかなかそうならないんだよな」

当然といえば当然なのだが、父は心の底から再臨を待望している。以前は教会の長老として牧師を支え講演会やバザーなどの行事を支え、安息日の午後ともなれば表参道から一本入った一般の民家を戸毎に訪問しキリスト教のパンフレットを配ったり、興味のありそうな人には聖書の話をしたり教会に誘ったりしていた。しかし今は動くこともままならず教会にも行けなくなってしまったのでただただ再臨が早くくることを祈ることしかできない。それしかできないけれど再臨を待望している。それは母も同じである。

今回の帰省で両親の助けになるような働きはできなかったが、両親の信仰の一面を見ることができ安心したし励まされた。

すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。 だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。」
テサロニケ人への第一の手紙 4:16-18 口語訳

聖書研究ガイド21年4期8課 1080p

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Suica

suica発売から20年

Suica 、Super Urban Intelligent CArd。20年前の今日、suicaの運用が開始された。JR東日本が全国に先駆けて交通系ICカードを作ったがその構想は1987年のJR東日本発足当時からあったと言う。Suicaが販売されて間も無く、自分もこれを使うようになったが広島に住んでいたので使用する機会は実家に帰省するときや東京への出張に限られていた。今では殆どどこでも使用できるようになり広島市内の路面電車でも使える。

鉄道好きな自分にとってSuicaや自動改札のシステムが導入されたことは非常に大きいことだが、それ以前の駅員さんが改札に立っている時代がひどく懐かしくてたまらない。入鋏する人の手さばきの良さが格好良くて改札口脇でずっと見ていたことが何度もあった。また出札口では瞬時に切符の内容を判断し乗り越しや期限に切れた切符などを見つけている様子をみてこれまた格好良いと思っていた。因みに鋏の形(切った後の形)は駅ごとに違っておりどこの駅で入鋏されたかが分かるようになっていた。前後するが今年3月時点でSuuicaの発行枚数は8589万枚。すごい数である。沖縄のゆいレールでも使える。

帰省

このSuicaを使って昨晩実家に帰ってきた。母のその後が気になり、また母を支える父の手伝いもしたいと思い急遽帰省した。仕事を終えて最終の新幹線に何とか間に合わせたが結構ギリギリだった。終業直前に業者さんが来られたのでその対応を任され電車の時間に間に合うかやきもきした。新青森で実家に電話をして急遽帰省することを伝えた。実家には23時40分頃着いた。電話では0時頃着くので先に寝ているように言っておいたのだが、少し早くついた実家の玄関には両親がまさに出かける様子で立っていた。どうしたのかを尋ねると、自分のことを駅まで迎えに行くところだったと言う。自宅から最寄りの駅までは徒歩で4分ぐらいの距離だが、それでも病気の母には歩ける距離では無い。が、「迎えに行かないと心配だ」と駅まで行くと言って聞かなかったそうだ。仕方なく父が一緒に行き少し歩けば、駅まで歩けないことを悟って諦めるだろうと思い家を出るところだったと言う。

とりあえず家に入って少しの時間お茶を飲んで会話した。

それにしても、遅い時間だから駅まで迎えに行かないと心配だ、と思っていることが凄い。またありがたい。昔からよく駅に迎えに来てくれていたことを思い出した。遅くなったり急に雨が降った時には必ず迎えに来ていた。今のように携帯電話などない時代だからとにかく待つしかない。今考えれば時間の無駄である。しかし、時間を無駄にする分愛情を伝えることができる。駅まで迎えに行く、自分にはとても分かりやすくピンとくる言葉だ。

放蕩息子

放蕩息子が出て行ったその日から、毎日家の門で息子の帰りを待ちわびた父親。帰って来るかどうかも分からないのに待ち続ける父親。

「また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」
ルカによる福音書 15:11-24 口語訳

イエス様が迎えに来てくださる。もうその日はそこまで来ている。

「てんしのいもうと」小学校1年生。

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バビロン捕囚

The Exile 

B.C.600年頃、南ユダ王国が新バビロニア帝国のネブカデネザル王に征服されエルサレムの住民たちが囚われの身になりバビロンに連れて行かれた。聖書のエレミヤ書にはバビロン捕囚は70年であることが明示されているが歴史書ではそれよりも短い期間が説明されている。

「実際、おまえたちは七十年間バビロンにいることになる。そののち私は、おまえたちに約束しておいたすべての祝福を与え、故国に連れ戻す。 わたしは、おまえたちのために立てた計画をよく知っている。それは災いではなく祝福を与える計画で、将来と希望を約束する。 その時になったら、わたしはおまえたちの祈りに耳を傾ける。 真剣に探し求めるなら、おまえたちはわたしを見つけることができる。 そうだ。わたしはおまえたちに見つけられる。わたしはおまえたちを奴隷の身分から解放し、財産を回復し、追いやられた国々から集め、再び故国の土を踏ませる。」
エレミヤ書 29:10-14 リビングバイブル

バビロン捕囚、というか「捕囚」をThe Exile(エグザイル) と言うことを知っている日本人はどれぐらい居るのかわからないが、自分は出来事としては知っていたしダニエルなどの話も聞いている。が、この出来事の意味を殆ど理解してこなかった。

先日聖書通読でエレミヤ書を読んでいる時に、衝撃的な聖句に出会った。自分がいかに聖書を適当に読んでいたかが分かる恥ずかしい経験だった。こんなことも知らなかったのだ。

2種類のいちじく

祖国を失い異国の地であるバビロンに連行された人たちは本当に気の毒だと考えていた。実際、エジプトでのように過酷な労働を強いられていたわけでは無いし定住者たちはそこで子どもができ家庭を築いて行く。それでも捕囚の身である。解放される70年をどれほど待ち焦がれていたか。しかし、エレミヤ書は少し違った意味をこのバビロン捕囚に含ませている。

「バビロンのネブカデネザル王が、エホヤキムの子でユダ王国のエコヌヤ王を捕虜とし、ユダの高官、大工や鍛冶屋などの熟練工と共にバビロンへ連れ去ったのち、主は次の幻を私に示しました。 エルサレムの神殿の前に、いちじくを盛った二つのかごが見えました。一つのかごには、よく熟した採り立てのいちじくがありました。しかし、もう一方のかごのいちじくは、ひどく腐っていて、とても食べられない状態でした。 その時、主が尋ねました。「エレミヤよ、何が見えるか。」「いちじくです。とてもおいしそうなものもありますし、ひどい状態のものもあります。」 「良いいちじくとは、バビロンに移された人のことだ。わたしは彼らのためを思って、彼らを外国に送った。 わたしは、彼らが行った先で丁重に扱われるようにし、またこの地に連れ戻す。彼らを助けこそすれ、傷つけることはしない。彼らを植えて、二度と引き抜かない。 わたしに対して正しく応答する心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは大喜びで、わたしのもとに帰って来るからだ。 一方、腐ったいちじくとは、ユダのゼデキヤ王をはじめ役人たち、それにこの地に残っているエルサレムの住民のことだ。エジプトに住んでいる者も、この中に含まれる。わたしは彼らを腐ったいちじくのように処分する。 彼らは、地上のあらゆる国々から毛虫のようにきらわれる。彼らは、わたしが強制的に追いやる地で、あざけられ、ののしられ、のろわれる。 わたしが大虐殺とききんと疫病を送るので、彼らはついに、わたしが彼らと先祖に与えたイスラエルの地から絶たれる。」」
エレミヤ書 24:1-10 リビングバイブル

バビロンに連行されたのは神様の御意志でありご計画であった、と言うのである。しかもそれは異国の地で神様に忠実に従う訓練を受けるため、そして70年後に祖国にもどり真の意味で神の民となることを目的としていたと言うのだ。

スケールの大きさを感じる神様のご計画であり、この箇所を読んだ時に心が震えるのがよくわかった。神様は逆境と見える場所に敢えて導き、そこで訓練される。それは真の民を鍛え上げるためである。訓練を受けるために通う厳し目の学校に行くようなものである。

神様のご計画と言っても、苦しいことに違いは無いから多くの励ましを与えてくださっている。前述の言葉がまさにそうである。リビングバイブルで記したが口語訳の方が馴染みがあるかもしれない。

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」
エレミヤ書 29:11 口語訳

神様のご計画を信頼して従うことの大切さを教えていただいた。

バビロン捕囚とは?2600年後に帰還したって本当?(ワンポイント解説:聖書の基礎知識から奥義まで)

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ホームスクール

子どもと家庭の変化

昨日職場の方と学校教育についてきかれ理想の教育環境について話し合う機会があった。教員をしていた頃、その時代背景と家庭や生徒の状態の変遷をみてきた。新卒の頃はまだバブルの末期で下降傾向に入る少し前だった。そのため学校も羽振りがよかった。羽振りがよいといっても無欲で勤勉な先生方ばかりの環境だったので無駄遣いをするわけでもなく、ただ入学希望の生徒をできるだけ受け入れたく寮と校舎を増築した。また、ボーナスも出ていた。公務員や一般の会社と比べたらとても少ないがそれでも満足できるほどいただいていた。また多くのご家庭が父親の稼ぎで暮らしていた。母親は家で家庭を守り、働くとしても内職やパートの範囲、という家庭が多かった。しばらくしてバブルがはじけると少しずつ学校にも陰りが見え始めた。母親が働きに出て日中は両親不在という家庭が増えた。この頃小学生だった子たちが数年後に中学や高校に進学してきた。彼らは概しておとなしかった。外で友達と遊ぶことよりも家で静かにゲームや漫画に興じることが多かった世代である。また週休二日になったことも影響していると思われる。時間があっても相手をしてくれる人がいなかった時代である。個に向く傾向がある世代である。
その後、時代の影響かどうかは分からないが女性がパートではなく自分のスキルを活かした職に就くようになり更に問題は深刻化していったように感じる。家庭内の不和。自分が関わった生徒のご家庭も複雑な問題を抱えるケースが増えてきた。父親に別の家庭があり、その父親から相談されたこともあった。荒んだ家庭環境を見るたびに「全寮制」の価値を改めて評価したのもこの頃だった。

不登校

社会の動きに連動するかのように不登校の児童生徒の数も変化している。平成10年のデータでは小学生が22500人であったのに対して現在は63500(令和2年)と3倍ちかく増えている。令和2年のデータでは中学生の不登校が133000人。高校生になると50000人ぐらいになるがこちらはここ10年間でほとんど増減がない。不登校の原因は小学生と高校生では異なり年齢が低いほど「いじめ」による不登校の割合が高く、高校生になると家庭の問題が多くなっている。学校に行きたくても行けない、学校とは教育方針が異なるなど理由は様々だと思う。

環境づくり

不登校の児童、生徒に対して行政も策を講じ民間も手を差し伸べている。こと学習に関して言えば学校に通わなくても12年間の指導要領を全て習得することはできるし卒業資格についても問題ない。が、学校で学ぶことは「国語、算数、理科、社会」などの教科目だけではない。友達や先生との人間関係、人と強調して仕上げることの達成感、成功体験や失敗体験、そして評価されること等々さまざまである。そこについては色々な策が講じられているがまだ全員に行き届くものではない。

ホームスクール

自分の友人でホームスクールで育った人がいる。また教育方針のことで子どもを学校に通わせずホームスクールで育てている友人もいる。以前はこのホームスクールに対してどちらかというと否定的な意見を持っていた自分であるが、最近はホームスクールも悪くないと思い始めている。というのは次男が学校に行けないことがあるため何とかそのフォローができないかと思いネットを通じて授業形式に動画を毎日作って配信するようになったことがきっかけである。まだはじめて日も浅いので、迷うことばかりであるが学習のフォローというより次男に「君は大丈夫な尊い人間なのだ」ということを伝えたくこの動画活動をはじめた。割り算に苦手意識を持っているというので、彼の好きなものを題材に教えようとするがまだまだ難しい。また次男がどれほど価値がある人間なのかを聖書の話やYouTubeで見つけた動画を取り入れて学ぶようにしている。そして最後に必ずお祈りをして終わる。飽きてしまうといけないので30分以内にまとめるようにしているがまだまだ勉強が足りないので悩むことばかりである。
いつか次男に信仰と勇気、そしてなにより愛情を伝えられる動画を作れるようになりたいものである。

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キリストを装うサタン2

ベニー・ヒン

彼のことを知るようになったのは30年程前のことである。当時日本国内では(もしかしたら世界的なムーブメントだったのかもしれない)聖霊の神様を強調する運動がプロテスタント教会のある教派から起った。そしてそれは日本中を「聖霊運動」の方向に導く動きであったように思う。ハーザーなるキリスト教雑誌も多く販売されそこには世界中の聖霊運動について紹介されていた。自分もこの動きに影響を受けるところがありいくつかのリバイバル集会に参加した。当時広島に住んでいたので関西地区で行われるベニー・ヒン師に参加した。「聖霊に倒される」ことがとても流行って(?)おり聖会の最後には聴衆を壇上に招き一人ひとり聖霊の力によって倒していく。それだけではない。数千人の会場に向かって「タッチ」と言うと多くの人がその場に倒れた。自分は何の力も感じることはなく勿論倒れることもなかった。その時は「自分は不信仰な人間だから倒れなかったのだ」とずっと思っていた。また一方で倒れている人たちが倒れながら笑ったり、異言のような言葉を語るのをみて「本当なのかな?」と疑いの目でも見ていた。彼らは一定時間倒れているがしばらくすると自分の意志で立ち上がり再度ベンチに腰掛ける。これには何とも言えない違和感を感じた。

後にこのベニー・ヒン師が詐欺師として訴えられ多くの批判を受けるようになったわけだが彼の甥であるコスティー・ヒンがその内情を公表した。コスティン氏は壇上でベニー・ヒン師が「聖霊の力」と言って倒す人たちを支える「キャッチャー」という仕事をしていた。そしてそこでは聖霊による癒しなど一切起きていないことも明かした。更にベニー・ヒン師の「献金」を強要することや、その利益でプライベートジェットを所有していることなどを明らかにした。かなり長い文章なので興味があれがこちらを参照していただきたい。

ベニー・ヒンの甥、コスティ・ヒンの告白

真理の探究

現在、深刻な悩みを抱えている。ある人にとってはどうでも良いと思われるかもしれないが自分に通っては重大な問題である。実は勤務先の院長先生の聖書理解が自分の所属する教団の教理と異なるのである。それもかなり重要な部分に相違がある。勿論教団教派や教理が人を救うのではないことを理解している。が、院長先生は自分の考え(教団の教理とは違った教え)を本にして配っている。今は買えなくなっているが以前はAmazonでも取り扱っていた。現在も自分の考えに傾倒する人を得ようと躍起になっている。別の側面からみると、この医院は恐らく有床診療所の中でも考えられないほどの利益を上げていると思う。具体的な数字も把握しているがそれは伏せるとして、他の個人経営有床診療所より収入があるといえる。しかし、残念なことにそのほかのお金にならない事業を好き好んでやるためにそちらに医院の収益が回ってしまい、毎月給与を捻出するにも苦労するような経営をしている。今は殆どなくなっているようだが、少し前は業者さんにお金を支払うことができず、それを無視し続けていたという。業者さん(MR)は会社と支払わない当院との板挟みになり会社をくびになったという。最後に「クリスチャンがこういうことをする人たちだとは知りませんでした」と泣きながら訴えて去っていったという。しかし院長先生は非常に穏やかで怒らず誰に対しても丁寧に接することができる。これが何とも理解できないところである。いずれにしても、自分は今この医院で働くことが果たして神様の御心なのかと毎日祈りながら問いかけている。生活のため、と割り切ればよいのか。実際ここを辞めたところで次の仕事はない。路頭に迷い子どもたちの教育費を送ることもできなくなってしまう。何が真理なのか、よくわからないままでいる。

真のリバイバル

枯れたような人生になってしまったが、できればこの命をイエス様のために使っていただきたいと常に思っている。災害などで尊い命が失われていく報道に接するたびに「自分は神様を信じているのでご再臨を待ちながら死ぬことができます。しかし神様を知らない方々がイエス様を知らないまま亡くなることは神様の御心ではないはずです。どうかこれ以上神様を知らない方々の命をとらないでください」と祈る。終末時代に今まででは考えられないような規模のリバイバルが起こると信じている。できればその時に備えて今の自分を用い欲しいと図々しくも考えている。エゼキエルの見た幻では枯れた骨がくっつき肉が盛り上がり神様の息により死んだ者が生きたものになる。同様に死んだと見えるキリスト者たちがもう一度用いていただける日が近いことを確信している。

ハーベストミニストリーの中川健一先生という方がおられる。先生は時々メッセージの中で「真のリバイバルは信徒たちの個人的な聖書研究から起る」と仰っている。その通りだと思う。聖霊によって倒されることもあるいはあるかもしれないが、その部分だけが切り取られて根拠のないムーブメントから始まるリバイバルは本物ではないと思う。何が真実なのか、真理を求め続け神様の御心だけを行える存在になりたい。

2021年安息日学校聖書研究ガイドセミナー

 

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キリストを装うサタン1

終末における欺瞞

現在、本文を書き写しながら読んでいる書物がある。「終わりの時代の諸事件」というタイトルの本だ。終末にどのようなことが起こるのか、どのような心構えで終末を過ごすのかを的確に示した書物である。聖書にも終末には偽キリストの出現があると預言されているが、この書物にもそのことが具体的に示されている。

サタンはキリストを装って人類を混乱に陥れると記している本書には次のようにも書かれていた。

サタンは霊魂不滅と日曜日の神聖化と言うふたつの重大な誤りを通して、人々を彼の欺瞞のもとに引き入れる。前者は心霊術を築き、後者はローマとの親交の絆を作り出す。
各時代の大争闘 p648   終わりの時代の諸事件p149

また別の場所にはこの「心霊術」が「降神術」とも表現されている。

降神術って?

ネット上の辞書で調べてみるとつぎのように説明されていた。

祈祷などで神を招き寄せ、乗り移った人の口からお告げを述べさせる術。かみおろしの術。(goo辞書より引用)

かみおろしの術と言えば沖縄のユタ、そして当地青森等ではイタコが有名である。これもそれぞれ調べてみた。

ユタ

桜井徳太郎によれば、日本列島弧において最もシャーマンの活動が顕著なのは東北地方と南西諸島である。もっぱら死霊の憑依を受けてトランスに入り、第一人称でその託宣を述べるものを一般に口寄せ巫女と称する。東北地方のイタコ等と同様に口寄せ巫女としての巫儀を展開している呪術宗教職能者は、南西諸島ではユタ・ホゾン・トキ(奄美群島・沖縄諸島)、カンカカリャ・サス(宮古列島)、ムヌチ・ニゲービー・カンピトゥ(八重山列島)等と呼ばれている。

琉球の民間社会において、民衆の宗教的機能を担う職能者は、女性司祭者の祝女(ノロ)、根神(ニーガン)、サス・司(ツカサ)等の神人(カミンチュ)と、シャーマンとしてのユタ等の類に別れる。前者は主として御嶽(ウタキ)やグスク等の聖地や御願所(ウグヮンジョ)とか拝所(ハイショ)において部落や村落の公的祭祀や共同体の祈願行事の司祭をする。後者は部落や村落の個々の家や家族に関する運勢(ウンチ)、吉凶の判断(ハンジ)、禍厄の除災(ハレー)、病気の平癒祈願(ウグヮン)など私的な呪術信仰的領域に関与している。神人が聖地の司祭をするにあたり死穢や婦人の血の忌み、出産の不浄を忌避するのに対して、ユタは全く反対に死者儀礼や死霊供養に密着した。その性格、生態、機能など多くの点で両者は相いれないもののようだが、両者とも沖縄民間信仰の底辺を流れるシャマニズムであり、沖縄の民間信仰を支える車の両輪と言える、と桜井徳太郎は述べている。

ユタは、凡人にはなし得ない霊界のすがたや動きを見通すことのできる霊能力者であると見なされているが、ユタ信仰は迷信だという観念は沖縄の教育者や知識人の間に一般化しており、公式の場では穢らわしい、はしたないと軽蔑して口にも出さない。特に公的な場で活躍することが多い男性からは、体裁をつくろうため軽蔑冷笑される傾向が強かったため、家庭を内的に支える女性が一家の代表者としてユタのもとへ赴く。これにより、家庭の外では知らぬ顔をしている男性も、家の中ではユタの指示に従って行動する家族の在り方に巻き込まれていく。また、ユタへの依頼者は労働者・農民・漁民のみならず、高い地位の官僚・自治体役員・教職員・ビジネスマンが高い確率で含まれる。

個人レベルあるいは共同体レベルにおいて、人為の限りを尽くしても、なお解決し得ない問題につきあたったとき、その最終的決断を下すきっかけをユタの吉凶判断(ハンジ)に求めようとする傾向は、現在でも薄れていない。

こうしたユタを利用する行為は「ユタ買い(ユタコーヤー)」といわれ、通常は2~3人のユタの判断を仰ぐ。依頼者はかなりの額の費用を厭うことなくユタに支払う。沖縄県には「医者半分、ユタ半分」ということわざが古くからある。

桜井徳太郎は、神と人との間の仲介役は神意を鋭敏に感じ取ることのできるセンシブルな存在でなくてはならず、それを良くなしえるのは古来から感受性の強い女性であったと述べている。ユタは本来女性がなるべきものとされていたが、男性のユタは若干存在する]。

ユタには後述する弾圧の歴史がある。そのため、自身ではユタと言う称号を用いず、また他人からそう呼ばれることに対し反感を抱く者がいる。彼らは神人(カミンチュ)、御願者(ウグヮンサー)、御願を捧げる人(ウグヮンウサギヤー)、判断(ハンジ)など神に仕えることを表す名称を好む。また、祭祀・巫儀・卜占の区別が曖昧になってきている昨今の状況を受け、侮蔑的語感を伴うユタという名称より易者を意味する三人相(サンジンゾー)や風水を判断する風水師(フンシー)などの称号を用いる者がいる。

(wikipediaより引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/ユタ )

イタコとは

イタコには霊的な力を持つとされる人もいるが、実際の口寄せは心理カウンセラー的な面も大きい。その際クライアントの心情を読み取る力(一種のコールド・リーディング)は必須であるが、本来は死者あるいは祖霊と生きている者の交感の際の仲介者として、氏子の寄り合い、祭りなどに呼ばれて死者や祖霊の言葉を伝える者だったらしい。

岩手県南部から宮城県北部の巫女で組織された大和宗の大乗寺縁起によれば、クチブクと呼ばれる招霊の秘法は目連の救母伝説にその由来があるという]。大和宗では口寄せの用具には引磬を用いるが、巫女の周りに麻糸を付けた梓弓と桃や柳を置いて儀礼空間を創っている。

口寄せは、霊的感作によりあらゆる人種、動物でも呼び出せるとされる。 口寄せ以外にもイタコには「オシラアソバセ」を執り行う役目がある。「オシラアソバセ」とは、東北の民間信仰であるおしら様の御神体である二体の人形を遊ばせることである。オシラサマは各家庭に祀られており、一部地域ではその家庭の家族の代わりにイタコがおしら祭文を読み上げる。オシラサマのベースである杓子、瓢や柄杓に関する信仰を膨大に集め、これが「魂を集める採り物」であるとした柳田國男の説を承けた折口信夫によれば、これはマナを寄せるための依り代である。

イタコになる修行

イタコは、先天的もしくは後天的に目が見えないか、弱視の女性の職業であった。日本の東北地方に多く見られる習俗・民間信仰で、夏の恐山大祭(青森県)で行われるものが特に知られている。青森県の「津軽のイタコの習俗」と秋田県の「羽後のイタコの習俗」は、国の選択無形民俗文化財となっている。

盲目や弱視の女性がイタコになったのは、かつては生活の糧を得るためという事情もあった。第二次世界大戦の終結、高度成長期などを経て、日本の生活環境も大きく変化していった。と同時に、厳しい修行を必要とするイタコに敢えてなろうとする者も極めて少なくなっていった。そのため、現役のイタコのほとんどは高齢者である。

堀一郎によれば、目が悪い子供はイタコの師匠に米、炭を持って入門し、1年から3年、あるいは4、5年ほど、板の間の板を打って祓いの文句、オシラ祭文を習う。そしてスキルが上がった後、ダイジュユリ、デンジュ、ユルシ、ウズメソと呼ばれるいわゆるイニシエーションを行って、一週間程氏神社にこもってから仕事をする。

(wikipediaより引用  https://ja.wikipedia.org/wiki/イタコ )

【5分でわかる真理の核心⑫】~ 天に行く前に ~

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キャンプミーティング

親は我が子に

今日は全国各地にいる信徒が集まって礼拝を捧げる日だった。以前は関東のどこかが拠点になり実際にその場所に集まって2泊3日の集会を行っていた。それ故参加できる人も限られていたが、今日は初めての試みとしてオンラインでこのキャンプミーティングが行われた。現在も続いており、自分も今少しだけ抜けてこの記事を書いている。米国でスタートした自分が所属する教団はその昔実際に天幕(テント)に泊まり込んで数日間の集会を開催していた。テントに泊まりキャンプ生活をしてこの集会をしていたことから「キャンプミーティング」の名称が使われ現在もテント生活はしないが宿泊を伴う集会をしているのでこの名称をそのまま使っている。オンラインゆえに色々な不具合もあったがとても印象に残る素晴らしい集会の数々であった。

稲田豊教団理事長による礼拝メッセージの後バプテスマ式が行われた。その後牧師の按手礼式が行われた。他の教団教派とは少し違うかもしれないが、牧師は3つのステップを踏んで正牧師となる。まずはインターン、その後牧師となるがこの牧師が2段階に別れている。葬儀は執り行えるが結婚式やバプテスマ式を執り行えない牧師にまずなる。その後数年してから審査や面談を受け全ての権能が与えられる牧師になる。その按手礼式が行われた。その様子を見ていたのだが、牧師の按手を祝福して教会員が讃美歌を捧げていた。その讃美を聴いて思わず肩を震わせて泣いてしまった。今まで何度も歌ったことがある讃美歌だが、何度聞いても涙が出てくる。

次のような歌詞である。

1麗しのエルサレムに 救われしもの共に集いて
主の御顔を仰ぎまつる その喜びはいかになれば
素晴らしき 主の御業(みわざ)は罪の我らに勝利を与えたもう
我らゆかん 我らゆかん 主の御元へ
あぁ主、我が主を 我ら愛せん

2親は我が子に 友は友に 再び会い肩を並べ
主の御顔を仰ぎまつる その喜びはいかになれば
素晴らしき主の 主の御業(ミワザ)は罪の我らに勝利を与えたもう
我らゆかん 我らゆかん 主の御元へ
あぁ主、我が主を 我ら愛せん

アーメン

うるわしのエルサレム

2節の歌詞が泣けてくる。かつての同僚で、お子様を脳腫瘍で亡くされた方のことをどうしても思い出してしまう。今から10年ほど前のことである。最愛の子どもを失うなんてとんでもないことである。子を持つ親なら誰でも泣いてしまう出来事だろう。

人の思い、神の計画

自分の周りにもたくさんの良い先輩先生がいたがその中の多くの方が亡くなられた。何故か若くして亡くなった方が多い。日本の教育伝道に欠かせない方が命を取られる場面を何度も見て「神様の計画が理解できなくなる」ことが多々あった。人間的な思いだと、この人がいれば更に伝道が進むのに、と思うのだが神様は違う計画を持っているらしい。何故なのかは天の御国に行った時にイエス様に質問してみようと思っている。もしかしたら人間に頼らずに神様に頼ることを教えるためにあえてそうされたのかしれない。

もうすぐ、もうすぐイエス様が迎えに来てくださることをこの地上での残りの生涯を過ごして行きたい。

2021年11月13日「ガリラヤ湖畔での召し」(メッセージは18:45から)

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宇宙一の愚かさ

昨晩のこと

昨日は木曜日だったので一週間に一度の楽しみである温泉に行った。が、何と定休日。直前に受験生から数学の質問を受けておりそれに応えて出発が遅れたので温泉ではゆっくりできない時間帯だったのでそれほどショックではなかった。帰り道で少し食材をなどの買い物をして家に戻った。

家の湯船にお湯をためてお風呂に入ることにした。最近寒くなったので湯船にお湯をはることもあるが、今まで殆ど湯船を使ったことがない。何故なら、湯船がただお湯をためることしかできず沸かすことができないからだ。沸かせないお風呂は非常に不経済だと思い今まで殆ど使わずシャワーだけで済ませていた。

でも昨日はゆっくり湯船に浸かって色々なことを考えていた。そして瞑想しながら祈っていた。祈ると言うかイエス様に話しかけるようなことをしていた。最近、よく「イエス様にお会いしたいのですがそれは無理ですか?み言葉を通して、ではなく直接お会いしたいのです」と祈る。図々しい祈りである。ちゃんと聖書が与えられているのに。しかし、無性に会いたくてたまらないのである。夢の中でも良いからお会いできないかと毎日お願いしているのだが未だに叶えられない。

愚かさ

お風呂で祈っているときに、急にイエス様の十字架が愚かなことだと思ってしまった。自分の両親のための十字架は心から感謝している。妻や子どもたちのための十字架にかかられたことをこの上ない喜びである。しかし、何故自分のような者のために十字架で死なれたのだろうか。イエスキリストは「もしもこの地上に私一人しか居なかったとしても十字架の犠牲を選ばれた」と言う言葉を知ってから急に「個人的な救い主」と言う意味の重みを感じるようになった。そして、何故自分のため、いや自分一人のために十字架の犠牲を選ばれたのか。理解できない。自分の罪深さやイエス様に背を向ける傾向などを知っているので、イエス様が全くの無駄死にをしたのではないかと思い悲しい気持ちになってしまう。もしかしたらイエス様は「宇宙一の愚かさ」を自分に示してくださったのか。イエス様に対して愚かなどとはとんでもないことであるが聖書にも「神の愚かさ」について書いてある。

「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。」
コリント人への第一の手紙 1:25 口語訳

申し訳ありません、と祈ることしかできなかった。お風呂でずっとイエス様の愚かさを考えながらただただ涙が止まらなかった。

われわれも、苦難におそわれる時、ペテロのようになることがどんなに多いことだろう。われわれは、目を救い主にそそがないで、波をみつめる。われわれの足はすべり、もりあがった波がわれわれの魂の上を越える。イエスは、ペテロが滅びるために、みもとにこいと命じられたのではなかった。イエスは、ご自分に従うようにわれわれを召しておいて、 そのあとでわれわれを捨てるようなことをなさらない。イエスはこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である」(イザヤ 43:1―3)。
E.G.White   各時代の希望 電子版 p388

ゴルゴダの丘(イエスが十字架にかけられた場所) – ジョセフプリンス (Joseph Prince) | New Creation TV Japanese

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発達障害

健康診断

今日は院内の健康診断の日だった。院内での健康診断は先週から始まっており毎日3,4人の職員が検診を受ける。今日が自分の順番だった。外来患者さんがいる中での検診なので放置されることが多くそれほど多い項目では無かったが半日かかった。今までは検診センターが職場まで来てやってくださっていたのでスタッフの数も多く機器も人間ドックさながらのものばかりであったが、ここではかなり古い機材を無理やり稼働させ行っているようで昔を思い出す良い機会となった。視力検査は片目をスプーンみたいなもので隠すものだったし、エコーや胃部バリウムX線検査、眼底検査などは行われなかった。聴力検査はヘッドホンからの音よりも室内の換気扇の音がうるさくて少し苦労した。視力検査は支持棒で開いている部分を隠しているので全く分からなかったが、途中から要領を得て隠している方向を答えると正解になることを発見した。とてものどかな検査でホッとしたが、年齢が年齢だけにどこかで人間ドックをきちんとしようとも思った。

 

カミングアウト

検診の最中だったが、自分には20代半ばの男性看護師が付き添って検査をしてくれた。毎日顔をあわせるS君である。誰に対してもそうであるが彼に対しても常に敬語で話すようにしている。少しぶっきらぼうなところはあるが優しくなかなかの技術も身につけている青年である。彼が心電図検査をするために小さな部屋に案内してくれた。半年以上いる職場だが初めて入る部屋だった。慣れた様子で心電図検査を行ってくれた。検査の後にS君が「教員は、どれぐらいの期間されていましたか」と聞いてきたので「34年間やっていました」と答えると、「先生という職業の人にどうしても聞いてみたいことがあったのですが質問してもいいですか?」と話しはじめた。

「気づいているかもしれませんが、実は僕発達障害なんです」

別に驚くことでも、珍しいことでもない。そして彼は自分の生い立ちや発達障害によって苦労したこと、現在持っている悩みなどを話してくれた。彼が自分に聞きたかったのは「教育現場では発達障害の子どもをどのように扱うのか、またどのように関わるのか、更に彼らに対してどのような評価をするのかを教えてください」ということだった。

 

確かに発達障害を感じさせる生徒は今まで何人もいた。県内の教頭会でも発達障害の可能性がある子に検査を受けさせるにはどうしたらよいか、というディスカッションもしたことがある。しかし、当時から自分にはあまり興味のない話題だった。そして、自分の子どもが発達障害の可能性があることを知ってからはいよいよどうでも良いことになった。発達障害か否かを知ることがそれほど重要なことなのだろうか。それを知らないと適切な教育が施せないのだろうか。勿論発達障害について専門的な学びをしている教員も多いし、そういう方に頼る方がお互いに幸せなのかもしれない。が、自分はそうは思わない。

S君にはそのあとで手紙を書いた。彼は患者さんからも「若くて優しいお兄ちゃん」「飾りっ気がなく話していてホッとする」「注射が上手な看護師さん」と評されている。そんなことを書いて彼のメールボックスに入れておいた。

どうでも良い肩書を背負わないでありのままの自分自身で生きて欲しいと心から願う。特に若い世代にはそう思ってしまう。頑張れ、S君!

聖書研究ガイド21年4期7課

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矛盾

院内セミナー

今日は院内のセミナーが行われた。前回は参加できなかったが今回は時間も空けていただいたので参加することができた。今日のテーマは「感染症対策」。コロナウィルスに代表される昨今の感染症事情に重ねてこれから流行る「ノロウィルス」「ロタウィルス」そして「インフルエンザウィルス」について第一三共の方が来られて説明会を開いてくださった。一般的によく知られていること、初めて知ったこと、そして業界の裏側の興味深いお話を聞かせてもらった。特に今季はインフルエンザワクチンが不足しているとのことで、その辺の裏事情も説明してくださった。ワクチンを詰める瓶がコロナワクチン用に使われてしまい不足していることが要因のひとつ。そしてもう一つの要因が今回の摂取予定数120%が用意されていたにも関わらず検査の段階で基準に満たず40%ぐらいが流通できなくなってしまったとのこと。2月にはワクチンも十分に配れる状態になると言われているが、実際にはその頃に供給が追い付くのではなく、それまで必要数以上を確保した医療機関などがそれを手放し市場に出回るから確保できなかった人の手に渡るという。

そんな、第一三共さんが最後にとても興味深いというか考えさせられることを言っていた。昨年はインフルエンザが流行らず地元弘前管内でも罹患者が二けた前半しかいなかっという。それについて「語弊がありますが、私たちにとって『イナビル』の売り上げでその冬を越せるか否かが決まるのに、昨年は罹患者が全く出ず困りました。自分個人の売り上げとして1000万円を目標にしていましたが、終わってみるとー35000円でした。マイナスというのは、返品があったという意味です。私たちの会社は、皆さんの健康のために貢献している会社ですが、皆さんが健康になると潰れてしまう会社でもあります。適度に病人がいること、そしてその方々が重篤な状況にならないことが一番良い状態なのです。健康を考える会社ですが無病は歓迎できないのです」とかなり率直な意見を仰っていた。「昨年はインフルエンザが流行しなかったので、人々に抗体が無い状態。だから今年はインフルエンザが流行ると感染学会も警鐘をならしています」と少し笑顔で仰っていた。

健康を考える会社が、健康になられては困るというところが矛盾であり真実であるのだと痛感した。

パリサイ人

新約聖書に「パリサイ人」という存在が出てくる。

モーセの律法を厳格に守る人々で「パリサイ派」とも呼ばれていた。「分離されたもの」という意味があり、律法をおろそかにする人からの分離、また異邦人とも関わらないことからこの名前が付けられた。復活や天国などを信じない比較的富裕な人たちで構成される「サドカイ派」とは違い聖書(モーセ5書などの旧約聖書)を熱心に研究実践する人たちであったが、民衆からは大変人気があったときいたことがある。とにかく律法に関して飽くなき研究を重ね、今でいえば「信仰熱心で模範的な信仰者」と言える。しかし、イエス様はこの人たちや彼らの教えを非難した。行いの背後にある「心」が神から離れてしまっているからである。

前職の現場でも「信仰教育」をかなり厳格に行っていたが、ともするとこの「パリサイ派」の生徒を育てようとしていた傾向があったことを反省させられる。道徳的に高い水準に達していることはとても良いことであるが、その背後にある「心」については周りは判断できない。だから表に現れる「行い」で判断するしかないのだ。「パリサイ人にならないように」と言いながら「パリサイ化」教育を行っていたのではないだろうか。前述の第一三共の話とは少し違うが、ここにも矛盾があるように思える。

 

マルコの福音書2章18節~3章12節「パリサイ人の非難」

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