あなた一人しかいなくても

命の重さ

命が尊いことは理解している。しかしどれぐらい尊いのか、現代は分かりにくくなっているのかもしれない。

昨年、一枚の写真が公開され話題となった。表題の写真である。この写真いついての説明をネットより引用して見た。

感謝祭の日、テキサス州ヒューストンにある病院の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)専門集中治療室(ICU)で、高齢の患者を抱きしめ慰めるジョセフ・バロン医師(2020年11月26日撮影)。

米テキサス州の病院の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)専門の集中治療室(ICU)で、取り乱した高齢の患者を抱きしめて慰める医師の写真が世界中に拡散し、話題となっている。撮影時、この医師は連続勤務252日目だったという。

写っているのは、テキサス州ヒューストン(Houston)にあるユナイテッド・メモリアル医療センター(United Memorial Medical Center)の医局長、ジョセフ・バロン(Joseph Varon)医師。感謝祭の日に白髪の男性患者を抱きしめる姿を、写真販売代理店ゲッティイメージズ(Getty Images)のフォトグラファーが撮影した。バロン医師は11月30日、米CNNに対し、新型コロナ専門ICUに入っていくと、高齢の男性患者が「ベッドから下りて、治療室から出ていこうとしていた」と語った。「彼は泣いていた」

バロン医師は患者に近づき泣いている理由を尋ねた。「彼は『妻と一緒にいたい』と言った。私はただ彼をつかみ、抱きしめた」と述べ、「本当に切なかった。彼と同じように、私もとても悲しかった」と続けた。「やがて彼は落ち着き、泣くのをやめた」

CNNの取材に応じた日、連続勤務256日目だと述べたバロン医師は「どうして自分が倒れていないのか分からない」と語った。「看護師たちは真っ昼間から泣いている」

新型コロナ専門病棟での隔離は多くの患者、特に高齢者にとってはきついとバロン医師は言い、「想像できるだろう。宇宙服を着た人間しか来ない部屋の中にいるんだ」と続けた。「一人きりでいるのだから、高齢者にはなおさら厳しい」

さらに、「泣いている患者もいるし、逃げ出そうとする患者もいる」と述べた。「実際、窓から逃げ出そうとした人もいた」

バロン医師によると、写真の高齢男性の状態は「だいぶ良くなっている」という。「週末までに退院できるだろうと期待している」

またこの写真を撮影したナカムラさんと言う日本出身のカメラマンの話も引用してみた。

 

バロン先生は毎日、全ての患者の部屋を巡回して「あなたはよくやっている」「もうすぐ家に帰れるよ」とすごく元気の出る言葉を言うんです。患者さんと握手したり肩にポンと手をおいたり。でも患者さんを抱きしめるところを僕は一度も見たことがなくて、そういう状況になったときに、もう頭が真っ白になったというか、絶対に撮り逃したらいけない瞬間だな、と。ものすごく感情的なシーンだったので頭が真っ白になって一生懸命シャッターを切っていました。医師の目も「今は抱きしめること以外どうすることもできない」という、そういう目をしていたのが印象的でした」。

続けてナカムラさんは語る。

「集中治療室は、患者以外はみんな全身防護服で、普通の人と接することはない孤独な世界。あの男性は本当に孤独を感じ寂しかったように見えました。そういう瞬間を切り取れて現実を伝えられると思いましたが、正直ここまでみなさんの共感を得られて世界中に広まるとは思いませんでした」。

5月からファインダーを通して見続けてきた集中治療室。ナカムラさんは最初に足を踏み入れた瞬間から圧倒されたという。

「初めて入ったときは、医師らが凄く楽しそうに率先してジョークを言って、皆がそれにのって凄く良い雰囲気の職場というのが第一印象だったんですが一連のやりとりが終わったときに、医師がふと僕のほうを振り向いて、『僕たちはこういうふうに明るくふるまっていないと精神がおかしくなってしまうんだよ』と言われたんです。それに鳥肌がたったんですが、そのすぐ後にICUに入って中の状況をみると、本当に目を覆いたくなるような、写真を撮っても絶対に公表できないようなシーンが目の前にありました。」

 

ナカムラさんは遺体を遺体袋に収容する場面にも、何度もたちあっているという。

「そういう場面を何度もみたことがあります。一人の患者さんに必ず同じ看護師がつきますが、その看護師が患者が亡くなると遺体収容袋に入れるまでお世話をする。全身をきれいにしてあげて遺体収容袋におさめた後に、看護師はすごくやるせない表情になる。こうしたことが日常的に起きています。前にいた患者さんが、次にいった時には亡くなっていることは、本当によくあることなので」

自分が

バロン医師の行動は、とっさの判断でありそれ以外の方法を考えられなかったようにも見えたと言う。一つ間違えばその行為が自分自身をこの患者さんと同じ立場にしてしまう可能性がある。もっと言えば自分の命をも危うくしてしまう行為であった。しかしバロン医師は患者さんを抱きとめることを躊躇なく選んだ。

ある意味でこれが命の重さ、を表しているのかも知れない。大切な命だから、大切な命でしか測る以外に方法がない。

キリストの愛

以前に読んだ書物に次のような言葉があった。出典すらも忘れてしまったので正確な文章ではないが意味はおおよそ間違っていないと思う。

「もしもこの世界にあなた一人しか存在していなかっとしても、あなたの罪のためにキリストは十字架の死を選んだであろう」

と言う言葉だ。

要するに、数ではない。人数が多いからキリストは十字架の死を選ばれたのではない。即ちキリストは自分の命をキリストの命と同等である程に大切だと値踏みしてくださった。

神様である方が生きる値打ちさえないような人間にそのような価値を見出してくださったのは本当に驚きである。そしてこれがイエス様のご性質である。

キリスト教は宗教ではない。キリスト教は「関係」である、と思う。

キリストにはかえられません blues ver.
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IKEA

見直し

11月5日、スウェーデン家具大手IKEAグループの日本法人イケア・ジャパンがJR広島駅北側(広島市東区)の新店予定地を売却したことが明らかになった。

自分が広島にいる頃から何度もIKEAが広島に来ることを言われていたので、青森県民となった今でも残念な気持ちである。実現すれば中四国初となる店舗展開だっただけに、広島或いはその近辺の方々はショックを受けているのではないだろうか。

しかし、一方で納得できる部分もある。広島には結構色々な商業施設やアミューズメントがある。それらは一世を風靡する勢いで歓迎され、客もつくのだが時間と共に忘れ去られ見る影もなくなってしまう。自分の間違った解釈かもしれないが広島にはそのような「忘れ去られた遺産」が比較的多く存在するように感じていた。例えばコストコ。できた頃は入場制限を設けるほどの勢いだったが、今は平日など閑散としており地元のスーパーの方が活気があるのではないかと思ってしまうほどだ。AEON MALL然り。佐伯区にあるアウトレットモールもそうである。飛びつくのも早いが飽きるのも早い気がしている。飛びついたままの勢いを維持しているのはマツダスタジアムぐらいではないだろうか。

現実の社会には「前回そのように言ったが、その後再度検討した結果…」と前言撤回する場面が多く存在する。今は書類を交わした後でも撤回することすらある。人間の約束、思いは変化する。

昨日も今日もいつまでも

不安定、不透明、先行きが見通せない昨今、絶対に変わらないものが無くなってしまった。というか元々そのようなものは存在しなかったのだろう。

しかし聖書には絶対に変わらない存在を紹介している。

イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。
ヘブル人への手紙13:8

自公が18歳未満に対して一律10万円を給付する検討をしている。お金を配ることは色々な意味で良いことなのかもしれない。実際にこれで多くの人が助けられるはずである。しかし、お金はやがて無くなってしまう。現に昨年給付された10万円はすっかり無くなってしまっている。

今の時代がどういう時代なのかをどれだけの人が真剣に考えているだろうか。この時代が将来を背負う若い世代に何を与えているのかを考えているだろうか。

自分の周りだけかもしれないが、若い世代から夢を奪っている時代になっているような気がしてならない。何をやっても、どれだけ努力してもある日突然国の方針が変わって全てが無になってしまう現実を見せられてきた世代である。「若いのだからもっと夢を持て」などと軽々しく言えない。10万円の給付は、もしかしたら飲めばもっと喉が乾く清涼飲料水を与えるような行為なのかもしれない。一時しのぎにはもってこいである。しかし、本当は井戸の掘り方を教えることで若者は夢を持てるようになるのかも知れない。自分は教員時代、「ものを考え判断する」生徒の育成を意識して教育活動を行ってきた。大したことはしていないが、「本を読み聞かせる」のではなく「本の読み方を教える教育」をしてきた。

変わりやすい、不安定な時代だからこそ決して変わらないものに目を注ぎ、そこから夢や将来に対するビジョンを得ることが大切なのではないかと思っている。

変わらないものに目を注ぐ、口で言うほど簡単ではない。

【大切な人】両親を亡くした25歳

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神様にお委ねるしかない

明日から

このところ次男が頻繁に電話をしてくれる。殆どがこちらの就業時間中であるが、少しだけ電話で話しその後休憩時間にかけなおすことにしている。今日は丁度休憩時間中にかかってきたので小一時間話すことができた。自分の興味あることや最近の出来事、こらからの予定などを話してくれる。そして後半は自分の気持ちを振り返りながら話してくれる。次男を何とか元気づけ、自信を持たせたくゆっくり丁寧に次男がどれだけ素晴らしい子なのかを話す。結構弁もたつのでこちらの説明に対して理詰めで更なる質問をしてくる。それでも根気強く話し続けるとやっと自己肯定感がよみがえってくる。こんなことを毎回繰り返しているが、この子と話しているととても幸せな気持ちになり、また心が洗われる。
明日から違う学校に転校すると言っていた。初めて聞いたことだったので驚いたが、次男には平然と「大丈夫。かならずうまくいくから心配しなくていいよ。パパがずっとお祈りしているんだから、必ず神様が守ってくださる」と何度も何度も伝えた。
学校に行くのが不安な気持ちはとてもよく理解できるが、それがわが子の身に起こっていることを思うと胸が締め付けられる。子どもの代わりに自分が登校してあげたい。

感動

次男は元来とても柔和で優しい子なのだが最近少し怒りっぽくなっているとの自己評価をしている。壁を蹴ってしまったり、怒りの感情が抑えられなくてその場を離れトイレに避難することも有ると言う。「僕、心の病気なのかな?」と不安そうに言うので、そうではないことやそういう時期であることを説明した。そしてこの子がどれほど優しい子なのかを今までの出来事を振り返ってゆっくり説明した。かなり時間をかけて説明したら少し思い当たることがあった様子。急に「恥ずかしいからママに聞こえないところで話すね」といつものクローゼットの中に入り込んだ。「ぼくね、ママに対して怒ってしまい無視しちゃうことがあるんだよ。でも今度からできるだけそうならないように頑張るよ。そして、今度ママに新しい花を買ってあげようと思うんだ。今の花が少し枯れてきたから。ママは花が好きだから」と声をひそめて話してくれた。絶句してそのあと泣いてしまった。子どもとの電話は明るく笑ってばかりの電話にしたかったけど無理だった。これが本来の次男。
明日、緊張しすぎたら休んでもいいよ。無理しないで。でも行けるようだったら頑張って新しい学校に行ってごらん。必ず上手くいくから。パパは遠く離れた青森で何十回もお祈りしているから。
神様に祈り、そしてお委ねする以外に方法は無い。

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2種類の人

ありがとうの反対

今日も地元の教会に出席した後、いくつかのオンライン礼拝を拝聴していた。それぞれの教会の牧師先生がとても心に響くお話をしてくださり恵まれた「安息日の午後」の時間を過ごすことができた。その中の一つの礼拝メッセージから考えてみたいと思う。

「ありがとう」の反対語を問われているが自分は即座に分からなかった。子どもさんがそれに応えていたので非常に驚いたが正解だったので尚驚いた。反対語は「当たり前」とのことだった。

自分と神様との距離、自分と神様の関係について深く考えさせられる内容のメッセージであった。テーマとなっている聖句はルカによる福音書である。

「イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。 そして、ある村にはいられると、重い皮膚病にかかった十人の人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、 声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。 イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。 そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。 イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。」
ルカによる福音書 17:11-19 口語訳

重い皮膚病にかかった10人がイエス様に出会った。彼らは癒しを求めたが、イエスは遠く離れた彼らに言葉をかけただけだった。祭司に体を見せるように命じたのである。当時、祭司は宗教的な仕事だけでなくユダヤ社会における社会的側面の権威をも持っていた。重い皮膚病を患うとユダヤ社会から隔絶される。しかしそれが完治したなら祭司がこれをみて完治と断定したところで犠牲を捧げる儀式などを経て元のユダヤ社会に復帰できる。イエスはその手続の第一歩である「祭司に見せる」ことを命じた。この10人も凄いと思うのだが、この時点でまだ重い皮膚病は癒されていない。なのに10人は完治を前提として祭司のところに向かうのである。実際その道中で癒された。

2種類の人

この癒しが起こった後でサマリア出身のひとりだけがイエスのもとに戻ってきて感謝の気持ちを表現するのである。当時、サマリアは雑婚によって血が混じった忌み嫌うべき存在であった。また神殿をめぐる争いなど歴史的に赦せない出来事があり断絶状態にあった。しかし、癒しを経験して心からの感謝を伝えたくて小躍りしながら戻ってきたのは忌むべきサマリア人だけだった。

説教にも出てくるがここにふたつの教訓を学ぶことができる。

①神様への祈りが叶えられても、神様との距離が近くなるとは限らない

②神様への祈りが叶えられたことを、神様とのさらなる親しい関係へと繋げることができる

①に関してはその実物教訓がある。それは出エジプトの民である。奇跡の連続、御力炸裂の状況下にあってイスラエルの民はまだ神様を裏切り悲しませることを続けた。また説教でも述べられているが、逆に祈りが聞かれずそれでも必死に祈り続けている時、実は神様との距離が非常に近く最も安全なところにいるとも言える。

②に関してはまさに、この戻ってきたサマリア人がそうである。彼にとって癒しの奇跡は「当たり前」の出来事ではなく、長年夢見てきた祈りのテーマだった。それが叶えられることによってこの人の信仰は更に増し加えられ、イエス様に対する絶対的な信頼に繋がったと言える。

祈りが叶えられる前に

この礼拝メッセージを視聴しながら、神様に祈り求める時にはその祈りが叶えられた時を想定して自分自身の取るべき態度を認識しておく必要があると思った。今自分が祈り求めていることが、叶えられそうにないほど難しいことであるので神様に対して愚痴っぽくなってしまうこともある。しかし、今から8年前に自分はもっと難しいことを神様に叶えていただきその道を開いていただいたのである。そのことを忘れ、感謝の気持ちではなく愚痴も含まれた態度で今の大きすぎる問題のために祈っている。

以前にあれほどのことをしていただいたのに、もう感謝の気持ちを失っていることに気づかされる。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
詩篇103:2(新改訳)

2021年11月6日 安息日礼拝〈ライブ〉メッセージは1:00:10から

 

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天上で

豊かな憐れみ

教会が出版している「今日の光」という冊子がある。以前はこれを毎回注文して読んでいたが引越しにより書籍の定期購入が出来なくなったので、時々カタログを見て注文するにとどまっている。しばらく前に購入した冊子であるが非常に素晴らしい文が掲載されている。その中から紹介したい。

神に見捨てられた魂は決してあなたが感じているように感じないし、決してあなたが愛しているように真理と救いを愛さない。あぁ、もし神の聖霊が魂に働きかけるのをやめるなら、その魂は無関心の状態に放置され、いつでも自分が十分に富んでいると考えるようになる。…あなたは疑い、確信を捨てることによって敵を少しでも喜ばせてはならない。天使は言った。「たとえご自分の民が過ちを犯しても、神は彼らを見捨てられない。いかなる小事に対しても、神は怒りの内に彼らに背を向けられない。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエスキリストがおられる」

この弁護者は罪人のために執り成し、父なる神は彼の祈りを受け入れになる。神は愛するみ子の要求を退けられない。あなたが故意に、断固としてみ子を捨てて、世とサタンに仕えない限り、あなたのためにご自分の命を捨てるほどにあなたを愛された方はあなたを退け、あなたを見捨てるような事は無い。あなたがありのままの希望のない、無力な状態でイエスのもとに来て、その豊かな憐れみにすがり、イエスがあなたをありのままに受け入れてくださると信じるように、イエスはお望みになる。

あなたは暗いことばかり考えている。あなたの思いをそらし、いつも神の怒りのことばかり考えないで、神の豊かな憐れみについて、神が喜んで哀れな罪人を救ってくださることを考え、次に神があなたを救ってくださることを信じなければならない。あなたは神の御名においてあなたを縛っているこの呪縛を解かねばならない。「私はそうします、私は信じます」と、あなたは叫ばねばならない。イエスはあなたの名前をご自分の胸当てに着け、父なる神の前で、あなたのために執り成しておられる。もしあなたの目が開かれるなら、天使たちがあなたのために使え、周りを飛び回り、完全に滅ぼすことのないように、悪天使たちを追い払っているのを、あなたは見る。…

神はあなたに信じるように求められる。神の声に留意しなさい。神の怒りについて語るのをやめ、神の同情と豊かな憐れみについて語りなさい。イエスは精錬者、銀を清める方として座っておられる。あなたが置かれる炉は非常に熱いもしれないが、7倍も清められた金のように、イエスの姿を反映して出てくる。勇気を持ちなさい。見上げて、信じなさい。そうすればあなたは神の救いを見る。

E.G.White  手紙 17  1862    20210422

試練の時の信頼

サタンは私たちに神を疑わせようとして、不信仰を引き起こすような状況をもたらす機会を狙っている。私たちは一つとして疑念を抱く余裕は無い。暗い面を見るように誘惑されたなら、義の太陽イエスの明るい光が差し込むように、魂の窓を天に向かって開きなさい。神に近づきなさい。そうするなら、神は私たちに近づき、私たちのために敵に対して旗を掲げてくださると、神は約束しておられる。神の守りの効力は少しも弱まっていない。信仰によって、揺らぐことなく試練に立ち向かいなさい。キリストが完全な救い主であられるからである。

あなたは自分の計画を完全と見るかもしれないが、神はあなたに失望が必要であるとご覧になるかもしれない。あなたの計画が神の計画と合致したものとなるためである。神の道は常に正しい道である。神はすべてのことを見て、知っておられる。私たちはいつでも神が見るように見るとは限らない。…

神の御言葉に堅く立ちなさい。何事が起ころうとも、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けなさい。

E.G.White  手紙 150 1903     20210423

 

五輪競技中、親子の絆に感動

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失望しないで祈り続ける

本当に?

イエス様は失望せず絶えず祈ることを教えるために譬え話をされた。

「また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。 ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。 彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、 このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。 そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。 まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。 あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。」
ルカによる福音書 18:1-8 口語訳

しかし、現実的なこととして失望しないで祈り続けるなんてできるのだろうか。自分の体験からそれは甚だ難しいことだと思っている。もしかしたら他の人には出来て、自分だけが出来ないのかもしれない。その祈りが真剣であればあるほど失望の度合いも大きい。

耐えられない試練

これも本当かな?と思ってしまう聖書の言葉。

「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」
コリント人への第一の手紙 10:13 口語訳

では何故クリスチャンであっても、解決を死に求めてしまうのだろう。自分にはよく分からない。

でも

祈りがきかれない、答えられないことに行き詰まりを感じている。が、かと言って自分が祈った通りに道が開かれたから神様を信じるというのもご利益信仰のような気がする。自分が主で、自分が祈った通りに動いてくれる神様が従、という関係になってしまう。

祈りは願った通りには答えられないけれど「必ず神様がこの祈りを聴いていてくださっている」と信じる、今の自分にはこれが精一杯かもしれない。

失望の涙を拭きながらもう一度あの聖句を声を出して読み、神様のもとに近づいてみたい。

「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。」
創世記 28:15 口語訳

聖書研究ガイド21年4期6課 1080p
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心の貧しい人は幸いである

貧困

深刻な貧困問題は海外のことではなく日本にも存在する現実問題である。絶対的貧困と相対的貧困があるが絶対的は「今日食べるものにも窮しており生きるか死ぬかの瀬戸際にいること。これに対して相対的貧困は周りの生活水準に比べて貧困である状態をさす。実際の定義としては、「2018年時点では等価可処分所得の中央値が254万円であるため、この半分となる127万円未満の可処分所得世帯が相対的貧困層に該当する」とあった。大人もそうだが子ども、特に育ち盛りの子どもが食べたいだけ食べられないことは悲しい現実だし心が締め付けられる。相対的貧困率は日本の場合15%程と言われている。が、そのうちの半数はひとり親世帯である。ひとり親世帯の48%が相対的貧困といわれているのでこちらの現実は深刻である。食べるもの、着るものもそうであるが子どもの学習についても同様の深刻な問題がある。経済的格差が教育の格差になってはいけない。が、実際にはその格差が当たり前のように起っている。実際自分が働いていた学校も「教会学校」ではあるが月々の支払いは12,3万円になる。その時点で「生徒を選ぶ」教育をしているのだが、実際にお金がかかる教育をしているので仕方がない。

教頭をしているときに、色々な塾や予備校、オンライン授業を展開する会社さんと面談することがあった。その中で、リクルートがやっている「スタディーサプリ」というオンライン学習チャンネルがある。安価で飛びつきやすいものなので採用したことがあった。説明を受けたときに言われたのが、コンセプトとして「教育の格差をなくすために開発された」ということだった。頷ける。

心の貧しい人

イエスキリストはその知名度が上がってきた、いわば追っかけのような人が多くなったころにガリラヤ湖畔で彼等に対してメッセージを語った。非常に長いメッセージであるが、ガリラヤ湖畔で語られたこのメッセージは「山上の説教」或いは「山上の垂訓」と言われている。ガリラヤ湖の周りは、確かに湖から見ると小高い丘や山に見えるが実際には湖自体が海面下200m以下のところにあるのでそう見えるだけである。山上の垂訓の出だしは非常に有名な言葉で始まる。

「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、 天国は彼らのものである。 悲しんでいる人たちは、さいわいである、 彼らは慰められるであろう。 柔和な人たちは、さいわいである、 彼らは地を受けつぐであろう。 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、 彼らは飽き足りるようになるであろう。 あわれみ深い人たちは、さいわいである、 彼らはあわれみを受けるであろう。 心の清い人たちは、さいわいである、 彼らは神を見るであろう。 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、 彼らは神の子と呼ばれるであろう。 義のために迫害されてきた人たちは、 さいわいである、 天国は彼らのものである。」
マタイによる福音書 5:1-10 口語訳

「心の貧しい人」がどのような人を指すのかよく分からないが、勝手な解釈をするなら「貧しい」というくらいだから「心が満たされていない」人のことを指すのかもしれない。また満たされていないから、それを追い求め続けている状態を指すのかもしれない。何れにしても満たされない心を満たしていただくために神様を慕い求め続ける人のことを言っているように思える。

また「ヨハネの黙示録」には次の言葉があった。

「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」
ヨハネの黙示録 3:17 口語訳

これは7つの教会のの一つである「ラオデキア教会」に対して送られた勧告である。実在した教会であるが、教会の歴史と7つの教会を重ねて解釈する方法によると現在の教会が「ラオデキア」時代と解釈できる。現代の教会は「貧しいのにその状態に気づいていない」状態だと指摘されている。マタイによる福音書の「心の貧しい人」は貧しさを自覚しそれを何とかしようと神様を求め続けている状態なのに対してラオデキア教会は貧しささえ自覚できず自分自身は富んでいるとの自負がある。

経済的な貧しさは見た目にもよく分かるが、心の貧しさというものは本人すら自覚できないことなのかもしれない。

主に帰ろう

もう30年ぐらい前のことであるが、自分が務めていた学校の教員と生徒が一つの讃美歌をつくった。教員が作詞、生徒が作曲を担当した。

怪しい記憶を辿りながら歌詞を思い出してみた。

僕の心が主を 求めるのはなぜ
僕の心に平和がないから
僕の心が主を 求めるのはなぜ
僕の心に 喜びがないから

でも本当は主が僕を 求めておられるから
肉を裂き 血を流し 全てを捨てて
この僕を激しく 呼んでおられるから

応えよう主の愛に 応えよう主の恵みに
さぁ主に帰ろう 主に帰ろう

イエス様は心の貧しさを自覚し、一心に神様を求め続ける人は天国を天国を受け継ぐことができると約束してくださった。貧しさを自覚し、その貧しさを満たす努力が大切なことを考えながら過ごした1日だった。

「主に帰ろう」北浦三育中学校聖歌隊2018

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顔と顔

非言語コミュニケーション

言語にならないもの。例えば会話の際の表情、しぐさ、目つき、声のトーン、声の大きさなどがある。コミュニケーションをとる際、言語によって伝わるのは10%程度と言われている。そのほとんどが非言語による。どれだけ相手を褒めても、厳しい表情で怖いトーンの声を用いて話すならば「褒められた」とは伝わらない。

メラビアンの法則

メラビアンの法則なるものがある。コミュニケーションをとる際、どのような割合で伝達されるのかを示したものである。7:38:55のルールというものがある。

即ち、言語情報が7%、聴覚情報(声の大きさやトーン、口調、話すはやさ等)が38%、視覚情報(ジェスチャー、視線、表情等)が55%という割合になる。また非言語が伝えることは次のようなものだと言われている。

・目を合わせない…シャイ、懐疑的、退屈、非同意的

・目を合わせる…攻撃的、誠実

・腕組みをする…身構えている、反射的、集中している、よそよそしい

・鼻に触る…嘘をついている、躊躇している

・耳や髪に触る…嘘をついている、神経質

・頭を傾ける、後頭部をかく…否定、首が痛い、フケ

・目を閉じる…集中している、興味がない、退屈、反射的

・沈黙…肯定的、否定的、同意や協調、黙ることで面目を保つ

顔を見て

今日、仕事中に次男から電話がきた。仕事中だったので直ぐに席を外して人のいないところで電話に出た。いつものように明るく無邪気な笑い声で話しかけてくれる次男。長男もそうだが本当に天使だとつくづく思う。手前味噌だがこんなに素晴らしい子は他にいないと思っている。仕事中だったのでなるべく早く電話を切らなくてはならなかったが。ついつい会話に夢中になってしまう。そして、途中で次男が「パパ、カメラにしてみて」と言ってきた。LINE電話なのでお互いに顔をみながら話すことができる。その機能があることは知っていたが使ったことはない。顔を見ながら話すことは今まで何度かやっているがzoom かFaceTimeを使っていたのでLINE電話では初めてだった。何となく画面を適当に触っていたら「ビデオ」というアイコンがあったのでタップして見ると次男の顔が見えた。感動した。2年近く会っていない次男である。写真では何度も見ているが動く次男は本当に久しぶりでかなり興奮した。背景を変えたり顔にエフェクトをかけたりするやり方を次男が教えてくれた。小学3年生に57歳が教えてもらっている。本当に夢のような時間だった。途中で何度も動いている次男の顔を写真にした。仕事中であることを思い出し30分近く話したところで、お祈りをして電話を切った。

顔と顔

大好きなイエス様の表情を心の中で思い浮かべながら祈ることがよくある。イエス様の表情を思い浮かべただけで涙が流れてくることもある。み言葉を読むこと、祈りや瞑想を通してイエス様の表情見ることができる。しかし、間も無く…本当に間も無くイエス様と顔と顔を合わせてお会いできる日が来る。本当にその日その時が待ち遠しい。

聖書の中に次のような言葉がある。有名な愛について教えている聖句の後半に書かれている言葉である。

「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」

コリント人への第一の手紙 13:12-13 口語訳

今日、自分はイエス様にどのような表情を向けていたのだろう。

小坂 忠「勝利者」誰も知らない泣ける歌

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アレコ

青森県立美術館

先日県立美術館に行った。今まで何度か行こうと思ったがコロナの影響でしばらく休館だったためそれは叶わなかった。が、今回仕事の休みと美術館の開館で行くことができた。何が展示されているのかも殆ど分からない状態だったが趣のある作品を多数見ることができとても良い経験になった。自分はマティスが好きなので、その作品を多く展示している岡山県の「大原美術館」が好きで広島にいた頃は何度となく足を運んだ。青森県立美術館もシャガールの作品を始め多くの会が、版画、写真、そしてウルトラセブンに代表される成田作品も多く鑑賞することができた。今回は時間の関係で特別展示「あかし(testaments)」を鑑賞することはできなかったが、それ以外だけでも十分見ごたえのある内容だった。

アレコ

入館して直ぐに鑑賞できるのがシャガールの作品。バレエ「アレコ」の背景画4枚。「月光のアレコとゼンフィラ」、「カーニヴァル」、「ある夏の午後の麦畑」、「サンクトペテルブルクの幻想」の背景画が4面に展示されており圧巻だった。15時からの案内プログラムに滑り込むことができ説明を聞きながら鑑賞した。

アレコのあらすじは残念ながらバッドエンドで悲しい物語である。

(ストーリー)
文明社会に嫌気がさした貴族の青年、アレコは自由を求めて旅芸人の一団に加わり、そこでジプシーの娘ゼンフィラと恋に落ちます。

しかし、ほどなくして ゼンフィラは別のジプシーの若者に心変わりをしてしまいます。

嫉妬に狂ったアレコは、怒りに任せて恋敵とゼンフィラを刺し殺してしまうという悲劇。

情熱的な激しい恋に落ちてもそれはいつか冷めてしまうかもしれない。人の心は絶えず動いており一つの場所に留まることが難しい性質なのだと思う。恋愛感情だけではない。昔あれほど熱中していたのに今では見向きもしなくなってしまっていることも多々ある。自分の心の中の流行り、マイブームがある。これに対していつまでも変わらないものもある。それは神様の想い、イエスキリストの愛だと思う。

「神の言をあなたがたに語った指導者たちのことを、いつも思い起しなさい。彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい。 イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」
ヘブル人への手紙 13:7-8 口語訳

青森県立美術館

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