神様のお恵み

2021年

まさか2021年がこのような年になるとは思ってもみなかった。年があけてすぐに妻から離婚届が送られて来た。別居はしていても近い将来また一緒に暮らせると思っていたので非常に落ち込んだ。その後何度も離婚請求され精神的にまた病状が悪化してしまった。祈っても祈っても道が開かれず途方にくれた。そのような中で、2020年から通い始めたバイクの教習で奇跡的に合格し無事中型自動二輪の免許が取れた。バイクの免許はどうでも良かった。ただ絶対に不合格だと思っていた試験に合格できたことが嬉しかった。その前に、「神様が確かにいらっしゃるのなら奇跡をみせてください」祈っていたのでそれに応えてくださったことが嬉しかった。その後、前職の学院長がかなり高圧的に「復職は不可能なので3月30日をもって退職となる」旨を伝えに来た。これでも牧師か、と牧師に対して強い不信感を抱いたのもこの時が初めてだった。それから10日ぐらいの間に新しい仕事を見つけ引っ越し先を決め実際に引っ越さなくてはならなかった。本気で死のうと思った。教職にこだわりたかったけど時間の関係で好みの仕事を選ぶことができなかった。結局青森に行くことになった。しかも教育伝道しかしたことがない、興味がない自分が病院の送迎をすることに。全てが初めてで絶望的な気持ちで毎日を過ごしていた。ただ一つだけ、子どもの教育費を支払うためだけに働いた。理不尽な理由で叱られ、叩かれ、患者さんからも文句を言われ怒鳴られ嫌われてきた。勿論優しい同僚や感謝の気持ちを忘れない患者さんがほとんどだったが、青森とか津軽という土地が心の底から嫌いになった。そして徐々に職場や教会がとんでもないところだと気づくようになった。クリスチャンとか教会組織というものに対して不信感を抱くようになり誰も信じられなくなってしまった。そして相変わらず続く妻からの攻撃。どうしたら良いのか。仕事を終えてアパートに戻ると涙しか出てこない毎日を過ごして来た。そんな一年だった。

それでも

今振り返ってみると本当に色々なことがあり、ここまでこられたことが奇跡に思えてくる。城ヶ倉大橋から飛び降りようと何度も足を運んだことが思い出される。9月のある金曜日に突然次男から電話がありその後この子と連絡が取れるようになった。これは自分を城ヶ倉から引き離す制御力になった。7月からかつての教え子が自分の上司として赴任して来たことも大きな支えになった。常識が全く通じない職場で唯一話ができる戦友となってくれた。冷静に考えてみると神様は特別な方法で小さく弱い自分を助け続けてくださった。何より、毎日聖書を10章読み、長い祈りを献げ、聖書研究を怠らない生活に導くことで「神様と共に歩む」ことがどういうことなのかを教え訓練してくださった。およそクリスチャンの集まりとは思えない教会で、求道者や信仰をもって日の浅い人を通して献金の喜びや聖書通読の尊さを教えてくださった。涙が枯れるほど祈り、それでもその祈りが聞かれず不信仰に陥る。でも「もう一度」と気を取り直して再び祈る。しかし泣こうがわめこうが祈りは聞かれない。それでもまた祈る。そんなことを繰り返して行くうちに、祈りは聞かれていないけれど神様と一緒に歩いている実感は味わえるようになった。

2021

これだけ大きく心が揺さぶられる時を過ごしたこともなかったこの1年。2021年はとんでもない年であり、考えられないほど祝福された年でもある。2021年、何度も繰り返し暗唱したのが創世記の言葉だった。

「わたしはあなたと共にいて、
あなたがどこへ行くにもあなたを守り、
あなたをこの地に連れ帰るであろう。
わたしは決してあなたを捨てず、
あなたに語った事を行うであろう」。」
創世記 28:15 口語訳

この聖句に支えられ、またこの言葉を疑い、この言葉と共に生きて来た2021年。やはり祝福の1年だったと思う。神様、ありがとうございます。

新しい年を前にして私は行く道を知りません

しかし過去を支えてくださった神は

その哀れみで将来を明るくしてくださる

離れていれば暗く見えるものも近寄れば明るいように

 

他を望まず、知らなくてもただ進みます

一人で光の中を行くよりは

主と暗闇を行きたいのです

見える道を行くよりは

信仰で主と共に歩みたいのです

 

私の心は閉ざされた将来の試みにひるみます

しかし愛する主が選んでくださったものならば

悲しみません

「主がご存知なのです」とささやいて

私は涙をおしとどめるのです

 E.G.White

 

キリストの香り(4) – 人生の穴と向き合う

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誰かが

帰省

昨晩遅くまで仕事があったので、今朝帰省することにした。しばらく入院していた父も一昨日退院できたので顔を見せに行くことにした。新年も元旦が安息日なので休診だが2日から平常診療なので正月休みは無い。元旦の明日はいつものようにオンライン礼拝をして、昼食を摂ってすぐ帰ることになる。それにしても、今朝青森を出る時は吹雪いていたのに、関東に来れば雪などどこにもない。気温も真夏のように感じられる。着ている服も明らかに都会の人より1枚多い。雪のない生活、雪かきをしない生活に戻りたい。

実家に着き、久しぶりに両親の顔を見てとても安心した。今年は9月から毎月帰省し、その度に今回が親と会える最後かもしれないと思っていたのでこうして両親の顔を見て年末を過ごせるのは幸せな事だとつくづく思う。これが昨年ならこうはならなかった。コロナで外出も出来ず、更に休職中だったので経済的にも何度も帰省するゆとりは無かった。全ての事を神様が支配しておられる事を今になって実感する。

新宿のあの事件

しかし。神様が全てを御支配されているのであれば何故このようなことが起こるのか分からなくなる出来事も沢山ある。昨日29日、9歳の男の子が新宿の高層ホテルから落ちて亡くなった。その後のニュースでお母さんが2人の子どもを連れてこのホテルに宿泊し翌朝3人で飛び降りようとしたことが分かった。お母さんも心の病があったようで相当追い込まれていたのかも知れない。何よりこの9歳の男の子が柵に座らせられた時、どれほどの恐怖を味わったかを考えると胸が締め付けられる。信じていたお母さんに突き落とされた時の絶望感。話を聞いただけで、おかしくなってしまう。

誰かが

自分も追い込まれて、「消えて楽になりたい」と、何度も思ってきたので共感できる部分もある。ただ、子どもは違う。親と一心同体ではなく、ひとつの別の命でありその子にしか生きられない人生がある。

教員をしていた時、何人もの不遇(?)な境遇にあっても努力し夢を叶えた生徒に出会った。子どもの能力は計り知れない。勝手に知能障がい、学習障がい、A.D.H.D.などと診断して体よく個性にあわせた指導などと社会では言うがそのような子どもたちが如何に夢を叶えているかを見たことがないのだろう。中には医師になった生徒もいる。自分はクリスチャンなので、人間の力を超える領域をいつも意識している。神という存在が計画するのであればどのような不可能も可能になる。それを前職の学校では何度も見せられてきた。神という存在を認めないと説明のつかないことが沢山起きるのが学校であり、子どもの世界なのだ。

このお母さんが、人間の価値をきちんと分かっている誰かと接していれば結果は違っていただろう。そしてその「誰か」に自分がなれなかった事に責任を感じる。

今日新幹線の車中で阿佐ヶ谷の人身事故のニュースを受けた。中央線の人身事故は日常茶飯事なので驚かなくなってしまったが世の中には、クリスチャンが出会わなくてはならない心萎えた人が沢山いる。

年の瀬に、もうこれ以上神様を知らない方の命をとらないでくださいともう一度祈りたい。

聖書研究ガイド22年1期1課

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聖書

通読

教会のおばあさんから教えていただいたことが励みとなり、今年2021年5月8日より聖書通読を始めた。9月3日に1回目を終え、翌4日より2回目の通読を始めた。1回目は口語訳だったので今回はリビングバイブルを読むことにした。教会の中では何となく正式な聖書と認知されていないところもあるが個人で読むにはとても分かりやすい。逆に、口語訳では非常に重みのある言葉として暗唱していたところも読み飛ばしてしまうほど軽い印象で書かれているところもある。何れにしても今年は今まで一度もできなかった聖書を2回完読できたので今後の励みになることは確かである。予定では今度は「新改訳聖書」を通読するつもりだったが間に合わず手元にないため、若干苦手意識がある「新共同訳」に挑戦してみようと思っている。

心に残った言葉

リビングバイブルは日常的な言葉を用いて訳しているので心にささることが多い。色々な言葉を思い出しているが、その中でも印象に残っているのが詩篇のことばである。神様ご自身が「頼みとしてほしい」と招いてくださっていることは勿体無いことである。

「わたしが求めているのは、真心からの感謝、 わたしへの誓いを果たすことである。 苦難のとき、わたしを頼みとしてほしい。 そうすれば、わたしは助けの手を差し伸べ、 あなたがたはわたしをほめたたえるだろう。」
詩篇 50:14-15 (リビングバイブル)

パンのみによって生きるにあらず

毎日ゆっくり聖書を読むことで、自分が御言葉によって養われていることを実感する。

聖書には
「それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。」
申命記 8:3 口語訳
と書いてある。

神様の息によって生きるものとなった人間が、日毎に命の御言葉で生かされる。神様を離れては存在することも生きることもできないことを肝に命じていたい。

Tell Me the Story of Jesus | Songs and Everlasting Joy

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備品台帳

仕事

昨晩から降り続いた雪が止まず、今朝は奥羽本線が運休になった。午後から少しずつ開通した区間もあるようだが、職員の中には出勤できなかった人も数名おり職場も少し混乱した。またこういう時に送迎車を運転するスタッフは本当に大変だと思う。事故を起こさないよういつもより注意を払って運転するからかなり疲れると思う。国道7号線はあまりにも雪が解けないので除雪が間に合わず通行止になってしまった。それでも運転して患者さんを送迎するのだからすごいと思う。そして雪が降る前に送迎の仕事から自分が外してもらえたことを心から感謝している。あのまま送迎を続けていたら何度事故を起こしていたかわからない。

備品台帳

ところで今やっている仕事だがその多くの時間を「用度課」として働いている。東京の系列病院で用度課を経験した時期があったがそれとは全く違う。自分の仕事は備品台帳を作ることだ。開院してから25年近くが過ぎているが今まで備品台帳を作ったことがないという。何とも恐ろしい話である。が、自分に頼まれたところでできるわけない。困ったが自分なりに備品台帳がどのようなものであるかを調べながら少しずつ作り始めている。現在は医療機器の台帳を作っている。医療機器は高価なものが多くその金額に圧倒される。CTはおよそ5200万円。MRIはおよそ8000万円(工事費込み)。またその他に100万円を超える高額機器だけでも100点近くある。100万円未満のものも含めると膨大な数の医療機器が存在する。個人病院なのだが全ての診療科を受け持っているので機材が多くなる。今はもう使っていないものも多く存在する。台帳を作って分かることだが、同じ種類の機器が数台設置されている。お医者さんにしかわからないこだわりや用途があるのだろう。うちの医院はその殆どをリース契約で入れている。そして90%以上が減価償却期間を過ぎた資産価値の無いものである。それに対して今尚リース料を払い続けている。台帳を作っていくとどの機器がダブっているのか、使っていないのにリース料を払い続けているのが何なのかがすぐに分かる。いつかこの資料を院長先生が活用してくださり、少しでも無駄を無くして健全な経営に近づけてくれたら良いな、と期待している。

整理整頓

自分の心を探り心配事や不安、悲しみや寂しさそして喜びや感謝、不信仰や悶々とした想いを整理することは、備品台帳を作ることに似ているのかもしれない。そして自分はこの作業が苦手である。一度悩みの中に入ってしまうとどこまでもそこから抜け出せなくなり最終的には自分に絶望してしまう。自分の心を整理し何が問題なのかを的確に把握して修正できる自浄能力があったらどれほど良いだろう、と思う。

祈ることを霊的な習慣にしなければならない。しかし、単なる習慣で続ける祈りは、もはや祈りではない。・・・強い願いは祈りを熱くする。大いなる願いが熱い祈りを定着させ、それを燃え上がらせると、魂が元気づく。・・・強烈な願いは力強い祈りを生む。・・・祈りを怠ることは、霊的欲求の死を示す恐るべき印である。もしクリスチャンが「霊的欲求によって魂はかき立てられて、隠れた所で祈る」ということをしていないとしたら、その人の魂は神から遠ざかってしまっているのだ。霊的欲求の伴わない祈りを真の祈りと呼ぶことはできない。
E.M.バウンズ

【こころ食堂礼拝】「主にある忍耐」

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大雪

毎日毎日雪が降り続いている。毎日夕方から降って翌日には40~50cmの積雪になる。特に昨晩からの雪は吹雪いており帰りが遅くなる自分にとってはかなり辛い帰路となった。毎朝出勤前には雪かきをして車が出せるようにしなくてはならず、アパートなので大した広さではないがそれでも車の雪を取り除き駐車場の雪かきをすると20分以上かかる。朝から結構な労働である。が、雪かきをしても結局気が変わって歩いて出勤することも多い。職場まではそれほど遠くないので慣れない雪道とはいえ大したことはない。坂もないし安全なコースである。しかし車に乗ってから「やっぱり」と徒歩に変えることがよくある。理由は2つ。ひとつは、路側に除雪後の雪が捨てられるので道幅が狭くなっており普段でも2台のすれ違いが難しいポイントが数カ所あるため。そしてもうひとつ。この理由が大きいのだが、アパートから100mほどのところに踏切がある。奥羽本線や五能線が通る線路であるがこの踏切がかなりの段差になっている。普段はあまり気にしていないが雪になるとこの段差が結構大きい。万が一踏切の途中でタイヤがはまってしまったらどうしようかと考え二の足を踏んでしまう。

除雪

青森で生活するようになって初めて知ったことが色々あるが、除雪についても知らないことばかりで毎日が発見の連続である。雪かきをした場合、その雪をどうするか。幸い自分の住んでいるアパートには融雪溝という雪を捨てるマンホールのようなものがあるのでそこに捨てられる。道に放置したら大変なことになり近所から苦情が来る。雪の捨て場も大きな問題である。また雪かきといっても幾つか種類がある。自分の土地や駐車場の雪を集めて捨てること、また歩道の雪をスノーダンプ(一輪車のタイヤがないようなもの。これで雪を押しながら運ぶ)でどかし歩行者が通れるようにする。これは一般的な雪かきである。また雪国ならではの除雪車。これが雪ごとに夜中にやって来る。自分が住むところは大体夜中の2時に大きな音を立ててやってきて作業を始める。これがくると眠れなくなる。この除雪車は民家の前に、集めた雪を捨てていく。なので家の前に山積みにされた雪を退けるのも雪かきである。自分はやったことがないが、職場の職員さんたちは持ち家の人が多いので、除雪車が来るたびに起きて置かれた雪を捨てる作業をする。夜中に重労働をするのが津軽の男だという。屋根の雪下ろしも大変な雪かきのひとつ。こちらは毎年事故があり死者も出るほど危険な作業である。ちなみにこの時期になると雪かきのアルバイトが募集される。農家さんは冬の間の収入源としてこれに従事する人が多いと聞いた。相場は2000~3000円/30分である。2時間もやれば1日の収入になる。先ほどの除雪車の話であるが、その年によって同じ人が同じ場所を担当することが多いという。だから「今年は昨年よりも上手な人が担当している」と作業の跡をみて評価するらしい。色々な人が従事しているのだと思うが、職員が異口同音に「弘前の除雪は下手だ」と評する。津軽人ならではの厳しい評価である。

雪があるから

うんざりするほどの雪を毎日見ているので、「もう勘弁してほしい」と思っている。が、一方でこの雪が多くの恵みの源になっていることも確かなことである。この雪があるから春には花が咲き、弘前城公園の満開の桜が美しく咲き乱れる。この雪があるから多くの農作物が育つ。勿論無限にあるようにも思えるリンゴもこの雪の恵みを得ている。そして奥入瀬渓谷をはじめ自然界の美しい滝や川の景観も雪が源になっている。雪国で暮らすことはハードルが高いが、雪がどれほどの恵みを与えてくれるかを理解することはできる。あと2ヶ月は毎日こんな状況だと思うと落ち込んでしまうが、それでも神様が与えてくださった恵みなので感謝しなくてはいけない。

【数年に一度】最強寒気 列島各地で大雪 今後も要警戒

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謙遜

モーセ

昨日、教会で聖書研究の時間がもたれた。学んでいたのは申命記であるがモーセの人となりが取り上げられディスカッションのテーマになっていた。モーセほどの謙遜な人物はいないと評されるほどの人である。どこまでもイスラエルの民に忍耐し、神様と人との仲介者としてその重責を立派に果たした。岩を2度叩く、という失敗の故、約束の地カナンには入ることが許されなかった。自分も20年以上前にイスラエル、ヨルダンを旅行した時にネボ山に登った。そこがモーセの立った場所か否かは分からないが、確かに遠くにカナンの地を見ることができた。記念教会がネボ山にはあるのだが、しばらくそこには入らずカナンの地を見ながらモーセが何を思ったのかを瞑想してみた。今までの長旅で多くの考えられない苦労があった。200万人とも言われるイスラエルの民を導くのに骨を折ったことを思い出したのかも知れない。その労が報われず自分は約束の地に入ることが許されなかった。失望しただろうか?「神様はどこをみていたのか」と叫びたい気持ちにはならなかったのか。しばらく考えていたが、やはりモーセは呟かなかったのではないかと思った。これは天の御国で直接聞いてみるまで分からないことではあるが、恐らく不平不満を漏らして呟くことはなかったと思う。約束の地カナンを遠くに見ながらモーセに迫ってくるのは、それまで片時も離れないで共にいてくださった神様の存在だったのではないだろうか。

ダビデ

モーセのことを考えるとダビデのことを思い出す。ダビデのことを考えるとモーセを思い出す。ダビデはこれまでの神様に対する感謝の現れとして、神殿を建てたいと申し出るが何と神様から断られてしまう。多くの血を流したことが理由なのか。何れにしてもダビデの心からの神様に対する愛情表現を、神様は断るのである。何とも残酷な場面である。自分なら腐ってしまう。「そうですか。わかりました。もう二度とあなたのために何かをしたい、などとは言いません」とへそを曲げてしまうことだろう。しかしダビデはそうではなかった。ダビデの子が神殿を建てると言われると、我が子のために神殿建築に必要な資材を全て揃えた。また大工や石工を集めソロモンが神殿建築で困らないよう準備を整えてあげるのである。ソロモンとの共同統治の時期にそれをした。ダビデの任期最後の仕事とも言えるかも知れない。

謙遜

自分の計画や思いを叶えるために働くのではなく、モーセやダビデのように神様の御心を行うことを最大の喜びとできる人物になりたいと真剣に思っている。そして誰よりもイエス様のような謙遜な生き方を実践できる人物になりたいと心から思っている。

まだまだ程遠い。そのような境地にたどり着けるのかも分からないが、とても感謝すべきことがある。毎朝の祈りで「自分の罪を示し悔い改めに導いてください。神様が自分の心をさぐり弱さを示してください」と祈っているので、本当に自分の至らなさや弱さが明確に示される。示されるのは心が痛むがそれでもイエス様に戻ることができる。不十分だがその時には謙遜な気持ちにさせられる。とてもありがといことである。

モーセやダビデを通して真の謙遜について考えさせられた。

憐れな力なき人間が格別祈ることにも努めず信仰薄き様を見て天使たちはいったいどう思うことでしょう。天使は神の御前にひざまずき神のみそばにはべることを好み神と交わることをこのうえない喜びとしています。それなのに神の他与えることのできない助けを最も必要としている地上の子らが聖霊の光も神の臨在も仰がず満足して日を送っているように思われるのであります。
キリストへの道p128

2021年12月25日 「飼い葉桶に眠る救い主」」 礼拝LIVE配信

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クリスマス

クリスマス礼拝

教会でクリスマスメッセージを頼まれた。笑ってしまうぐらい無計画な教会なので(別にバカにしているわけではなく)メッセージも10分前に依頼された。ここはある一人の信徒さんがクリスマス礼拝、そして午後の子どもクリスマス会を企画している。通常は理事会などでクリスマス礼拝、或いはクリスマス会をどうするかが話し合われ、やるのであればそれを企画するグループが選出され、次の理事会で企画が提案されみんなで意見交換し最終案が決定する。そしてそれに基づいて役割分担があり当日に照準を合わせて準備をしていくのだと思う。ところが自分の通う教会はそうではない。一人の信徒が先週から急に「クリスマスに音楽礼拝をしたい」と言いだし、話し合いもなくその人が教会員に声を掛けた。自分は讃美歌礼拝の即席聖歌隊を結成して讃美歌を指導することが役割になってしまった。正直なところ嫌だった。この教会は協力的で無い人が多く、また何かの後には必ず文句を言い出すので余計な波風をたてたくなかったのだ。しかし強引なこの信徒さんに半ば強制されながら聖歌隊を結成することになった。案の定、選曲について聖歌隊から文句が出た。讃美歌を選んだのは自分ではない。例の人であるが、それ以上に何でも文句を言う体質に困った。それでも協力的な二人の方がいたので何とか礼拝を成立させることができた。これで終わりだと思ったが、お昼から子どもを集めてクリスマス会をするのでそちらも手伝うように言われた。正直言って早く帰りたかった。この人の企画がどういう企画なのか全体像が分からず振り回されることが嫌だった。それでも強引に参加させられた。そして影の方で静かにしていたら「10分後にクリスマスメッセージを子ども向けにしてほしい」と急に言われた。元教師だからできる、と勝手に思い込んでいるようだ。この方は計画性がないからいつも「突然」の依頼になる。依頼というより命令かもしれない。10分間で祈りながら何とかメッセージを組み立てた。一事が万事、自分の通う教会はこんな感じなのである。普通の(語弊があるかも知れないが少なくとも自分が知る他の教会)教会とは全く違う。

起源

子どもクリスマスのメッセージ冒頭でクリスマスの起源について話した。

12月25日、クリスマスをイエスキリストの誕生日と思っている人は多いが、実際のところは分からない。イエスがベツレヘムで生まれたことは聖書の記述からもはっきりしているが時期は記されていない。一説には10月ではないかとも言われている。では、何故12月25日がキリストの誕生日と言われているのか。3世紀頃?にヨーロッパにミトラ教が入ってきた。ミトラ教は「光の祭り」というものがあり、これが冬至に行われていた。太陽が毎年死と復活を繰り返すと信じるミトラ教は冬至(太陽がもっとも弱くなる、即ち日照時間が最も短くなる時)に死に新たな太陽として復活すると考えられその太陽が新生する日を「光の祭り」として祝っていた。またローマ土着の農耕祭も12月25日に行われていた。冬至が12月25日であったことも併せて、ローマカトリック教会が「光である太陽の復活はキリストの復活」としてこの時期を「降誕祭」としてお祝いするようになった。「降誕祭」はイエスの誕生を祝うものであり、イエスの誕生日をお祝いするものではない。プロテスタント教会がカトリック教会から別れる過程でいくつかのもの、考え方をそのまま引き継いでしまった。クリスマスもその一つである。だから自分が小さい頃は教会でクリスマス会をすることはなくここ30年ぐらいで急速にそのムードが高まってきたように思う。

イエスキリスト

クリスマスの本当の意味が分からなくても人々の心がイエスキリストに向くのであればそれは良いことだと思う。時期は不明であっても確実にイエスはこの地上に来て下った。人類が初めて月に行った時に「これは人類にとって大きな一歩である」と言ったがアームストロング船長はこれを打ち消し「人類が月に降り立ったこの一歩より、イエスがこの地上に来られたその一歩の方が価値がある」と述べた。人類のために、人類を救うために来てくださったのである。そういうと何となく人ごとだが、イエスは私を救うためにこの地上にいらしてくださった。本当にありがたいことである。勿体無いことである。自分はイエス様を信じているので一人悦にいっているのだが、イエス様は、イエス様を信じない人や否定する人の為にもこの地上に来られた。それをお伝えしなくてはならないのにどうもうまくいかない。職場にいるノンクリスチャンの方々にお伝えしたいのだがうまくいかない。イエス様を独り占めしないで、自分のそばにいる職員さんに紹介しないといけない。そんなことを思わされたクリスマスであった。

2021年12月25日 クリスマス礼拝〈ライブ〉

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献金

給与

昨晩から降り続いている雪は未だに止む気配がない。午後2時過ぎには自分が住んでいる村に大雪警報が出された。これが明日まで続くと言う。恐ろしい。今日は仕事が休みなので出かけたくなかったのだが、給与の支給日なので昼過ぎから大雪の中出かけた。給与は「青森銀行」に振り込まれるが子どもの授業料などは郵貯の口座から引き落とされるのでそちらに幾らか移しておかないといけない。また父の入院費の一部を振り込まないといけないのでその手続きも併せてした。それほど長い時間では無かったが、あっという間に車が雪に埋もれてしまった。とんでもないところで生活していることを痛感させられた。

献金

昨日、給料明細が配られた。振り込まれる金額はほぼ同じ額なので明細を見るまでもないが、什一献金(収入の1/10を毎週の礼拝献金とは別にささげること)をするので一応見ておかないとうっかり神様のものを盗んでしまいかねない。前職では自動的に什一献金を計算して天引きしてくれていたので間違いはなかったのだが、こちらではそのようなシステムがないので自分で計算しないといけない。一番最初の給与の時には前職の事務の方に聞いてどの収入が什一の対象になるのかをきいて献げてたが、少し状況が違う気がしたので神様のものを盗まないよう、振り込まれる金額の1/10を千円の位を繰り上げて献げるように決めた。計算が単純なので間違える心配がない。当たり前のように献げる什一献金であるが、実は昨日非常に考えさせられる出来事があった。

喜んで献げる

自分は献金、特に什一献金は「当然の責任」として行なっているが献げる心の根底には「神様のものを盗んではいけない」という気持ちが働いている。強制されていると思ったことは一度もないが、かといって喜んで献げているわけでもない。とにかく「間違いがないよう」に献げている。

昨日、職員の休憩室でちょっとしたエピソードがあったそうだ。自分はその場にいなかったので他の職員から聞いた話である。ある、一人の職員が給料明細を休憩室で見ていた。そこには他に数名の職員もいた。明細を見ていた職員は、できるだけ早いタイミングでバプテスマ(洗礼)を受けてクリスチャンになりたいと望んでいる方である。この方の素行や聖書理解、福音理解の度合いを問題視して教会理事会がなかなかこの方のバプテスマを認めないらしい。実はこの教会には幾つかの問題がある。院長先生が「黒石」と「五所川原」に「自称聖書研究会」を作っている。安息日の午後は2時から黒石で集会を開き、その後4時30分から五所川原で集会を開く。この集会を院長先生は「教会」或いは「礼拝」と称し教会から信徒をそちらに移してしまう。要するに教会の分裂が起こっているのだ。これに反感をもつ理事たちが何かと院長先生がやろうとすることに反対する。どっちもどっちなのだが、前出の方のようにバプテスマを認められない人がでてくるのだ。今まで自分が所属した教会でバプテスマが受けられない状況は記憶にないのだが、こちらの教会では日常茶飯事なのである。みていて「滅茶苦茶な教会だな」といつも悲しい気持ちになっている。

しかし、この給料明細の方は昨日休憩室で次のように言っていたそうだ。「すごい、給料がほぼ倍に増えている。嬉しい。これでもっとたくさん献金ができる」。給与の金額まで公表していたようで周りの職員はハラハラしていたようだ。が、この方はバプテスマが認められなくても腐らずにたくさん献金ができることを喜んでいたのだ。たくさん献金ができることを喜んだ経験は無い。本質を忘れていけにえを間違いなく献げることだけに気持ちがいっていた。あのパリサイ人のように。

未信者の方からとても大切なことを教えていただいた。

「モーセはイスラエルの人々の全会衆に言った、「これは主が命じられたことである。 あなたがたの持ち物のうちから、主にささげる物を取りなさい。すべて、心から喜んでする者は、主にささげる物を持ってきなさい。すなわち金、銀、青銅。」
出エジプト記 35:4-5 口語訳

「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。」
マタイによる福音書 9:13 口語訳

Celebrate the King Single Version

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サムソン

士師記16章

昨日の祈祷会(少し変則的ではあったが)で士師記16章を学んだ。少し前から「サムソン」なる人物について記述されているが、この16章でサムソンは死んでしまう。ペリシテ人との確執でお互いに何かの機会を得て滅ぼしたいと思っている。しかし不思議なことにサムソンはこの敵国であるペリシテ人女性を気に入ってしまう。結婚相手にしようと思っていた彼女に裏切られ(その父親が別の男性に嫁がせてしまった)この女性との結婚は叶わなかった。女性に気をつけなくてはいけないのだが懲りないサムソンは、また別の女に好意を寄せてしまう。結果的にこの思いが仇となる。彼女に騙されサムソンの怪力が何に由来するものなのかを喋ってしまうのである。サムソンはナジル人であり、3つの誓願をたてていた。誓願の一つである頭(髪の毛)にカミソリをあてないこと、それを守っているために怪力が与えられていることを好意を寄せた女性「デリラ」に喋ってしまう。これを聞いたデリラがその髪の毛を剃ってしまう。力を失ったサムソンはペリシテ人に捕まり眼がえぐり取られた状態で獄に入れられた。いよいよサムソンの終わりである。

サムソンの祈り

サムソンは主に呼ばわって言った、「ああ、主なる神よ、どうぞ、わたしを覚えてください。ああ、神よ、どうぞもう一度、わたしを強くして、わたしの二つの目の一つのためにでもペリシテびとにあだを報いさせてください」。
士師記16:28

サムソンは自分の命の最期をもう一度神様のために用いていただけないか嘆願するのである。この時サムソンの髪の毛は伸びていた。

サムソンのこの祈りはきかれ、もう一度力を得る。そして…

そしてサムソンは、その家をささえている二つの中柱の一つを右の手に、一つを左の手にかかえて、身をそれに寄せ、「わたしはペリシテびとと共に死のう」と言って、力をこめて身をかがめると、家はその中にいた君たちと、すべての民の上に倒れた。こうしてサムソンが死ぬときに殺したものは、生きているときに殺したものよりも多かった。
士師記16:29,30

力の源

何故、サムソンが再び力を得ることができたのか。ひとえに神様の憐れみによりその祈りがこたえられたことによる。確かにナジル人としてのあかし通り髪の毛も伸びて来てはいたが、髪の毛に力があったわけではない。髪の毛をそったときに神様が彼を離れたことが明記されている。

彼は主が自分を去られたことを知らなかった。
士師記16:20

この場面を読むとイエス様にすがった一人の女性のことを思い出す。

「さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。 多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。 この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。」
マルコによる福音書 5:25-27 口語訳

言うまでもなく力の源は「髪の毛」でもなければ「イエスの衣」でもない。イエス様ご自身に力がある。至極当たり前のことなのだが、それを忘れている自分に気づかされる。

それにしても、サムソンの生涯を聖書から学ぶ時、「何故サムソンが士師に選ばれたのか」と疑問を持ってしまう。士師として働く期間が20年と聖書には記されているが、この期間は決して短い方ではない。

オテニエル40年、オホデ80年(最長)、デボラ40年、ギデオン40年とサムソンよりも在位期間が長い士師もいるがその他はほぼ同じぐらいかそれよりも短い。聖書には、多くの章をさいて描かれる人物もいるが、「生まれた、死んだ」程度の記述で終わっている人も多い。しかし、その短い記録しか残っていない一人一人に対しても神様のご計画があり、その人がこの世に一人しかいないかの如く愛された。サムソンもその一人である。女性に弱いサムソン、怪力にものをいわせて自由奔放に生きているようにみえるサムソン。しかし、神様はこのサムソンが可愛くて仕方なかったのだろう。

聖書研究ガイド21年4期13課

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不安

受験

昨晩遅くに長男から電話があった。遅い時間だったので何かあったのかと不安な気持ちになったが特に用は無かった。本人曰く「なんとなく話したかったから」。何となくでも何でも良い、電話をかけてくれるだけで嬉しいものである。何でもないと言う割に結構長い時間話した。「遅い時間だからあまり無理して勉強しないで今日は寝たほうがいいよ」と言って電話を切ろうとしてもまだ話し足りなそうな雰囲気をだしてくる。受験に対して不安なのだと察知した。そこでできるだけ面白おかしく自分の浪人時代の話をした。ある作業場で職人さんが働く姿がとても格好良くてずっと見入ってしまい気付けば3時間が過ぎていたこと。物理の模擬試験では毎回良い成績をとるものの数学が全くダメなので予備校の先生からは理系から文系に変えるように言われたこと。そして毎日泣いていたこと。そんなことを話していたら少しずつ長男の声に張りが出て来た。「不安なんだろうな」。非常に良く分かる。

不安の解消

不安を払拭する方法があるのなら自分も実践してみたい。教えて欲しい。自分が知っている方法は祈ることと、聖書を読み込むこと。この二つしか知らない。また讃美歌を歌うことも大きな力になる。しかし自分の場合は、神様と交わっているときは平安に満たされるが現実に引き戻された瞬間に更に大きな不安に押しつぶされそうになる。だからまた祈る。その繰り返しをしているだけだ。だから不安な長男を励ますことなどできない。ただ祈り自分の書き留めて来た聖書やその他の書物の言葉を送ること、これならできる。

どんな時にも、どんな場所でも、どんな悲しみにも、どんな苦しみにも、前途が暗く将来が困難に見えて無力と孤独を感じるときにも、信仰の祈りに答えて、助け主が送られる。この世のすべての友から離れるような事情が起こるかもしれない。しかしどんな事情もどんな距離もわれわれを天の助け主から離れさせることはできない。どこにいようとも、どこへ行こうとも、主はいつもわれわれの右にあって、力づけ、助け、ささえ、励まされる。
各時代の希望Ⅲp154

『人生の重荷を軽くする三つの話』講演会 ②落胆しない考え方 (河原 久 牧師)

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