受験

試験問題

昨年後半から特に受験問題を解くことが多くなった。大学受験を控えたかつての教え子たちが過去問や予想問題を写真に撮って送ってくる。それを解答し解説動画を作ることを繰り返している。また、長男の受験に際しても数学や理科のまとめをつくり少しでも頭を整理しながら学習できるよう頑張っているが、受験生のペースを乱したり混乱させたりしては元も子もないので結構気を使っている。そのような中で昨晩遅くにある受験生から送られてきた都内の某大学の過去問を解いている時に突然妻から写真が送られてきた。高校入試の「国語」の問題だった。軽いパニック状態になった。数学や理科なら解けるかもしれないが(それでも怪しいことが多々ある)、国語は全くできない。自信がある。でも「解けない」ことを伝えれば何かをされるので、とにかく数学の過去問をおいて国語の入試問題に取り組んだ。正確には入試問題の一部で、文法の問題だった。物理や楽典、文法のように公式があるものは少し性に合っている。チャレンジしてみたがやはり難しい。過去の記憶をフル稼働させ頑張ってみた。そしてそれを写真にして妻に送り返した。しばらくして返信がきた。学校の先生がオンラインで長男に対して文法の授業をしてくれておりその内容を報告したく問題を送ってきたらしい。こちらは問題を解くのが日常になっているので反射的に解いてしまった。それにしても難しかった。中学生でこんなに難しいことを勉強するのかと思うと子どもが気の毒になる。

教育問題

長女は昔番町中学に通っていた。いわゆる日比谷高校への進学率が極めて高いと言われている中学である。日比谷高校といえば東大進学率が全国トップの学校である。学校群制度、別の見方では「日比谷潰し」とも言われる制度で日比谷高校からの東大進学率は極端に下がるものの、それでも自分が高校生の頃。「日比谷」と言えば名門であった。学校運制度が導入されたり「ゆとり教育」が取り入れられたり10年ごとの指導要領の改定でその世代の子どもたちは社会にの言いなりになるしかなかった。そして今はコロナで学校に行けなかったり、友達との密な関係を求めてもそれが許されなかったり、いろいろな行事や大会が縮小中止に追い込まれてしまった。そのような中でずっと我慢を強いられているのが今の子どもたちである。昨日、今日と長男の高校入試があった。系列の高校で第一志望ではないが一応親の手前受験だけはしている。受験前の長男の写真を担任の先生が送ってくださった。明らかに緊張している。第一志望ではないと言いながらもやはり恐怖心があるのかもしれない。

長男に理科や数学のまとめ動画を送っているが、その中で10秒ほどのメッセージを入れるようにしている。内容は変えているが言っていることは同じである。「勉強に溺れて神様を忘れることがないように」そして「本来勉強は興味を持って自ら学ぶものであって受験のように恐怖や不安と引き換えにするものではない」とこのふたつを伝えるようにしている。自分はエンジニアを目指して受験勉強をしていたが、受験科目だから学んでいた「物理」を通して「確かに神様がいらっしゃる」ことを直感しこの学びを続けることが神様をより良く知る手段ではないかと思い方向を工学部から理学部に変えた。頭が良くないのに物理学科に進学してしまったのでかなり苦労したが、それでも物理を通して神様のご支配を感じることができた。子どもたちにもそういう経験をしてほしい。突き詰めて学ぶことで神様を発見できることが真の学習だと確信している。

「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」
ヤコブの手紙 1:5 口語訳

20220129礼拝 子ども 張田礼

 

 

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 預言者

エリシャ

朝早く起きたが、少し気持ちが重かった。理由は分からないが、信仰的に新たな活路を見つけると翌日落ち込むことが多い。サタンの攻撃なのか好転反応なのか。いつもならすぐに聖書通読をするのだが、今朝は聖書に手が伸びずしばらく「神様、助けてください」と祈っていた。30分ぐらいしてやっと聖書が読める状態になった。今日は列王記上の後半から列王記下の7章まで。特にエリヤとエリシャにフォーカスされる部分なので少し心が躍った。エリヤの生涯から信仰深い預言者の一面と弱さを示され逃げたり死を願ったりする生々しい人間的な部分を学ぶことができる。何度かエリヤについては記事を書いているので、今日はその弟子であるエリシャのことを取り上げたいと思う。

預言者エリヤはアハブ王の死後ホレブに向かった。そこで神様から3つのことを使命として言い渡される。

①ハザエルに油を注ぎアラムの王とする

②ニムシの子イエフに油を注ぎイスラエルの王とする

③シャファトの子エリシャに油を注ぎエリヤの後継者にする

エリヤはダマスコに向かう途中で預言されていたエリシャに出会い外套を彼に投げ、自分に従うよう招いた。ここからエリシャが預言者として召されていく。エリヤと行動を共にすることでエリヤに宿る霊について学びそれを継承した。エリシャも色々な奇跡を行ったであろう。そのいくつかが聖書に記録されている。

①飲めないエリコの水を、水源に塩を投げ入れることで清めた

②負債を返せず生活に困窮している預言者仲間の未亡人とその子を油を満たすことで救った

③常宿にしていたシュネムの婦人に子どもが授かるようにした

④シュネムの女の子どもが激しい頭痛の末息を引き取るがそれを生き返らせた

⑤毒の入った煮物を麦粉で解毒した

⑥20個のパンとわずかな穀物で100人の腹を満たし更にあまりがあった

⑦ナアマン将軍の思い皮膚病をヨルダン川に7度身を沈めることで癒した

⑧沈んだ斧を浮き上がらせた

⑨(死後の復活)

今日通読したところではないが列王記下13章では、エリシャの死後墓に葬ったがその後ある人が亡くなったので葬ろうとしたが、モアブの部隊を見かけたのでその遺体をエリシャの墓に投げ込んでそのまま立ち去った。ところが、その遺体がエリシャの骨に触れその人は生き返った。

エリヤの陰に隠れてしまいがちなエリシャだが彼もまた神様の道を正しく歩んだ模範とすべき預言者であった。

預言者の学校

サムエル記もそうだがエリヤ、エリシャの記事を読んでいると預言者仲間或いはその家族が次々登場してくる。サムエルによってラマやキリアテヤリムに建設された預言者の学校がその後預言者の学校は各地につくられた。エリヤ、エリシャの話を聖書で読んでいくうちに、預言者の学校に対する憧れが更に強くなった。

古代から、預言者は天の任命をうけた教師として一般にみとめられていた。預言者とは、最高の意味においては、神から直接に霊感をうけて語り、神からうけた言葉を人々に伝える者である。しかし、神から直接に霊感をうけなくても、人々に神のみわざや道を教えるために神から召された人々もまた預言者とよばれた。こういう種類の教師たちを訓練するために、サムエルは、神の導きをうけて、預言者の学校を設けた。これらの学校は、当時広くひろがりつつあった堕落に対する防壁となり、青少年に知的また霊的な幸福をあたえ、国家の指導者としてあるいは助言者として、神をおそれる思いをもって行動する能力のある人物を社会に送り出すことによって、国家の繁栄を増進させようとするのがその目的であった。この目的のために、サムエルは、神をおそれる知的で勤勉な一団の青年たちをあつめた。これらの人々は、預言者の子とよばれた。彼らが神のみ言葉とみわざを学ぶとき、生命を与える神の力は、その頭脳と霊性の力を活気づけ、生徒たちは天来の知恵をうけた。教師たちは天来の真理に通じていたばかりでなく、自ら神との交わりを楽しみ、神の霊の特別の賜物を授けられていた。彼らは、学識においても信仰においても、人々の尊敬と信頼を受けていた。サムエルの時代には、こうした学校が2つあって、その1つは預言者の故郷と言われたラマに、もう1つはキリアテヤリムにあった。後になって、他にもこういう学校が設立された。 
教育 電子版 p31,32

学校でも、家庭でも、授業の大部分は口頭でなされた。しかしまた青年たちはヘブル語の書物を読むことを学び、羊皮紙の巻き物になっている旧約聖書をひもどいて研究した。これらの学校の主要な学科目は、モーセに与えられた教えも含めた神の律法、聖史、聖楽、詩歌などであった。聖史の記録の中には、エホバ神のみ足跡がたどられた。聖所の奉仕における型によって示されているとうとい真理が理解され、それらのすべての制度の中心となっている本体―世の罪を取り除く神の小羊―が信仰によって把握(はあく)された。生徒たちの胸中には献身の精神が培われた。彼らは、祈りの義務を教えられると同時にまたどう祈るべきか、どのように創造主に近づくべきか、神への信仰をどのように働かせるべきか、神の霊の教えをどのように理解し、どのようにそれに従うべきかということを教えられた。潔められた知性によって、神の宝庫である聖書から、新しいものや古いものがとり出され、神の霊は預言と聖歌の中にあらわされた。これらの学校は、「国を高く」すると言われている正義を奨励する上に、最も効果的な手段の1つとなった。これらの学校は、ダビデとソロモンの治世に光彩を放ったあの驚くべき繁栄の基礎を築く上に少なからぬ貢献をしたのであった。預言者の学校で教えられた原則は、ダビデの品性と一生を形づくったのと同じ原則であった。神のみ言葉がダビテの教師であった。「わたしはあなたのさとしによって知恵を得ました。・・・・わたしはあなたのさだめを終りまで、とこしえに守ろうと心を傾けます」と、ダビデは言っている。神が、ダビデを若い時に王位に召し、彼を「わたしの心にかなった人」と宣言された理由はここにあった。ソロモンの青年時代にも神の教授法の結果が現われている。若いころのソロモンは、ダビデの選択をわがものとした。この世のどんな財宝にもまして、彼は知恵と悟りの心を神に願い求めた。神は、ソロモンの求めたものをお与えになったばかりでなく、彼の求めなかったもの―富と栄えまでお与えになった。ソロモンの理解力、広い知識、治世の栄華は世界の驚異となった。ダビデとソロモンの統治時代に、イスラエルは、繁栄の絶頂に達した。アブラハムに与えられ、モーセを通してくりかえされた神のみ約束―「もしわたしがあなたがたに命じるこのすべての命令を守って行い、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、主につき従うならば、主はこの国々の民を皆、あなたがたの前から追い払われ、あなたがたはあなたがたよりも大きく、かつ強い国々を取るに至るであろう。あなたがたが足の裏で踏む所は皆、あなたがたのものとなり、あなたがたの領域は荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテから西の海に及ぶであろう。だれもあなたがたに立ち向かうことのできる者はないであろう」とのみ約束は成就された。
教育 電子版 p32,33

「あなた方が与えなさい」  李根完 牧師

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ふたつの礼拝メッセージ

教会

コロナの感染が爆発的に広がり各地の教会がまた集会で集まることのできない状態になっている。が、自分の通う教会は結構近隣でも感染者はいるものの閉じずに毎週礼拝を行なっている。結構閉鎖的な教会なので最近居心地の悪さは感じているが、それでも勇気を出して毎週通っている。そして今日も神様はとても大きな祝福をくださった。

メッセージ1

礼拝メッセージは「信徒礼拝」だったので牧師ではなく教会員の姉妹が担当してくださった。姉妹は、自分と同じ職場の介護施設で働いている。前職は所属する教団の職員だったが期待する仕事ができなかったという理由で解雇通告を受け、東京にある系列の病院でアルバイトをしながら介護の資格を取ることになった。いよいよ勉強が始まる時に牧師先生と祈る機会が与えられたという。祈りの最中、姉妹は涙が止まらなかったそうだ。牧師先生が共に祈ってくださる感謝の涙ではなく、やりたくもない介護の資格を取得しなくてはならない状況、或いはそうなった自分に不甲斐なさを感じて流れた涙だった。どうして、最も困難な状況なのにイエス様は助けて下さらないのだろう、どうしてイエス様は祈りに応えて下さらないのだろう、と悶々とした気持ちを持ち続けた。そして資格を取得したのち、東京の病院を辞め青森にある当院の介護施設で12年前から働くようになった。決して望んだ道ではなかったが、振り返ってみると確かに神様の導きが常にあり「これで良かったのだ」と心から思えるようになった。そのような証を礼拝メッセージの中で話してくださった。自分のことを話しているような気持ちで聴いていた。全てにおいて同感だった。夢にやぶれ一見惨めな状況に身を置いているがそれでもそれが神様の御心ならば、それに従いたいと心から思った。

神の導きの手を求めて手を差し伸べている全ての者にとって、最も落胆してしているときしている時が、神の助けがい一番近いとき時である。
各時代の希望 2巻 p343

メッセージ2

教会から家に戻り、いくつかの教会で行われているオンライン礼拝を視聴していたが、まさに自分に対して語っていると確信できるようなメッセージに出会った。

イエス様の十字架ののち、全ての希望が絶たれたかのようにうなだれて歩く二人の弟子(一人はクレオパ)に対して、イエス様が同行される場面である。所謂、エマオに向かう途上での出来事。彼らは最初、共にいらっしゃるのがイエス様だとは気づかなかった。目的地に近づき、イエス様に同宿の申し出をする。イエス様が同意され他の弟子たちと一緒に食事をする際、パンを割く様子でイエス様だと分かった。自分たちの人生にもイエス様が共にいてくださっているのに、それを認めず肩を落としていることが何と多いことだろうか、と牧師は語る。まさに自分のことである。イエスキリストは「私に頼りなさい」ではなく「私に頼って欲しい」と切望さ私たちを招いてくださっている。全ての思い煩いから手を離してイエス様のところに行くことを望んでおられる。そして、私たちがイエス様のところに行く時「全てのことあい働きて益となる」のである。

有名な讃美歌のひとつに「慈しみ深き、友なるイエス」がある。アイルランドの牧師であるジョセフ・スクライヴェンが作詞した。結婚式の前日に婚約者を事故で失う悲劇を経験した。また、同じく婚約していた女性を病気で失う経験もした。生きる希望も失うような経験だったが、そのなかにあって重篤な病を抱えた母親を励まそうと作詞したのがこの「慈しみ深き、友なるイエス」という讃美歌だった。悲しみや困難、試練は時に人の視界からイエスキリストを奪ってしまうかもしれない。しかしそれでも神様は共にいてくださる。そして常に助けてくださる。

メッセージの冒頭から涙が止まらなかった。自分に対してイエス様が直接語りかけていらっしゃる気がしてならなかった。メッセージそのものもありがたかったが、イエス様の臨在が勿体なくて涙が溢れ出た。

今も生きておられ、共にいてくださるイエス様を信頼しもっと密接な関係を築かせていただきたい。

2022年1月29日 「エマオへの道で」

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ふたつの文章

問題

毎日、一心に祈るがその答えは与えられない。もしかすると、「答えがない」という答えが与えられているのかもしれない。祈りが聞かれない理由はいくつか考えられる。

①自分の祈りと神様のご計画が違う
②祈りがきかれるタイミングが今ではない
③祈り方、祈る姿勢や心の状態に問題がある
④祈りが聞かれないことで、もっと大切なことを教えようとしている

不信仰な自分だが、ひとつ確実に言えることがある。それは神様は祈りをきちんと「聴いていてくださっている」ということ。このことは個人的に与えられた経験から確信している。聴いてくださっているのに、その道が開かれないのはなぜだろうか?悶々としてしまうが、ある本からふたつの文章にであうことができた。ひとつは随分前から自分の「御言葉ノート」に記されていたものだがもうひとつは一昨日初めて知った文章である。ふたつともE.G.Whiteという19世紀半ばから20世紀前半にかけて活躍し多くの再臨信仰をもつクリスチャンに励ましを与えた女性クリスチャンの書いた文章である。安息日を迎えたこの時を、ふたつのことばに触れてゆっくりと過ごしたい。

無限の神の愛がもたらした

神の摂理のうち私たちを悩ませた全てのことは、来るべき新しい世界で明白にされる。その時になると、理解に苦しんだことの理由がわかる。恵みの神秘が私たちの前に明らかにされる。私たちの限られた理解力では、ただ困惑と約束の破棄にしか見えなかったことの中に、私たちは最も完全で美しい調和を見るのである。無限の神の愛が、最も苦しい試練のように思われた体験をもたらしたということを知るようになる。全てのことが働き合って、私たちの利益となるようにしてくださった主イエスの優しい心遣いを認めるとき、言葉に言い表せない、栄光に満ちた喜びに包まれるであろう。
アドベンチストホーム P626

そのとき明らかにされる

あがなわれた者はだれでも、自分の一生における天使たちの奉仕を理解するであろう。生まれたときからわれわれを守ってくれた天使、われわれの歩みを見守り、危険の日にわれわれの頭上をおおってくれた天使、死の陰の谷にあってわれわれとともにいた天使、われわれの最後のいこいの場所に目をとめていてくれた天使、よみがえりの朝まっさきに迎えてくれる天使・・・この天使と語らい、自分の一生における神の摂理と人類のためのあらゆる働きにおける天の協力について話を聞くことはどんなにすばらしいことであろう。人生の経験におけるあらゆる複雑な問題はその時明らかにされるであろう。われわれの目には混乱と失望、目的の破壊や計画の妨害としかみえなかったことが、堂々たる圧倒的な勝利の目的、天との調和であったことがわかるであろう。
教育P356

聖書研究ガイド22年1期5課

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祈れない時

受験

毎日を祈りをもって始め、人と話すことが殆どないので祈りながら仕事をしていることが多い。まず家族のために祈る。兄弟や親族など肉に連なる方の名前を挙げて祈る。心の病も含め病気の方々と牧師先生方のために祈る。自分を助けてくださる方やかつての同僚のために祈り卒業生のために祈る。そして悔い改めの祈り、最後に自分の将来に対するご計画を示してくださるように祈る。これを何度も繰り返す。ルーティンのようになっているが毎日新たな気持ちで切実な思いで祈っている。が、最近あることに関して祈れなくなっている。それは長男のことである。色々なところで傷つき苦労を重ねている長男だが、今は受験のことで頭がいっぱいである。第一志望は沖縄県の某県立高校。自分はこの高校に行くことにあまり賛成していない。本人は中学時代に出会った先生を見て系列の高校には決して行きたくないと言っているが、自分はやはり系列の高校に行って欲しいと思っている。やんわりと自分の思いを子どもに伝えたことがあるが、その度に県立高校に対する本人の固い決心を聞かされる。妻からの連絡でも、「(長男)の気持ちを知り、自分もできることをしたいと思い毎日志望する高校に行き校門の前で祈っている」と伝えられた。教員に失望したとしても、同じ信仰をもつ友が色から系列の高校に行って欲しい、というのが自分の願いであるがもしも長男の願った道が開かれなければ子どもはおかしくなってしまうのではないかと思うほど思いつめている。妻もそのような長男の気持ちを知って長男の願い通りの道が開かれることを祈っている。自分なりの考えはあるものの、やはり子どもの祈りの賛同してあげることも必要なのではないか、とも思い始め最近このことについて祈れなくなっている。

祈れない時

そもそも、人間の自由意志からでてくる祈りは自己中心的であり神様のことを思わない祈りが多いのかもしれない。自分の祈りを思い起こして特にそう思う。だから聖霊様の特別な導きが必要なのだろう。聖霊様の助けがなければ祈ることすらできないのだ。聖書は次のように言っている。

御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。 ローマ8:26-27

聖霊の神様が自分の祈りが父なる神様に届くよう執り成してくださることは何ともありがたく恐れ多いことであろうか。更にこの先でパウロは言っている。

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。ローマ8:28

何をどう祈って良いのか分からないが、聖霊の神様が助けてくださることを信じお任せして祈り続けて行きたい。

「息をする度に」李根完牧師

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契約の箱

ウザ討ち

旧約聖書に出てくる「契約の箱」について、その行方が話題になることがある。都市伝説的な話だが日本にある、という人もいる。その根拠は分からないが今も人類の目には隠されている。

今日の聖書通読の場所がサムエル記下4~13章だった。イシュボシェトの死から始まり6章ではそれそれまでキリヤテエアリムのアビナダブの家にあった契約の箱が、ダビデの命によりエルサレムに運ばれることになった。この時、大きな事件が起こる。契約の箱がナコンの打ち場に来た時に牛が躓き箱が倒れそうになった。咄嗟の判断でアブナダブの子であるウザが箱を支えるように触れた。そしてその瞬間ウザは命をとられた。

行方

元々契約の箱は出エジプトしたイスラエル民族と共にあり、移動の時もレビ人のケハテ族により慎重に運ばれた。エリコに陥落の際には神の箱が大きな力となった。その後シロにとどまった。これはかなり長い時間であった。

そしてペリシテ人との戦いの際、神の箱が戦場に持ち出された。そしてペリシテとの戦いに敗れ、契約の箱は彼らの手に渡ってしまう。ペリシテの地、アシュドデから恐ろしいことに偶像であるダゴンの宮に持ち込まれた。ここでは毎日ダゴンの像が箱の前に倒れるという現象が起こった。ガテに運ばれると大恐慌と腫れ物の災いがペリシテ人にくだる。これではいけないと、ペリシテ人が契約の箱をイスラエルに返す。ベテシュメシュ、そしてキリヤテエアリムのアビナダブの家に運ばれた。ちなみにアビナダブはサウル王の子であるヨナタンの弟。サウルの子どもである。そして契約の箱に触れて命を取られたウザはアビナダブの息子。

この事件があり箱はガテ人オベデエドムの家に移された。そして最終的にダビデの命令通りエルサレムに戻ることができた。

祝福

契約の箱はその置かれる場所で祝福となったり災いとなったりした。本来祝福の源であるはずのものがその正反対の効果をもたらすことは非常に興味深く奥深い真理が隠されている気がする。ウザはケハテ族でないのに契約の箱に触れたため命を取られた。が、もう一つの考えとして、家に置かれていた「契約の箱」を毎日見ることで「見慣れ」てしまいその意味するところや価値が分からなくなっていたのかもしれない。

今日の聖書通読を通して、自分が毎日与えられている祝福に慣れ過ぎてしまいそれを当たり前のこととしか受けとめられなくなっているような気がしてきた。ウザが討たれた経験は自分にも当てはまる気がする。祝福を祝福として受け止めなければそれはいつか災いになる。そんなことを考えさせられた。

はるかの部屋「主の愛に結ばれて」

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叫び

助けを求める

昨夜遅くに長男から連絡があった。その少し前までメールでやり取りをしていたので何事かと思った。「この問題の解き方が分からないから解説動画を作って送って」とメールが送られてきた。長男が持っている問題集、参考書と全く同じものを自分の手元に揃えている。いつどのような質問が来ても「何ページの何番」と言っただけで通じるように揃えた。沖縄の県立高校の過去問がとにかく厚くて重い。どこの県立高校も同じなのかもしれないが問題数の多さに閉口する。問題は決して難しくないが、10番までを全て解こうと思ったらかなりスピードをあげないといけない。自分でやりながら「これを長男に解かせるのは気の毒だな」と思ってしまう。

今まで色々な解説動画や学習まとめの動画を作って来たが昨晩の長男はかなり切羽詰まっている状態だった。一緒にお祈りしたり励ましの言葉をかけたりメールで送ったりしているが本人の心にどれだけ届いているかは分からない。

この熱心さで

自分も受験生時代息子のようだった。合格に繋がることなら何でもしようと思ったしどこまでも自分を追い込むことができた。しかし受験も終わり社会に出て色々な経験をする中で、本当に大切なものが徐々に分かるようになってきた。受験生だったあの頃、合格に向けて何でもする熱心さがあったがその熱心さで神様を求めていたら自分の人生は大きく変わっていたと思う。そして少し遅くなったが、今からでも受験生だった頃を思い出して神様を熱心に求め続けて行きたいと思っている。

SOS

それにしても、学校の先生がすぐそばにいるのに自分のような者に質問してくるのだからかなり追い込まれているのだろう。長男が大学受験するぐらいまでなら物理や数学なら何とか教えることはできるかもしれない。もしかしたら大学の偏微分方程式ぐらいは教えられるかもしれない。しかしそれより難しくなれば無理である。限界がある。

今回長男は限界のある父親に助けを求めてきたが、無限の力をもった神様に頼ることを教えなくてはいけないと痛感した。受験は通過点である。でもこの通過点で「何に頼るのか」「何に対して叫ぶのか」を明確にしておくことは今後の人生を歩むなかでとても大切なことだと思う。

ある牧師の1日【クリスチャンVlog】#4

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人の心

傷つける人

コロナや地震に気を取られているが、その他の場面でも多くの問題が起きている。人が争っている場面を見るとすごく気持ちが沈む。決して平和主義者ではない。平和を強く望んでいるが、しかし自分自身非常に短気である。ここ数年は人との接点があまりないので怒りの感情を持ったことは殆どないが、実際には短気な性格が隠れているだけで少し刺激すればきっと出てくるのだと思う。この性格にどれほど苦しんできたことか。反対に長男は文字通り平和主義者である。人と争うことが大嫌いで、少しでも大きな声を聞いただけで気持ちが萎えてしまう。小学生の頃、一緒に行ったレストランで小さな口論をしているテーブルがあった。その声が聞こえるとはなしに耳に入ってしまい、結局長男は一口も食事ができなくなってしまった。このところ、人が人を傷つけるニュースを頻繁に見かけるようになった。

中華そば堀川

経緯や事情は全くわからないが、自由が丘のラーメン店「中華そば堀川」の店主堀川将太氏が店の女性従業員に対して執拗に暴行を加える事件が伝えられた。堀川氏はその後逮捕されたらしいが、同店はミシュランガイドにも掲載される有名店。実際味も良いらしくお客さんの評判も良かった。ただ入店前に並ぶ際には足元の印にしたがって並ばないといけないのだがその列をはみ出したりすると堀川氏から容赦ない注意を受けることもあるという。何れにしても、パーティーと称して女性従業員に暴行を加える愚行を繰り返し行っていたことはまずいことである。

東大前刺傷事件

以前にも投稿したが共通テストの初日に東大前で受験生2名を含む3名を無差別に刺し怪我を負わせて高校2年生の事件も記憶に新しい。思うように成績が伸びず苛立つ気持ちもあったのかもしれないが、人に刃物を向けることなどは決してやってはいけない行為である。ましてやそれで人を刺すなど言語道断。命を落としてもおかしくない状況だったことを決して忘れないで欲しいし、多くの受験生の心に動揺を与えたことも反省すべきことだと思う。

車内喫煙を注意

今日のニュースでとてもショッキングな事件を知った。昨日23日、JR宇都宮線の車内で電子タバコを吸っていた飲食店従業員の宮本一馬容疑者を高校2年生の男子が「タバコを吸っていますよね。やめてもらえませんか」との注意に逆上しその場で当該高校生を殴りつけた。更に自治医大駅ホームに降りた後も暴行を続け右頬を骨折する重傷を負わせた。宮本容疑者はそのまま宇都宮線で逃走したが23日深夜に捕まった。

高校生の話

高校生の証言によると、同行してた友達が宮本容疑者の暴行をやめるよう間に入るも力で押し切られてしまった。そして車内に乗客はいたものの誰一人助けることもなく無視し続けていたという。

この高校生の勇気ある行動が何よりも賞賛されるべきである。しかし、現在は誰が凶器を所持しているか分からないから自分を守るためには決して争いに巻き込まれないよう注意喚起されている。だから、この車内の乗客も現代風に言えば当然の行動を取っていたのだろう。しかし、この話を聞いて当該高校生の怒りの矛先は宮本容疑者よりも車内にいながら「我関せず」貫き通した乗客に向けられていたのかもしれない。見方によっては何も悪くないこの高校生を宮本被告と無視し続けた乗客全員で集団暴行を加えたのと同じである。

立場

宇都宮線のニュースを知って、あることを考えていた。自分は宮本容疑者にもなれるし、注意した高校生にもなれる。やられている高校生を助ける友達もなれるし車内で知らぬ存ぜぬを貫く乗客にもなれる。容疑者、加害者を批判することは簡単であるが、自分が容疑者になる可能性もあるのだ。

聖書のある話を思い出した。「善きサマリヤ人」という話である。

イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。 するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。 同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。 ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。ルカによる福音書10:30-37

20220122礼拝 説教 東清志

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今年もまた

つーぐー

昨年も1月23日に同じ内容を投稿した

7年前の今日、教え子でもあり親戚でもあるつーぐーが亡くなった。素晴らしい感性を持ち誰にでも優しく対応できる青年であった。純粋で人を疑うことを知らない。そして神様を心から愛し神様に全てを献げる心を常に持っている。

彼が中学2年生の時に初めて出会った。沖縄の中学校に赴任しそこで出会った。学習に対して常に前向きで愚直に努力する姿勢は周囲の模範であった。独自の世界があり少しスローなところもあるので若干友達は少なめだったが、その人柄から声をかけられることは多かった。お祖父様が三線の師範で沖縄でも有名な家元であるため、これも血筋なのか音楽的な才能はずば抜けていた。アカペラグループを作って讃美歌を歌うことが好きだった。ギターを覚えるのも早く、ギターで作曲活動をしていた。そしてバイオリン。音楽についても周囲から一目置かれていた。

当時、中学校では「班農業」なるものがあった。学年男女混合で1班8名ぐらいで構成される農業グループである。教員がひとり入って10坪ほどの土地を与えられそこで作物を育てる。生徒同士が話し合って何をお育てるかは自分たちで決める。沖縄は気候が温暖なので1年中何かが作れる。そんな楽しい班農業でも自分はつーぐーと同じ班になった。時間が過ぎて黙々と作業し、放課後や昼休みにも畑に入って世話をしていた。中学校ではじめて出会ったつーぐーだが、その後自分も高校に転勤となりつーぐーを担任する機会が与えられた。クラスパーティーではつーぐーとふたりで三線を弾いて琉球民謡を披露した。バイオリンも三線もつーぐーと一緒に弾いた。

笑顔しか思い出せないつーぐーが7年前、体調不良のため突然亡くなった。

知らせを聞いて、頭の中が真っ白になった。悲しいと思うよりも「今すぐ自分も死んでつーぐーに会いに行かないと」とおよそクリスチャンとは思えないことを考えてしまった。

昨晩、つーぐーの弟と話していた。「今年もこの時期がきたね」から始まった会話だった。「毎年、兄のことを憶えていてくださりありがとうございます。自分の中ではとても大切な存在なのに徐々に風化していくような気がして申し訳ない気持ちでいます。でもそのような時に、毎年先生が兄のことを思い出してくださるのでとても感激しています。家族以外の人からも憶えてもらっていることが本当に嬉しいです」と返って来た。自分が勝手につーぐーのことを思い出すのは良いかもしれないが、それを身内の方と共有するのは却って傷つける行為なのではないかと毎年悩んでいる。が、今の自分には大切なつーぐーの思い出を共有できるのは兄弟しかいないのだ。昨晩も遅くまで弟とつーぐーの話で盛り上がっていた。この弟も教え子なので普段からやり取りをしている。特に星景写真や動画編集では話があうのでいつもそんなことで盛り上がっている。でもこの日は趣味の話は一切せずつーぐーの話だけ。

命を失う人の無念や悲しみ、そして残る人の孤独感。この世では悩みがある、と言われたイエス様の言葉が真実であることを痛感する。ただ、ひとつだけ確信していることがある。イエス様が再臨される時、つーぐーは元気に起き上がりあの笑顔で一番好きなイエス様のところに猛ダッシュで行くこと、これは間違い無いと思う。つーぐーのようにイエス様が大好きで、イエス様のためだけに生きられたらいいな。

ちっちゃいお花 GOSPEL無限

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夜中の出来事

01:08

昨晩は少し考え事をしていて眠れなくなってしまった。不安なことばかりが頭を巡り平安が訪れるまで祈っていた。そんな時携帯が何かを受信したらしく振動した。祈りの途中だったが、姉から両親に関する知らせかもしれないと思い画面を見ると「日向灘を震源とする最大震度5強の地震」が発生したことを知らせるニュースだった。宮崎や鹿児島をはじめ九州には知り合いが多い。また各地の震度を見ると、広島も震度4になっていた。子どもは大丈夫だろうか。広島こそ友人や知人、恩師などたくさんの方がいるので気が気ではなかった。いよいよ南海トラフ地震の予兆なのか、とも思った。フィリピン海プレートの縁付近なのでかなり微妙な位置が震源になっている。後のニュースで比較的深いところで発生している地震なのでプレート境界より下であることが分かった。が、安心はできない。

朝になってすぐに広島にいる長男に連絡したところ「震度4よりも大きかった気がする。しかもかなり長い時間揺れていたから建物が壊れると思った」と言っていた。怖かったのだと思う。可哀想に。またその後広島に住む友人からもLINEが入りかなり大きな揺れで恐怖を感じたと連絡があった。本当に最終段階に入って来た気がしてならない。

コロナも東京では1万人を超える感染者が発生したと報道されていた。何か全てが暗い方向に進んでいる気がする。

別れ

昨日、21日金曜日にある友人に連絡した。友人は昨晩大きな仕事がありその大役を務めるので激励の意味でLINEを送った。併せて具合を悪くしているお父様のことも気になりお祈りしている旨伝えた。忙しいはずなのにしばらくして返信があった。短い文だったが絶句した。金曜日未明というか夜中1時36分にお父様が亡くなられたとのことだった。友人は大役が日曜日まで続き、またお祝い席でもあるのでお父様が亡くなったことは職場の一部の親しい人以外には知らせずやり過ごすと言っていた。日曜日に全ての役から解放されたら実家に戻るとのこと。このお父様とは昔から色々と関わらせていただき、特にイスラエル、ヨルダンの聖地旅行では同行させていただいた。いつも明るく真面目で信仰深いこのお父様が亡くなられたことは大きなショックである。自分のような者でもそうなのだから息子である友人にとっては辛く悲しい出来事だと思う。しかし、信仰を全うし大往生した父親を尊敬し見習いたい、今はいたって平安であるとの返信をもらった。親子揃って素晴らしい。

この世

この世には未来も希望もない気がするので、次に連れて行ってもらえる天の御国に思いを馳せる。が、この世で生きている以上もう少しやらなくてはならないことがある。世界のクリスチャン人口はおよそ20億人。この中で真の安息日を遵守している人は1%たらず。世界の0.3%ぐらいしか神様を信じ真の安息日を守っている人はいない。自分の命を使って何とかイエス様をお伝えする役に立ちたいのだが。

2022年1月22日 「苦悩の日々に」 安息日礼拝LIVE配信

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