祈れない時

受験

毎日を祈りをもって始め、人と話すことが殆どないので祈りながら仕事をしていることが多い。まず家族のために祈る。兄弟や親族など肉に連なる方の名前を挙げて祈る。心の病も含め病気の方々と牧師先生方のために祈る。自分を助けてくださる方やかつての同僚のために祈り卒業生のために祈る。そして悔い改めの祈り、最後に自分の将来に対するご計画を示してくださるように祈る。これを何度も繰り返す。ルーティンのようになっているが毎日新たな気持ちで切実な思いで祈っている。が、最近あることに関して祈れなくなっている。それは長男のことである。色々なところで傷つき苦労を重ねている長男だが、今は受験のことで頭がいっぱいである。第一志望は沖縄県の某県立高校。自分はこの高校に行くことにあまり賛成していない。本人は中学時代に出会った先生を見て系列の高校には決して行きたくないと言っているが、自分はやはり系列の高校に行って欲しいと思っている。やんわりと自分の思いを子どもに伝えたことがあるが、その度に県立高校に対する本人の固い決心を聞かされる。妻からの連絡でも、「(長男)の気持ちを知り、自分もできることをしたいと思い毎日志望する高校に行き校門の前で祈っている」と伝えられた。教員に失望したとしても、同じ信仰をもつ友が色から系列の高校に行って欲しい、というのが自分の願いであるがもしも長男の願った道が開かれなければ子どもはおかしくなってしまうのではないかと思うほど思いつめている。妻もそのような長男の気持ちを知って長男の願い通りの道が開かれることを祈っている。自分なりの考えはあるものの、やはり子どもの祈りの賛同してあげることも必要なのではないか、とも思い始め最近このことについて祈れなくなっている。

祈れない時

そもそも、人間の自由意志からでてくる祈りは自己中心的であり神様のことを思わない祈りが多いのかもしれない。自分の祈りを思い起こして特にそう思う。だから聖霊様の特別な導きが必要なのだろう。聖霊様の助けがなければ祈ることすらできないのだ。聖書は次のように言っている。

御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。 ローマ8:26-27

聖霊の神様が自分の祈りが父なる神様に届くよう執り成してくださることは何ともありがたく恐れ多いことであろうか。更にこの先でパウロは言っている。

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。ローマ8:28

何をどう祈って良いのか分からないが、聖霊の神様が助けてくださることを信じお任せして祈り続けて行きたい。

「息をする度に」李根完牧師

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