誕生日

確定申告

2月も終わりとなり明日から3月。ついこの前、年が明けたと思っていたがもう2ヶ月がすぎる。早いものだ。毎年この時期に気になるのが「確定申告」。毎年ある方に手伝ってもらっていたが今年は青森に引っ越して来たので頼る人がいない。そんな時に役場で税理士さんが手伝ってくださるとの案内をいただいた。そして仕事の休憩時間に相談に行ってみた。毎年揃えておくべき資料は把握しているので全てを持って出かけた。勿論医療控除の申請もできるようエクセルを使って集計し所定の用紙に入力した。また寄付金もあるのでその領収書も持って出かけた。毎年のことであるが寄付金で引っかかる。どの項目に入れて良いのか悩むようだ。毎年幾らかの還付があるので今年はいくらになるのか少しワクワクしながら待っていた。担当の方が寄付金のことで色々な人に相談したこともあり30分近く待たされた。色々な説明をしてくださったが、その最後に非常に申し訳なさそうに「で、今回は退職金の源泉徴収がありましたので還付ではなくお支払いいただくことになります」と言われた。凄く恐縮していた、そして周りにいた職員さんも集まって来て頭を下げていた。そ、そんな。こちらが恐縮してしまう。もらえたら嬉しいけれど、不正があって後で罰金を払いようなことがあってはいけないので正当な理由のある税金はきちんとお支払いするのは当たり前のことである。笑顔で「そうですか。勿論お支払いします」というと、周りに集まった職員さんたちも胸をなで下ろしている様子だった。ここで揉めることがあるのかもしれない。

支払いはそれほど高額ではないが安くもなかった。数万円といったところだが、信頼して税金を納められる国というのも今はとてもありがたい。税金どころか命が取られてしまう国だってある。税金が兵器に変わってしまう国もある。確かに納税は義務であるが、税金が納められることは幸せなことだと思う。

誕生日

毎日、戦争をしている国、そこに住む人、そしてその国の指導者のために祈っている。戦争で命を落とすために生まれて来た人はいない。また戦争で人を殺めるために生まれて来た人もいない。みんなが神様から愛されていることを確認し幸せに生きるために生まれて来た大切な存在である。勿論プーチン大統領も、である。考えたくはないけれど、そう遠くない将来もしかしたら日本も戦争に巻き込まれているのかもしれないと思ったら涙が溢れて来た。子どもたちがかわいそうである。コロナで自由が制限され、空にそれを超える過酷な試練である戦争に巻き込まれるなんて。今すぐに戦争をやめてほしい。もしも自分の命と引き換えに戦争をやめてくれるなら喜んでこの命を渡したい。

実は今日は次男の誕生日である。9年前、かなり危ない状態で生まれてきた次男。生まれてすぐに救急搬送され広島市内の大きな病院に連れて行かれた。妻には「たいしたことないけど少し別の病院で検査をするみたい」と笑顔で言うのが精一杯だった。救急車の後ろから自家用車で追いかけながら、ぞっと泣いていた。病院についてすぐに手術が始まった。その間、看護師の姉にメールしたが状況を伝えると「かなり厳しいかもしれない。厳しいことを言うけど少し覚悟した方が良いかもしれない」と言われた。実際、極めて厳しい状況だった。そしてその後も手術を繰り返した。およそ4歳まで病院から出ることもできず本人は勿論のことだが長男や妻も地獄の生活を味わった。そんな次男が9歳の誕生日を迎えられたのだ。本当に感謝なことである。子どもたちにとって、彼らを幸せにできない愚かな父親はどうしようもない存在であるが、それでも陰ながら妻と子どもたちの幸せを祈り続けている。

そんな幸せな誕生日を迎えさせていただいたからこそ、声を大にして言いたい。「頼むから戦争をやめてください。いますぐやめてください。」

16 Hiroshi Yamagata 【俺と神様シリーズ】

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神様の導き

目次
  1. 今まで

御言葉を通して日々神様が共にいてくださることを確信させていただいている。自分のような者にも愛を注ぎ、決して離れないで寄り添ってくださるイエス様のことを考えるととてもありがたい。更に、自分以外の方の人生で神様がどのように働いてくださったのかを知る時、とても励まされ感動する。現在「俺と神様」というタイトルで全世界の男性クリスチャンによる証がネット上に公開されている。これがとても楽しみで毎日おひとりずつ証を拝聴している。全く存じ上げない人や友人、そして半数ぐらいはかつての生徒である。その「かつての生徒」たちも含め多くの方々がクリスチャンとして歩み、或いは人生の途上でイエス様に導かれた証をしている。自分などが決して味わうことのなかった苦しい経験、辛い経験を通過しながらもイエス様に人生を預けることで祝福されるように変えられていく。本当に励まされる。

今まで

自分もここ数年日の当たらないところを通過しているように感じている。が、昨晩ゆっくりと自分の人生、特にここ数年の日陰の歩みを思い返してみた。辛かったこと、これ以上辛いことは無いと思っていた矢先に更に深い谷底に突き落とされる経験などを思い出していた。そして自分がその状況をどのように乗り越えて来たのかを思い出そうとしたがどうしても思い出せなかった。思い出せないので日記を開いてみた。ある時期は、人生を終わらせたいと強く望み今にもそれを実行しそうな勢いであった。暗闇だと思っていた時期を過ごした。また今もそうなのかもしれない。が、これまでのことを思い起こしているうちに、何も不自由をしていないことに気づいた。ほとんど全ての祈りが叶えられ、不足は全くなかった。経済的にもどのようにして来たのかよく覚えていない。しかし、全てが与えられた。その都度大騒ぎをして神様に不満ばかり言ってしまったが、そんな自分の不信仰を赦し神様は全てを与えてくださった。そして、証をしてくださった皆さんのことも守り導いてくださった。改めて神様の導きの確かさと素晴らしさを感じる。

「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」
ペテロの第一の手紙 5:10 口語訳

素晴らしい証です

19 Jimmy Watanabe【俺と神様シリーズ】

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日毎の糧

ウクライナ

今朝、メールが来てウクライナのために断食祈祷をしようと誘われた。ウクライナの状況が気になって仕方がない。ある日突然国が窮地に立たされ、昨日までの平和が戦争に変わり、近しい関係の知人友人親族肉親が敵国の人になってしまうことの絶望感を考えると本当に悲しい気持ちになる。神様は何故このような状況を許されるのだろうか。自分が所属するキリスト教会の信者さんもウクライナやロシアに多くいらっしゃる。その方々のために、全ての方々のために祈らなくてはいけない。プーチン大統領が侵攻の正当性を主張する映像を観たが目つきが違っているようにも感じた。サタンに心を奪われてしまっているようにも見える。ロシアに対する制裁と言いながら平和的な解決を求める国の指導者たちは全面戦争にならないように気を使っているがそれが「結局何もできない」と思い込ませてしまう。そして中国や北朝鮮など今まで制裁を恐れてある一線を超えなかった国々が何か行動を起こすようになるかもしれない。そうなれば台湾の問題始め尖閣問題などが蒸し返され沖縄も無傷ではいられなくなる気がしてとても心配である。日本も近い将来戦争をする国になっていないことを祈るばかりである。今まで戦争は「対岸の火事」のように感じていたが、ウクライナ問題は日本を巻き込む戦争に発展する可能性がある。とにかく神様に助けていただきたい。

日ごとの糧

御言葉に支えられ、神様が共にいてくださることを確信しながらもその気持ちがずっと持続するわけでは無い。今日もいつものことだが妻からの攻撃が止まらない。神様を信頼しながらもどんどん力がなくなって行くことを感じている。朝から始まった攻撃は夕方になっても止まらない。仕方ないのだが、それにしても昨日までの神様に対する信仰はどこに行ってしまったのかと自分の不信仰に失望する。上がったり下がったりの信仰ではなく平安で安定した信仰を持たせていただきたい。

教会から帰って来ていくつかのオンライン礼拝を視聴していたが、とても大切なことをたくさん教えていただいた。エジプトでの奴隷生活から真の自由を得るために約束の地カナンを目指していたイスラエル民族。100万人を超える、人々の大移動である。中には200万人と言う説もあるので長野県民が全員で移動するような大所帯だったのかもしれない。彼らには食べ物がなかった。それが必要なことは、出エジプトを計画した神様は当然ご存知であった。そして彼らに毎日同じ食物である「マナ」を与えられた。安息日以外は毎朝それが天から降ってくる。彼らは毎日天から降ってくる糧で生活することができた。出エジプトから40年間、毎日である。

同じである。昨日の確信はやがて消えてしまう。だから、毎日御言葉をいただき「神様が共にいてくださる」ことを確信しなくては今日を生きることはできない。そのことを忘れると神様は色々な形で「今日の糧を集めましたか?」と質問してくださる。大体は良くないこと、落ち込むこと、がっかりすることを通して教えてくださる。日毎の糧を集めることの大切さを教えていただいた安息日だった。

2022年2月26日 安息日礼拝〈ライブ〉

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最高のタイミング

仕事が休みなので久しぶりにゆっくり過ごすことができた。確定申告をしに役場に行ったが医療控除を受けた方が良い気がして再度資料を作るため今日申告するのをやめた。実は今朝、とても嬉しいことがあった。以前から何度か投稿しているAさんが大学に合格したのだ。今日は全国的に国立大学の二次試験(前期日程)が行われたが知人にも受験者がいるので祈っていた。その矢先、午前9時にAさんから電話があった。看護大学を受験していたAさんからである。実は彼女、高得点で一次試験を合格するも、落ちるはずのない二次試験で不合格となった。不合格を知って泣きながら電話をかけてきたのが昨日のことのように思い出される。どうしたら良いのか自分にも分からなかったが、冷静になって彼女に行くつかの提案をした。まず、この時の不合格の意味を考えてみた。

①看護の道も受験した大学も神様の御心であったがタイミングが今ではなかった

②看護の道は神様の御心だったが違う大学を神様は考えておられた

③看護の道が神様の御心ではなかった

④それ以外

この4つのどれかだから、まず①だと考えて同じ大学の二次募集を受けてみるのはどうか、と提案してみた。そして②の可能性もあるので別の大学も視野に入れ再度受験対策を練り直した。正直なことを言うと、この時点で①の可能性は低いと思っていた。何故なら、二次募集で合格する可能性は極めて低いからだ。実際今回の合格者も3名だけだった。不信仰な自分の気持ちは②に向いていた。即ち他の看護大学に合格すること。しかし神様は①の道を示してくださった。不可能に近い確率しかない超狭き門を開いてくださった。

タイミング

1次募集で合格できればあそこまで落ち込むこともなかった。実際、不合格後のやりとりが終わってからしばらく連絡が途絶えてしまった。Aさんはかなり落ち込んでいたので不安になった。彼女の生活をずっと面倒見てくれていたNorikoさんもかなり心配してくれた。その後気持ちを切り替えて今まで通り数学の質問をしてくれていたが、気丈に振る舞っていたもののかなり落ち込んでいた。一次で合格していたらここまで落ち込まなくて済んだのに、とつくづく思った。が、今日の合格を知って「やはり二次で合格する必要があった」ことを痛感した。看護大学に入れば勉強も大変だし、彼女の場合は健康の心配もある。これからが本当に大変なのだ。だから毎日神様が支えて下さらないと学生生活もままならない。もしも一次募集で合格していたら、彼女は自分の実力で合格したのだから大学生活の辛さも実力と努力で乗り切るようになっていたかも知れない。しかし、全くと言って良いほど合格の可能性が無い二次募集で受かれば、「これは神様が働いている」と分かる。神様はそこまで考えて合格前のレッスンをされていたのかと思うと感動で涙が溢れてくる。

一瞬で

悪い例であるが、ロシアのウクライナ侵攻(侵略?)は突然起こった。勿論ロシア側も思いつきでやっているわけではなくそれなりの計算があってのことだと思うが、裏事情を知らない自分には文字通り「ある日突然」、の出来事である。コロナの対応で政府の方針が1日で全く変わってしまう状況をこの2年間で見てきた。同様に、明日も同じ状況が続くと思っている矢先に突然事態が変わることがある。終末時代の福音宣教の業もそのような感じになる気がしている。ある日突然、に。神様が大鉈を振るう時は間も無く、である。

15 Jun Ochiai 【俺と神様シリーズ】

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人工透析

ある患者さん

今朝、ある透析患者さんが亡くなられたことを知った。自分が送迎をしている時に担当した患者さんである。元々は平川市に自宅がありそこに迎えに行っていた。月、水、金が透析の日で平川までの送り迎えをしていた。夏前に体調を崩し当院に入院し2ヶ月ほどで退院したが、ひとり暮らしが大変なので系列の介護施設に入居した。黒石にある施設だが、その後施設への送迎となった。ずいぶん前だが、事故渋滞に巻き込まれ迎えの時間が少し遅れたことがあった。烈火の如く叱られ顔を見ただけで文句を言われるようになった。80代の方とはいえ結構迫力がある怒り方をする。何度も謝罪したがその後機嫌がなおることもなく叱られ続けた。苦手意識を持ちながらも送迎の担当は変えられないのでそのまま担当していた。足元もおぼつかないので体を支えたら殴りかかってきたこともあった。悲しかったし辛かったが、人工透析の治療を受ける方の気持ちを理解していない自分が悪いのだと思い忍耐した。1週間ほど前に、透析室のドアが少しだけ開いていたので、この患者さんの姿を見かけた。今は送迎の仕事をしていないので全く顔をあわせることはないが、ずっと気になっている方だった。この方は送迎車に乗るまでのわずかな距離を歩くことができないので当院の車椅子を使う。この車椅子がしばらく前にパンクしていたようで、自分が気づいた時にはパンクした状態で患者さんが乗っていた。すぐに材料を調達してパンクの修理をした。自転車やバイクのパンク程度はいつも自分で直していたので、ましてや車椅子はチェーンが無いからすごく簡単に直せる。この患者さんに少しでも喜んでもらえるように、と思ってしたことだったが結局この患者さんは修理した車椅子に乗ることもなく今朝亡くなられた。

この医院で働くようになってまだ1年が経たないが何人もの方が亡くなっている。その中でも自分が送迎で担当した方が3名亡くなっている。今まで人が亡くなる場所で仕事をしていなかったので、改めて病院勤務の現実を突きつけられた気がする。そして、自分に攻撃的だった患者さんに寄り添えなかったことを申し訳なく思った。

人工透析

透析治療について何となく知っていたつもりだったが、この医院で働くようになってその実態を少しだけ理解するようになった。透析治療は大きく分けて2種類ある。まず「血液透析」。透析患者さんのほとんどがこの方式で治療を受けている。透析に要する時間は人によって3時間、あるいは4時間である。その間ずっとベッドで過ごすためオムツを使用することが殆どである。大量の血液を体外に出して濾過するため「シャント」なるものをつくる手術をする。要するに動脈と静脈をくっつけてしまう手術である。治療前には必ず体重測定を測定しそれに応じてその日のペースが決まる。体重が増えることはよく無いらしい。なので「月、水、金」に治療を受ける患者さんは金曜日の治療後に土日が入るため体重変化が起こりやすく気を使うとのことだった。一方、腹膜透析という治療法もある。当院では僅かな患者さんしかこの治療をしていない。毎日長時間かけて行うので体への負担も比較的軽い。それでも毎日行うので大変だと思う。実は自分も肝臓と腎臓の調子が悪く投薬治療を20年ほど前から行っている。もしかしたら「多発性のう胞腎」では無いかと疑っている。ただこれが遺伝的なものということなので違う気もするが・・・。

それぞれの重荷

人が抱える重荷というのはそれぞれ違う。家庭的、或いはその他の外的原因で背負わされた重荷もあれば自分自身の性格や行動パターン、思考回路などによって負っているものもあるだろう。それぞれに違うが、キリスト教の世界ではその状況が起こることを神様は許されていると考える。神様がそうしたくてしているわけでは無いが、その状況をサタン(悪魔)が引き起こそうとする時にそれを許されるのだ。だから神様の許可なく勝手に試練に追いやられることはない。全ては神様がご存知の中で行われていることである。そう考えると少し安心する。「そうか、神様は分かってくれているんだ」という気持ちになるからだ。

昨晩、夜中に起きてしまい少し本を読んでいた。自分にとってはとても感動する内容が書かれており励まされた。

例によって女性クリスチャンのE.G.Whiteという方の著書「国と指導者」という本からの抜粋である。

「主はつむじ風の中からヨブに答えられた」(同 38:1)。そしてそのしもべに、神の力の勢いをあらわされた。ヨブは創造主のお姿を拝見したときに、自分自身を忌み嫌って、ちり灰の中で悔い改めた。その時に主は、彼に豊かな祝福を与え、彼の最後の年月を、彼の生涯の最良のものとすることがおできになったのである。

希望と勇気は、神に完全な奉仕をするために、ぜひ必要なものである。 これらは信仰の実である。神はご自分のしもべたちが試練に遭った時に必要な力を、豊かに彼らに与えることがおできになる。そしてそうしようと望んでおられるのである。神の働きに対する敵の策略は、よく計画され確立しているように見えるであろう。しかし神は、これらの計画の最も強力なものでも、覆すことがおできである。そして神はしもべたちの信仰が十分に試めされたことをごらんになる時に、神ご自身の時と方法においてこれをなさるのである。

気落ちしている者に対して、信頼できる救済策がある。それは信仰と祈りと行いである。信仰と活動は、日毎に増大する確信と満足とを与える。あなたは不吉な予感に恐れを感じ、失望落胆に陥ろうとしているであろうか。一見絶望的で、最悪の事態にあっても恐れてはならない。神を信じよう。神はあなたの必要を知っておられる。神はすべての力を持っておられる。神の無限の愛と憐れみは、消耗することがない。神はその約束をなし遂げられないのではないかと恐れてはならない。神は永遠の真理である。神は、神を愛する人々と結ばれた契約を変更なさらない。 そして神は、忠実なしもべたちが必要とするだけの能力をお与えになる。
国と指導者 電子版 p104

12 Jayson Tsuchiya 【俺と神様シリーズ】

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1年が経ち

今日の出来事

一昨日からかなり気温が下がり吹雪くことが多くなった。数日穏やかな日が続いていたので「もうすぐ春なのかな」などと呑気に考えていたら突然の大雪。今までに無いほどの激しい降りに恐怖を感じるほどである。昨晩というか今日未明も2時ごろから4時ごろまで除雪車が一生懸命働いてくれていた。おかげで殆ど眠れないまま朝を迎えてしまった。八戸の方(太平洋側)で大雪が降るとそのシーズンの雪は終わると言われた。また「えんぶり(八戸)」が行われるとそのシーズンの雪は終わるとも言われた。何れにしても春はもう直ぐだ。花粉症の自分は春が苦手だが、今年ほど春を待ち焦がれたことも無いと思う。春というより雪が終わって欲しい。もう一生分の雪を経験したので十分である。

大雪の中、昨年のことを思い出していた。2月23日は特に印象深く覚えている日である。色々なことが重なり憔悴しきっていたあの頃。死ぬまでに一度は乗りたいと思っていたバイクがあるのだが免許取得のために2021年後半から教習所に通っていた。目も悪くなりバランス感覚も衰えてきたので今更バイクでも無いのだが、とにかく「死」が近いところにあったのでどうしても乗りたくなってしまった。苦手だったのが一本橋。幅30cm、長さ15mの鉄板の上を7秒以上で通過しないといけない。これが本当にできなかった。自分以外の教習生で一本橋で苦労している人を見たことがない。自分だけ取り残されてしまった。要領は分かっている。しかし、橋の直前に来ると頭の中が真っ白になってしまう。一本橋のずっと先に「止まれ」の標識がある。そこを見ながら、ニーグリップを意識して、ハンドルを小刻みに動かしながら、である。頭では分かっているがそれができない。初めから乗れない(一本橋は5cmほど高く設置してある)ことも珍しく無い。成功確率は10%未満。しかも7秒以上で通れたことは殆ど無かった。この一本橋がある以上絶対に合格できないと諦めムードで迎えた卒業検定日。その日の様子が投稿されていた

あれから1年

そんな神様のお守りを痛感していた矢先、次々ととんでも無いことが起こった。この時期はまだ復職の可能性があると思っていた。が、当時の院長から突然の解雇を言い渡された。どうしたら良いのか分からないまま、殆ど生きることを諦めていた。仕事も住むところも無い。「これ以上、落ちることはないだろう」と高を括っていたがとんでもない。更に悪い方に、底なし沼のように落ちていく。結局何の希望もなく、ただ死なないために青森に来てしまった。知り合いもなく、仕事にも慣れずただ寂しさと虚しさそして希望の持てない状況の中で過ごしてきた。1年前、まさか自分が青森で教育以外の仕事をしているとは想像できなかった。辛いことが多かったけど、しかし神様との関係や自分の気持ちに少し変化があったことにも気づいている。文字通り「どん底」に突き落とされたことで自分の無価値なことがよく理解できた。不十分だと思うが、それでも謙遜ということを学ばせていただいている。そして、神様が共にいてくださることをより強く確信できるようになった。決して状況は良い方向に向かっているとは言えないけれど、現状を越えたところで働かれる神様の力と愛を信じている。そして、今までとは違った意味で「死」を意識するようになった。パウロが言っているように

わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。
ピリピ人への手紙1:21

と思えるようになった。今はこの命を神様にもう一度使っていただきたい、自分の死に場所に導いて欲しいという思いでいっぱいである。それが将来ある子どもたちと過ごす教育の場であれば理想であるがそうでなくても、その場所で「神様はあなたを決して離れません」と言い続ける人になりたいと思っている。

僅か1年。されど1年。神様は苦しみの中で、はっきりと自分のその御姿を表してくださった。

8 Shishin Miyagi 【俺と神様シリーズ】

 

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大学時代

友人からの電話

昨日、大学時代の友人から電話があった。数年前にも一度連絡があったが今は年賀状だけの付き合いになってしまっている。この友人は大学生になってすぐに仲良くなった5人組のひとりである。やすくん、という。最初にあった時はアイパー(といってもわからない人が多いだろうが)をかけていて少し怖そうな印象があったが、実際にはとても思いやり深い人で、定規で引いたような文字を書くのが印象深かった。4年生の研究室ではこの5人組が全員バラバラになってしまったが週に1度は必ず時間を決めて学食で会っていた。数年前にも少しだけ近況を報告しあったが、あまり時間がなかったのでその時は十分に話せなかった。しかし、昨日は1時間以上あったのでかなり深い内容まで話せた。お互い、大学時代の友人で近況を知っている人のことを共有しあったが、「みんな、生きているかな?」と会話の端々に言ってしまい卒業してから35年という時間が過ぎたことを実感させられた。

やすくんの話から少しずつ自分の大学生活が思い出されてきた。自分ではかなり思い出を美化していたことに気づいた。「なべちゃんは2年の頃、教会とアルバイトでよく大学休んでいたよね。それと途中で帰ることもあったよね」と言われた。自分ではかなり真面目に大学に通っていると思っていたが確かに土曜日は毎週休んでいたしアルバイトの方が忙しくなった2年以降は授業を1/3ぎりぎりまで欠席していた科目があったことを思い出した。でも仲間がいつもノートを貸してくれたり試験範囲を教えてくれたり、実際に勉強を教えてくれて助けてくれた。物理や数学、その他自然科学系の科目は一度でも休めば授業についていけなくなるが、文系科目や一般教養は結構休んでいた。全然真面目ではなかったことを思い出させてくれた。

人生

やすくんは大学を卒業して、医療機器メーカーに就職した。自分たちが卒業した頃は就職できないということは絶対にない時代だった。特に理系は強かった。三流大学とはいえ物理学科だったので求人は28社あった。今もそうかもしれないが、当時理系の求人は研究室宛に来ていた。しかも、今では考えられないところからの求人である。今のNTTからも求人がありどうしてもひとりは行かないといけないということで、教員志望の自分以外でくじを引いていたのを記憶している。しかも負けた人がNTTに行くというおよそ考えられないくじである。やすくんも大手医療器メーカーに就職するも、その年の10月にお父様を亡くされた。就職してすぐに末期の胃がんであることを知らされ、治療の甲斐もなく半年後に亡くなられたそうだ。まだ55歳という若さである。それから、お母さんの面倒をみる生活が始まった。結婚してからも実家に住みお母さんを助けた。今も奥さんと娘さん、そしてお母様の4人で暮らしている。「まだ社会の辛さが分からない時期だったから、父が亡くなって本当に途方に暮れたんだよ」と寂しそうに、懐かしそうに言った。

その後、仕事も順調で一人娘のお嬢さんも成長し看護師の奥さんと働いて不自由ない生活を送っていたが、突然うつ病になったという。最初は一過性のものだと思っていたがなかなか改善されず、ついに病院に行った時にはかなり重いレベルとの診断を受けた。それでも持ち前の明るさと、家族に心配をかけまいとする責任感で頑張っていたがついにどうにもできなくなってしまった。大手医療器メーカーを退職し別の職場で正規雇用ではない形で仕事をした。が、結局それも1年ぐらいで続けられなくなり、今は奥さんに働いてもらい自分はお母さんの面倒を見ながら家事をする所謂主夫として頑張っている。

Never,Never,Never,Never,Never

久しぶりの電話も1時間ちょっと話して終わってしまった。また連絡することを約束して電話を切ったのだが、やすくんは自分がクリスチャンであることを知っているのに何故自分は電話口で祈らなかったのだろう。もしかしたら、やすくんは祈ってもらおうとして電話をしてくれたのではないか。それなのに自分は何もしないで電話を終えてしまった。そんなことを考え自己嫌悪に陥った。しばらくしてから、今度は自分の方から電話をしてみよう。LINEとかメールもあるかもしれないけど、自分たち昭和X世代はやはり電話と手紙である。

先日、人生について深く考えさせられた。この先自分の人生をどのようにしたいのか、どのようにしていただきたいのかを考えた。結局行き着いたところが、「神様はあなたと共にいて、どのような時も決してあなたから離れることはありません」と言いながら仕事をしたい、そんなことを言う仕事をしたい、という生き方だった。その対象が、生徒でありその現場が教育の現場であれば尚嬉しいが神様のご計画は分からない。今度やすくんにもそんなことを話してみようと思う。

7 Yuzuru Ito【俺と神様シリーズ】

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夢見る人

Dreamer

数日前に、担任したある卒業生から連絡があった。頻繁というほどでもないが週に1度ぐらいのペースでお互いの近況を報告し合い、神様がどのような方であるかを意見交換する。今回の連絡で彼女がテレビに出演するので観て欲しいと言われた。テレビ東京の番組とのことだったので、青森で視聴できるか調べてみる必要があった。が、あらゆる手段を講じて何としても観ることを約束した。テレビ東京といえば、自分が生まれた頃に開局した放送局であり発足当時は「東京12チャンネル」と言われていた。今とはチャンネルの構成が違うだろうが、当時東京は1チャンネルがNHK、3チャンネルがNHK教育、4チャンネルが日本テレビ、6チャンネルがTBS、8チャンネルがフジテレビ、10チャンネルがテレビ朝日、そして12チャンネルが「東京12チャンネル」、所謂テレビ東京だった。それぞれの放送局に個性があったが12チャンネルは比較的マイナーチャンネルだったように記憶している。しかし現在は大ヒット番組を多く生み出している。そのテレビ東京が「Dreamer Z」なる番組を作っている。木梨憲武さんやExile Hiroさんなどが関わる番組で、Z世代からオーディションで選ばれた人をヒーロー、ヒロインに仕立てドラマを作るという番組。そのドラマの内容自体もすごいのだと思うが、そこに至るプロセスでZ世代が自分の夢を叶えるためにオーディションで自分をアピールするのがこの番組の醍醐味である。華々しい女優、男優への道を歩んできた人がエントリーするわけではない。今までの人生で多くの挫折を味わい苦しんだ人が、自分を変えようとこのオーディションにチャレンジしてくる。だからそれぞれの人生で苦しんだ経験を話すので、共感して思わずこちらも涙を流してしまう。実はこのオーディションに、かつて担任した「清水美晴さん」がエントリーしたのである。数千人の中で50人が選ばれ、更にその中から12人が選ばれる。そして今回その12人に選ばれた様子が番組として放送されたのだ。

Z世代

番組名の「Dreamer」は分かるがそのあとにつく「Z」の意味がわからず調べてみた。

196年代から1970年代生まれの人をX世代というらしい。だから自分はX世代である。次がY世代、通称ミレニアム世代とも言われるようだが1980年代から90年代に生まれた人を指す。そしてその後がZ世代。1990年代後半から2000年代に生まれて人の総称。この世代はデジタル技術が発展した社会に誕生しインターネットやオンラインの生活に慣れ親しんでいる。ネット検索で情報収集し主なコミュニケーション手段がSNSであることもこの世代の特徴と言える。警戒心が強く、デジタルの世界に馴染んでいる分リアルな体験に対する憧れも強い、と言われている。この世代の人の中から人を発掘してリアルな夢を実現させようとするのが狙いらしい。実際には、清水美晴さんは間違いなくZ世代であるが、それ以外の世代の方もいるので決してZ世代に限定しているわけではない。

美晴(みはる)さんのこと

彼女が高校3年の時に担任をさせていただいた。それまで12年ほど教頭だったので担任をしたいという気持ちがあったが、その反面その責務を離れる寂しも感じていた。少し落ち込むこともあった時期にこの学年、そして美晴さんを受け持つことができたのは本当に幸せだった。彼女は今でこそ「先生」と呼んでくれるが、生徒だった時は「ひろかず」と自分のファーストネームを呼び捨てにしていた。悪意があるわけではない。親しみを込めてそう呼んでくれていたのだが彼女の過去を知った時に、それを注意することはできなかった。毎朝ホームルームの後に「ひろかず~」と言ってくだらないことを話しかけてくる。そうやって距離感を確かめていないと不安になってしまうのだ。とにかく過ぎるくらい明るくて思いやり深く信仰心篤く模範的な生徒である。多くの重責を任せられていたが決して弱音を吐かず最後まで責任を果たし不撓不屈の精神も随所に見られた。明るさの中には決して見られないが、かなり長い期間学校に通うことができなかった。小学生の頃である。そのような過去を微塵も感じさせない美晴さんを見ていると「人は変われる」ことを確信できた。

本来作曲の方向に進もうと思っていたが諸事情でその道が閉ざされた。その時に胸の内を話してくれたが「でも神様がもっと良い道を与えてくれるよね」と自分に言っていた。わたしは美晴さんに何かをアドバイスするわけでもなくただ彼女の話を聴くだけだった。それから程なくして、彼女が「ミュージカルをやりたい」と言い始めたので、一緒に学校を探した。もともとピアノの実力はピアノ科を受験できるほどだったので問題はなく、そのほかの音楽系の受験科目も問題ない実力を持っていた。コールユーブンゲン、聴音、新曲視唱等々同様であった。あとはダンスや表現が問題だったが、もともとセンスがあるので大学の講習会などを受講することですぐに体得することができた。結局都内の某音大のミュージカルコースに合格し現在もそこで学んでいる。1年ほど前には、自分のおじいさんが苦しい体験の中でイエスキリストと出会ったことを自ら脚本をかき仲間と一緒にミュージカル化して色々な教会で公演した。多くの能力に恵まれている美晴さんだが、彼女は高校時代と全く変わらず「ミュージカルや自分の演技を通してイエス様のことを伝えたい」と今も言っている。

昨日、放送を観たあとで美晴さんと話していたが、今回のオーディションで女優として抜擢されることも素晴らしいけれど一緒にオーディションを受けた人たち全員にイエス様を伝えられたらどれだけ良いだろうね、と言ってみた。あそこに集まる人たちは何かしら心に闇を抱えている人たちである。女優になって夢が叶えば幸せになれるかもしれないが、しかしその幸せもいつか過去の栄光になってしまう。でもイエス様に出会うことができればそれは一生続く幸福となる。そんなことを話していたら、美晴さんは既にそのはたらきをはじめているとのことだった。流石である。

視聴方法

結局自分が青森で「テレビ東京」の番組をどのようにして観たか、といえばTVerを使わせていただいただけのことである。あと数日はこの番組が視聴できるのではないかと思うのでもし興味があったら観ていただきたい。

PCであればここにアクセスし2月20日 #16をクリックしていただければ視聴できる(美晴さんのコーナーは後半、23:20から)。緑色の目立つジャージで出ているのが清水美晴さんである。

ちなみに彼女のお母様が証をされている。こちらも併せて視聴していただけると嬉しい。

第7章 Minako Shimizu【私と神様】キリストへの道「弟子」

 

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やめよ

詩篇51篇

今朝は普段より少し早めに目が覚めた。しばらくボーッとしてから少し頭が冴えてきたところで聖書通読に入った。今日の通読箇所は詩篇43~52篇。ここも自分の好きな聖句がたくさんあるのでワクワクしながら読み進めていた。

今日読んだ殆どのところが今までとは違いコラの子孫たちによってうたわれた詩である。モーセやアロンに反逆したコラの子孫たちの中で滅ぼされなかった者たち、神様に忠誠を誓った人たちがこのような形で用いられることは大きな励ましである。

勿論ダビデも頑張っている。51篇は特に好きなところであり読んでいるだけで励まされる。

1神よ、あなたのいつくしみによって、
わたしをあわれみ、
あなたの豊かなあわれみによって、
わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
2わたしの不義をことごとく洗い去り、
わたしの罪からわたしを清めてください。
3わたしは自分のとがを知っています。
わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
4わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、
あなたの前に悪い事を行いました。
それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、
あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
5見よ、わたしは不義のなかに生れました。
わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
6見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。
それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
7ヒソプをもって、わたしを清めてください、
わたしは清くなるでしょう。
わたしを洗ってください、
わたしは雪よりも白くなるでしょう。
詩篇51:1-7

詩篇46篇

今朝、聖書通読をしている時に非常に不思議な体験をした。恐らく殆どの人が「偶然」だと一蹴してしまうことだと思うが、今の自分には非常に印象的な出来事であった。詩篇46篇を読んでいる時、正確には46篇10節を読んでいる時にYouVersionから「今日の御言葉」が届いた。一瞬スマホに目をやり聖句を確認したところ

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。
詩篇46:10(口語訳)

一瞬「え、?』と思った。まさに今読んでいる場所が今日の御言葉として与えられたのだ。単なる偶然かもしれないが、自分はこれを神様からの特別なメッセージとして受け止めた。

やめよ

聖書通読が終わりノートも執り終えたところで、少し気になっていることがあったので調べてみた。口語訳の「静まって」という言葉が違う表現になっている訳があったように記憶していたのでそれが気になり調べてみた。やはりそうだ。新改訳聖書が違う表現をしていた。

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」
詩篇46:10(新改訳2017)

昔から「静まって」で暗唱しているから「やめよ」という表現には馴染みを感じないが、それでも意味深い言葉だと思った。「やめよ」。いったい何をやめなさいと命じておられるのか。源語を読む力がないので元々の表現は分からないが英語(N.I.V.)では”Be still”となっていた。そのまま、じっとしていなさい、という意味なのだとすると「やめよ」は「今していることをただちにやめよ」となるのだろうか。今していること、ってなんだろう?その時していたのは聖書通読だからそれをやめよ、という意味でないことは分かる。いくつか思い当たることがあった。不信仰な思いである。「この御言葉は、自分に対する約束ではない」「神様は自分を祈りに導き、その最後で『やっぱりお前の祈りにはこたえられない』と突き放されるのではないか」「祈っても結果は変わらないのではないか」などの不信仰な思いである。また今献げている祈りがあまりにも現実から遠ざかっており、これが成就するのはいくら神様でも難しいのではないか。とも思ってしまう。それに対して「やめよ」と言われているのだろうか。あるいは、難しい問題や、それに対する祈りに自分なりの答えを作ってしまうことをやめよ、と言われているのかもしれない。

現実を見て不信仰に押し潰されている自分をみて、我慢できず神様は二箇所から全く同時に一番大切な御言葉をくださったのだと思う。

46篇解説

詩篇46篇について女性クリスチャンのE.G.Whiteという方が次のような言葉を残している。

「さあ、あなたがたは、人を避けて」とイエスはわれわれに命じられる(マルコ 6:31 )。イエスのみことばに留意する時、われわれはもっと強く、もっと役立つ者となる。弟子たちは、イエスを求めて、すべてのことをイエスに語った。するとイエスは、彼らを力づけ、彼らに教えられた。もしきょうわれわれが時間をとってイエスのみもとに行き、われわれの必要をイエスに告げるならば、われわれは失望させられないであろう。主は、われわれの右側にいて助けてくださる。われわれは、もっと単純になり、もっとイエスに信頼し、もっとイエスを信用する必要がある。「大能の神、とこしえの父、平和の君」という名のおかた、「まつりごとはその肩にあり」といわれているおかたは、「霊妙なる議士」である。われわれは、そのお方に知恵を求めるように招かれているのである。彼は「とがめもせずに惜しみなくすべての人に与え」てくださる(イザヤ 9:6、ヤコブ 1:5 )。神の訓練を受けているすべての者のうちには、世とその慣例や習慣に一致しない生活があらわされる。だれでもみな、神のみこころを知るために、個人的な経験をする必要がある。われわれは、神が心に語られるのを個人的にきかねばならない。ほかの声がみな沈黙して、静けさのうちに神の前に待つ時、魂の静寂は神のみ声を一層明らかにする。神は、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」とわれわれに命じておられる (詩篇 46:10 )。ここにだけ真の休息が見出される。これこそ神のために働くすべての者にとって効果的な準備である。あわただしい群衆の中にあって、人生の激しい活動の緊張のうちにあって、このように活気づけられた魂は、光と平和の雰囲気にとりかこまれる。その生活はかぐわしい香りを放ち、人々の心に達する神の力をあらわすのである。
各時代の希望 電子版 P372,373

神様に祈り、御言葉を大切にしているつもりでもまだまだ本気で神様を信じきれていないのかもしれない。反省させられる良い機会となった。

1 Yuki Miura【俺と神様】

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長男の成長

いよいよ長男の卒業式まで3週間となった。卒業前に入試もあるので今は勉強に力を入れているが親としては中学校で学ぶべき大切なことを見落とさないでほしいと願い祈る毎日である。本音を言えば長男に限らず次男も成長しないでほしいと思っている。成長するということが何故かとても寂しく感じられる。成長することで親から離れていく気がして寂しい。しかし現実的にはいつまでも一緒にいてあげられるわけではないので、一人で生きていけるように力をつけてほしいとも思っている。

昼頃、ちょうど礼拝が終わった頃に妻からメールが届いた。動画が送られてきた。昨日、長男が全校生徒の前で証をしたのでその動画を送ってくれた。長男だけが証をしているのではなく、同級生が全員証しする「卒業祈祷週」なるものがこの週に行われその一人として話しただけである。その動画を観たが非常に考えさせられる内容だった。またその内容から長男の信仰的な苦悶や成長を感じることができた。

証し

長男は次のようなことを話していた。

日本人は非常に優秀な民族と言われることが多いがその中でも道徳的な意識の高さは世界に誇れるという。公共施設の清潔、遺失物が見つかる確率の高さなど。W杯などで日本人が負けた試合にも拘わらず観客席を掃除して帰った姿には世界中に称賛が集まった。しかしその反面、日本人は自分を主張することが少なく自分がそう思っていなくても周りに合わせる生き方を学んできた。なので、人と争うことを好まず人と違うことをしたがらない。一見良いことに思えるが、真の自分で付き合わない友人関係が本当の友情と言えるのかは疑問である。自分は卒業を前にして真の友を得ることのできた中学生活に感謝している。

自分はミッションスクールの小学校からこの中学校に入学した。それまで求めていたイエス様に出会えた気がした。そして中学1年の夏前にバプテスマを受けた。その後、お祈りも聖書を読むことも毎日しており順調に生活していたが、いくつかの問題が起こるようになり、現在はその信仰も少し揺らいでいる。中2の時に少し問題がありしばらく心が疲れそれが体調に現れるようになった。ストレス性の不調ということで少し休んだが4,5日で回復した。そして普段の生活に戻れたが、3年になって更に大きな問題に直面した。人が信じられなくなり神様にも祈りはしていたが本当に存在するのかすら疑うようになっていた。そしてある日、あまりにもいろいろなことが重なりその現実に耐えられなくなり母に電話をしたところ、いつもと違う様子に気づいてすぐに帰ってくるように言われた。そして久しぶりに母と弟の待つ沖縄に戻ったが、心が回復するまでに1ヶ月という時間がかかった。それから学校に戻り今まで以上に一生懸命祈りようになったが、それまで孤独の中にいたと思っていたことが誤りであることに気づいた。母がくれる電話、父が電話や手紙でくれる御言葉や祈り、また友人の支えや励まし等々。自分の本音をそのまま受け止めてくれる人がいることに気づき少しずつ自分を取り戻すことができるようになっていた。自分は今、100%の確信をもって神様がいると言い切れないが自分のこの状態を神様にぶつけ「神様がいるなら、その存在を示してください」と祈っている。神様に対して本音で向き合わなければ、本当の関係というものも結べない気がしている。人から言われてことを鵜呑みにするのではなく、自分の本音を神様にぶつけ真の神様との関係を確率できるようにしたい。元々自分を表現するのが苦手な自分だが神様に対しては常にそのままの姿でいたいと思っている。

そのままの姿で

長男のメッセージから多くのことを学ばせてもらった。

自分はありのままの姿で神様の前にでているだろうか、と考えさせられた。罪を包み隠さず言い表すことができているだろうか。自分が悪いことを自覚しているのに、人の責任に言及して祈ることはないだろうか等々考えさせられた。神様はそのままの姿で「わたしのもとに来なさい」と招いてくださっている。その招きに心から応じたいものである。

2 Satoshi Sakaguchi【俺と神様シリーズ】

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