21300

人生

今、職員の給与や有給などのデータを管理するシステムを作ろうとしている。既製品もあるがお金がないので自分たちにあったものを作ろうとしている。知識のある方がやればなんでもないことなのだが、自分のような素人が作るので時間がかかる。また良いものができるとも思えないので申し訳なく思っている。勤続年数を算出する関数を使って入職からの経過時間を計算していたが、自分の計算をするときに少し式を変えてみた。生まれてから今日までの生きた日数を計算したら23100日だった。多いのか少ないのかよくわからなかったので、日本人男性の平均寿命である84歳を軸に比較してみた。自分が84歳になる誕生日に人生を終える計算をすると生きた日数は30681日になる。30681日のうち21300日が経過した。21300/30681=0.694、つまり84歳の誕生日までを寿命とするならその70%を既に消化してしまったことになる。小学時代のことを昨日のことのように思い出せるのだが、随分と時間が経過していた。

将来

この医院で働くようになってから人の命とか寿命について深く考えるようになった。今までの職場では基本的に「人が亡くなる」ことはまずない。正確には教員人生で一度だけあった。これは決して日常的なことではないしあってはならない現場にいた。ところがここにいると先日まで元気にしていた方が急に亡くなったり、送迎で親しくさせていただいていた方がある日突然・・・ということが日常的になってしまっている。毎日思うのは「今日自分の命が終わったら」、ということである。お金のこと、色々な後始末、そして家族に遺す言葉などを準備しないと思っている。先日も同じ職場の方がくも膜下出血で倒れたので決して人ごとではない。できれば自分が84歳の誕生日を迎える前にイエス様には来ていただきたいし、仮にそれがなくても自然災害や戦争などで今のような生活は送ることができなくなっているだろう。

何のために、誰のために

限りある時間をどのように使うか、誰のために使うかは大きなテーマである。

親しい友人が3日ほど前に電話をくれた。新たなチャレンジとして教育伝道を展開すべく教育機関をつくろう、とのお誘いだった。アーメン、である。神様が自分に何を求めていらっしゃるかは慎重かつ熱心に祈り求めて行かなくてはならない。一度は終わった人生である。残りはロスタイムのような30%の時間はやはり神様と家族のために使いたい。できれば伝道、イエス様のことをお伝えする働きをしたい。仲間や卒業生、そして保護者が声をかけてくれるので勇気も出てくるが、エリヤは風の中にも地震や火の中にも神様がいらしゃらないことを経験した。更にその後で細き御声で語りかける神様の声を聴いている。神様が、自分に何をさせようとしておられるのか細き御声を聴くことに専念したい。

9その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。 10彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。 11主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。 12地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。 13エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。 14彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。 15主は彼に言われた、「あなたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき、ダマスコに着いて、ハザエルに油を注ぎ、スリヤの王としなさい。 16またニムシの子エヒウに油を注いでイスラエルの王としなさい。またアベルメホラのシャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者としなさい。 17ハザエルのつるぎをのがれる者をエヒウが殺し、エヒウのつるぎをのがれる者をエリシャが殺すであろう。 18また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」。
列王記上19:9-18

「死後はどうなる?」河原 久牧師

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カバン

工房製

祖父は新潟の庄屋の息子。しかしキリスト教の信仰を持つことを反対され勘当された。行くあてもなくとりあえず東京に出て来たが仕事もなく、仕方がないので浅草でガマ口を作って売っていた。一緒に信仰を持った奥さんがバプテスマ(洗礼)を機に体調を崩しそのまま亡くなってしまった。ふたりの小さな子を抱えながら生活することはとても大変で、それを見兼ねた奥さんの実家が妹を嫁がせてきた。これが自分の祖母である。祖母と祖父の間には8人の子が産まれ父は三男だった。が、次男が早くに亡くなってしまったので父は7人兄姉の2番目として育った。長男が戦争に行ってしまい、体の弱い祖父に代わって一家を支えなくてはならなかった。戦後長男は家に戻ってきたがすぐに「税理士」の資格を取り家を出て行ってしまった。父は教員になるのが夢で中央大学で学び教員免許も取得した。が、家を支える人がいないため教員になることができず祖父と一緒に「がまぐち」を作ることになった。しかし、単価の安い「がまぐち」では家族を養うことができず、独学でハンドバッグ職人に転向した。ハンドバッグを買ってきてそれを丁寧に分解して型紙を作る。その型紙と分解した時の記憶を頼りに同じものを作ることを何度も繰り返し、徐々に人様に買っていただけるハンドバッグを作れるようになった。

自分が小学生の頃は「ピエールカルダン」のハンドバッグをよく作っていた。当時は職人見習いの人を住み込ませてやっていた。時々池袋のデパートに行くと父の作ったハンドバッグが売られていた。とても誇らしかった。自宅が工房なのでいつも家には両親や職人さん、そして祖父母がいた。自分は小さい頃から父の話を聞くのが大好きで仕事場に行っては「何か面白い話をして」といって父にまとわりついていた。

思い出

父は古典落語が好きで特に志ん生(五代目 古今亭志ん生)がお気に入りだった。面白い話のネタがなくなると決まって古典落語を語ってくれる。これが面白かった。その影響もあって、自分も小学生の頃には立派な落語ファンになっていた。やはり自分も志ん生のファンだった。出囃子の「一丁入り」が聞こえると今でも背筋がゾクゾクする。志ん生は「呑む、打つ、買う」特に酒豪で有名だが、面白い話よりも人情話が上手だと思っている。談志のも良いがやはり「芝浜」は志ん生が一番だと思う。また「子別れ」も泣ける。何れにしても落語好きな父の影響を大いに受けて育った。

特に家庭の教育だったわけではないが、ハンドバッグ職人だったので工房には皮革の端切れがたくさんあった。小さい頃から端切れを使って財布や筆箱を作っていた。昔から革製品については既製品をほとんど買ったことがない。今でも実家に帰ればカバンを作ることもある。勿論、かなり下手なので仕上げは父にしてもらう。大人になってからは「吉田カバン」と出会い、自作以外のバッグは全てこれにしている。自分には少し高価だが丈夫で修理をすればいつまでも使える。

誕生日

そんな父が、今日92歳の誕生日を迎えた。少し前に外出用の服と青森の名産米である「青天の霹靂」を送っておいた。それが丁度今日届いたらしく早速お礼の電話があった。少し前までは誕生日にワイシャツやネクタイなどを送っていた。いつも自宅にいる父にとって土曜日に教会に行くことがこの上ない喜びであった。その時に身につけるため、と送っていたが2年ほど前から教会にも行けなくなってしまった。原宿にある東京中央教会が我が家のホームグラウンドだが教会に行く途中で何度か倒れてしまったことがありもう行けなくなってしまった。それでも毎週オンライン礼拝を必ず視聴している。これが楽しみらしい。今まで3度ガンを患い、少し前にも硬膜下血腫で手術をした。それでも頑張っていてくれるので本当にありがたい。両親が元気なうちに、自分も家族みんなで両親に顔を見せに行きたいと切望し毎日それを祈っているが果たして神様はそれを叶えてくださるだろうか。

ヨブのこと

尊敬する、素晴らしい両親に育てられながら、自分だけは上手く育たなかったことを心の底から申し訳ないと思っている。父をみていると旧約聖書に出てくる「ヨブ」という人物を思い出す。ヨブはその試練にスポットが当てられがちな人物であるが、多くの財産を持っている時から非常に敬虔な生き方をしていた。特に「子どもたちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と神様に生贄の献げものをしていた。常に心を神様に向けながらも、思いは子どもたちに向いていた。

1ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。 2彼に男の子七人と女の子三人があり、 3その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。 4そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。 5そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。
ヨブ記1:1-5

自分の父もそうである。母もそうであるが、毎日何度も子どもと孫のために心を注ぎだして祈ってくれている。本当にありがたいし、この祈りによって自分が支えられていることを実感している。ダメ人間、ダメ親父の自分であるが少しでも父のように生きてみたい。父の誕生日にそのようなことを思った。

バイオリン・チェロ「Coming Home」

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なぜ?

人の死

生殺与奪の権は神様にある。だから人の「生き死に」について何か言うことは筋違いであることを十分理解している。理解している上で、やはり腑に落ちないことがある。

今朝、職員礼拝の後ある患者さんが亡くなられたことを知らされた。関連の介護施設に入居されていた方で医院にもよく通院しておられた。少し認知症を疑うところもあったが非常に元気な方だった。送迎で何度も黒石の介護施設の送り迎えをしていたので印象深く覚えている。とにかく、この医院は人が亡くなる。

更に驚いたのは、透析患者さんで自分のことを励まし支えてくださったおばあちゃんがいる。この方は運送会社を経営する社長さんだが小さいながらも熱心に働き、若いうちに亡くされたご主人に代わって家族を守って来られた。まだ70を少し過ぎたばかりの年齢で透析治療を受けていること以外は非常に元気な方である。自分が送迎車を運転していた頃は月水金の朝8:10にご自宅まで迎えに行っていた。車の中では「津軽には慣れたか?」と声をかけてくださり、津軽の名産やリンゴの美味しいところ、雪にが降ったらしなくてはいけないことなどを教えてくださった。本当に元気だったのだが一昨日亡くなったとの連絡を受けた。

自分がこの医院に来てから1年。親しくしていただいた方だけでも13名亡くなっている。勿論、透析患者さんもいるのでその原因などについては良く分からないが、外来が主で19のベッドがある有床診療所として亡くなる方の数はおよそ妥当なのだろうか。妥当というのもとても失礼な表現だが、あまりにも数が多いような気がしている。

コロナ

自分はコロナのワクチンを接種していない。余程のことがない限りこれからも接種しないと思う。ワクチンが「獣の印」などという説もあるがそういうのとは全く関係ない。ただ単に安全性について疑問があることと、「神様に向かうこと以外全員が同じ方向に進むこと」を警戒しているだけである。

しかし、この医院では人が亡くなると「ワクチンを打ったせいだ」と言うのが日常的になっている。ワクチンには反対だけれど、そんなに何人も亡くなるのかな?

ここは看護師さんが少ない医院で3名しかいない。他9名は准看である。准看が悪いわけではない。ただこの医院でアルバイトで入った職員を院長がお金を出して准看の資格を取らせているのである。放射線技師、薬剤師、検査技師はいない。柔道整復師と管理栄養士の資格をもった職員がいるだけだ。透析はスタッフ3名で回しているが2名が准看、ひとりはアルバイトで掃除担当。医師は基本的に関わることはなく具合が悪くなった時だけ対処する。こういう現場で良いのかな?と毎日疑問に思っている。人が亡くなるのは「たまたま」ではなく「必然」のような気がしてならない。やはり親しい方が亡くなるのは特に辛いし、現状を専門的知識のある方にお知らせした方が良い気がしている。現在の透析治療は技術的にも非常に向上していると聞く。殆どの方が寿命まで生きられるとも聞いているので、何かおかしなことが当院で行われていないか心配でならない。内部告発といえばかなり物々しいけれど然るべきところに訴えないといけない気がしている。全くの勘違いであれば自分が訴えられる、或いは自分がこの医院を去るだけで事は済む。しかし黙っていてもしも自分の心配が的中しているのであれば、更に多くの犠牲者を出すことになる。しばらく祈りながら考えてみたい。

聖書研究ガイド22年2期1課

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心のざわめき

なぜか

心が無性にざわつくことがある。平安がなく全てに対して不安を感じる。今朝の聖書通読と祈りの時間は平穏に過ごせていた。だから「晴天の霹靂」とも言えるかもしれない。子どものことで少し妻とやりとりしたが、激しく攻撃されることは無かった。ジャブ程度である。だから何が原因なのかは分からない。ジャブではなくボディーブローだったのか?

うつ病がまだよくなっていないためか。神様を信じているのだからこういう不安な気持ちが無くなれば良いのだがそうはならない。

とにかく祈るしかない。

ことば

今朝与えられた聖書の御言葉が以下のものだった。今日、自分の気持ちが少し下降傾向になることをご存知の神様が予め用意してくださったのだろう。ありがたいことである。

「心をつくして主に信頼せよ、 自分の知識にたよってはならない。 すべての道で主を認めよ、 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
箴言 3:5-6 口語訳

苦難に備える

今朝、職員礼拝で「これからの大惨事に備える」というテーマでお話をさせていただいた。しかし、今備えるべきは「いつも共にいてくださる神様との関係を回復すること」であるという趣旨のメッセージだった。災害に備えて色々なものを準備しながらも、いつも神様に頼り続けることの大切さを忘れてはいけないと思った。神様はどのような時も必ず共にいてくださる。自分が望むような解決やお守りが与えられなかったとしても、それでも神様は共にいてくださる。常に神様に頼ることを忘れてはいけない・

悩みの時の物質的必要のための準備をすることは、聖書に反することであることを、主は、繰り返してわたしに示された。もし聖徒たちが、 自分たちのところ、または畑に、食糧を貯えていたりしても、もし国に戦争、ききん、疫病が起これば、それは暴徒たちに奪い去られ、他人が 畑の作物を刈るようになることを、わたしは見た。それは、われわれが 神に全く信頼する時である。そして神は、われわれをお支えになる。その時に、われわれのパンと水は必ず与えられ、われわれが物に乏しかっ たり、飢えたりすることがないことを、わたしは見た。なぜならば、神は荒野で、われわれのために食卓の用意をすることがおできである。もし必要ならば、彼がエリヤを養われたように、われわれを養うためにからすを送ったり、あるいは、イスラエルのためになさったように、天からマナを降らせることもなさるのである。
初代文集 電子版 p74

この世の波風

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世の終わりに備えて

また

今朝も十勝地方南部で地震があった。今まで北海道の地震はあまり気にならなかったが青森に住むようになり、北海道は圧倒的に近い「隣の県」なのでとても気になるようになった。青森は比較的安全なところだと思っていたがこのところの地震やミサイル騒ぎで心も落ち着かなくなってきた。多くの県で蔓延防止が解除される中青森県はそのまま続行となった。決して安全なところにいるわけではないことを感じているが、一方で「関東よりは安全なのかもしれない」と根拠のない考えを持っている。この時代、どこが安全でどこが危険とは言えない。どこも危険である可能性が高い。

先日の地震、そして戦争や北朝鮮のミサイルなどを受けて少し考えていることがある。もしも、有事の際に自分がいる青森が比較的安全な場所であるならば一人でも多くの人を迎え入れ生活を保証できないか、ということである。現在入院している患者さんのためにも食品や水など一切備蓄していない医院なので危機管理能力など無に等しいところで働いている。だからこそ、被災される方々の役に立てるよう今から準備することが大切だと思っている。目先のこと、自分のやりたいことにしか目を向けられない院長をどうやって説得するか、悩んでしまう。

受け入れるなら

幸か不幸か院長先生名義の土地建物は沢山ある。その中の半分ぐらいは現在使用していない物件である。これらを何とかリフォームして人が住めるように改造できないだろうかと考えている。また、これも院長の道楽のようなことであるがバイオ燃料を作る装置がある。実際これで燃料をつくり冬場の除雪車はこのBDFで動かしている。この燃料を上手に利用して車だけでなく発電機にも利用できたら良いと思っている。

BDFの作り方

実際に自分が作ったわけではないが、除雪車や耕運機を動かすためのバイオ燃料をつくる方法を教えてもらった。実際に経験してみないと自分でできるかどうかは分からないが原理はある程度理解した。

①食用油の廃油50ℓを62℃まで温める(夏場は1時間前後、冬場は2時間半前後)

②メタノール10ℓと苛性ソーダ500gを混ぜメタノール・メトキサイト混合液をつくる

③62℃に温められた廃油にメタノール・メトキサイト混合液を加え40分撹拌する

④30分静置すると粗BDF燃料と粗グリセリンに分離するのでグリセリンを排出する

⑤排出した後、BDF燃料に水と希塩酸50ccを加えBDF燃料を15分洗浄し15分静置、その後排水

⑥新たに水と稀硫酸マグネシウム水溶液50ccを加えBDF燃料内の汚れを取るために15分洗浄、15分静置、排水

⑦更に水洗い15分洗浄、静置15分、排水

⑧BDF燃料を15分温めて水分を飛ばす

⑨その後冷ましてろ過装置に入れてろ過して完成

不透明な世の中なのでどこで何が役立つか分からない。とにかく学べることは学んでおきたい。そして終末時代、どなたかのためになれたら嬉しい。

審判の時には、すべての才能の用途がくわしく調べられる。われわれは、天から貸し与えられた資本をどのよ うに用いたであろうか。主は、来られるときに、ご自分のものを利子とともにお受けになるであろうか。われわ れは、肉体的、精神的、知的に託された力を活用して、神に栄光を帰し、世界に祝福をもたらしたであろうか。 われわれは、時間、筆、声、金銭、影響力などを、どのように用いたであろうか。貧しい人、苦しんでいる人、 孤児や寡婦を助けて、キリストのために何をしてきたであろうか。神はわれわれを、神のみ言葉の保管者となさ った。そしてわれわれは、救いに至る知識を人々に伝えるために、われわれに与えられた光と真理を、どのよう にしてきたであろうか。
各時代の大争闘 下P220

2022年3月26日 「主にある勝利者」 安息日礼拝LIVE配信

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ハラン

2021年3月26日

ちょうど1年前の今日、広島市内で住んでいたアパートを引き払った。2020年4月末に住み慣れた広島の山奥から市内に引っ越した。次男が入院し続けた病院のそばにアパートを借りていた。丹那町というところで、次男のお世話になっていた病院から1km弱の距離である。3月26日は金曜日だった。病院やいつも散歩コースにしていた宇品の海岸やジムのあったイオンモールなどを一回りして市内を後にした。この時、退職の勧告は受けていたがその先には何もなかった。住むところも決まっていないし仕事もない状態である。どこをあたっても全部断られた。今考えると、神様がある方向に導こうとしておられたのだと思う。教員をしていた頃、リップサービスもあったと思うが関連の病院やその他の部門或いは教会外の業者さんから「うちで働いてくれませんか?」と打診されたことがあった。当時、自分は非常に傲慢な人間だったので「自分はどこにいってもやっていける」と思っていた。ところが、自分の状況が変わると、今までオファーをくれていたところが手のひらを返したように他所を向いてしまった。こちらからお願いしても「今コロナで・・・」などと色々な理由をつけて申し訳なさそうに断ってきた。結局青森に行くしか選択肢がなかったのだ。来てすぐに分かった。とんでもないところだということが。ここはまさしくバビロンだと確信し、すぐに脱出したいと心の底から思った。まともなところではない。クリスチャンの仮面を被ってとんでもないことをしている教会員、そして病院長。

あれから1年が経過したが、1年前とは少し状況が変わってきた。

頼るもの

1年前は仕事がなく住むところがなかった。それが自分を焦らせた。しかし、今は住むところがある。借家とはいえ家賃さえ払えば住み続けられる。これは1年前とは全く異なる。また仕事がある。胸を張れるような仕事ではないが、それでも収入があるので子どもの学費を支払うことができる。妻に生活費を送ることもできる。そして何よりも大きいのが、殆ど毎日のように次男と電話で話すことができる。次男との電話はおよそ半年前から始まった。本当に奇跡であった。これらがあるから何とか生活ができる。

今日、教会から帰ってきて他の教会のオンライン礼拝を視聴していたが、ある教会でアブラハムの信仰についてメッセージがなされていた。そしてメッセージの中で「あなたにとってのハランは何ですか?」と問いかけられた。即答はできなかったが、今自分が頼れるものは殆どない。が、1年前に比べたら少しある。やはり仕事、住むところ、そして子どもたちとの交流。神様以外に頼りにしているものといえばこんなところだろうか。
アブラハムはそれまでの安定した生活を捨て75歳でハランを出た。この先、約束の地であるカナンがどのような地なのか全くわからないまま、ただただ神様の招きであるという理由でそれまで頼っていたものを全て投げ出したのである。兄弟であるハラン(人の名前)をカルデアのウルで亡くし、その子であるロトを我が子のように可愛がり世話をしていた。そしてその甥であるロトも一緒にハランを出発したのである。アブラハムにとっては財産はそれほど大切なものでは無かったのか。確かに財産が多くなることで、我が子のように愛した甥のロトとも途中で別れなくてはいけなくなった。それにしても、住むところや仕事がないということは何と不安で惨めなことか。1年前の投稿を読んでその時の心境が今の自分に迫ってきた。

我々は信仰をもって神の前に行き、神は我々のために働いてくださる事を信じて、嘆願しなければならない。熱心な祈りのためにもっと時間をささげなければならない。幼子のように信頼する信仰を持って、天の父の前に行き全ての必要を申し上げるべきである。…「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、我が魂もあなたを慕いあえぐ。」天が与えてくれるはずの豊かな賜物を、もっと深い渇きを持って求める必要がある。
MS38,1905年

あなたの欠乏、喜び、悲しみ、心配、おそれを神の御前に留めておきなさい。・・・主は「いかに慈愛と哀れみに富んだかたであるか」。その愛の心は我々の悲しみを察知なさりそのことを口に出しただけでも同情を示されるのである。・・・我々の平和に関わることで小さすぎて主がお気づきにならないものはない。我々のどんなにくらい経験も、暗すぎておよみになれないと言うことはない。またどんな難問題でも神には解釈できないと言うことはない。
EGwhite Te 104

2022年3月26日 安息日礼拝〈ライブ〉

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間違い

兄弟愛を続けなさい

自分の所属する教会では1年を3ヶ月ずつ4期に分け、1期ごとに違ったテキスト、違ったテーマで聖書の学びをする。1月から始まった2022年度第1期はヘブル人への手紙を学んできた。いよいよ、明日の午後から2期のテキストに入る。今期最後のテーマは「兄弟愛を続けなさい」だった。教会内での分裂や好き嫌いなどの現状が明確に指摘される文章がテキストに載っておりドキッとさせられた。兄弟愛を瞬間的に持つことはできるかもしれない。しかしそれを持ち続けることはかなり難しいことを体感している。自分の中に人を愛する真の愛が無いことに今更ながら気づかされ落ち込んでいる。

ダニエル

聖書通読は今日からダニエル書に入った。ダニエル書は12章あるが、毎日10章ずつ読むので最後までは行かず10章で終わりにした。期待していたし、今日は仕事が休みだったので非常に長い時間を使って聖書を読み、また要点をまとめることができた。ダニエル書といえばヨハネの黙示録と並んで「預言」が多く含まれているためその解き明かし、解釈に心が奪われてしまう。実際、自分も所属する教会は「預言の研究」から始まったような団体である。教理的には聖書に忠実に解釈していると思っておるが、他教派の解釈とかなり違うのもこの「ダニエル書」や「黙示録」である。1章ではダニエルや他の3人の青年たちがバビロンに連れてこられた頃の説明、そして2章では巨大な像の預言が記されている。ネブカデネザル王がみた夢を示しそれを解き明かすことで、ネブカデネザル王自身もダニエルたちの信じる神様を「神々の神」との認識を持つようになった。3章はネブカデネザルが建立した高さ27メートルほどの巨像を拝まなかったという理由でシャデラク、メシャク、アベデネゴの3人を燃える火の炉に投げ込んだ。しかし、神様の大いなる助けを目の当たりにしたネブカデネザルは彼らの信じる神様こそ本物であり、彼らを揶揄することは絶対に赦されない、と明言した。4章では前回の夢と同様の内容である大きな木の夢の解き明かしについて記されている。5章はネブカデネザルの孫であるベルシャザルが酒宴を開いている時に突如現れた指によって描かれた文字について記されている。ベルシャザルはこの日、即ちBC539年10月13日にバビロンとともにその生涯を終えた。ダニエル書は決して時系列に従って描かれているわけでは無いので、ぼーっとしていると混乱してしまう。6章は非常に有名なダニエルが獅子の穴に落とされる処刑の場面。ダニエルに対して一定の評価をしていたダリヨスは、ダニエルを陥れようとする人の策略にはまってしまい右腕とも言えるダニエルを獅子の穴に投げ入れ処刑しなくてはならなかった。しかしここでも神様の守りがありダニエルは奇跡的に助けられる。7章はまたまた同じ内容の預言である4頭の獣に関する幻。そしていよいよ8章が2300の夕と朝の預言、そして9章が70週の預言になる。どうしても、この部分が気になってしまいはやる気持ちを抑えながら聖書を読み進めた。

なにかがおかしい

繰り返しになるが、今日はとにかくゆっくりと聖書を読む時間があった。ゆっくりというより同じ箇所を何度も繰り返して読むことができた。そして、あることに気づいた。ダニエル書9章である。9章といえば前述の通り「70週の預言」が記されている。エルサレム再建命令から70週。エゼキエル書などから1日を1年と換算するのが正攻法だとするならアルタシャスタ王が再建命令を出してから490年間の預言が記されていることになる。そちらのことがとても気になり読んでいた。が、何度も読んでいるところであるが改めて気づかされたことがある。それは、70週の預言の前にダニエルが自分のことは勿論イスラエルの民についても執り成しの祈りを必死にささげている、ということである。預言が大きくクローズアップされる読み方をする自分に問題があるのだが、ダニエル書はダニエルの祈りに終始する書であることに気づかされた。第一のものを第一にすることで命を脅かされる経験をするがその全てに神様がご介入され助けられる。大事なことは、全ての局面においてダニエルの真剣な祈りがあるということだ。ダニエル書から終末預言だけを学んでいた自分が恥ずかしくなった。祈りである。とにかく祈ること、ダニエル書はこのことを教えてくれている。

1メデアびとアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤびとの王となったその元年、 2すなわちその治世の第一年に、われダニエルは主が預言者エレミヤに臨んで告げられたその言葉により、エルサレムの荒廃の終るまでに経ねばならぬ年の数は七十年であることを、文書によって悟った。

3それでわたしは、わが顔を主なる神に向け、断食をなし、荒布を着、灰をかぶって祈り、かつ願い求めた。 4すなわちわたしは、わが神、主に祈り、ざんげして言った、「ああ、大いなる恐るべき神、主、おのれを愛し、おのれの戒めを守る者のために契約を保ち、いつくしみを施される者よ、 5われわれは罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて、あなたの戒めと、おきてを離れました。 6われわれはまた、あなたのしもべなる預言者たちが、あなたの名をもって、われわれの王たち、君たち、先祖たち、および国のすべての民に告げた言葉に聞き従いませんでした。 7主よ、正義はあなたのものですが、恥はわれわれに加えられて、今日のような有様です。すなわちユダの人々、エルサレムの住民および全イスラエルの者は、近き者も、遠き者もみな、あなたが追いやられたすべての国々で恥をこうむりました。これは彼らがあなたにそむいて犯した罪によるのです。 8主よ、恥はわれわれのもの、われわれの王たち、君たちおよび先祖たちのものです。これはわれわれがあなたにむかって罪を犯したからです。 9あわれみと、ゆるしはわれわれの神、主のものです。これはわれわれが彼にそむいたからです。 10またわれわれの神、主のみ声に聞き従わず、主がそのしもべ預言者たちによって、われわれの前に賜わった律法を行わなかったからです。 11まことにイスラエルの人々は皆あなたの律法を犯し、離れ去って、あなたのみ声に聞き従わなかったので、神のしもべモーセの律法にしるされたのろいと誓いが、われわれの上に注ぎかかりました。これはわれわれが神にむかって罪を犯したからです。 12すなわち神は大いなる災をわれわれの上にくだして、さきにわれわれと、われわれを治めたつかさたちにむかって告げられた言葉を実行されたのです。あのエルサレムに臨んだような事は、全天下にいまだかつてなかった事です。 13モーセの律法にしるされたように、この災はすべてわれわれに臨みましたが、なおわれわれの神、主の恵みを請い求めることをせず、その不義を離れて、あなたの真理を悟ることをもしませんでした。 14それゆえ、主はこれを心に留めて、災をわれわれに下されたのです。われわれの神、主は、何事をされるにも、正しくあらせられます。ところが、われわれはそのみ声に聞き従わなかったのです。 15われわれの神、主よ、あなたは強きみ手をもって、あなたの民をエジプトの地から導き出して、今日のように、み名をあげられました。われわれは罪を犯し、よこしまなふるまいをしました。 16主よ、どうぞあなたが、これまで正しいみわざをなされたように、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山から、あなたの怒りと憤りとを取り去ってください。これはわれわれの罪と、われわれの先祖の不義のために、エルサレムと、あなたの民が、われわれの周囲の者の物笑いとなったからです。 17それゆえ、われわれの神よ、しもべの祈と願いを聞いてください。主よ、あなたご自身のために、あの荒れたあなたの聖所に、あなたのみ顔を輝かせてください。 18わが神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、われわれの荒れたさまを見、み名をもってとなえられる町をごらんください。われわれがあなたの前に祈をささげるのは、われわれの義によるのではなく、ただあなたの大いなるあわれみによるのです。 19主よ、聞いてください。主よ、ゆるしてください。主よ、み心に留めて、おこなってください。わが神よ、あなたご自身のために、これを延ばさないでください。あなたの町と、あなたの民は、み名をもってとなえられているからです」。
ダニエル9:1-19

聖書研究ガイド22年1期13課

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ICBM

パンドラの箱

日に日に緊張感が増してくる。今日は午後から工事の業者さんが入るのでそれに付き添い工事の成り行きを見学し質問にこたえたり指示を加えたりしていた。そのような時に、北朝鮮が発射したミサイルについての一報があった。「またか。今年に入って何回打っているんだ!プーチンとキムをなぜ神様は裁かないのだろう」と悶々とした気持ちになっていた。その後工事が終わり3時半過ぎに昼休みに入った。普段は自宅に帰って食事をする。自宅まで徒歩で15分ぐらい。食事の準備をしながらネットニュースをYouTubeで視聴して驚いた。北朝鮮のミサイルが青森県沖に落下、とのタイトルがあり見慣れた深浦町の港が映し出されていた。青森について詳しくは無いが、深浦町は日本海に面した非常に情緒豊かな町である。「青池」が有名な十二湖も深浦である。「不老ふ死温泉」の写真は多くの方がどこかで目にしているのではないだろうか。

自分は鯵ヶ沢から「千畳敷海岸」を抜けて深浦に南下するコースが好きで何度もこの付近を訪れている。そんなきれいな町が「ミサイルが落ちた海のそば」として紹介されていることにとても傷ついた。その後の報道で長距離弾道ミサイル(ICBM)が落下したのは龍飛崎の西170kmとのことだった。このところ度重なる地震に加えて今回のミサイルで青森も急に緊張してきた。実際には休憩を終えて職場に戻り「大変なことになりましたね」と言っても「そうですか?」と意に介さない返事だったのでやはり平和ボケしているのかな?と思った。ついにパンドラの箱が開けられてしまった、と感じた。

本気で

今日の聖書通読で「エゼキエル書」が終わった。明日から「ダニエル書」になる。イザヤからはじまって「イザヤ書」「エレミヤ書」「哀歌」「エゼキエル書」「ダニエル書」のこの流れがとても気に入っている。いよいよダニエルに進めることを嬉しく思っている。今日読んだところに次のように書かれていた。

25それゆえ、主なる神はこう言われる、いまわたしはヤコブの幸福をもとに返し、イスラエルの全家をあわれみ、わが聖なる名のために、ねたみを起す。 26彼らは、その国に安らかに住み、だれもこれを恐れさせる者がないようになった時、自分の恥と、わたしに向かってなした反逆とを忘れる。 27わたしが彼らを諸国民の中から帰らせ、その敵の国から呼び集め、彼らによって、わたしの聖なることを、多くの国民の前に示す時、 28彼らは、わたしが彼らの神、主であることを悟る。これはわたしが彼らを諸国民のうちに移し、またこれをその国に呼び集めたからである。わたしはそのひとりをも、国々のうちに残すことをしない。 29わたしは、わが霊をイスラエルの家に注ぐ時、重ねてわが顔を彼らに隠さないと、主なる神は言われる」。
エゼキエル書39:25-29

神様に反逆することをやめ、神様に立ち返ることによって大いに祝福されるのに、何故人類は好んで破滅の道を選ぶのだろうか。なぜ、神様を認めることができないのか。今こそ本気で神様に立ち返らなくてはいけない。今しか時はないのだ。

そして、ロシアや北朝鮮が鉄砲玉のように暴れている時にラスボスなる本当の悪魔が静かに息を潜めて「その時」を待っていることを決して忘れてはいけない。ロシア、北朝鮮、中国などショボすぎる小物である。現実に翻弄されず聖書の預言をしっかり読んで備えなくてはならないし既にその時がきてしまった。

【速報】北朝鮮“弾道ミサイル” 青森県龍飛崎の西約170キロに落下

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ふるさと

大統領演説

2022年3月23日18時、ゼレンスキー大統領の演説が始まった。憲政史上初となるオンラインによる演説ということで自分も拝聴した。コメディアン時代の動画をいくつか観たことがあるがやはり人を惹きつける力を持っている方だと感心した。

日本の文化を知ってのことか、18時丁度に始まった。「日本とウクライナには8193km、空路でおよそ15時間の距離があります。しかし『自由を感じる気持ち』や『生きる意欲』について両国の間の距離はゼロです。そのことを2月24日に実感しました。ロシアによる侵攻が始まってすぐに日本からの支援がありました。」との言葉に早速心をつかまれてしまった。

明日の我が身がどうなっているかも分からない、文字通り命がけで生きる毎日だと思うがその中で平静を保ち日本に配慮しながらもウクライナの窮状を訴える姿に感動を覚えた。演説の中に数回出てくる「ふるさと」という言葉に対して特に心が動いた。いつもどれるか分からない不安を抱えたままふるさとを追われた方々がいる。また最後までふるさととそこにいる家族を守るためにいのちを落とされた方々がいる。ふるさと・・・心をかき乱される言葉である。

大地震

昨晩、YouTubeで地震のことについて解説している人がいたので視聴してみた。特に最近「池上彰」氏に似てきた中田敦彦さんが解説している動画である。東日本大震災を経験していない自分にとって、それを超える地震など想像もつかないがそれが確実に起こると言われ、昨晩は眠れなくなってしまった。コロナも地震も戦争も全て世の終わりの印である。いよいよ、である。このまま平穏に毎日を過ごすことはできなくなってしまった。災害や戦争に備えることも大切であるし絶対にしないといけない。しかし、「恵の時、救いの日」である今こそ神様に立ち返る必要がある。

わたしは生きている

聖書通読、今日は38章まで読んだ。エゼキエル書は結構難しい預言があり興味深くも難解で奥が深い。エゼキエル書を読んでいて気づくことがある。それは、神様が語られる時に「わたしは生きている」と宣言されることである。終末時代にあって不安なことばかりだが、しかしその全ての局面に神様が共にいてくださる。仮に命を落とすようなことがあっても、共にいてくださり永遠の命のことまで心配してくださる。全てを神様にお任せして生きていきたい。

【南海トラフと首都直下型地震①】知っておくべき地震大国ニッポンの現実

 

【南海トラフと首都直下型地震②】東日本大震災以上の巨大地震に備えておくべき事とは?

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逆「たられば」

結婚記念日

結婚18周年を迎えた。今の状態が結婚生活、或いは家庭生活があるとは決して言えないがどうしようもない状況の中で何とか生活を保っている状態である。丁度1年前の状況がどうだったかを知りたく日記を読み返してみた。仕事も決まらず、ただ退職、引越しだけが迫られる毎日で絶望的な様子が綴られていた。17回目の結婚記念日を迎えた1年前、これからどうしていけば良いのかが分からず絶望的な状況にいた。気力もなかったが、あまりにもひどい教団や学校の対応に憤り裁判で戦うことも考えた時期があった。いくつかの有力な記録も残っていたので友人の弁護士先生に相談してみようかとも思った。しかし、結局その気力も続かず、裁判ではなく人生そのものを諦めようとしていた。何度も本気でその方向を考えた。しかし、そのような時に認知症の母から電話があった。会話が噛み合わなかったが、自分のただならぬ様子に気づいたのか、電話口でずっと泣いてくれていた。「あんたがかわいそうだ。ひどいじゃない!」と何度も言いながら電話で泣いている母と話しながら漠然と「今は死んではいけないのかもしれない」と思った。悔しさと絶望感だけが心の中にあった1年前。

たられば

wikipediaで「たられば」を調べてみた。

たらればとは、「もし○○していたら」や「もし○○していれば」という仮定を伴う主張・願望・後悔・議論・批判などを意味する日本語の語である。片仮名でタラレバと表記する場合もある。
もし、ここで〇〇を選んでいたら?
この時にこうすれば。(よかった)
といった、〇〇れば、〇〇たらを総称した表現である。
検証や見返しの作業で使われたり、叶わない事柄を望んだり、様々な場面で主に後悔の念にとらわれているときに使われたりする。またそのような願望や後悔は無意味であるという非難のためにも使われる。

もしも、復職できていたらと考えることがあった。どうしても教育伝道の働きがしたく、そのように考えていた。

ところが先日、あることに気付いた。この1年間の支出を計算してみた。その殆どが妻への送金や子どもの塾や学習教材などだった。かつて使ったことがないほどの金額をこの1年間に使っていた。そしてそのお金の出所がすべて「退職金」だった。もしも・・・。もしも退職していなければ「退職金」が入らずこの1年の支払いは叶わなかった。特に、狭い世界だけで育ってきた長男が初めて広い世界を見てみたいと系列以外の高校進学を考えるようになった。このお金も退職金がなければ用意できなかった。短い期間ではあったが家族全員が揃った先日の卒業式。これだけでも30万円ぐらい掛かっているが退職金がなければ叶わなかったことである。

「たられば」は叶わなかった時に使う仮定のようだが、自分の場合はその逆である。あれほど避けたかった「退職」であったが、「退職」しなければ決して叶わなかったことがあることに気付かされた。最も避けたい道を敢えて通過させた神様のご計画を思う時に「すごい」としか言いようがない。

70年のバビロン捕囚

全てが回復したわけではないが、それでも神様が片時も離れないでいてくださることを毎日経験している。本当に感謝すべきことだと思っている。状況には何の希望も無いが、しかし神様を見上げた時に全ての希望があることに気付かされる。最悪の経験と思われるバビロンの経験が、捕囚の民を「良いいちじくの実」に変えた。自分も同じような気がしている。

10主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る。 11主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。 12その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。 13あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、 14わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。
エレミヤ29:10-14

The First Seven 1: 大争闘

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