まだ・・・

安息日なのに

自分のいたらなさ、まだまだ自分が変えられていないことを痛感した。

教会での礼拝を終え家に戻っていくつかの礼拝ライブを視聴した。大変恵まれる時間である。今日は3つの教会のライブ配信を視聴し、久しぶりに好天だったので自然散策でもしようと外出した。特にあてがあったわけでもないがとりあえず弘前方面に向かおうと102号線を黒石方面から弘前方面に向けて走っていた。細い道や裏道を抜けながら弘前に向かうことが多いのだが今日は国道を使った。弘前に向かう国道は7号線か102号線のどちらかである。102号線の方が空いているのでこちらを使った。空いている分スピードを出す車もいるので7号線よりも少し気を使う。少し車が多い中、車線を頻繁に変えるトヨタ86がいた。田舎にありがちだが追い越し車線を非常に遅い速度で走る車がいる。連休ということもあるのか若干遅めの車が追越車線を走っていた。後ろから追いついた86が走行車線に入り追越車線の車を抜いて再度追越車線に戻った。そんなことを繰り返していたが、結局信号待ちなどで思ったほど前には進めず信号待ちで自分の隣に86が来た。自分はスピードを出さないので右折以外は走行車線しか走らない。しかも50km/h以上出さないので遅い部類の車だと自覚している。煽られることもよくある。しかし20年前の大事故以来絶対にスピードを出さない運転に変わった。青信号になって威勢良く飛び出した86だがまた前方に遅い車がいてその車を軽く煽っているようだった。そのすぐ後ろまで追いついた自分だったが、驚いたことにその86が自分の車の前に急に割り込んで来た。急ブレーキを踏んだ。おそらく数センチのところで止まれたのでぶつからなかったが心臓が口から出そうになった。勿論86はそのまま勢いよく飛ばして行った。心音が聞こえるほど恐ろしかった。が、次の瞬間怒りの気持ちが出て来てしまった。実はここ数年、落ち込んだり人を赦せなかったり批判的な気持ちになることはあったがとっさに怒る、という感情を持ったことがなかった。それまでは結構短気だったので少しずつ変えらているのかな?などと思っていたが、そんなことはない。今日、見事にその感情が突如湧き上がってしまった。しかも安息日で先ほどまでオンライン礼拝で大変祝福されていたのに。気付いた時には86を追いかけていた。結構無茶な運転をする割に運転がそれほどうまくないのか86に追いつくのは訳なかった。

怒りが・・・

86の前につけてそのまま徐行に入り102号から少し入ったところで停車させた。86の運転席のドアを開けて「今、自分の車を確認していましたか?ウインカーも出さずに後方を全く確認しないで走行車線に入ったんじゃないですか。その前にも何回となく車線変更を繰り返していたけど危険な運転をしている意識はなかったのですか。しかもそれほど運転が上手いとは思えなかったけど、そんなことをしたらすぐに事故を起こしますよ。あなたが無理な運転をして自爆すればそれは自業自得だけど、安全運転をしている人の命を奪うこともあるんですよ」と矢継ぎ早に説教をした。相手は平身低頭謝っていた。後方確認はしていたけど自分の車を確認していなかった、という。ドライバーなら誰でも知っている「死角」についてもう一度説明した。最後に「あなたの運転技術にはふさわしくない車だ。車に笑われないようにもっと上手な運転ができるようにしなさい。そして最高のマナーを身につけなさい」と言った。誰が何の車に乗ろうが勝手である。86だから運転が上手でないといけない理由はない。

清められていない

86が立ち去るのを見ながら、まだ自分に怒りの感情があることに失望した。神様のお力でこの性質は葬られたと思っていたのに。ヤコブやヨハネのように。人間の本質が変えられていないことを痛感した。
この怒りの感情をどうしても捨て去りたい。
悲しい安息日になってしまった。

2022年4月30日 「前の雨と後の雨」 安息日礼拝LIVE配信

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If My People

ソロモンの祈り

聖書、歴代志下6章にはダビデの準備によってソロモンが神殿を建築することができその竣工の様子が描かれている。またソロモンの長い祈りが記されている。ソロモンがささげた祈りは・・・

ダビデに誓ったことを行なってください
不十分な神殿ですがこの宮にお住みください
イスラエルの祈りを聞いてください
罪を犯し祭壇の前で犠牲とともに誓いを捧げるならばその行いに応じて裁いてください
神様に背いたことが原因で敵に敗れる時、もしも民が悔い改めこの神殿で祈るならばその祈りを聞いてください
・・・・・等々

ソロモンは神殿を通して神様がイスラエルの民を祝福してくださるようにと必死に祈っている。王であるソロモンは、同様に祭司としてイスラエルと神様との間を取りなす祈りを、ある意味命懸けて獻げている。そんなソロモンの真剣に祈りに心を打たれる。

祈りが終わって

ソロモンの心からの長い祈りが終わると天から火が降って来て、献げた犠牲を焼き主の栄光が神殿を満たした。そのような場面でソロモンの祈りに神様が直接応えてくださった。

わたしの名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす。
歴代志下7:14

この神様からの応答が讃美歌になっている。If My People という讃美歌である。29日(金)日没が過ぎ安息日を迎えた。この時間を苦しみや戦禍の痛みの中で過ごしている人のことを思うと心が締め付けられる。今後世界、社会情勢が明るい未来に向かうとは到底考えられない。更なる困難に向かうことと思うが、そのような状況下で一人一人が神様に立ち返り神様との和解を果たし真の平安に満たされることを心から願うものである。

If My People

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秘密と黙示

守秘義務

今日、職場であることがきっかけで「守秘義務」の話題になった。この職場に来てかなり早い段階で驚いたことのひとつに「情報ネットワーク」がある。今までの職場では確認の意味も含めて大切な要件はメールを使っていた。隣の席にいる人への伝言だとしてもメールを使って記録に残す。しかし、この職場では基本的にメールを使わない。はじめはその雰囲気に慣れなかったがよくよく考えてみるとメールを日常的に使っている人が少ないので恐らくこのシステムは定着しないと思った。メールで情報共有しない割に情報はものすごいスピードで伝わる。ある時、職場の前にあるりんごの無人市場でりんごを買ったことがある。駐車場の前が広いりんご畑でそこで落ちたり穴が空いたりんごを格安で販売しているのだ。自分はあまりりんごを食べないが姉が好きなので送るつもりで買った。ところがその日のうちに何人かの方がりんごをくださった。理由を聞いてみると、自分がりんごを買った様子を見ていた人がいて、りんごが大好物だと勘違いして吹聴して回ったらしい。職場の情報ネットワーク、恐るべし。

最近仕事の内容が日に日に変化していて、いつの間にか職場の機密事項を教えられるようになった。院長先生ともうひとりの職員しか知らない情報、である。そのような情報を自分に知らせないで欲しいと思っているのだが情報は入ってくる。どのようなことがあっても絶対に人には言えないことばかりである。絶対に守らなくてはならない情報。秘密が増えるということはとても気が重く、「信頼されている」という充実感など微塵もない。

黙示

神様が人に与えた啓示、その中でも特定の人に暗黙のうちに伝えたものがいくつもある。聖書の中に書かれているものもあるしそうではない形をとっているものも稀にある。これらの殆どは秘密にするのではなく人々に伝えなくてはいけないものである。「知った者の責任として」黙るのか、人々に伝えるのか、情報の性質によってその後の扱いが全く異なる。

しかし、終わりの時代を生きるものとして重要な情報は決して秘密にしてはいけないものが多いように感じる。悲惨な戦争や事故で命を落とされる方の報道に触れるたびに、重要な情報を知っている自分の責任が問われていることを自覚する。もっと伝えなくてはいけないのに、と毎日反省させられる。

キリストは遠くにおられると、決して思ってはならない。彼はいつもそば近くにおられる。彼のやさしいご臨在は、あなたを取りかこんでいる。キリストはあなたが彼を見出すように望んでおられるということを覚えて、彼を求めなさい。キリストは、あなたがただその衣のすそに触れるばかりでなく、絶えず交わりながら、彼と共に歩むことを望んでおられる。
ミニストリーオブヒーリング電子版P47

 

「豊かな出会いを求めて」平賀和弘牧師

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ピクニック

大ピンチ

昨晩、次男から電話があった。声は元気そうだったが、話の内容は少し暗めだった。「少し微熱があるんだ」と言っていた。数日前の電話で27日(この電話の翌日)が小学校のピクニックだと聞いていた。この熱のせいでピクニックに行けなかったらどうしよう、と話しながらどんどん塞ぎ込みとうとう泣き出してしまった。感情のコントロールが少し苦手な子なので電話口で冷静になるよういくつかの話を穏やかにしてみた。若干落ち着いたがまだ興奮気味。とにかくお祈りをしようと誘って二人でお祈りをした。

少し話せるようになったところで何故ピクニックに行きたいのかを聞いてみた。「楽しいから」「おやつが食べられるから」と言っていた。ふと、自分の小学生時代を思い出した。遠足といえば「家に着くまでが遠足です」と言われたが、遠足は前日の「おやつを買う」ところから始まっている。今のように大型店舗がたくさんある時代では無い。所謂「お菓子屋さん」に数名の同級生と一緒に行く。小さな町なのでお菓子屋さんで同級生に出くわすこともある。規定の300円をどのように使うか悩むのが楽しい。電話の様子から次男もお母さんと一緒におやつを買いに行ったのだろう。ピクニックでおやつを食べるのが楽しみ、とは何とも次男らしい言葉だ。

本当の理由

次男と一緒にお祈りしながら「もしも熱が上がってピクニックに行けなかったらどうなるか」を考えていた。秋のピクニックはバスを借りて遠出するが春は歩いていけるところ。しかも近くの公園で、いつでも行けるところである。別にピクニックで行けなくても大したことはない。が、色々と話していくうちに本当の理由を教えてくれた。「本当は友達といっぱい遊びたいから」。子どもとの電話で泣いては行けないと指示されているので、涙を抑えるのが大変だった。友達関係の構築に苦手意識をもっている次男。でもいくら苦手とは言ってもやはり友達が欲しくて、大切でたまらないようだ。3年生の後半から気の合う友達が数人できたようだ。本人は気があう、と言っているが周りがかなり次男に対して寛容な心をもってくださっているのだと思う。本人にとってはそんな仲間と行くピクニックだから場所などどこでもよかったのだろう。それこそおやつだってお弁当だって何でも良かったのだろう。次男との電話を切った後、すぐに車に乗って長い時間祈った。車の中だから、次男のことを考え溢れてくる涙を抑える必要はない。必死に祈った。たかがピクニック。されど次男にとっては世界一周するぐらい価値のあるピクニック。「どうか熱を下げてピクニックに行かせてください」と長時間ドライブをしながら必死に祈った。

聞かれた祈り

今朝、ピクニックの当日であるが9時半に次男から電話があった。着信をみてすぐに「ピクニックに行けなかったんだ」と分かった。それでも電話の声は明るかった。「熱は下がったけど咳が少し出るから今日は休みなさいってお母さんに言われた。でも今度お友達を連れて別の場所にピクニックに連れて行ってくれるから今日は我慢することにした」と言っていた。子どもの真の幸福を常に考えてくれる母親はやはり凄い、と痛感した。昨晩あれほど祈ったけど神様の御心は違った方向に道を開いた。恐らく「忍耐」「我慢すること」を次男に教える絶好の機会と判断されたのだろう。「次男をいつも守り幸せにしてください」と祈った祈りはやはり聞かれたのだろう。

それにしても今回の騒動で次男の成長を見ることができとても幸せな気持ちにさせていただいた。周りとは違うスピードかもしれないけれど次男のペースでしっかりと成長している。感謝すべきことである。

「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。」
ヨハネの第一の手紙 5:14 口語訳

逃げるヨナ 森田 栄作

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キリストへの道

悶々

自分の信仰の弱さ、或いは無さを不甲斐なく思うことがよくある。神様を信じていながら、どうしてこういう考えになってしまうのかと悶々とすることがよくある。今日「キリストへの道」という本をゆっくり読んでいた。正に今の自分を叱咤激励しているような文章を見つけた。本文をそのまま抜粋しているので文中の「私」は著者であるエレンホワイトという女性のことである。

因みに今朝与えられた聖書の言葉が

「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」
ローマ人への手紙 5:3-5 口語訳

だった。神様に全てを見透かされている気がした。以下、「キリストへの道」本文より抜粋。

サタンに騙される

悪魔は、神の子らが不信仰を起こし落胆するのを喜びます。また、私どもが神に信頼せず、神は、快く私どもを救ってくださる御方であることを疑うのを喜びます。また神は摂理のうちに私どもを害したもうというように考えさせ、神は憐れみと同情に欠けておいでになるように見せかけるのは悪魔の働きであります。彼は、神に関する真理を曲解し、神に関するまちがった思想を私どもの心に満たすのであります。私どもも、ともすれば、天の父に関する真理に堅く立つ代りに、悪魔の誤った言葉に惑わされ、神を信頼せずつぶやいて神を辱めるのであります。悪魔は絶えず信仰生活を憂鬱なものにしようと努めています。また骨が折れて困難なもののように見せかけます。そして、クリスチャンが自分の生活に対してこのような宗教観をいだくならば、その不信仰の結果、悪魔の偽りを支持した事になります。
キリストへの道 主にある喜び

美しい花に目を向ける

人生行路をたどりながらも、自分の間違いや欠点や失望ばかりを考えて、悲しみと落胆に満たされている人がたくさんいます。私がヨーロッパに行っていたとき、ある姉妹がちょうどこのような有様で、たいへん失望し励ましの言葉を求めてきました。その手紙を読んだ夜の事ですが、私は、ある庭園を歩いている夢を見、その庭園の持ち主と思われる人に案内されていました。私は、道すがら花を摘み、そのたかいかおりを楽しんでいますと、そばを歩いていたこの姉妹は、道を遮っているつまらないいばらを見て、それを悲しみ嘆いていたのであります。この姉妹は、案内者に従って道を歩かないで、いばらやとげの中を歩いて「せっかくの美しい庭園も、このようないばらがあっては本当に残念な事です」と言うのでありました。すると、案内者は「いばらの事は気にしなさるな。ただ害を受けるばかりです。それより、ばらやゆりやなでしこを摘んではどうですか」と答えた。
キリストへの道 主にある喜び

光と闇

過去の生涯の不愉快な思い出、罪や失望ばかりをかき集め、その事を語り、悲しんでついには失望してしまうことは決して賢明なことではありません。失望した魂は暗闇におおわれ、心から神の光を閉ざしてしまい、他の人々の行く手にも陰を投げかけます。
キリストへの道 主にある喜び

「イエス・キリストとは何者だったのか」河原 久牧師

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知床観光船

事故

また胸の痛む事故のニュースが入ってきた。有限会社知床遊覧船の所有する「Kazu1」なる船が遊覧観光中に浸水沈没したとのこと。4月23日(土)午後のこと。船には乗員乗客合わせて26名が乗船していたが救助活動は高波荒天のため思うように進まず、4月25日11:20の段階で26名のうち11名を発見するもその全ての方が亡くなったとのこと。お子さんもおり本当に痛ましい事故になってしまった。

当日は波も高く周りの観光船船長からも「今日はやめておけ」と忠告を受けていたが出航した。

知床観光船は「自然豊かな知床」を船で観光するもので熊、イルカ、トド、シャチ、クジラ、ケイマフリなどの生物やカムイワッカの滝、カシュニの滝などを見学する。行ったことがないのでネットで調べただけだが写真を見ただけでも絶対に行きたい、乗りたいと思う。好天ならば本当に美しいものをたくさん見ることができるのだろう。

事情

この地域には似たような名前の別会社が多数あるので今回の事故で勘違いされることもあると思う。有限会社知床遊覧船は以前に従業員が社長と考えが合わず5名が一斉に会社を辞めるということがあったようだ。これがきっかけで深刻な人員不足に陥っていた。その頃船舶免許をやってきたのが今回Kazu1を操舵していた豊田船長らしい。スキルが身につかないうちに船長として出航させ、過去には座礁したこともあったという。勝手な憶測だが、桂田社長は「しれとこ村」も経営しておりコロナの影響でかなり経営が逼迫していたのではないかと想像する。世の中にはコロナで潤った人もいるが多くの人が犠牲を強いられ会社や自営業の倒産や廃業に追い込まれた。実は自分の仕事場である医院はコロナのための助成金が交付され、更に村で唯一の医院ということでワクチン接種を一手に引き受けたおかげで予定外の収入があった。それぞれに事情があるので、誰が悪いとか誰の責任だとかなど周りが判断できることではない。そもそもネットを検索して出てきたニュースなので正確なのかすら分からない。とにかく失われた命のこと、特にその中にお子さんがいたことにやはり心が痛む。

あの方がいれば

北海道には何度も行っているが観光をしたことは殆どない。観光といったら函館の朝市と三浦綾子記念文学館ぐらいなもの。それでも鉄道好きな自分にとっては北斗に乗れるだけで満足。北海道の自然など一度も堪能したことが無い。青森に来て思ったのが自然界の雄大さ。今までたくさんの美しい自然界を見て来たが東北のそれはスケールが違う気がしている。北海道のことは分からないが、更に大きなスケールの自然があるように思う。そしてその自然界の美しさと共に脅威も地元の方は熟知しているのだろう。

福音書の中にも船が嵐によって沈没しそうになる場面がでてくる。一度はイエス様が乗っていらした。そしてもう一度はイエス様はガリラヤ湖から漕ぎ悩んでいる状態を眺めていた。状況は少し違うがいずれもイエス様が波を静める。自然界を従わせるのである。プロポーズを計画していた人が乗っていたとも聞いたが、もしもイエス様が・・・。いや、それでもイエス様はその場所におられたのだろう。

【独自】知床観光船 去年も「座礁事故」・・・船長は“涙で謝罪” 乗船者語る当時の様子【羽鳥慎一 モーニングショー】(2022年4月25日)

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弘前さくらまつり2022

休日出勤

4月22日金曜日は休日出勤の日。4月は安息日(土曜日)以外の休みは無い。元々8日と29日の両日だけ出勤することになっていたが、都合により15日と22日も出勤することになってしまった。院長先生のオンライン学会があるのでそのサポートのためである。一応金曜日は半日で終われるので大した負担でもないのだが、実は弘前城のさくらまつりに行ってみたくそのタイミングを見計らっていたので休日出勤は少しだけ負担だった。結局、22日の午後に弘前城に行ってみた。出発が遅くなり近くの駐車場は全て満車で1kmほど離れた無料駐車場に止めて徒歩で会場に向かった。雨が降りそうな曇り空ではあったが一日中歩くことができたのでとても楽しく過ごさせてもらった。

昨年もこのさくらまつりに行ったのだが、昨年は勝手が分からず7分咲きの頃に行ってしまった。コロナの影響もあり人出もさほど多くはなかった。が、今年はかなりの人出だった。元々200万とも300万人とも言われる人が訪れるさくらまつり。当日は若干遅かったか、葉桜になりかけていたが非常に多くの人で賑わっていた。

弘前さくらまつり

広島にいた頃は、フラワーフェスティバルなるイベントがあった。これはかなりの人出がありかなり昔に一度だけ行ったことがあるが平和大通りが人で埋め尽くされていた。前職がゴールデンウィークとは無縁の学校だったのでその一度だけ行ったきりだった。弘前さくらまつりも人出では日本一とも言われるイベントでコロナの前はかなりの人で賑わっていたそうだ。青森を全く知らない頃、弘前を県庁所在地だと勘違いしていたし大都会だと思っていた。が、実際に来てみると意外と・・・。そんな弘前に県外から多くの人が集まっているのを目の当たりにして、何かとても嬉しい気持ちになった。ただ、青森はまだ人口の割にコロナの罹患者が多いのでその点だけは少し心配になった。

所縁の地

さくらまつりの写真を500枚ぐらい撮ってきたが、その中から適当に3,4枚をInstagramに投稿した。同時にFacebookにも投稿したが多くの方が反応してくださった。弘前大学医学部に通っていた卒業生が「懐かしい写真を紹介してくださりありがとうございます」とコメントしてくれた。また弘前に住んでいた自分の先輩が「懐かしい」とコメントしてくださった。その他旅行などで青森を訪れた方、今年行こうと思って断念した方などからもメッセージをいただいた。意外と多くの方が青森や弘前に所縁があることを知った。懐かしい、と言える場所があることは本当に素晴らしいことだと思う。いつかまたその場所に行きたい、帰りたい、と思える場所は心の支えになる。自分にもこの地上にいくつか「懐かしい場所」がある。グランドティートン(ワイオミング州)とそれを見渡せるトランスフィギュレーションチャペル(Chapel of Transfiguratio)。ここには是非再臨前にもう一度行きたい。そして、一度も行ったことがない場所ではあるが天の御国。この天国を懐かしく思う讃美歌、Homesick For Heavenを歌うとあたかも自分がそこに行ったことがあるかのような錯覚に陥る。

弘前の桜も実に美しかったが、間も無く帰れる天の御国。想像を絶する美しさなのだろう。早く帰りたい。

2022弘前さくらまつり

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信仰と鍛錬

聖書通読

今朝の通読箇所は一度に読むにはあまりにも祝福が多すぎて勿体ないところであった。ヘブル人への手紙、そしてヤコブの手紙からとても消化しきれない多くの恵みをいただいた。

信仰とは

1さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 2昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。 3信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。 4信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。 5信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。 6信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。 7信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。 8信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。 9信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。 10彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。 11信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。 12このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。

13これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 14そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。 15もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。 16しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

17信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。 18この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。 19彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。 20信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。 21信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。 22信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。

23信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。 24信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、 25罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、 26キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。 27信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。 28信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。 29信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。 30信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。 31信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。 32このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。 33彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、 34火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。 35女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。 36なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。 37あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、 38(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。

39さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。 40神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。
ヘブル人への手紙11:1-40

鍛錬

1こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。 2信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 3あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。 4あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。 5また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、

「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。

6主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。

7あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。 8だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。 9その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。 10肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。 11すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。ヘブル人への手紙12:1-11

2022年4月23日 「本当の祈りとは?」 安息日礼拝LIVE配信

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成功体験

小さな出来事

殆ど毎日のように次男が電話をくれる。長男は寮生活に追われなかなか電話ができないようで週に2回程度かけてくれる。子どもとの電話は毎回勇気をもらうことができ助けられている。

次男は感情のコントロールがうまくできず泣いたり怒ったりしてしまうことがある。集団の中でそれをしてしまうので友達関係を上手に構築することが苦手である。自分もそのことを気にしており何とか本人を励ましながら集団の中に馴染ませることができないかと考えている。そして、誰より本人が傷ついてる。「自分にはできない。自分には友達がいない。自分のことが大嫌い」と言うようになっている。本人には「泣くこと、怒ることは人の気持ちの中でも特に大切な感情だからそれを大事にしないといけない。大事な気持ちだから、そう簡単にいつも人前でその気持ちを表現するのはよくない気がする」とできるだけ否定しないように話している。とにかく人前で泣かない、怒らないを頑張ってみよう、練習してみようと言って取り組むことにした。「ただしこれは練習だからうまくいかないこともあるはず。だけど練習だからうまくいかなくてもそれは失敗じゃないから心配しないで」と話している。

そして毎回の電話の中でその日の様子を話してもらっている。こちらから聞くとプレッシャーになるのでさりげない会話の中で本人が話したくなるような雰囲気にして自然な形で話してもらっている。月曜日はギリギリセーフ。火曜日も怒りそうになったけど我慢した。水曜は全く問題なし。木曜日はとにかく楽しかったらしい。「怒らなかったり泣かなかったりするとそれだけで学校が楽しくなるでしょ?」と聞くと嬉しそうに「そうだね」と言っていた。そして今日が最終日。今日は少し怒りそうになったらしいがそれでも我慢したとのこと。本人の自己申告なので実際とは違うところもあるかもしれないが、本人なりによく頑張った。こちらもとても嬉しい気持ちになったので大袈裟に褒めた。はたから見れば何でもない当たり前のこと。しかし私たちにとってはとても大きな成功体験なのである。

できることが増える

自分もできることをひとつひとつ増やしながら生きてきた。残念ながら年齢とともにできなくなることも増えているが、それでも今までできなかったことができるようになることがある。聖書を通読できるようになる、何時間でも祈れるようになる、敵意を持っていた人のために祈れるようになる等々。わずかだがそれでも成功体験になる。今日、「キリストへの道」という本を読んでいた時にある言葉が心に残った。

最高の教育を受けた者にも、最も無学な者にも、はっきり示される証拠は経験という確証であります。神はみ言葉の真実なこと、み約束の真実であることを私ども自らが試してみるようにと仰せになりました。神は私どもに「主の恵みふかきことを味わい知れ」(詩篇 34:8 )とお命じになりました。ほかの人の言葉に頼らないで、自分で味わってみなければなりません。神は「求めなさい、そうすれば、与えられるであろう」(ヨハネ 16: 2 4 )と仰せになるのでありますから、この約束を間違いなく果たして下さいます。神の約束は今まで違ったこともなければ、これからも違う事はありません。そして私どもがイエスに近づき、イエスのあふれる愛にひたるとき、イエスの臨在の光に私どもの疑いも暗きも消え去ってしまうのであります。
キリストへの道「疑いをいかにすべきか」 電子版p84

ひとつひとつ神様との関係において経験することがその後の大きな糧となり、その糧を用いて更に上に上っていくことができる。子どもは成長しているけど、彼らのように成長していない自分に気付かされた。

SDA甲府キリスト教会 安息日礼拝 2022年4月16日
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最近の仕事

1ヶ月程前から自分の仕事がかなり変わってきた。相変わらず営繕、修繕の依頼はひっきりなしにくる。雨漏り、ネットワーク、コンピュータの不調、外灯の修理、棚の作成、鍵の交換等々自分の手に負えないものまで何でも依頼される。そして、事務の仕事に大きな変化があった。それまでは在庫管理や仕入れ台帳の作成などをしていたがお金に関わる仕事も増えてきた。小口現金から始まり給与の計算、社労士さんとのやりとり、電子カルテに付随するシステムの作成、発注や注文等々。毎日夜遅くまで仕事をしているがそれでも間に合わない。今日も午前中に銀行に行き給与の振込依頼をしてきた。しばらく雨に給与データを作成し社労士さんに提出していたが昨日はその仕上がった資料を受け取りにいった。給与の銀行振込依頼は2営業日前の午前中までとなっているので今日の朝一でその手続きをした。これが毎回自分の仕事になったらどうしようと緊張する。万が一銀行への依頼が遅れてしまえが医院の口座からATMで一人一人に振り込まなくてはならない。医院だけでも50名、介護施設を入れると100名近くなる。それを手作業で一人ずつ振り込むとなれば大変なことである。とにかく期日を守らないといけない。タイムカードから自動的に賃金台帳や医院に控えておく明細書、また控除や手当も自動計算できる仕組みを現在作っているところだが、難しくてなかなかうまくいかない。そんな緊張する事務仕事に追われながら、今日は急に医事課から電話があり「シュレッダーが壊れたから直してほしい」との依頼があった。

シュレッダー

無い知恵を絞って頑張っているがなかなかうまくいかない。少し気分転換に、と軽い気持ちで医事課のシュレッダーを直しに行った。とりあえず掃除をしてみたがうまくいかない。次に分解をしてみた。中にはすごい量の紙が歯の間に挟まっている。これを取り除けばうまくいくかもしれないと掃除を始めたがうまくいかない。仕方がないので自信はないけど分解してみた。すると歯の間にたくさんの紙が詰まっていた。ただ詰まるだけでなく圧縮され塊になっている。それを目打ちで持ち上げピンセットで取り除く。これをずっと繰り返していた。途中で業者さんの対応があり中断したがおよそ2時間以やっていた。本当に忍耐力が鍛えられる経験だった。取り除ける全てをやっと取り除いて作業完了。が、結局動かなかった。

徒労に終わったが忍耐という意味では非常に良い経験になった。

「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。 あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。」
ヤコブの手紙 1:2-3 口語訳

聖書研究ガイド22年2期4課

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