大雨洪水警報

沖縄県

31日午後2時31分、沖縄気象台は沖縄本島地方の21市町村に大雨洪水警報を発令。31日午前から梅雨前線の活発な活動のため大雨が降り続いており南部の7市町を土砂災害の警戒対象地域とした。糸満、豊見城、南城、与那原、南風原の5市町は午後2時半迄に避難所を開設した。(沖縄タイムス)

別のニュースでは那覇、宜野湾、浦添、糸満、豊見城、南城、中城、西原、与那原、南風原、八重瀬の11市町に対して大雨洪水警報を発令警戒を呼びかけていると言う。降雨量も5月に降る雨量の半分がわずか3時間に降ったとのこと。

沖縄は台風の被害で有名であるが年間を通じて雨量が多い。高知県の3660mm(年間雨量1位)に比べたら少ないがそれでも年間2585mmで日本で5番目に雨量が多い。晴れていても急に雨雲がかかって降り出すこともしばしば。一度降り出せばスコールになる。その分すぐにあがることも多く綺麗な虹もよく見られる。

沖縄にも大切な人たちがたくさん住んでいるのでとにかく被害が出ないことを心から祈るものである。

自然災害

以前に住んでいた広島は比較的地震が少なかったのだが、青森に住むようになってから地震の多さに驚いている。東京で暮らしていた時も地震が多く何度も怖い思いをしていたが、広島に住むようになってからその恐怖を忘れてしまっていた。最近も福島や茨城沖の地震があり胸騒ぎがしている。企業や組織、機関の不況や経済的な危機状態を知ることがあるが、経営などを考えることすらできなくなる時がすぐそこまで来ている気がしてならない。自然災害の度にそのことを思い出すのだが喉元過ぎれば・・・。危機意識が薄れてしまう。安全な状況、安全な場所など無いのにどこかで「まだ大丈夫」と自分に言い聞かせている気がする。一度死ぬようなことがあったとしても永遠の命を失うことが決して無いようにしないといけない。自分も、そして周りの大切な人たちも。

イエスは最後の病人がなおるまで働きをやめられなかった。群衆が立ち去り、シモンの家が静けさにつつまれたのは夜おそくになってからだった。長いさわぎの1日が過ぎ去って、イエスは休まれた。しかし町がまだ眠りにつつまれているころ、救い主は「朝はやく、夜の明けるよほど前に、・・・・起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マル コ 1:35)。

こうしてイエスの地上生活の日々が明け暮れた。イエスはたびたび弟子たちにひまをおやりになって自分の家をたずねさせたり、休息させたりされた。だがご自分は、弟子たちがイエスを働きからひき離そうとする努力を静かにおしとどめられた。イエスは無知な人々に教え、病人をなおし、盲人に視力を与え、群衆を養うために、1日じゅう働かれた。 そして夕方や早朝に天父とまじわるために山のかくれ場に行かれた。たびたびイエスは一晩中祈りと瞑想にすごして、夜明けに、人々の中で働くために帰られた。

各時代の希望電子版 p248 カペナウムで

【大雨】沖縄本島、名護市以南の21市町村に大雨洪水警報 あすにかけ激しい雨の恐れ

 

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教育の是否

無学な者

日本で教育といえば「学校教育」を指すことが多い。自分も日本の学校教育制度によって学ばせていただいた。大学までの教育を受けた。修士や博士課程にはいかなかったので大学までの勉強しかしていない。しかも大学で学んだことの殆どを既に忘れてしまった。高校程度の物理と数学が辛うじて分かる(かもしれない)程度の学力しかない。その前提であることを考えていた。

現在読んでいる本は聖書の福音書を解説しているもので多くの教訓と示唆に富んだものである。イエスキリストには「弟子」或いは「使徒」と言われる人たちがいた。常に一緒にいたのが12人だと記録されている。ガリラヤ湖で漁をすることで生計を立てていた人が結構いる。当時のユダヤでは律法と預言を学ぶことが学問であった。なのでガリラヤの漁師たちは技術はあっても律法と預言を学んでいなかったので「無学な者」であった。知恵があることで有頂天になっている者を辱めるために無学な者を用いた、と理解していた。しかし、今日読んだところには少し違うニュアンスのことが書かれていた。

イエスは無学な漁師たちをお選びになったが、それは彼らが当時の言 い伝えやまちがった慣習によって教育されていなかったからである。彼 らは生れつき才能を持った人たちで、謙遜で教えやすく、キリストがご 自分の働きのために教育なさることのできる人たちであった。
各時代の希望電子版 p236 海辺での召し

彼らは無学であったかもしれないが、「有能」であると認められたというのだ。知識があることは却って使えない、ともとれる表現である。ちなみにこの著者は別の書物で教育に関する色々なアドバイスをしておりより高度な教育をおさめることを奨励している。そして実際に多くの教育機関を立ち上げている。なので著者は教育が悪だという考えを持っている人ではない。

この言葉を読んでひとつのことを思い出した。「アーミッシュ」である。以前にも投稿したことがあるが、米国ペンシルバニア州やカナダなどに居住するドイツ系移民の宗教団体である。自給自足をしており原始キリスト教会のような素朴で質素な生活をする。全世界におよそ35万人いると言われる。教育は彼らのコミュニティー内で8年間行われる。科目は算数、英語、ドイツ語。それ以上の教育を受けることで知識が増し謙虚さが失われるという理由から教育期間は8年とされている。また聖書以外の本を読むことも禁止されている。知識を害悪と捉える典型だと思うが、イエスキリストの弟子集めにも同じような思想が根底にある気がした。

学問

前述の通り自分は大学までの教育しか受けておらず、しかもその内容の殆どを忘れている。なので、学問を語る資格は無いのだがこの文章を読んで感じたことを自分なりにまとめてみた。

(1)神を理解するのも学問

学問に優劣はないと思っているが、自分は自然科学系の勉強しかしてこなかったので他の領域がよくわからない。なので自然科学に限って、の考えである。自然科学を学ぶことは自分の信仰、聖書の神様を理解する上で非常に有益であると思っている。ある講義で90分の授業の殆どを先生がずっと式を展開しそれをノートに書き写すことがあった。ただでさえ理解が遅い方なので書き写しながら理解するのには苦労した。が、後半に向かって少しずつ積分の次数が減ってきた。複雑な式が徐々に落ち着いて単純さが見えるようになった。そして結論。「長々と式を展開してきたが、最終的にエネルギーは温度にしか依存していないことがこの結論から分かる・・・」と言って最後にとても単純な式を示してくださった。思わず涙がこぼれた。自然界を学ぶことは神様に出会うことであると物理の講義から何度も経験してきた。神様は自然界を「調和、美、単純」の3つを兼ね備えて創造されたと信じているが、高等教育の物理を通してでないと行き着けない領域、神様をより深く理解する領域があることは確かだと思う。古典物理学、特に力学分野の基礎をつくったアイザック・ニュートンは次のように自分のことを述べている。

I was like a boy playing on the sea-shore, and diverting myself now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me.

私は、海辺で遊んでいる少年のようである。ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに。

こと自然科学に関していえば、やはり学ぶことが神様を知ることに繋がると思っている。

(2)神を否定するのもまた学問

しかし、一方で知識が増すことで神様を否定することに繋がることもある。ノアの洪水後に、二度と洪水によって滅ぼされないよう天にも届く高い塔を作ろうとした。知識や技術が神様に叛逆した例であろう。前述の自然科学であっても悪に心を支配されその知識や技術を神様を否定することに利用することもできる。そうであればやはり知識など無い方が良い。

土台

要するにどのような土台の上に「学問、知識」を構築するかが問題なのだ。富、名声、人間の考える幸せの追求。これらを土台とするのは良くないとイエスキリストは言う。目に見えないもの、朽ちないものを土台とすべきだと。多くの中学校、高等学校では中間試験が終わり後半に向けて新たな学びが始まっている頃だと思う。将来を背負う彼らが神様を意識し、目に見えないイエス様を土台として知識を積み上げることを願うものである。

20220528礼拝 説教 張田礼

 

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男心をくすぐる

スパイク

高校時代に幾つかの逸話を聞いた。男性用雑誌を作る際必ず売れる方法がある。それは「靴、鞄、腕時計を特集すれば良い」ということだった。全ての人に当てはまるとは思えないが6割以上の男性には少なからず興味を持ってもらえると思う。高校時代、Men’s Clubなる雑誌をよく読んでいた。今で言う所の男性向けファッション系月刊誌だ。知り合いがメンクラの専属モデルをしていることもありお金を貯めて3ヶ月に1度くらいのペースで買っていた。昔は情報源が雑誌かテレビかラジオだったので雑誌から得られる情報は多かった。その他に買っていた雑誌がサッカーマガジン。そしてKeyBoard Magazine。サッカーマガジンからもとても多くのことを学んだ。特に商品情報はテレビやラジオでは得られないので雑誌か直接ショップに行って得るしかない。当時通っていたサッカーショップが原宿駅前の「サッカーショップ カモ」、そして高田馬場駅前の「グランプリスポーツ」。高校時代のアルバイト代は弟にお小遣いをあげ残りの一部を洋服や靴、そしてサッカーグッズに充てていた。当時はあまり種類もなく、またデザインもメーカー問わずどれも殆ど同じだった。ただ足の形が若干違った。自分の足に合うのはadidasかオニツカタイガーだ。今のasicsである。タチカラやプーマは少し足に合わなかった。当時の値段で1万円前後のスパイクを買うのだが、やはりカンガルーの一枚革には憧れていた。一度蹴っただけで破けてしまいそうな薄い革だが足の形にフィットする。自分は一度も買ったことは無いが店頭の商品を履かせてもらい感動していた。もうサッカーができなくなってずいぶん時間が経つが今でもスパイクを見ると懐かしさと憧れで胸がいっぱいになる。

そんな折、先日長男から電話があった。色々なことに興味を持って取り組んでいる最中だがサッカーもその一つである。なんでも良い、勉強以外で無心になれることを見つけて欲しかったので長男がサッカーをするのはとても嬉しい。電話で今のサッカースパイク事情を話していた。今のスパイクがどのようなものなのかは全くわからないので長男から色々と聞いていた。1年半前にスパイクを買ってあげたのだが今もそれでやっているらしい。少し気になるスパイクがあるというのでネットで調べてみるととても格好良かった。今風のカラフルでレースアップの位置が中央ではなく少し偏っているようなものではない。どこか懐かしいデザインだが洗練されている。一目で気に入った。長男との電話の後、そのスパイクを探したのだがどこを探しても売っていない。1時間ぐらい探してやっと一足残っているのを見つけた。サイズも長男のサイズ。同じシリーズのFGやAGはいくつかあるのだがHGが全く売っていない。この一足しかなかった。

枕元に

先ほど長男から電話があった。仕事中だったのでゆっくり話せなかったが声が上ずっていた。「スパイクを注文してくれたんだね。すごく嬉しいよ。これずっと欲しかったから」と興奮気味だった。注文したことを長男には伝えていなかった。サプライズというわけではない。ネットでの注文でどこにもなかった一足だからもしかしたら詐欺かもしれないとも思っていた。期待させて商品が届かなかったら申し訳ないので内緒にしていた。そしていつの間にか自分も忘れてしまっていた。決して安くはないが、子どもが喜ぶのであればやはり安い買い物である。自分が高校時代にしたように、今日長男は新品のスパイクを枕元に置いて眠るのだろうか。

現代と昭和ではスパイクの手入れ方法が違うのだろうか?今度本革の手入れ方法とスタッドの扱いを説明しようか。いや、それはやめておこう。父親から習うより自分でその方法を探した方が良いはずだ。

Someone Is Praying For You – Jeramie Sanico (Cover) with Lyrics

 

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スティーブ・ジョブズ 最後の言葉

大切なもの

先日、AppleのC.E.O.であったスティーブ・ジョブズ氏の「最後の言葉」なるものをネット上で見つけた。出典も曖昧だし彼の著書やメッセージなどの多くを読んできたつもりだがこのような言葉があることは知らなかった。知らなかっただけかもしれないし、フェイクかもしれない。真偽のほどは不明だがいかにもスティーブ・ジョブズが言いそうな内容である。仮に彼が行った言葉でなかったとしても、時間的限りのある人生を送っている我々人類は考えておかなくてはいけない問題だと思う。

以下その内容である。

I reached the pinnacle of

success in the business world.

私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。

 

In others’ eyes, my life is an epitome of success.

他の人の目には、私の人生は、

成功の典型的な縮図に見えるだろう。

 

However, aside from work, I have little joy.

In the end, wealth is only a fact of life that

I am accustomed to.

 

しかし、仕事をのぞくと、喜びが少ない人生だった。

人生の終わりには、富など、私が積み上げてきた

人生の単なる事実でしかない。

 

At this moment, lying on the sick bed and

recalling my whole life,

I realize that all the recognition and wealth that

I took so much pride in, have paled and become

meaningless in the face of impending death.

 

病気でベッドに寝ていると、

人生が走馬灯のように思い出される。

 

私がずっとプライドを持っていたこと、

認証(認められること)や富は、

迫る死を目の前にして

色あせていき、何も意味をなさなくなっている。

 

In the darkness, I look at the green lights from

the life supporting machines and hear the

humming mechanical sounds,

 

この暗闇の中で、生命維持装置の

グリーンのライトが点滅するのを見つめ、

機械的な音が耳に聞こえてくる。

 

I can feel the breath of God and of death drawing closer…

 

神の息を感じる。死がだんだんと近づいている。。。。

 

Now I know, when we have accumulated

sufficient wealth to last our lifetime, we should pursue

other matters that are unrelated to wealth…

 

今やっと理解したことがある。

 

人生において十分にやっていけるだけの

富を積み上げた後は、富とは関係のない

他のことを追い求めた方が良い。

 

Should be something that is more important:

もっと大切な何か他のこと。

 

Perhaps relationships, perhaps art,

perhaps a dream from younger days …   

 

それは、人間関係や、芸術や、

または若い頃からの夢かもしれない。

 

Non-stop pursuing of wealth will only turn

a person into a twisted being, just like me.

 

終わりを知らない富の追求は、

人を歪ませてしまう。私のようにね。

 

God gave us the senses to let us feel

the love in everyone’s heart, not the illusions

brought about by wealth.

 

神は、誰もの心の中に、

富みによってもたらされた幻想ではなく、

 

愛を感じさせるための「感覚」

というものを与えてくださった。

 

The wealth I have won in my life I cannot bring with me.

私が勝ち得た富は、(私が死ぬ時に)

一緒に持っていけるものではない。

 

What I can bring is only the

memories precipitated by love.

 

私が持っていける物は、愛情にあふれた思い出だけだ。

That’s the true riches which will follow you,

accompany you, giving you strength and light to go on.

 

これこそが本当の豊かさであり、あなたとずっと

一緒にいてくれるもの、あなたに力をあたえてくれるもの

あなたの道を照らしてくれるものだ。

 

Love can travel a thousand miles.

Life has no limit. Go where you want to go.

 

Reach the height you want to reach.

It is all in your heart and in your hands.

 

愛とは、何千マイルも超えて旅をする。

人生には限界はない。

 

行きたいところに行きなさい。

 

望むところまで高峰を登りなさい。

 

全てはあなたの心の中にある、

 

全てはあなたの手の中にあるのだから

 

What is the most expensive bed in the world? –

“Sick bed” …

 

世の中で、一番犠牲を払うことになる

「ベッド」は、何か知っているかい? 

シックベッド(病床)だよ。

 

You can employ someone to drive the car for you,

make money for you but you cannot have someone

to bear the sickness for you.

 

あなたのために、ドライバーを誰か雇うこともできる。

お金を作ってもらうことも出来る。

だけれど、あなたの代わりに病気になってくれる人は

見つけることは出来ない。

 

Material things lost can be found.

But there is one thing that can never be

found when it is lost – “Life”.

 

物質的な物はなくなっても、また見つけられる。

 

しかし、一つだけ、なくなってしまっては、

再度見つけられない物がある。

 

人生だよ。命だよ。

 

When a person goes into the operating room,

he will realize that there is one book that he has

yet to finish reading – “Book of Healthy Life”.

 

手術室に入る時、その病人は、まだ読み終えてない

本が1冊あったことに気付くんだ。

 

「健康な生活を送る本」

 

Whichever stage in life we are at right now,

with time, we will face the day when the

curtain comes down.

 

あなたの人生がどのようなステージにあったとしても、

誰もが、いつか、人生の幕を閉じる日がやってくる。

 

Treasure Love for your family,

love for your spouse, love for your friends…

 

あなたの家族のために愛情を大切にしてください。

あなたのパートーナーのために、

あなたの友人のために。

 

Treat yourself well. Cherish others.

 

そして自分を丁寧に扱ってあげてください。

他の人を大切にしてください。

 

追伸

スティーブ・ジョブズの後任は彼自身が決めていた。ティム・クックである。スティーブ・ジョブズに臓器を提供することを申し出るも「君が自分の体に傷をつける必要はない」とティムの気持ちに感謝しながらもその申し出を丁重に断る。スティーブ・ジョブズ亡き後、このモンスター企業、夢と未来を提供し続けるビッグカンパニーをどうしたら良いのかティムクック自身悩んだと思う。スティーブ・ジョブズの大きすぎる影を背負いながら船出した新生Apple。ジョブズがあまり好まなかった色展開を豊富にし、ひとつの製品もどの層にも受け入れられるように工夫した。結果としてジョブズがC.E.O.だった頃よりも収益、株価共に大きく伸びた。2018年夏にはビジネス史上初となる1兆ドル越えを果たした。2017年までにAppleが積み上げたキャッシュはスウェーデンの国家予算を上回る金額であり、ティムがC.E.O.になることで3.7倍の収益を得るようになった。

しかし、未だにAppleと言えばスティーブ・ジョブズであり、ティムクックの名前を知らない人も多いと思う。そんなティムに対してジョブズが語った言葉がある。

「スティーブならどうするだろう?」と、考えるな!

ふたりの友情、関係性がうかがえる言葉である。

そして

やはり人生最大の目的は「イエスキリストと出会う」ことだと思っている。どれだけこの世の富や名誉、名声を得たとしても、また家庭的な幸せを手に入れてもイエスキリストに出会えないことは勿体無い気がする。そして既にイエスキリストに出会った人の目的も「イエスキリストに出会うためのお手伝いをする」ことだと思っている。

更に、ジョブズは「スティーブならどうするだろう?」と考えるな、というが

人生のあらゆる局面において「イエス様ならどうするか?(What Would Jesus Do?)」と考えることは大切なことだと思う。

人生について、生きるということについて考えさせられた。

天沼教会2022528日礼拝「背を向けたヘロデ」東 清志天沼教会副牧師

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計画の実現

進路サポート

2018年、教頭から一担任に戻った。およそ20年ぶりの担任だったので心が躍った。学年主任と教頭でおよそ20年間担任を外れていた自分にはチャレンジしたいことが山ほどあった。しかし、自分が教頭でありながら教授法や学習指導に対する考え方、また導入される教材や取引先までを決定する権限は持っていない。全て教師会で決定する。強い意見があれば、考えなくそれに同調する教員もいる。例えば、自分はベネッセがあまり好きではない。かつてベネッセに関わっていたこともあり会社の考え方があまり好きになれなかった。が、現場の教員はベネッセと取引することで効率を上げようとした。英語の試験につても自分は「英語検定」を推奨したが英語科は「GTEC」の導入を決めた。ご存知の通り、ベネッセの勢いもすぐには形にならずGTECを選んだことを結果的に失敗になった。

ベネッセの影響を強く受けた教員たちが次に考えたのが「進路サポート」の導入である。これには自分も一教員として、またクリスチャン教師として反対した。自分の将来を決めるときに何故市販の教材に従い社会の流れに乗らなくてはならないのか理解できなかったからだ。しかし、「進路サポート」も導入されてしまった。自分が担任に返り咲いたときにこの教材を使わなくてはならなくなっていた。が、実際にはこの教材の10%ぐらいしか用いなかった。この教材で最も多く出てくる言葉が「自己実現」である。自分の目指す真の教育、預言者の学校では「自己」ではなく「神」の意思を実現させることが最大の幸福であると信じている。だからベネッセは使わなかった。使えなかった。

バプテスマのヨハネ

聖書には何人もヨハネなる人物が登場するが、イエスと同世代で親戚でもある「バプテスマのヨハネ」という人物がいる。イエスキリストが公生涯に入る前にバプテスマを授けてもらうのだが、それがバプテスマのヨハネである。「そんなことできません。恐れ多いことで・・・」と謙虚に断るヨハネの言葉をよそにイエス様はヨハネによりバプテスマを授けてもらう。ヨハネは人里離れたところで暮らし、日中は人々のところでメシアなるキリストがいらっしゃることを説いた。いわゆる露払いである。正義を曲げることのないヨハネは、ペレアの領主であるヘロデアンティパスの略奪婚を強く非難した。兄弟の妻であったヘロディアを自分の妻としてしまったことは許されない罪であると糾弾した。ヘロデはこの糾弾に心を痛めながらもヨハネを預言者として認め彼の話を聞くことを好んだ。が、結局ヘロディアの差し金によりそれに強く反対できないヘロデアンティパスはヨハネの処刑に同意してしまう。

メシアなるイエスキリストを人々に紹介し、自分の弟子であったものもヨハネからイエスの元に行ってしまい最終的には処刑されてしまう。真面目に生活している人が何故?という気持ちになってします。自分が読んでいる書物にもそのように書かれていた。

ヨハネが自分の使命に感じていた喜びは別として、彼の一生は悲しみの一生であった。彼の声は荒野よりほかのところではめったにきかれなかった。彼は孤独な身分であった。彼は自分自身の働きの結果を見ることをゆるされなかった。
各時代の希望電子版 p210. ヨハネの投獄と死

エリヤのように、天から火を呼びおろしたり、死人をよみがえらせたり、モーセのように、神のみ名によって権力の杖を使うことは、ヨハネ にゆるされなかった。彼は、救い主の来臨をさきぶれし、その現われに対して備えるように民に呼びかけるためにつかわされた。彼は、その使命を忠実に果したので、彼がイエスについて教えたことを人々が思い出した時に、彼らは、「ヨハネがこのかたについて言ったことは、皆ほんとうであった」と言うことができた(ヨハネ 10:41)。主の弟子たちはみな、キリストについて、このようなあかしをたてるために召されてい るのである。
各時代の希望電子版 p210 ヨハネの投獄と死

神実現

多くの人々の心にとって、バプテスマのヨハネの運命は、深い神秘につつまれている。なぜヨハネは牢獄の中で衰弱し、死ぬがままに放っておかれたのかと彼らは質問する。われわれ人間の目では、この暗い摂理の神秘を見通すことはできない。しかしヨハネはキリストと苦難を共にしたにすぎないのだということをおぼえている時、神に対するわれわれの信頼は決して動揺させられることがない。キリストに従う者はみな犠牲の冠をかぶるのである。彼らは、かならず利己的な人々から誤解され、 サタンの激しい攻撃のまととなる。サタンの王国は、この自己犠牲の原則を滅ぼすために建てられているのであって、彼はどこでもこの原則があらわされると戦うのである。
各時代の希望電子版 p215. ヨハネの投獄と死

ヨハネは神様のご計画されたことを実現する一端を担うことができればそれで満足だったのだろう。徹底した自己否定。自我が強すぎる自分にはヨハネの生き方に憧れながらも真似することはできない。ヨハネだから送れた生涯なのだと思う。そしてイエス様から「女の生んだものの中で最も偉大な人物」と評された。今日はヨハネの生涯について読んでいたが多くのことを考えさせられ反省させられた。そして読んでいた本の最後の言葉に惹きつけられた。

もし神の子らが始めから終りを見通すことができ、神の共労者として 自分の果している栄光ある目的をみとめることができたら、彼らは、神がみちびかれる以外の道を決して選ばないであろう。天に移されたエノクも、火の車で天へのぼったエリヤも、ただ1人牢獄の中で殺されたバプテスマのヨハネより偉大であったのでもなければ、彼よりとうとばれたのでもない。「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだ けではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」(ピリピ 1:29)。 天が人に与えることのできるすべての賜物の中で、キリストと共にその苦難にあずかることは、最も重い信任であり、最高の栄誉である。

各時代の希望電子版 p216 ヨハネの投獄と死

間口は広いけど奥が深いキリスト教、自分はまだまだであることを痛感した。

聖書研究ガイド2229

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自分の力ではなく

ある書物より

キリストのみことばは、われわれが自分自身を、天の神に結びついて離れることのできない者とみなすように教えている。われわれの立場がどんなものであろうと、われわれは、すべてのものの運命をご自身のみ手ににぎっておられる神に依存しているのである。神はわれわれを働きに任命し、その働きに必要な才能や手段をお与えになった。われわれが意志を神に服従させ、神の力と知恵に信頼するかぎり、われわれは安全な道にみちびかれ、神の大いなる計画の中に定められているわれわれの立場を果すのである。しかし自分自身の知恵と力とをあてにする者は、 自分を神からひき離しているのである。彼はキリストと一致して働かな いで、神と人との敵であるサタンの目的を果しているのである。
各時代の希望電子版 p196 ベテスダとサンヒドリン

 

聖書研究ガイド22年2期9課

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見ないで信じる

神の時と神の方法

色々な種類の間違いがある。うっかりミス、熟考した末の決断がうまくいかなかったり前提条件が崩れることで予定通りにいかなくなること等々。人間や人間が作り出したものは必ず間違いやミスをおかす。現在少しずつ読み進めている本があるが、心に残る言葉を書き留めるべくコンピュータのメモ帳に本文を写している。色々な形の本になっているので頁を記載してもバージョンによってページ数が全く違う。そのため、書き写した「章」のタイトルを書き添えるようにしているのだが、先日転記していた章が「神の宮で」というところだった。その通りタイプしたが変換されたものがあまりにも本物とかけ離れていたので一瞬頭が真っ白になった。コンピュータが変換したのは「神呑み屋で」だった。間違いは起きるし、間違いが起きる前提が人間の限界とも言える。しかし、絶対に間違いをおかさない唯一の存在が神様である。絶対に間違わない。そして必ず約束を守ってくださる。ご自分の栄光と人間に対する深い愛情の故に決して約束を破ることはない。人間が考える方法や時とは異なる「神様の時と方法」で約束したことを成就してくださる。

トマス

イエスキリストの弟子に「トマス」という人がいる。ディディモとも呼ばれるトマスである。彼はイエスキリストが復活し弟子たちにその姿を表した時、その場にいなかった。あとから仲間からイエス様の復活を伝えられるのだが「自分は証拠を見ない限り信じない」と言ってその復活を信じなかった。

十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。 25ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
ヨハネによる福音書20:24,25

この出来事からトマスは「疑い深いトマス」と評され後世の現代まで伝えられてしまった。勿論このあとでイエス様はトマスにも復活のお姿を見せられ釘痕や槍の傷跡に指を入れなさいと言われる。トマスは恥じ入り不信仰を詫びる。この時イエス様はトマスに対して次のように言われた。

イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」
ヨハネによる福音書20:29

一義的にはトマスに対して言われているが文脈からその場にいた人々や後世の人々、そして現在の自分に言われている気がする。見えているものを信じたところでそれが信仰だろうか、と言われている。

カナの役人

イエスキリストの癒しについては聖書が多くを語っているがその中にカナの役人が息子の病を治して欲しいと訴える場面が出ている。癒しを患者自身がイエス様に近づくこともあれば、イエス様の方から患者に近づいてくださることもある。また病人の代理が癒しを懇願しにくるパターンもある。カナの役人はそのパタンである。

46イエスは、またガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にかえられた所である。ところが、病気をしているむすこを持つある役人がカペナウムにいた。 47この人が、ユダヤからガリラヤにイエスのきておられることを聞き、みもとにきて、カペナウムに下って、彼の子をなおしていただきたいと、願った。その子が死にかかっていたからである。 48そこで、イエスは彼に言われた、「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう」。 49この役人はイエスに言った、「主よ、どうぞ、子供が死なないうちにきて下さい」。 50イエスは彼に言われた、「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」。彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った。 51その下って行く途中、僕たちが彼に出会い、その子が助かったことを告げた。 52そこで、彼は僕たちに、そのなおりはじめた時刻を尋ねてみたら、「きのうの午後一時に熱が引きました」と答えた。 53それは、イエスが「あなたのむすこは助かるのだ」と言われたのと同じ時刻であったことを、この父は知って、彼自身もその家族一同も信じた。 54これは、イエスがユダヤからガリラヤにきてなされた第二のしるしである。
ヨハネによる福音書4:46-54

ある本から

この場面について自分が今読んでいる本が次のように解説していた。

カペナウムで役人を祝福されたお方は同じようにわれわれを祝福しようと望んでおられる。だがこの苦悩していた父親のように、われわれはしばしば何かこの世の利益を望んでイエスを求める。そして自分の願いがかなえられたら、イエスの愛に信頼しようとする。救い主はわれわれが求めるよりももっと大きな祝福を与えようと望んでおられる。イエスは、われわれ自身の心の悪と、イエスの恵みの深い必要とを示すために、われわれの願いに対する答えを遅らせられる。イエスはわれわれが、 利己的な動機からイエスを求めることをやめるように望んでおられる。 自分の無力と大きな必要を告白して、われわれはイエスの愛に自分自身をまったく委ねるのである。この役人は、信じる前に自分の祈りの成就を目に見たいと望んだ。しかし彼は、彼のたのみがきかれて祝福が与えられたというイエスのみことばを信じなければならなかった。この教訓をわれわれもまた学ばねばならない。われわれは、神がわれわれの願いをきかれるのを見たり感じたりするから、信じるのではない。われわれは、神の約束に信頼するのである。信仰をもって神のみもとに行く時、願いごとはすべて神のみ心にとめられる。神の祝福を求めたら、それを受けることを信じ、そして、、、それを受けたことを感謝すべきである。それからわれわれは、最も必要な時にその祝福が実現されることを確信して、自分の義務をつくすのである。こうすることをわれわれが学んだ時、われわれは祈りが答えられることを知る。神はわれわれのために、「その栄光の富にしたがい」「神の力強い活動によって」「はるかに越えて」なしてくださるのである(エ ペソ 3:16、1:19、3:20)。
各時代の希望電子版 p184,185 「あなた方はしるしと奇跡を見ない限り」

見ないで信じることは容易なことではないが、イエス様は人間がそのようになることを期待しているのでその力を祈り求めるものでありたい。

The King´s Heralds – Champion of Love

 

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マウスコンピューター

春日部

自分は東京都板橋区に生まれ育った。板橋区大谷口北町、東武東上線の中板橋から徒歩6、7分のところに家があった。中学、高校と親元を離れ寮生活をしていたので大学ぐらいは実家に、と思い神奈川県の大学まで毎日2時間以上かけて通っていた。池袋、新宿を経由して小田急線で大学に行く。帰りは新宿から中央線で荻窪に行きアルバイトをしていた。それこそ寝る時間もないほど忙しい毎日であった。アルバイト先を出るのが午前0時頃。0:08発の電車に乗れれば電車で中板橋まで帰れるがそれを超えると東上線に乗り継げない。アルバイトで稼いでも使い道がなかったので殆どが勉強の参考書になっていた。そして終電を逃した時のタクシー代。0:08発の中央線で高円寺まで行きそこからタクシーの乗ると自宅には0:30頃着ける。環七を使えばあっという間に自宅に着ける。タクシー代もはっきり覚えていないが割増料金でも2000円前後だった気がする。本を買うかタクシーに乗るしかお金を使うことがなかった。それはどうでも良い話であるが、広島の学校に就職したので実家暮らしは大学までとなった。そして就職して3年後、今から30年以上前に実家が埼玉県の春日部市に引っ越した。それ以来両親は春日部に住んでいる。帰省の度に春日部に行くのだがやはり「帰省」という気はしない。土地のことが全くわからないし思い出もない。よそ者が訪問させていただいているような状態である。少し春日部に慣れようと町中を徒歩で回った。古利根川など近所の川でヘラブナ釣りをした。が、やはり春日部は地元ではない。

地元ではないがそれなりに面白いスポットも心得ている。その中のひとつが「マウスコンピューター」である。今は別の会社が入っているがかつて「ロビンソン百貨店」だった建物の正面に「マウスコンピューター」がある。両親が春日部に引っ越した頃、ちょうどマウスコンピューターが誕生した。

沿革

自分は大学時代からアップルコンピュータを使っているのでWindowsマシンのことはよくわからない。現在職場で仕方なくWindowsマシンを使っているが何度使っても慣れない。分からないなりに、マウスコンピューターが誕生した時には何度も足を運んだ。当時はケーブル類やパーツを販売していた気がする。それが行く度に規模が大きくなって行き、いつの日かコンピュータ関係の雑誌にマウスコンピューターの広告が出ているのをみつけて驚いた。そもそもマウスは「髙島屋衣類店」だった。祖父が経営する「髙島屋衣類店」た学校の体操着などをメインに販売する店舗であったが左前になり経営を何とか立て直そうと孫の「髙島勇二」氏がパソコン通信を使ったコンピュータの製造販売を弱冠19歳で起業したのがはじまりである。

1993年4月 – 創業者の髙島勇二が埼玉県春日部市の自宅店舗「高島屋衣類店」でパソコン事業を開始

1998年2月 – 有限会社タカシマより組織変更し、マウスコンピュータージャパン株式会社として設立

1998年8月 – 有限会社エムシージェイ(現:株式会社MCJ)設立。

2006年1月 – 株式会社イーヤマ販売(後のiiyama)を完全子会社化

2006年1月 – 「ウェルコム」(現:WELLCOM株式会社)にコールセンターを委託

2006年9月 – 大阪営業所を開設

2006年10月 – MCJの純粋持株会社化に伴い、同社のPC事業部門が分社化、株式会社マウスコンピューターとして再度設立

2006年10月 – 株式会社iriver japanを設立

2007年4月 – 本社を千代田区外神田に移転

2008年10月 – iiyamaを吸収合併し、iiyama営業部や飯山工場、飯山リペアセンターを利用し、自社組立開始

2011年3月 – 埼玉サービスセンターを春日部市に移転

2018年2月 – iiyamaブランドで5K対応液晶モニタ「ProLite XB2779QQS」を発売

2019年4月 – 「仙台ダイレクトショップ」オープン

現在年商550億、グループ全体では1700億超えの売り上げを誇る会社に成長している。

沖縄にもマウスコンピューター同様のサクセスストーリーがあった気がする。よく覚えていないがキッチンカーで開業し順調に収益を伸ばしレストランを開業した人がいる。が、今も初心を忘れないために時々キッチンカーで営業を行っているという。お金を稼ぐこと、事業を拡大することが成功とは言えないかもしれないが多くの人がそこを目指す。志があれば経営危機がチャンスとなる。お店が持てないからキッチンカーにすることで助成金に背中を押され夢に向かう第一歩が踏み出せる。

「神様と出会う」という人生最大の成功も同じだと思う。ピンチの中だからこそ出会える神様がいる。信仰生活のノウハウもよく分からず手探りで始めるから大ベテランには味わえない祝福がある。

「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。 見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意、それから処罰に至らせたことか。あなたがたはあの問題については、すべての点において潔白であることを証明したのである。」
コリント人への第二の手紙 7:10-11 口語訳

THE HOLY CITY (Jerusalem, Jerusalem) – A Capella Arangement

 

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未だ見ぬ事実

田んぼアート

少し前に地元のことを紹介する記事を投稿したが、今年は「田んぼアート」を開催するようだ。

今日は昼までに給与の振込依頼をするため朝から銀行に向かった。途中、多くの田んぼで田植えが行われていた。広島に住んでいた時、三原市大和町ではゴールデンウイーク頃に田植えをしていた。4月後半から、都会に出ていた子や孫が帰省して一斉に田植えをする。その様子を見るのが大好きだった。地元津軽地方ではそれからおよそ1ヶ月遅れての田植えが行われている。田植えは神事とも言われるが、銀行に向かう途中、数カ所で田植えの光景が見られ穏やかな気持ちにさせられた。銀行では給与振込の他に幾つかの用があり大金を動かすので少々緊張していたが帰りは身軽になり少し心にゆとりが生まれた。そして「もしかしたら田んぼアートの植え付けもやっているのではないか」と思い役場裏の会場を通ってみた。すると案の定田植えをする準備をしていた。かなり精巧に植え付けるため測量して無数にテープをはりめぐらせて準備をしていた。自分が通りかかった時は一通りの印がつけられこれから植え付けをするタイミングだったようだ。何も無い、ただ泥だけの田んぼだが、一変して素晴らしい写真のような絵になることをスタッフの皆様は見ているのだろう。5~7種類の苗が成長して異なる色の絵の具に変化する。

見えない事実

キリスト教の世界では「見えない事実、未来に起こる出来事を見据えて神様に感謝する」ことを信仰と言い、そのような力が得られるように神様が一人一人にあった方法で教育する、と考える。聖書に出て来る「未だ見ていない事象を信じ」とことで賞賛される人物がたくさんいる。そのような信仰者を列記したのが「ヘブル人への手紙11章」である。

1さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 2昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。 3信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。 4信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。 5信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。 6信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。 7信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。 8信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。 9信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。 10彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。 11信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。 12このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。
13これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 14そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。 15もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。 16しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。
17信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。 18この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。 19彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。 20信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。 21信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。 22信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。
23信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。 24信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、 25罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、 26キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。 27信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。 28信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。 29信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。 30信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。 31信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。 32このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。 33彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、 34火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。 35女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。 36なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。 37あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、 38(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。
39さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。 40神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。
ヘブル人への手紙11章

見えるものを信じることは信仰では無いとイエス様は仰る。また、見えないものこそが永遠に続くものであるとも教えている。聖書を読むことで見えない世界、未来を見通せるようになりたい。

2018(平成30)年 田舎館村田んぼアート

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Difficult to cure

治療困難

自分の仕事が日々変化しており一体自分は何をしているのだろう?と思うことがよくある。用度課とは名ばかりで用度の仕事は殆どしていない。やっていることといえばもう一人のスタッフとともに小口現金を管理する。毎日会計日記帳をつけ税理士事務所とオンラインでつながっているコンピュータに入力する。また給与計算や銀行にて振込依頼をするのも自分の仕事である。設備関係に不備があれば修繕し必要に応じて業者さんに依頼する。基本的には「お金をかけないで」という絶対条件があるので知恵を働かせ廃材のようなものを整理して保管しておく。送迎のドライバーをすることもごく稀だがある。3つの介護施設を併設しているがそちらとのやりとりの一部も担当している。これは殆ど使いっ走りのようなもので頭は使わない。そして牧師先生が来られる部屋の管理、というか掃除。更に毎日の郵便の整理も自分がしている。介護施設と医院の郵便物を仕分けし、医院のものを担当の部門に配る。月はじめは請求書で溢れかえる。また今の時期は固定資産税やそのほかの税金関連の書類が多い。毎日ではないが結構な頻度で来るのが他の病院とのやりとりに関する通信。検査を依頼したり他の病院から患者さんを受け入れられるかの打診など。また検査結果などの通知も多い。恐ろしいことだがそれらの通信全てに自分が目を通す。見ても分からないのだが目を通す。個人情報も多々あるので一瞬見て内容を判断してその後の処理を決める。が、時々「癌」「治療不可」などの文字が目に入ってしまう。患者さんの名前などを見ないように気をつけているが「癌」「治療不可」「家族も承知している」「延命措置不要」などの文字を見ると胸が締め付けられる。当の本人が知らないところで医療関係者や家族の間でこのような単語が行き交っていることを考えると悲しい気持ちになる。

よみがえり

昔、ずっと昔だが洋楽が大好きでたまらなかった頃、あるグループが「I Surrender 」というアルバムを1980年に発表した。自分が高校2年の時であった。まだレコードとカセットテープが主流でCDがまだなかった。このアルバムにあるクラシックをアレンジした「Difficult to cure」という曲がある。このグループはギターのリッチー・ブラックモアという人が有名でこの曲も彼の演奏テクニックが随所に光る。原曲は大晦日に喜びの歌として公演されることが多い曲だが何故かタイトルはDifficult to cure。「治療不可」という言葉と曲のイメージがかけ離れているのでとても印象に残っている。治療不可、治療できない、手遅れ、なすすべがない・・・。

聖書の中には難しい病気が癒される場面がいくつも出て来る。病だけでなく悪霊にとりつかれている人が癒される場面もある。更に、亡くなった方が生き返る場面さえある。預言者エリヤがザレパテのやもめの息子を復活させたのを皮切りにエリシャがシュネムの女の息子を、イエスがナインのやもめの息子、ヤイロの娘、ラザロ、を復活させた。またペテロがドルカスを復活させればパウロは高所から落ちて亡くなったユテコを復活させた。神様の超自然的な力により十字架の場面で人が復活しまたエリシャの骨に触れた死体も生き返った。イエス様の癒しの御手に不可能はない。そのような力がありながら、ある人は癒されある人はこの世の生涯からしばらくの休みにうつされる。その理由や神様のお考えは全く分からないが、全ての人を癒す力をお持ちであることは間違いない。

希望が見出せない時

希望と勇気は、神に完全な奉仕をするために、ぜひ必要なものである。 これらは信仰の実である。神はご自分のしもべたちが試練に遭った時に必要な力を、豊かに彼らに与えることがおできになる。そしてそうしよ うと望んでおられるのである。神の働きに対する敵の策略は、よく計画され確立しているように見えるであろう。しかし神は、これらの計画の最も強力なものでも、覆すことがおできである。そして神はしもべたちの信仰が十分に試めされたことをごらんになる時に、神ご自身の時と方法においてこれをなさるのである。

気落ちしている者に対して、信頼できる救済策がある。それは信仰と祈りと行いである。信仰と活動は、日毎に増大する確信と満足とを与える。あなたは不吉な予感に恐れを感じ、失望落胆に陥ろうとしているであろうか。一見絶望的で、最悪の事態にあっても恐れてはならない。神を信じよう。神はあなたの必要を知っておられる。神はすべての力を持っておられる。神の無限の愛と憐れみは、消耗することがない。神はその約束をなし遂げられないのではないかと恐れてはならない。神は永遠の真理である。神は、神を愛する人々と結ばれた契約を変更なさらない。 そして神は、忠実なしもべたちが必要とするだけの能力をお与えになる。 使徒パウロは、次のようにあかししている。「『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。・・・・ だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、 わたしは強いからである」(IIコリント 12:9、10)。
国と指導者 電子版p104 砂漠へ逃れる預言者

 

30年近く前に担任した生徒さん。今は東京で立派な牧師先生として活躍していらっしゃる。
522日 1030分~藤井清邦牧師

 

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