計画の実現

進路サポート

2018年、教頭から一担任に戻った。およそ20年ぶりの担任だったので心が躍った。学年主任と教頭でおよそ20年間担任を外れていた自分にはチャレンジしたいことが山ほどあった。しかし、自分が教頭でありながら教授法や学習指導に対する考え方、また導入される教材や取引先までを決定する権限は持っていない。全て教師会で決定する。強い意見があれば、考えなくそれに同調する教員もいる。例えば、自分はベネッセがあまり好きではない。かつてベネッセに関わっていたこともあり会社の考え方があまり好きになれなかった。が、現場の教員はベネッセと取引することで効率を上げようとした。英語の試験につても自分は「英語検定」を推奨したが英語科は「GTEC」の導入を決めた。ご存知の通り、ベネッセの勢いもすぐには形にならずGTECを選んだことを結果的に失敗になった。

ベネッセの影響を強く受けた教員たちが次に考えたのが「進路サポート」の導入である。これには自分も一教員として、またクリスチャン教師として反対した。自分の将来を決めるときに何故市販の教材に従い社会の流れに乗らなくてはならないのか理解できなかったからだ。しかし、「進路サポート」も導入されてしまった。自分が担任に返り咲いたときにこの教材を使わなくてはならなくなっていた。が、実際にはこの教材の10%ぐらいしか用いなかった。この教材で最も多く出てくる言葉が「自己実現」である。自分の目指す真の教育、預言者の学校では「自己」ではなく「神」の意思を実現させることが最大の幸福であると信じている。だからベネッセは使わなかった。使えなかった。

バプテスマのヨハネ

聖書には何人もヨハネなる人物が登場するが、イエスと同世代で親戚でもある「バプテスマのヨハネ」という人物がいる。イエスキリストが公生涯に入る前にバプテスマを授けてもらうのだが、それがバプテスマのヨハネである。「そんなことできません。恐れ多いことで・・・」と謙虚に断るヨハネの言葉をよそにイエス様はヨハネによりバプテスマを授けてもらう。ヨハネは人里離れたところで暮らし、日中は人々のところでメシアなるキリストがいらっしゃることを説いた。いわゆる露払いである。正義を曲げることのないヨハネは、ペレアの領主であるヘロデアンティパスの略奪婚を強く非難した。兄弟の妻であったヘロディアを自分の妻としてしまったことは許されない罪であると糾弾した。ヘロデはこの糾弾に心を痛めながらもヨハネを預言者として認め彼の話を聞くことを好んだ。が、結局ヘロディアの差し金によりそれに強く反対できないヘロデアンティパスはヨハネの処刑に同意してしまう。

メシアなるイエスキリストを人々に紹介し、自分の弟子であったものもヨハネからイエスの元に行ってしまい最終的には処刑されてしまう。真面目に生活している人が何故?という気持ちになってします。自分が読んでいる書物にもそのように書かれていた。

ヨハネが自分の使命に感じていた喜びは別として、彼の一生は悲しみの一生であった。彼の声は荒野よりほかのところではめったにきかれなかった。彼は孤独な身分であった。彼は自分自身の働きの結果を見ることをゆるされなかった。
各時代の希望電子版 p210. ヨハネの投獄と死

エリヤのように、天から火を呼びおろしたり、死人をよみがえらせたり、モーセのように、神のみ名によって権力の杖を使うことは、ヨハネ にゆるされなかった。彼は、救い主の来臨をさきぶれし、その現われに対して備えるように民に呼びかけるためにつかわされた。彼は、その使命を忠実に果したので、彼がイエスについて教えたことを人々が思い出した時に、彼らは、「ヨハネがこのかたについて言ったことは、皆ほんとうであった」と言うことができた(ヨハネ 10:41)。主の弟子たちはみな、キリストについて、このようなあかしをたてるために召されてい るのである。
各時代の希望電子版 p210 ヨハネの投獄と死

神実現

多くの人々の心にとって、バプテスマのヨハネの運命は、深い神秘につつまれている。なぜヨハネは牢獄の中で衰弱し、死ぬがままに放っておかれたのかと彼らは質問する。われわれ人間の目では、この暗い摂理の神秘を見通すことはできない。しかしヨハネはキリストと苦難を共にしたにすぎないのだということをおぼえている時、神に対するわれわれの信頼は決して動揺させられることがない。キリストに従う者はみな犠牲の冠をかぶるのである。彼らは、かならず利己的な人々から誤解され、 サタンの激しい攻撃のまととなる。サタンの王国は、この自己犠牲の原則を滅ぼすために建てられているのであって、彼はどこでもこの原則があらわされると戦うのである。
各時代の希望電子版 p215. ヨハネの投獄と死

ヨハネは神様のご計画されたことを実現する一端を担うことができればそれで満足だったのだろう。徹底した自己否定。自我が強すぎる自分にはヨハネの生き方に憧れながらも真似することはできない。ヨハネだから送れた生涯なのだと思う。そしてイエス様から「女の生んだものの中で最も偉大な人物」と評された。今日はヨハネの生涯について読んでいたが多くのことを考えさせられ反省させられた。そして読んでいた本の最後の言葉に惹きつけられた。

もし神の子らが始めから終りを見通すことができ、神の共労者として 自分の果している栄光ある目的をみとめることができたら、彼らは、神がみちびかれる以外の道を決して選ばないであろう。天に移されたエノクも、火の車で天へのぼったエリヤも、ただ1人牢獄の中で殺されたバプテスマのヨハネより偉大であったのでもなければ、彼よりとうとばれたのでもない。「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだ けではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」(ピリピ 1:29)。 天が人に与えることのできるすべての賜物の中で、キリストと共にその苦難にあずかることは、最も重い信任であり、最高の栄誉である。

各時代の希望電子版 p216 ヨハネの投獄と死

間口は広いけど奥が深いキリスト教、自分はまだまだであることを痛感した。

聖書研究ガイド2229

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自分の力ではなく

ある書物より

キリストのみことばは、われわれが自分自身を、天の神に結びついて離れることのできない者とみなすように教えている。われわれの立場がどんなものであろうと、われわれは、すべてのものの運命をご自身のみ手ににぎっておられる神に依存しているのである。神はわれわれを働きに任命し、その働きに必要な才能や手段をお与えになった。われわれが意志を神に服従させ、神の力と知恵に信頼するかぎり、われわれは安全な道にみちびかれ、神の大いなる計画の中に定められているわれわれの立場を果すのである。しかし自分自身の知恵と力とをあてにする者は、 自分を神からひき離しているのである。彼はキリストと一致して働かな いで、神と人との敵であるサタンの目的を果しているのである。
各時代の希望電子版 p196 ベテスダとサンヒドリン

 

聖書研究ガイド22年2期9課

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見ないで信じる

神の時と神の方法

色々な種類の間違いがある。うっかりミス、熟考した末の決断がうまくいかなかったり前提条件が崩れることで予定通りにいかなくなること等々。人間や人間が作り出したものは必ず間違いやミスをおかす。現在少しずつ読み進めている本があるが、心に残る言葉を書き留めるべくコンピュータのメモ帳に本文を写している。色々な形の本になっているので頁を記載してもバージョンによってページ数が全く違う。そのため、書き写した「章」のタイトルを書き添えるようにしているのだが、先日転記していた章が「神の宮で」というところだった。その通りタイプしたが変換されたものがあまりにも本物とかけ離れていたので一瞬頭が真っ白になった。コンピュータが変換したのは「神呑み屋で」だった。間違いは起きるし、間違いが起きる前提が人間の限界とも言える。しかし、絶対に間違いをおかさない唯一の存在が神様である。絶対に間違わない。そして必ず約束を守ってくださる。ご自分の栄光と人間に対する深い愛情の故に決して約束を破ることはない。人間が考える方法や時とは異なる「神様の時と方法」で約束したことを成就してくださる。

トマス

イエスキリストの弟子に「トマス」という人がいる。ディディモとも呼ばれるトマスである。彼はイエスキリストが復活し弟子たちにその姿を表した時、その場にいなかった。あとから仲間からイエス様の復活を伝えられるのだが「自分は証拠を見ない限り信じない」と言ってその復活を信じなかった。

十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。 25ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
ヨハネによる福音書20:24,25

この出来事からトマスは「疑い深いトマス」と評され後世の現代まで伝えられてしまった。勿論このあとでイエス様はトマスにも復活のお姿を見せられ釘痕や槍の傷跡に指を入れなさいと言われる。トマスは恥じ入り不信仰を詫びる。この時イエス様はトマスに対して次のように言われた。

イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」
ヨハネによる福音書20:29

一義的にはトマスに対して言われているが文脈からその場にいた人々や後世の人々、そして現在の自分に言われている気がする。見えているものを信じたところでそれが信仰だろうか、と言われている。

カナの役人

イエスキリストの癒しについては聖書が多くを語っているがその中にカナの役人が息子の病を治して欲しいと訴える場面が出ている。癒しを患者自身がイエス様に近づくこともあれば、イエス様の方から患者に近づいてくださることもある。また病人の代理が癒しを懇願しにくるパターンもある。カナの役人はそのパタンである。

46イエスは、またガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にかえられた所である。ところが、病気をしているむすこを持つある役人がカペナウムにいた。 47この人が、ユダヤからガリラヤにイエスのきておられることを聞き、みもとにきて、カペナウムに下って、彼の子をなおしていただきたいと、願った。その子が死にかかっていたからである。 48そこで、イエスは彼に言われた、「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう」。 49この役人はイエスに言った、「主よ、どうぞ、子供が死なないうちにきて下さい」。 50イエスは彼に言われた、「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」。彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った。 51その下って行く途中、僕たちが彼に出会い、その子が助かったことを告げた。 52そこで、彼は僕たちに、そのなおりはじめた時刻を尋ねてみたら、「きのうの午後一時に熱が引きました」と答えた。 53それは、イエスが「あなたのむすこは助かるのだ」と言われたのと同じ時刻であったことを、この父は知って、彼自身もその家族一同も信じた。 54これは、イエスがユダヤからガリラヤにきてなされた第二のしるしである。
ヨハネによる福音書4:46-54

ある本から

この場面について自分が今読んでいる本が次のように解説していた。

カペナウムで役人を祝福されたお方は同じようにわれわれを祝福しようと望んでおられる。だがこの苦悩していた父親のように、われわれはしばしば何かこの世の利益を望んでイエスを求める。そして自分の願いがかなえられたら、イエスの愛に信頼しようとする。救い主はわれわれが求めるよりももっと大きな祝福を与えようと望んでおられる。イエスは、われわれ自身の心の悪と、イエスの恵みの深い必要とを示すために、われわれの願いに対する答えを遅らせられる。イエスはわれわれが、 利己的な動機からイエスを求めることをやめるように望んでおられる。 自分の無力と大きな必要を告白して、われわれはイエスの愛に自分自身をまったく委ねるのである。この役人は、信じる前に自分の祈りの成就を目に見たいと望んだ。しかし彼は、彼のたのみがきかれて祝福が与えられたというイエスのみことばを信じなければならなかった。この教訓をわれわれもまた学ばねばならない。われわれは、神がわれわれの願いをきかれるのを見たり感じたりするから、信じるのではない。われわれは、神の約束に信頼するのである。信仰をもって神のみもとに行く時、願いごとはすべて神のみ心にとめられる。神の祝福を求めたら、それを受けることを信じ、そして、、、それを受けたことを感謝すべきである。それからわれわれは、最も必要な時にその祝福が実現されることを確信して、自分の義務をつくすのである。こうすることをわれわれが学んだ時、われわれは祈りが答えられることを知る。神はわれわれのために、「その栄光の富にしたがい」「神の力強い活動によって」「はるかに越えて」なしてくださるのである(エ ペソ 3:16、1:19、3:20)。
各時代の希望電子版 p184,185 「あなた方はしるしと奇跡を見ない限り」

見ないで信じることは容易なことではないが、イエス様は人間がそのようになることを期待しているのでその力を祈り求めるものでありたい。

The King´s Heralds – Champion of Love

 

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マウスコンピューター

春日部

自分は東京都板橋区に生まれ育った。板橋区大谷口北町、東武東上線の中板橋から徒歩6、7分のところに家があった。中学、高校と親元を離れ寮生活をしていたので大学ぐらいは実家に、と思い神奈川県の大学まで毎日2時間以上かけて通っていた。池袋、新宿を経由して小田急線で大学に行く。帰りは新宿から中央線で荻窪に行きアルバイトをしていた。それこそ寝る時間もないほど忙しい毎日であった。アルバイト先を出るのが午前0時頃。0:08発の電車に乗れれば電車で中板橋まで帰れるがそれを超えると東上線に乗り継げない。アルバイトで稼いでも使い道がなかったので殆どが勉強の参考書になっていた。そして終電を逃した時のタクシー代。0:08発の中央線で高円寺まで行きそこからタクシーの乗ると自宅には0:30頃着ける。環七を使えばあっという間に自宅に着ける。タクシー代もはっきり覚えていないが割増料金でも2000円前後だった気がする。本を買うかタクシーに乗るしかお金を使うことがなかった。それはどうでも良い話であるが、広島の学校に就職したので実家暮らしは大学までとなった。そして就職して3年後、今から30年以上前に実家が埼玉県の春日部市に引っ越した。それ以来両親は春日部に住んでいる。帰省の度に春日部に行くのだがやはり「帰省」という気はしない。土地のことが全くわからないし思い出もない。よそ者が訪問させていただいているような状態である。少し春日部に慣れようと町中を徒歩で回った。古利根川など近所の川でヘラブナ釣りをした。が、やはり春日部は地元ではない。

地元ではないがそれなりに面白いスポットも心得ている。その中のひとつが「マウスコンピューター」である。今は別の会社が入っているがかつて「ロビンソン百貨店」だった建物の正面に「マウスコンピューター」がある。両親が春日部に引っ越した頃、ちょうどマウスコンピューターが誕生した。

沿革

自分は大学時代からアップルコンピュータを使っているのでWindowsマシンのことはよくわからない。現在職場で仕方なくWindowsマシンを使っているが何度使っても慣れない。分からないなりに、マウスコンピューターが誕生した時には何度も足を運んだ。当時はケーブル類やパーツを販売していた気がする。それが行く度に規模が大きくなって行き、いつの日かコンピュータ関係の雑誌にマウスコンピューターの広告が出ているのをみつけて驚いた。そもそもマウスは「髙島屋衣類店」だった。祖父が経営する「髙島屋衣類店」た学校の体操着などをメインに販売する店舗であったが左前になり経営を何とか立て直そうと孫の「髙島勇二」氏がパソコン通信を使ったコンピュータの製造販売を弱冠19歳で起業したのがはじまりである。

1993年4月 – 創業者の髙島勇二が埼玉県春日部市の自宅店舗「高島屋衣類店」でパソコン事業を開始

1998年2月 – 有限会社タカシマより組織変更し、マウスコンピュータージャパン株式会社として設立

1998年8月 – 有限会社エムシージェイ(現:株式会社MCJ)設立。

2006年1月 – 株式会社イーヤマ販売(後のiiyama)を完全子会社化

2006年1月 – 「ウェルコム」(現:WELLCOM株式会社)にコールセンターを委託

2006年9月 – 大阪営業所を開設

2006年10月 – MCJの純粋持株会社化に伴い、同社のPC事業部門が分社化、株式会社マウスコンピューターとして再度設立

2006年10月 – 株式会社iriver japanを設立

2007年4月 – 本社を千代田区外神田に移転

2008年10月 – iiyamaを吸収合併し、iiyama営業部や飯山工場、飯山リペアセンターを利用し、自社組立開始

2011年3月 – 埼玉サービスセンターを春日部市に移転

2018年2月 – iiyamaブランドで5K対応液晶モニタ「ProLite XB2779QQS」を発売

2019年4月 – 「仙台ダイレクトショップ」オープン

現在年商550億、グループ全体では1700億超えの売り上げを誇る会社に成長している。

沖縄にもマウスコンピューター同様のサクセスストーリーがあった気がする。よく覚えていないがキッチンカーで開業し順調に収益を伸ばしレストランを開業した人がいる。が、今も初心を忘れないために時々キッチンカーで営業を行っているという。お金を稼ぐこと、事業を拡大することが成功とは言えないかもしれないが多くの人がそこを目指す。志があれば経営危機がチャンスとなる。お店が持てないからキッチンカーにすることで助成金に背中を押され夢に向かう第一歩が踏み出せる。

「神様と出会う」という人生最大の成功も同じだと思う。ピンチの中だからこそ出会える神様がいる。信仰生活のノウハウもよく分からず手探りで始めるから大ベテランには味わえない祝福がある。

「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。 見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意、それから処罰に至らせたことか。あなたがたはあの問題については、すべての点において潔白であることを証明したのである。」
コリント人への第二の手紙 7:10-11 口語訳

THE HOLY CITY (Jerusalem, Jerusalem) – A Capella Arangement

 

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未だ見ぬ事実

田んぼアート

少し前に地元のことを紹介する記事を投稿したが、今年は「田んぼアート」を開催するようだ。

今日は昼までに給与の振込依頼をするため朝から銀行に向かった。途中、多くの田んぼで田植えが行われていた。広島に住んでいた時、三原市大和町ではゴールデンウイーク頃に田植えをしていた。4月後半から、都会に出ていた子や孫が帰省して一斉に田植えをする。その様子を見るのが大好きだった。地元津軽地方ではそれからおよそ1ヶ月遅れての田植えが行われている。田植えは神事とも言われるが、銀行に向かう途中、数カ所で田植えの光景が見られ穏やかな気持ちにさせられた。銀行では給与振込の他に幾つかの用があり大金を動かすので少々緊張していたが帰りは身軽になり少し心にゆとりが生まれた。そして「もしかしたら田んぼアートの植え付けもやっているのではないか」と思い役場裏の会場を通ってみた。すると案の定田植えをする準備をしていた。かなり精巧に植え付けるため測量して無数にテープをはりめぐらせて準備をしていた。自分が通りかかった時は一通りの印がつけられこれから植え付けをするタイミングだったようだ。何も無い、ただ泥だけの田んぼだが、一変して素晴らしい写真のような絵になることをスタッフの皆様は見ているのだろう。5~7種類の苗が成長して異なる色の絵の具に変化する。

見えない事実

キリスト教の世界では「見えない事実、未来に起こる出来事を見据えて神様に感謝する」ことを信仰と言い、そのような力が得られるように神様が一人一人にあった方法で教育する、と考える。聖書に出て来る「未だ見ていない事象を信じ」とことで賞賛される人物がたくさんいる。そのような信仰者を列記したのが「ヘブル人への手紙11章」である。

1さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 2昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。 3信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。 4信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。 5信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。 6信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。 7信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。 8信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。 9信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。 10彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。 11信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。 12このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。
13これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 14そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。 15もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。 16しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。
17信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。 18この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。 19彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。 20信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。 21信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。 22信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。
23信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。 24信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、 25罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、 26キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。 27信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。 28信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。 29信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。 30信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。 31信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。 32このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。 33彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、 34火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。 35女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。 36なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。 37あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、 38(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。
39さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。 40神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。
ヘブル人への手紙11章

見えるものを信じることは信仰では無いとイエス様は仰る。また、見えないものこそが永遠に続くものであるとも教えている。聖書を読むことで見えない世界、未来を見通せるようになりたい。

2018(平成30)年 田舎館村田んぼアート

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Difficult to cure

治療困難

自分の仕事が日々変化しており一体自分は何をしているのだろう?と思うことがよくある。用度課とは名ばかりで用度の仕事は殆どしていない。やっていることといえばもう一人のスタッフとともに小口現金を管理する。毎日会計日記帳をつけ税理士事務所とオンラインでつながっているコンピュータに入力する。また給与計算や銀行にて振込依頼をするのも自分の仕事である。設備関係に不備があれば修繕し必要に応じて業者さんに依頼する。基本的には「お金をかけないで」という絶対条件があるので知恵を働かせ廃材のようなものを整理して保管しておく。送迎のドライバーをすることもごく稀だがある。3つの介護施設を併設しているがそちらとのやりとりの一部も担当している。これは殆ど使いっ走りのようなもので頭は使わない。そして牧師先生が来られる部屋の管理、というか掃除。更に毎日の郵便の整理も自分がしている。介護施設と医院の郵便物を仕分けし、医院のものを担当の部門に配る。月はじめは請求書で溢れかえる。また今の時期は固定資産税やそのほかの税金関連の書類が多い。毎日ではないが結構な頻度で来るのが他の病院とのやりとりに関する通信。検査を依頼したり他の病院から患者さんを受け入れられるかの打診など。また検査結果などの通知も多い。恐ろしいことだがそれらの通信全てに自分が目を通す。見ても分からないのだが目を通す。個人情報も多々あるので一瞬見て内容を判断してその後の処理を決める。が、時々「癌」「治療不可」などの文字が目に入ってしまう。患者さんの名前などを見ないように気をつけているが「癌」「治療不可」「家族も承知している」「延命措置不要」などの文字を見ると胸が締め付けられる。当の本人が知らないところで医療関係者や家族の間でこのような単語が行き交っていることを考えると悲しい気持ちになる。

よみがえり

昔、ずっと昔だが洋楽が大好きでたまらなかった頃、あるグループが「I Surrender 」というアルバムを1980年に発表した。自分が高校2年の時であった。まだレコードとカセットテープが主流でCDがまだなかった。このアルバムにあるクラシックをアレンジした「Difficult to cure」という曲がある。このグループはギターのリッチー・ブラックモアという人が有名でこの曲も彼の演奏テクニックが随所に光る。原曲は大晦日に喜びの歌として公演されることが多い曲だが何故かタイトルはDifficult to cure。「治療不可」という言葉と曲のイメージがかけ離れているのでとても印象に残っている。治療不可、治療できない、手遅れ、なすすべがない・・・。

聖書の中には難しい病気が癒される場面がいくつも出て来る。病だけでなく悪霊にとりつかれている人が癒される場面もある。更に、亡くなった方が生き返る場面さえある。預言者エリヤがザレパテのやもめの息子を復活させたのを皮切りにエリシャがシュネムの女の息子を、イエスがナインのやもめの息子、ヤイロの娘、ラザロ、を復活させた。またペテロがドルカスを復活させればパウロは高所から落ちて亡くなったユテコを復活させた。神様の超自然的な力により十字架の場面で人が復活しまたエリシャの骨に触れた死体も生き返った。イエス様の癒しの御手に不可能はない。そのような力がありながら、ある人は癒されある人はこの世の生涯からしばらくの休みにうつされる。その理由や神様のお考えは全く分からないが、全ての人を癒す力をお持ちであることは間違いない。

希望が見出せない時

希望と勇気は、神に完全な奉仕をするために、ぜひ必要なものである。 これらは信仰の実である。神はご自分のしもべたちが試練に遭った時に必要な力を、豊かに彼らに与えることがおできになる。そしてそうしよ うと望んでおられるのである。神の働きに対する敵の策略は、よく計画され確立しているように見えるであろう。しかし神は、これらの計画の最も強力なものでも、覆すことがおできである。そして神はしもべたちの信仰が十分に試めされたことをごらんになる時に、神ご自身の時と方法においてこれをなさるのである。

気落ちしている者に対して、信頼できる救済策がある。それは信仰と祈りと行いである。信仰と活動は、日毎に増大する確信と満足とを与える。あなたは不吉な予感に恐れを感じ、失望落胆に陥ろうとしているであろうか。一見絶望的で、最悪の事態にあっても恐れてはならない。神を信じよう。神はあなたの必要を知っておられる。神はすべての力を持っておられる。神の無限の愛と憐れみは、消耗することがない。神はその約束をなし遂げられないのではないかと恐れてはならない。神は永遠の真理である。神は、神を愛する人々と結ばれた契約を変更なさらない。 そして神は、忠実なしもべたちが必要とするだけの能力をお与えになる。 使徒パウロは、次のようにあかししている。「『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。・・・・ だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、 わたしは強いからである」(IIコリント 12:9、10)。
国と指導者 電子版p104 砂漠へ逃れる預言者

 

30年近く前に担任した生徒さん。今は東京で立派な牧師先生として活躍していらっしゃる。
522日 1030分~藤井清邦牧師

 

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信じて頼る

出発

しばらく過ごした実家を後にして青森までの帰路に着いた。毎回のことだが家を出る前に部屋でしばらく祈りの時間を過ごす。この家を火事や泥棒色々な災いから守ってください、と祈り始めると次々と祈りの言葉が続く。そして最後に必ず、もう一度この家で両親と会わせてくださいと祈る。いつどのようになってもおかしくない状況なので実家を出る時は今生の別れを意識してしまうからだ。今朝早く姉も来てくれたので4人でオンライン礼拝をした。通い慣れた教会。自分が長年長老としてまた女性執事として奉仕してきた教会を見て両親は何を考えているのだろう。寂しさを感じているのだろうか。祖父母の代から通い続けた教会。東京から埼玉に引っ越しても電車で1時間半かかるこの教会に通い続けた。もっと近くに教会はあるのだがどうしても原宿まで行かないと気が済まない。もしかしたら両親はまたいつか原宿の教会に行けると思っているのだろうか。

委ねる

そんな両親を残してまた家を出てしまった。姉も一緒に出たので両親は一気に寂しくなったと思う。今日と明日は宅配弁当が来ないので色々な料理を作り置きしてきた。全部説明してメッセージメモも残してきたけどまた電話をしないとわかないだろうな、などと考え姉と今後のことを少しだけ話した。どこにいてもできる仕事を自分がしていれば解決の糸口は見つかるようにも思うのだが、生活費の他に教育費もこれから更に掛かるので大胆な冒険はできない。しかし神様の召しにはいつでも従いたいと思っている。何をどのようにしたら良いのか、日々祈りながら答えを待っている。全てを任せる、委ねること以外何もできないことを痛感させられる。

「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」
ヘブル人への手紙 4:16 口語訳

父なる神とみ子の思い

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天の御国

バラ園

実家では普段両親ができないことをやっている。お風呂場などのカビをとったりそのほかの場所の掃除。そして結構長い時間をかけているのが食事と冷蔵庫の整理。冷蔵庫だけではない。色々なところに少し使いかけて放置されている食材などがある。賞味期限を見ては使えるものだけを選別して料理を作る。賞味期限が切れているものはもちろん捨てるのだが、母は認知症なのに冷蔵庫の中に入っているものや缶詰などを覚えていることがあるので捨てる時も何を捨てたかを覚えておく必要がある。また目立たないように紙袋に入れてガムテープで閉じて捨てる。賞味期限が切れているものでも自分が使う分には大丈夫なのではないかと思えるものもある。例えばお茶や海苔、お茶漬けなど。こういうのは自分が青森に持って帰ることにする。何れにしても必要なものは全部こちらで買ってあげたほうが良いと思いながらも、自由に色々なものを買って見たい気持ちも理解できるので何とも言えない。ただ、困るのがテレビやラジオの通販。少し良さそうなものがあると買ってしまう。が、最近はこういう年寄りを狙った商法なのか「定期縛り」が多い。初回のみ500円、などと安い値段で申し込ませるのだが内容は月々の定期購入になっていることが多い。こういうのどのように解約して良いのか分からないで困っているお年寄りも多いのではないだろうか。ある意味振り込め詐欺に似ている気がする。実は実家にもそういう商品がありそれらを解約するのも結構苦労する。現実を見ると悲しくなることばかりである。

実家に戻って毎日近所を買い物がてら散歩しているのだが毎日人が行列をつくっているところがある。最初はおしゃれなカフェなのかな、と思っていたが気になって今日は中まで入ってみた。そこは自宅の庭を無料で開放しているお宅だった。たくさんの種類のバラを育てておりそれを広い庭一面に綺麗に咲かせている。バラ以外の花もたくさんあり本当に綺麗なお庭だった。無料開放しているだけでなく、遠方から車で来る方のために近所の駐車場を借り上げて無料駐車場をいくつか提供している。自分は花のことを全く知らないが、綺麗な花に心を癒される経験は何度もある。名前もわからない花が心を癒し励ましてくれる。「自然と聖書は神の愛を証している」という言葉があるが本当にその通りだと思う。

新エルサレム

日常生活からの逃避でということではなく、希望の無いこの世界の延長線上に「新エルサレム」があることは大きな喜びである。地上のバラ園でも感動するのだから新エルサレムの美しさたるやどのようなものか想像もできない。早くそこに行きたい。そこに行けることが希望であり全てである。そこに行けばあれほど会いたかったイエス様に会える。もう決して涙を流すことも別れることもない。そして、かつての仲間がお子さんと再会する場面も見ることができるはずである。自分の祖父母にも久しぶりに会える。もう顔すら忘れてしまった5歳で亡くなった従兄弟にも会える。そのような日を夢見ながらこの安息日を過ごしたい。

イエスが弟子たちを訓練されたのは個人的な接触とまじわりによっ てであった。イエスは、ある時は山腹で彼らの中にすわって教え、ある 時は海辺で、ある時は彼らといっしょに道を歩きながら、彼らに神の国 の奥義を示された。イエスは今日人々がするように説教をなさらなかっ た。人々の心が天来のことばを受けようとして開かれているところでは どこでも、イエスは救いの道の真理をとき明かされた。イエスは弟子た ちにこれをしなさい、あれをしなさいと命令なさらず、「わたしに従って きなさい」と言われた(ルカ 9:59)。彼は民にどう教えるかを弟子た ちに見せるために、いなかや町を旅行される時には彼らをおつれになっ た。イエスは弟子たちと関心を1つにされたので、彼らは働きにおいて イエスと一体となった。
各時代の希望電子版 p136  婚礼の席で

われわれは、クリスチャンは暗い不幸な人たちだというまちがった印 象を世の人々に与えるべきではない。もしわれわれの目がイエスにしっ かりそそがれているならば、われわれは憐れみ深い救い主を見、そのみ 顔の光をとらえるのである。神のみたまに支配されているところにはど こでも平安が宿る。神に対する落ち着いた、聖なる信頼があるので、そ こにはまた喜びがある。
各時代の希望電子版 p137  婚礼の席で

The Holy City

 

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対話

訪問者

昨夜遅くに実家に着いた。先に寝ているようにいったが案の定両親は起きて待っていた。朝も早かったし仕事を終えてからの長距離移動で疲れもありできれば早く眠りたかったのだが色々と話したそうだったのでしばらく両親と話していた。相変わらず同じ話を何度も繰り返すことが多いのだが断片的な言葉から両親の日常生活を把握しようと努力する。また冷蔵庫をみると少し様子が分かるのでそちらも覗いて見た。苦労しながらも二人で色々な工夫をして生活している様子が見て取れる。姉夫婦や姪がかなりサポートをしているようで色々なところに覚え学のようなものが貼られていた。父と話している時に「お母さんの認知症もかなり進んでいるけど、毎日のように『今日は誰か来ないかな。子どもたちは来ないのかな』と言っているよ。自分の二人の姉が亡くなったこともよく理解できていないようだし最近は母親(自分にとっては祖母)の声が聞こえると言っているよ」と教えてくれた。今の所まだ自分の名前は覚えているが自分の家族については記憶が怪しくなっている。病状も良くない中で、誰かが訪ねてくることを心待ちにしているのがとても切なかった。自分が場所を選ばずにでいる仕事に就いていれば良いのだが現在はそうではないのでどうしても両親だけにしてしまうことが多い。自分は何もしていないのだが姉夫婦はかなりの頻度で両親を訪ねてくれ何かあればすぐに駆けつけてくれる。色々な人のお陰で、更に両親が病気を抱えながらも寝たきりにならないおかげで何とかなっているので感謝すべきことはたくさんある。

キリストへの道

父が、最近は聖書の他に「キリストへの道」を読んでいることを教えてくれた。偶然だが、自分も2週間ほど前まで毎日キリストへの道を読んでいた。読むと大切なところも素通りしてしまうのでノートに書き写していた。見開き1ページを読みながら書き写すと30分ぐらいかかる。とても薄くてすぐに読めるので全ての方にオススメしたい本である。この本を毎日読みながらお祈りをしていると神様がすぐそばにいてくださることを実感できるのだという。

問題は山積しているが、まだまだ両親から学ぶことはたくさんある。

「キリストへの道」の詳細はこちら

 

聖書研究ガイド2228

 

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帰省

目次
  1. 土地
  2. 帰省

土地

昨日、職場の方々から青森の観光名所を色々と教えていただいた。既に行ったことのある場所も多かったが、色々とコメントしてくださるので傾聴していた。その中に「恐山」がでてきた。勿論青森に来る前から恐山のことは知っていたが興味本位で行って良い場所ではない気がしているので行こうとは思わない。職場のある方は霊的な現象を経験したと言っていたのでやはりサタンの働く場所なのかもしれない。以前に行ったことのある「キリストの墓」も非常に不思議な場所であった。もう一度是非言って見たいと思うほどのところではなかったが独特の雰囲気を持つ場所だと思う。人には思い出の場所があり、その場所に行けば景色を見るたびにかつてそこにいた自分が再現される。また、一度も行ったことのない場所でも土地の持つ力みたいなものがあり、自分の心の波長と一致するととても懐かしい場所に感じ心癒されることがある。最初に沖縄に行ったのは今から33年前になる。沖縄本島だけの旅だったがとても強い印象をもって帰ってきた。異国情緒あふれる街並み、全く読めない地名、それでも人の優しさと花と音楽が心を癒してくれた。それから海に潜るようになり、沖縄の系列校で教鞭をとるようになった。
また人生で最も長く住んだ広島。ここも心の故郷である。最初に訪れた時に可愛らしい女の子が自分のことを「わし」と言ったことに軽いショックは受けたがその後住めば住むほど広島に惹かれていった。青森に住むようになってからも思い出すのは故郷でもなく、また沖縄でもなく広島である。いつか、自分にとって青森も忘れられない土地になるのだろうか。

帰省

実は今日、久しぶりに帰省する。母の状態が良くないので両親の様子を見に行く。今日もし最終電車に間に合えば今日から3泊できる。姉の話では更に認知症も進んでいるようなのでどのような展開になるかは想像できないが、もしかすると失明の危険もあるとのことなので目が見えるうちに会っておきたいと思っている。17時半終業なのだがいつも21時頃まで残って仕事をしている。が、今日は定時に上がらせてもらい何とか最終の新幹線に乗りたい。あと、何回両親の顔を見ることができるだろう。あと何回両親と喋れるだろう。そしてあと何回、両親と祈れるだろう。

しかし試みに攻められても、勇気を失ってはならない。困難な立場に おかれると、われわれは神のみたまが導いておられるのだろうかと疑う ことがたびたびある。だがサタンの試みを受けるためにイエスを荒野へ みちびいたのは神のみたまであった。神がわれわれを試みに会わせられ る時、神はわれわれの益のために達成すべきある目的を持っておられる。 イエスは神の約束につけあがって自分から試みの中にとびこんだり、あ るいは試みがやってきた時落胆してあきらめたりされなかった。われわ れもまたそうでなければならない。「神は真実である。あなたがたを耐え られないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、そ れに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」。神はこう 言われる、「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者 に果せ。悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわ たしをあがめるであろう」(Iコリント 10:13、詩篇 50:14、 15)。
各時代の希望電子版 p108 勝利

【スーパードクターは2児の母】一刻を争う命の危険と向き合う女性救命医 「後輩たちの“道しるべ”になりたい」【関西医科大学付属病院、高度救命救急センター】

 

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