祈り
毎日色々な形で祈っている。朝起きてすぐに聖書通読をしてから祈る。その後も人とあまり話さないので仕事中も祈ることができる。可能な限り祈るのだが「対話」をしているような感じにはならない。どちらかと言えば自分の要求やお願いを並べ一方通行になっていることが非常に多い。聖霊様のお力添えがなければ祈ることも悔い改めることもできないことを痛感させられる。時々「神様は祈りに招いておいて、その一切を無視しているのではないか」と思ってしまうこともある。常にそうなのではないが時々祈れば祈るほど虚無感だけが残ってしまうことがある。それを払拭しようと更に祈る。そんなことを繰り返していると「神様は惜しげも無く求めてくるものに喜んで与えてくださるはずなのに・・・」と神様の約束を思い出し自分の祈りを反省する。
神は、われわれのあがないを引き受けられたからには、その働きの完成に必要なものは、それがどんなに大事なものであろうと、何1つ惜しまれないのである。われわれの救いに必要な真理は何1つ与えられないものはなく、どんな恵みの奇跡もおろそかにされず、どんな天来の方法も用いられないものはない。恵みに恵みが、 賜物に賜物が加えられる。神が救おうとしておられる人々のために天の倉庫は全部開かれている。神は宇宙の富を集め、無限な力のみなもとを開いて、それらを全部キリストの手にお与えになり、これは全部人類のためだと言われる。天にも地にもわたしの愛より大きな愛はないことを 人々にわからせるためにこれらの賜物を用いなさい。人の最大の幸福は、わたしを愛することにあるのだ。
各時代の希望電子版 p36 献納
何がいけないのか
祈ったことが聞かれる経験が祈りの本質だとは思っていない。祈りを通して、神様のご計画や御心が何であるかを知ろうとする気持ちに変化するプロセスは祈りが聞かれる以上の平安に満たされる。だから自分にとって祈りは避難所であり安全地帯なのである。しかし、一方で祈りがその通りに叶えられない経験をずっと続けていると「自分の祈りはどこが問題なのだろう」と考えてしまう。心から祈るものの求めに応えてくださる神様、と今祈っている神様に少しギャップを感じてしまうこともある。現在色々な模索をしながら何とか聖霊様のお助けをいただいて真の祈りをささげられる者に変えていただきたい。
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