電力不足

電力事情

まだ6月だというのに真夏日になっているところもある。青森ですらかなりの暑さで閉口している状態である。連日ネットニュースを開くたびに電力のひっ迫と節電の呼びかけが報じられている。今や、無くなれば社会生活が不可能になるほど人と電気との関係は深い。停電ではなく本当に電気が無くなったらどのような生活になるのだろうか。生活を豊かにしている洗濯機や冷蔵庫は使えない。エアコンもテレビも無い。iPhoneやmacはただの箱になり電気に依存しないものだけが稼働する。

それにしても何故ここ数年で電力不足が叫ばれるようになってきたのか。分からなかったので調べてみるといくつかのことが理解できた。大きな引き金になったのは3.11。福島原発の事故以降国民の原発に対する危機意識が高まり国も新たな基準を設ける必要に迫られた。その結果、それまで総電力のおよそ25%を負担してきた原発の多くが廃炉、或いは運転停止になった。現在稼働できるのは10基。しかし実際に稼働しているのは

・関西電力(大飯原発)1基
・四国電力(伊方原発)1基
・九州電力(川内原発)2基

の4基である。東日本では稼働している原発が1基も無い。これにより大幅に発電量が下がり現在は総発電量の4%程度になっている。自然エネルギーを用いた発電の総発電量に対する割合は2020年で次のようになっていた。

・水力発電 7.9%
・バイオマス 3.2%
・地熱発電 0.25%
・風力発電 0.86%
・太陽光発電 8.5%

原発の全体に対する発電量は太陽光のおよそ半分である。

発電について

大学時代、素粒子の研究室にいたがその学びの一環で原子力発電について少し調べたことがある。その危険性を色々な実験を通して知ることができたので、放射線に対する強い拒否反応がある。今の日本のように原発を減らしていく、場合によっては廃止する方向は是非考えてもらいたいと思っているが、一方でそれに変わる発電方法も見出していかなくてはならないと思っている。現在の太陽光発電はもう少し発電量を上げることは可能なのでは無いかと思うがどうなのだろう。また、5年ぐらい前にある保護者から「風力発電」を強く勧められた。実際にこの方はある地方に風力発電の設備を導入し、クリーンで安価な電気を地元の方々に供給している。サイズや発電容量にも依ると思うが、当時言われた導入費用がおよそ1億円。高いようにも感じるがこれ1基で小さな集落の電力全てを賄うことができるらしい。実際、あるYouTuberも北海道に風車を建てた。今か個人や会社が風車を所有する時代である。また割合としては非常に低いが「地熱発電」は日本に眠る自然エネルギーの最優良活用方法と言える。実際47都道府県中18都道府県に地熱発電所がある。残念ながら当地青森には無いが東北のほとんどの県に地熱発電所がある。当然のことながらやはり大分県には非常に多くの発電所が存在する。中でも別府市は突出しており30余箇所の発電所がある。名称しか分からないが、個人の病院がされているようなものもある。また「業務スーパー」がこの地熱発電に力を入れているニュースを観たことがある。

工夫

昔沖縄に住んでいたことがある。名護市にある全寮制の中学校で働いていたためだ。名護に住んでいた時期が丁度「九州沖縄サミット」が開催される前後で名護市がとても活気付いていた。全国から自衛官や警察官が沖縄入りし空き地のようなところにテントを張って数ヶ月暮らし、プレスも入ってきたので普段に増して異国情緒あふれる街になった。そのような頃の話なので現在は状況が違うがひとつの参考として。名護市役所は1981年に完成した古い建物である。

およそ市役所には見えない外観は注目の的となっていた。名護市にある55の集落があり、それに市役所の1を足した56体の「シーサー」が建物の外壁沿いに設置されていた(現在は落下の危険などから全て撤去されている)。

この名護市役所には九州沖縄サミットまでクーラーが無かった。実際には数カ所設置されていたのかもしれないが、基本的には無い。「沖縄=暑い」というイメージがあるが確かに直射日光の日差しは非常に強い。帽子を被らなければ命の危険を感じるほどである。帽子をかぶる習慣のない自分はいつもタオルを巻いていた。暑いことは暑いのだが風もまた強い。常に強い風が吹いているので必ず「風の通り道」がある。直射日光を遮り風の通り道を活用すれば真夏でもクーラーは必要ない。実際沖縄の古民家を訪ねてもクーラーが無いのに非常に過ごしやすい。クーラーに限らず「電気を使わない、できるだけ使わない方法」を考えることも大切だと思う。エネルギーについて、地球人として個人個人が何かを考え行動しなくてはならないと感じている。

聖書研究ガイド22年3期1課
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コロナ

思い出

今日は秤の検査日。以前に投稿した件だが院内の秤の精度を検査する日である。たくさんの秤があるのだが家庭用の体重計や調理用の秤などは対象外とのこと。ただし小型ではあるが薬局の電子天秤は勿論検査の対象となった。秤の検査を受ける際、男性看護師さんと一緒に対応することになり色々な話をする機会が与えられた。

昔のことをよく知るこの男性看護師さんは笑顔で色々なことを教えてくださった。昔の教会がどのような様子だったのかを生き生きととても嬉しそうに話すのでこちらまでハッピーな気持ちにさせてもらった。それにくらべて今は・・・と肩を落としていたのが印象的でとても気の毒だった。

同じタイミングで、別の職員さんが以前に医院で行われていたクリスマスコンサートについて教えてくださった。ゲストで来られた方のお名前をきいて驚いた。プロの方も多く含まれており、青森までこの方々を呼ぶのはかなりコネクションのある方がいたからに違いないと思った。昔は良かった、とこの方も寂しそうな顔をされた。

転換期

こちらの教会、また医院にも転換期なるものがあったときいている。専属の牧師先生がいた時にはとても活発だったという。近隣の方々にも良い奉仕をすることができ地域にも溶け込んでいた。が、牧師先生がいなくなりきちんとした長老さんが一人また一人とここを去っていくにつれてどんどん衰退していったとのこと。そしてこの2年半前の「コロナ」の影響が決定的になったという。教会の昼食会(愛餐会)がなくなり、全ての活動が休止された。これらひとつひとつが転換期となって今に至っているらしい。

コロナのせい

「昨今のコロナ騒動の影響を受け・・・」「コロナ禍だから今年はやめましょう」という言葉をここ3年の間にたくさん聞いてきた。それぐらい社会活動が制限され経済が大いに景況を受けた。息子も「折角全寮制の学校にいるのに、人との接触を制限されるので寮にいる意味がない」と言っていた。そして「今年はコロナだから・・」と言えば全てが断る正当な理由となる。が、本当にそうなのだろうか。今までいやいややってきたことをやめる絶好の口実としても「コロナ」という魔法の言葉は多く用いられてきたのかも知れない。今現在もコロナは収束せず感染者が増加している地域もある。コロナに加えてサル痘や円安、地震や水不足など不安なことしかない無い昨今、これらの正確な情報をすべて出してしまえば国民が絶望的な気持ちになると、政治家や行政の方々が忖度してくださっているのだと思う。だから決してコロナを甘く見ているわけではなくどうでも良いと思っているのでもない。ただ、何か行ってはいけない方向に向かっている気がしてならない。

昔は良かったのである。でも何かを変えることで今日が一番「良かった日」になるかも知れない。自分は非常にネガティブで後ろ向き人間なので自分の何かを変える必要を感じている。少なくとも何かのせいにして前を向かない生き方はやめないといけない。

「あなたの神、主なるわたしは あなたの右の手をとってあなたに言う、 「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。」
イザヤ書 41:13 口語訳

【こころ食堂礼拝】「主にある忍耐」

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古物商

片付け

青森に引っ越してきてから15ヶ月が過ぎたが未だに開けていないダンボールがいくつかある。こちらに来る前にかなり処分したのだがそれでも荷物が多い。少しずつ荷ほどきをして整理し始めているがなかなか進まない。特に写真が非常に多いのでその整理に困っている。紙の写真を処分するか別のアルバムに整理しようと頑張っている。アルバムだけで80冊以上。更にボジの収納ケースやネガアルバムを合わせると膨大な量になる。この写真をデータ化するのもかなり大変なことなので今後どうしようか思案中である。35mmの写真だけでなく中判や大判のフイルムに凝った時期があったのでサイズもまちまちでなかなか整理できない。

そのような中、半年以上前にある方からミニコンポをいただいた。正直なことを言うと自分には必要なかったし興味も無かった。音楽はPCやiPhoneにスピーカーやイヤホンを繋いで聴くのでコンポの必要性を全く感じていない。が、色々とお世話をしてくださる方が「これは良いものだから・・・」と言って譲ってくださった。こう言う時に「いえ、結構です」と言えない。決して言えない。「こんな高価なもの、よろしいんですか?」と言ってしまう。結局もらったが勿論使うこともなく部屋の結構な面積をずっと占有していた。先日、どうしてもこれが邪魔になり、申し訳ないと思いながらも処分することを決めた。いい加減な捨て方をして万が一元の持ち主さんに発見されたら申し訳ないのでリサイクルショップに持っていくことにした。一軒目は10年以上経過している電化製品は引き取れないと言うことで断られた。このまま持ち帰るのも嫌だったので二軒目に行って見た。引き取りはできるとのことだったのでホッとして査定の時間を待った。かなり長い時間待った。恐らく2時間ぐらい待ったと思うがやっと呼ばれた。説明を聞くと、コンポのCD部分が壊れているので引き取りできないとのことだった。ただ、有料で処分はしてくれるとのことだった。持ち帰るのが嫌だったので有料で処分をお願いすると1000円かかるとのこと。「ただ、スピーカーは買い取れるので処分料の1000円からスピーカーの買取金額を差し引いたお金を支払っていただければ結構です」と言われ少し安心した。問題のスピーカーの買取金額、なんと10円。差額990円を支払うことになった。

古物商

リサイクルショップが注目され大手の店舗は拡大路線をとっている。一方で潰れていくリサイクルショップも少なくない。リサイクルショップがいかなるものなのかは分からないがかなり目の利く専門知識がある人でないと難しいのだと思う。例えば同じ楽器でも制作年でその価値が全く違ったり、使われている部品によって人気の有無が変わることがある。調べてみるとリサイクルショップは「古物商」の許可が下りれば営業できるようだ。ただ、この営業許可は警察が出すものらしい。食品関係は保健所が窓口になるが古物商は警察とのこと。ちなみにYahooオークションやメルカリに出品することは「古物商」に当たらないのかも気になり調べてみた。一般の人が自分の持ち物を整理するための出品は「古物商」とはみなされないとのこと。ところが、営利目的でこの営業行為を繰り返し行う場合は古物商とみなされる。確かにYahooオークションなどは説明欄に古物商の許可番号などが記載されていることがある。必ず売れると言う保証がないものを扱うこの商売もなかなかご苦労があるのだと思う。

猫の茶碗

古典落語に「猫の茶碗」という噺がある。ある旅人がその道中で休みを取ろうと茶屋に立ち寄った。お茶をのみながらふと目をやると猫が餌を食べている。この旅人、猫が好きではない。が、よくみると猫が食べている餌は「高麗の梅鉢」という売れば300両はくだらないという高価な茶碗に盛られていた。この旅人は「ははー、ここの店主はこれが高麗の梅鉢ということを知らないのだな。だからこんな高価なものをぞんざいに扱っているのだ」と思い、店主に声をかけた。

旅人「自分は一人暮らしで、かみさんにも死なれて寂しいからこの猫をくれないか」

店主「猫はたくさんいるから構いませんが、この猫は綺麗な猫ではないからおよしなさい」

旅人「いや、いいんだよ。俺は猫が大好きでな」
と言って嫌いな猫を懐に抱いて
「よしよし、良い子だな」と。

旅人「タダでとは言わないよ。ここに3両があるからこれで譲ってくれ」

店主「そんな、あなた。こんな野良猫を3両で買うなんて」

旅人「いやいいんだ。俺は猫が大好きだから・・・」

3両を支払って店を立ち去ろうとする時に

旅人「ところで、この猫が食べていた茶碗も一緒にもらって行こうと思うんだが良いだろ。猫は食べつけないものでは餌を食べないと言うから」

と言うと

店主「いえ、この茶碗は困ります」

旅人「いいじゃないか、こんな汚い茶碗なんだから」

店主「いやー、汚い茶碗ですがこれは高麗の梅鉢と言いまして300両の値がつくものなんです」

旅人(ちぇ、この店主高麗の梅鉢を知っていやがった)

旅人「何だって、こんなに高価な茶碗で猫に餌をやっているんだ」

店主「この茶碗で餌をやっていると、時々野良猫が3両で売れるんです」

価値

新品であればその評価やスペックは色々なところに出ているから調べればその価値が分かる。しかし古いものは資料が無いとその価値を知ることはなかなか難しい。更に手作りのに至ってはその真の価値は製作者にしか分からないのかも知れない。人の価値もそうなのかも知れない。

「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。」
ヨハネによる福音書 1:12-13

あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、
わたしはあなたを愛するがゆえに、
あなたの代りに人を与え、
あなたの命の代りに民を与える。
イザヤ43:4

【聖歌隊リモート賛美】You Are Precious

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CD

久しぶりに

レコードから始まりCDやMDなど様々な音楽メディアを購入してきた。レコードは全て処分してしまったがCDはまだ沢山ある。CDも全て捨てるように言われていたがなかなか処分に踏み切れずケースから取り出しジャケットと盤だけを収納バインダーに入れている。以前に数えた時は400枚ほどあった。あれほど好きだったCDだがいつの頃からか買わなくなってしまった。そして今回久しぶりに購入した。あるミュージシャンのライブチケットを予約したところ抽選で当たってしまった。残念ながら青森でのライブではないので宮城まで行かなくてはならない。が、それでもこの人のライブは20年ぐらい前に行ったきりだから思い立って応募してみた。ライブに行くにあたって新譜を聞いておこうと今回新しいアルバムを購入した。Apple Musicなどを利用すれば1曲255円で購入できる。9曲のアルバムだから2295円。CDで買えば3300円。迷わずCDを購入した。所謂、音楽ストリーミングで購入したこともあるがやはり「ジャケットも含めて作品」というレコード世代の考え方なので1000円の差ならやはりCDを選ぶ。

日本の音楽業界

ずっと昔だが、生徒と話している時に「レコード屋」という言葉を使う自分に対して「先生、今はレコード屋なんて言いませんよ。CD屋、CDショップです」と指摘されジェネレーションギャプを感じたことがあるが、CDが売れなくて困っていると噂で聞いたことがある。気になって調べてみた。少し古いデータだが、1998年は日本でCD等のメディア売上が最高とのこと。この時に売れたCDは3億291万3000枚、そして10年後の2008年は2億4221万2000枚、更に2018年は1億3720万5000枚とのこと。ちなみに2020年は6299万枚だという。四半世紀で20%ぐらいまで落ち込んでしまったことになる。これはApple Musicなどに代表される音楽ストリーミングの影響だと思っていたが、実はそうでもないらしい。ストリーミング業界も現在回復傾向にあるというがひどく落ち込んだ時期がある。

世界の音楽業界

世界中で音楽ビジネスが落ち込んでいるのかと思いきやそうでもない。世界で見ると2014年がワーストだがそこから右肩上がりに回復し2019年はおよそ200億ドル(2兆6000万円)と2003年の水準を回復している。が、グラフでも分かる通りフィジカル、即ちCDなどの売上は2003年の20%ぐらいまで落ち込んでいる。一方で日本ではあまり定着しないストリーミングの市場が大幅に伸びていることも注目に値する。音楽市場で上位10カ国と言えばアメリカ、日本、イギリス、ドイツ、フランス、韓国、中国、カナダ、オーストラリア、ブラジルだという(2018年現在)。これを国別前年比でその成長を見て見ると

アメリカ+10.5%
日本         -0.9%
イギリス   +7.2%
ドイツ  +5.1%
フランス +3.9%
韓国   +8.2%
中国    +16.0%
カナダ     +8.1%
オーストラリア +7.1%
ブラジル  +13.1%

となる。ちなみに2019年は韓国、中国、インドが18.7%と伸び、更にブラジル、メキシコ、アルゼンチンは非常に大きな成長を果たした。即ち音楽業界全体としてはむしろ改善傾向、上昇傾向にあると言える。

ある考察

全く見当違いなはなしかもしれない。

20年以上前、学校の広報を担当することになった。職場を離れる2年前まで広報の仕事を続けたので20年はやっていたと思う。着任早々やったことは学校のパンフレット作り。今では考えられないが当時学校の公式パンフレットがなかった。早速作ることにしたが、かなりの費用がかかることが分かり、それを節約すべく夏休みを利用してDTPの学校に入って画像処理や印刷業界のこと、そしてPhotoshopやillustratorなどの操作やデザインの方法を学んだ。当時、ページ物の印刷はQuarkXPressが主流でその勉強もさせてもらった。新宿にある学校に毎日通ったのが今では懐かしい思い出である。この頃から出版業界のプロの方と自分のような全くの素人が同じソフトを使うようになった。だから、パンフレットも自分でデザイン、構成をして実際にデータをつくりそれを印刷屋さんに持ち込む方法が取れるようになった。地元の印刷屋さんはデザイナーさんを7名抱える大手だったが、自分のような素人の作るお粗末なデータにも上手に対応してくださった。校了当日などはデザイナーさんの環境を貸してくださり一緒に作業をさせてもらうこともあった。今考えればとても失礼な話である。先日、自分の名刺を作ったがやはり自分でデザインして(職場に定型のフォームが無いので)印刷にだした。かなり上質の紙とコーティングを選択したがそれでも金額は100枚あたり600円程度。こんな金額ではプロのデザイナーさんを雇うことはできない気がする。

プロと素人がシームレスに同じ環境を作り同じ作業ができる時代になった。それがデジタルの産物なのかもしれない。YouTubeなどはその良い例かもしれない。が、結局プロの領域が侵されることによってプロの生活が保証されなくなり結果としてその業界が落ち込みその分野の質が落ちるということがあるのでは無いかと思う。全く見当違いなのかもしれないが何かそんな気がしてならない。プロがプロとして保証され、その環境の中で驕ることなく自分を成長させて行ければ良いのではないだろうか。

CDを買って、素晴らしい能力を持った方々のことを考えてみた。

【NNNドキュメント】獣医になった少女 26年前の子牛がくれた夢と人生

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良い教師

良い教師の条件

世の中には非常に有名な先生がいらっしゃる。「名物教師」と言われる方である。クラーク博士はその遺した言葉で非常に有名であるが多くの世界を変えるような人を育て上げた。学習面でも有名な方は沢山いらっしゃる。この先生に習えば深いところまで理解し高度な知識を得ることができる、という先生である。東進ハイスクールの林修先生や英語の安河内先生は多くの人が知る存在である。「ドラゴン桜」の実在版とも言われている学研の竹岡先生も非常に有名である。予備校の場合は「わかりやすい授業」を展開することは勿論のこと「やる気にさせる」「落ち込んでいる生徒に勇気を与える」「入試問題を的中させる問題集を書いている」先生が「良い教師」なのだろう。

学校ではどうだろうか。昔のドラマに出てくるような金八先生も素晴らしい先生だと思う。最近で言えば「未来への10カウント」の桐沢コーチも素晴らしい先生だと思う。テレビがないのでネットで公開されているものを少し拝見した。本当に素晴らしいドラマで励まされた。教育現場では「カウンセリングマインド」という言葉がよく使われるが「受容、傾聴、共感」をもって生徒に寄り添える先生が「良い先生」になるかもしれない。

医療現場と教育現場

看護という言葉は「看」と「護」という字からできている。「看」は手と目を使うこと、手と目を使って観察することを表す。そしてそれらを用いて「護(まも)る」のが看護であるという。例外もあると思うが医療現場では患者さんが医療者に対してできるだけ分かりやすく「自分の状態を説明」する。医師や看護師も色々な方法を用いて患者さんの声にならない声を聴き取ろうとする。教育現場も同様で生徒の心の叫びを聴くのが現場スタッフの任務である。が、医療現場と少し違うのは医療現場ほど正直に自分のことを説明しない点である。心が弱り果てているのに、笑顔で「大丈夫です」と言って心の状態と正反対の表現をすることがよくある。本当に信頼できる大人なのかを試すのである。自分の全てを吐き出しても大丈夫な人か否かを見定めている。

だから教育現場では生徒の言葉ではなく心の声を聴くことがとても大切である。特に中等教育の期間は細心の注意を払ってその声を聴こうとしないと大変なことになる場合がある。

イエスキリストは・・・

いつも読んでいる本のこと。今日は「よい羊飼い」という章を読んだ。とてもたくさんの示唆を与えられた。よくイエスキリストを「羊飼い」と例えることがある。なぜなのか。

すべての動物の中で、羊は最も臆病で無力な動物の一種なので、東方の国では、羊飼はたえまなく、うむことなく、羊の群れを世話する。昔 は、今と同じように、城壁をめぐらした町の外側は安全ではなかった。 辺境をうろついている部族からの略奪者たちや、岩の間をかくれ場所にしている猛獣などが、羊の群れをあらそうとして待ち伏せていた。羊飼は、いのちがけの責任を自覚して見張った。
各時代の希望電子版 p504  良い羊飼

とても弱く目も良くない羊だから優しく、勇敢で羊のために命をかける人が羊飼いに必要な条件である。人類は非常に弱く道を見失うことが得意な生き物であるが、これをこよなく愛し正しい道に導き、命がけで助けるイエス様が羊飼いの姿に重なるためそのように例えられるのだろう。

1人1人は、あたかも救い主がその者のためだけに死なれたかのよう に、よくイエスに知られている。1人1人の悲嘆はイエスの心を動かす。 助けを求める叫びはイエスの耳に達する。イエスはすべての人をみもと に引きよせるためにおいでになった。イエスは彼らに、「わたしに従って きなさい」とお命じになる。するとみたまが彼らの心に働いて、彼らが みもとにくるように引きよせる。多くの者は引きよせられるのをこばむ。 イエスはそれがだれであるかをご存知である。イエスはまた、ご自分の 呼び声をよろこんで聞いて、羊飼であられるイエスの守りに身をゆだね ようとする者をご存知である。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わ たしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」とイエスは言わ れる(ヨハネ 10:27)。イエスは、この地上にほかにだれもいないか のように、1人1人を気づかわれる。
各時代の希望電子版p505  良い羊飼

イエス様に覚えられている。これだけで十分であるのにイエス様は自分一人しかこの地上にいなかったとしても十字架にかかって命を捨てた、というのは本当に驚くべき愛である。イエス様に目を向けて日々を歩んでいきたい。

ダニエル11(1) 解き放たれた預言

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真理

国会図書館

大学時代、とにかく勉強とレポートに苦労した。学習内容が難しくそれを理解するのに人一倍時間がかかった。大学の授業を終えて夕方の小田急線で新宿に戻る。アルバイトまで少し時間があれば決まって紀伊国屋に行って書籍を漁っていた。今のようにネットで調べられる時代ではないので本を読むしかない。そのまま立ち読みで理解できるときは良いがそのようなことは稀で殆どの場合その本を購入することになる。専門書は安くても2000円。だいたい5000円前後する。アルバイで稼いだお金も書籍代になることが多かった。それでも書籍が見つかれば良いが丁度良い参考書が見つからないこともある。そのときは日曜日にまとめて国立国会図書館に行く。ここには全ての書籍が揃っているので探しているものが「無い」ということがない。浪人時代が一番勉強したと思っていたが、大学に入ったらその2倍は努力していたと思う。能力のない人間が理系に進むとこうなる、という良い見本である。

国立国会図書館には聖書の言葉が掲げられていることは有名な話である。初代館長金森徳次郎による書、「真理がわれらを自由にする」がそれである。

勉強は難しくてくじけそうになることもあったが、聖書の言葉に背中を押してもらえる気がして国会図書館はお気に入りの学習空間だった。

国会図書館は、「真理がわれらを自由にする」の理念の下、国会に奉仕するとともに、国民の情報ニーズにも応える機関として位置づけられています。

なお、この言葉は、法案の起草に参画した羽仁議員がドイツ留学中に見た大学の銘文を基に創出したもので、その銘文は、新約聖書の「真理はあなたたちを自由にする」(ギリシア語で Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース ヨハネによる福音書8:32)に由来するといわれています。(国立国会図書館HPより)

真理とは

では真理とは何か。

「いつどんな時にも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。永遠不変のー、ーの探究」(デジタル大辞泉)

時間を超越していついかなる場合にも変わらないもの、という意味だろうか。分かるような分からない説明である。が、今朝読んでいた本にこのことに関する解答があった。

人間の自由が可能であるただ1つの条件は、キリストと1つになることである。「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」とあるが、 キリストがその真理である(ヨハネ 8:32)。罪は、心を弱め、魂の自由を滅ぼすことによってのみ勝利することができる。神に屈服することは、自分自身を回復すること、すなわち人間の真の栄光と威厳とを回復することである。われわれは、神の律法に従うようになったが、それは 「自由の律法」である(ヤコブ 2:12)。
各時代の希望電子版 p488 命の光

いかに人間が賢くなっても、人が犯す「罪」の問題と「死」については解決を見出すことができていない。が、唯一の解決策があるとするならば「真理であるイエスキリスト」とひとつになることだとこの書物は教えている。世の中の価値観、考え方とは大きく異なると思うが、しかしこれは真実であると信じている。

KING’S HERALDS | (FULL ALBUM) KING’S HERALDS FAVORITES THROUGH 25 YEARS

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紙一重 

教会を守る

キリスト教会には教団教派によって色々なタイプのものが存在する。ひとつの教会を引退するまで牧会するところもあれば、自分が所属する教団のように数年で転勤するタイプの教会もある。牧師が異動することのメリットもあるがそれまで続けられたミニストリーや種々の集会などが中断したり、次の牧師が不本意ながら続けなくてはいけないこともある。牧師が異動するので長老の存在意義は大きい。聖書的に立脚した信仰と思想をもった長老がいればその教会は安泰かもしれない。「自分の教会」という気持ちを持って人任せにせず責任を持つ人がいることは非常に大きなメリットである。が、一方で聖書的ではなくただ自分のやり方や長年教会が行ってきた習慣を最も良いものとして本質を忘れてしまう人が発言権を持つと急に教会は衰えていく。そのような教会、キリスト不在の教会に通うことは大きなチャレンジであり祈りがなければ通うことができない。

エアコン

以前にも投稿したが院内のエアコンが寿命を迎え使えなくなっているものがある。更新するように言われたので業者の選定、相見積もり等を経てやっと工事に行き着いた。何と言っても会議で決まったことが翌日には覆されている医院なので話を進めるのもヒヤヒヤである。

先日、1回目の工事が入ったが早速医院で発言力の強い方々からクレームがあった。というかこの方々が「エアコンを新調しろ」と言い出したのに。工事日程や工事の段取りも会議で何度も確認しているが「自分は聞いていなかった」と文句を言ってこられた。この方々は教会のバプテスマにもことごとく反対するので、何かを言わないと気が済まないタイプなのだと思うが、前職場にはいないタイプだったのでとても驚いているし何かを言われるのが恐ろしい。

今日は仕事が休みなのだが、この方々がまた何を言い出すか分からないので恐ろしくなって出勤した。出勤してよかった。早速色々な文句を言われたので。

こういう人は「自分がこの医院の歴史を全て把握しており自分がいなければ医院は回らない」と思っているのだろう。確かにそういう部分もあるので自分は何も言えない。ただ、昔からいる人たちの要求に応えながら彼らの気持ちを損ねないようにして、そして静かにこの職場を去っていくのが一番良いのだろう。クリスチャンという人種がとても厄介なのだとこの職場に来てはじめて理解した。

キリストは罪人を招くためにこの地上に来られたのだから、クリスチャンは欠陥だらけの集まりである。イエス様に召された弟子たちもそうであった。おっちょこちょい、短気、疑い深い、社交的だがいいかげん、ピンハネ、そんな人たちであった。しかも彼らは「この中で誰が一番偉いか」を論じていた。そのことをイエス様に指摘されて恥ずかしくなった。教会は罪人の集まりであるが、その中で「自分だけが正しい」と思うのはやはりイエス様が悲しむのだろう。平安な気持ちで安息日を迎えるためにもう一度自分自身、謙虚な気持ちにさせていただきたいものである。

しかし人が高慢になって、自分は神の大計画の成功に必要な人間だと 思ったら、主は彼らをとり除かれる。そして主が彼らをあてにしておら れないことが明らかにされる。彼らが離れたからといって働きがとまっ てしまうようなことはなく、それはもっと大きな力をもって前進する。
各時代の希望電子版 p 456 誰が一番偉いか

ルシファーは、自分が神と同等になることを「固守すべき事」とみな したが、高い地位におられたキリストは、「かえって、おのれをむなしう して僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順で あられた」(ピリピ 2:6-8)。いま、十字架はちょうどキリストの前 にあった。ところがキリストご自身の弟子たちは、サタンの王国の原則 である利己主義で心が一杯になっているので、主と同じ気持になること もできなければ、あるいは主が彼らのために屈辱を受けられることを話 されてもそれを理解することさえできなかった。
各時代の希望電子版 p455  誰が一番偉いか

Abide With Me _ Mens Voices + Vc

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慰霊の日

国民の休日

元旦から始まって「成人の日」「建国記念日」等年に16日の休日がある。5月のゴールデンウィークは曜日の関係で休日が増えることもあるが「国民の休日」として定めらえれているのは16日である。が、今日6月23日は沖縄の主な学校や会社が休みとなる。「慰霊の日」である。海辺の木陰で次男がスターバックスの飲み物を飲みながら海を眺めている写真が送られてきた。

慰霊の日

第二次世界大戦中、地上戦が行われた沖縄。本土決戦を先延ばしにするための「捨て石」とも言われた沖縄。悲惨な状況下でそれでも国に認められたく国のために戦った沖縄の人々。勿論戦没者の中には県外の方も大勢いらっしゃる。外国の方もいらっしゃった。この地上戦が終わったとされるのが1945年6月23日である。

「1945年6月23日に、第32軍司令官牛島満中将(後の大将)と長勇参謀長(後の中将)が自決し、旧大日本帝国陸軍司令部の機能が崩壊および全軍の組織ある防衛戦闘が終結し、玉砕に相当する」(wikipediaより)

沖縄では終戦記念日である8月15日を知らない人もいる。知っていても6月23日が終戦記念日だとする人も多い。昨年もこの日について投稿したがやはり戦争は悲惨であるし、日本においてその戦争が終わったのかどうかも怪しい。強者が弱者を食い物にする構図は今も残っているように感じる。

観光立県である沖縄においては今のコロナ騒動は大変なダメージになっている。併せて軽石問題もあり沖縄の経済は疲弊している。コロナ禍にあって少しは人の移動にも柔軟性が出てきている。これで多くの人が沖縄を訪れ経済が少しでも上向きになれば良いがそれと引き換えにまたコロナの蔓延があっては元も子もない。

誰かのおかげ

慰霊の日もそうであるが今自分が生きていられるのは誰かの犠牲があってのこと。そのことをつい忘れてしまう。誰かの命の上に自分が生きていることを思うときにもっと謙虚に、もっとへりくだって生きないといけないことを痛感する。あわせて、自分が生きることで誰かに迷惑を掛け誰かがそれを許容してくれていることも忘れないようにしたい。

わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。ローマ人への手紙5:6-11

聖書研究ガイド22年2期13課

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24条工事

歩道切り下げ

職場である医院は県道110号沿いにある。この県道を挟んで向かい側に患者さんや職員の駐車場がある。医院に入る道路の切り下げが2箇所、向かいの駐車場に3箇所の切り下げがある。が、これが狭い。最も狭いところは380cmしかない。一般にこれだけあれば十分に思われるかもしれないが実際に走って見るとかなり狭く感じる。しかも降雪時は雪の壁に挟まれる。以前には事故も数回起きているという。実際縁石にも乗り上げて削られた後が数カ所あるのでかなり危険である。本当は違法であるが救急車も入れないことから縁石スロープを簡易的に設置している。送迎の仕事をしている時からこの狭さがとても気になっていた。数週間前に土地の取得で法務省や役場を行き来したことがあったがそのついでに歩道に切り下げをお願いする時はどのようにしたら良いかを聞いてみた。

歩道の切り下げなどの工事を24条工事というらしい。施工にかかる費用は全額個人負担となり公的な援助はないとのこと。救急車も入り車椅子の通行にも支障があるのだから少しは公共性があるようにも思ったがそうではないらしい。何れにしても県道なので県に問い合わるようにとご指導いただいた。地域県民局の道路施設課に電話してみると、自分で業者を見つけて業者経由で申請を出すと許可が早く出るとの指示を受けた。果たしてどこの業者を当たれば良いのか分からず少し考えていたら、先ほど電話対応をしてくださった方が折り返してくれた。なんでも、この夏から県道110号の再生舗装工事が入るとのこと。医院の前を担当する業者を教えるからそちらにお願いしてみたらどうかと貴重なアドバイスをいただいた。昨日その建設会社に連絡を入れたところ今朝早速現調に来てくださった。事前に簡単な写真付きの図面を作っておいたのでそれをみながら現調していただいた。

専門家

建設会社さんとの打ち合わせは1時間ほどであったが、たくさんのことを教えていただいた。舗装工事の段取り、舗装の層、層の厚さ、使用済みアスファルトの再生等々。やはり専門家の方はその道で何十年も仕事をしているので説得力がある。

別の話であるが、念願のエアコン更新工事が今日から始まった。こちらも発注からこれまでおよそ3ヶ月の間色々な打ち合わせを繰り返してきた。特に土曜日(安息日)以外を休診することは絶対にないのだが、今回どうしても1日休診しないといけないことが判明し7月13日を休診日にした。現在工事が始まっているが、その作業現場にずっと一緒にいるのが今日の主な仕事である。業者さんと話しながら色々なことを教えていただいている。できれば「電気工事士」や「電気主任技術者」の資格を取りたいと思っているので色々なことを教えていただいている。専門家という人がいてはじめてこの社会が動いていることを考えると本当に素晴らしい働きだと痛感させられる。

導き

今回歩道切り下げのことで考えていたら、ちょうど良いタイミングが与えられ不思議な巡り合わせで道が開かれてきた。最も最終的には見積もりをみて可能な範囲の支払額かを見極めないといけないが、それにしても不思議な方法で導かれていることを感じる。偶然と言われてしまうかも知れないが、クリスチャンに偶然は無い。どのような小さなことにも神様のご計画と摂理、ご配慮と導きがある。経済的な問題が解決されて今回の工事が実現することを心から祈るものである。

「私は奇蹟を信じる」小坂忠

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理想の学校

同僚と

毎日地震のニュースを観ている。ネットで有感地震の履歴を調べるのが日課になっている。以前は沖縄がもっとも地震が少ない県ということで各企業のデータが沖縄に運ばれることがよくあった。今でもそうなのかもしれないが最近沖縄での地震の多さが気になる。その昔、沖縄の中学校で働いていた時に、沖縄に系列の高校が必要であることを痛感していた。いつか沖縄に高校を・・・と思い時間だけが過ぎてしまった。思い入れのある土地、だから地震が気になる。沖縄だけではない。北海道も相変わらず地震が多い。そしてここ数日大きな地震が続いている石川県能登地方。石川にも卒業生や前職の同僚が住んでいる。とても気になったのでその同僚に連絡をしてみた。以前はFacebookにもよく投稿していたが最近はSNSを使っていないようで近況が分からない状態だった。一か八かLINEで連絡してみるとすぐに返信があった。金沢の方なので被害もなく震度も2程度とのこと。地震のこともそうであるが彼が元気でいることを知りとても安心した。その後夜まで色々なことをお互い送りあった。自分がもしも教育伝道をするようになったら一緒に働きたい人物の一人である。スイッチが入るとどこまでも生徒の幸せだけを考える優しい男である。

また、同じようなタイミングで一番親しく連絡を取り合っているかつての同僚から電話があった。しばらく話しているうちに急用が入ってしまい一旦は電話を切ったがその後夜になって再度ゆっくり話すことができた。自分が理想としている「預言者の学校」なるものを実現できたら、彼に全てを残していきたいと思っている人物である。

教育

この夏から岩手県で全寮制の新しい学校がスタートする。新しい学校といっても本家のイギリスでは長い歴史を歩んできた。全世界規模で展開するハロウスクール。素晴らしい教育をしている実績のある学校だ。公文が展開する学校も素晴らしいと聞く。公文もハロウも学費の面では決して誰でも行ける額ではないがそれ相応の教育プログラムなのだと思う。世の中には本当に素晴らしい教育システムをもった学校がたくさんある。自分が以前働いていた学校も昔はとても素晴らしい学校だった。昨日もそのことを思い出して涙が溢れた。「なんでこんな学校になってしまったのだ」。

聖書の中にも学校が出てくる。学校という言葉ではないがサムエルがつくったとされる「預言者の学校」がそれである。最初はラマにあったようだ。自分はこの学校をモデルにして教育活動を行ってきたし、これからまた教育の分野で再生することがあるのならやはり「預言者の学校」にこだわりたい。

昨日はかつての同僚と話しながら、いつか彼らと一緒に本物の教育ができる学校を実現したいと心の底から思った。他にも声をかけたい先生方は沢山いる。国内はもちろんのことアメリカ、イギリスにいるかつての同僚にも声をかけて、本当の「預言者教育」を施せる学校を実現させたい。

預言者の学校について

さらに、青年教育の施設として、預言者の学校が建てられた。もし、青年が、 神の言葉の真理をもっと深くさぐり、上からの知恵を求めて、イスラエルの教師になろうと望むならば、彼らは、こうした学校に入ることができた。預言者の学校は、腐敗が広がるのを防ぐ防壁としてサムエルが創立したもので、青年の道徳的、霊的幸福に貢献し、指導者や助言者として、神をおそれて行動する資格のあ る人物を養成して、国家の将来の繁栄に資するためであった。サムエルは、この目的を達成するために、神をおそれ、知的で勤勉な青年を多く集めた。彼らは預言者の子と呼ばれた。彼らが神と交わり神の言葉と神のみわざを学んだ時に、彼らの生来の賜物に天の知恵が加えられた。教師は、神の真理に良く通じているばかりでなくて、自分たち自身が神との交わりを経験し、神の霊の特別な賜物を受けた人々であった。彼らは、学識と信仰の両面において、人々の尊敬と信頼をかち得ていた。

こういう学校は、サムエルの時代に2つあって、1つは、預言者の故郷のラマにあり、もう1つは、そのとき箱が置かれていたキリアテ・ヤリムにあった。その後、ほかにも学校が設立された。

学校の生徒は、土を耕すとか、あるいは何かの筋肉労働に従事して、自分で働いて自活した。イスラエルにおいてこれは不思議でも卑しいことでもなかった。実際、 子供に有用な仕事を教えないで育てることは、罪悪であると思われていた。どのような高い地位につくための教育を受ける子供であっても例外なく、すべての子供に、 何かの職業を教えることが、神の命令であった。宗教の教師のなかには、肉体労働によって自給した者が多くあった。使徒時代に及んでも、パウロとアクラは、 天幕作りを職業として生計を立てたが、そのために卑しめられることはなかった。

学校の主要科目は、神の律法とモーセに与えられた教訓、神の民の歴史、聖楽、 詩歌などであった。その教授法は、現代の神学校の教授法とは非常に異なってい た。今日、多くの学生は、入学した時よりも、神と宗教的真理に関して真の知識をもたずに神学校を卒業する。昔の預言者の学校では、神のみこころと神に対する人間の義務を学ぶことが、すべての研究の大目的であった。神の民の歴史の記録の中に、主の足跡をたどることができる。偉大な真理が型によって明らかに示され、その全制度の中心目的が、世の罪を取り除く神の小羊であることを、彼らは信仰によって悟ったのである。

人類のあけぼの電子版 p520,521

サムエルが建設した預言者の学校は、イスラエルの背信の時代に衰微してしまっていた。エリヤはこうした学校を再建し、若い人々が律法を大いなるものとし、かつ光栄あるものとする教育を受けられるようにしたのである。これらの学校のうちギルガルとベテルとエリコにあったものが記録に記されている。エリヤが天に携え上げられる直前に、エリヤとエリシャはこれらの教育の中心地を訪問した。神の預言者は以前に訪れたときに与えた教訓を今、また繰り返した。特に彼は天の神に対して彼が真心から忠誠をつくすという彼らの大いなる特権について教えた。彼はまた彼らの教育のあらゆる面が、簡素を特徴とすべきであることの重要性を彼らの心に印象づけた。このようにして彼らは初めて天の型を受け主の道に従って行くためにでていくことができたのである。
国と指導者 上 P192

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