ヤコブの悩みの時
聖書に「ヤコブ」という人が登場する。イサクの子どもで双子の弟として生まれた。兄に名はエサウ。イスラエルでは長男の権限は非常に重んじられる。長男が偉くてそれ以外がダメということではない。世継ぎである長男は家族、家系、族を支える責任がある。受け継ぐものも多いし祝福も大きいがそれに伴う責任もまた重い。エサウはその長男の権利を空腹を満たすことと引き換えに弟ヤコブにあげてしまう。勿論ヤコブが母親と仕組んだ悪巧みでもあった。また騙されたとはいえイサクも結果的に間違いをおかして長子の権利をヤコブにあげてしまいその祝祷をささげてしまう。このことでヤコブは母親の兄弟(叔父)のところに逃げる。ヤコブがかつて人を騙したように今度は叔父から結婚相手について騙される。が、騙されている自覚がありながらも長年伯父さんに仕える。しかしいよいよ時が来て伯父さんの家を出て兄エサウに対する謝罪の旅に出かける。その途中で夢とも幻ともつかない不思議な経験をする。そこで経験したことのひとつがヤコブにとって堪え難い苦悶の経験であった。そしてこれを超える悩みの時が間も無く来ることを預言者エレミヤは後世の人々に忠告している。
読み物より
かなりの長文だが「人類のあけぼの」という本から引用したい。
ヤコブの格闘と苦悩の夜の経験は、神の民が、キリスト再臨の直前に経験しなければならない試練をあらわしている。預言者エレミヤは、清い幻のなかでこの時代をながめて言った。「われわれはおののきの声を聞いた。恐れがあり、平安はない。・・・・どの人の顔色も青く変っている・・・・悲しいかな、その日は大いなる日であって、それに比べるべき日はない。それはヤコブの悩みの時である」(エレミヤ 30:5―7)。キリストが、人間のための仲保者の働きを終了されるとき、この悩みの時が始まる。そのときに、すべての人の運命が決定され、罪を清める贖いの血はもうないのである。イエスが人間のために、神の前に立つ仲保者としての地位を去られるときに、厳粛な宣言が下される。「不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」(黙示録22:11)。すると、神の霊の制御力が地から取り除かれる。ちょうど、ヤコブが、怒った兄エサウに殺されそうになったのと同様に、神の民も彼らを滅ぼそうとする悪者に生命を脅かされる。そして、ヤコブがエサウの手から救い出されることを1晩中祈ったように、義者は彼らの周囲の敵からの救済を日夜祈り求める。サタンは、神の天使たちの前でヤコブを訴え、彼は罪を犯したから、彼を滅ぼす権利があると主張した。サタンは、エサウを動かして、ヤコブに対して軍勢を進ませた。また、サタンは、ヤコブが一晩中格闘している間、罪を思い起こさせ、彼を失望させ、神にすがるのをやめさせようとした。
人類のあけぼの 電子版 p153
厳粛な時
間も無く再臨前の審判が終わる。「もうやばい、もうすぐだ」と言いながら終わりの時が来ないことに対して「なんだ、脅しか?」と勘違いしてしまうことがある。正直なことを言えば自分自身の心の中にも「まだ大丈夫」という気持ちがある。そして自分の所属する教会やその機関にもその気持ちはあるように思われる。「終わりが近い」と力を込めて訴えた人が「信仰深い人」と評され、心ではそこまでの緊迫感を持っていなくても周囲からの評判を気にしてそのように演じる人も少なからずいるかも知れない。かつていた教育機関も衰退の一途を辿っている。しかし、そのような沈みかかっている船なのに「次の指導者は自分だ」と難破しかけている船の船長を目指す。そんな、人からの評価や名声のためにやっているのではないと言いながら業績が悪化しても決してトップの座は譲らない。残念だがそういう人が多い教団に自分は属している。そして前述の通り自分にも少なからずその思いがあったし今もある。世の終わりであることを認識しながら、まだ自我を捨てきれていない。誰のことも決して批判できない。
上記の文章はさらに続く
この苦悩のときに、ヤコブは天使を捕えて涙ながらに訴えたのである。すると、天使は、彼の信仰を試みるために、彼の罪を思い出させて、彼からのがれようとした。しかし、ヤコブは天使を行かせなかった。彼は、神が憐れみ深いことを知っていたので、神の憐れみによりすがった。彼は、自分がすでに罪を悔い改めたことをさし示して、切に救いを願い求めた。ヤコブは、その生涯をふりかえってみると絶望するばかりであった。しかし彼は、天使を捕えてはなさず、苦悩の叫びをあげて真剣に願い求め、ついに聞かれたのである。神の民も、悪の勢力との最後の戦いにおいて、これと同じ経験をするのである。神は、神の救出力に対する彼らの信仰、忍耐、確信を試みられる。サタンは、彼らの絶望的であること、そして、彼らの罪は大きすぎて、許しを受けることはできないと思わせ、彼らを恐怖に陥れようとする。彼らは、自分の欠点を十分知っていて、その生涯をふりかえってみれば、絶望である。しかし、彼らは、神の大きな憐れみと自分たちの真心からの悔い改めを思い出す。そして、無力な罪人が悔い改めるときにキリストによって与えられる神の約束を懇願する。彼らの祈りが直ちに聞かれなくても、彼らの信仰はくじけない。彼らは、ヤコブが天使を捕えたように、神の力をしっかり握って、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と心から言うのである。
人類のあけぼの 電子版P153,154
絶望のふちにある希望
この文章は次のようにまとめられている。
もし、ヤコブが欺瞞によって長子の特権を獲得した罪を、前もって悔い改めていなかったならば、神は彼の祈りを聞き、彼の命を憐れみのうちに保護なさることはできなかった。それと同様に、悩みの時においても、神の民が恐怖と苦悩にさいなまれるときに、告白していない罪が彼らの前に現われてくるならば、彼らは圧倒されてしまうであろう。絶望が彼らの信仰を切り離し、神に救済を求める確信を持てなくする。しかし彼らは自己の無価値なことを深く認めるけれども、告白すべき悪を隠していない。彼らの罪は、キリストの贖罪の血によってぬぐい去られていて、彼らはそれを思い出すことができないのである。サタンは、人生の小事に忠実でなくても神はそれを見すごされるというふうに多くの人々に信じこませる。しかし、神は、悪を是認も黙認もなさらないことが、ヤコブを扱われた方法によって示された。罪の弁解をして隠そうとするもの、そして罪を告白せず許されないまま、天の記録に罪を残しておく者は、みな、サタンに打ち負かされる。彼らがりっぱなことを言い、栄誉ある地位にあればあるほど、彼らの行為は、神の前にいまわしく、大いなる敵は確実に勝利を収める。しかし、ヤコブの生涯は、罪に陥っても真に悔い改めて神にたち帰る者を、神は見捨てられないことを証明している。ヤコブが、自分の力をふるって獲得できなかったものを得たのは、自己降伏と堅い信仰によってであった。こうして、神は、彼の熱望した祝福を与え得るものは神の能力と恵みだけであることを教えられた。最後の時代においてもこれと同様である。彼らは危険に当面し、絶望に陥るとき、ただ、贖罪の功績だけに頼らなければならない。われわれは自力では何もできない。全く無力で無価値なわれわれは、十字架につけられ復活された救い主の功績に頼らなければならない。そうするかぎり、だれ1人滅びることはない。
人類のあけぼの 電子版 p154
絶望のふちにある希望は「自分には何もできない」ということである。唯一できることがあるとすれば「悔い改め」であろう。一切の言い訳を排除した心からの悔い改め。
神様の前に誠実な存在でありたい。
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