はじめに
ある礼拝メッセージに促されるようにして一つの書物を読んでいた。そしてそこに書いてある非常に重要な内容に改めて厳粛な思いにさせられた。合わせて、今自分が何をすべきかを深く考えさsられた。今から120年ほど前に書かれた書物だが決して無視できないことが書かれていたのでここに紹介したい。
憎悪と迫害
神の律法を尊ぶ者は、世に災いをもたらす者として非難されてきた。そして彼らは、地球を災いで満たしているところの、恐ろしい自然の猛威と人間どうしの争いと流血の原因とみなされる。最後の警告に伴う力が、悪人たちを激怒させた。彼らの怒りはメッセージを受け入れたすべての人に向かって燃え上がり、サタンは憎悪と迫害の精神をいっそう強くあおりたてる。神のご臨在が最後的にユダヤ国民から取り去られた時、祭司と民はそれを知らなかった。サタンの支配下にあって、最も恐ろしい悪意に満ちた激情に支配されながら、彼らはなお自分たちが神に選ばれた者であると考えていた。神殿の奉仕は続けられ、犠牲は汚れた祭壇にささげられていた。神の愛されたみ子の血を流すという罪を犯し、そのしもべたちや使徒たちを殺そうとする民に、神の祝福が毎日求められていた。同じように、聖所での、取り消すことのできない判決が発表され、世界の運命が永遠に定まっても、地上の住民はそれを知らないであろう。宗教の形式は、神のみ霊が最後的に取り去られてしまった民によって続けられる。そして、悪の君が自分の悪だくみを成し遂げるために彼らに吹き込む悪魔的な熱心さは、神に対する熱心さと似ているであろう。安息日がキリスト教世界全体の特別な論争点となり、宗教と政治の当局者が結束して日曜日遵守を強要する時、少数の者は、世間の要求に屈することを断固として拒むために、全世界ののろいの的となる。教会の制度と国家の法律に反対の立場をとる少数者は許すべからざる者であり、全世界が混乱と無法の状態に陥るよりも、彼らが苦しみを受けるほうがよいと主張される。同じ議論が1800年前〔注・著者の執筆当時から〕に、「民の役人たち」によってキリストに対してなされた。陰険なカヤパは、「ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だ」と言った(ヨハネ 11:5 0 )。この議論は決定的なものに思われ、ついに、第4条の戒めにある安息日を聖とする者に対して法令が発せられ、彼らは最も重い刑罰に相当する者として非難される。そして人々は、一定期間ののちには彼らを殺してもよい自由が与えられる。旧世界のカトリック教と新世界の背教的新教とは、神の戒めの全部を尊ぶ者たちに対して、同じような手段をとるであろう。その時神の民は、ヤコブの悩みの時として預言者によって描かれている悩みと苦しみの場面に投げ入れられる。「主はこう仰せられる、われわれはおののきの声を聞いた。恐れがあり、平安はない。・・・・なぜ、どの人の顔色も青く変っているのか。悲しいかな、その日は大いなる日であって、それに比べるべき日はない。それはヤコブの悩みの時である。しかし彼はそれから救い出される」(エレミヤ 30:5―7 )。
各時代の大争闘 電子版 P615,616
恩恵期間の終わり
「その時あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります。また国がはじまってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます」(ダニエル12:1 )。第三天使の使命が閉じられると、もはや地の罪深い住民のための憐れみの嘆願はなされない。神の民はその働きを成し遂げたのである。彼らは「後の雨」と「主のみ前から」来る「慰め」を受けて、自分たちの前にある試みの時に対する準備ができた。天使たちは、天をあちらこちらへと急ぎまわっている。1人の天使が地から戻ってきて、自分の働きが終わったことを告げる。すなわち、最後の試みが世界に臨み、神の戒めに忠実であることを示した者はみな、「生ける神の印」を受けたのである。その時イエスは天の聖所でのとりなしをやめられる。イエスはご自分の手をあげて、大声で「事はすでに成った」と仰せになる。そして、イエスが「不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」と厳粛に宣言されると、天使の全軍はその冠をぬぐ(黙示録22:11)。どの人の判決も、生か死かに決まった。キリストはご自分の民のために贖いをなさり、彼らの罪を消し去られた。キリストの民の数は満たされ、「国と主権と全天下の国々の権威」とは、今まさに救いを相続する者に与えられようとしており、イエスは王の王、主の主として統治されるのである。イエスが聖所を去られると、暗黒が地の住民をおおう。その恐ろしい時に、義人は仲保者なしに聖なる神のみ前に生きなければならない。悪人の上に置かれていた抑制が取り除かれ、サタンは最後まで悔い改めない者を完全に支配する。神の忍耐は終わった。世は神の憐れみを拒み、その愛をさげすみ、その律法をふみにじってきた。悪人は恩恵期間の限界を越えた。頑強に拒まれてきた神のみ霊は、ついに取り去られた。彼らは神の恵みの守りを失って、悪魔に対する防備が全くない。その時サタンは、地の住民を大いなる最後の悩みに投げ入れる。神の天使たちが人間の激情の激しい風を抑えるのをやめると、争いの諸要素がことごとく解き放たれる。全世界は、昔のエルサレムを襲ったものよりもっと恐ろしい破滅に巻き込まれる。ただ1人の天使が、エジプト人の長子をみな殺しにして、国じゅうを嘆きで満たした。ダビデが民を数えて、神にそむいた時、1人の天使が恐ろしい破滅を引き起こして、彼の罪を罰した。神がお命じになる時に聖天使たちによって行使されるのと同じ破壊力が、神のお許しになる時には悪天使たちによっても行使される。勢力はすでにととのっていて、あらゆるところに荒廃を広げようと、神の許しを待つばかりである。
各時代の大争闘 電子版p614,615
ヤコブの悩みの時
エサウの手からの救出を熱心に祈り求めたヤコブの苦悶の夜(創世記32:24―30参照)は、悩みの時の神の民の経験をあらわしている。ヤコブは、エサウに与えられることになっていた父の祝福を欺瞞によって得たために、兄の恐ろしい脅迫におびえて、命からがら逃げ出したのであった。彼は、長年の流浪の生活のあとで、神の命令によって、妻子と家畜を連れて故郷へと出発した。国境についた時、彼は、エサウが勇士の一隊を率いて近づいているという知らせを受けて、恐怖に満たされた。エサウが復讐の念に燃えていることは、疑う余地がなかった。ヤコブの一族は、武装も防備もないので、今にも暴力と虐殺の無力な犠牲になるかと思われた。ヤコブは不安と恐怖に襲われた上に、重苦しい自責の念にかられた。というのは、このような危険をもたらしたのは、彼自身の罪であったからである。彼の唯一の希望は、神の憐れみにすがることであった。彼の唯一の防備は、祈りでなければならなかった。しかもなお、彼は、兄に対して行った罪悪の償いのためと、切迫した危険を避けるために、自分としてできることはすべてなしたのである。そのように、キリスト者も、悩みの時に近づくにつれて、人々の前で自分たちの立場を明らかにし、偏見を取り去り、そして良心の自由を脅かす危険を避けるために、全力を尽くさなければならない。ヤコブは、家族の者が彼の苦悩を見ないように、彼らを送り出してから、1人残って神に懇願した。彼は自分の罪を告白し、彼に対する神の憐れみを感謝するとともに、深くへりくだった心で、彼の先祖に与えられた契約と、ベテルにおける夜の幻の中で、また流浪の地において、彼に与えられた約束とが、行われることを嘆願した。彼の生涯の危機がやってきていた。すべてが危うくなった。暗黒と孤独の中で、彼は祈りつづけ、神の前に身を低くしつづけた。突然、1つの手が彼の肩におかれた。彼は、敵が彼の生命をねらっているのだと考える。そして、必死になって敵と闘う。夜が明けようとする時、この見知らぬ人は超人的な力をあらわす。彼が触れると、頑強なヤコブはまひしたようになる。そしてヤコブは力を失って倒れ、この不思議な敵の首にすがって、涙ながらに懇願する。ヤコブは、今、自分が闘っていたお方が、契約の天使であられることを知る。彼は体の自由を失い、激しい痛みを感じながらも、彼の願いを放棄しない。彼は自分の罪のために、長い聞悩み、自責の念にかられ、苦しみに耐えてきた。今彼は、それが許されたという確証を得なければならない。天からの来訪者は、今にも立ち去ろうとするように見える。しかしヤコブは、彼にすがって、祝福を求める。天使は、「夜が明けるからわたしを去らせてください」と言うが、ヤコブは、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と叫ぶのである。なんという確信、なんという堅忍不抜の精神が、ここにあらわされていることであろう。もしもこれが、高慢で僣越な要求であったならば、ヤコブは直ちに滅ぼされたことであろう。しかし彼の要求は、自分の弱さと無価値なことを告白しながらも、契約を果たされる神の憐れみに信頼する者の確信であった。「彼は天の使と争って勝」った(ホセア 12:4 )。この罪深く、誤りを犯した人間は、へりくだりと悔い改めと自己放棄とによって、天の君と闘って勝ったのである。彼はそのふるえる手で、神の約束をしっかりとつかんだ。その時、無限の愛のお方は、罪人の願いを退けることがおできにならなかった。彼の勝利の証拠、そして彼の模範にならう他の人々への励ましの証拠として、彼の名が、彼の罪を思い起こさせるものから、彼の勝利を記念するものへと変えられた。そして、ヤコブが神と争って勝ったということは、彼が人にも勝つという保証であった。彼はもはや兄の怒りに直面することを恐れなかった。なぜなら、主が彼の防御だからであった。
各時代の大争闘 電子版 p617,618
2022年6月4日 「信仰の目で見る」 安息日礼拝LIVE配信
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