ヤコブ1

自業自得

旧約聖書に「ヤコブ」という人が登場する。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の父祖となったアブラハム、そしてその子がイサク、そしてイサクの子がヤコブ。このヤコブが波乱万丈の人生を送る。元々、双子の弟だったが長子のの権利、その祝福が欲しくて兄エサウと父イサクを騙して長子の祝福を受けてしまう。聖書の記述だけを読むといかにも策略に満ちた母親の影響と入れ知恵でエサウとイサクをそそのかしたように読み取れるが、実際にはエサウのその日暮らし的な地に足をつけない生き方に不安を感じた母親の考えだったようだ。また、ヤコブも長子の権利を得ることの意味を重く捉えており、アブラハムのような信仰を持ち約束の子孫と約束の地を受けたいと望んでいたようである。いずれにしても騙したことは事実でありヤコブが兄エサウの復讐を恐れて逃亡したのは全くの自業自得である。

ヤコブは、長子の特権が自分に与えられるという神の告示を母親から聞き、な んとかしてその特権を自分のものにしたいという言葉には表現できない願望に満 たされた。彼が渇望したのは、父親の富を所有することではなかった。彼が願い 求めたものは、霊的長子の特権であった。義人アブラハムのような神との交わり にはいり、家族のために犠牲をささげ、選民と約束の救い主の先祖となり、契約 の祝福に含まれている永遠の嗣業にあずかることなどが、彼の熱心に求めてやま ない特権であり、誉れであった。彼の心は常に将来のことに向けられ、目には見 えない祝福を得ようと努めていた。
人類のあけぼの電子版 p134  ヤコブとエサウ

逃亡生活

モーセも逃亡した。このまま明るい将来に導かれるように見えたが同胞をあやめたことで逃亡する。ヤコブも同じである。兄エサウの復讐を恐れて逃亡した。罪からの逃亡、自分の過去からの逃亡。逃亡生活は孤独であり寂しさがこみ上げてくる。ヤコブやモーセとは全く違う非常に低次元ではあるが自分にも似たような経験がある。この世の全てから逃げたい、という気持ちになる。自分のことを全く知らない人たちに囲まれて生活したいと思う一方で寂しさと後悔、自分に対する不甲斐なさを感じる。そして何よりも恐ろしかったのは「自分は神様からも見捨てられたのではないか」という気持ちである。神様だけはいつも自分を守ってくださり道を示してくださると信じていたが、一番あてにしていた神様が非常に遠くに行ってしまった気がしてならなかった。もう全てが終わった、そんな気持ちである。

2日目の夕方、彼は父の家から遠く離れたところに来ていた。彼は、自分が放 浪の身に陥ったことを感じた。そして、この苦しみは、すべて、自分のまちがっ た行為の結果であることを悟った。絶望の暗黒が、彼の心におしかぶさり、祈る ことすらできなかった。しかし、その極度の寂しさのなかで、これまでになかっ たほどに神の保護の必要を痛感した。彼は、涙を流して深く恥じ入り、罪を告白 し、自分が全く見捨てられていないという確証を願い求めた。それでも彼の重い 心は軽くならなかった。彼は全く自信を失い、祖先の神は彼を見捨てられたので はないかと感じた。
しかし、神はヤコブを見捨てられなかった。神の憐れみは、なお、罪深い不信 のしもべに注がれていた。主はヤコブを憐れみ、彼が最も必要としていた救い主 を示されたのである。彼は、罪を犯した。しかし、ふたたび神の恵みに回復され る道が示されたので、彼の心は感謝にあふれた。
人類のあけぼの電子版 p139    ヤコブの逃亡と放浪

はしご

放浪者は旅に疲れ果てて、石をまくらにして地に横たわった。彼が寝ていると、 1つの光り輝くはしごが地上に立ち、その頂が天に達しているのが見えた。この はしごの上を天使たちが上り下りしていた。その上のほうに栄光の主がおられて、 「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である」という彼の声が 天から聞こえた(創世記 28:13)。彼がいま、放浪者、逃亡者として横たわっ ている地は、彼と彼の子孫に与えられることが約束された。そして、「地の諸族は あなたと子孫とによって祝福をうけるであろう」という確証が与えられた。
人類のあけぼの電子版 p139  ヤコブの逃亡と放浪

ヤコブは涙を流したと思う。まだ神様から見捨てられていなかった。再起の可能性がある。可能性があるどころかアブラハムやイサクに対して与えられた約束を自分のような者にも与えてくださったことが信じられないことであり、胸が張り裂けそうになるくらい嬉しいことだったと思う。

応答

この経験の後にもまだ試練は続くが、ヤコブは神様の約束を決して忘れなかった。また神様が自分をどのように扱ってくださるのかを知り嬉しさのあまり感謝の応答をする。神様の定めたことをその通り忠実に行なったのである。律法を守ることが救いの条件とはならないので行いはどうでも良いと考えるクリスチャンもいる。しかし律法を守ることは神様に対する感謝と愛の行為であり、神様に対する応答である。これを義務と思った時点でそれを守る意味が半減する。

「ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、 その頂に油を注い」だ(同・28:18)。重大な事件を記念するときの習慣に従っ て、ヤコブは神のあわれみの記念碑を立てた。それは、彼がこのあたりを通ると きに、この神聖な場所にしばらく足をとめて主を礼拝するためであった。そして、 彼はその場所をベテル「神の家」と呼んだ。彼は深い感謝の念をいだいて、神が 彼と共におられるという約束をくりかえした。そして、彼は厳粛な誓いをたてた。 「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと 着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神とい たしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そし てあなたがくださるすべての物の10分の1を、わたしは必ずあなたにささげま す」(同・28:20―22)。
人類のあけぼの電子版 p141  ヤコブの逃亡と放浪

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