約束の地カナンへ

出エジプト

モーセに率いられ、イスラエル民族が奴隷生活を強いられたエジプトを脱出し約束された土地カナンへ向かった出来事は有名である。特に葦の海を渡った経験は映画にもなっているので多くの人が知るところだと思う。成人男性だけで60万人、ある計算では総勢200万人の大移動と言われているこの脱出ストーリー。そのまま最短距離を進むことができれば2週間程度で行ける距離だとも言われている。しかし最短距離ではなく遠回りをし40年という期間をかけて大移動する。例外を除いてエジプトを脱出した時の世代、所謂第一世代ではなくその次の世代が約束の地カナンに入ることができた。

不平不満

こんなに苦しい旅ならエジプトにいた方が良かった、とモーセに不満をぶつけ仲介者モーセが神様にどうしたら良いかを相談し神様の奇跡的なご介入により問題が解決しイスラエルの民が神様を崇める。しかししばらくすると新たな不満が募りそれをモーセに訴え・・・ということをずっと繰り返す。イスラエル民族の資質なのか。何回奇跡を体験しても同じ不平や不満を持ってしまう。出エジプトの時代だけではない。士師記にもこれと同じようなことが繰り返されている。

自分だったらこんな愚かな生き方はしない、神様を忘れる生き方はしないと思ってしまいがちであるが今日読んだ書物には鋭い指摘がされていた。

イスラエル人の経験をふりかえってみて、彼らの不信とつぶやきに驚き、自分 たちであったら、あんなに忘恩的にはならなかっただろうと思う人たちが多い。 しかし、彼らの信仰がちょっとした試みによってためされてさえ、彼らは古代イ スラエルと同じように信仰も忍耐も発揮しないのである。苦境に陥ると、彼らは 神が彼らを清めるために選ばれた道についてつぶやく。現在の必要は満たされて いるのに、多くの者は将来のことを神に信頼しようとしないで、貧乏になりはし ないか、子供たちが苦しみはしないかと絶えず心配する。ある人たちは、いつも 悪いことを予想したり、実際に困難なことがあると、それを大げさに考えたりす るので、彼らの目は、感謝しなければならない多くの恵みに対して盲目になっている。 彼らは、困難に出会うときに、唯一の力の源であられる神に助けを求めようとし ないで、不安とつぶやきの心を起こし、かえって神から離れてしまうのである。
人類のあけぼの電子版 p239  紅海からシナイヘ

人生と出エジプト

イスラエル民族の出エジプトの経験は人生そのものを表しているように思う。困難に陥り必死に神様に祈る。神様の特別なご計画と深い憐れみによりその祈りがきかれる。感謝に溢れそに奇跡的な経験を心に持ちながら信仰生活を歩む。しかししばらく進むと、前回よりも更に難しい問題に直面する。そして「こういう状況に追いやるのが神様の御心だったのですか?」とつぶやき「こんなことならもう生きている意味がありません」と自暴自棄になる。しかし、憐れみ深い神様は聖書の言葉や周囲の愛情、自然界の美しさなどを通して神様の愛を示してくださりもう一度祈りに導いてくださる。そして祈り、その祈りがこたえられ信仰を更に篤くする。しかし・・・。とこんなことを繰り返す。自分の歩みこそ出エジプトのイスラエルの民であることがよくわかる。

前出の書物には次のようにも書かれていた。

しかし、彼らは困難に出会い、欠乏に耐えることが必要であった。神は彼らを堕 落の状態から引き出し、彼らが諸国民の中で尊敬される立場を占め、重要で神聖 な責任を負わされるのにふさわしいものにしようとしておられた。もし彼らが、 彼らのために神が行われたすべてのことを考えて神を信じていたら、彼らは、喜 んで不便と欠乏と、実際の苦難にも耐えたのである。しかし、彼らは神の力の証 拠を常に目で見ることができないかぎり、神に信頼しようとしなかった。彼らは エジプトでの苦しい仕事を忘れた。奴隷の境遇から救済されたときに彼らのため に神の恵みと力があらわされたことを彼らは忘れた。死の天使がエジプトの長子 を全部殺したときに、イスラエルの子らは生かされたことを彼らは忘れた。彼ら が開かれた道を安全に渡ったときに、追跡してきた敵の軍勢が海の水にのまれて 滅びたことを、彼らは忘れた。彼らは、目前の不便と試練だけを目にとめてそれ を感じた。そして、「神はわれわれのために大いなることをしてくださった。
われわれは奴隷であったのに、神はわれわれを大いなる国民にしてくださるのだ」 と言わないで、彼らは、途中の困難について語り、このたいくつな放浪はいつ終 わるのだろうと思った。
人類のあけぼの電子版 p238  239  紅海からシナイヘ

学ぶべきこと

同じような過ちを何度も何度も繰り返しながら、神様の忍耐に甘えながらほんの少しだけ学ぶことがある。それは「神様に頼る」こと。

われわれは、このように不信であってよいだろうか。どうして感謝しなかった り、信頼しなかったりしてよいだろうか。イエスはわれわれの友である。全天は われわれの幸福に関心を持っている。われわれの心配と恐れは神の聖霊を悲しま せる。いらだたせ、疲れさせるだけで、試みに耐える助けとならない心配をして はならない。われわれの幸福が地上の事物にあるかのように、将来の必要に対す る備えを人生の主要事として、神への不信をいだいてはならない。神の民が、心 配事にうちひしがれることは、みこころではない。しかし主は、われわれの道に なんの危険もないとはいわれない。神はご自分の民を罪と悪のこの世から連れ出 そうとは言われず、われわれに確実な避け所をさし示される。主は、重荷を負っ て疲れている者に、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきな さい。あなたがたを休ませてあげよう」と招いておられる(マタイ 11:28)。
人類のあけぼの電子版 p239  紅海からシナイヘ

心配ごとをすべて神にまかせて、神のうちに休みと平安をみいだすことができ るのである。「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思い わずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」(Iペテロ 5:7)。
人類のあけぼの電子版 p240   紅海からシナイヘ

聖書研究ガイド22年3期9課

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