イスラエル12部族

ヨセフ

昨日に引き続き今日もヨセフの生涯について書物を読んでいた。波乱万丈の人生であるがそれでもヨセフは全てを神様の許しの中で起きたことと捉え全てを受け入れ肯定している。兄弟たちが自分を売ったことは、彼らよりも先に自分がエジプトに遣わされ親兄弟を救うためだと言い切る。

しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命 を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです」(同・45: 4,5)。ヨセフは、兄弟たちが自分に対する残酷な行為のために、もう十分に苦しんでいることを感じて、彼らの恐怖心を取りのぞき、自責の痛みをやわらげようと気高くも努めた。

彼は続けて言った。「この2年の間、国中にききんがあったが、なお5年の間は 耕すことも刈り入れることもないでしょう。神は、あなたがたのすえを地に残す ため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなた がたよりさきにつかわされたのです。それゆえわたしをここにつかわしたのはあ なたがたではなく、神です。神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、ま たエジプト全国のつかさとされました。あなたがたは父のもとに急ぎ上って言い なさい、『あなたの子ヨセフが、こう言いました。神がわたしをエジプト全国の主 とされたから、ためらわずにわたしの所へ下ってきなさい。あなたはゴセンの地 に住み、あなたも、あなたの子らも、孫たちも、羊も牛も、その他のものもみな、 わたしの近くにおらせます。ききんはなお5年つづきますから、あなたも、家族 も、その他のものも、みな困らないように、わたしはそこで養いましょう』。
人類のあけぼの電子版 p181   ヨセフと兄弟たち

エフライムとマナセ

ヤコブはその生涯の終わりに、ヨセフの子どもたちを枕辺に呼び寄せる。そして彼らを自分の子どもとして受け入れ祝福の祈りをする。

ヤコブはヨセフに向かって、「エジプトにいるあなたの所にわたしが来る前に、 エジプトの国で生れたあなたのふたりの子はいまわたしの子とします。すなわち エフライムとマナセとはルベンとシメオンと同じようにわたしの子とします」と 言った(同・48:5)。彼らは、ヤコブ自身のむすことされ、それぞれの部族のか しらになることになった。こうして、ルベンが失った長子の権の1つがヨセフに 与えられた。これは、イスラエルにおける2倍の分であった。
人類のあけぼの電子版 p185   ヨセフと兄弟たち

イスラエル12部族

ヤコブの子どもはルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ディナ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、ヨセフ、ベニヤミンの13人。ディナは女性なので男性は12名。これがそのままイスラエル12部族になっていれば問題は無いのだがそうでは無い。

例えば出エジプトの際、宿営を東西南北に分け各部族を配置した時には12名の子どもたちの名前がそのまま「族」の名前になっていないことがわかる。

・宿営の東側・・・ユダ族、イッサカル族、ゼブルン族

・宿営の西側・・・エフライム族、マナセ族、ベニヤミン族

・宿営の南側・・・ルベン族、シメオン族、ガド族

・宿営の北側・・・ダン族、アシェル族、ナフタリ族

ヤコブの子のうち「レビ」と「ヨセフ」が「族」には入っていない。逆にヨセフの子、すなわちヤコブの孫である「エフライム」と「マナセ」がイスラエル12部族に入っている。これは出エジプトよりも前に聖書に書かれている。

1これらの事の後に、「あなたの父は、いま病気です」とヨセフに告げる者があったので、彼はふたりの子、マナセとエフライムとを連れて行った。 2時に人がヤコブに告げて、「あなたの子ヨセフがあなたのもとにきました」と言ったので、イスラエルは努めて床の上にすわった。 3そしてヤコブはヨセフに言った、「先に全能の神がカナンの地ルズでわたしに現れ、わたしを祝福して、 4言われた、『わたしはおまえに多くの子を得させ、おまえをふやし、おまえを多くの国民としよう。また、この地をおまえの後の子孫に与えて永久の所有とさせる』。 5エジプトにいるあなたの所にわたしが来る前に、エジプトの国で生れたあなたのふたりの子はいまわたしの子とします。すなわちエフライムとマナセとはルベンとシメオンと同じようにわたしの子とします。 6ただし彼らの後にあなたに生れた子らはあなたのものとなります。しかし、その嗣業はその兄弟の名で呼ばれるでしょう。
創世記48:1-6

レビ族

レビはヤコブの子どもであるが12部族には含まれていない。彼らは聖所に関する特別な働きを担うためにこの部族には含まれなかった。レビ族は聖所の周りの宿営し、その更に外側に12部族が宿営していた。彼らの責務は聖所に関する勤めであったので戦いに行くこともなかった。

ルベン

ヤコブの長男であったルベンはその名が族名には残っているものの、彼の長子の権利は剥奪されている。

1イスラエルの長子ルベンの子らは次のとおりである。――ルベンは長子であったが父の床を汚したので、長子の権はイスラエルの子ヨセフの子らに与えられた。それで長子の権による系図にしるされていない。
歴代誌下5:1

 

샬롬 | Jennifer Jeon, Yeriel Kim

 

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信じぬく

ヨセフ、売られる

昨日から、読み物はヨセフの話にうつっている。ヤコブに溺愛され天真爛漫に育ったヨセフ。しかし父親からの溺愛、偏愛が兄弟たちの癇に障った。兄弟田塩悪巧みと憎しみにより亡ものとされそうになったがエジプトに奴隷として売られた。悲しみと失望の中にあっても絶えず神様を信じ続けたヨセフの生涯は創世記の後半を飾る大ドラマになっている。

ルベンが穴にもどってみると、ヨセフはいなかった。ルベンは驚きと自責の念 にさいなまれて、自分の着物を裂き、兄弟たちのところに来て、「あの子はいない。 ああ、わたしはどこへ行くことができよう」と叫んだ(同・37:30)。ルベンは、 ヨセフの運命を聞いてもう彼を取りもどすことができないことを知り、彼らと 1つになってその罪をかくすようになってしまった。彼らは雄やぎを殺してヨセ フの着物をその血にひたした。そしてそれを父のところに持って行って、これを 野で見つけた、これはヨセフのではないかと思う、と言った。「わたしたちはこれ を見つけましたが、これはあなたの子の着物か、どうか見さだめてください」と 彼らは言った(同・37:32)。彼らは、この時の恐ろしさを予期してはいたが、 父の心がはり裂けるばかりに苦しみ、悲しみの窮みに達して泣き叫ぶのを目撃し なければならないとは思っていなかった。「わが子の着物だ。悪い獣が彼を食った のだ。確かにヨセフはかみ裂かれたのだ」とヤコブは言った(同・37:33)。む すこや娘たちがどんなに彼を慰めようとしてもむだであった。ヤコブは、「衣服を 裂き、荒布を腰にまとって、長い間その子のために嘆いた」(同・37:34)。時 がたっても彼の悲しみは慰められなかった。「わたしは嘆きながら陰府に下って、 わが子のもとへ行こう」と言って彼は嘆き悲しんだ(同・37:35)。むすこたち は、自分たちのしたことの恐ろしさを感じた。しかし彼らは父の譴責を恐れて、 彼らの罪を心にかくしていた。それは自分たちにさえ、非常に大きな罪と思われ たのである。
人類のあけぼの電子版 p164  カナンに帰る

彼はどのような環境のもとにあっても、天の王の臣民らしく行動し、神に忠誠 を尽くそうと決心して大きな感動をおぼえた。彼は、専心、主に仕えようと思っ た。彼は勇敢に試練に当面し、忠実に義務を果たそうとした。この1日の経験が、 ヨセフの生涯の分岐点になった。その恐ろしい不幸が、あまやかされた少年から、 思慮深く、勇敢で沈着なおとなに彼を変えたのである。
人類のあけぼの電子版 p166  エジプトにおけるヨセフ

ヨセフ、陥れられ牢屋に

しかし、神のみ手は獄屋の扉をまさにあけようとしていた。エジプトの王は、 一夜のうちに2つの夢を見た。それらは、明らかに同じ事件を指示し、しかも大 きな災いを予告しているかのように思われた。王は、その夢の意味を理解するこ とができなかった。しかし夢は王の心を悩ましつづけた。エジプトのすべての魔 術師や知者たちも、それを解き明かすことができなかった。王の困惑と苦悩はま すますつのり、王宮全体が恐怖に襲われた。この大騒ぎが起こったときに、給仕 役の長は自分が夢を見たときの事情を思い出し、それとともにヨセフの記憶がよ みがえってきた。そして、自分の怠慢と忘恩とを考えて、自責の念に苦しめられ た。彼はただちに、自分と料理役の長とが見た夢をヘブルの囚人が解き明かして くれて、彼の言ったとおりになったことを王に話した。
パロが、自国の魔術師や知者たちを退けて、異国人、しかも奴隷の意見を聞く ということは恥辱であった。しかし、彼は、心の苦悩が解決されるのであれば、 どんなに身分の卑しい者の言うことでも聞き入れようとしていた。使いの者が、 すぐにヨセフのところに送られた。彼は囚人の着物を脱ぎ、ひげをそった。彼の 髪の毛が、屈辱と投獄の期間に長くのびていたからである。こうして彼は、王の 面前に召し出された。
「パロはヨセフに言った、『わたしは夢を見たが、これを解き明かす者がない。 聞くところによると、あなたは夢を聞いて、解き明かしができるそうだ』。ヨセフ はパロに答えて言った、『いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告 げになりましょう』」(同・41:15,16)。
人類のあけぼの電子版 p169  エジプトにおけるヨセフ

ヨセフ、用いられる

任命は決定された。ヨセフにとって驚くべき宣言がなされた。「神がこれを皆あ なたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。あなたはわたしの家を治 めてください。わたしの民はみなあなたの言葉に従うでしょう。わたしはただ王 の位でだけあなたにまさる」。王は、ヨセフの高い地位をあらわす記章を彼に与え ようとするのであった。「そしてパロは指輪を手からはずして、ヨセフの手にはめ、 亜麻布の衣服を着せ、金の鎖をくびにかけ、自分の第2の車に彼を乗せ、『ひざま ずけ』とその前に呼ばわらせ、こうして彼をエジプト全国のつかさとした」(同・ 41:39,40,42,43)。
人類のあけぼの電子版p171  エジプトにおけるヨセフ

どんな時も

今日、礼拝メッセージで配線からわずか半年で教会活動を再開し復興に向け信仰を持って前進した教会の話をうかがった。どのような時も信仰を持ち続けることはなかなかできることではないが、しかし聖霊様の助けをいただきながら信じ続けたい。

2022年8月20日 「イエスに対する信仰と信頼」 安息日礼拝LIVE配信

 

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釜石の奇跡

防火管理者

職場からの命令で昨日から「甲種防火管理者」講習を受けてきた。岩木山の近くまで行って講習を受けたいたのだがものすごく多くのことを学べた。今まで自分が経験してきた避難訓練や通報訓練などは全く意味がないことだと分かった。消火訓練に至っては命を落とすような方法を正しいことと思っていたことに気づき大きなショックを受けた。現役の消防士さんが講習をしてくださるのだが一つ一つが実体験に基づいているので分かりやすく重みがあった。自分は建物内にある「屋内消火栓」に種類があることも知らなかったし、そもそもあの装置は消火にきた消防士さんが使用するものだと思っていた。屋内消火栓は消火器で消せ無い火を消すための装置で素人が使うものだと、今回の講習で初めて知った。また使い方もよく理解できた。消火器の噴射時間がおよそ15秒。その間に効率よく消化するためには今まで習っていた方法では全く歯が立た無い。そもそも消火器にも種類があることなど全く知らなかった。講習の全てが自分の知識と技術になったことを心から感謝している。ずっと真面目に冗談一つ言わないで指導してくださった講師が最後に「培った技術と知識を実戦で役立てる機会はあなたの事業所が燃えるときです」と力説していたのが妙に納得したしブラックだったので、会場から小さな笑いが起こっていた。

講習の後半で東日本大震災の時にあった「釜石の奇跡」という話をしてくださった。恥ずかしながら自分はこのはなしを知らなかった。

釜石の奇跡

東日本大震災の大津波が東北地方沿岸部に甚大な被害を及ぼしたなか、岩手県釜石市内の児童・生徒の多くが無事だった。この事実は『釜石の奇跡』と呼ばれ、大きな反響を呼んでいる。なかでも、海からわずか500m足らずの近距離に位置しているにもかかわらず、釜石市立釜石東中学校と鵜住居(うのすまい)小学校の児童・生徒、約570名は、地震発生と同時に全員が迅速に避難し、押し寄せる津波から生き延びることができた。元々鵜住居小学校の児童は校舎の屋上に避難していたが、中学生が「そんなところではダメだ」「こんなに大きな揺れで3mの津波なんてありえない」と言いながら猛スピードで高台目指して走っていくのでそれについて行ったという。大声で呼びかけながら高台を目指した結果近隣住民の多くもそれに続き走って逃げた。結果多くの人命が救われた。

避難の発端となった釜石東中学校の先生が非常に感銘深いことを仰っていたようで、防火管理者講習会で紹介してくださった。

「避難しろと、と言われ自分でも避難しないといけないと分かっていてもなかなか避難できないものだ。自分もそうである。日本人はこういう時の行動が遅い。だから、君たちには勇気を持って避難の第一人者になってもらいたい。大声で叫びながら避難しなさい。そうしたら誰かがそれについてくる。そしてその避難が周りに波及する。恐れず一番初めに逃げなさい」

何とも感動的な言葉である。

同じような言葉

聖書の中にも同じような言葉がある。エルサレム陥落を預言し、涙を流しながらイエス様が言われた言葉。

20エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。 21そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない。 22それは、聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日であるからだ 23その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。地上には大きな苦難があり、この民にはみ怒りが臨み、 24彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。
ルカ21:20-24

山に逃げよ

マタイ福音書24章は世の終わりについて述べている。ここにもその前兆と何をすべきかが書かれている。

預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、 16そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。
マタイ24:15-16

自分が逃げる姿を見て誰かが一緒について来てくれることを切に願うものである。特に教員をしていたので若い魂には強い思い入れがある。逃げよう。一緒に逃げよう。みんなに聞こえるぐらい大きな声で叫びながら山に逃げよう。

聖書研究ガイド22年3期8課

 

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ヤコブ2

ヤボク川での一夜

騙して長子の権利を奪ったことが罪悪感として消えない。何としても兄エサウに心からの謝罪をして、もしもできることなら和解したいと願ったヤコブ。ついに20年の歳月を過ごしたパダンアラムを出てカナンに向かう。どんな様子であるかを調べるべく先発隊を送った。しかし兄エサウがこちらに向けて兵をだしたことしか分からなかった。赦してくれる確証は全くなかった。むしろ絶望的な状況であった。ヤコブ一行がヤボクの渡しまで来ると彼は家族を先に行かせ自分はひとりヤボクの渡しに残った。全てを神様に委ね、心から悔い改めそしてどうしても助けてもらいたいと懇願するために。

こうして彼らはヤボクの渡しに着いた。そして、夜になったので、ヤコブは家族の者たちに川の浅瀬を渡らせ自分は1人であとに残った。彼は、その夜祈り明 かすことにし、神と自分だけになりたいと思った。神は、エサウの心を和らげる ことがおできであった。ヤコブは、神に頼るほかなかった。

そこはものさびしい山地で、野獣がひそみ、盗賊や人殺しが出没するところで あった。ヤコブは、ただ1人でなんの防備もなく、深い悲しみに沈んで地に ひれ伏した。それは真夜中であった。彼の愛する家族の者たちがみな遠くへ行き、 危険と死にさらされている。彼にとって何よりもつらいことは、彼自身の罪悪の ゆえに、罪のない者たちが危険にさらされることであった。彼は、真剣な叫びと 涙をもって神に祈った。すると突然、力強い手が彼の上におかれた。彼は、敵が 彼の命をねらっているのだと思い、敵の手からのがれようと全力を尽くした。
人類のあけぼの電子版 p150  苦闘の一夜

夜中の格闘

格闘は夜明け近くまで続いた。見知らぬ相手の指がヤコブの腰に触れるや、彼 はたちどころに不具者になってしまった。ヤコブは、この敵がだれであるかがわ かった。彼は天使と戦っていたことを知った。彼のほとんど超人的力でも勝てな かったのはそのためであった。この方は、「契約の天使」キリストで、ご自分をヤ コブに現わされた。不具となり、激しい痛みに苦しみながらも、ヤコブは、彼を 放そうとしなかった。ヤコブは悔いくずおれて天使にすがり、「泣いてこれにあわ れみを求め」、祝福を懇願した(ホセア 12:4)。彼は、罪の許しの確証をどうし ても受けなければならなかった。肉体がどんなに苦痛を感じても、この目的から 心をそらせることはできなかった。彼の決意はますます強く、信仰は燃え、最後 まで耐えぬこうとするのであった。天使は、ヤコブからのがれようとして、「夜が 明けるからわたしを去らせてください」と言ったが、ヤコブは答えて、「わたしを 祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と言った(創世記 32:26)。 もしこれが、ヤコブの高慢無礼で自己過信から出たものであれば、彼は、直ちに 滅ぼされたことであろう。しかし、それは、自己の無価値を告白するとともに、 神が忠実に約束を果たされることを信頼する者の確信であった。
人類のあけぼの電子版 p151  苦闘の一夜

一方エサウは

ヤコブが天使と格闘している間に、もう1人の天使がエサウのところに送られ た。エサウは夢のなかで、父の家から20年の間離れて暮らした弟を見た。また、 彼が母親の死を知って、どんなに悲しむかを見た。そして彼が、神の軍勢に囲ま れているのを見た。エサウは、この夢を兵卒たちに語った。そして、彼の父の神 がヤコブと共におられるから、彼に害を加えないように命じた。
人類のあけぼの電子版 152  苦闘の一夜

主はそこに

しかし、ヤコブの生涯は、罪に陥っても真に悔い改めて神にたち帰る者を、神 は見捨てられないことを証明している。ヤコブが、自分の力をふるって獲得でき なかったものを得たのは、自己降伏と堅い信仰によってであった。こうして、神 は、彼の熱望した祝福を与え得るものは神の能力と恵みだけであることを教えら れた。最後の時代においてもこれと同様である。彼らは危険に当面し、絶望に陥 るとき、ただ、贖罪の功績だけに頼らなければならない。われわれは自力では何 もできない。全く無力で無価値なわれわれは、十字架につけられ復活された救い 主の功績に頼らなければならない。そうするかぎり、だれ1人滅びることはない。
人類のあけぼの電子版 p154  苦闘の一夜

ヤコブは、不撓不屈の精神を持っていたから祈りが聞かれた。彼の経験は、たゆまず祈りぬくことに力があることを証拠だてた。今こそわれわれは、神に聞かれる祈りと不動の信仰についての教訓を学ばなければならない。キリストの教会、 また、クリスチャン個々の最大の勝利は、才能や教育、あるいは富、または人間 の援助によって得られるものではない。その勝利とは、神との交わりの部屋で熱 心に苦闘する魂が、信仰によって力強いみ腕をつかむときに得られる。
すべての罪を捨て、熱心に神の祝福を求めようとしなければそれを得ることが できない。しかし、ヤコブのように、神の約束をしっかりにぎり、彼のように熱心に屈せず願い求めるものはみな、彼のように聞かれるのである。「まして神は、 日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのまま にしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさ ばいてくださるであろう」(ルカ 18:7,8)。
人類のあけぼの電子版 p155  苦闘の一夜

主はそこに

 

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ヤコブ1

自業自得

旧約聖書に「ヤコブ」という人が登場する。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の父祖となったアブラハム、そしてその子がイサク、そしてイサクの子がヤコブ。このヤコブが波乱万丈の人生を送る。元々、双子の弟だったが長子のの権利、その祝福が欲しくて兄エサウと父イサクを騙して長子の祝福を受けてしまう。聖書の記述だけを読むといかにも策略に満ちた母親の影響と入れ知恵でエサウとイサクをそそのかしたように読み取れるが、実際にはエサウのその日暮らし的な地に足をつけない生き方に不安を感じた母親の考えだったようだ。また、ヤコブも長子の権利を得ることの意味を重く捉えており、アブラハムのような信仰を持ち約束の子孫と約束の地を受けたいと望んでいたようである。いずれにしても騙したことは事実でありヤコブが兄エサウの復讐を恐れて逃亡したのは全くの自業自得である。

ヤコブは、長子の特権が自分に与えられるという神の告示を母親から聞き、な んとかしてその特権を自分のものにしたいという言葉には表現できない願望に満 たされた。彼が渇望したのは、父親の富を所有することではなかった。彼が願い 求めたものは、霊的長子の特権であった。義人アブラハムのような神との交わり にはいり、家族のために犠牲をささげ、選民と約束の救い主の先祖となり、契約 の祝福に含まれている永遠の嗣業にあずかることなどが、彼の熱心に求めてやま ない特権であり、誉れであった。彼の心は常に将来のことに向けられ、目には見 えない祝福を得ようと努めていた。
人類のあけぼの電子版 p134  ヤコブとエサウ

逃亡生活

モーセも逃亡した。このまま明るい将来に導かれるように見えたが同胞をあやめたことで逃亡する。ヤコブも同じである。兄エサウの復讐を恐れて逃亡した。罪からの逃亡、自分の過去からの逃亡。逃亡生活は孤独であり寂しさがこみ上げてくる。ヤコブやモーセとは全く違う非常に低次元ではあるが自分にも似たような経験がある。この世の全てから逃げたい、という気持ちになる。自分のことを全く知らない人たちに囲まれて生活したいと思う一方で寂しさと後悔、自分に対する不甲斐なさを感じる。そして何よりも恐ろしかったのは「自分は神様からも見捨てられたのではないか」という気持ちである。神様だけはいつも自分を守ってくださり道を示してくださると信じていたが、一番あてにしていた神様が非常に遠くに行ってしまった気がしてならなかった。もう全てが終わった、そんな気持ちである。

2日目の夕方、彼は父の家から遠く離れたところに来ていた。彼は、自分が放 浪の身に陥ったことを感じた。そして、この苦しみは、すべて、自分のまちがっ た行為の結果であることを悟った。絶望の暗黒が、彼の心におしかぶさり、祈る ことすらできなかった。しかし、その極度の寂しさのなかで、これまでになかっ たほどに神の保護の必要を痛感した。彼は、涙を流して深く恥じ入り、罪を告白 し、自分が全く見捨てられていないという確証を願い求めた。それでも彼の重い 心は軽くならなかった。彼は全く自信を失い、祖先の神は彼を見捨てられたので はないかと感じた。
しかし、神はヤコブを見捨てられなかった。神の憐れみは、なお、罪深い不信 のしもべに注がれていた。主はヤコブを憐れみ、彼が最も必要としていた救い主 を示されたのである。彼は、罪を犯した。しかし、ふたたび神の恵みに回復され る道が示されたので、彼の心は感謝にあふれた。
人類のあけぼの電子版 p139    ヤコブの逃亡と放浪

はしご

放浪者は旅に疲れ果てて、石をまくらにして地に横たわった。彼が寝ていると、 1つの光り輝くはしごが地上に立ち、その頂が天に達しているのが見えた。この はしごの上を天使たちが上り下りしていた。その上のほうに栄光の主がおられて、 「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である」という彼の声が 天から聞こえた(創世記 28:13)。彼がいま、放浪者、逃亡者として横たわっ ている地は、彼と彼の子孫に与えられることが約束された。そして、「地の諸族は あなたと子孫とによって祝福をうけるであろう」という確証が与えられた。
人類のあけぼの電子版 p139  ヤコブの逃亡と放浪

ヤコブは涙を流したと思う。まだ神様から見捨てられていなかった。再起の可能性がある。可能性があるどころかアブラハムやイサクに対して与えられた約束を自分のような者にも与えてくださったことが信じられないことであり、胸が張り裂けそうになるくらい嬉しいことだったと思う。

応答

この経験の後にもまだ試練は続くが、ヤコブは神様の約束を決して忘れなかった。また神様が自分をどのように扱ってくださるのかを知り嬉しさのあまり感謝の応答をする。神様の定めたことをその通り忠実に行なったのである。律法を守ることが救いの条件とはならないので行いはどうでも良いと考えるクリスチャンもいる。しかし律法を守ることは神様に対する感謝と愛の行為であり、神様に対する応答である。これを義務と思った時点でそれを守る意味が半減する。

「ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、 その頂に油を注い」だ(同・28:18)。重大な事件を記念するときの習慣に従っ て、ヤコブは神のあわれみの記念碑を立てた。それは、彼がこのあたりを通ると きに、この神聖な場所にしばらく足をとめて主を礼拝するためであった。そして、 彼はその場所をベテル「神の家」と呼んだ。彼は深い感謝の念をいだいて、神が 彼と共におられるという約束をくりかえした。そして、彼は厳粛な誓いをたてた。 「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと 着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神とい たしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そし てあなたがくださるすべての物の10分の1を、わたしは必ずあなたにささげま す」(同・28:20―22)。
人類のあけぼの電子版 p141  ヤコブの逃亡と放浪

Home – Matt and Josie Minikus (Lyrics)

 

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特殊清掃

清掃

ある方から頼まれて先日その方のご自宅を掃除した。以前から頼まれていたのだがなかなか時間が無くてできなかったが休暇を取って実家に帰る計画をしていたところ大雨で電車が動かず帰れなくなったのでその方の掃除をすることにした。決して特殊清掃では無い。その方は生きていらっしゃるしその気になれば自宅に戻ることもできる。しかし大きな病をふたつかかえておりご本人もなんと無く自宅にはもう戻れないことを意識していらっしゃるのかもしれない。ひとの家にお邪魔して掃除をすることは非常に気がひけるけれど、自分にしか頼めないとおっしゃるので引き受けた。第一回目ということでこの日は3時間程度掃除した。ゴミを出す習慣が無いようで、いたるところにゴミがあった。ところが段ボールに整頓して入れられているので一見したところではゴミと認識できない。また段ボール箱が多いのも特徴である。買い物に行けないせいか食品のほとんどがAmazonからのものでそれを梱包していた箱が山のように積まれていた。段ボールを50個以上壊してからゴミをまとめ掃除機をかけた。しかしこれでも全体の1割にもいっていない気がする。 部屋をみるとその方の嗜好やスタイルが見えてくる。まず食べているものがほとんどシリアル。野菜ジュースのゴミが目立つ。毎日同じものを食べていることが分かる。また、自分もやったことがあるが部屋にテントを張って寝ていた。これは寒冷地には結構有効な防寒手段だと思う。

ひとり

ひとりで生活していると急に不安な気持ちになることがある。「今自分が死んだらいつ、誰が気づいてくれるのだろう」という不安である。勿論心筋梗塞のように痛みが伴うことを考えるのも辛いが、やはり気づかれないで人生を終えていくことの寂しさを考えると不安な気持ちになる。社会問題にもなっている孤独死は自分のすぐ近くにある可能性であることを痛感する。でもそのような場面でもイエス様が共にいてくださり励まし、永遠の御国に対する希望を与えてくださるのだろうか。更に、あまりにも部屋が汚いと恥ずかしい。整理整頓は常々してすべきと肝に命じている。

主人のいない部屋

実家もそうである。ついこの前まで両親が住んでいた家であるが、特別なことがない限り実家に両親ふたりで生活することは無いと思う。検査を受けるために姉の家に数日行ったその前日が両親が実家で過ごす最後となったのかもしれない。淡い期待だが、自分が在宅でできる仕事にめぐり合いある程度の収入を得られれば両親と実家で同居することもできる。前述の掃除をした家もそうである。掃除をしながら、この方がもうこの家には戻れないかもしれないことを考えると非常に辛くなり涙が流れてくる。永遠の住まいである天の御国に1日も早く行けることを祈るばかりである。

36 Norihiko Hanada【私と俺と神様】

 

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犠牲

終戦記念日

77回目の終戦記念日を迎えた。戦争の悲惨さを語れる方々が年々減っていくことに一抹の不安を覚える。両親は戦争を経験している。戦時下にあってどのように信仰を守り抜いたのか、牧師でも無いのに一信徒である病床の祖父が特高警察につかまり拘留されたこと、東京大空襲で荒川土手に逃げたこと、そして間一髪のところで神様が守ってくださったことを沢山聴かされた。終戦の玉音放送の際、父は「ふざけるな」という気持ちもあって釣りに行った、と話してくれた。国のために命を捧げることが尊いこととされ、出兵できなければ世間から恥呼ばわりされた時代。それを経験した方々が、愚かな戦争を繰り返してはいけないと、戦争を知らない世代に伝えてくれた。しかし、そのような警告にも拘らず世界はまた戦争に舵を切ろうとしている。

ある写真

長崎の原爆が投下されてからしばらくして撮られた写真である。「焼き場に立つ少年」という題の写真で米軍の従軍カメラマン、ジョー・オダネル氏が撮影した。どうみてもうちの次男の年齢である。その子が、なくなった弟さんをおぶって焼き場に並んでいる。戦争とはこういうことなのだ。自分も経験していないのでものを言える立場ではないが、こんなことを繰り返してはいけない。絶対にいけない。

犠牲

現在、一人暮らしをしているので誰かにお世話になったり助けてもらうことはあまりない。炊事、洗濯、掃除等々すべて自分でやらなくてはならない。そんなことをしていると、「自分の力で生きている」と勘違いしてしまうことがある。決してそんなことはない。絶えずどなたかのお世話になり、どなたかの祈りによって支えられ生きている。

戦争に巻き込まれ、狂った価値観が正しいことと洗脳されて生き、そしてなくなった方々の犠牲に上に今の日本があることは確かだし、生き残ってこの日本を復興させた方々の功績によって生かされている。そして何よりも、2000年前の十字架上での犠牲があったからこそ今の自分が存在している。

終戦記念日に思うことは、決して思いあがってはいけないということ、そしてイエス様の十字架の犠牲である。

けがれのない神のみ子は、その肉体はむち打ちで裂け、しばしば祝福 のうちにさし出されたその手は横木に釘づけられ、愛の奉仕に疲れを知 らなかったその足は木にうちつけられ、王の頭はいばらの冠で刺され、 ふるえる唇は苦悩の叫びにかたどられて、十字架にかかっておられた。 しかもイエスがしのばれたすべてのこと― その頭と手と足から流れた 血のしたたり、その肉体を苦しめた苦痛、天父のみ顔がかくされた時に その魂を満たした言いようのない苦悩、― それらは人類の子らの1人 1人に向かって、神のみ子がこの不義の重荷を負うのを承諾されるのは あなたのためであり、死の支配をたちきって、パラダイスの門を開かれ るのはあなたのためであると語っている。
各時代の希望電子版 p805 カルバリー

契約の虹#33 じゅうじかよりさけびきこゆ

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ド・モルガンの法則

勉強会

夏休みとはいえ宿題と休み明けテストの準備で苦労している長男が毎日連絡してくる。最近はもっぱら勉強に関する質問である。今は数学の「集合」の復習をしているようでド・モルガンの法則を用いた問題の質問が多い。1問につき20分程度の解説動画を作って送り、あとで電話でその内容を確認する方法をとっている。数学も良いのだが物理を質問してくれないかな?と期待している。たくさん伝えたいことがあるのに。

集合

自分も高校時代には苦手意識をもっていた「集合」という単元。理屈で考えればわかりそうだが複雑になると頭が混乱してくる。基本的なところでいえば集合Aと集合Bというふたつの集合に対してその交わりを学ぶ。

A ∩ Bと表現すればAでありかつBである共通部分を表す。また
A ∪ Bと表現すればAまたはBのいずれかであればよい、となる。

たとえば

集合A={1,3,5,7,9}
集合B={1,2,3,4,5,6,7}

というふたつの集合があったとすると

・A ∩ B={1,3,5,7}となる。また
・A ∪ B={1,2,3,4,5,6,7,9}となる

ある条件に当てはまったものをその集合の「要素」というが昔、ある写真家さんが面白いことを言った。

「世の中には2種類のカメラがある。ライカとそれ以外だ」

相容れない、共通要素のないふたつの集合、「ライカ」と「ライカ以外」という関係については生意気ながら納得できる。安全確実に良い写真を撮るにはCanon 5DやCanon Rを使用する。失敗のない写真が撮れる。しかし、趣のある写真を撮るならやはりLeica Q2を使う。どうでも良い話であるが、集合という考え方の面白さを改めて実感している。

どちらかひとつ

集合には共通部分も存在する。ある書物を読んでいて考えさせられることがあった。例えばこのような集合があったらどうだろうか。

全体集合U:クリスチャン

集合A:日曜日を礼拝日として守っている

集合B:土曜日(安息日)を礼拝日として守っている

集合C:聖書の価値観のみを大切にして信仰生活を送っている

集合D:世の中の価値観に合わせて信仰生活を送っている

共通部分はあるだろうか。あるとしたらどこだろうか。

読んだ書物の中には次のように書かれていた。

今日、宗教界は憂うべき状態にある。神の恵みは軽んじられた。多くの者は、 神の律法を廃し、「人間のいましめを教として教え」ている(マタイ 15:9)。わ が国の多くの教会に、無神論が流行している。それは、聖書を公然と否認する広 義の無神論ではなくて、キリスト教の衣をまとった無神論で、聖書が神の啓示で あるという信仰をくつがえしている。熱烈な献身と生気にあふれた敬神の念は、 空虚な形式主義に所を譲った。その結果、背信と快楽主義がはびこった。「ロトの 時にも同じようなことが起った。・・・・人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様 であろう」とキリストは言われた(ルカ 17:28,30)。日ごとの記事は、こ のみ言葉の成就を証拠立てている。世界は、急速に滅亡にひんしていた。間もな く、神の刑罰が下り罪と罪人とは焼き尽くされなければならない。
人類のあけぼの電子版 p121   ソドムの滅亡

間も無くイエス様が再臨されるこの時代、最終段階は「印」が押される。「獣の印」か「神の印」のどちらかである。中間は無い。必ずどちらかの集合に属すことになる。自分の行動の全てをもう一度吟味して、心の奥底にある動機が何であるかを見極める必要を痛感している。

最終時代に、宗教界に見られる腐敗と背信とは、「地の王たちを支配する大いなる都」 バビロンという幻によって、預言者ヨハネに示された(黙示録 17:18)。滅亡 に先だって、「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、 その災害に巻き込まれないようにせよ」という招声が天から発せられる(同・ 18:4)。ノアやロトの時代と同様に、罪と罪人とから、はっきり分離しなけれ ばならない。神と世との妥協はあり得ない。地上の宝を得るために引き返すことは できない。「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ 6:24)。
シデムの谷の住民のように、人々は、繁栄と平和を夢みている。神のみ使いは、 「のがれて、自分の命を救いなさい」と警告する。しかし、別の声は「あわてる ことはない。心配することはない」という。天は、すみやかな滅亡が犯罪者に臨 むと宣言しているのに、人々は「平和だ、無事だ」と叫ぶ。平原の町々は、 滅亡の前夜、快楽にふけり、神の使者の恐怖と警告をちょう笑した。しかし、 こうしてあざけった者らは炎の中で死んだ。恵みの戸は、あの晩、ソドムの 邪悪で軽率な住民に対して永遠に閉ざされた。神を常に侮ることはできない。
人類のあけぼの電子版 p122   ソドムの滅亡

「良くなりたいか」  李 根完 牧師

 

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究極の試練

イシマエルとの別れ

アブラハムの生涯は悩みと苦悩の中にあって祈り抜き神様と共に生きた生涯だったといえる。神様から「我が友」との言葉を頂くほどの信仰者である。老齢のアブラハム夫妻に子どもが与えられ、アブラハムから生まれた子どもたちがこの地に満ちることが神様の約束であった。今のように聖書があり同じ信仰を持つ仲間の証を自由に聴くことのできる時代ではない。時々、神様ご自身が語られたり啓示を与えることでそれを信じた。しかもその語りかけや啓示は数年或いは数十年に一度の割合。神様からの言葉を心に刻みつけて数十年信じ続けることは現代よりもはるかに難しいことだと思う。約束の成就が遅れているように感じたアブラハム夫妻は妻の侍女との間に子どもをもうけることが神様の約束だったのではないかと思いハガルとの間にイシマエルをもうける。しかしこれは神様の方法ではなかった。それから更に時を経て約束の子イサクが誕生する。しかし、約束の子どもの誕生でサラとハガルの関係は更に悪化し子どもの成長する環境として相応しくないという理由で、サラはハガルトイシマエルを追い出すようにアブラハムに提案。不承不承アブラハムはこれを受け入れ彼らを家から追い出すことに。子どもを失うことの辛さ、悲しさ、寂しさ、そして自分の判断が間違っていたことに対する後悔の念がアブラハムを苦しめた。神様は約束の子がサラとアブラハムとの間に生まれるように計画したのにそれを待てず自分たちの方法で子どもをもうけたこと、そしてサラを妹だと半分偽ったことをについてアブラハムの信仰を更に完成させる必要を感じられたようだ。

神は、アブラハムを信仰の父として召されたのであるから、彼の生涯は後世の人々の信仰の模範となるべきであった。しかし、彼の信仰は完全ではなかった。 彼はさきに、サラが妻であることを隠し、こんどはハガルと結婚して神への不信を示した。神は、彼が最高の標準に達するために、これまでまだだれも召されたことのないきびしい試練に彼を会わせられた。彼は、夜の幻の中でモリヤの地に行き、そこで示される山の上で、むすこを燔祭としてささげるように命じられた。
人類のあけぼの電子版 p107  信仰を試されたアブラハム

苦悩

イシマエルを失い、今度はイサクをささげるようにとの命令を神様から受ける。自分の知り合いの中にはお子様をなくされた方がいらっしゃる。癒えることのない心の傷を考えると胸が張り裂けそうになる。癒えない心の傷が少しでも和らぐことを祈ることしかできない。聖書の文面だけを読めば人ごとのように思えてしまうが自分が遭遇している場面だと思って読めば苦しくて読めなくなる。

彼は、天幕にもどって、イサクが若者らしく無心に熟睡しているところへ行った。父親は、むすこのいとしい顔をしばらくながめていたが、身震いして離れ去った。彼は、サラのところへ行ったが、サラもよく眠っていた。もう1度むすこを抱かせるために、彼女を起こすべきであろうか。神の要求を彼女に知らせるべ きであろうか。彼は、自分の心中を彼女に打ち明けて、この恐ろしい責任を彼女 にも共に負ってもらいたいと思った。しかし、彼女は、自分を妨害するかも知れ ないと恐れて思いとどまった。イサクは、彼女の喜びであり誇りであった。彼女の生命は彼にしっかり結ばれていて、母の愛情から、彼を犠牲にすることを拒む かも知れなかった。
人類のあけぼの電子版 p109   信仰を試されたアブラハム

アブラハムの生涯中の最長の日が、やっと暮れかけていた。むすこも若者たちも眠っている間、彼は祈り通した。そして、彼は、天使があらわれ、試練はもうすんだ、イサクを傷つけずに母親のもとに帰してもよいというのを期待していた。 しかし、彼の心の苦悩は取り去られなかった。長い日がもう1日続き、その夜も 彼は心を低くして祈った。しかし、耳に聞こえるのは、彼のむすこを奪い去る命令であった。サタンは、疑いと不信を耳もとでささやいたが、アブラハムはその 声にさからった。彼らが、3日目の旅を始めようとしたとき、アブラハムは、北のほうを見ると、モリヤの山には約束のしるしである栄光の雲がかかっていた。 そして、彼は、語りかけた声が天からのものであることを悟った。
それでも、アブラハムは神につぶやかず、主の恵みとまことの証拠を考えて心を強くした。このむすこは、予期しないのに与えられた。尊い賜物を与えたかた は、ご自分の与えたものを取りもどす権を持たれないであろうか。すると信仰は、 約束をくりかえす。「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。
人類のあけぼの電子版 p109  信仰を試されたアブラハム

真の理解者

イサクをささげる苦悩を誰よりも理解できる方が父なる神様である。大切なひとり子イエスキリスト様を死に渡さなければならなかった。

しかし、むすこを死にわたすという父の犠牲の大きさを理解できるのはただ神だけである。アブラハムは、別れの光景を神以外のだれにも見られたくなかった。 彼は、若者たちに残っているように命じ、「わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」と言った(創世記 22:5)。た きぎは、犠牲となるイサクが背負い、父は、刃物と火を持って一緒に山頂さして登った。このように、おりと群れから遠く離れたところで犠牲の羊はどこから来 るのかと、イサクは心の中で不思議に思った。彼は、ついに、「父よ、・・・・火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」とたずねた。ああ、これはなんという試練であったことだろう。「父よ」という愛のこもった言葉が、どんなにアブラハムの心を刺したことであろう。まだ知らせることはできなかった。 「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」(同・22:7,8)。
彼らは、定められた場所で祭壇を築き、その上にたきぎを置いた。そして、アブラハムは震える声で天からの言葉をむすこに知らせた。イサクは、自分の運命 を知って恐れ驚いたけれども、さからわなかった。彼は逃げようと思えば、彼の運命から逃げることができた。悲しみに打ちひしがれた老人は、恐ろしい3日間の苦悩に力がつきていて、元気な若者の意志に逆らうことはできなかったことで あろう。しかし、イサクは幼いときから、すぐに信頼して服従することを学んで いたから、神のみこころが知らされたとき、彼は喜んで従った。彼はアブラハム と同じ信仰を持っていたから、自分の生命を神の供え物としてささげる召しを受 けたことを名誉に感じた。イサクは、父をいたわり、悲しみを軽くしようと努めた。そして、父の弱々しい手を助けて、綱で自分を祭壇に結びつけるのであった。
人類のあけぼの電子版 p110   信仰を試されたアブラハム

試練の意味

苦しい状況。試練。それが仮に本人の蒔いた種であったとしても聖書の世界では因果応報とは言わず摂理と考える。原因がどこにあろうとも試練は神様の許しの中で起きている。その意味が分からず苦しむ。人生を諦めたくなる。刹那的な生き方になってしまう。しかし、アブラハムの生涯を追体験するときに試練が鍛錬であり人の品性を更に清め高貴なものにするためのものであることが分かる。歓迎できることではないが、それが最善の道だと信じることはできる。

神が、アブラハムにその子を殺すように命じられたのは、アブラハムの信仰をためすとともに、彼の心に福音を現実的に強く印象づけるためでもあった。あの恐ろしい試練の暗黒の数日間の苦悩は、人類の贖罪のために払われた無限の神の大犠牲を、アブラハムが自分の体験によって学ぶために神が許されたのである。 自分のむすこを捧げることほど、アブラハムの心を苦しめた試練はなかった。神は、苦悩と屈辱の死に、み子を渡された。神のみ子の屈辱と魂の苦悩を見た天使たちは、イサクの場合のように、介入することが許されなかった。「もうそれでよい」という声は聞かれなかった。堕落した人類を救うために、栄光の王はご自分 の生命をお捧げになった。神の無限のあわれみと愛の証拠として、これ以上の強力なものがあるだろうか。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらな いことがあろうか」(ローマ 8:32)。
人類のあけぼの電子版 p112  信仰を試されたアブラハム

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親、指導者が伝えるべきこと

富んでも謙虚に

ここに、アブラハムの高潔、無我の精神があらわされた。これと同様の立場に おかれたとき、なんと多くの人々が、自分の権利や優先権を主張してやまないこ とであろう。こうして、どれほど多くの家庭が破壊されたことであろう。どれほ ど多くの教会が分裂して、真理の働きが悪人たちのぶべつと物笑いの種になった ことであろう。「わたしとあなたの間にも・・・・争いがないようにしましょう」。親 族関係だけでなくて、真の神の礼拝者でもあるから、「わたしたちは身内の者です」 とアブラハムは言った。全世界の神の子らは、1つの家族である。そして同じ愛 と融和の精神が彼らを支配しなければならない。「兄弟の愛をもって互にいつくしみ、 進んで互に尊敬し合いなさい」とわれわれの救い主はお教えになった(ローマ 12:10)。誰にでも礼儀正しくすることを身につけ、人々からしてほしいと思うことを、喜んで人々にするならば、人生の不幸の半分はなくなってしまうことであろう。
人類のあけぼの電子版 p92  カナンにおけるアブラハム

とりなし

アブラハムは、愛する父親に訴える子供のような確信をあらわした。彼は、天 の使者のそばに近づいて熱心に訴えた。ロトは、ソドムの住民にはなったけれど も、彼は、住民の罪に参加していなかった。アブラハムは、人口の多いこの町に、 真の神の礼拝者がほかにもあるにちがいないと思った。そう考えて、「正しい者と 悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。・・・・ 全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」と彼は訴えた(同・18:25) アブラハムは1度だけでなく何度も願った。願いが聞かれるにつれて大胆になり、 もし、10人の義人がソドムにいたならば、町は救われるという確証をついに得た。
アブラハムは、滅亡にひんした魂への愛に動かされて祈った。彼は、腐敗した ソドムの町の罪はきらったが、罪人が救われることを願った。アブラハムがソド ムのために抱いた深い関心は、われわれが悔い改めていない人々に対して感じな ければならない切実な思いを示している。われわれは、罪を憎まなければならな いが、罪人には、憐れみと愛を持たなければならない。われわれの回りには、ソ ドムにのぞんだのと同じように、希望なく恐ろしい破滅に陥っている魂がある。
人類のあけぼの電子版 p99  カナンにおけるアブラハム

伝えるべきこと

アブラハムは、彼の子供たちと家族を愛していたので、彼らの信仰を保護し、 彼が彼らに与えることのできる最も尊い遺産として、神の律法の知識を彼らに教 えた。これは、彼らが世界に伝えるべきものであった。すべての者が、天の神の 統治下にあることを教えられた。親が子供を圧迫したり、子供が不従順であった りしてはならなかった。神の律法が各自の義務を示していたから、それに服従す るものだけが、幸福と繁栄を得ることができた。
彼自身の模範、彼の日常生活の無言の感化は、不断の教訓であった。王たちの賞賛 をかちえたゆるがない高潔な精神、慈愛と無我の精神による親切は、家庭でも発揮さ れた。生活に芳香がただよい、品性の気高さと美しさとは、彼が天と結ばれていること をすべての者にあらわした。彼は、どんなに卑しい身分の奴隷の魂も軽視しなかった。
人類のあけぼの電子版 p101  カナンにおけるアブラハム

神の律法が、宗教的指導者にさえ軽視されることは、大きな害悪を生んでいる。 神の律法は、もはや人間を拘束しないという教えが一般に広まっているが、これ は、人々の道徳に偶像礼拝と同じ結果を与えている。神の清い律法の要求を低下 させようとする人々は、家族と国家の組織の根底に直接攻撃を加える。信仰は持 っていても神の律法に従っていない親は、主の道を守るように家族に命じない。 神の律法が、生活の規準にされていない。子供たちが、それぞれの家庭を築くと きに、彼ら自身が教えられなかったことを子供たちに教える義務は感じない。今 日、不信仰な家庭がこんなに多いのはそのためである。堕落がこんなに深く、広 く及んでいるのもこのためである。
親自身が、全心をこめて、主の律法に従って歩かないかぎり、子供たちに服従 を命じることはできない。この点に改革が必要で、深く、広い改革が行われなけ ればならない。親に改革が必要であり、牧師に改革が必要である。彼らの家庭に、 神が必要である。もし彼らが変化を希望するならば、彼らの家庭に神の言葉を入 れ、その勧告に従わなければならない。それは、彼らに語る神の声であり、それ に絶対に服従すべきであることを、彼らは子供たちに教えなければならない。
人類のあけぼの電子版 p102 カナンにおけるアブラハム

あまりにも多くの家庭で、祈りがなおざりにされている。親たちは、朝夕の礼 拝をする時間がないと考えている。彼らは、植物を繁茂させる輝く日光や雨、聖 天使の保護などの豊かな恵みに対して、神に感謝する時間を少しもさくことをし ない。彼らは、神の助けと導きを求め、家庭にイエスがおとどまりになるように、 祈りを捧げる時間を持たない。彼らは、神についても天のことについても考えず、 牛馬のように働く。彼らが何の望みもなく、失われることのないように、その贖 いとして、神のみ子は生命をお与えになった。人間は、それほど尊い魂を持って いる。それだのに、彼らは滅びてしまう獣と同様に、神の大きな恵みに感謝する ことをしない。
人類のあけぼの電子版 p103  カナンにおけるアブラハム

聖書研究ガイド 37課.

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