メッセージ

誕生日

母の米寿の誕生日が近くなったので誕生日カードを書いた。普段ならプレゼントは花束か洋服だが今回は入院中なのでメッセージビデオにした。母にメッセービデオを送るのは初めてのことだと思う。もう、ほとんどのことが分からないので2単語ぐらいを並べた易しい文にしてそれをテロップと共に流すようなビデオにした。途中で何度も涙が出てきてしまい撮り直した。僅か5分のビデオに何時間かかっただろうか。編集してみてあまりにも貧祖だったので長男の助けを借り彼のバイオリン演奏を挿入した。

母へのメッセージ

「お母さん、大好きだよ」などと今まで言った記憶がない。小学生の頃、作文に書いたかもしれないが兎に角記憶がない。しかしいつもその気持ちを持っている。どんな時も出来損ないの自分を大切に思い心配してくれる母。そんな母にカメラ越しではあるが「お母さん、大好きだよ」と言ってみた。言ってみたというより自然にそのような言葉が出てきた。もっと早く言えばよかった、できれば母親に直接言えばよかったと今更ながら思った。

神様からのメッセージ

「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。」
創世記 28:15 口語訳

「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。」
ヨハネの第一の手紙 4:18 口語訳

 

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料理の思い出

最近両親のことをよく考えている。考えながら昔のことを思い出している。

自分が料理に興味を持ったのが小学生高学年の頃。学校の調理実習がきっかけだったと思うが、それから時間があれば台所の手伝いをしていた。餃子の包み方やみじん切りなど母が色々なことを教えてくれた。レストランでアルバイトをしていた時も厨房で色々なことを教えていただいたので更に興味を持つようになった。今でも料理をしたり料理のことを考えている時は落ち着く。

母の料理

母は仕事をしながら家事もしていた。また大家族だったので食事の準備も大変だったと思う。母の料理でどうしても食べられないものがいくつかあったがそれ以外はとても美味しいと思っていた。どうしても食べられなかったのはしいたけ全般とサツマイモの入った味噌汁。これだけはどうしてもダメだった。美味しかった料理はいくつも思い出せるが中でも一番好きだったのが中華風のおこわ。これは絶品だった。家庭科教師の妻も絶賛していた。レシピを習い学校の実習に利用していた。現在の母はもう台所に立つことはできないし実家に戻ることも恐らくないと思う。わたしのことももう分からなくなっているので会話も成立しないと思う。母からもう少し料理を習っておけばよかったと後悔する。そして母の手料理がもう一度食べられたら、と思ってしまう。

残していく

今朝与えられた聖書の言葉も感動的だった。イエス様が間も無く弟子たちの前から姿を消す状況にあって語られた言葉である。

「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」
ヨハネによる福音書 14:27 口語訳

平安を残してくださった。「この世界のどこに平安があるのか?」と思ってしまうような状況も多々ある。極端な自然災害、そして何と言っても戦争。しかし、そこにも平安が与えられているのだろう。自分にはそう感じられなくても聖霊の神様がすぐそばにいてくださり平安を与えてくださっているのだろう。

聖書研究ガイド22年4期1課

 

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ギルガル

盟友

安倍元首相の国葬に際し、菅元首相が「追悼の辞」で山県有朋氏のうたを詠んでいたのが印象的であった。盟友伊東博文氏を失った時のうたであり菅さんは「まさに今の私の心境」と述べていた。

かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ

今まで共に戦い苦楽を共にしてきた盟友を失いことで途方に暮れることは想像に難くない。レベルは全く違うが仕事上の問題で各方面と対座しなくてはならない状況にあったときにずっと一緒に戦ってくれた盟友が自分にもいる。そういう存在がすぐそばにいなくなることがどれだけ不安なことか。アロンを失ったときのモーセ、モーセを失ったときのヨシュアの気持ちはどれほど不安だったことだろう。勿論どのようなときにも共にいてくださる神様の存在を確信していたので心に平安はあったと思うが、目に見える形ですぐに相談できる盟友の存在は大きい。

思い出の土地

サムエルはエフライム族であるのでシロという土地がよく出てくる。エフライム族の嗣業であるシロ。エルサレムが建設される前には宗教的また政治的中心地として栄えたところであった。シロに並ぶ有名な土地にラマがあるがサムエルは預言者の学校をここに建てた。そしてラマ同様サムエルが預言者の学校を建てたのがギルガルであった。

ギルガル

ギルガルという地名は聖書に何度も出てくるが、調べているとその場所については確定的なことは分かっていないとのことだった。ヨシュア率いるイスラエル民族がヨルダン川渡る際、40年前と同じことが起こった。ヨルダン川の水が分かれて民が川の中を歩いて渡ることができた。そして約束の地に入ってすぐにしたのが記念碑を建てること。ヨルダン川を渡ったいよいよ約束の地に入ることができたことを神様に感謝するための記念碑である。ベニヤミンに嗣業として与えられたギルガル。恐らく聖書に登場する人物にとってはそれぞれに思い出の場所と立っているのだと思う。

ギルガルは、イスラエルが約束の地で最初に天幕を張ったところであった。ヨ ルダン川を奇跡的に渡ったことを記念するために、ヨシュアが神の命令によって 12の石を立てたのはここであった。カデシでの罪と、荒野の放浪の後で、彼ら はここで最初の過越の祭りを行った。ここで、マナがやんだ。ここで、主の軍勢 の将が、イスラエルの軍勢の指揮官として、ご自分を現わされた。彼らは、この 場所から、エリコとアイの攻略に出かけた。ここでアカンは、彼の罪の罰を受け た。また、イスラエル人は、ここでギベオン人と同盟を結び、神の勧告を仰がな かった罰を受けた。多くのこうした感動的思い出につながる平原の上に、サムエ ルとサウルは立ったのである。王を迎える歓呼の声が静まった時に、老預言者は 国家の指導者として、告別の言葉を語った。
人類のあけぼの電子版 p538  イスラエル最初の王サウル

思い出の場所はその時の出来事や心境を思い出させてくれる。途方にくれる時、人生を一度立ち止まりたくなる時に思い出の場所は何かを教えてくれる。そしてその場所で出会った神様のことを思い出させてくれる。

「総理、あなたの判断はいつも正しかった」安倍元総理国葬 “友人代表”菅義偉前総理の追悼の辞|TBS NEWS DIG

 

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真の教育

預言者の学校

今日は朝から非常に大切なことを聖書や書物から教えていただいた。自分が理想とする教育の場「預言者の学校」について書かれている部分を読み多くの示唆をいただいた。いつの日にか神様のお許しの中でそのような働きに召していただけることを祈りながら読ませていただいた。

教育の真の目的は、魂のうちに神のみかたちを回復することである。最初に、 神は、ご自分のかたちにかたどって人を創造された。神は、人間にすぐれた性質 をお授けになった。人間の心は、良く均衡がとれていて、そのすべての能力には 調和があった。しかし、堕落とその結果によって、これらの賜物はゆがめられて しまった。罪は、人間の中の神のかたちを、ほとんど消し去った。これを回復す るために、救いの計画がたてられ、人間に猶予の期間が与えられた。最初に創造 された時の完全な状態に、人間を回復することが、人生の大目的であってその他 のすべてのものの根底に流れる目的である。青年の教育に当たって、神の目的に 協力することが、親や教師の務めである。そうすれば、彼らは、「神の同労者であ る」(Iコリント 3:9)。
人類のあけぼの電子版 p522  預言者の学校

さらに、青年教育の施設として、預言者の学校が建てられた。もし、青年が、 神の言葉の真理をもっと深くさぐり、上からの知恵を求めて、イスラエルの教師 になろうと望むならば、彼らは、こうした学校に入ることができた。預言者の学 校は、腐敗が広がるのを防ぐ防壁としてサムエルが創立したもので、青年の道徳 的、霊的幸福に貢献し、指導者や助言者として、神をおそれて行動する資格のあ る人物を養成して、国家の将来の繁栄に資するためであった。サムエルは、この 目的を達成するために、神をおそれ、知的で勤勉な青年を多く集めた。彼らは預 言者の子と呼ばれた。彼らが神と交わり神の言葉と神のみわざを学んだ時に、彼 らの生来の賜物に天の知恵が加えられた。
人類のあけぼの電子版 p520  預言者の学校

現代教育との違い

神の預言者が教えたこれらの学校と現代の教育機関との間には、なんと大きな 相違があることであろう。世の教訓と習慣に支配されない学校は、なんとその数 が少ないことであろう。適宜に制限を加えたり、正当な罰を与えたりすることが、 嘆かわしいほど欠けている。現在、クリスチャンと自称する人々の間での神の言 葉に関する無知は、驚くばかりである。表面的な話や、単なる感傷主義が、道徳 や宗教の教えとして通用している。神の正義と憐れみ、美と聖、正しい行為の確 実な報賞、罪の恐ろしい性質とその恐ろしい結果の確実性などが、若い者の心に 強く教え込まれていない。悪友たちが、犯罪と気晴らしと放縦との道を青年たち に教えている。
人類のあけぼの電子版 p522  よ預言者の学校

若者を指導者に育てる

聖書の教訓は、この生涯のあらゆる関係における人間の繁栄に、重大な関連を 持っている。それは、国家の繁栄の礎石である原則を提示している。それは社会 の幸福と密接に結びつき、家庭を保護する原則である。この原則を度外視しては、 誰一人現世で有用な人物として幸福になり、栄誉を受けることはできない。また、 将来永遠の生命を受けることを望むこともできない。人生のどんな地位、どんな 経験であっても、聖書は、それに対する必要な準備を教えている。神の言葉を研 究して服従するならば、人間哲学のあらゆる分野の周到な研究にまさって、もっ と強力で知性の活発な人物が、世に送り出されることであろう。それは、力と強 固な品性をもった人物、鋭い洞察力と正しい判断の人、神を敬い、世界の祝福と なる人々を起こすであろう。
人類のあけぼの電子版 p524  預言者の学校

まず教師が

この原則の重要性を認めて、それに忠実に従うならば、現代の教育法のどこか に根本的変化が起こることであろう。教師は、誇りと利己的野心に訴えて、競争 心をかき立てようとせずに、善と真理と美を愛する心を起こさせ、美徳を望む心 を起こさせようと努力するであろう。学生は、他を越えるためではなくて、創造 主のみこころを実現し、神のかたちに似るために、自分に与えられた神の賜物を 伸ばそうとするであろう。単に、地上の標準をめざしたり、それ自身萎縮作用を もっている自己高揚の欲望に動かされたりするかわりに、心は創造主に向けられ て、彼を知り、彼のようになろうとするであろう。
人類のあけぼの電子版 p523  預言者の学校

今日の御言葉

「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。」
ローマ人への手紙 8:31 口語訳

「国家と宗教」河原 久(SADA教団名誉牧師)

 

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エベネゼル(エベン・エゼル)Ebenezer

ペリシテ人

イスラエル民族にとって「ペリシテ人」なる存在は目の上のたんこぶのようで常に聖書に出てくる。有名な話ではサムソンが神様から禁止されているにも関わらずペリシテの女を妻に迎え入れたり、ダビデが倒した巨人ゴリアテもペリシテの兵士である。そしてイスラエルと何度となく戦いを交える。サムエル記を読んでいると両者の戦いについて書かれているのが分かる。

現在の地名である「パレスチナ」はペリシテ人の地、という意味だがパレスチナ人はペリシテ人とは関係ない。B.C.13C~12Cに かけて地中海東部に来襲した「海の民」と呼ばれる集団の一部ではないかとされているが詳細は分からない。またアブラハムの時代にはすでにカナン地方に定住しているがハム(ハムはノアの子)の子ミツライムの子であるカフトルの子孫であるとされている。

ペリシテ人との戦い1

サムエル記上には次のように書かれている。

イスラエルびとは出てペリシテびとと戦おうとして、エベネゼルのほとりに陣をしき、ペリシテびとはアペクに陣をしいた。 2ペリシテびとはイスラエルびとにむかって陣備えをしたが、戦うに及んで、イスラエルびとはペリシテびとの前に敗れ、ペリシテびとは戦場において、おおよそ四千人を殺した。 3民が陣営に退いた時、イスラエルの長老たちは言った、「なにゆえ、主はきょう、ペリシテびとの前にわれわれを敗られたのか。シロへ行って主の契約の箱をここへ携えてくることにしよう。そして主をわれわれのうちに迎えて、敵の手から救っていただこう」。 4そこで民は人をシロにつかわし、ケルビムの上に座しておられる万軍の主の契約の箱を、そこから携えてこさせた。その時エリのふたりの子、ホフニとピネハスは神の契約の箱と共に、その所にいた。
5主の契約の箱が陣営についた時、イスラエルびとはみな大声で叫んだので、地は鳴り響いた。 6ペリシテびとは、その叫び声を聞いて言った、「ヘブルびとの陣営の、この大きな叫び声は何事か」。そして主の箱が、陣営に着いたことを知った時、 7ペリシテびとは恐れて言った、「神々が陣営にきたのだ」。彼らはまた言った、「ああ、われわれはわざわいである。このようなことは今までなかった。 8ああ、われわれはわざわいである。だれがわれわれをこれらの強い神々の手から救い出すことができようか。これらの神々は、もろもろの災をもってエジプトびとを荒野で撃ったのだ。 9ペリシテびとよ、勇気を出して男らしくせよ。ヘブルびとがあなたがたに仕えたように、あなたがたが彼らに仕えることのないために、男らしく戦え」。
10こうしてペリシテびとが戦ったので、イスラエルびとは敗れて、おのおのその家に逃げて帰った。戦死者はひじょうに多く、イスラエルの歩兵で倒れたものは三万であった。 11また神の箱は奪われ、エリのふたりの子、ホフニとピネハスは殺された。
サムエル記上4:1-11

イスラエルはペリシテに敗れあろうことか「神の箱、契約の箱」がペリシテに取られてしまった。また祭司エリの息子のうちふたり、即ちホフニとピネハスはこの戦いで殺された。

ペリシテ人との戦い2

聖書では僅かなスペースしか割かれていないが、この敗戦から20年が経過したときのことを記している。

まずは神の箱、契約の箱がイスラエル人の手に戻ったことが記されている。

キリアテ・ヤリムの人々は、きて、主の箱を携え上り、丘の上のアビナダブの家に持ってきて、その子エレアザルを聖別して、主の箱を守らせた。 2その箱は久しくキリアテ・ヤリムにとどまって、二十年を経た。イスラエルの全家は主を慕って嘆いた。
サムエル記上7:1-2

神の箱はイスラエル人の手元にあるときには祝福の源になったが、ペリシテ人の手に渡ったときには災いの元になった。

そして契約の箱が戻ったときにサムエルははイスラエルの民に言った。

その時サムエルはイスラエルの全家に告げていった、「もし、あなたがたが一心に主に立ち返るのであれば、ほかの神々とアシタロテを、あなたがたのうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない。そうすれば、主はあなたがたをペリシテびとの手から救い出されるであろう」。 4そこでイスラエルの人々はバアルとアシタロテを捨て去り、ただ主にのみ仕えた。
サムエル記上7:3-4

そしていよいよペリシテ人と戦う。

5サムエルはまた言った、「イスラエルびとを、ことごとくミヅパに集めなさい。わたしはあなたがたのために主に祈りましょう」。 6人々はミヅパに集まり、水をくんでそれを主の前に注ぎ、その日、断食してその所で言った、「われわれは主に対して罪を犯した」。サムエルはミヅパでイスラエルの人々をさばいた。 7イスラエルの人々のミヅパに集まったことがペリシテびとに聞えたので、ペリシテびとの君たちは、イスラエルに攻め上ってきた。イスラエルの人々はそれを聞いて、ペリシテびとを恐れた。 8そしてイスラエルの人々はサムエルに言った、「われわれのため、われわれの神、主に叫ぶことを、やめないでください。そうすれば主がペリシテびとの手からわれわれを救い出されるでしょう」。 9そこでサムエルは乳を飲む小羊一頭をとり、これを全き燔祭として主にささげた。そしてサムエルはイスラエルのために主に叫んだので、主はこれに答えられた。 10サムエルが燔祭をささげていた時、ペリシテびとはイスラエルと戦おうとして近づいてきた。しかし主はその日、大いなる雷をペリシテびとの上にとどろかせて、彼らを乱されたので、彼らはイスラエルびとの前に敗れて逃げた。 11イスラエルの人々はミヅパを出てペリシテびとを追い、これを撃って、ベテカルの下まで行った。
サムエル記上7:5-11

エベネゼル

前の職場に「エベネゼルの丘」という場所があった。長い間院長をされ引退後も院長として教職員や生徒を導いてくださった曽根田健二先生が命名してくださった場所である。

サムエルはペリシテ人との戦いに勝利したことを偏に神様のおかげでありそれを忘れないためにその場所に記念碑を立てた。

その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、「主は今に至るまでわれわれを助けられた」と言って、その名をエベネゼルと名づけた。 13こうしてペリシテびとは征服され、ふたたびイスラエルの領地に、はいらなかった。サムエルの一生の間、主の手が、ペリシテびとを防いだ。
サムエル記上7:12-13

この場面について今朝読んだ書物に次のように書かれていた。

サムエルが、小羊を犠牲に捧げようとしていたとき、ペリシテ人は、戦いをい どんで近づいてきた。そのとき、火と煙と雷鳴の中で、シナイに降りて来られた 偉大な神、紅海を分け、イスラエルの人々のために、ヨルダン川の中に道を開か れた偉大なお方が、ふたたび、彼の力をあらわされた。攻撃軍の上に恐ろしい暴 風が起こった。そして、強力な戦士たちの死体が地上に乱れ散った。

イスラエルの人々は、希望と恐怖に震えて、黙って恐れながら立っていた。彼 らは敵が殺されたのを見た時に、神が彼らの悔い改めをお受け入れになったこと を知った。彼らは、戦いの用意はなかったけれども、殺されたペリシテ人の武器 を握って敗走軍をベテカルまで追った。この著しい勝利は、イスラエルが20年 前、ペリシテ人に敗れ、祭司たちが殺され、神の箱が奪われたその同じ場所でか ち得たものであった。国家であろうと、個人であろうと、神に服従する道は、安 全と幸福の道であるが、罪の道は、ただ不幸と敗北に至らせるだけである。

サムエルは、このできごとを人々が忘れないために、ミヅパとエシャナの間に 大きな石を記念碑として建てた。彼は、それを「主は今に至るまでわれわれを助 けられた」と人々に言って、「エベネゼル」(助けの石)と名づけた(同・7:12)。

人類のあけぼの電子版 p518  519  契約の箱ペリシテ人に奪われる

かつて敗北した場所で勝利を得ることは霊的な教訓があるように感じる。以前同じようなことで失敗して、またそれと同じ状況に陥ってしまったとき、「今回もまた失敗するだろう。きっと前と同様うまくいかないだろう」と負の記憶が蘇ってくる。しかしそこに神様がいらっしゃるのであれば以前とは違う結果になる。

エベネゼルの出来事をしっかりと心に刻んでおきたい。

When There’s No Hope (There Is Grace)

 

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備え

ひとつの時代が終わる

今朝、ご長男からの連絡でそのお父様のご逝去を知った。自分が高校時代にお世話になった先生である。88歳、米寿である。時々写真を拝見するととてもお元気そうだった。長年ミッションスクールの教育者として献身され沖縄の学校では校長先生でもあった。御引退の後は米国に移られた。照井見國先生と言えば私どもの教会、特に教育機関にとってはビッグネイムである。社会情勢に精通しており、先を見る先見の明があり真理のためには何も恐れず率直にものを仰る先生だった。自分の愛してやまない教育界、特にクリスチャン教育の場において一つの時代が終わったことを痛感している。

これから先のこと

巷では「都市伝説」なるものがメディアにおいてひとつのジャンルを築き上げている。SNSを時々見ると都市伝説系のコンテンツが多くなっていることに気づく。特にこれから起こる将来のことやその陰に潜む陰謀論に関するコンテンツは人気がある。聖書にはもう少し具体的に世の終わりが書いてあるのに・・・と思ってしまう。

巷に転がる都市伝説の中にも社会情勢、世界情勢を見据えてかなり精度の高い見通しがある。例えば世界中の水資源の枯渇とそれを得るために狙われている日本。台湾情勢とそれに伴う日本が戦争に巻き込まれる可能性の高さ。併せて、ロシアのターゲットになっている北海道。ただでさえ日本はこれから更に深刻な自然災害があると言われているのに、人為的な戦争など言語道断である。そして今朝もまた北朝鮮がミサイルを日本に向けて発射したとのニュースが報じられていた。いよいよ終末時代に突入したことを痛感するこの頃である。

子どもに遺す

自分の子どもを見ても本当に気の毒に思ってしまう。長男がある程度普通に生活できたのは小学生まで。それ以降はコロナやその他のことで我慢を強いられ自分らしく生きることが難しくなってしまった。次男もそうである。4歳までの殆どの時間を病院で過ごしやっと自宅で過ごせるようになるも今度は社会に適応するために大きな苦労を強いられた。小学校に入るもなかなか受け入れてもらえずいじめられる毎日。そして遅れる学習。更に家庭環境の変化で何がどうなっているのかわからない状態で生活しているのだと思う。

この子たちに遺せるものが何なのかを考えてしまう。輝かしい未来を遺してあげられないのは本当に申し訳ないことである。今から何かを遺せるよう考えていきたい。遺すことを考えることが終末時代に対する「備え」になる気がしている。

25これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。 26しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。 27わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。 28『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。
ヨハネによる福音書14:25-28

天沼教会2022年9月24日礼拝「山上での変貌」東 清志天沼教会副牧師

 

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安息日の祝福

与えられた言葉

神様が書物や礼拝メッセージを通して語りかけてくださった安息日、多くの祝福をいただくことができた。あまりにもたくさんの考えさせられるメッセージをいただいたのでゆっくりとその意味を考えながら咀嚼してみたいと思っている。

サムエルの書物より

ハンナは、人を責める言葉を出さなかった。地上の友に打ち明けられない重荷 を、彼女は神に委ねた。ハンナは、神が恥を除いて、彼女にむすこという尊い賜 物を賜わり、その子を神のために養育し、訓練することができるようにと熱心に 願い求めた。そして、彼女は、自分の願いがかなえられるならば、その子を生ま れた時から神に捧げることを厳粛に神に誓った。ハンナは、幕屋の入口近くに寄 って、深く悲しみ、「祈って、はげしく泣いた」(同・1:10)。しかし、ハンナ は、何も言わずに静かに神と交わった。当時の邪悪な時代にあってこうした礼拝 の光景はめったに見られなかった。宗教的な祭りの時でさえ、神を敬わない飲食、 酔酒などはいつものことであった。そして、大祭司のエリは、ハンナを見ていて、 彼女が酒に酔ったものと考えた。彼は、譴責のつもりできびしく言った。「いつま で酔っているのか。酔いをさましなさい」と(同・1:14)。
人類のあけぼの電子版 p498  幼児サムエル

彼女は、照っても曇っても輝くみ国へ行く子供たちの足のために、まっすぐな道 を備えるのである。しかし、それは、母親が自分自身の生活において、キリスト の教えに従おうとする時にのみ、子供たちの品性を神のみかたちにかたどって形 成することを望みうるのである。世の中には、腐敗的感化がみなぎっている。流 行や慣習が青年たちに強く働きかけている。もしも母親が、教え、導き、制する 義務を怠るならば、子供たちは、自然と悪に従い、善から離れていく。すべての 母親は、たびたび救い主のみもとに行って、「どのように子供をしつけ、子供に何 をしたらよいかを教えてください」と祈らなければならない。母親は神がみこと ばの中にお与えになった教えに心を向けるとよい。そうすれば、必要に応じて、 知恵が与えられることであろう。
人類のあけぼの電子版 p500  幼児サムエル

サムエルは、エリの指導のもとにおかれた。そして、サムエルの美しい品性に ひかれて、年老いた祭司は、非常に彼をかわいがった。サムエルは、親切、寛大、 従順、ていねいであった。エリは、自分の子供たちのわがままに心を痛めていた が、サムエルが彼に委ねられてから、休息と慰めと祝福とが与えられた。サムエ ルは、よく手助けをし、愛情がこまやかであった。そして、エリはこの地上のど の父親よりも優しくサムエルを愛した。国家の政治をつかさどる者とほんの少年 との間に、このような暖かい愛情が通い合うとは、不思議なことであった。エリ が老齢のためにだんだん衰弱してくると、彼自身のむすこたちの放縦な生活を憂 えて苦しむのであったが、彼は、サムエルに慰めを求めた。
人類のあけぼの電子版 p501  幼児サムエル

サムエルと同様に、現代の青年も神の御目に尊いものとみなされることができる。 彼らは、クリスチャンとしての忠誠を保つことによって、改革の働きのために強 い感化を及ぼすことができる。こうした人が今日必要である。神は、彼らの1人1人 のなすべき働きを持っておられる。今日、神の信頼に忠実である者は、これまで どんな人もなし得なかった大きなことを、神と人類のためになしとげるのである。
人類のあけぼの電子版 p502  幼児サムエル

礼拝メッセージ

イエス様が弟子たちだけに船を出させてご自分は山で祈っている場面が福音書に出てくる。強風のために漕ぎ悩んでいる弟子たちに湖上を歩いて近づいたイエス様。ペテロが真似をしたくイエス様の方に行きたいと願うと「来なさい」との召がありペテロも湖上を歩くことができた。しかし、ふと足元の荒れた海に目をやるとそれが恐ろしくなりその瞬間に溺れ始めた。イエス様がすぐに手を伸ばしてペテロは助けられる。この場面が非常に好きで読むたびに新しい教訓が与えられる。が、今日伺った礼拝メッセージでは自分が今まで考えなかった切り口でこの部分を解説されていた。ペテロの一連の行動とイエス様の助けは自分たちの信仰生活を象徴している、という解釈である。確かにそうだと思わされた。そして深い感動に包まれた。ありがたいメッセージである。

2022年9月24日 「来なさい」 安息日礼拝LIVE配信

 

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繋がる

弱さ

昨晩、ある中学生から連絡があった。高校進学を考えている最中に「君には他の学校に行く学力は無い。系列の学校に進学する以外に道はない」と校長先生に言われたと泣いて連絡してきた。これが事実であれば非常に残念なことである。ミッションスクールでもこういうことはあるのだろうか。本人の勘違いではないだろうかとも思っている。

自分の弱さを示されることは非常に辛い経験である。友人や先生、親、兄弟の誰からであっても弱さを指摘されれば落ち込む。それが事実であれば尚更である。

サムソン

今朝、ある本にサムソンのことが書いてある部分を読んでいた。サムソンは旧約時代の士師である。まだ王政になる前のことである。イスラエルの民が神様に背きその刑罰として他国によって苦しめられる経験をする。民が悔い改めて神様に立ち返る時、士師を通して具体的な生活指導をして神様に立ち返らせた。戦も士師を通して働く神様の力によって勝利する。そのような大切な働きを士師は担っていた。士師の一人にサムソンという人がいる。ナジル人で神様に誓願を立てている人である。しかしサムソンは異邦人と交わり自ら雑婚をして神様の教えに背いた。元々サムソンには大きな力、特に怪力が与えられていたが最終的にその力の秘密を妻であるデリラに喋ってしまう。そして力の源であった髪の毛を剃られることで怪力を失ってしまう。怪力を失い敵国であるペリシテ人の手に落ち目をえぐられてしまう。その後髪の毛が伸びて力が戻ってくると3000人が見物する建物を戻ってきた怪力で2本の柱を倒し見物人を皆殺しにしてしまう。勿論サムソン自身もここで絶命する。

20年間イスラエルを治めたサムソンであったが、神様のよしとしないことを行なった故に本来の祝福を得られずに亡くなってしまう。サムソンの生涯から教訓を得るべく次のような文章があった。

神がご自分の器として、特別の働きのために用いようとなさるその人々を、サタンは全力を尽くして挫折させようとする。サタンは、われわれの弱点を攻撃し、 品性の欠点を通じて、人間全体を支配しようとする。そしてサタンは、こういう 欠点が人の心にいだかれているかぎり、自分の成功はまちがいないことを知って いる。しかし、誰でも打ち負かされる必要はない。人間は、自分の弱い力で悪の 力を征服するように、放任されていない。援助は手近にある。そして、誰でも真 にそれを望む者には与えられる。ヤコブが幻に見たはしごを上り下りする神の使 いたちは、最高の天にまででものぼろうと志すすべての魂に助けを与えるのである。
人類のあけぼの電子版 p496  サムソン

繋がる

今朝与えられた聖書の言葉もサムソンのことに関連する御言葉だった。

「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。」
ヨハネによる福音書 15:4 口語訳

安息日に入る準備の日、イエス様に繋がっていなければ何もできないどころか悪いことばかりしてしまうことをもう一度考えておきたい。自分の弱さが示され、同時にイエス様の必要を感じる朝のひと時を過ごした。

聖書研究ガイド22年3期13課

 

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肯定

集団教育

ある保護者さんとそのお子さんが別々に相談のメールを送ってきた。お互いに相手が私に対して相談していることを知らないようだ。内容は高校進学について。ミッション系の中学校に在学中である生徒さんは、校風や先生たちの冷たさに馴染めないという。親身になって心配してくれる先生も2名ほどいるらしいが学校全体が校長先生に気を遣い生徒の方を全く見ていない、と本人は言っている。系列の高校に進学するのはやはり価値観が合わない気がするので積極的ではないらしい。そして色々な面で「自分は他の子より劣っている」と思っているようで集団で受ける教育に合わないと言っている。

一方母親ははなから「うちの子は学力的にも周りについていけないので個人で学習する方が良いと思っている」と言っている。子どもはどうしたら良いか、という相談をするためにメールを送ってきた。一方母親は通信制の高校を考えているがどこが良いか、との質問であった。

通信教育

通信教育課程を実施する学校はここ数年で更に増えている。青森県だけでもざっと数えて20校ほどある。自分も通信課程の大学を考えたことがあったし現在も考えている。教育に関する別の免許を取得したく大学での勉強を考えている。生活に追われなかなか実現しないが今でも時々調べている。が、今回の相談は高等学校である。コロナ禍で集団教育を心配する方も多くその需要は高い。また個別指導や集団を気にすることなく自分のペースで学べることもメリットと考えられている。通信教育課程があることで更に選択肢が増え可能性が広がったと考えている。自分が高校生の頃は色々な事情から高校に進学しなかった人もいた。積極的な気持ちで高校進学しなかった人は一人しかいなかった。この人は司法試験を受けるために高校進学しなかった。が、それ以外は学力や経済的な理由で高校進学を「諦め」た。当時は定時制もあったが4年間かかることや年齢の違う人と机を並べることの違和感、そして雰囲気の問題があり敬遠されることも多かった。が、今は違う。もっと言えば高等学校に在籍、卒業しなくても「高等学校卒業程度検定試験」に合格すれば大学に進学できる。所謂、昔の「大検」である。学びたい人には色々な可能性がある。

学習意欲

学びたい、しかしその環境が整わないので普通科の高校に通学できない。ならどうするか?という考えの中で通信制課程や検定試験などの道を模索することは非常に積極的で素晴らしいと思う。

一方で「高校ぐらいは行かないとその先がない」「しかし普通科の高校に通学する気持ちはない」そのような中で通信制や検定試験を視野に入れる人も結構多いような気がしている。何か、その人たちが肩を落としてため息をつきながら高校を考えているように思えて胸が締め付けられる。

まず第一に「何のために学ぶのか」「何故学ぶのか」を考えることができたら良いと思う。神様は全ての方に対して計画を持っていらっしゃる。それが何かを模索するところから進路を考えられたら必ず有意義な人生が送れると思う。

もしも彼らが真の謙遜を持ち続けるならば、主は神の民のために、はるかに多くの ことをなさることがおできになる。しかし、大きな責任または成功が与えられても、 なお、自己過信に陥ることなく、自分たちが神に依存していることを忘れない者は、 実に少ない。主が、神の働きをする器を選ぶに当たって、世の人々から、偉大で タラント(才能)があり、そうめいであるとほめそやされている人々を見過ごされるのは、 そのためである。このような人々は、とかく高慢で、自己過信に陥っているもの である。彼らは、神の指示を仰がないで、行動することができると思っている。
人類のあけぼの電子版 p483  初期の士師たち

2022年9月17日 「互いに愛し合いなさい」 安息日礼拝LIVE配信

 

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創始者・開拓者

福井達雨先生

卒業生と連絡をとることが多い。電話やメールを通して近況を教えていただき、その後自分の祈りのリストに名前が加えられる。2週間ほど前に連絡をとったのは福井揚(ふくいよう)さん。中学3年、高校2,3,年で担任した。以前にも彼のことやお父様のされている止揚学園について投稿している    揚さんから連絡をもらい9月初旬にお父様が逝去されたことを教えてくれた。心筋梗塞とのこと。ならば、強い痛みに辛い思いをされたのではないかと思った。90歳とは思えないほどお元気だったのでご家族の間では「きっと100歳までは生きられる」と話していたという。しばらく揚さんと思い出を語り合った。

止揚学園

創設者である福井達雨先生は1962年、滋賀県東近江市佐野町にて「止揚学園」をはじめた。学園は自分よりも1つ年上なので今年60周年ということになる。達雨先生は、知能に重い障がいのある4名の方々に出会った。その中の一人は牛小屋を改造して作られた穴で生活していたとのこと。その様子を知り、あまりにも酷いことを母親に訴えるも「この子は社会に出ればいじめられたり石を投げられたりする。この穴にいる時だけがこの子を守ってあげられる時」と言われ、達雨先生はハッとさせられた。こんな酷いことを・・・と怒り心頭の気持ちだったが、自分自身がこの子を穴に入れていた社会の一員であることを自覚し母親に謝罪したという。知能に重い障がいを持った方は今もたくさんいらっしゃる。しかし、日常生活で彼らを見かけることはあまりない。自分が子どもの頃はもっと見かけていた気がする。恐らく自分たちの見えないところに集められているのだろう。あるいはそこで守られているのだろう。そのような施設のひとつが「止揚学園」である。  

上と下

よく、「古代に実在した高度な文明」というような表現を目にする。この手の表現にいつも疑問を感じる。現在が高度な文明で過去にはそれよりも低レベルの文明しか存在しなかった、という考えが前提になっているからだ。恐らく進化論の発想が根底にあるからだろう。ノアの洪水前の人類が今より大きかったことを知っているのだろうか、と思ってしまう。自戒を込めて言うが自分の所属する教会はよく「まだ、安息日の真理を知らないから教えてあげないと・・・」というような表現をすることがある。同じイエス様を信じているはずなのにどこか「未熟なクリスチャン」と見下げている気がしてならない。そういう表現を見聞きするたびに、自分の教会や教団に対して「安息日、聖所、再臨の真理を知っていてもあなたたちにはイエス様が最も強調された愛がありますか?他教派の教会には心からの愛情をもって新しく教会にくる方を送迎したり接待する方々がいますよ」と心の中で呟いてしまう。

神には、光の中を歩まない安息日を守るアドベンチストの 中の大勢の人よりも、 光に従うことに忠実で、 自分の知識を最大限に生かすことができる子供たちが、 プロテスタント教会の中に大勢いて、 カトリック教会の中にも大勢いる。
E.G.White 1889年、 手記30

両親が認知症や脳梗塞の後遺症で記憶が曖昧になり多くのことが分からなくなっている。そのような状況になった親を受け入れられなくなっている自分に気づかされている。これもどこかで自分が上で親を下に見ているからだと反省している。両親が怒らないで笑顔でいる影にどれほどの不安や苦しみ、悲しみ、理解されない辛さ、伝わらないもどかしさがあるのかを考えた時にやはり両親にはかなわないと率直に思う。知能に重い障がいを持った方をどのように(どの位置に)認識しているだろうかと自問してみた。正直な気持ちを言えば、やはり下に見ていると思う。人間としての価値、尊厳は同等であることは理解している。しかし「お世話をしてあげないといけない」存在と思っていることも事実である。

イエス様の弟子たちが「誰が一番偉いか」を話しているのと同じ様子がずっと心の中で展開していることを自覚し反省させられる。

福井達雨先生が遺されたものは多い。先生のご生涯をかけて伝えたかったことはこれだったのではないだろうか?と思う。「自分は何様のつもりだ?」

そう言えば、今朝与えられた聖書の言葉もそのことを教えてくれていたのかもしれない。

「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、 あなたが設けられた月と星とを見て思います。 人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、 人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」
詩篇 8:3-4 口語訳

止揚学園クリスマス劇

 

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