忍耐
テキストを用いた聖書研究で「忍耐」ということを学んだ。特に試練の渦中での忍耐ということを学んだ。神様からの応答が遅く、ダビデ王も
「主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで、御顔をわたしに隠されるのですか。」(詩篇13:1)
と神様に訴えている。
聖書は
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」
マタイによる福音書 11:28-29 口語訳
と招いている。多くの教会がこの言葉を教会前に掲げている。招いているが一向に救いにあずかる気配がない。それどころか、以前よりも状況が悪くなる事もある。絶対絶命のピンチに神様に助けを求めているのになぜ答えていただけないのか疑問を持ってしまうことがある。そのような時に、どのような姿勢で待つべきかを教えられたのが今回の聖書研究だった。
性急
神様からの答えがあまりにも遅いように感じられ性急な判断をしてしまうことがある。信仰の父と言われたアブラハムもそうだった。子どもが与えられる約束はあったものの一向にそれが成就する気配がない。少し、神様の手助けをしようと妻の女奴隷ハガルとの間にイシュマエルをもうける。が。これは神様のご計画ではなかった。
神様の方法
聖所に仕えるアロンの子どもたちは、神様の方法を無視した。ナダブとアビフである。聖所の香壇には中庭にある「祭壇」の火を用いなくてはならない決まりになっていた。しかしナダブとアビフは異火を使ってしまい命を取られてしまった。試練の中で待つときに、神様の方法以外のことをしたり求めたりしてはならない。これも今回教えられたことである。
全てに時がある
今朝の聖書通読が「伝道の書3章」からだった。ここでは全てに「時」があることを教えている。
「天が下のすべての事には季節があり、 すべてのわざには時がある。 生るるに時があり、死ぬるに時があり、 植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 殺すに時があり、いやすに時があり、 こわすに時があり、建てるに時があり、 泣くに時があり、笑うに時があり、 悲しむに時があり、踊るに時があり、 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、 抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、 裂くに時があり、縫うに時があり、 黙るに時があり、語るに時があり、 愛するに時があり、憎むに時があり、 戦うに時があり、和らぐに時がある。」
伝道の書 3:1-8 口語訳
頭では理解できるが実践となると忍耐がいかに難しいかを痛感する。やはり前出のダビデのように「主よ、いつまでなのですか」と思わず弱音を吐いてしまう。
2022年9月10日聖書研究ガイド藤田佳大牧師「試練の中で待つ」
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