地上の歩み

終わる時

昨日友人と電話で話していた。中学時代から友人であるNくんの奥様が先日亡くなりその告別式が昨日25日に教会で行われたとのことだった。
Nくんは中学時代から実直で誠実、そして愛に溢れる方だ。同級生ではあるが尊敬する人物の一人である。またこのご夫妻の最愛も息子さんもかつての教え子である。とても仲睦まじいご家族で立派なクリスチャンオームを築いてこられた。
教会の奉仕には力を惜しまず、奥様は子どもクラスの先生をはじめ誰とでも親しく接し困っている人に寄り添うことをいとわない方だ。Nくんも休みを利用して教会の子どもたちを集めて野球をしたり数名を引率してカープの応援に行く立派な長老さんである。そんなご両親に育てられたので、お子さんも素直で強い信仰を継承し牧師先生になられた。そんな、誰もが理想とするご家族なのに何故神様はこのようなことを許されたのだろうか。およそ2年半の闘病生活が奥様は勿論、ご家族にとってどれほどの試練の時であったか。

残される

Nくんのことを考えていたら昨晩は眠れなくなってしまった。親子、兄弟の関係は非常に強固である。そうでないこともあるかもしれないが、どれだけ争っても血を分けた家族は強い絆で結ばれている。しかし、夫婦は違う。親兄弟は選べないが伴侶は選べる。自分が選んだ人に生涯の愛を誓うも、それがうまくいかない時に自分の愛がいかに無力なのかを悟る。それだけに夫婦の関係には特別な力があるように思えてならない。Nくんが最愛の奥様を亡くされた現実と直面していることを思うととても辛くなる。そして残されることの意味を考えさせられる。

できること

Nくんのこと、息子さんのことを思い自分にできることが無いかを考えていた。が、無い。全くの無力であることを痛感させられている。この場所にイエス様がいらっしゃったら、と思う。病を癒すことも死者を復活させることも、その言葉をもってなすことができるイエス様。ただただイエス様を待ち望む思いである。
遠く離れた青森の地でひたすら祈ること。これが今自分にできる唯一のこと。
死に打ち勝ったイエス様がすぐに来てくださることを心から願うものである。

13兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。 14わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。 15わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。 16すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、 17それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。 18だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。
テサロニケ第一4:13-18

2022年11月26日 「神の国は近づいた」 安息日礼拝LIVE配信

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アディショナルタイム

FIFA World Cup  2022

昨日も少しだけ言及したが、今大会からアディソナルタイムに関する規定が見直され多くの試合で今までより長いアディショナルタイムが取られるようになった。特に後半のアディショナルタイムは選手の疲労もピークに達していることからこの時間が長くなるほど大きく試合が動いたり怪我を招いたりする。実際オランダやイランなどアディショナルタイムの得点もあり土壇場で試合がひっくり返る。このアディショナルタイムについては賛否両論あり今大会が終わってから考察がなされるのだと思う。

高校サッカーは試合時間が70分(35分ハーフ)、80分(40分ハーフ)、90分(45分ハーフ)など試合の性質や位置付けによってその時間も異なる。アディショナルタイムが今のような考え方に変化して行くのであれば、プロの試合時間も80分(40分ハーフ)に変更することも可能性としてあるかもしれない。

アディショナルタイム

ある書物で、著名なキリスト教の指導者が「既にイエスキリストの再臨があってもおかしくない。もしもあの時に間違った選択をしていなければ・・・」と書物の中で言っている。ある調査によると、世界のおよそ30%の方がこの地球にはとても短い時間しか残されていないと感じているようだ。

自分はよく「終末時代」と言ってしまうが、実はその時期は既に過ぎており今はアディショナルタイムなのかも知れない。あまりにも準備ができていない人類を憐れんでイエス様の愛が約束の時を遅らせてくださっているのかも知れない。本当は100年前にイエス様のご再臨があったのかも知れないと思うと、先にイエス様を知った自分がその責任を果たせていないことに不甲斐なさを感じる。

安息日

間も無く安息日を迎える。

全宇宙とその中のすべてのものを創造された神様がその完成のために休まれた安息日を思い静かに過ごしたい。イエス様が言葉ですべてを創られたこと、その言葉が今も生きていることを信じる心を与えていただけるように祈りながら特別な1日を過ごしたい。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。 わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、 全地にあがめられる」。 万軍の主はわれらと共におられる、 ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ」
詩篇 46:10-11 口語訳

第4回 祈りの力

 

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サッカーW杯

ドーハの奇跡

昨晩の試合で多くの日本人やサッカー日本代表を応援するファンが歓喜したことだと思う。前半はボールを回すことすらままならず完全に遊ばれている印象を持っていた。その割にドイツが得点しないことが解せないところであったがGK権田選手の大活躍があったから、と半ばあまり面白い試合展開にならないことを予想した。諦めてハーフタイムを利用して入浴を済ませた。後半を見るとはなしに観ていたが、交代した選手たちの動きの良さも相まって前半とはボールの支配率が全く違った。そして後半30分、全身が震えるほど感動した堂安選手のゴール。感動して泣きそうだった。このままで良い。ドイツ相手に勝ち点1がもらえればグループ突破のチャンスはある。そう思っていた。そんなことを考えている矢先、フリーキックからのロングを浅野選手が持ち込み絶妙な場所にシュートしこれが得点に。プロだからいとも簡単にやっているが体の向きを前にしたまま後ろからのロングボールを制御することは非常に難しい。ゴールの瞬間、完全に固まってしまった。

感動しすぎて、この状況を誰かと共有したかった。早速広島の友人にLINEを送った。

時計は試合終了の45分を指しているがアディショナルタイム(延長時間)が7分と発表された。長い、長すぎる。今大会からビデオ判定が採用されるようになり、同時に試合が中断した時間も正確に計測されるようになったとのこと。今まではアディショナルタイムはだいたい2,3分。どんなに長くても5分。なのに今回は7分。ふと、W杯アメリカ大会のことを思い出し嫌な予感が脳裏をよぎった。ドーハの悲劇である。

ドーハの悲劇

まだ、日本にとってサッカーW杯本戦が悲願だった頃。1994年のことである。自分もこの試合をテレビで観ていたので鮮明に記憶している。アジア最終予選の最終節での出来事である。4節までの試合結果で日本はグループ1位。5節の対戦相手はイラクだった。前半開始早々、ゴン中山選手のアシストで長谷川健太選手がシュート、これがクロスバーに弾かれたがすぐに三浦カズ選手が反応してヘディングでシュート。これがゴールとなった。その後前後半、一進一退の攻防を続けスコアーは2-1で日本リード。このまま、終了すれば日本は勝ち点3をもらいグループ1位で通過できる。悲願のW杯である。自分もこの頃、サッカー部の顧問をさせていただき選手時代以上にサッカーに夢中になっていた時期である。もう、半泣き状態であった。日本が到底たどり着けないW杯がすぐそこに見えるところまで来たのだ。「ありがとう、釜本」「ありがとう、読売クラブ」「ありがとう、オフト監督」そんなことを心の中で叫んでいた。あの頃、Jリーグが発足して間も無くだったので日本中がサッカー熱で病気のようになっていた。特にヴェルディー川崎(昔の読売クラブ)が大好きだったのでラモス、カズ、北澤、武田などが映るたびに興奮していた。また井原、長谷川健太、柱谷、ゴン、そして話題の森保もピッチにいた。もう、感動の涙を流す準備は完全に整っていた。後半アディショナルタイム(当時はロスタイムと言っていた、と思う)になると早く試合終了の笛を吹いてほしい、と思った。そんな時、ショートコーナーからの展開に日本が一瞬対応しきれずイラクに得点を許し同点に。そしてその後すぐにホイッスルがなり試合終了に。

選手がピッチに倒れ込み長い時間天を仰いでいる姿が印象的だった。先ほど、感動のために準備しておいた涙は失意の涙に変わった。これで得失点差でグループ3位になった日本は本戦出場を逃した。

本音を言えば、イラクはこの試合に勝っても負けても自国が本戦に行けるわけではない。要するにこの時の得点はイラクも得をしない、「どうでもよい得点」だったのだ。しかし、この得点が韓国には福音となった。この時北朝鮮と戦って3-0で勝った韓国は日本の同点により勝ち点で日本を上回りグループ通過することができたのである。

森保監督

ドーハの悲劇をピッチで経験した森保さんが日本代表の監督になった時には少し驚いた。驚いたし若干の不安を感じた。大人しくて、すぎるくらい慎重なので思い切った采配ができるのだろうか、と思ったからだ。森保監督というより自分にとってはサンフレッチェの森保選手、というイメージが大きい。あの頃、サンフレッチェはそこまで強くなかったしグラウンドも西空港隣と交通の便も悪いため、いつでもチケットが買えた。時々観戦しに行った。が、高木選手や森保選手以外にはあまり興味がなくむしろ試合の翌日に広島空港(広島県本郷町)から帰るヴェルディーやアントラーズの選手を見に行くことが楽しみだった。正確な記憶ではないのだが、何かの大きな試合で森保選手(だったと思う)がハーフウェイライン付近からシュートを放ってゴールを決めたことがあった。凄いと思った。その程度の印象しか記憶に残っていないが、国歌斉唱から涙ぐむ気持ちのあつい方であることは聞いていた。そして、今回、元レッズの福田さんが森保監督についてコメントしていた言葉がとても印象に残っている。「確かに、判断が遅いと言われることもあった。しかし彼(森保監督)は選手ひとりひとりとゆっくり対話して、どこまでも選手を信じる男なんです。前半の途中で三苫、浅野、堂安を入れていたらと思われる方も多いと思いますが、森保は信じた人間をどこまでも使い続けたいと思っているんです」

森保監督の人柄は勿論、日本代表の選手が大切にされていることが伝わってきてとても暖かい気持ちになった。

監督

ドーハの悲劇ではハンス・オフト氏が監督だった。どことなく私と似ているらしく当時働いていた学校では生徒から「オフト先生」と呼ばれていた。最初、ラモス選手がオフトとぶつかっていた。読売クラブの長い歴史で培った自由な雰囲気のラモス。弱小日本を何としてもW杯に連れて行きたかく、管理と支配体質だったオフト監督。ぶつかることも多かったようだ。しかし後年ラモス選手はオフト氏に対してリスペクトするようになった。本戦には行けなかったものの、弱小日本をあそこまで導いたのはやはりオフト監督だったからだろう。今では日本人が海外のリーグで活躍するのは当たり前になったが30年前は全く状況が違っていた。

メディア・ペルシャの時代からギリシャが覇権を奪ったのはアレクサンドロスⅢ世こと、アレキサンダー大王だった。破竹の勢いで周囲の国を征服し覇権を得た。早死にしてしまうアレキサンダーだが、彼についてある評価を読んだことがある。出典を記憶していないが次のような文章だった。「ギリシャの軍隊は当時において最強の軍隊であった。しかし、兵士は自分たちが強いとは思っていなかった。彼らは自分たちの王が強いことを信じて疑わなかった。だからギリシャは強かったのだ」というような文章。

人生の監督

自分の司令塔を何にするか。自分の学んだ学問、得た資格や経験。人物。財産や名誉。過去の実績。何を自分の監督にするかについて、聖書の神様は人類に「選択の自由」を与えた。

森保監督が日本をどこまで導けるかは未知数である。しかし聖書の神様を総監督、司令塔、王様にするならば勝利は確実である。

「わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、 すべての恐れからわたしを助け出された。 主を仰ぎ見て、光を得よ、 そうすれば、あなたがたは、 恥じて顔を赤くすることはない。」
詩篇 34:4-5 口語訳

第1回「祈りの力1」

 

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神の国

いち日

職場では、毎朝礼拝が行われる。信徒の証やメッセージ、またキリスト教の書物が読まれる非常に恵まれた時間である。今朝、あるクリスチャン看護師さんがマタイ伝6章を引用してお話ししてくださった。イエス様がガリラヤ湖畔の小高い山で群衆に対して語ったメッセージ、「山上の垂訓(説教)」の一部である。

25それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 26空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 27あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 28また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 29しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 30きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 31だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 32これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 34だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
マタイによる福音書6:25-34(口語訳)

イエス様は先々のことを色々と心配するな、と仰った。確かに心配が「取り越し苦労」に終わることも多い。しかし一方で心配していたことよりも更に悪いことが起こることも間々ある。

それでもイエス様は
「一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
と仰る。

それでも・・・

「イエス様を信じる」、「イエス様の御言葉が今も生きていることを信じる」と言いながら一方で思い煩い、更に自分なりの解決策を導き出そうとする。また、祈った通りの答えが得られなかったとしても「これが神様のご計画だったのだ」と思えるようにあらかじめ準備しておく。これが今までの自分の方法だ。確かにイエス様のご計画に委ねることは大切でありそれこそが信仰の真髄である。しかし自分は信じる前から「いくら神様でもこれは無理だろう」という気持ちから、自分が失望しないように祈りやイエス様に全体重をかけないようにしてきた。「やっぱり神様は自分の祈りにこたえて下さらなかった」という失望の気持ちを「これが神様のご計画だったのだ」と言い訳できるように。要するに自分の信仰は、端からイエス様や、イエス様の言葉が生きていることを信じてこなかった気がする。それでも「主よ、助けてください」と祈れば何となく落ち着く。そう、「何となく」である。このように信仰者とはおよそかけ離れたところにいながらも尚「自分は神様を信じている」「自分はクリスチャンである」と言い続けてきたことに恥ずかしさを超えて絶望的な気持ちになる。

本気で信じる

真のクリスチャンになりたい。本物の信仰者になりたい。

しかし自分にはその力がない。自分だけではなく全ての人間にその力は与えられていない。なのに、少しでも清い生活をしたら神様に喜んでいただけると思って努力する。そしてそれこそがクリスチャンの生き方だと誤解してしまう。信仰に対する誤った考えを持っているので、御言葉を学び少し知識が増えるとそれを人を裁く凶器にしてしまう。これが情けない自分の姿である。何かをしようとするから、神様から離れ、イエス様という名前を連呼してクリスチャンらしく振る舞う「偽クリスチャン」になってしまう。恐ろしいことに、自分はこの「偽クリスチャン」が心地良くも感じてきた。

本物を目指す上で自分ができることが何かあるのだろうか?自分から出てくるものは一切が神様から離れることに思えてならない。

でも、ひとつだけある。そんな気がする。
今朝の礼拝メッセージ開かれた御言葉にその答えがあった。

まず神の国と神の義とを求めなさい。
マタイによる福音書6:33(口語訳)

神の国

神様の王国。即ち、王様が神様である国。
自分に与えられた「選択の自由」「自由意志」で神様の国の国民になることを選択するのが唯一の道だと思う。
元々サタンに心が支配されているので「聖書研究」「祈り」「アウトリーチ」など教会で奨励されることをしてもそれはすぐにサタンに使われてしまう。「自分はこんなには祈りの賜物がある」と誇りたくなる。困っている人を助ければそれをさり気なく周囲に話したくなる。聖書や神様、また聖所に関する知識が増えればそれによって人を見下すようになる。「あの人はまだクリスチャンになって日が浅いから聖所の真理は理解できないだろう。その点自分のような信仰歴が長くマチュアーなクリスチャンは聖所のことも理解しイエスキリストが大祭司として執り成してくださっていることもよく分かっている」。自分の心身を「生きた聖なる供物として捧げなさい」という聖書のことばを実践すれば、飲酒喫煙をする人を蔑む。酒タバコから離れていることで満足しイエス様のことは考えず毎日コーヒーやコーラ、スナック菓子で幸福を感じる。すべて自分自身のこれまでも生き方、考え方である。

心の王様、支配者を神様にしないといけない。自分の考えから生まれるものは全てサタンの影響下にある。神様の支配下、イエス様の影響下にあるときにはじめて「清い思い」が与えられるのだと思う。

神様の国、すなわち完全に神様に自分の心を支配していただくことの大切さを、今朝の礼拝で教えたもらった。

第6回「祈りの力」 パベル・ゴイア牧師

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親愛なる子どもたちへ

目次
  1. 手紙

先日、姉の呼びかけで姉弟とLINEにて話した。両親のことを全て姉に任せてしまっているのでいつも申し訳ない気持ちでいる。母の病状のことだった。脳梗塞とコロナの中にあっても神様が特別に命をつなぎ止めてくださり今も何とか生きている。しかし最近は食が細くなっているという。食が細いというより食べることを拒否しているようだ。もう生きる気力がなくなってしまったのか。今後のことを話し合い、また3人で祈った。

手紙

以前、「手紙~親愛なる子供達へ~」という詩を紹介してもらったことがある。その時は今と状況が違っていたので「良い詩だな」ぐらいの感想しか持っていなかった。しかし、今この詩を読むと一言一言が心に刺さってくる。母が今まで自分にしてくれたことをひとつひとつ思い出してみた。でも自分が覚えていないことや知らなかったことも母の記憶にはあるのだろう。そしてその記憶は認知機能の低下でもう消えてしまったかも知れない。それでも良い。母がいてくれれば。

「手紙 -親愛なる子どもたちへ-」

年老いた私が、ある日 今までの私と違っていたとしても
どうかそのままの私のことを理解して欲しい
私が服の上に食べ物をこぼしても、靴ひもを結び忘れても
あなたに色んなことを教えたように、見守って欲しい
あなたと話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても
その結末をどうかさえぎらずに、うなずいて欲しいあなたにせがまれて、
繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は、
いつも同じでも、私の心を平和にしてくれた
悲しい事ではないんだ・・・
消え去ってゆくように見える私の心へと 励ましのまなざしを向けて欲しい
楽しいひと時に 私が思わず下着を濡(ぬ)らしてしまったり
お風呂に入るのをいやがるときには思い出して欲しい
あなたを追い回し 何度も着替えさせたり 様々な理由をつけて
いやがるあなたとお風呂に入った 懐かしい日のことを

悲しい事ではないんだ・・・
旅立ちの前の準備をしている私に 祝福の祈りを捧(ささ)げて欲しい
いずれ歯も弱り 飲み込む事さえ出来なくなるかも知れない
足も衰えて、立ち上がる事すら出来なくなったなら
あなたが、か弱い足で立ち上がろうと私に助けを求めたように
よろめく私に、どうかあなたの手を握らせて欲しい
私の姿を見て、悲しんだり 自分が無力だと思わないで欲しい
あなたを抱きしめる力がないのを知るのはつらい事だけど
私を理解して 支えてくれる心だけを持っていて欲しい
きっとそれだけで、それだけで私には勇気がわいてくるのです
あなたの人生の始まりに、私がしっかりと付き添ったように
私の人生の終わりに、少しだけ付き添って欲しい
あなたが生まれてくれたことで、私が受けた多くの喜びと
あなたに対する変わらぬ愛を持って、笑顔で答えたい

私の子どもたちへ
愛する子どもたちへ
ありがとう

原作詞:不詳、訳詞:角智織、補足詞・作曲:樋口了一

心に刺さる詩を読みながら、何故か妻のことを考えていた。次男との電話で妻が子どもにしてくれていることを知ることができる。妻が自分のことを顧みず子どものために必死になってくれている。母が私にしてくれたように。妻と母が重なって見えた。

無性に「ありがとう」と大声で言って泣いてみたくなった。

「手紙 -親愛なる子どもたちへ-」

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