神の国

いち日

職場では、毎朝礼拝が行われる。信徒の証やメッセージ、またキリスト教の書物が読まれる非常に恵まれた時間である。今朝、あるクリスチャン看護師さんがマタイ伝6章を引用してお話ししてくださった。イエス様がガリラヤ湖畔の小高い山で群衆に対して語ったメッセージ、「山上の垂訓(説教)」の一部である。

25それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 26空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 27あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 28また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 29しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 30きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 31だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 32これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 34だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
マタイによる福音書6:25-34(口語訳)

イエス様は先々のことを色々と心配するな、と仰った。確かに心配が「取り越し苦労」に終わることも多い。しかし一方で心配していたことよりも更に悪いことが起こることも間々ある。

それでもイエス様は
「一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
と仰る。

それでも・・・

「イエス様を信じる」、「イエス様の御言葉が今も生きていることを信じる」と言いながら一方で思い煩い、更に自分なりの解決策を導き出そうとする。また、祈った通りの答えが得られなかったとしても「これが神様のご計画だったのだ」と思えるようにあらかじめ準備しておく。これが今までの自分の方法だ。確かにイエス様のご計画に委ねることは大切でありそれこそが信仰の真髄である。しかし自分は信じる前から「いくら神様でもこれは無理だろう」という気持ちから、自分が失望しないように祈りやイエス様に全体重をかけないようにしてきた。「やっぱり神様は自分の祈りにこたえて下さらなかった」という失望の気持ちを「これが神様のご計画だったのだ」と言い訳できるように。要するに自分の信仰は、端からイエス様や、イエス様の言葉が生きていることを信じてこなかった気がする。それでも「主よ、助けてください」と祈れば何となく落ち着く。そう、「何となく」である。このように信仰者とはおよそかけ離れたところにいながらも尚「自分は神様を信じている」「自分はクリスチャンである」と言い続けてきたことに恥ずかしさを超えて絶望的な気持ちになる。

本気で信じる

真のクリスチャンになりたい。本物の信仰者になりたい。

しかし自分にはその力がない。自分だけではなく全ての人間にその力は与えられていない。なのに、少しでも清い生活をしたら神様に喜んでいただけると思って努力する。そしてそれこそがクリスチャンの生き方だと誤解してしまう。信仰に対する誤った考えを持っているので、御言葉を学び少し知識が増えるとそれを人を裁く凶器にしてしまう。これが情けない自分の姿である。何かをしようとするから、神様から離れ、イエス様という名前を連呼してクリスチャンらしく振る舞う「偽クリスチャン」になってしまう。恐ろしいことに、自分はこの「偽クリスチャン」が心地良くも感じてきた。

本物を目指す上で自分ができることが何かあるのだろうか?自分から出てくるものは一切が神様から離れることに思えてならない。

でも、ひとつだけある。そんな気がする。
今朝の礼拝メッセージ開かれた御言葉にその答えがあった。

まず神の国と神の義とを求めなさい。
マタイによる福音書6:33(口語訳)

神の国

神様の王国。即ち、王様が神様である国。
自分に与えられた「選択の自由」「自由意志」で神様の国の国民になることを選択するのが唯一の道だと思う。
元々サタンに心が支配されているので「聖書研究」「祈り」「アウトリーチ」など教会で奨励されることをしてもそれはすぐにサタンに使われてしまう。「自分はこんなには祈りの賜物がある」と誇りたくなる。困っている人を助ければそれをさり気なく周囲に話したくなる。聖書や神様、また聖所に関する知識が増えればそれによって人を見下すようになる。「あの人はまだクリスチャンになって日が浅いから聖所の真理は理解できないだろう。その点自分のような信仰歴が長くマチュアーなクリスチャンは聖所のことも理解しイエスキリストが大祭司として執り成してくださっていることもよく分かっている」。自分の心身を「生きた聖なる供物として捧げなさい」という聖書のことばを実践すれば、飲酒喫煙をする人を蔑む。酒タバコから離れていることで満足しイエス様のことは考えず毎日コーヒーやコーラ、スナック菓子で幸福を感じる。すべて自分自身のこれまでも生き方、考え方である。

心の王様、支配者を神様にしないといけない。自分の考えから生まれるものは全てサタンの影響下にある。神様の支配下、イエス様の影響下にあるときにはじめて「清い思い」が与えられるのだと思う。

神様の国、すなわち完全に神様に自分の心を支配していただくことの大切さを、今朝の礼拝で教えたもらった。

第6回「祈りの力」 パベル・ゴイア牧師

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