犠牲

散歩再び

今日はなかなか心の平安がなく何度か祈るために散歩に出かけた。そして午後の散歩は父と2人で。また妙正寺公園まで行ったが、今日は少し妙正寺川の川沿いも歩いた。妙正寺池から流れる水がこの川を流れる。即ち妙正寺池が源流である。歩きながら、また公園のベンチに座って色々な話しをした。

子どものこと

父に子どものこと、特に次男について悩んでいることを話した。本当に素晴らしい子で自分には出来すぎた子であるが、遅れや自己肯定感の低さで悩んでいることを話してみた。生まれた時から命の危険が指摘された子なので今生きていることをまず神様に感謝しなくてはならないのに、親の欲目で色々なことが気になってしまう。しかし父は一貫して「神様が必ず一番良い方法で育ててくれるから、神様だけを信じなさい」と返答する。本当にその通りである。

犠牲

父の若い頃の話をした。これも何度も聴いた話だが改めてきいてみた。

父は祖父や長男に代わり一家9人を支える大黒柱になってしまった。元々教員になりたかった父は仕事をしながら家族を養い、中央大学の夜間部に通った。そして

教員免許を取得し晴れて教員になろうという段階で祖父からの反対を受けた。教員の給料では一家を支えられないからこのまま家でハンドバッグを作って欲しいと言われた。

父は悩んだが家の状況もよく分かっていたのでそれをのんだ。母と結婚する予定だったので、まず母に事情を説明して結婚を取り消しにしようと持ちかけた。母は父が教員になることを前提に結婚を約束していたからだ。断りの連絡を入れるも、母は教員という仕事にこだわっていないとのことで二人は晴れて結婚することになった。

その後も父は自分の弟、妹のために働き続けた。大学に行かせたい一心で働いたという。母も義理の弟妹を可愛がり面倒みた。

ある意味、一家の犠牲となり自分の夢を捨てて家族にその人生をささげた。本当に素晴らしい考えであり、クリスチャンの犠牲的愛を実践しようとした父の英断に頭が下がる。

もし、この時母が教員でない父と結婚しなかったら今の自分は存在しない。

もし

父がハンドバッグの仕事をしなかったら、恐らく自分たち兄弟が全寮制のミッションスクールに通うことはできなかったと思う。収入と定年が恐らくネックになったと思う。

人の人生を軽々しく語ることはできないが、犠牲と思える状況にあっても尚神様の祝福は尽きない。犠牲と思った道が実は祝福の道だとも言える。

神様だけを信じ、神様だけに頼る

今日の御言葉

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」

‭‭エレミヤ書‬ ‭29‬:‭11‬ 口語訳

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