終戦記念日

戦争の記憶

自分は戦争を経験したことがない。この国をリードする方々がいろいろな批判をされながらも戦争を回避しながら政治をして来られた賜物だと思っている。また戦争を経験した方々の反戦意識が国を動かし続けて来たのだと感謝している。日本はあれから76年間戦争をしていない国であるしこれは誇れる歴史ではないかと思っている。祖父母や両親から戦争の話を聞いて育った。うちからは長男、父の兄が出兵したがそれ以外は東京で過ごしその後疎開した。出兵した長男も戦死せずに戻って来た。が、我が家にとって大変だったのは特攻警察による「キリスト教信徒」故の弾圧であった。心臓が悪く寝たきりの祖父を特攻警察は容赦無く連れて行った。また父たちにも影響があった。拷問のような取り調べを連日受け命を落としそうになったこともあったという。教会の牧師さんたちの中には転んでしまう人たちもいたようだったが祖父は「殺すなら殺せ」という勢いで信仰を絶対に捨てなかった。その時の様子が戦後に出版された「戦時下のキリスト教運動 昭和19年」に掲載されている。祖父は決して信仰を捨てるわけにはいかなかった。この信仰のために奥さんを失ったのである。その奥さんの後添えが妹であった祖母である。元の奥さんが亡くなる時に祖父に言ったことがあった。「この子たちを必ず天国に連れて行って」という遺言であった。それがあったから祖父は必死に子どもたちに信仰教育をした。しかしその中で幼くして命を落としてしまう子どもがいた。自分の父の姉に当たる人だ。子どもが弱って行くのを間近で見ていた祖父は泣き止まないこの子をおぶって歌を歌い続けたという。徐々におとなしくなって行く我が子。祖父は自分の背中で我が子の命が果てて行くことを感じていたという。ずっと讃美歌を歌いながらあやしていた幼くて可愛い我が子が逝ってしまった。祖父はこの時の話をしてくれたことがあったが「あの時は参ったよ…」と言って遠くを見つめていた。妻や我が子と再会するためにも絶対に信仰を捨てるわけにはいかなかったのだ。時代が流れて知らない人も多いと思うが、戦時下にあってキリスト教全体が弾圧されていたわけではない。「日本キリスト教団」だけは公認されていたのだ。現在プロテスタントで最大信徒数を有する教団である。しかし安息日の真理を受け入れていないという理由から祖父は絶対に日基に改宗しなかった。戦争で亡くなったかたが300万人以上というとんでもない戦争だったが庶民の生活が脅かされ、信仰すらままならない状況になってしまうのだ。戦争が単なる戦いだけだと思ったら大間違い。いまの生活の全てが失われてしまうことを忘れてはいけない。

終戦

前述の通り日本は76 年間戦争をしない道を選び続けて来た。しかし、戦争が世界から消滅したわけではない。色々なところで戦争や内戦が起きておりそれによる犠牲者が毎日出ている。また新型コロナウイルスもある意味で戦争と言えるかもしれない。これを兵器として開発したかどうかは分からないが世界中が目に見えないウイルスと戦い続けている。戦局は極めて厳しい状況に追い込まれている気がしてならない。ある一面しか見ていないので間違った意見だと思っているが、コロナの対策として政府の方針に噛み付く人たちが大勢いる。反発する意見の中に「もう我慢の限界。自由にやらせてもらう」的な意見があるが少し間違っているのではないかと思う。戦う矛先は政府ではなくウイルスである。沖縄では毎晩10時を回っても飲屋街で騒ぐ人たちが後を絶たないという。そのくせ自宅療養に方向転換すると「見殺しにするつもりか」との意見が飛び交う。やりたいだけやっておいてフォローアップをしてくれないと悪態をつくのは幼稚過ぎないだろうか。多くの場面で自分のことばかり、自分さえよければ、という考えが横行している気がしてならない。この考えが束ねられた時に戦争のきっかけになってしまうのではないかと思っている。自分がかつて働いていた職場もそうだった。自分だけは正しい意見を持っていると思い譲らない。生徒のために、という大義名分を後ろ盾にして自分の意見を主張するが実は「自分のとって都合の良い教育」「生徒不在の教育」を行っているだけの教員が結構な人数いた。自分は「一番弱い立場にいる人が誰なのか」を考えるようにして来た。長年、息子の入院生活に付き添っている時にどれほど多くの「弱者」を見て来たか分からない。ベッドの寝たきりで口を開けたまま天井を見続ける子どもたち。2時間に一度の吸引をしなければ生きていけない。誰かのお世話がなければ生きることができない。この子たちの半数は親御さんからも見捨てられてしまう。そういう現実を長年見て来たから、社会から隔絶されている現実を知らないで自分本位の意見を言っている人に接すると憤りを覚えてしまう。もっと人のことを考えようよ、と言いたくなる。自分のこと、自分の利益を追求して行くことは本当に大丈夫な生き方なのだろうか。もう少し人のことを考え、もっと社会的に葬られている存在がいることに気づき、自分の犠牲をものともしなかったイエスキリストを見習えば戦争が起きにくい世界になると思うのだけれど。そして、サタンが人間に戦争をさせようと躍起になっていることに気づき騙されていることを自覚できたら良いのに。戦うべきはサタンであることを理解できたらいいのだけれど。終戦記念日に際し、まだまだ続くサタンとの戦いについて考えてみた。

2021年8月14日 安息日礼拝(メッセージは1:11:02から)

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