仕事のこと

朝がきつい

いきなり舐めた話であるが今日の出勤は午前6時半。遠方の透析患者さんを迎えに行くためにいつもより早い出勤となった。何と言っても1年半、社会から隔絶されて生活していたから早朝から起きることに慣れていない。普段は朝8時頃に起きるので毎朝5時過ぎに起きる生活がきつくてならない。他の社会人なら当たり前にできることが自分には負担になっている。この辺から自分の気持ちや根性を直さないといけない。道もなかなか覚えられないので小さなノートを作ってカンニングしながら覚えるようにしている。こんなことで本当にやっていけるのだろうか。これから先が不安でならない。今日自分が担当した患者さんは日曜日ということもあり一人だけだった。迎えに行き4時間の透析治療の間別の作業をしてまた送る。13時20分終了予定だったので13時10分に車を回そうとしたら既に終わっていて患者さんは待っていた。が、またタバコを吸っていた。折角血液を綺麗にしたばかりなのにすぐにタバコを吸って。話しを聞くとお酒もかなり飲むとのことで、そのせいなのか視力が落ちているとのこと。今度の免許の更新までは何とか視力を失わないようにしないといけないと言っていた。透析を受けている人にしか分からない荒んだ気持ちや刹那的な生き方が見ていて痛々しくてならない。この人たちが何とかイエス様と出会ってくれないかとつくづく思う。中には非常に短気で文句ばかり言う患者さんもいる。暴言とも取れる言葉を吐き捨てられるが、自分に当たることで少し落ち着くのであれば耐えられる。

毎晩のこと

毎晩実家から電話がある。両親が自分を心配してくれて電話をしてくれるのである。中学生が一人暮らしをしているわけじゃないから心配することないのにやはり気になるらしい。57歳がまだ親に心配をかけて生きているのが申し訳ない。こちらのことよりも自分のことを心配して欲しいのに。ガンの腫瘍マーカーもまた上がってきているのにそんなことは気にせず、しかし子どもの事になると必死になる両親がありがたくて申し訳なくて仕方ない。母は妻の住所を教えろと何度も言ってくる。いま手元にない、などと適当なことを言って教えていないが、母は妻に手紙を書いて何とか元どおりになるようお願いするつもりだと思う。そのような状況でも段階でも無いのだが母としては何とかしたいと思っているのだろう。以前から私たち夫婦の近況を聞いてずっと大泣きしていいる。子どもの幸せだけを願う親の気持ちが痛いほど胸に刺さってくる。本当に申し訳ない。また親の愛情を思って涙が流れるたびに、イエス様の愛を考える。ある書物に「もしこの世界にあなた一人しか存在していなかったとしてもイエスキリストはあなたのために十字架にかかったであろう」と書いてあった。イエスキリストは多くの人を救いたいと思っているが、救いの対象は個人である。たった一人を救いたくて必死に心の扉をノックしてくださっている。本当に申し訳なくもありがたいことである。両親の愛情に感動するたびにイエス様の愛に応えたいと願うものである。

主に帰ろう

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