人工透析

ある患者さん

今朝、ある透析患者さんが亡くなられたことを知った。自分が送迎をしている時に担当した患者さんである。元々は平川市に自宅がありそこに迎えに行っていた。月、水、金が透析の日で平川までの送り迎えをしていた。夏前に体調を崩し当院に入院し2ヶ月ほどで退院したが、ひとり暮らしが大変なので系列の介護施設に入居した。黒石にある施設だが、その後施設への送迎となった。ずいぶん前だが、事故渋滞に巻き込まれ迎えの時間が少し遅れたことがあった。烈火の如く叱られ顔を見ただけで文句を言われるようになった。80代の方とはいえ結構迫力がある怒り方をする。何度も謝罪したがその後機嫌がなおることもなく叱られ続けた。苦手意識を持ちながらも送迎の担当は変えられないのでそのまま担当していた。足元もおぼつかないので体を支えたら殴りかかってきたこともあった。悲しかったし辛かったが、人工透析の治療を受ける方の気持ちを理解していない自分が悪いのだと思い忍耐した。1週間ほど前に、透析室のドアが少しだけ開いていたので、この患者さんの姿を見かけた。今は送迎の仕事をしていないので全く顔をあわせることはないが、ずっと気になっている方だった。この方は送迎車に乗るまでのわずかな距離を歩くことができないので当院の車椅子を使う。この車椅子がしばらく前にパンクしていたようで、自分が気づいた時にはパンクした状態で患者さんが乗っていた。すぐに材料を調達してパンクの修理をした。自転車やバイクのパンク程度はいつも自分で直していたので、ましてや車椅子はチェーンが無いからすごく簡単に直せる。この患者さんに少しでも喜んでもらえるように、と思ってしたことだったが結局この患者さんは修理した車椅子に乗ることもなく今朝亡くなられた。

この医院で働くようになってまだ1年が経たないが何人もの方が亡くなっている。その中でも自分が送迎で担当した方が3名亡くなっている。今まで人が亡くなる場所で仕事をしていなかったので、改めて病院勤務の現実を突きつけられた気がする。そして、自分に攻撃的だった患者さんに寄り添えなかったことを申し訳なく思った。

人工透析

透析治療について何となく知っていたつもりだったが、この医院で働くようになってその実態を少しだけ理解するようになった。透析治療は大きく分けて2種類ある。まず「血液透析」。透析患者さんのほとんどがこの方式で治療を受けている。透析に要する時間は人によって3時間、あるいは4時間である。その間ずっとベッドで過ごすためオムツを使用することが殆どである。大量の血液を体外に出して濾過するため「シャント」なるものをつくる手術をする。要するに動脈と静脈をくっつけてしまう手術である。治療前には必ず体重測定を測定しそれに応じてその日のペースが決まる。体重が増えることはよく無いらしい。なので「月、水、金」に治療を受ける患者さんは金曜日の治療後に土日が入るため体重変化が起こりやすく気を使うとのことだった。一方、腹膜透析という治療法もある。当院では僅かな患者さんしかこの治療をしていない。毎日長時間かけて行うので体への負担も比較的軽い。それでも毎日行うので大変だと思う。実は自分も肝臓と腎臓の調子が悪く投薬治療を20年ほど前から行っている。もしかしたら「多発性のう胞腎」では無いかと疑っている。ただこれが遺伝的なものということなので違う気もするが・・・。

それぞれの重荷

人が抱える重荷というのはそれぞれ違う。家庭的、或いはその他の外的原因で背負わされた重荷もあれば自分自身の性格や行動パターン、思考回路などによって負っているものもあるだろう。それぞれに違うが、キリスト教の世界ではその状況が起こることを神様は許されていると考える。神様がそうしたくてしているわけでは無いが、その状況をサタン(悪魔)が引き起こそうとする時にそれを許されるのだ。だから神様の許可なく勝手に試練に追いやられることはない。全ては神様がご存知の中で行われていることである。そう考えると少し安心する。「そうか、神様は分かってくれているんだ」という気持ちになるからだ。

昨晩、夜中に起きてしまい少し本を読んでいた。自分にとってはとても感動する内容が書かれており励まされた。

例によって女性クリスチャンのE.G.Whiteという方の著書「国と指導者」という本からの抜粋である。

「主はつむじ風の中からヨブに答えられた」(同 38:1)。そしてそのしもべに、神の力の勢いをあらわされた。ヨブは創造主のお姿を拝見したときに、自分自身を忌み嫌って、ちり灰の中で悔い改めた。その時に主は、彼に豊かな祝福を与え、彼の最後の年月を、彼の生涯の最良のものとすることがおできになったのである。

希望と勇気は、神に完全な奉仕をするために、ぜひ必要なものである。 これらは信仰の実である。神はご自分のしもべたちが試練に遭った時に必要な力を、豊かに彼らに与えることがおできになる。そしてそうしようと望んでおられるのである。神の働きに対する敵の策略は、よく計画され確立しているように見えるであろう。しかし神は、これらの計画の最も強力なものでも、覆すことがおできである。そして神はしもべたちの信仰が十分に試めされたことをごらんになる時に、神ご自身の時と方法においてこれをなさるのである。

気落ちしている者に対して、信頼できる救済策がある。それは信仰と祈りと行いである。信仰と活動は、日毎に増大する確信と満足とを与える。あなたは不吉な予感に恐れを感じ、失望落胆に陥ろうとしているであろうか。一見絶望的で、最悪の事態にあっても恐れてはならない。神を信じよう。神はあなたの必要を知っておられる。神はすべての力を持っておられる。神の無限の愛と憐れみは、消耗することがない。神はその約束をなし遂げられないのではないかと恐れてはならない。神は永遠の真理である。神は、神を愛する人々と結ばれた契約を変更なさらない。 そして神は、忠実なしもべたちが必要とするだけの能力をお与えになる。
国と指導者 電子版 p104

12 Jayson Tsuchiya 【俺と神様シリーズ】

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