詩篇51篇
今朝は普段より少し早めに目が覚めた。しばらくボーッとしてから少し頭が冴えてきたところで聖書通読に入った。今日の通読箇所は詩篇43~52篇。ここも自分の好きな聖句がたくさんあるのでワクワクしながら読み進めていた。
今日読んだ殆どのところが今までとは違いコラの子孫たちによってうたわれた詩である。モーセやアロンに反逆したコラの子孫たちの中で滅ぼされなかった者たち、神様に忠誠を誓った人たちがこのような形で用いられることは大きな励ましである。
勿論ダビデも頑張っている。51篇は特に好きなところであり読んでいるだけで励まされる。
1神よ、あなたのいつくしみによって、
わたしをあわれみ、
あなたの豊かなあわれみによって、
わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
2わたしの不義をことごとく洗い去り、
わたしの罪からわたしを清めてください。
3わたしは自分のとがを知っています。
わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
4わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、
あなたの前に悪い事を行いました。
それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、
あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
5見よ、わたしは不義のなかに生れました。
わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
6見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。
それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
7ヒソプをもって、わたしを清めてください、
わたしは清くなるでしょう。
わたしを洗ってください、
わたしは雪よりも白くなるでしょう。
詩篇51:1-7
詩篇46篇
今朝、聖書通読をしている時に非常に不思議な体験をした。恐らく殆どの人が「偶然」だと一蹴してしまうことだと思うが、今の自分には非常に印象的な出来事であった。詩篇46篇を読んでいる時、正確には46篇10節を読んでいる時にYouVersionから「今日の御言葉」が届いた。一瞬スマホに目をやり聖句を確認したところ
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。
詩篇46:10(口語訳)
一瞬「え、?』と思った。まさに今読んでいる場所が今日の御言葉として与えられたのだ。単なる偶然かもしれないが、自分はこれを神様からの特別なメッセージとして受け止めた。
やめよ
聖書通読が終わりノートも執り終えたところで、少し気になっていることがあったので調べてみた。口語訳の「静まって」という言葉が違う表現になっている訳があったように記憶していたのでそれが気になり調べてみた。やはりそうだ。新改訳聖書が違う表現をしていた。
「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」
詩篇46:10(新改訳2017)
昔から「静まって」で暗唱しているから「やめよ」という表現には馴染みを感じないが、それでも意味深い言葉だと思った。「やめよ」。いったい何をやめなさいと命じておられるのか。源語を読む力がないので元々の表現は分からないが英語(N.I.V.)では”Be still”となっていた。そのまま、じっとしていなさい、という意味なのだとすると「やめよ」は「今していることをただちにやめよ」となるのだろうか。今していること、ってなんだろう?その時していたのは聖書通読だからそれをやめよ、という意味でないことは分かる。いくつか思い当たることがあった。不信仰な思いである。「この御言葉は、自分に対する約束ではない」「神様は自分を祈りに導き、その最後で『やっぱりお前の祈りにはこたえられない』と突き放されるのではないか」「祈っても結果は変わらないのではないか」などの不信仰な思いである。また今献げている祈りがあまりにも現実から遠ざかっており、これが成就するのはいくら神様でも難しいのではないか。とも思ってしまう。それに対して「やめよ」と言われているのだろうか。あるいは、難しい問題や、それに対する祈りに自分なりの答えを作ってしまうことをやめよ、と言われているのかもしれない。
現実を見て不信仰に押し潰されている自分をみて、我慢できず神様は二箇所から全く同時に一番大切な御言葉をくださったのだと思う。
46篇解説
詩篇46篇について女性クリスチャンのE.G.Whiteという方が次のような言葉を残している。
「さあ、あなたがたは、人を避けて」とイエスはわれわれに命じられる(マルコ 6:31 )。イエスのみことばに留意する時、われわれはもっと強く、もっと役立つ者となる。弟子たちは、イエスを求めて、すべてのことをイエスに語った。するとイエスは、彼らを力づけ、彼らに教えられた。もしきょうわれわれが時間をとってイエスのみもとに行き、われわれの必要をイエスに告げるならば、われわれは失望させられないであろう。主は、われわれの右側にいて助けてくださる。われわれは、もっと単純になり、もっとイエスに信頼し、もっとイエスを信用する必要がある。「大能の神、とこしえの父、平和の君」という名のおかた、「まつりごとはその肩にあり」といわれているおかたは、「霊妙なる議士」である。われわれは、そのお方に知恵を求めるように招かれているのである。彼は「とがめもせずに惜しみなくすべての人に与え」てくださる(イザヤ 9:6、ヤコブ 1:5 )。神の訓練を受けているすべての者のうちには、世とその慣例や習慣に一致しない生活があらわされる。だれでもみな、神のみこころを知るために、個人的な経験をする必要がある。われわれは、神が心に語られるのを個人的にきかねばならない。ほかの声がみな沈黙して、静けさのうちに神の前に待つ時、魂の静寂は神のみ声を一層明らかにする。神は、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」とわれわれに命じておられる (詩篇 46:10 )。ここにだけ真の休息が見出される。これこそ神のために働くすべての者にとって効果的な準備である。あわただしい群衆の中にあって、人生の激しい活動の緊張のうちにあって、このように活気づけられた魂は、光と平和の雰囲気にとりかこまれる。その生活はかぐわしい香りを放ち、人々の心に達する神の力をあらわすのである。
各時代の希望 電子版 P372,373
神様に祈り、御言葉を大切にしているつもりでもまだまだ本気で神様を信じきれていないのかもしれない。反省させられる良い機会となった。
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