見ないで信じる

神の時と神の方法

色々な種類の間違いがある。うっかりミス、熟考した末の決断がうまくいかなかったり前提条件が崩れることで予定通りにいかなくなること等々。人間や人間が作り出したものは必ず間違いやミスをおかす。現在少しずつ読み進めている本があるが、心に残る言葉を書き留めるべくコンピュータのメモ帳に本文を写している。色々な形の本になっているので頁を記載してもバージョンによってページ数が全く違う。そのため、書き写した「章」のタイトルを書き添えるようにしているのだが、先日転記していた章が「神の宮で」というところだった。その通りタイプしたが変換されたものがあまりにも本物とかけ離れていたので一瞬頭が真っ白になった。コンピュータが変換したのは「神呑み屋で」だった。間違いは起きるし、間違いが起きる前提が人間の限界とも言える。しかし、絶対に間違いをおかさない唯一の存在が神様である。絶対に間違わない。そして必ず約束を守ってくださる。ご自分の栄光と人間に対する深い愛情の故に決して約束を破ることはない。人間が考える方法や時とは異なる「神様の時と方法」で約束したことを成就してくださる。

トマス

イエスキリストの弟子に「トマス」という人がいる。ディディモとも呼ばれるトマスである。彼はイエスキリストが復活し弟子たちにその姿を表した時、その場にいなかった。あとから仲間からイエス様の復活を伝えられるのだが「自分は証拠を見ない限り信じない」と言ってその復活を信じなかった。

十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。 25ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
ヨハネによる福音書20:24,25

この出来事からトマスは「疑い深いトマス」と評され後世の現代まで伝えられてしまった。勿論このあとでイエス様はトマスにも復活のお姿を見せられ釘痕や槍の傷跡に指を入れなさいと言われる。トマスは恥じ入り不信仰を詫びる。この時イエス様はトマスに対して次のように言われた。

イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」
ヨハネによる福音書20:29

一義的にはトマスに対して言われているが文脈からその場にいた人々や後世の人々、そして現在の自分に言われている気がする。見えているものを信じたところでそれが信仰だろうか、と言われている。

カナの役人

イエスキリストの癒しについては聖書が多くを語っているがその中にカナの役人が息子の病を治して欲しいと訴える場面が出ている。癒しを患者自身がイエス様に近づくこともあれば、イエス様の方から患者に近づいてくださることもある。また病人の代理が癒しを懇願しにくるパターンもある。カナの役人はそのパタンである。

46イエスは、またガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にかえられた所である。ところが、病気をしているむすこを持つある役人がカペナウムにいた。 47この人が、ユダヤからガリラヤにイエスのきておられることを聞き、みもとにきて、カペナウムに下って、彼の子をなおしていただきたいと、願った。その子が死にかかっていたからである。 48そこで、イエスは彼に言われた、「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう」。 49この役人はイエスに言った、「主よ、どうぞ、子供が死なないうちにきて下さい」。 50イエスは彼に言われた、「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」。彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った。 51その下って行く途中、僕たちが彼に出会い、その子が助かったことを告げた。 52そこで、彼は僕たちに、そのなおりはじめた時刻を尋ねてみたら、「きのうの午後一時に熱が引きました」と答えた。 53それは、イエスが「あなたのむすこは助かるのだ」と言われたのと同じ時刻であったことを、この父は知って、彼自身もその家族一同も信じた。 54これは、イエスがユダヤからガリラヤにきてなされた第二のしるしである。
ヨハネによる福音書4:46-54

ある本から

この場面について自分が今読んでいる本が次のように解説していた。

カペナウムで役人を祝福されたお方は同じようにわれわれを祝福しようと望んでおられる。だがこの苦悩していた父親のように、われわれはしばしば何かこの世の利益を望んでイエスを求める。そして自分の願いがかなえられたら、イエスの愛に信頼しようとする。救い主はわれわれが求めるよりももっと大きな祝福を与えようと望んでおられる。イエスは、われわれ自身の心の悪と、イエスの恵みの深い必要とを示すために、われわれの願いに対する答えを遅らせられる。イエスはわれわれが、 利己的な動機からイエスを求めることをやめるように望んでおられる。 自分の無力と大きな必要を告白して、われわれはイエスの愛に自分自身をまったく委ねるのである。この役人は、信じる前に自分の祈りの成就を目に見たいと望んだ。しかし彼は、彼のたのみがきかれて祝福が与えられたというイエスのみことばを信じなければならなかった。この教訓をわれわれもまた学ばねばならない。われわれは、神がわれわれの願いをきかれるのを見たり感じたりするから、信じるのではない。われわれは、神の約束に信頼するのである。信仰をもって神のみもとに行く時、願いごとはすべて神のみ心にとめられる。神の祝福を求めたら、それを受けることを信じ、そして、、、それを受けたことを感謝すべきである。それからわれわれは、最も必要な時にその祝福が実現されることを確信して、自分の義務をつくすのである。こうすることをわれわれが学んだ時、われわれは祈りが答えられることを知る。神はわれわれのために、「その栄光の富にしたがい」「神の力強い活動によって」「はるかに越えて」なしてくださるのである(エ ペソ 3:16、1:19、3:20)。
各時代の希望電子版 p184,185 「あなた方はしるしと奇跡を見ない限り」

見ないで信じることは容易なことではないが、イエス様は人間がそのようになることを期待しているのでその力を祈り求めるものでありたい。

The King´s Heralds – Champion of Love

 

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