心の貧しい人は幸いである

貧困

深刻な貧困問題は海外のことではなく日本にも存在する現実問題である。絶対的貧困と相対的貧困があるが絶対的は「今日食べるものにも窮しており生きるか死ぬかの瀬戸際にいること。これに対して相対的貧困は周りの生活水準に比べて貧困である状態をさす。実際の定義としては、「2018年時点では等価可処分所得の中央値が254万円であるため、この半分となる127万円未満の可処分所得世帯が相対的貧困層に該当する」とあった。大人もそうだが子ども、特に育ち盛りの子どもが食べたいだけ食べられないことは悲しい現実だし心が締め付けられる。相対的貧困率は日本の場合15%程と言われている。が、そのうちの半数はひとり親世帯である。ひとり親世帯の48%が相対的貧困といわれているのでこちらの現実は深刻である。食べるもの、着るものもそうであるが子どもの学習についても同様の深刻な問題がある。経済的格差が教育の格差になってはいけない。が、実際にはその格差が当たり前のように起っている。実際自分が働いていた学校も「教会学校」ではあるが月々の支払いは12,3万円になる。その時点で「生徒を選ぶ」教育をしているのだが、実際にお金がかかる教育をしているので仕方がない。

教頭をしているときに、色々な塾や予備校、オンライン授業を展開する会社さんと面談することがあった。その中で、リクルートがやっている「スタディーサプリ」というオンライン学習チャンネルがある。安価で飛びつきやすいものなので採用したことがあった。説明を受けたときに言われたのが、コンセプトとして「教育の格差をなくすために開発された」ということだった。頷ける。

心の貧しい人

イエスキリストはその知名度が上がってきた、いわば追っかけのような人が多くなったころにガリラヤ湖畔で彼等に対してメッセージを語った。非常に長いメッセージであるが、ガリラヤ湖畔で語られたこのメッセージは「山上の説教」或いは「山上の垂訓」と言われている。ガリラヤ湖の周りは、確かに湖から見ると小高い丘や山に見えるが実際には湖自体が海面下200m以下のところにあるのでそう見えるだけである。山上の垂訓の出だしは非常に有名な言葉で始まる。

「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、 天国は彼らのものである。 悲しんでいる人たちは、さいわいである、 彼らは慰められるであろう。 柔和な人たちは、さいわいである、 彼らは地を受けつぐであろう。 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、 彼らは飽き足りるようになるであろう。 あわれみ深い人たちは、さいわいである、 彼らはあわれみを受けるであろう。 心の清い人たちは、さいわいである、 彼らは神を見るであろう。 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、 彼らは神の子と呼ばれるであろう。 義のために迫害されてきた人たちは、 さいわいである、 天国は彼らのものである。」
マタイによる福音書 5:1-10 口語訳

「心の貧しい人」がどのような人を指すのかよく分からないが、勝手な解釈をするなら「貧しい」というくらいだから「心が満たされていない」人のことを指すのかもしれない。また満たされていないから、それを追い求め続けている状態を指すのかもしれない。何れにしても満たされない心を満たしていただくために神様を慕い求め続ける人のことを言っているように思える。

また「ヨハネの黙示録」には次の言葉があった。

「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」
ヨハネの黙示録 3:17 口語訳

これは7つの教会のの一つである「ラオデキア教会」に対して送られた勧告である。実在した教会であるが、教会の歴史と7つの教会を重ねて解釈する方法によると現在の教会が「ラオデキア」時代と解釈できる。現代の教会は「貧しいのにその状態に気づいていない」状態だと指摘されている。マタイによる福音書の「心の貧しい人」は貧しさを自覚しそれを何とかしようと神様を求め続けている状態なのに対してラオデキア教会は貧しささえ自覚できず自分自身は富んでいるとの自負がある。

経済的な貧しさは見た目にもよく分かるが、心の貧しさというものは本人すら自覚できないことなのかもしれない。

主に帰ろう

もう30年ぐらい前のことであるが、自分が務めていた学校の教員と生徒が一つの讃美歌をつくった。教員が作詞、生徒が作曲を担当した。

怪しい記憶を辿りながら歌詞を思い出してみた。

僕の心が主を 求めるのはなぜ
僕の心に平和がないから
僕の心が主を 求めるのはなぜ
僕の心に 喜びがないから

でも本当は主が僕を 求めておられるから
肉を裂き 血を流し 全てを捨てて
この僕を激しく 呼んでおられるから

応えよう主の愛に 応えよう主の恵みに
さぁ主に帰ろう 主に帰ろう

イエス様は心の貧しさを自覚し、一心に神様を求め続ける人は天国を天国を受け継ぐことができると約束してくださった。貧しさを自覚し、その貧しさを満たす努力が大切なことを考えながら過ごした1日だった。

「主に帰ろう」北浦三育中学校聖歌隊2018

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