安息日の祝福

安息日学校

自分が通う教会は世界規模のネットワークを有し世界中でほぼ同じ形式の教会プログラムが持たれている。土曜日に教会に行くとまず「安息日学校」なるものが行われる。これは世界中で同じテキストを用いて聖書の学びをする時間のことをさす。1年を4つのセメスターに分けて「聖書研究ガイド」なる世界共通のテキストを用いた聖書の学びをする。聖書中の人物にスポットを当てて学ぶセメスターもあれば「エズラ記」「イザヤ書」「創世記」など聖書の書を丸ごと学ぶセメスターもある。今は「休息」をテーマにして聖書がどのような休息を提示しているのかを学んでいる。今週は休息の中でも「家族の絆の中に休みを見出す」というテーマで学んだ。家族の敗れ、機能不全の中にあってどのように神様が一人一人を導かれるのかを主にヨセフの生涯を通して学んだ。そのテキストの中に興味深い言葉が書かれていた。

一方、ヨセフは、売られた隊商につれられてエジプトに向かった。隊商がカナンの国境に向かって南下したとき、ヨセフは遠方に父の天幕が張ってある山を見ることができた。彼は愛する父親のさびしさと苦しさを察して激しく泣いた。ふたたびドタンで起こったことを思い出した。彼は兄弟たちの怒りを見、彼らの恐ろしい目つきを身に感じた。泣き叫んで訴える彼に浴びせられた鋭いぶべつの言葉が彼の耳に鳴っていた。彼は将来のことを考えて恐れおののいた。たいせつに扱われたむすこから、いやしい無力な奴隷になるとはなんという変わりようであろう。ただ1人、友もなく異国に連れられていく彼の運命はどうなることであろうか。ヨセフは、しばし悲哀と恐怖の念にかられて気が狂いそうであった。しかし、神の摂理のうちに、このような経験さえも祝福になるのであった。ヨセフはわずかの時間のうちに、数年かかっても得られない教訓を学んだ。彼の父は、強くやさしい愛の人であったが、彼を特別に愛してあまやかしたことは彼のためにならなかった。この愚かな偏愛は兄弟たちを怒らせ、彼らに残虐行為を行わせ、ヨセフを家庭から引き離す原因になった。その影響は、彼自身の性格にもあらわれていた。彼は、これまでに助長された欠点を改める必要があった。彼はうぬぼれの強い苛酷な人間になりつつあった。彼は、父親のやさしい保護になれていたので、前途の困難と、異国人また奴隷としてのきびしい、誰の保護もない生活になんの準備もないことを感じた。(人類のあけぼの 電子版 P165)

自分は奇跡的に非常に恵まれた家庭に生まれ育ったと思う。祖父母の代からクリスチャンという家庭に生まれ愛情深く育ててもらった。両親のいろいろな苦労も間近で見てきたのでどれほどの犠牲を払って育ててもらったかをよく理解しているつもりである。それなのに兄弟の中で自分だけはうまく育たなかったことに対して本当に申し訳なく思っているし、自己嫌悪に陥って自分の存在さえなければ家族はどれだけ幸せだっただろうと思うこともしばしばである。しかし自分のような者にも愛情を注ぎ続けてくれることが本当にありがたいし申し訳ない。また別のことであるが自分はいつの頃からか弟と非常に仲が悪くなった。恐らく同じ職場で働いているうちに意見の相違がふたりを絶縁状態にさせたのだと思う。実家に帰省する際も決して一緒にならないようお互いに気をつけている。自分も人生が終わるのか不安定になってきて「このままで良いのかな」と思うようになった。今年の4月1日、長年住み慣れた広島を離れる際に2軒隣に住む弟に意を決して挨拶をすることにした。本当に車で出発する直前にである。広島を離れる絶望的な寂しさと弟に対する感情とが入り乱れて呼び鈴を押した段階で涙が出てきてしまった。まずい、と思い玄関を開けて出てきた弟に背中を向けて「じゃぁ、お兄ちゃんは行くから。色々世話になったな」というのがやっとだった。背中越しに色々と労いの声をかけてくれたが振り返ったら大泣きしてしまう気がしたので「ありがと」と言って右手を挙げてから急いで車に乗り込んだ。色々な思いが去来するがやはり弟のことは祈りつづけなくてはいけないとその時自覚し、それから今日に至るまで毎日弟の幸せと弟に仕事上の理解者が与えられることを真剣に祈っている。家族の破れを通して働く神様のご計画も今週の学びの大きなポイントのひとつであった。

聖書研究ガイド21年3期6課

礼拝

安息日学校が終わりしばらくすると礼拝になる。教会に関する発表の時間がありその後奏楽から礼拝が始まる。自分が通う教会の礼拝メッセージは奇しくも昨日の投稿でも触れたノアの話だった。現代がノアの時と同様の終末時代にあることを教えていただいた。残念ながらこちらの礼拝メッセージはYouTubeでの配信ではなく独自回線の配信であるためこちらで紹介できないことが残念である。礼拝が終わり自宅でインターネットでのオンライン礼拝を色々と探している時にザアカイの悔い改めから学ぶ礼拝メッセージを見つけた。

救い主は、ザアカイに、「きょう、救がこの家にきた」と言われた(ルカ 19:9 )。ザアカイ自身が祝福されたばかりでなく、彼といっしょに家族の全部が祝福されたのである。キリストは、ザアカイに真理を教えるために、また彼の家族にみ国の事がらを教えるために、彼の家庭に行かれた。彼らはラビたちと礼拝者たちから軽蔑されて、会堂から閉め出されていた。しかしいま、エリコ中で最も恵まれた家族として、彼らは、自分の家で天来の教師のまわりに集まり、自分たちの力で生命のみことばを聞いた。魂に救いがのぞむのは、キリストが個人的な救い主として受け入れられる時である。ザアカイはイエスを自分の家庭の一時のお客としてばかりでなく、魂の宮に住むお方として受け入れた。学者たちとパリサイ人たちはザアカイを罪人として非難し、またキリストがザアカイの客となられたことについてつぶやいたが、主は彼をアブラハムの子として認められた。なぜなら、「信仰による者こそアブラハムの子である」からである(ガラテヤ 3:7)。       (各時代の希望電子版 P579,580)

2021年8月7日 「徴税人ザアカイの悔い改め」 礼拝LIVE
メッセージは14:35から

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