祝福

教会

安息日の朝を迎え教会に行く準備をする。最近何となく教会に向かう足が重くなってきた。教会の雰囲気に馴染めない。教会の内情を知れば知るほど敷居の高さを感じ行っても居心地の悪さだけを感じて帰ってくることが多くなってきたことが原因なのだろう。それでも「教会は人ではなく神様に会いに行くところだから」と自分を奮い立たせて何とか出かける。しかし、今日は少し違った。礼拝の前にテキストを用いて聖書研究をする時間があるのだが、あるテーマがきっかけでそれぞれが意見を出し始めた。「自分はこう思う」の意見が多かったが時々「聖書にはこう書いてある」と客観的な意見を言ってくださる方もいて広がりと深みのある勉強会となった。聖書研究の時間が過ぎても、ある方が自分のところに来られて「先ほど意見交換されていたメルキゼデクという人についてもう少し説明してもらえませんか」と仰られた。礼拝までのわずかな時間だったが一緒に聖書を開いて学んだ。

今までに無かった光景である。聖書を用いて、きちんとディスカッションする様子を見てとても感動した。信徒がそれぞれのペースで聖書を学び、受けた恵みを分かち合うことの大切さとそこにある祝福を痛感した。できれば毎週こういう雰囲気で全ての人が聖書を学びあえたら良いのに、と思った。来週は牧師先生がこられる週なので恐らく一方的な講話になってしまうのかも知れないが、人任せにしないで自分で聖書を開いて学ぶ習慣がこの教会の雰囲気になったら良いと思う。

忍耐して待つこと

聖書研究の後は礼拝の時間。今日は教団が運営する大学の学長先生が礼拝メッセージを取り次いでくださった。アブラム(アブラハム)の経験から、神様に信頼して忍耐して待つことの重要性を教えていただいた。自分が使っている口語訳の聖書ではあまり読み取れないのだが、新共同訳聖書で読むと理解できる表現があることも教えていただいた。アブラム(アブラハム)と神様の会話が創世記15章にでてくる。

これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、
「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。
あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。
アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。 アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。
創世記15:1-3(口語訳)

アブラムは言った、と表現されているが新共同訳では「アブラムは言葉をついだ」となっている。口語訳のような穏やかな会話ではなくアブラムが一方的に喋りそれでも足りなくて神様からの返答を待たずに次の言葉を重ねている状態が見て取れる。少し感情的になっているアブラムが浮き彫りになってくる。

しかし、そんなアブラムを神様は咎めるわけでもなくゆっくり諭し外に出て天の星を見せて「この星のようになるんですよ」と語ってくださった。そしてこの時、アブラムは対話している神様のことを全的に信じる決心をした。そしてその信じる気持ちが神様に「正しいこと、義なること」と認められたのである。

礼拝が終わって家に戻りオンラインの礼拝メッセージをいくつか視聴する中で、ある教会でも切る口こそ違っていたが同じテーマである「主を待ち望む者」に対するメッセージが語られていた。信仰を持って待ち望むことを神様は自分に教えようとしておられることが分かった。

そして、自分が約束の成就を待ち望み神様ご自信を待ち望む以上に、神様が私の帰りを待ち望んでくださっていることも直感的に理解できた。

安息日の祝福というが、本当に今日はたくさんの祝福をいただくことができた。

2022年2月5日 「主を待ち望む者へ」 安息日礼拝LIVE配信

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