Difficult to cure

治療困難

自分の仕事が日々変化しており一体自分は何をしているのだろう?と思うことがよくある。用度課とは名ばかりで用度の仕事は殆どしていない。やっていることといえばもう一人のスタッフとともに小口現金を管理する。毎日会計日記帳をつけ税理士事務所とオンラインでつながっているコンピュータに入力する。また給与計算や銀行にて振込依頼をするのも自分の仕事である。設備関係に不備があれば修繕し必要に応じて業者さんに依頼する。基本的には「お金をかけないで」という絶対条件があるので知恵を働かせ廃材のようなものを整理して保管しておく。送迎のドライバーをすることもごく稀だがある。3つの介護施設を併設しているがそちらとのやりとりの一部も担当している。これは殆ど使いっ走りのようなもので頭は使わない。そして牧師先生が来られる部屋の管理、というか掃除。更に毎日の郵便の整理も自分がしている。介護施設と医院の郵便物を仕分けし、医院のものを担当の部門に配る。月はじめは請求書で溢れかえる。また今の時期は固定資産税やそのほかの税金関連の書類が多い。毎日ではないが結構な頻度で来るのが他の病院とのやりとりに関する通信。検査を依頼したり他の病院から患者さんを受け入れられるかの打診など。また検査結果などの通知も多い。恐ろしいことだがそれらの通信全てに自分が目を通す。見ても分からないのだが目を通す。個人情報も多々あるので一瞬見て内容を判断してその後の処理を決める。が、時々「癌」「治療不可」などの文字が目に入ってしまう。患者さんの名前などを見ないように気をつけているが「癌」「治療不可」「家族も承知している」「延命措置不要」などの文字を見ると胸が締め付けられる。当の本人が知らないところで医療関係者や家族の間でこのような単語が行き交っていることを考えると悲しい気持ちになる。

よみがえり

昔、ずっと昔だが洋楽が大好きでたまらなかった頃、あるグループが「I Surrender 」というアルバムを1980年に発表した。自分が高校2年の時であった。まだレコードとカセットテープが主流でCDがまだなかった。このアルバムにあるクラシックをアレンジした「Difficult to cure」という曲がある。このグループはギターのリッチー・ブラックモアという人が有名でこの曲も彼の演奏テクニックが随所に光る。原曲は大晦日に喜びの歌として公演されることが多い曲だが何故かタイトルはDifficult to cure。「治療不可」という言葉と曲のイメージがかけ離れているのでとても印象に残っている。治療不可、治療できない、手遅れ、なすすべがない・・・。

聖書の中には難しい病気が癒される場面がいくつも出て来る。病だけでなく悪霊にとりつかれている人が癒される場面もある。更に、亡くなった方が生き返る場面さえある。預言者エリヤがザレパテのやもめの息子を復活させたのを皮切りにエリシャがシュネムの女の息子を、イエスがナインのやもめの息子、ヤイロの娘、ラザロ、を復活させた。またペテロがドルカスを復活させればパウロは高所から落ちて亡くなったユテコを復活させた。神様の超自然的な力により十字架の場面で人が復活しまたエリシャの骨に触れた死体も生き返った。イエス様の癒しの御手に不可能はない。そのような力がありながら、ある人は癒されある人はこの世の生涯からしばらくの休みにうつされる。その理由や神様のお考えは全く分からないが、全ての人を癒す力をお持ちであることは間違いない。

希望が見出せない時

希望と勇気は、神に完全な奉仕をするために、ぜひ必要なものである。 これらは信仰の実である。神はご自分のしもべたちが試練に遭った時に必要な力を、豊かに彼らに与えることがおできになる。そしてそうしよ うと望んでおられるのである。神の働きに対する敵の策略は、よく計画され確立しているように見えるであろう。しかし神は、これらの計画の最も強力なものでも、覆すことがおできである。そして神はしもべたちの信仰が十分に試めされたことをごらんになる時に、神ご自身の時と方法においてこれをなさるのである。

気落ちしている者に対して、信頼できる救済策がある。それは信仰と祈りと行いである。信仰と活動は、日毎に増大する確信と満足とを与える。あなたは不吉な予感に恐れを感じ、失望落胆に陥ろうとしているであろうか。一見絶望的で、最悪の事態にあっても恐れてはならない。神を信じよう。神はあなたの必要を知っておられる。神はすべての力を持っておられる。神の無限の愛と憐れみは、消耗することがない。神はその約束をなし遂げられないのではないかと恐れてはならない。神は永遠の真理である。神は、神を愛する人々と結ばれた契約を変更なさらない。 そして神は、忠実なしもべたちが必要とするだけの能力をお与えになる。 使徒パウロは、次のようにあかししている。「『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。・・・・ だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、 わたしは強いからである」(IIコリント 12:9、10)。
国と指導者 電子版p104 砂漠へ逃れる預言者

 

30年近く前に担任した生徒さん。今は東京で立派な牧師先生として活躍していらっしゃる。
522日 1030分~藤井清邦牧師

 

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信じて頼る

出発

しばらく過ごした実家を後にして青森までの帰路に着いた。毎回のことだが家を出る前に部屋でしばらく祈りの時間を過ごす。この家を火事や泥棒色々な災いから守ってください、と祈り始めると次々と祈りの言葉が続く。そして最後に必ず、もう一度この家で両親と会わせてくださいと祈る。いつどのようになってもおかしくない状況なので実家を出る時は今生の別れを意識してしまうからだ。今朝早く姉も来てくれたので4人でオンライン礼拝をした。通い慣れた教会。自分が長年長老としてまた女性執事として奉仕してきた教会を見て両親は何を考えているのだろう。寂しさを感じているのだろうか。祖父母の代から通い続けた教会。東京から埼玉に引っ越しても電車で1時間半かかるこの教会に通い続けた。もっと近くに教会はあるのだがどうしても原宿まで行かないと気が済まない。もしかしたら両親はまたいつか原宿の教会に行けると思っているのだろうか。

委ねる

そんな両親を残してまた家を出てしまった。姉も一緒に出たので両親は一気に寂しくなったと思う。今日と明日は宅配弁当が来ないので色々な料理を作り置きしてきた。全部説明してメッセージメモも残してきたけどまた電話をしないとわかないだろうな、などと考え姉と今後のことを少しだけ話した。どこにいてもできる仕事を自分がしていれば解決の糸口は見つかるようにも思うのだが、生活費の他に教育費もこれから更に掛かるので大胆な冒険はできない。しかし神様の召しにはいつでも従いたいと思っている。何をどのようにしたら良いのか、日々祈りながら答えを待っている。全てを任せる、委ねること以外何もできないことを痛感させられる。

「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」
ヘブル人への手紙 4:16 口語訳

父なる神とみ子の思い

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天の御国

バラ園

実家では普段両親ができないことをやっている。お風呂場などのカビをとったりそのほかの場所の掃除。そして結構長い時間をかけているのが食事と冷蔵庫の整理。冷蔵庫だけではない。色々なところに少し使いかけて放置されている食材などがある。賞味期限を見ては使えるものだけを選別して料理を作る。賞味期限が切れているものはもちろん捨てるのだが、母は認知症なのに冷蔵庫の中に入っているものや缶詰などを覚えていることがあるので捨てる時も何を捨てたかを覚えておく必要がある。また目立たないように紙袋に入れてガムテープで閉じて捨てる。賞味期限が切れているものでも自分が使う分には大丈夫なのではないかと思えるものもある。例えばお茶や海苔、お茶漬けなど。こういうのは自分が青森に持って帰ることにする。何れにしても必要なものは全部こちらで買ってあげたほうが良いと思いながらも、自由に色々なものを買って見たい気持ちも理解できるので何とも言えない。ただ、困るのがテレビやラジオの通販。少し良さそうなものがあると買ってしまう。が、最近はこういう年寄りを狙った商法なのか「定期縛り」が多い。初回のみ500円、などと安い値段で申し込ませるのだが内容は月々の定期購入になっていることが多い。こういうのどのように解約して良いのか分からないで困っているお年寄りも多いのではないだろうか。ある意味振り込め詐欺に似ている気がする。実は実家にもそういう商品がありそれらを解約するのも結構苦労する。現実を見ると悲しくなることばかりである。

実家に戻って毎日近所を買い物がてら散歩しているのだが毎日人が行列をつくっているところがある。最初はおしゃれなカフェなのかな、と思っていたが気になって今日は中まで入ってみた。そこは自宅の庭を無料で開放しているお宅だった。たくさんの種類のバラを育てておりそれを広い庭一面に綺麗に咲かせている。バラ以外の花もたくさんあり本当に綺麗なお庭だった。無料開放しているだけでなく、遠方から車で来る方のために近所の駐車場を借り上げて無料駐車場をいくつか提供している。自分は花のことを全く知らないが、綺麗な花に心を癒される経験は何度もある。名前もわからない花が心を癒し励ましてくれる。「自然と聖書は神の愛を証している」という言葉があるが本当にその通りだと思う。

新エルサレム

日常生活からの逃避でということではなく、希望の無いこの世界の延長線上に「新エルサレム」があることは大きな喜びである。地上のバラ園でも感動するのだから新エルサレムの美しさたるやどのようなものか想像もできない。早くそこに行きたい。そこに行けることが希望であり全てである。そこに行けばあれほど会いたかったイエス様に会える。もう決して涙を流すことも別れることもない。そして、かつての仲間がお子さんと再会する場面も見ることができるはずである。自分の祖父母にも久しぶりに会える。もう顔すら忘れてしまった5歳で亡くなった従兄弟にも会える。そのような日を夢見ながらこの安息日を過ごしたい。

イエスが弟子たちを訓練されたのは個人的な接触とまじわりによっ てであった。イエスは、ある時は山腹で彼らの中にすわって教え、ある 時は海辺で、ある時は彼らといっしょに道を歩きながら、彼らに神の国 の奥義を示された。イエスは今日人々がするように説教をなさらなかっ た。人々の心が天来のことばを受けようとして開かれているところでは どこでも、イエスは救いの道の真理をとき明かされた。イエスは弟子た ちにこれをしなさい、あれをしなさいと命令なさらず、「わたしに従って きなさい」と言われた(ルカ 9:59)。彼は民にどう教えるかを弟子た ちに見せるために、いなかや町を旅行される時には彼らをおつれになっ た。イエスは弟子たちと関心を1つにされたので、彼らは働きにおいて イエスと一体となった。
各時代の希望電子版 p136  婚礼の席で

われわれは、クリスチャンは暗い不幸な人たちだというまちがった印 象を世の人々に与えるべきではない。もしわれわれの目がイエスにしっ かりそそがれているならば、われわれは憐れみ深い救い主を見、そのみ 顔の光をとらえるのである。神のみたまに支配されているところにはど こでも平安が宿る。神に対する落ち着いた、聖なる信頼があるので、そ こにはまた喜びがある。
各時代の希望電子版 p137  婚礼の席で

The Holy City

 

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主は与えてくださる

物理のまとめ

毎晩夜中まで物理の解説書を書いている。決して本を出そうとしているわけではない。長男が「物理が分からない」と言うので簡単な解説書を作り始めたのだがとにかく集中してしまう。授業であれば簡単に説明できてしまうことも、文字だけで説明するとなるとかなり気を使う。図を入れないと説明できない。しかもエディターで分数を含む数式を入力するのは自分の持っている環境ではかなり面倒である。だからところどころ手書きにしている。読みにくい字で申し訳ないがそれしか思いつかなかった。文字だけで説明すると表現や言い回しを統一しないと読む人は混乱してしまう。解答もできるだけ丁寧に解説しないと分かりにくくて嫌になってしまうだろう。そんなことを考えていると一つの単元を解説するのに2日ぐらいかかってしまう。ところどころ受験のテクニックや計算しないで解を求める方法なども少しだけ説明していると、教員に戻った気分になる。それにしても本当に物理は楽しい。中間試験を目前に控えて困っている高校生に物理で何かのお手伝いができたらいいな、と本気で思う。そして一人でも多くの人に物理の楽しさを理解してもらいたい。

息子の解説書にも所々「これは計算しなくても出せるよ。神様が終端速度が初速度と同じになるようにこの地球を創ってくださったから」などと説明している。息子にも物理などの自然科学を通して更に神様を深く知ってほしい。

神様に会いたい

現代の人間には「聖書」を通して神様は語ってくださる。旧約時代、即ち聖書がまだ無かった時代に比べて何と恵まれていることだろう。しかし、直接神様から語りかけられていた時代を羨ましく思うことも多々ある。特に最近その気持ちが強くなっている。どのような形でも良いので直接語っていただけないか、を毎日お願いしているのだがなかなかそれが叶わない。ところが、今日その祈りが少しだけ聞かれた。これが神様からの語りかけかどうかは分からないが神様が一緒にいてくださった気がした。昨晩も前述の解説書で遅くなり1時に眠った。ところが3時過ぎに起きてしまった。夢の中でイエス様の存在を感じながら歌っていた。イエス様の姿も見えないのだが歌だけをずっと教えてくれていた。軽快なリズムで同じ節、同じ歌詞を繰り返していた。3時過ぎに起きた時には曲をはっきり記憶していた。その時すぐに枕元のスマホに向かって歌い録音しておけばよかったと後悔している。それからしばらくしてすっかり思い出せなくなってしまったのだ。ただ、歌詞は覚えている。「主は与えてくださる。全てを与えてくださる」という文章をなんども繰り返していた。その歌を教えてもらいながら自分がどんどん明るくなって喜びに満たされていった。夢の中ではあったが本当に楽しい時間だった。3時過ぎに起きたがその余韻が懐かしくすぐに聖書を読んだ。そして「もう一度今の夢の続きをみさせてください」と祈って眠ろうとしたが結局眠れなかった。そして東北の早い日の出を迎えてしまった。結局今日の睡眠2時間。眠いけど充実している。もう一度同じようなことが起きないかな。

あなたを迎えに来る神

 

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語りかける神

アブラハム

教会では現在共通のテキストを用いて「創世記」を学んでいる。6月末まで創世記を学ぶが今はその折り返し点付近を学んでいる。先週からアブラハムの生涯を通して多くの教訓を学んでいるが、個人的にはアブラハムの生涯の根底に「召命」→「自己放棄」→「服従」というプロセスが流れているように感じている。この「召命」の部分が「契約」であったり「約束」だったりするわけだがアブラハムは神様から語られたことに対して自分の考えや計画の一切を放棄して服従していく。そこに神様からの更なる信頼ありアドバンスコースへと導かれていく。

各自が聖書研究で学んだことを分かち合うことがあるが、今日ある方が「アブラハムのように直接神様からの召命を受けたことがないので、何が神様の期待していることなのかが分からない」と仰った。全く同感である。

聖書はとても長い時間をたった数行で表現することがあるので、あたかもアブラハムが何度も神様から声を掛けていただいている印象がある。が、決してそうではない。神様からの言葉が与えられてから10年以上音沙汰がない、のは普通のことであった。逆に神様からの直接的な語りかけや奇跡を通して日々神様を身近に感じられたのがイスラエル人がエジプトを脱出して荒野を40年間旅していた時期である。そして現在はそれらの記録が「聖書」という形で読めるようになっており、神様の語りかけを知ることができる。ここで問題になるのが前述の方のように聖書のどの言葉が自分に対する召なのかがわかりにくいと言う点である。アブラハムのように直接語りかけられればはっきり分かる。しかし聖書のことばを直接「自分の人生に適応して良いのか」と悩む。

あかし

今日の礼拝で、牧師先生に促されある方が「証(あかし)」された。イエス様に直接導かれた経験や祝福された出来事を話して聴衆と分かち合うことを「証」という。この方は、毎日の生活が神様に頼ることもなく聖書を読むこともなく乾ききっていることを自覚していた。何とかこれを変えたいと願っていたところ、ご主人が「リバイバルのために祈っていたが、神様がまず君の信仰生活を潤いあるものに変えられるよう祈りなさい、と言われた。今日から一緒に祈ろう」と言って来られたとのこと。自分の心の状態など分かるはずもないと思っていたが神様はちゃんと分かっていて最も適切な助けを与えてくださった、と仰っていた。ある時、日常の忙しさに疲れを覚えている彼女に対して小学生の息子さんが「嵐で漕ぎ悩んでいる船にイエス様が湖上を歩いて助けに来てくださった」話をしてくれた。そしてその日の聖書通読の箇所がまさにその場所(マタイのよる福音書14章)だった。そしてその後、入院しているご主人が電話をかけてきて、またこのマタイ14章の話をし始めた。「神様が君にこの話をするように言っている気がしたので」とのことだった。そしてこのご主人との電話の後「あなたはいったい誰を頼りにしているのか」と言われた気がしたという。

偶然、とも考えられる。しかし、神様は求める人、必要な人に色々な方法を通して語っておられることを証を通して教えていただいた。やはり生きている神様は今も個人的に語りかけてくださっていると思う。

どんなに乱暴な、見込みのない人でも、責むべき点もなければ、害を 与えることもない者となり、神の子たることをはっきりあらわすような 品性の持ち主になることができるという保証を示すことによって、イエ スは彼らのうちに望みを起そうとされた。イエスは、サタンの支配下に おし流されて、そのわなを破る力のない人たちをしばしばごらんになっ た。落胆したり、病気だったり、試みられたり、堕落したりなどしてい るこれらの人々に、イエスは最も憐れみ深いことばー 彼らが必要とし、 理解のできることばをお語りになるのだった。イエスはまた魂の敵とは げしい戦いをたたかっている者にも出会われた。これらの人々をイエス は耐え忍ぶように励まし、神の天使たちが彼らの側についていて勝利を 与えてくれるから、勝てるのだと保証された。このようにイエスから助 けられた人々は、ここに自分たちが絶対の信頼をもってよりたのむこと のできるお方がいられることを確信した。彼らが同情をもって聞いてく ださるイエスの耳に入れた秘密をイエスはほかへもらそうとされなかった。
各時代の希望電子版 p72. 戦いの日々

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イエス様を想う

十字架の予表

そこでイエスは、剣が彼女の魂をさ し通した時に彼女がそれに耐えられるように強くするため、彼女にご自 分の使命を理解させたいと望まれた。イエスが母から離れ、彼女が悲し みながら3日間イエスをさがしたように、イエスが世の罪のためにささ げられる時、彼女はもう1度3日間イエスを失うのである。そしてイエ スが墓から出てこられる時、彼女の悲しみはふたたび喜びに変るのであ る。だがイエスがいま彼女の思いを向けさせようとしておられた聖句を 彼女が理解していたら、彼女は、イエスの死についての苦しみにどんな にか強く耐えることができたであろう。
各時代の希望電子版 p61 過越のおまいり

イエス様を瞑想すること

われわれは、キリストの一生について毎日瞑想する時間を持つがよい。 イエスの一生の要点を1つ1つとらえ、各場面ことに最後の場面を想像 のうちにとらえるべきである。このようにして、われわれのために払わ れたイエスの大犠牲を心に思いめぐらす時、キリストに対するわれわれ の信頼はもっと堅固になり、われわれの愛は目覚めさせられ、われわれ はもっと深くキリストの精神を吹きこまれる。もし最後に救われたけれ ば、われわれは十字架のもとで悔い改め、心がくだかれることについて 教訓を学ばねばならない。
各時代の希望電子版 p62. 過越のおまいり

聖書研究ガイド2227

 

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岐路

目次
  1. 人生

朝一番で上島竜兵さんのことに関するニュースが飛び込んできた。自分と同世代なので身につまされるし、昨晩仕事帰りに2時間ほど車を走らせながら「神様、もう私の人生を終わりにしてください」と真剣にお願いしたことがいけなかったのか。自分が人生を諦めていたちょうどその時間に上島さんは亡くなったのかもしれないと思うととても申し訳ない気持ちになる。上島さんのことを先輩が連絡してくれた。そしてそのあとで非常に意味深い話を語ってくれた。

以下、先輩が教えてくれた話。

鷹は鳥の中でも長生きする鳥として知られている。その寿命は70年と言われているが、70年を生きる鷹はその生涯の半ばで大きな決断を迫られるという。40歳になると鷹は爪が弱くなるため獲物が上手に獲れなくなる。くちばしも長くなって曲がり胸に着くようになってしまう。羽も重くなり徐々に飛べなくなってくる。この時鷹は「このまま死を待つ」か「新しく生まれかわる」かの岐路に立たされる。新しく生まれかわる道を選ぶと、それはそれは苦しい自分探しの旅に出ることになる。まず山の頂上に行って巣を作る。次に自分のくちばしを岩に叩きつけ壊してしまう。しばらくすると新しいくちばしが出てくるという。出てきた新しい口ばしで爪を一本一本剥ぎ取っていく。そして爪が生えると今度は羽を一本ずつ抜いていく。このような苦しい経験をした後半年ほどすると新しい羽に生え変わり「新しい鷹」として新生するのである。そして大空に舞い上がり残りの30年を生きることができるという。

人生

鷹の生涯から非常に尊い教訓を頂いた。生きる意味について考えさせられた。同時に人生をかけて追求すべきことが「広さ」や「速さ」ではなく「方向性」と「深さ」であることも学ばせてもらった。少しだけ心が軽くなった。人生について考えながら昼休みに動画を探していたらとても慰めと励ましに満ちたメッセージに行き着いた。ある牧師先生のメッセージであるが非常に深く掘り下げたメッセージなので是非視聴していただきたい。

7話 : あなたを試みられる神

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ギャップ

祈り

毎日色々な形で祈っている。朝起きてすぐに聖書通読をしてから祈る。その後も人とあまり話さないので仕事中も祈ることができる。可能な限り祈るのだが「対話」をしているような感じにはならない。どちらかと言えば自分の要求やお願いを並べ一方通行になっていることが非常に多い。聖霊様のお力添えがなければ祈ることも悔い改めることもできないことを痛感させられる。時々「神様は祈りに招いておいて、その一切を無視しているのではないか」と思ってしまうこともある。常にそうなのではないが時々祈れば祈るほど虚無感だけが残ってしまうことがある。それを払拭しようと更に祈る。そんなことを繰り返していると「神様は惜しげも無く求めてくるものに喜んで与えてくださるはずなのに・・・」と神様の約束を思い出し自分の祈りを反省する。

神は、われわれのあがないを引き受けられたからには、その働きの完成に必要なものは、それがどんなに大事なものであろうと、何1つ惜しまれないのである。われわれの救いに必要な真理は何1つ与えられないものはなく、どんな恵みの奇跡もおろそかにされず、どんな天来の方法も用いられないものはない。恵みに恵みが、 賜物に賜物が加えられる。神が救おうとしておられる人々のために天の倉庫は全部開かれている。神は宇宙の富を集め、無限な力のみなもとを開いて、それらを全部キリストの手にお与えになり、これは全部人類のためだと言われる。天にも地にもわたしの愛より大きな愛はないことを 人々にわからせるためにこれらの賜物を用いなさい。人の最大の幸福は、わたしを愛することにあるのだ。
各時代の希望電子版 p36 献納

何がいけないのか

祈ったことが聞かれる経験が祈りの本質だとは思っていない。祈りを通して、神様のご計画や御心が何であるかを知ろうとする気持ちに変化するプロセスは祈りが聞かれる以上の平安に満たされる。だから自分にとって祈りは避難所であり安全地帯なのである。しかし、一方で祈りがその通りに叶えられない経験をずっと続けていると「自分の祈りはどこが問題なのだろう」と考えてしまう。心から祈るものの求めに応えてくださる神様、と今祈っている神様に少しギャップを感じてしまうこともある。現在色々な模索をしながら何とか聖霊様のお助けをいただいて真の祈りをささげられる者に変えていただきたい。

【聖書が語る幸せの秘訣#24】

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全知全能

目次
  1. 再会
  2. 必要

再会

昨日、午前中に自分が所属する教団のある方から連絡があった。以前、その方が教団の「青年部」を担当している頃からの付き合いで15年ぐらいになる。今は教団の三役の一人になっておられるがその方がわざわざ連絡をしてくださり「これから青森に行きますが久しぶりに会いませんか?」とのことだった。少し外出する予定はしていたが、それは次の休みでも構わないので快諾し待ち合わせをした。食事をしながら神様のこと、信仰のこと、ご再臨のことなどを話しとても楽しい時間を過ごさせていただいた。宿泊先のホテルまでお送りし、今朝もそのホテルで彼を迎えて一緒に教会に行った。彼が本日の礼拝メッセージを担当することになっていた。昨日も、また短い時間であったが今日も神様のことをはなし、今自分に必要な考えや励ましを会話を通して与えられた。彼が青森に来ることは1週間前に知ったのだが、その時から或いはその前から神様のご計画は始まっていたのかと思うととても嬉しい気持ちになった。

必要

この安息日も多くの文章やメッセージによって祝福をいただいた。自分の認識が違っていたことにも気づかせてもらうことができた。キリスト教の神様のことを「全知全能の神」と表現することがある。この全てを知っておられる、という意味があまりよく理解できていない気がしている。が、神様は人の将来とそこでの必要をご存知であることは間違いない。そしてその必要のために、人がその必要を感じる前から働いておられることを知り神様の偉大さと愛を感じるのである。

今日幾つか視聴したメッセージでたくさんの祝福をいただいたが、前述の神様の働きを実例として理解できる証があった。人の必要のために、その必要を感じる5ヶ月も前から神様は人を通して働いていらしたことを知りとても感動した。

今も人の必要に関心をもって働き続ける神様の存在を心から感謝したい。

われわれをあがなう計画は、あとで考え出されたもの、すなわちアダムの堕落後に定められた計画ではなかった。それは、「長き世々にわたって、かくされていた奥義」のあらわれであった(ローマ 16:25)。それは永遠の昔から神の統治の根本となってきた原則のあらわれであった。 初めから、 神とキリストは、サタンの背信と、この反逆者の欺瞞的な力 によって人類が堕落することとを知っておられた。神は罪が存在するよ うに定められたのではなく、その存在を予見し、その恐るべき危機に応 ずる備えをされたのであった。世に対する神の愛はまことに大きかった ので、神は、「み子を信じるものがひとりも滅びないで、永遠の命を得る」 ために、そのひとり子を与えることを約束された(ヨハネ 3:16)。E.G.White  各時代の希望 電子版 p6

祈祷週「祈りの応答」斎藤宣人長老(5月8日)

 

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聖霊

今日の御言葉

聖書の言葉の中には心励まされる言葉がたくさんある。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るひとつひとつの言葉で生きる」との言葉通り聖書の言葉から力をいただいて生かされる経験を毎日している。しかし自分の不信仰や知識の無さから、聖書の言葉の中にあまり心地よく感じられない言葉がある。聖書の言葉に問題があるのではなくそれを読む自分に問題があることを十分承知している。実は今朝与えられた聖書の言葉があまり好きではない聖書の言葉だった。

「ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」
コリント人への第二の手紙 12:9 口語訳

この言葉が大好きで心の支えにしていらっしゃるクリスチャンも多くいらっしゃると思う。場面はパウロが肉体的に何らかの不具合を持っていてそれを取り除いてください、と神様に熱心に祈った。その時に与えられたのが上記の言葉である。だからパウロの祈りが願った通りに応えられず「これで十分なのだから与えられたもので満足しなさい」と言われているような気がする。聖書は別の場所で執拗に祈ることを勧めている。また求めれば与えられるとも教えている。一方で祈っても与えられず「我慢しなさい」と言われている。昔からこの2種類の勧めをどう折り合いをつけるべきなのかをずっと考えている。

聖霊のバプテスマ

キリストを救い主と信じた時に、その信仰の表現として「バプテスマ」を受ける。これは教団教派によって名称や方法、或いはその位置づけなどに違いがあるがイエス様の時代は水の中に全身を浸めて行う。全浸礼という。イエス様もこのバプテスマを受けられた。イエス様の露払い役目を担った「バプテスマのヨハネ」という人から授けてもらう。パリサイ派の優秀な人物で「ニコデモ」という議員がいた。パリサイ派ということで人目のあるところでイエス様に接触することはできない。そのためわざわざ夜になってから人目を忍んでイエス様のところにやってくる。そしてバプテスマについて、というか「神の国」関する問答をイエス様と展開する。この問答の中でイエス様が言われた「誰でも水と霊とから生まれなければ神の国に入ることはできない」という言葉がどうにも腑に落ちないニコデモ。

この言葉が後世にも伝わり水によるバプテスマと霊によるバプテスマのふたつがあることを多くのキリスト教会で認めるようになった。これが「聖霊のバプテスマ」である。

「聖霊を受ける」少し難しく言うと「聖霊に内住していただく」経験がしたくずっと祈り求めている。これはイエス様が十字架で亡くなりその後復活して40日に渡って使徒たちの前に現れた。その後、イエス様は天に帰られるのだが、それから10日間ずっと使徒、弟子たちは祈り続けている。そしてイエス様が十字架で命を落とされた過越の祭から50日目の「ペンテコステ」の日に弟子たちが聖霊を受ける。とても不思議な経験である。急に他国の言葉で話始めたのだ。そしてこの時を境に使徒たちはエルサレムを出て各地で伝道し行く先々で大きな成果を挙げるようになる。

読み物を通して

始めの御言葉に戻るが自分があまり好きではない聖書のことばを悶々と心の中で反芻している時にある読み物を通して少しヒントになる考えが与えられた。

聖霊が注がれる時、前の雨を受けていなくて、その価値も理解していない者は、後の雨の価値を認めて理解することもありません。
『聖霊に導かれて下巻166ページ

露や雨がまず種に働いて発芽させ、やがて収穫が 近づくと穀物を実らせるように、聖霊は、霊的成長 の各段階で、その段階ごとに、働きを前進させるた めに与えられています。 ・・前の雨が降ってその役 割を果たさなければ、後の雨には穀物を完成させる ことができないのです。
『聖霊に導かれて』下巻308.309

多くの人々が前の雨を受けることに少なからず失 敗しています。 彼らは神が自分のために用意された 祝福のすべてを受けてはいません。彼らは不足している分は、後の雨で補ってもらえると期待しています。恵みが最も豊かに与えられる時、心を開いて、 それを受ければよいと考えています。 ところが、彼 らは恐ろしい間違いをしているのです。……積極的 なキリスト教の美徳を日ごとに実践していないなら、 後の雨における聖霊の現れに気づくことがないで しょう。 聖霊が周囲のすべての人の心に注がれてい ても、我々はそれに気づかないでしょうし、受け取ることもできないでしょう。
聖霊に導かれて 下巻 309,310

私たちに必要なことは、聖霊のバプテスマである。 これなしでは、主の十字架の後の弟子たちのように世界に出ていく者として私たちは適し得ない。 イエスは彼らの極度の欠乏をご存じだったので、天から の力を与えられるまでは、エルサレムにとどまって いるように告げた。
『レビュー・アンド・ヘラルド』 1890年2月16日(英文)

ペンテコステの日に弟子たちが祈ったように、私たちも熱心に聖霊を求めて祈らなければなりません。もしあの当時、彼らが聖霊降下を必要としていたとするならば、今日の私たちは更に大きな緊迫した必要に迫られているのではないでしょうか。
教会への証 1巻 258

要するに

神様が与えてくださっている恵みは十分であるが、その全てを受け取ってはいないということを感じた。本当にそうなのかどうかは分からないが今自分に与えられている光はそのように語っているように感じられる。何れにしても神様からの十分な恵みをすべて受け取れるよう祈り求めていきたい。特に聖霊様を受けることに関しては。

天沼教会2022年4月23日礼拝「思いもよらぬあかし人」東 清天沼教会副牧師

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