雨が上がって

このところ寒い日が続き、ついに暖房を使わないと過ごせなくなってしまった。脂肪を蓄え寒さに強い体ではあるがそれでも寒さに勝てない。天候も影響している。ずっと雨が降っているので過ごしにくい日が続いている。そのような中、午前9時過ぎに雨が病んだ。実際にはその後も断続的に降ったりやんだりを繰り返し完全にやんだのは15時ぐらいだったが、午前に晴れ間が出た際「虹」が出た。丁度患者さんを二人乗せているときだったが、すごく綺麗で間近に見えたので「見てください、虹です」と思わず言ってしまった。患者さんも「綺麗だね」と虹を見ていた。運転中だったので何もできなかったが、患者さんを病院に降ろし、直ぐに広い場所に移動して写真を撮ってみた。残念ながら、先ほど見た大きな虹ではなくなっていた。本当に大きく太い虹だった。

契約

虹は神様が人間に対して約束してくださったことの印であると聖書は言っている。

 

「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。 さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。 すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。 わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。 こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。 にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう」。 そして神はノアに言われた、「これがわたしと地にあるすべて肉なるものとの間に、わたしが立てた契約のしるしである」。」

創世記 9:11-17 口語訳

神様は必ず契約、約束を守ってくださる方である。その約束を人間が忘れないよう色々な印を与えてくださった。例えば割礼もその一つである。

人間とは全くレベルも質も違う神様が契約を交わしてくださりそれを忠実に守ってくださる事は衝撃であり驚きである。

もしかしたら

神様との対話の中で、色々な気づきが与えられている。先日、災いについて考えていた。何故神様は人間に災いが下ることを許すのか?火による「聖霊のバプテスマ」を通して品性を清めるためなのか。ではなぜ、「災いから遠ざけてください」と祈ったのに災いに直面するのか?

前述の通り、神様は約束を守り祈りを聞いていてくださる方である事は間違いない。ならば、神様は祈りに応えてちゃんと「災いを遠ざけてくださっている」のではないか。災いと思える事は、全て災いではないのではないか、そのようなことを考えていた。

ある牧師先生から聞いたのだが「変装して近づいてくる祝福」と言う言葉が気に入っている。「災い」としか思えないことが、実は変装している「祝福」であると言うのだ。にわかには信じられないがそうなのかも知れない。虹を見ながら、神様がどれほど良いことをしてくださっているかを考えることができた。

「この時代」に関するイエス様の警告
宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村

Back to the Bible

教会事情

自分の所属するキリスト教教団は日本ではかなり小さな集団である。信徒数はおよそ2万人程度。200万人に3人ぐらいの存在確率である。ひどく弱小集団である。

30年以上前にシンガポールやバリ、ジャカルタなどを旅行したことがあった。金曜日にシンガポールに到着したが翌日土曜日は安息日なので教会が無いか地図で探して見た。が、よく分からなかったのでホテルのフロントで聞いてみた。当時はまだインターネットなど普及していない。フロントの女性は少しお待ちくださいと言ってバックルームに行って調べてくれた。その後戻ってきて教会を教えてくれた。自分は「どこか教会があれば教えて欲しい」と聞いただけだったが、教えていただいた教会は3箇所ありその全てが土曜を安息日として礼拝するセブンスデー・アドベンチストの境界だった。教団の名前も言わなかったのに何故セブンスデー・アドベンチストの教会を調べてくれたのかと聞くと「金曜日に教会の場所を尋ねる人はセブンスデーの人ぐらいしかいない」とのことだった。「シンガポールではセブンスデー・アドベンチストは知られているのか?」と聞くとフロントの女性は笑顔で「勿論、ホテルの従業員にも沢山セブンスデーの信徒がいます」とのことだった。そして「ほら、彼女もセブンスデー」と言ってポーターのひとりを呼んでくれた。自分たちが教会を探していたので教えていたところだと話すと、ポーターの女性が「ちょうどよかった。明日はこの3箇所の教会は全てお休みです。合同礼拝がトレーディングセンターで行われるからそちらにきてね」と住所まで教えてくれた。「この住所をタクシー運転手に見せたら連れて言ってくれるはず。ホテルからは1000円ぐらいで行けるはずだと必ず言ってね」と教えてもらった。クリスチャンが珍しい日本とは全く事情が違う。信徒は勿論だが、信徒でない人もセブンスデー・アドベンチストのことをよく知っている。

日曜休業令

このセブンスデー・アドベンチストは聖書を字義通り信じ受け入れる教会なので、逆に周りの教会から変な目でみられることもある。例えば、礼拝を土曜日に行っているところもそうだ。聖書には安息日を週の終わりの日と定め、これは土曜日となっている。これを初代教会からずっと土曜日を安息日として守ってきたのだが、法王が教会に与えられた権威により礼拝日を安息日から日曜日に変更した。そして、カトリックの教えに反対しそれを是正しようと立ち上がった宗教改革者たちは是正ではなく分裂の道を取らざるを得なかった。その時に聖書主義を打ち立てたが何故か日曜日礼拝はそのままカトリック教会の習慣を引き継いでしまった。その結果現在の状態になってしまった。ヨハネの黙示録には次のように書かれている。

「また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、 この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。 ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。」
ヨハネの黙示録 13:16-18 口語訳

イエス様のご再臨に先立って救いに預かる人とそうでない人が印によってふるい分けされると書いてある。「神の印(いん)」を受けるか「獣の印(いん)」を受けるか二者択一である。中間、或いはどちらでもないという選択肢はない。神の印を受けるものは救われてご再臨の時に天に携えられるのだが、その前にこの地上で物の売り買いができなくなるという。何によってこのふるい分けが行われるかというと、礼拝日である。安息日(土曜日)に礼拝するか日曜日に礼拝するかで神の印か獣の印かが決まるという。これから、新世界秩序に織り込まれる「世界平和」の名の下に教会に行くことが強く推し進められる。勿論、この世界秩序の首謀者、中心人物は某国と法皇である。だから礼拝日は日曜日となり、この日にはいかなる仕事も休んで教会に行くことが求められる。これを「日曜休業令」という。今後この日曜休業令が発布されることは間違いないと信じている。自分のように日曜休業令に従えない者は自給自足などの手段で生きるべく山に逃げる必要がある。これが今後自分の人生に起こるシナリオである。

日曜休業令の否定

昨日、友人の牧師先生から電話をいただき聖書の話や祝福をいただいた証などをして盛り上がっていた。その中で牧師先生が「日本のセブンスデー・アドベンチストの中には日曜休業令など実際には起こらない、と思っている人も一定数いる」と仰っていた。「そうですか」と答えたが、内心とても驚いた。日曜休業令が無いと思っているセブンスデー・アドベンチストがいることはにわかには信じられなかった。

実際、教会の中には教理とは違った考えを持つ人もいる。実際自分の職場の院長先生もそうである。サタンはこの終わりの時代にあって何とか教会を混乱させ分裂させようと躍起になっている。勿論教団教派、或いは教理が人を救うのではなくあくまで救い主はイエス様だけである。が、教会の分裂は神様の望まれることでは決してないと信じている。

終末時代、信徒一人一人が心して聖書を読み、祈り真理を求めて行く必要があると痛感している。人からの情報、ネットのお手軽知識ではなく今こそ聖書に立ち返り真の神様に戻らなくてはいけない。友人との電話でそのように感じた。

『迫る日曜遵守令~教皇の人類救済計画~』

宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村

誰が偉いわけでもないのに

目次
  1. 偉い人

やはり痛みが激しく一向に改善傾向が無いと苦しみ続ける母。遠く離れて祈ることしかできないが、祈れば涙が流れてくる。何故この歳でまだ苦しまないといけないのだろう。自分のような心配をかける子どものことで心を痛めるだけで辛いのに、更に追い討ちをかけるように頭痛と眼底の痛み。今日は姉が病院に連れて行ってくれたはずだがまだ連絡がない。入院になったのだろうか?不安になる。

母のことをずっと祈りながら、今回帰省した際に何故か母が何度も口にしていた言葉を思い出した。「誰が偉いわけでもないのに」。これを何度も繰り返していた。私に対して「謙虚になりなさい」と言っていたのだろうか。「へりくだって周りの人と仲良くしなさい」と教えたかったのだろうか。

弟子たちはこの「誰が偉い」問題にいつも興味があったようだ。最後の晩餐の場面でもこのことが話題になった。確かに、重要な場面で何故かペテロ、ヤコブ、ヨハネの名前が登場することが多い。使徒たちの間でもやっかみのようなものがあったのだろうか。

「それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。

非常に重要な場面にいることを知っている後世の私たちには非常に滑稽なやりとりである。「そんな話題で論争して、今がどういう時かわかっていますか?」と言いたくなってしまう。しかしこの場面でイエス様は使徒たちを優しく諭すように、しかし率直に話された。

そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。 しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。 食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。 あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。 それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、 わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。

更にこれから自分を知らない、というペテロに対して事前に心に残る言葉を述べられる。

シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのためにz祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。」
ルカによる福音書 22:24-32 口語訳

偉い人

少し表現がおかしいが、「偉い人」というより自分にとって「格好良い人」はいる。もう20年ぐらい前のことである。この「格好良い人」を見かけたのは。

自分がまだ教員をしている時、6月と11月に保護者会が開催される。土曜、日曜の担任や舎監との面談や礼拝プログラム、各種コンサート、学習発表、などが行われる。金曜日夜から日曜日午後にかけて行われる足掛け3日のプログラムである。担任や舎監との面談を熱心にしてくださるが、やはりお目当ては数ヶ月ぶりに会う我が子。昔はそうでもなかったが徐々に生活水準の高い方が多く入学するようになり、それに伴って来校される保護者の車や服装なども変化してきた。アウディーやレクサスなどが珍しくないほどになってしまった。そのような中で土曜日の朝眠そうな目をこすりながら車から出てくるあるお父さんを見かけた。車も10年以上前のもの。長距離の運転ということでラフな格好をしていたのだと思うが丈が短く膝が抜けてしまったズボン。東京からの長距離運転で疲れ切っているはずなのに我が子に会える嬉しさが顔中に出ている。学校の学費は決して安くない。寮費、食費、授業料などすべてを合わせると月々13万円ほどになる。これを安いと見る人もいるが自分にはとんでもない額である。毎月これを支払うのは結構厳しい。2ヶ月に1台Mac Book Proが買える金額である。そんな出費を続けていたら自分の服など買えない。そんな膝が抜けて丈が短くなったズボンを履き続けるお父さんがとても輝いて格好良く見えたのだ。

偉い人と格好良い人、は同義語ではないと思う。しかし、どちらも「自分の死に、他者と神様を生かすために自分を捨てている人」であるように思う。

本当の意味で偉い人になりたい。

10月10日 第9回「歴史の中で働かれる神」 講師:天沼教会主任牧師 近藤光顕 『失われた世界とその回復の希望』

宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村

備え

地震

先週木曜日夜に千葉県北西部を震源とするM5.9の地震が発生した。携帯に通知がきたので急いで調べてみると実家も震度5とのこと。あとで父から聞いたが「地震は多いけど今回ばかりは家が倒れると思った」とのことだった。実家のことも気になりすぐに電話をしたが繋がらなかった。退院直後から痛みを訴える母の面倒を見ながら地震に遭遇し父の憔悴した様子で寝てしまったとのことだった。

同時に関東には多くの友人や卒業生が住んでいる。瞬間的に何人もの顔が思い浮かび、思いつくままとりあえずLINEやメールで大丈夫か尋ねてみた。冷静に考えれば、心配して多くの方から連絡があっただろう。それらにいちいち返信することすらままならない状況なのに、安否確認など余計なお世話だったのかも知れない。しかし、そこまで考えられず確認メールを送ってしまったが、次々に「大丈夫」との連絡が返ってきた。本当に安心した。卒業生といっても19歳から50歳を超える人まで年齢も様々だが、いつになっても気になって仕方ない。

返信

次々に返信されるメールを読み安堵すると同時に、中に3通全く同じ内容のメールがあった。年齢もバラバラだが内容ま全く同じだった。

「凄く揺れたので怖かったけど、すぐに再臨だと思った。そう思ったらとても嬉しい気持ちになって怖さが吹き飛んだ」

という内容。いよいよイエス様が来てくださったのだと思ったそうだ。この返信には本当に感動した。心の底から再臨を待望し、そのために準備している様子が伝わってきた。

以前にも書いたが、まだ教員をしていた頃の話。ある、足の不自由な男子生徒が入学してきた。系列の中学から進学してきたが、歩行には両手に杖を持たないといけないほどである。寮から校舎までゆっくり歩いても3分、少し走れば1分で着く距離だが彼はそこを5分かけて登校する。常に明るく前向きな生徒で多くの友人に囲まれていた。ある金曜日の夜、自分は数名の生徒と聖書研究をするために男子寮にいた。その時、広島では珍しくかなり大きな自信があった。その聖書研究会には足の不自由な彼もいたのだが、大揺れの最中「机の下に頭を入れて」と誘導する自分の言葉を無視するかのように、彼は両手の杖を投げ出して天井を見上げて嬉しそうにしていた。その表情が非常に印象的でいまでも記憶にはっきり残っている。しかし、その後地震がおさまると彼は大失望の表情で、先ほど投げ出した杖を取りに行った。彼にはイエス様が来られることと足が完全に癒されることは同じ意味でとても重要なことなのだとその時知った。そして彼がイエス様を心待ちにしていることを知り、涙が出そうになった。

そんな、イエス様を心待ちにしている卒業生がいる一方で自分はどうなのか?今はイエス様を心待ちにしているが、その動機はイエス様とお会いできること自体を待ち望んでいるのではなく、今の苦境から解放されることを待ち望んでいるように思える。情けない。

再臨

まもなく大きな白い雲が現れた。それはこれまでのどんなものよりも美しく見えた。その上に人の子が座っておられた。最初、われわれには、雲の上におられるイエスが見えなかったが、雲がだんだん地上に近づくにつれて、彼の麗しい姿を見ることができた。この雲が最初に現れた時、それは天における人の子のしるしであった。神のみ子の声が、眠っている聖徒たちを呼び起こし、輝かしい不死の衣を彼らに与えた。生きている聖徒たちは、一瞬の間に変えられ、彼らとともに雲の車の中へと引き上げられた。雲の車がのぼって行くのは、実に輝かしい光景であった。
エレン・ホワイト 初代文集 電子版P54,55

『失われた世界とその回復の希望』第7回「進化論と創造論(最後に愛は勝つ)」10月8日 講師:山本哲也

宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村

どこでもドア

青森に

先日、公園を散歩している時に30代ぐらいの男性に声を掛けられた。「この辺りにどこでもドアがあると聞いて来たみたが見つからない。どこにあるか知らないか?」とのことだった。そんなことが話題になっていることも知らなかった。そもそもどこでもドアなるものが何かも殆ど知らない。ドラえもんに出て来るアイテムであるという程度の知識しかない。どこにあるかは分からないことを伝えると男性は別を探してみると言って足早に去っていった。

気になったのでネットで調べてみると、8月に某ハンバーガーショップに設置されその後近隣の公園に移設されたとのこと。結構話題になっているらしい。

別にどうでも良い話題である。が、しばらくして先ほどの男性と再び会った。今いる公園内でどこでもドアを見つけたという。聞いてもいないのに詳しくその場所を教えてくれた。興味はなかったが折角教えていただいたので見に行ってみた。確かにあった。が、ネットで見たのはピンク色だったが今見ているのは黄色。誰かがフェイクをおいて行ったのだろうか?それもどうでも良いことである。が、ふと「本当にどこでもドアがあったらどこに行きたいか」を考えてみた。

突然の電話

1ヶ月ほど前になるが突然妻から電話があった。大体ろくな電話ではない。こちらが落ち込むようなことを一方的に言って突然電話を切るパターンが殆どなので、一瞬ためらったが祈りながら電話に出た。すると聞き覚えのある懐かしい声。次男だった。何が起こっているのか理解できないぐらい驚いた。1年ぶりに聴く次男の声。涙が出そうだった。1時間ほど喋ってしまったが話は尽きない。至福の時間だったがそれから何度となく次男が電話をしてくれるようになった。大体週に1度。しかし3回掛けてくれた週もあった。堰を切ったように話す次男が可愛らしくてたまらない。毎回電話の最後に一緒にお祈りするのだが、このままずっと電話が切れなければ良いのにと思う。

次男の悩み

次男と話しているうちに少し気になることがあった。やはり集団の中ではあまりうまく行っていないのかもしれない。次男は長い間入院生活をしていたのである面について遅れがある。歩くのも喋るのも遅かった。引っ込み思案で、体調の良いときは常に笑顔。本当に天使のような子であるが病状はなかなか好転せず時間ばかりが過ぎてしまった。病院よりも自宅で過ごせる時間が多くなって来たのは5歳になってから。それでも時々入院しなくてはならなかった。だから幼稚園も年長の途中で入れてもらった。友達と遊べずいつも先生が面倒を見てくださった。小学校に入学したものの、この頃から周りにからかわれることが増え「癇癪を起こす」ことが多くなって来た。今まで天使のようだった子が手がつけられないほどになってしまう。これには閉口した。教員である妻は自分が授業をしている最中に小学校の先生に呼び出され次男を迎えに行くこともよくあった。その頃よりも道理がわかるようになり、感情のコントロールも少しはできるようになって来ているがやはり友達にはからかわれたりいじめられたりするようだ。そんなことを次男が「少し恥ずかしいことだけど内緒でパパに教えるね」と教えてくれた。

この子が天使であること、最高の能力が神様から与えられていること、大切な大切な宝物であることを何度も言い聞かせた。泣きながら伝えた。そして一緒に祈った。

もしも、どこでもドアが実在するのならこのドアを開けてすぐに次男のところに行き息が止まるほど強くハグしてあげたい。「大丈夫、君は間違いなく天使だから。辛かったら学校なんていかなくても良いから、自信を失わず天使のままでいて」と言ってあげたい。

何でいじめるのだろう?何でからかうのだろう?

そんなことを思っているうちに、ふと自分も小学生時代友達をからかったことがあることを思い出した。小学生時代だけではない。大人になっても人をバカにしたり自分よりも劣る存在と見下したことがあることを思い出した。

自分の罪が子どもを苦しめている気がして余計に悲しくなった。

キリストの愛

バカにされ、罵られ、いじめられた代表選手は何と言ってもイエス様だと思う。

「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。

「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。

この様子を父なる神様はどのように見ていらしたのだろう。十字架の場面について父なる神様はその光景をみることができず、あたりが真っ暗になった。

苦痛と苦悩の中にあってもまだイエス様は

「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。

と言われた。

自分が次男に言ったことは、「悪口を言う人は心が寂しい人だから、同じように悪口を言ったり怒らないでその人から離れるか黙るかしなさい。絶対に相手を叩いてはいけません」と言うこと。自己防衛の手段を教えたが相手を愛することは教えていない。復讐することは良くないが、愛することは容認できない。イエス様の次元が違いすぎる愛。次男とダブらせて考えるとき、自然とイエス様に「申し訳ありません」と謝りたい気持ちになる。

どこでもドアがあれば…。

やはりイエス様のところに行きたい。

聖書研究ガイド21年4期2課 1080p

宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村

預言者の学校

理想の教育

もう15年以上前のことである。自分が務めていた学校は教会立であるがその教会の牧師と教員に配られる小冊子「牧羊(ぼくよう)」というものがある。その牧羊に原稿を書くように言われた。読むのは学識ある牧師先生や教員たちなので物怖じして一度は断ったのだがそれでもと言われ不承不承引き受けた。当時自分は教頭にもなっていなかったので、現場の一教員にすぎなかった。その立場で教育について投稿するのはあまりにもおこがましいと思ったのだが、「恥は我がもの、栄えは主のもの」の精神で無い知恵を絞って文章を書いた。

書いた内容な自分が理想とする教育環境、理想の学校についてであった。それは通称「預言者の学校」と言われるものである。聖書には「預言者の学校」という言葉は使われていないがサムエル記や列王記を読んでいると、明らかにこれは全寮制の学校であることが分かる。

現在リビングバイブルを用いて聖書通読をしているのだが、今日読んだところには何度も「預言者学校」という言葉が記されていた。とても懐かしい響きであり、自分が果たせなかった夢を思い出す。教員でいられたら、もしも神様がもう一度教育伝道者に召して下さるのであれば、などと「たら、れば」の想像ばかりしてしまう。懐かしい教育現場。

預言者の学校

エレンホワイトという人が書いた書物にこの預言者の学校についていくつも触れられているがその一部を紹介したい。

さらに、青年教育の施設として、預言者の学校が建てられた。もし、青年が、 神の言葉の真理をもっと深くさぐり、上からの知恵を求めて、イスラエルの教師 になろうと望むならば、彼らは、こうした学校に入ることができた。預言者の学 校は、腐敗が広がるのを防ぐ防壁としてサムエルが創立したもので、青年の道徳 的、霊的幸福に貢献し、指導者や助言者として、神をおそれて行動する資格のあ る人物を養成して、国家の将来の繁栄に資するためであった。サムエルは、この 目的を達成するために、神をおそれ、知的で勤勉な青年を多く集めた。彼らは預 言者の子と呼ばれた。彼らが神と交わり神の言葉と神のみわざを学んだ時に、彼 らの生来の賜物に天の知恵が加えられた。教師は、神の真理に良く通じているばかりでなくて、自分たち自身が神との交 わりを経験し、神の霊の特別な賜物を受けた人々であった。彼らは、学識と信仰 の両面において、人々の尊敬と信頼をかち得ていた。

こういう学校は、サムエルの時代に2つあって、1つは、預言者の故郷のラマ にあり、もう1つは、そのとき箱が置かれていたキリアテ・ヤリムにあった。そ の後、ほかにも学校が設立された。

学校の生徒は、土を耕すとか、あるいは何かの筋肉労働に従事して、自分で働いて 自活した。イスラエルにおいてこれは不思議でも卑しいことでもなかった。実際、 子供に有用な仕事を教えないで育てることは、罪悪であると思われていた。どの ような高い地位につくための教育を受ける子供であっても例外なく、すべての子供に、 何かの職業を教えることが、神の命令であった。宗教の教師のなかには、肉体労 働によって自給した者が多くあった。使徒時代に及んでも、パウロとアクラは、 天幕作りを職業として生計を立てたが、そのために卑しめられることはなかった。

学校の主要科目は、神の律法とモーセに与えられた教訓、神の民の歴史、聖楽、 詩歌などであった。その教授法は、現代の神学校の教授法とは非常に異なってい た。今日、多くの学生は、入学した時よりも、神と宗教的真理に関して真の知識 をもたずに神学校を卒業する。昔の預言者の学校では、神のみこころと神に対す る人間の義務を学ぶことが、すべての研究の大目的であった。神の民の歴史の記 録の中に、主の足跡をたどることができる。偉大な真理が型によって明らかに示 され、その全制度の中心目的が、世の罪を取り除く神の小羊であることを、彼ら は信仰によって悟ったのである。

人類のあけぼの電子版 p520,521

SDA甲府キリスト教会 安息日礼拝ライブ配信

宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村

御言葉にしがみついて生きる

命のパン

それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。
申命記8:3

イエスキリストがバプテスマを受けられた後、悪霊に引き回され悪魔の試みにあわれた時に聖書の言葉で対応された。特に40日間断食をした後、石をパンに変えてみたらどうだと悪魔からそそのかされた時に「人はパンだけで生きるのでは無い」と言われた。これは前述の申命記を引用された言葉である。

御言葉が食物と思ったことが殆どなかったのだが、今は「まさにその通り」だと痛感している。御言葉に飢え、言葉が与えられることを心待ちにしている。毎朝送られてくる聖句は正に自分を生かす糧である。聖書通読や聖書研究、また仕事の合間に書き溜めた聖句を必死に読みあさっている。一瞬でも御言葉から離れたらすぐに失望の気持ちが満ちてくる。

主が共に

聖書の言葉を生きる糧としていただいているが、「本当かな?」などと疑いの気持ちを持ってしまうことが間々ある。「私はあなたを捨てて孤児とはしない」とか「試錬と同時にそれに耐えられるように逃れの道も備えてくださる」などの言葉を読むと嬉しくて感動する一方「今までそうだったかな?必死に涙を流しながら祈ったのに助けてくれないときもあったような気がする」などと不信仰な気持ちになってしまうこともある。

御言葉に望みをおき、御言葉にしがみついて祈り続ける。これが今の自分の姿である。

「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。」
創世記 28:15 口語訳

この御言葉にしがみつきながら、もう少し生きてみよう。

2020年4月18日 SDA東京中央教会 無観客コンサート3

宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村

聖所

知らないことばかり

今、聖書の知識が乏しい自分に気付かされその分色々なことを知りたい知識欲にかられている。今日も教会でしばらく瞑想しているときに、ある非常に基本的なことに気づかされた。クリスチャンとしては当然知っておかなくてはならない初歩の初歩、ということだったのでそんなことも勘違いして信仰生活を送って来たことが恥ずかしくここではそれが何であったかも書くことも憚れる。

先日祈祷会にお越しになったYさんという方が話しておられたことを自分なりに考え聖書を開いているのだが、分かったようになっていたことが質問されることで十分な理解をしていないことに気づかされている。Yさんが質問されていたことの中心テーマは「人の救い」だった。「血」や「霊」、「魂」などいくつかのキーワードを挙げておられたが、自分はこの質問に対してYさんの聖書理解が進んでいることから「聖所の奥義」を通して人の救いを説明した。が、回答してしばらくすると自分の聖所に対する理解があやふやなのではないかと疑問を持つようになった。実際よく理解できていないところがある。なのでもう一度聖所について最初からきちんと調べ、学んでみようと思い始めたところである。

聖所

天にある「聖所」の雛形として地上に聖所を造るよう、神様はモーセに命じた。

そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。
(ヨハネの黙示録1:12,13)

出エジプト後、約束の地であるカナンに到着するまでの間にこの命令が下された。その寸法や造り方、それぞれの素材や祭具について間違いの無いよう細かい指示を与えた。また聖所で奉仕をする祭司の働きや装束などについても細かく言及している。

本来聖所の役割は

(1)神様が住まわれる
(2)人々の罪を清める
(3)神へのささげ物を収める

であった。

特に罪の清めという役割は非常に大きく、祭司の「日毎の奉仕」は罪の清めに関する儀式に従事することであった。ちなみにレビ記によれば祭司の「日毎の奉仕」は

(1)朝夕のささげ物
(2)七支の燭台の管理
(3)個人的なささげ物に関する儀式
(4)香の祭壇の管理

であった。

同様に年毎の奉仕は選ばれた大祭司しか行うことができずその内容は

(1)聖所、至聖所の部屋の清め
(2)神の民と祭司を清める
(3)アザゼルの山羊に罪を移す

まだまだ聖所の真理、奥義を理解できていないが不思議なことにそれらをずっと考えていると礼拝説教でヒントとなる聖句が与えられたり、聖書通読で読んだ箇所に答えが書いてある。聖霊様が求めるものに真理を与えようとしておられることがよく分かる。奥深いが探求する価値のあることだ。

2021年10月2日 「執事ステファノの殉教」 安息日礼拝LIVE配信

メッセージは16:40から

宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村

疑いは危険な種

ひたすら聖書を学ぶ

今日は仕事が休みだったのでいつものように部屋の片付けや選択などに時間を使い、その後聖書研究や聖書通読などをした。今日はあいにくの天気なのでいつものように自然界に出かけることができないため青森県立美術館にでも行こうと思っていた。9月いっぱいコロナのために休館しており10月に入った今日から再開だったので行こうと思ったが、何故か途中で気持ちが萎えてしまった。

行きたくない、と思ったのではない。美術館に行くよりもしなくてはならないことがあると思っただけだ。このところ聖書に関するいくつか調べたいことがあった。少し時間がかかりそうだったので休日にやろうと思っていたが、今日が絶好のチャンスだと思いずっと聖書を調べていた。まだ疑問が解消されたわけではないがいくつかの点について光が見えた気がした。

またしばらく前に中学時代の友人に誘ってもらいクリスマスの讃美歌をまたリモートで歌うことになっていた。数曲あるのだが近日中に最初の曲が締め切りになるので録画もしておこうと何度も撮り直しながら撮影した。

ということで家から一歩も出ずに過ごした1日だった。気づけばサンセット間近になっていた。

やはり自分は間違っている

自分の所属する教団では毎朝のディボーションに活用できる読み物が用意されている。バックナンバーだが自分の好きな言葉がたくさん収録されているものがありそれをデータ化しようと毎日取り組んでいる。今日、データにした部分を読みながら「あ、これは自分のことだ。やはり自分の信仰のもちから、信仰生活の歩み方は間違っている」と思わされた。毎日毎日抜け出せない不安や寂しさ。それを抱えながら神様に祈り求める。そんなことを繰り返しても一向に前進できるている気がしない。そのような状態で与えられた言葉だったので、とても心に響いた。

今日出会った言葉

絶えず疑いを口にし、信仰の雲を散らすためにさらなる証拠を求める者たちは御言葉に立脚していない。彼らの信仰は状況の上に置かれている。それは感情に基づいている。たとえ心地よいものであったとしても、感情は信仰ではない。私たちの天の希望は神の御言葉を基礎としていなければならない。

常習的に疑い、いつも自己に目と思いを向ける事は非常に不幸である。あなたが自己を眺め、自己を思いと会話の中心としているうちは、キリストの姿に変えられることを期待することができない。自己はあなたの救い主ではない。あなたは自分自身の内に贖いの資質を持たない。「自己」はあなたの信仰を乗せるにはあまりにも浸水しやすい船である。あなたがその船に信頼するのと同じ位確実に、それは沈没する。救命ボート、救命ボートに乗りなさい。それがあなたの唯一の安全である。イエスはこの救命ボートの船長であって、1人の乗客も失ったことがない。

手紙 11  1897年(今日の光 「天上で」20210409)

大いなる方に (Give Thanks) – Cover by Ruah Worship|ルア・ワーシップ
宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村

もう一つの大切なこと

幕屋建設

モーセ率いるイスラエルの民はそのまま進めば1ヶ月もしないうちに到着するであろう約束の地カナンに行くのに40年もかかった。その間、神様はイスラエルの民を教育し、この民族を通して異邦人にも神様の祝福をもたらすことを考えた。しかし、イスラエルの民は神様に対して不平を言ったり不従順であったり神様のご計画の通りには育たなかった。エジプトを出た第一世代の中ではヨシュア、カレブなど少数を除いて約束の地に入ることは許されなかった。そんなポンコツイスラエルだが素晴らしいと思える場面もいくつか存在する。自分が好きなのは幕屋建設の場面である。
幕屋建設には多くの職人と材料、費用が必要だった。それを集める場面だが、神様は心からのささげ物しか喜ばれないことをモーセを通して仰った。
「モーセはイスラエルの人々の全会衆に言った、「これは主が命じられたことである。 あなたがたの持ち物のうちから、主にささげる物を取りなさい。すべて、心から喜んでする者は、主にささげる物を持ってきなさい。すなわち金、銀、青銅。 青糸、紫糸、緋糸、亜麻糸、やぎの毛糸。 あかね染めの雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、 ともし油、注ぎ油と香ばしい薫香とのための香料、 縞めのう、エポデと胸当とにはめる宝石。 すべてあなたがたのうち、心に知恵ある者はきて、主の命じられたものをみな造りなさい。 すなわち幕屋、その天幕と、そのおおい、その鉤と、その枠、その横木、その柱と、その座、 箱と、そのさお、贖罪所、隔ての垂幕、 机と、そのさお、およびそのもろもろの器、供えのパン、 また、ともしびのための燭台と、その器、ともしび皿と、ともし油、 香の祭壇と、そのさお、注ぎ油、香ばしい薫香、幕屋の入口のとばり、 燔祭の祭壇およびその青銅の網、そのさおと、そのもろもろの器、洗盤と、その台、 庭のあげばり、その柱とその座、庭の門のとばり、 幕屋の釘、庭の釘およびそのひも、 聖所における務のための編物の服、すなわち祭司の務をなすための祭司アロンの聖なる服およびその子たちの服」。 イスラエルの人々の全会衆はモーセの前を去り、 すべて心に感じた者、すべて心から喜んでする者は、会見の幕屋の作業と、そのもろもろの奉仕と、聖なる服とのために、主にささげる物を携えてきた。 すなわち、すべて心から喜んでする男女は、鼻輪、耳輪、指輪、首飾り、およびすべての金の飾りを携えてきた。すべて金のささげ物を主にささげる者はそのようにした。 すべて青糸、紫糸、緋糸、亜麻糸、やぎの毛糸、あかね染めの雄羊の皮、じゅごんの皮を持っている者は、それを携えてきた。 すべて銀、青銅のささげ物をささげることのできる者は、それを主にささげる物として携えてきた。また、すべて組立ての工事に用いるアカシヤ材を持っている者は、それを携えてきた。 また、すべて心に知恵ある女たちは、その手をもって紡ぎ、その紡いだ青糸、紫糸、緋糸、亜麻糸を携えてきた。 すべて知恵があって、心に感じた女たちは、やぎの毛を紡いだ。 また、かしらたちは縞めのう、およびエポデと胸当にはめる宝石を携えてきた。 また、ともしびと、注ぎ油と、香ばしい薫香のための香料と、油とを携えてきた。 このようにイスラエルの人々は自発のささげ物を主に携えてきた。すなわち主がモーセによって、なせと命じられたすべての工作のために、物を携えてこようと、心から喜んでする男女はみな、そのようにした。」
‭‭出エジプト記‬ ‭35:4-29‬ ‭口語訳‬‬

この訴えに対してイスラエルの民は心からの捧げ物を携えて来た。奴隷生活から解放される際にエジプトから持って来たものだ。彼らは惜しげも無く心からささげた。結果、どうなったか。

「そこで、モーセはベザレルとアホリアブおよびすべて心に知恵ある者、すなわち、その心に主が知恵を授けられた者、またきて、その工事をなそうと心に望むすべての者を召し寄せた。 彼らは聖所の組立ての工事をするために、イスラエルの人々が携えてきたもろもろのささげ物を、モーセから受け取ったが、民はなおも朝ごとに、自発のささげ物を彼のもとに携えてきた。 そこで聖所のもろもろの工事をする賢い人々はみな、おのおのしていた工事をやめて、 モーセに言った「民があまりに多く携えて来るので、主がせよと命じられた組立ての工事には余ります」。 モーセは命令を発し、宿営中にふれさせて言った、「男も女も、もはや聖所のために、ささげ物をするに及ばない」。それで民は携えて来ることをやめた。 材料はすべての工事をするのにじゅうぶんで、かつ余るからである。」
‭‭出エジプト記‬ ‭36:2-7‬ ‭口語訳‬‬

多すぎるから、もう持ってこないようにと言われたのだ。ポンコツイスラエルも良いところがあるものだと感心する場面である。

教勢(きょうせい)

教会の人数や献金額、年毎のバプテスマ数などをまとめて教勢という。自分が所属する教団の教会員数は世界全体では2000万人超、日本では15000人ほどである。世界全体で見ると教勢が伸びている国も多くあるが日本だけを見たときにそれは確実に下降傾向にある。信徒数が減ることで教会に勢いがなくなり、関連する機関(学校、病院、食品事業、出版事業等々)も経済的には悪化の一途を辿っている。自分が働いていた学校も全盛期は中学生150名、高校生350名の大所帯だった。学校の規模からいえば大きいとは言えないが全寮制の学校としてはかなりの規模だった。しかし現在はこの1/3程度にまで落ち込んでしまった。よく「少子化」を理由にする人がいるが決してそうではない。少子化の現在も生徒を集める学校の勢いは凄まじい。また内々の情報ではあるがある一つの機関を丸ごと消滅させる方向もほぼ決まっているという。食品事業も縮小傾向。「時代にあったスタイル」を提唱する方が機関の方向性を決めているのだが、この方はなんでも縮小するのが最優先と考える。現状ではその判断は致し方ないところだろう。

しかし

教勢については再生をかけて多くの人が身を粉にして奔走し必死に頑張って来た。それでもダメだったのである。ただ、自分にはどうしてもまだ一つやり残していることがあるように思えてならない。イスラエルの民が祝福を受けたのがどのような時だったのか、士師の時代にイスラエルの民がどこで失敗し、どこで神様の助けをいただいたかは誰でも分かることである。その誰でも分かることをまだやっていない気がする。経済的に立て直すことの前に本気で信徒が取り組むべきことは一つだけだと思っている。
聖書研究ガイド21年4期1課

宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村