悔い改め

台風一過

61日早朝、またアラートが鳴り響いた。今回はミサイルではなく台風2号に起因する避難指示であった。最初に高齢者の避難指示が出された。身内に高齢者がいるためすぐに連絡をとって援助の有無を確かめた。幸い、県内の学校をはじめ多くの職場が休みになったため身内の高齢者にも同居の家族が付き添えるということが確認できたのでそれ以上のことはしなかった。次男も二日間学校が休みになるのでかなり機嫌が良かった。二日間休校になるということは土日が続くので四日間休みになるということ。子どもにとっては思いがけないゴールデンウィークになった。

 

 

 

 

子どもと遊びながらも一応避難の準備を始めた。またうるま市や南城市など県内の幾つかの市町村で停電していたので念のため電気がないとできないことを色々と済ませた。

無駄になっても構わないのでとりあえず停電になっても大丈夫と言えるだけの食事を準備した。また飲料水や寝袋、照明なども。久しぶりに自分が子どもの頃、台風のたびに畳をあげておにぎりをたくさん作って台風が過ぎるのを不安ながらも楽しく待ったことを思い出した。

1日夜、家族が眠った後も少し心配だったのでそのまま起きていた。夜中に台風が過ぎ去り全ての警報や避難指示が解除されたのを確認して眠りについた。

台風

今回の台風2号、発生当初は確か905hPaぐらいだったと記憶している。かつてそれほどの勢力を持った台風を経験したことがなく、更に沖縄に近づくにつれ発達するとの予報だったのでかなり絶望的な気持ちになった。こんな台風が沖縄本島を直撃したらどうなってしまうのだろう?とその被害を想像することもできなかった。

幸い、予想が外れ勢力は少しずつ衰え沖縄に長時間停滞するとのよみも外れ那覇に上陸した時には980hPa程度になっていたと思う。デイゴの花が咲く年は台風が多いと昔から言われているが、今年はその当たり年になる気がしてならない。

バビロン

毎日、何かの形で「バビロン」を思い起こす。聖書を読んで思い出すこともあればオンラインの礼拝メッセージを通して思い出すこともある。聖書研究ガイドなるテキストを通して意識することもある。

バビロン、あるいはノアの洪水後の「バベルの塔」を作った人々等に共通する精神があるという。それが「自己称揚」。自分こそが偉大であり自分の考えが世界で最も優れている。或いは優れている自分に神など不必要であるという精神。これがバビロンの根底にあるという。

自分の心を探ってみると確かにその精神が自分にもある。この精神を持っていることを悔い改めなくてはいけない。

悔い改めて安息日を迎えたい。沖縄から離れていった台風2号が各地に被害をもたらさないことを心から祈りたい。

三天使のメッセージ 第二天使 松田健牧師

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4人の天使

黙示録7章の考察

「この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。 また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、 「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。」

‭‭ヨハネの黙示録‬ ‭7‬:‭1‬-‭3‬ 口語訳

連日巨大地震の予測や注意喚起を促す報道を目にする。いよいよ色々なことが起こり世の中が終わることを示している。確かに絶望的な出来事が連日報道され枚挙にいとまが無い訳だが、それでも現在起きていることは最悪のことではないと聖書は教えている。四方の天使が世界を破滅に導く風を押しとどめていてくれている。全ての救われるべき魂の額に「神の印」が押されるまでこの4人の天使は頑張ってくれる。

Jアラート

今朝は少し寝坊してしまい朝6時に起きた。少しずつ目が覚めるのを待って聖書を読み始めるやイミングでJアラートが鳴った。3月まで生活していた青森でもJアラートは鳴った。北朝鮮からのミサイルだ。青森からずいぶん離れたと思ったが今度は沖縄でJアラート。北朝鮮としては一応予告していたようだが予告から間も無くミサイルを打ってきた。Jアラートが630分になり始めたがその後防災無線放送がずっとアナウンスしていた。残念ながらよく聞こえなかったので家から出て聞いてみると「北朝鮮からミサイルが発射されました。すぐに建物の中に入り窓から離れた場所にて安全を確保してください。」外に出ないと聞こえない放送が「家の中に入りなさい」というアナウンスだったので少しおかしかった。

結局7時過ぎに沖縄への着弾の可能性は無くなったと解除のJアラートが再度鳴った。

自分は戦争を経験していないので全く想像できないが、それでも今朝の騒然とした雰囲気や止まらない防災無線放送は両親から聞いていた「空襲警報」を連想させるものだった。

珍しく北朝鮮は今回のミサイル(衛星?)の打ち上げは失敗だった公表しているようだが極々近い将来2回目を行うとのこと。

4人の天使が働いている今

北朝鮮はまたミサイルを打って来るのだろう。しかし、今の沖縄はそれどころではない。台風2号の接近に備えている最中だ。しかも主要な物流が昨日から止まってしまいスーパーなどに食品が無くなる事態になっている。いつどこで巨大地震が起こるか分からない、そして台風の接近。更にミサイルなど本当にやめてほしい。沖縄にいると戦争がとても身近に感じられ恐ろしくなる。

今、最後の壊滅的な災害や戦争を押し留めるために4人の天使がその猛威が地球全体に及ばないように守ってくれている。それは地球が愛おしい星で少しでも長く存続するためではない。そこに住む全ての人々が額に神の印を押され永遠に神の国で生活できるようになるためである。

ノアの時代には「方舟に入りなさい」というメッセージが世に伝えられた。イエス様の時代には「悔い改めなさい」というメッセージ。エルサレム崩壊の際には「山に逃げなさい」というメッセージが語られ、このメッセージを信じて行動したクリスチャンは全員助かった。そして現代は「バビロンから逃れなさい」というメッセージが語られている。バビロン・・・。

バビロン

ヨハネがパトモス島にて黙示録のメッセージを受け取った時にはすでにバビロンは滅亡していた。だから逃れるバビロンは文字通りのバビロンではない。霊的な意味におけるバビロンである。

バビロンは異教の象徴、また人間の知恵の象徴でもある。プロテスタント教会は聖書のみを土台とする教理を掲げる。しかし、そこに幾つかの混ぜ物を残してしまった。

バビロンの中には多くの救われるべき魂があることも聖書は教えている。

バビロン、即ち反キリストの国でなければ、まるで神であるかのように教会に座って自らの教理と儀式で罪と滅亡を増幅させる罪の人、滅びの子は誰であろうか?数世紀に渡ってこれらの全ての条件は教皇権の横暴によって成就した。

マルチン・ルター  Martin Luther,First Principles, 196-197

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英断

バビロン

所属するキリスト教会の教団が発行する聖書研究ガイドを用いて聖書の学びをしていると大きな恵みをいただくことができる。今週はバビロンという古代都市とバビロンが象徴する性質について学んだ。

偽物は本物と見間違えるように作られている。某国の某通販サイトは驚くほど本物に似ている商品がたくさんある。憧れのMartin D-45の模造品は写真で見る限り本物と殆ど変わらない。150万円以上するものだが偽物は5万円程度で買える。もしかしたら使用している木材だけ考えても5万円の価値はあるのかもしれないがMartinというロゴが入った段階で正真正銘の偽物である。そう考えると、宗教の偽物も「あの宗教は危ない」と誰もが知っている団体ではないような気がする。偽物の宗教は、本物を自称する自分が所属する団体から派生するのではないかと思っている。全てが教団の教理と一致しておりライフスタイル、安息日、什一献金、聖所の理解など全てに矛盾がない。しかし、ほんの少しの自我、ほんの少しの混ぜ物が盛り込まれ礼拝の対象が神様から人間に変わっている、などということがないかを常に吟味しておく必要がある。

退職

昨日、ある方から電話があった。自分の親しい友人についてであった。彼が退職したという知らせだった。

退職した友人とは中学時代からの同級生で、今まで多くの時間を共有した仲間の一人である。二人とも釣り、アウトドアが好きなことから常に行動を共にすることが多かった。同じ職場で働くことも数回あり仕事の合間に釣りやキャンプに出かけていた。自分の離職をきっかけに彼とは少し疎遠になってしまったがそれでも心の友である。そんな彼が退職したと聞いて不安になった。病気なのか、ご家庭の事情なのか、組織の上層部と揉めたのか、色々な憶測が頭を駆け巡った。そういえば今日与えられた聖書の言葉があった。

「絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」

エペソ人への手紙 6:18 口語訳

余計な憶測をすることより彼のために祈る必要を感じた。

しばらくして、連絡があり彼の退職理由が分かった。彼は終末のこの時代に伝道することの必要性を痛感し「自給伝道」を始めるために退職したとのこと。大学生のお子様もいて経済的にも不安があったと思うが彼は退職を選んだ。中学3年生の時、毎朝5時から聖書研究会を同級生全員で行なっていたことを思い出した。あの時のスピリットがまだ生きていることを知り心が震えた。

そういえば、彼がある研修会に参加したのちに興奮気味に語ってくれたことがあった。

「パウロはテント職人として自給していた。勿論周囲の厚意も受けていただろうが基本的には自給していた。パウロから学ぶべきことはたくさんある」と熱く語っていたことを思い出す。

一歩を踏み出すことでひらかれる神様の道があるのだと思う。御託を並べてその一歩を踏み出せない自分が恥ずかしくなった。

祈りのノートに彼の名前を書き加えた。

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ただ神様のみ

地震

昼食の後片付けを終えて夕飯の仕込みをしている時に地震速報が入った。石川県能登地方を震源とする地震でマグニチュード6.3と発表されていた。その割に震度6強となっていたので驚いた。親戚と友人に福井、石川在住の方がいるのですぐに連絡をとってみた。金沢の友人は、震度4でかなり揺れたと返信してくれた。親戚宅も無事とのことでホッとしたがこの地震で亡くなった方もいらっしゃる。家屋の倒壊もあり今後被害の状況が明らかになっていくと思う。何より、今も余震が続いているのでこれ以上の被害が無いことを祈るばかりである。

不安

沖縄で発生した先日の地震以来巨大地震が沖縄で起こる気がしている。毎日不安で仕方ない。そんな気持ちで生活している矢先だったので今日の能登地方地震にはとても驚いた。

毎朝、高台に行って

「神様この那覇を、沖縄を憐んでください。まだイエス様を知らない方がここには沢山いらっしゃいます。全てあなたの愛する方々です。この地を憐んで、イエス様を認める人で溢れさせてください。そのために私を用いてください。」

と祈る。

今日の御言葉

「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」

‭‭ペテロの第一の手紙‬ ‭5‬:‭7‬ 口語訳

沖縄も間も無く安息日を迎える。全ての方が安息日の祝福に浴することができますように。

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イチジク桑の木

父の教会

姉から連絡があった。姉からの連絡はあまり良い知らせでないことが多い。家に戻ってみると父がいないとのことだった。姉夫婦は共に働いており日中は父が一人で姉夫婦の家で留守番をしている。週に3回、デイサービスを利用しているがそれ以外の日は庭を掃除したり近くの公園まで散歩に出かけ、あとは家の中で過ごしている。姉夫婦が家に戻って父がいない、などということは今まで一度もなかった。慎重派なので道に迷う経験を何度もしてから近くの公園以外には決して出かけなくなった。なのに、昨日は父が家におらず姉夫婦もかなり焦ったらしい。車で探しに出かけるもなかなか見つからず、自分に連絡してきた。しばらくしてから、荻窪の駅前でウロウロしている父を発見できたと再度連絡があった。

先日、父は何十年も通い慣れた原宿にある教会に数年ぶりに行った。姉たちが車で連れて行ってくれた。普段は天沼(荻窪)の教会に行っているが、母の逝去後挨拶にも行っていないので姉夫婦が父を連れて行ってくれた。久しぶりに会う顔が懐かしかったようでとても喜んでいたという。そこで、父はこれから姉たちの力を借りないで、毎週安息日に原宿の教会に行ってみようと思いたった。姉の家から荻窪駅まで徒歩だと15分ぐらいかかる。父ならその倍はかかる。しかも歩き切れるか怪しい。実はこの日、自力で歩けるかを試してみたようだ。人に道を聞きながら荻窪駅を目指して歩いていた父を思うと胸がつまる。母がいなくなり、本当に寂しくなってしまった父だが教会だけが唯一の支えになっているようだ。

イチジク桑の木

新約聖書、ルカによる福音書に「ザアカイ」という取税人が出てくる。ユダヤを支配していたローマに媚を売り入札制で取税の職を得ていたが、主に取り立てていたのは通行税。どうやら、ある一定金額をローマに支払う義務さえ果たせばそれ以上の金額についてはいくら儲けようが取税人に自由に任されていたようだ。ユダヤ人でありながら同胞から搾取してローマにお金を流し、便乗して自分の懐にもお金を入れる不届きものと散々嫌われていたこの取税人。まともなユダヤ人からは相手にされないので、同業者や遊女などユダヤ社会から排除されるような人とばかり関わっていた。そんな背景のあるザアカイも、往来の人々が噂しているイエス様について何となく聞いており興味を持っていた。満たされない心に反比例して増える富。無性に空虚な気持ちに支配されいつかイエスキリストなる人物に会ってみたいと思っていた。そんな矢先、ザアカイの近くにイエス様ご一行が現れた。背の低いザアカイはひとめイエス様を見たいと思ったが人々に視界が遮られイエス様をみることができなかった。ふとみると、一本のイチジク桑の木があった。イエスキリストなる人物と出会う唯一の手段であるイチジク桑の木に登ってみた。そして、イチジク桑の木でイエス様と出会う経験をした。ザアカイの人生はその時から全く変わってしまった。

人生のイチジク桑

ある教会で信徒による証の講演会がありその様子がYouTubeに紹介されていた。聴きながら、その迫力に圧倒され何度も再生をとめて涙を拭いた。ある方の証の中で、「自分にとってのイチジク桑の木はあのスキーでの怪我だ」おっしゃっていた。神様が先回りして全てを用意しておられる様子を伺い心の底から感動した。

イエス様は確かに今も生きて働いてくださっている。本当にありがたい。自分のイチジク桑の木を考えてみた。1本じゃない気がする。

【証5*小川勝一さん ~ わたしと神様との出会い】

 

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忠告

昨晩もあまり眠れず朝方3時過ぎに起きてしまった。疲れているし眠りたいのだが目が冴えている。少し聖書を読んでみた。眠くなることを期待したがそうはならなかった。いつも読んでいる聖書以外の書物に手を伸ばしてみた。が、やはり同じだった。

今読んだ聖書と書物に書いてあったことを思い返してみた。考えてみると同じことが書かれていた気がした。

キリストはペテロに、奉仕の条件をたった1つだけ言われた、「わたしを愛するか」。これが最も大切な資格である。ペテロに他のものが全部 備わっていたとしても、もしキリストを愛する愛がなければ、神の羊た ちを牧する忠実な羊飼いになることはできなかった。知識、博愛、雄弁、 熱情、これらすべてはよい働きに欠くことのできないものであるが、心 にキリストヘの愛がなければ、キリスト教の牧師の仕事は失敗である。

キリストヘの愛は気まぐれな感情ではなく、生きた原則であり、心の 中にある変わることのない力としてあらわれるものである。羊飼いの品 性と品行が、彼の主張する真理をよく示しているならば、主はその働き を承認する印を押して下さる。羊飼いと羊の群れは、キリストにある共 通の望みによって結ばれ、1つになる。

患難から栄光へ電子版p397 忠実な羊飼い

イエス様を心から愛することが求められている。そして今朝送られてきた聖書の御言葉にまたびっくり。

「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。」

申命記 6:5 口語訳

明らかに神様からの忠告である。神様に対する信頼を失い、神様以外のものを頼っていたことを気づかされた。

ペテロ

聖書を読んでいると、時々おかしくなるときがある。思わずツッコミを入れたくなる。特にツッコミたくなるのがペテロ。ペテロの発言に対して「お前が言うな!」とツッコミながら読んでしまうことがある。

イエス様が将来、犠牲の死を遂げることを弟子たちに話した時には「先生、そんなことを言ったらまずいですよ」とイエス様を諌めたペテロ。ある本によれば、このときペテロはイエス様ではなく自分の将来を案じてそのような発言をしたと説明されていた。イエス様の死を間近に控えている時でさえ自分のことを優先するペテロ。彼が、イエス様を知らないと言ってしまった後悔に押しつぶされそうになりユダのあとを追うことも頭によぎった。それでも、イエス様が自分に向けてくれたあの眼差しを忘れることができず自死を思いとどまった。もう、他の使徒の所には戻れないと思っていた時にもイエス様はペテロの落ち込みと自責の念を理解し「弟子たちとペテロに・・・」とペテロを名指しで指名してくださった。イエス様のもったいないほどの愛があったからペテロは立ち直れた。

戦列に復帰した時に、3度もイエス様から「わたしを愛するか」と問われた。3度目にはもう答えようがなくて「あなたがご存知です」と言った。

あなたはすべてを存知です

ペテロが言った

「主よ、あなたはすべてをご存知です。わたしがあなたを愛していることは、お分かりになっています」(ヨハネ21:17)

を勝手に解釈するならば

「イエス様、わたしはあなたを心から愛したいと思っています。しかしそれができなかったので自分がいかに愛のない人間かを自覚しています。イエス様を愛したいけど、『愛しています』などとはとてもじゃないけど言えません。わたしの心の全てをイエス様はご存知のはずです」

となる。

今日、忠告として与えられた神様を愛すること、それが自分にはできないことをよく知っている。それほどの愛情を持ちたいと願いながらいまだに手に入れることができない。

自己放棄と安全

ペテロは、自己放棄へと導かれて、完全に神の力により頼むようにな ったときはじめて、大牧者のもとで働く羊飼いとしての召しを受けた。 キリストは、ペテロがキリストを拒む前に、「あなたが立ち直ったときに は、兄弟たちを力づけてやりなさい」と、ペテロに言っておられた(ル カ 22:32)。このみことばは、この使徒がやがて、信仰に導かれる はずの人々のためになさねばならない、広範で効果的な働きのことを意 味していた。ペテロ自身の罪と苦しみと悔い改めの経験が、この働きの ために、彼を準備させたのであった。彼は自分の弱さを知るまで、キリ ストにより頼むことの必要を悟ることができなかった。誘惑の嵐のただ 中で彼は、人は自己を全く放棄して救い主により頼む時にはじめて、安 全に歩むことができるということを理解するようになっていた。

患難から栄光へ電子版p396 忠実な羊飼い

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慈悲深い保護者

生きているよりは・・・

誰でも時には、激しい失望と絶望に陥る時があって、心は悲しみに満たされ、神が今でも地上の子供たちの慈悲深い保護者であられることを信じ難い日々があるものである。心は悩みにさいなまれて、生きているよりは死んだほうがましだと思われる時がある。そうした時に多くの者は、神に対する信頼を失って、疑いと不信の奴隷になるのである。そのような時に、もしわれわれが霊的洞察力をもって、神の摂理の意味を悟ることができたならば、天使たちがわれわれを助けて、われわれの足を永遠の山よりも堅い基礎の上におこうと努めているのを見ることができるであろう。そして、新しい信仰と新しい生命がわき上がることであろ う。忠実なヨブは、苦難と暗黒の時にも、次のように言った。

「わたしの生れた日は滅びうせよ。」 「どうかわたしの憤りが正しく量られ、

同時にわたしの災も、はかりにかけられるように。」 「どうかわたしの求めるものが獲られるように。

どうか神がわたしの望むものをくださるように。 どうか神がわたしを打ち滅ぼすことをよしとし、 み手を伸べてわたしを断たれるように。 そうすれば、わたしはなお慰めを得」る。

「それゆえ、わたしはわが口をおさえず、 わたしの霊のもだえによって語り、 わたしの魂の苦しさによって嘆く。」

「わたしは息の止まることを願い・・・・、 わたしは命をいとう。 わたしは長く生きることを望まない。 わたしに構わないでください。 わたしの日は息にすぎないのだから。」(ヨブ 3:3、6:2、8―10、7:11、15、16)
国と指導者電子版 p102 砂漠へ逃れる預言者

今日の御言葉

望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。 

ローマ人への手紙 12:12 口語訳

「しかし、教会では祈りがささげられていた」伊藤滋牧師 2021年11月27

 

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栄光にかえてくださる

パウロの経験

パウロの経験した裁判、弁明、そして投獄、軟禁生活が福音宣教、拡大になくてはならないものだったことを書物から教えられた。

パウロのこの経験の中に、われわれのための教訓がある。それは神の働かれる方法を示しているからである。主は、われわれには失敗であり 敗北だと思われることから、勝利をもたらすことがおできになる。われわれは、神を忘れ、見えないものを信仰の眼で見上げることをせず、目 に見えるものを見つめるという危険がある。不幸や災難に見舞われると、 すぐさま神は無視しておられるとか残酷だと言って神をとがめる。神が、 ある方面でのわれわれの有用さを断ち切ることが好ましいとお考えにな ることがあるが、われわれは、こうして神がわれわれの益となるよう働 いておられることを考えてみもせずに嘆く。われわれは、こらしめが神の偉大なご計画の一部であり、苦悩のむちを受けてクリスチャンは、時には活発な奉仕に携わっている時よりももっと、主のために多くの事をすることができるということを学ぶ必要がある。

患難から栄光へ電子版p369ローマからの手紙

生きているのはもはや

どうでも良い、という投げやりな意味ではなく積極的な意味で「自分自身はどうでも良い」と最近思うようになった。自分の意思や感情も神様が与えてくださったものなら大切にしないといけないが、素の自分から出ているのであればそんなものはどうでも良い。今は自分の体と思いの全てを使ってイエス様が生きてくださることを願っている。なかなかうまくはいかないが、でもそうありたいと願っている。

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 

ガラテヤ人への手紙2:20

「わたしの記念としてこのように行いなさい」安息日礼拝説教2021年9月25日伊藤滋牧師

 

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ふりだし

このまま春に

三寒四温と言うが雪の多い津軽地方も比較穏やかな天気が続いていた。このまま春になったら良いな、と思いながら過ごしていたが昨日から降り続いた大雪でまたふりだしに戻ってしまった印象がある。それでも昨日は雪の壁を取り除く作業もしていただき、かなり視野もひらけて運転も安心してできる状態になっていた。が、今回の大雪で車が動かせないような状況になってしまった。

自分は前輪駆動の車に乗っているが、津軽平野のごく限られた地域で必要最小限の生活をするには四輪駆動じゃなくてもほぼ大丈夫だと思っている。365日のうち四輪駆動が絶対に必要なのは10日ぐらいだと思う。それ以外はFFでも大丈夫だと思っているが、今日はその10日のうちの1日だと思った。

春になった頃

3月の予定を考えていたが、有休消化を考えると最終出勤は3月7日となる。そして3月23日には津軽を出ようと思っている。母の納骨があるのでどうしても25日には東京にいないといけない。2年間の津軽生活。やっと雪がとけて春の訪れを感じられるようになった頃、自分はここにいないことを考えると少し寂しい気持ちにもなっている。何の役にも立たない存在だったが、役に立たないなりに職場に残る仲間のことが気になる。生意気でまったく失礼な表現だが「大丈夫かな?」と不安になる。これから修繕箇所が出てきたときには誰が対応するのだろうか。ネットが繋がらなくなった時の対応は誰がやってくれるのかな。本当はもっと自分がやるべきだったのかも知れないが災害時、非常時の備えも十分ではない。気になっている修繕箇所もいくつかあるが金額との折り合いがつかずそのまま手付かずになっている。でも、全てを神様にお委ねしていくしかないとも思っている。

パウロ

今読んでいる本で、パウロが少し悩む場面がでてきた。まだ途中までしか読んでいないが、あのパウロが自分の手紙で信徒を傷つけたりあらぬ誤解を生むことはないだろうかと心配している。

パウロは、手紙を送り出したあとで、自分の書いたことが、自分が助けたいと望んでいるその人々に、深い傷を負わせ過ぎたのではないかと恐れた。彼は、人々が彼から更に離反することを非常に憂慮し、言ったことを取り消したいとさえ思った。パウロと同様、愛する教会や伝道機関に対する責任を感じている人々が、彼の精神的苦悩と自責の念を最もよく理解することができる。この時代に対する神の働きの重荷を負う神のしもべたちは、大いなる使徒が負わなければならなかったのと同様の労苦、葛藤、心労の経験の幾分かを知っている。パウロは、教会の分裂の重荷をかかえ、また、自分が同情と支持を求 めた人々の忘恩と裏切りに心を痛め、罪をはらむ教会の危機に気づいて、率直、厳重な罪の譴責をしなければならなかったが、同時に、自分は事を処するのに、厳し過ぎはしなかっただろうかという危惧の念が、心に のしかかった。彼は、自分の手紙が、どのように受け入れられたかとい うことについての知らせを、心配しながら待ちわびていた。
患難から栄光へ電子版p244 245競争に勝ち抜くために

すべては神様のご計画のようになる。人がどれだけ心配したり思惑を持って何かをしたとしても最終的に神様のご計画通りになる。いつでも神様を信頼して歩む信仰者でありたい。

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土台

家が壊れる

また今日も隣国からのミサイル。地震やそれに伴う自然災害を不安に思う昨今、建物の強度や脆弱性などがとても気になる。耐震検査は合格していても津波が来たらどうなるのか、河川の氾濫に耐えられるのか等々気になることばかりである。非常時の電源はどうするのか、水や食料の備蓄は…。備えておかなくてはならない問題が山積している。住んでいる土地柄、またこの季節なので住むところを失った場合のことが気になって仕方ない。今自分が備えている装備で、夜間に家を失ったら寒さを耐え忍ぶことができるだろうか。家が倒壊することを考えると恐ろしくなる。

支えを失う

物理的に家が倒れることも大問題であるが、人生の拠り所としているものを失った場合も大事に至る。例えば父親の収入だけに依存している家族があったとする。この家族は父親を拠り所にし、父親は職場を支えにしている。ならば職場はどこに依存しているのか。取引先や顧客に依存しているのかも知れない。ひとつの拠り所が何十人、何百人、何千人を支えていることが間々ある。だから拠り所、いわゆる土台となる拠点の責任は大きい。ひとつの発言や判断が大勢を路頭に迷わせてしまうこともあり得る。

確実性

何を拠り所、土台にするかは非常に重要な問題である。自分自身その重要性を痛感している。今の時代、確実なものなどほとんどない気がする。大手だと思っていた企業が左前になって倒産や吸収合併される事例はたくさんある。何を土台にするか、特に人生の土台として何を選択するかは非常に重要な問題だと思う。

それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。マタイによる福音書7:24,25

彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。
ヘブル人への手紙11:10

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