価値3

いじめ

先日、送迎の時によく通るある駅のことを患者さんから聞いた。その駅のホームで電車に飛び込む中学2年生の女子生徒さんのことを。その後すぐにそのいじめについてネットのニュースを色々と調べてみた。

県別のいじめ件数(生徒、児童1000人あたりの発生件数)のランキングが色々なサイトにあることを知った。サイトによって異なる順位が目立ち一貫性がない事は一目瞭然だったが、順位の入れ替えはあるにせよワースト10位までの県についてはほとんどのデータが同じ10県を挙げていた。青森県はその10位には入っていなかったが、発生件数としては結構多い印象を持ち、更にSOSのサインを見逃したり?、正当な対応ができていなかったために若い命が失われる結果になっていることに気づいた。都市部で同じ対応をしたらそれこそ学校は存続できなくなるくらいのミスを犯していても、それが罷り通ってしまうところが地方の怖いところか。

教頭だった頃、毎月いじめに関する報告書を教育委員会に提出する義務があった。生徒指導部も兼務していたため、自分の記録をみれば直ぐにかける資料ではあるが、それでも報告書は30ページ近くありかなり事細かに報告する義務がある。発生に関する報告のほかその件をどのように解決したか、第三者を交えた指導をしたか等、事案一件について詳しく回答する義務がある。自分はかなり、と言うか正直に全てを回答していたが煩雑で手間のかかる作業なので学校によってはいじめが発生していても「発生なし」としている例も多いのではないかと推測する。

泣きながら何度も後ろを振り返って

自分がよく通る駅で起きた件について、ネットの情報を紹介したい。

2016年8月25日午前10時ごろ、青森県藤崎町のJR奥羽線北常盤駅で、線路上にいた青森市立浪岡中学校2年の葛西りまさん(13)が普通電車にはねられ、全身を強く打って死亡した。県警はほぼ自殺と断定した。りまさんが線路上に飛び降りたとの目撃情報がある。

 学校によると、りまさんは24日に登校し、始業式に出て、その後の授業を受けた。斎藤実校長は取材に「現在は(いじめの有無を含め)何も分かっていない」と話した。
 学校は29日、全校集会でりまさんの死亡を報告し、1分間黙祷した。

 その後の調べで、りまさんがスマートフォンに『遺書』という書き出しで「ストレスでもう生きて行けそうにないです」「二度といじめたりしないでください」と書き残していたことが明らかになった。

 遺書にはいじめられたとする複数の生徒の実名も挙げられており、家族への感謝とともに、「家族へ、先立つ不孝を許してください。もう無理です」と書かれていた。りまさんが遺書を書き保存状態にしたのは25日午前8時34分で、その1時間半後に奥羽線北常盤駅の線路上で進入してきた電車にはねられた。この日は2学期の始業式の翌日だった。

 また、同じ青森県内ではこの6日前の19日にもいじめ自殺が発生している(青森県東北町・町立上北中学校いじめ自殺)。

りまさんは1年の1学期に学年生徒会の会長を務めた。入学当初はバレーボール部で、途中で美術工芸部に移った。津軽民謡に合わせて踊る「手踊り」の学外チームにも所属し、自殺した2日後の27日には東京での全国大会に出場予定だった。

 りまさんは遺書の中で、「手踊り」の学外チームに向けて「東京いって全国でまた皆で優勝したかったけど、行けなくてごめんなさい。だから7人で、優勝してください」とのメッセージも残した。同チームは27日の全国大会で優勝した。

 チームの動揺を避けたい遺族の意向で、東京に行ったメンバーにはりまさんが参加できなくなった理由は伝えなかった。死亡が伝えられたのは優勝し、青森に帰るバスの車内。メンバーは29日早朝、りまさんの自宅を訪れて優勝を報告し、生徒の名前入りの賞状を父親に手渡した。

 遺族によると、りまさんは亡くなる前日の24日も伝統芸能の全国大会に向けて夜9時ごろまで「津軽手踊り」の練習をしていた。三味線を担当する祖父が「頑張れよ」と声をかけると、「うん」という返事があった。

 翌25日朝、りまさんは「具合が悪い」と訴え、両親が出勤後も1人自宅に残った。

同級生の話では、りまさんは入学間もない2015年6月ごろから教室にいる時や体育の授業中に、無視されたり暴言を吐かれたりしていた。生徒の一人が「明日からいじめよう」と言い出したのがきっかけだったという。

 翌日以降、無視や仲間外れが始まり、学校で同級生や同じ部活の生徒から「死ね」「きもい」「ブス」と言われたり、机を蹴られたりするようになった。無料通信アプリ「LINE(ライン)」でも、複数の生徒から毎日のように「頼むから死んでくれ」「目障り」などの言葉が送られた。また、事実と異なるうわさが流され、多くの人を介して瞬く間に拡散された。

 同6月ごろ、「LINE」を介した中傷が発覚し、父親が担任に相談していた。中傷される理由について、りまさんは「わからない」と話していたという。学校が対応し、いったん嫌がらせはなくなった。

 2015年秋ごろからは朝起きられなくなり、ストレスによる「起立性低血圧」と診断された。3学期ごろからは、週に数回しか学校に来なくなったという。

 2年進級時のクラス替えでも配慮がなされ、りまさんは「大丈夫」と話すようになったという。しかし、2016年6月にも、事実と異なる噂が再び「LINE」で流され拡散された。りまさんは友人に「もう学校に行けない」と話し、ショックで2週間ほど休んだ。「死にたい」と口にして自殺の方法を調べたこともあったという。父親は取材に「今年5月に転校を検討したが、断念した。ネットで娘の悪口やうわさが転校先にも伝われば、逃げ場がないと感じた」と明かしている。

 自殺前日にもりまさんは「LINE」で新たな噂が発信されていることを知らされていた。始業式があった8月24日、学校で友人から「ラインでまた流されている」と聞き、別の友人に相談した。「誰が流したのか」と憤り、ショックを受けた様子だったという。翌日、線路に飛び込んで自殺した。

 29日夜、報道陣の取材に応じた父親は「いじめた生徒は大変なことをしたということを深く反省してほしい」と肩を落として語った。

 遺書は29日、遺族により一部が公開された。

 以下に掲載する遺書は、公開された画像を文字に起こしたもの。○○は黒塗りにされている部分で、氏名が非公開であった頃に公表されたため、文中の氏名と思われる部分は伏せられているが、そのままとした。

遺書

 突然でごめんなさい。ストレスでもう生きていけそうにないです。
○○が弱いのは自分自身でも分かってるし、○○が悪いところもあったのは知ってるけど、流石にもう耐えられません。〈「手踊り」の学外チームに向けて〉東京いって全国でまた皆で優勝したかったけど、行けなくてごめんなさい。だから7人で、優勝してください。○○も頑張ってね。
 学校生活も散々だし、それでストレスたまって起立性なったのに、仮病とかいう人が沢山いて、説明しても、あまり信じてくれなかった。1、2年の時で○○の噂流したりそれを信じたりいじめてきたやつら、自分でわかると思います。もう、二度といじめたりしないでください。〈以下、11行近い黒塗り〉
 家族へ。先立つ不幸を許してください。もう無理です。特別虐待があったわけでもない〈中略〉いないかも知れないけど、○○と手踊りの子達には何とか来て欲しいです。文章めちゃくちゃでごめんなさい。
 みんなに迷惑かけるし、悲しむ人も居ないかもしれないくらい生きる価値本当にないし、綺麗な死に方すらできないけど、楽しい時もありました。本当に13年間ありがとうございました。いつか、来世ででも○○が幸せな生活をおくれる人になれるまで、さようなら。
 また、会おうね。
2016年8月25日木曜日
○○○○

北常盤駅ホームに設置された防犯カメラの映像には、泣きながら何度も後ろを振り返る女子中学生の姿が記録されていたと言う。この場面を想像しただけで涙がこぼれてくる。

誰の心にも

ネット上にはこの件に関する色々な情報が錯綜している。その中でも結構多いのがこの女子中学生をいじめたとする「加害者」を名指しで公表したり、YouTubeには加害者とされる人たちの顔写真まで公開されている。この事件を教えてくれた患者さんの話では、加害者とされる数名の家族が地元にいられなくなり街を出たと言う。被害にあった女子中学生に対するシンパシーが、「加害生徒に対して何をしても構わない」と言う発想に繋がって行くのかもしれない。同情しながら、実は人間には皆同じ潜在的な悪の心があることを痛感させられる。

学校なんて

教育現場にいた者として、教育者の端くれとして「学校の大切さ」を十分理解している。学校は多くのことを教えてくれる社会の縮図であり品性構築についてこの上ない機会を提供してくれる場である。その学校の価値を認めた上で、敢えて言うならば「学校は人に誤った裁きをし、序列(中高生の言葉を使うならばカースト)を決め、人を傷つける場」でもある。だから自分は学校は命をかけて行くようなところではないとはっきり言える。実際、いじめを受けている我が子(次男)に対しても「心が疲れている時は、ママに言って必ず学校を休みなさい。どうしても行きたくなければやめても大丈夫」と言い聞かせている。

真の教育を知らない教員が「教育ごっこ」をしている学校ほど怖いところはない。また、心の満足度が低ければ低いほど、人をいじめたり貶すことで優越感を得、集団を支配下に置こうとする生徒が多くなる。偏差値で学校を選んではいけない理由がこれである。心が豊かな人たちに囲まれることが大切なのだ。

「油断することなく、あなたの心を守れ、 命の泉は、これから流れ出るからである。」
箴言 4:23 口語訳

【和訳】いじめ反対をラップで歌ったバーズ&メロディの予選 | BGT 2014

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洞爺丸

2014年4月16日に起きた海難事故、セウォル号の沈没は記憶に新しい。修学旅行中だった多くの青年たちを含む299名と捜索作業員8名の尊い命が奪われ、行方不明5名を出す痛ましい海難事故となった。逃げられない空間に水が入ってくる恐怖を考えただけで卒倒しそうになる。航空機、鉄道そして船の事故はこれまでも幾度となく起こってきた。

自分が生まれる前のこと、青函連絡船の「洞爺丸」が転覆・沈没した。自分がこの事故を知ったのは三浦綾子さんの小説を読んだときだった。その時は実話なのか小説なのかよくわからなかったが後に実話であることを知り衝撃を受けた。

洞爺丸台風と被害

台風15号は、1054年9月18日にカロリン諸島付近で熱帯低気圧として発生し、21日には台風となったが、すぐに勢力が衰えた。

ところが、23日には台風に復活、23日9時には中心気圧992ミリバール(mb、現在のヘクトパスカルに同じ)、24日9時990ミリバール、25日9時には975ミリバールと次第に発達しながら台湾の南東海上で転向、急激に加速しながら北東に進み、9月26日未明に鹿児島県大隅半島に上陸、このときの勢力は中心気圧965ミリバール、最大風速40メートルであった。

時速75キロから80キロで九州を斜走。上陸後以降に勢力を増し、朝には中国地方から日本海に出てさらに時速110キロという異例の速さに加速しながら北東から北北東に進んだ。風速20m以上の暴風圏は26日段階で九州から北海道まで日本全土に広がった。

9月26日9時には964ミリバール、15時には960ミリバール、北海道西岸に達した21時には956ミリバールとなっている。その後、北海道からオホーツク海を進み、9月28日9時にカムチャツカ半島付近で温帯低気圧に変わったが、通常の場合、海水温が低下した9月末の日本海で台風が発達することはほとんど考えられないため、実際には、台風が九州に上陸する9月26日3時頃から温帯低気圧に性質を変えていた(いわゆる「爆弾低気圧」と呼ばれる状態になっていた)と見られる。

北海道に接近した頃に最盛期を迎え、同時に一時的に速度を時速40キロ以下に落としたため、北海道を中心とする北日本では猛烈な暴風による被害が大きかった。すなわち、最大風速は寿都で42.0メートル(最大瞬間風速53.2メートル)、室蘭で37.2メートル(55.0メートル)、留萌で35.2メートル(45.8メートル)に達したほか、各地で30メートル以上となった。

転覆した洞爺丸

そのため、家屋の全半壊や倒木などの風害が顕著だった。岩内町では火鉢の飛び火が原因による大火(岩内大火)で、3000戸あまりが焼失。森林が受けた風害はすさまじく、支笏湖周辺などでは全山の大木が根こそぎ倒された。かつてはほぼ全土が原生林に覆われていた北海道だが、明治以来の開拓と木材生産、そしてこの台風により、かつての威容は失われたと言われるほどである。また、青函連絡船洞爺丸の遭難では1,139名の犠牲者が出た。これは1912年の北大西洋における「タイタニック号」、1865年のミシシッピ川での「サルタナ号」の事故に次ぎ、戦争による撃沈を除けば世界海難史上3番目の犠牲者数であった(このことが、のちの青函トンネル建設のきっかけとなった)。洞爺丸以外にも青函連絡船の4隻が沈没し、多数の犠牲者を出しているほか、9月26日には、海難救助にあたっていた海上保安庁のはつなみ型巡視艇「うらなみ」が二次遭難している(乗員は全員救助)。また台風が通過した西日本でも大きな被害が出ている。
(参考、引用wikipedia)

3人の宣教師

洞爺丸には3人の宣教師が乗船していた。

ディーン・リーパー (YMCA)、アルフレッド・ストーン(メソジスト)、ドナルド・オース(メソジスト)の3名である。リーパー師は嵐の中で怖がる乗客、特に子どもたちを手品で和ませていた、と記録されている。彼らは自分たちの救命胴衣を日本人の子どもに譲った。オース師は奇跡的に助かり他の二人のエピソードを後世に語り伝えた。

(以下https://morishita.merry-goround.com/blog/toyamaru-2/より抜粋)
リーパー宣教師は恐怖におびえる乗客に、やさしく語りかけ、自慢の手品を披露、あざやかな手さばきに、子どもも大人も大喜び。一時船室に落ち着きがもどりますが、やがて船は大きく傾き、船室に水が流れこみます。リーパー宣教師は、たまたま同乗していたストーン宣教師、オース宣教師と力をあわせ、悲鳴の渦のなかで逃げまどう乗客に救命具を配り、着用に手間取る子どもや女性を助けました。ストーン宣教師は、救命具のない学生を見つけ「あなたの前途は長いから」といって救命具をゆずりました。リーパー宣教師は女性や子どもたちに救命具を着せてやり、最後まで励ましの言葉をかけ続けたと伝えられています。

 ディーン・リーパー宣教師の長男スティーブンは、やがて広島で平和運動の働きに従事し、長女リンダは『氷点』に父親のエピソードが書かれたことに感謝し、三浦綾子さんを訪ね、綾子さんもその時のことをエッセイ集『泉への招待』所収の「ミス・リーパーの来訪」に書いています。

 

ふいに近くで女の泣声がした。胃けいれんの女だった。
   「ドーシマシタ?」
   宣教師の声は落ちついていた。救命具のひもが切れたと女が泣いた。
   「ソレハコマリマシタネ。ワタシノヲアゲマス」
   宣教師は救命具をはずしながら、続けていった。
   「アナタハ、ワタシヨリワカイ。ニッポンハワカイヒトガ、ツクリアゲルノデス」

ちなみにこの事故の1ヶ月前にこの航路を使った昭和天皇がこの事故の報を受け和歌を詠んだ。

その知らせ 悲しく聞きて わざはひを ふせぐその道 疾くとこそ祈れ

【ゆっくり解説】裏返しになった船から出られない……史上最悪の海難事故「洞爺丸事故」
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コルベ神父

中学生の頃だったか、校内のキリスト教プログラムで「コルベ神父の生涯」を描いた映画を観せてもらった。アウシュビッツにおいて脱走した者がおり、収容所の決まり(連帯責任)により10名の身代わりが無作為に指名され死刑になった。刑務官が「お前」「お前」とゲームでもするかのように身代わりとなる人を指差すシーンが強烈で今でもそのシーンが頭に残っている。

コルベ神父とは

マキシミリアノ・マリア・コルベ神父(出生名ライムンド・コルベ・Rajmund Kolbe)は、1894年1月8日に当時ロシア帝国の衛星国であったポーランドのズドゥニスカ・ヴォラで、織物職人であるユリオ・コルベとマリア・ドンブロフスカの5人兄弟の次男として生まれた。

父のユリオ・コルベは、在俗フランシスコ会のリーダーであった。愛国心に富んだ彼は、第一次世界大戦中にポーランド独立のための義勇軍に参加し、ロシア軍に捕らえられ、1914年に処刑されている。母のマリア・ドンブロフスカは、結婚前は修道生活を志したことがあったが、帝政ロシアの統治下にあった地域ではカトリックの修道院は許されていなかったため、修道生活は不可能であった。

1907年に兄と共にコンベンツァル聖フランシスコ修道会に入会。

1910年、彼は修練院に入ることを許され、翌年の1911年に初誓願をたて、マキシミリアンの名前を与えられた。後の1914年にローマで聖母マリアの崇敬を示すために、さらにマリアの名前を取って、マキシミリアノ・マリアとした。

1917年10月16日に、6人の志願者と共に神学校聖堂の汚れなき聖母の祭壇の前で聖母へ奉献を行い、「汚れなき聖母の騎士会」を創立した。クラクフにある大神学校の教会史の教授として3年間勤めたが、ローマで感染した結核のため1920年8月から1921年4月まで保養地のザコパネで療養生活を送っている。

その後、出版による布教活動を志したコルベ神父は1922年に初めて『無原罪の聖母の騎士』(Rycerz Niepokalanej)を執筆し出版した。部数は5,000部で、執筆者は神父一人であった。 同年にグロドノの修道院に移り、当地での出版活動を開始した。この頃には、コルベ神父と共に後に日本に宣教に来ることになるゼノ・ゼブロフスキー修道士と出会っている。

コルベ神父を含む5人の宣教師は、1930年3月7日にフランスのマルセイユから上海行きのアンジェ号に乗船し、4月11日に上海に到着した。上海では実業家で慈善家のカトリック信者の陸伯鴻と面識を持ち、援助の申し出を受けたが、布教活動は成功しなかった。この後も陸伯鴻は1931年に来日し、再び援助を申し出ている。

1930年4月24日にゼノ修道士、ヒラリオ修道士ら3人で長崎に到着すると、早坂司教に『無原罪の聖母の騎士』の出版許可を願った。司教はコルベ師が哲学ならびに神学博士号を持っていることを知ると、長崎大司教区、大浦神学校で哲学を教えることを条件に出版を許可した。翌月の5月には、長崎大浦の仮修道院で日本語版の『無原罪の聖母の騎士』の出版を開始した。翌年には聖母の騎士修道院を設立した。

1932年5月にはインドで修道院を設立するために神戸から船に乗り、エルナクラムを訪れて、教区の司教から歓迎されて出版の許可も得たが、コルベ神父がポーランドに戻ったこともあり、その後の計画は進まなかった。1933年4月にポーランドでの管区会議に出席するために日本を離れたが、その間に重病であった駐ポーランド公使河合博之のカトリックへの改宗に尽力している。そして再び日本に戻った後、1936年にニエポカラノフ修道院の院長に選ばれたために故国ポーランドに帰国した。

同年9月19日、コルベ神父は修道院に残った修道者らと逮捕され、彼らはドイツにあるアムティッツ強制収容所へと収容され、11月にポーランド領にあるオスチェロー強制収容所へ移送された後、12月18日に釈放された。病院となっていたニエポカラヌフ修道院に戻ったコルベ神父たちは、ユダヤ人にもカトリック教徒にも分け隔てなく看護をした。この行為はナチスを刺激し、監視が強化された。どうにかポーランド語版のみ『無原罪の聖母の騎士』の再出版を許可された。修道院には再び多くの人が集まり、食料不足に悩まされた。

1941年2月17日にゲシュタポにより、コルベ神父は4人の神父と共に逮捕された。その理由としては、コルベ神父が発行していた『無原罪の聖母の騎士』や日刊紙がナチスに対して批判的なものであったからとも、当時のナチスはユダヤ人のみではなく、ポーランドにおける有力な人物をも逮捕の対象にしていたからともされる。

コルベ神父の逮捕では、退会したニエポカラノフの元修道士が署名した告訴状が証拠とされたが、ドイツ語の読めなかった元修道士はドイツ語で書かれた文書をいわれるままにサインしただけであり、しかもその文書はゲシュタポによる偽造であった。この後、20人の修道士が彼の身代わりになることを申し出ているが、この申し出は却下されている。

コルベ神父はパヴィアックの収容所に収容された後に、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られた。囚人番号は16670であった。

(引用、参考 wikipedia)

身代わり

1941年7月末、この孤児やコルベ神父と同じ号棟の囚人が脱走したのである。1人脱走者が出ると、同じ棟の10名が処刑される決まりだった。しかも処刑法は陰惨を極めた。座ることもできないような狭い懲罰牢に押し込められ、食べ物も水も一切断たれ、餓死させられるのだ。その苦しみは、言語に絶する。

この時も、無作為に10人が選ばれた。1人ずつ番号が読み上げられていく。すると番号を呼ばれた1人が自らの不運を嘆き、「ああ妻や子供に会いたい」と泣き叫んだ。

その時、コルベ神父が進み出た。何をするのかと息を呑む周囲の人々の面前で穏やかに、しかし毅然と、こう申し出たのである。

「私はカトリックの神父です。もう若くもなく、妻も子供もいませんから、あの方の身代わりになりたいと思います」

そして、懲罰牢の中に消えていったのだった。

コルベ神父は一緒に処刑される餓死刑者のためにひたすら祈り、讃美歌を歌った。1人、また1人息絶えていく中で、なお彼は意識を失わず生き続けた。2週間後、さすがに見かねた収容所の医師により薬剤を注射され、天に召される。その時、彼はなおも祈り続けながら自らの手を差し出したという。1941年8月14日没。47年の生涯だった。

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。

 Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends.

ヨハネによる福音書15:13

おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

And being found in fashion as a man, he humbled himself, and became obedient unto death, even the death of the cross.

ピリピ人への手紙2:8

Q232なぜユダヤ人は嫌われるのですか。【3分でわかる聖書】

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岩木山に雪

岩木山に3回降れば

毎朝岩木山を見る。というか仕事中何度も見る山である。まだ道を覚えられなかった時、唯一の道しるべが岩木山だった。岩木山の方角が西。春はとても綺麗に見えた岩木山も夏の日差しに当たると濃淡がはっきりしなくなりあまり美しくは見えない。ところで、岩木山は弘前方面から見ると3つの峰があるように見える。どこかシナイ山に似ている気がしている。岩木山を見ながら「この山は誰がつくったのか。この山を造った方が共にいてくださるのに何故くよくよしているのだ」と自分に言い聞かせている。

毎日見ながら勇気をもらっている岩木山を今朝見ると、何と雪が積もっていた。いよいよ津軽の冬を経験するのか、と暗い気持ちになった。車にも乗れず徒歩以外ではどこにも行けなくなるのかも知れない。車で行けば10分程度の弘前にもこれからは駅まで歩いて電車で行くようになるのか?

外来の患者さんをお乗せしたときに面白いことを言われた。今朝、岩木山に雪が積もりましたね、と言うと「岩木山に3回雪が降ると里にも降る、という言い伝えがある」と教えてくださった。いよいよ本格的に長く厳しい冬が始まる。何も準備していない事に気づいて焦り始めている。

準備

準備していないもの。まずはスタッドレスタイヤ。広島を出るときにスタッドレスを捨ててホイールだけを持ってきたので、新しいスタッドレスを買って組み換えをしないといけない。それと洋服。今までも結構寒いところに住んでいたので冬の服装は持っているつもりだったが引越しのときにかなり捨ててしまい、暖をとれる服はユニクロのダウンしかない。何かを用意しないといけない。それとスノーブーツ。今まで履いていたものを持ってきたが果たしてこの程度で通用するのか。そして、通勤に車が使えなくなるので徒歩で通勤する生活リズムに変えないといけない。とにかく雪を恐れてはいたが、何も準備していない事に今更ながら焦っている。

数学

以前から何度か投稿している受験生のこと。彼女が昨晩ある大学の過去問を送ってきた。解答がないので作って欲しいとのこと。パッと見た感じ、7割ぐらいはすぐに解けそうだった。しかし残りの3割は少し考えるか調べるかをしないと正解を導けない気がした。

早速、仕事の休憩時間などを使って解答したが図形と標準偏差、命題あたりで少し調べないといけない事に気づいた。この程度の問題なら、少し前まで簡単に解けていた。しかし2年以上のブランクは結構大きいことを痛感した。将来に備えることも大切である。それと同時に現在持っているスキルを維持することも同じように大切であることを気づかせてもらった。

数学は命に関わるものではないのでおいおい取り戻して行けば良いが、聖書の学びと神様との関係は命に関わる。今すぐに準備し、スキルを失わないようにしないといけない。

祈りは天を動かす Prayer Moves the Heaven (6/14)

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心配を抱えながら

家族で礼拝

今朝早く姉夫婦が実家にきてくれた。時間がないのに無理してきてくれたようだ。昨晩も母は痛みを訴えかなり辛そうだった。肩を揉んだり目を温めるシートを貼ったり気休めにアイスを食べさせるなどをしたが勿論痛みが取れることはない。本当に苦しそうにしていた。何でこの年齢でここまで苦しまないといけないのかと疑問を持ってしまう。そのような痛みの中でも姉夫婦が来てくれる事は安心につながるようでとても嬉しそうだった。看病する父もホッとした様子だった。

先日、どうしても痛みが取れず病院に行こうとしたがタクシーを上手に呼べなかったらしい。途方に暮れて路上で困っていると、見ず知らずの若い女性が事情を聞いてくださり病院まで送ってくださったという。お礼をしたいので名前や住所を何度も聞いたらしいがその女性は一切それには答えず病院まで丁寧な運転で連れて行ってくださったとのこと。「恐らくそれは神様が遣わしてくださった天使だね」と言ったら納得していた。一事が万事この調子だから二人をこのままにしておくことが不安で仕方ない。しかし両親はどうしても二人でやって行きたいときかない。

そんな両親、姉夫婦と自分の5人でオンラインでの礼拝プログラムに参加した。大きな声で讃美歌を歌い祈る両親の姿を見て、「教会に行きたいんだろうな」と思った。東京に住んでいたときは祖父母の代から、原宿にある「東京中央教会」に通っていた。自分もこの教会に長いこと通っていたから愛着のある母教会である。小学生の頃は、教会で「連続講演会」なるものが開催されると父や祖父に連れられて手伝いに行った。当時の原宿は結構閑散としており国鉄の駅から教会までの道のりに信徒が道案内として提灯を持って立つ。その役をいつもさせられていた。それほど時間は経っていないように思うが原宿は全く別世界になってしまった。

それにしても、家族で同じ信仰を持ち一緒に心を合わせて礼拝できる事は何と恵まれていることか。このような危機的な状況ではあるが、神様を知る祝福を痛感している。

やはり心配

痛み苦しみ、夜中に鳴き声をあげるような状態の母をそのままにしてまた青森に戻ることが本当に辛くてたまらない。今日は姉夫婦が別の用があると言って自分よりも一足先に実家を出た。いっぺんに人が居なくなると両親も落ち込むかもしれないと思い、自分はそれから1時間ほどして実家をでた。

先週同様また三人で祈った。心から祈った。神様ならこの痛みを簡単に癒すことができる。それを信じて心から祈り家を出た。今まで横になった状態で動けなかった母が、「お母さん、これから青森に戻るけど何かあればすぐに来るから遠慮なく連絡してね」というと、すくっと起き上がり立ち上がった。これには驚いた。今までトイレに行くときも父に支えられながらやっとの事で立ち上がっていたのに、自力で何の支えもなく起き上がってくれた。辛いのに、痛いのに、少しでも息子を安心させようとする母の思いなのか。切なくなる。今回は必ずしようと思っていた、母の方を揉むこともできた。これからどういう展開になるのかは神様にしか分からないが、今自分ができることを後悔なくやっておくことが最善だと思っている。

癒し

時間とお金を掛けて実家に帰省する。最初は母のことが心配、看病する父のことが心配という一心で帰省したが2回目の今回は少し違った気持ちになっている。勿論両親のことが心配でならない。が、久しぶりに自分が必要とされていることに気づきそれが嬉しくて今回の帰省に至った気がしている。普段の仕事をしていて、決して自分が必要とされている訳ではないことを痛感している。資格や経験がある訳ではない。運転免許があれば誰にでもできる仕事をしている。自分がいなくなればシフトの面で数日混乱するかもしれないが大きな影響はない。誰か別の人を雇えば済むことで、自分である必要はない。しかし、両親のお世話はたとえそれが真似ごと程度のものであっても自分にしかできないことである。ヘルパーさんを雇うこともできるが、実の子どもにしかできないこともある。お金さえあれば毎週帰省しても良いと思っている。自分の心が癒される経験をするために。

「山は移り、丘は動いても、 わがいつくしみはあなたから移ることなく、 平安を与えるわが契約は動くことがない」と あなたをあわれまれる主は言われる。」
イザヤ書 54:10 口語訳

2021年10月16日 「ペンテコステ」 安息日礼拝LIVE配信(メッセージは8:55から)

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同じ神に祈れる幸せ

二日目

昨晩遅くに実家に着いたが、疲れてめまいがしていた。家で待っていてくれる両親との会話もそこそこに寝かせてもらった。因みに、昨日iPhoneが壊れたと思っていた件は、その後docomoの通信障害であることが判明した。昨晩のうちに3Gではあったが通信できる応対になったので助かった。もしもiPhoneの不具合だったら修理にかかる間親との連絡が取れなくなるのではないかと心配したがそれも解消された。

帰省二日目の今日は朝からやることが多かったので朝食後直ぐに行動を開始した。先ずは風呂場のタイルをつける接着剤と目地留め用のコーキング剤を買いにホームセンターに行った。ついでに食材も購入し一度実家に戻った。その後、庭の木を剪定した。カリンと金木犀。これが結構な大仕事だ。毎年夏に帰省した際、剪定をしていたが昨年は一度も実家に帰ることができなかったので2年ぶりとなってしまった。その後、タイルはりをし階段途中にある窓の掃除をした。この窓は脚立を使っても十分に届かない位置にあるので掃除も一苦労。そして夕食作り。凝ったものは作れないので餃子とだし巻き卵。

この程度しかできなかったが、それでも結構疲れてしまった。自分も歳をとったことを痛感した。

食卓の祈り

食事の前に祈る。勿論個人的にはこれ以外の時間にも祈っているのだが、揃って一緒に祈るのは食卓の祈りである。いつも父が祈ってくれるのだが、毎回似たような祈りになっている。子ども達、孫達の幸せを一人一人名前を挙げて祈ってくれる。最近は名前や家族構成が若干怪しくなっているがそれでも神様は父の心を受け止めてくださっているだろう。

ヨブ記には、ヨブの子どもたちがそれぞれの誕生日に順番で食事会を開いていたことが記されているが、ヨブも子どもたちのために生贄のささげる儀式を欠かさなかった。もしかしたら子どもたちが神様に逆らったり、罪を犯しているかもしれないと思ったからだ。父の祈りを聴きながらヨブの子どもたちのためにとりなしていた様子とダブった。

毎回同じようなことを祈っているようだが、実はこの食卓の祈りこそ両親が神様に真心から切に祈っていることなのだと最近気づいた。

また、両親と同じ神様に祈れることがどれほどの奇跡で幸せなことなのかも痛感している。自分がもしもクリスチャンのこの家庭に生まれなかったら、決して神様を信じることはなかったように思う。神様を知る機会があったとしても恐らく信じることはなかっただろう。だから、信仰心の無い自分をこのようなクリスチャン家庭に生まれさせてくださったのだと思う。そして、この恵みを痛感するとともに、自分の負っている責任も自覚させられる。自分だけが幸せ、などと言っている場合ではない。この幸せを一人でも多くの方にお伝えしなくてはいけない。この恵みは自己満足のために与えられたのではないから。

安息日になったが、自分が信じる神様をどのようにお伝えできるかを考える時間にしたい。

聖書研究ガイド21年4期3課

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再び

仕事を終えて

1週間前に母の容態が思わしくなく帰郷したが、その後あまり改善が見られない。昨晩は痛みのため眠れなかったという。父も一緒になって励ましながら看病するもなすすべなく朝を迎えてしまったという。このままどうなるのか。痛みがあるのは本当に辛い。考えてだけでも辛くなる。母は涙を流しながら痛みに耐えていると思うといても立ってもいられず、結局反対されたが仕事を終えてから直ぐに電車に飛び乗った。現在、東北新幹線の中。はやぶさ44号にて関東に向かう。

今週末は姉が面倒を見ることができるので、来なくて良いと再三言われたが家にいてもただ心配して過ごすだけだから実家に戻った方が状況を把握できる。先週帰省した時にできなかった庭の木を剪定しないといけないし、疲れ切っている父親のことも気になる。

問題

ここで先ほどから一つ問題が起こっている。

地元の駅で「乗り換え案内」で電車の発着時刻を調べている途中で急に電波が途切れてしまった。電話回線からネットに繋いでいたので圏外かと思いしばらく場所を変えて試したが一向に繋がらない。新青森についても同じ状況である。電車内で何度も電源を切ったり思いつくリセットをいくつか行ったがダメ。SIMカードを抜き差ししてみようと思うがSIMピンがないので今はできない。

新幹線に乗ってやっと車内のWiFiに繋がり投稿ができる状態になった。このまま実家で状況が変わらなかったら明日docomoに相談するしかない。

いつも繋がっているのが当たり前のiPhone。繋がっていることを特別に感謝したことなど一度もない。不具合があっても再起動すればいつもなおっていたので機能して当たり前の存在になっていた携帯。ところが一旦繋がらなくなると、これほど不安なことはない。電話ができない。LINEやメールを受信することができない。

神様

早く格安の会社に変えれば良いのだがなかなか決心できず未だにdocomoを利用している。端末代も含めて毎月13000円ぐらいの支払いになっている。家にWiFiを入れていないので、ギガホというプラン、そしてかけ放題にしている。毎月高いお金を支払って、自分の生活の中心に居座っているiPhone神様。

何か自分の生活が狂っている気がしてきた。神様との繋がりを大切にしているが、1時間ぐらい祈ることを忘れてしまうことはある。しかしiPhoneが1時間繋がらなかったら一大事である。神様よりも携帯と繋がることの方が自分の生活において優先順位が高いということなのか。やはりおかしい。かと言って直ぐに携帯を自分の生活から抹消することもできない。第一のものを第一にしていない自分の姿が、携帯の不具合で浮き彫りになった。

「だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。 いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」
テサロニケ人への第一の手紙 5:15-18 口語訳

キリストの香り 2 「絶えず祈りなさい」

 

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持って行き場

ある相談

祈祷会に行く前にある人から電話をいただいた。その人の友人という人が抱える問題を相談したいとのことだった。その友人Aさんは現在職場を休職し「傷病手当金」で生活している。職場での不当な扱いが原因で精神的に参ってしまいそれが体調に出るようになった。頻発する頭痛、耳鳴りなどの症状が現れメニエール病と診断された。

Aさんは傷病手当金で次のステップに進むべく資格取得の勉強をしているという。しかし職場に対する不満は募る一方で、このまま何もしないことが悔しくて仕方ないという。そこでAさんは「労災認定」をさせようと考えているがどうしたら良いかとの相談だった。私自身がこの3月まで傷病手当金で生活し、それを強制的に打ち切られて現在の仕事に就くようになったので何か参考になる意見があればと相談してくれたようだ。

例えば仕事中、あるいは通勤途中での事故で骨折したとなれば原因と結果がはっきりしているので労災認定は出やすい。しかし精神的苦痛から来る病気に関しては中々判断が難しく、現実的には認められないことが多い。因果関係の判断が難しいからだ。まず、そのことを話した。その上で何故自分が労災扱いにしなかったかの理由を話した。

自分の場合

上司からの圧力や嘘など苦々しい経験をしてきた。悔しさで体が震え眠れない夜が続き、睡眠導入剤を大量に飲んだ。また当時住んでいたところから空港に行く途中の「空港大橋」から飛び降りようとも試みた。飛び降りの時は、不審車両と思われ尾行してきた警察官に保護されてしまった。薬の時は妻に見つかり救急搬送された。そこまで追い込まれた。そしてそこまで追い込んだ人は現在教団の財務部長をしている。思い出すだけでも悲しくなるが、自分には逃げ場があった。問題を持って行ける場所があった。裁判のことは何度も考えたし弁護士にも相談した。が、戦うことが自分を更に傷つけることも分かっていた。そして自分は復讐ではなく相手のために祈る道を選択した。

イエス様は言われる。

しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
(マタイによる福音書5:44)

また別の場所で、裁きは主のものであって人は裁いてはいけないとも教えている。憎かったけど自分はイエス様の教えに従うことにした。

持って行き場

Aさんの話に戻る。

彼女は自分の正当性を主張し、雇用主の理不尽なやり方をやり玉にあげようとしているのではないと直感した。自分のこの悔しい気持ち、憎しみをどこに持って行って良いのか探しているように思えた。戦うことによって、勝利して得るものとは何だろう。勝利して何が残るのだろうか。憎い相手を懲らしめることで心がスッキリするのだろうか。確かにこの世の価値観ではスッキリするのかもしれない。しかし自分には更に深い迷宮に入り込んで行くように思えてならない。

間接的ではあるがAさんに対して、労基や弁護士に相談するところまでは決して悪い判断だとは思わない。しかしその先の裁判などについては慎重に慎重を重ねて判断することを進めた。そして、クリスチャンの価値観では苦々しい相手のために祈ること、これができた時に本当の勝利を獲得できることをお話しした。

辛くて、悔しくて、悲しくて、寂しくて、倒れそうな日々を送っている神様を知らない人たちがどれほど多いことか。先ほども祈祷会でこれらの方々が神様に出会い、福音に触れる機会が与えられることをお祈りした。キリスト教の価値観がなければ、これほど理不尽で生き辛い世の中はない。

全ての方々が神様に導かれることを心から祈るものである。

10月12日 第11回「聖書の最も大切な教え」 講師:天沼教会主任牧師 近藤光顕 『失われた世界とその回復の希望』

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新幹線の車中で

後ろ髪をひかれる思い

先ほど、何とか実家を出ることができた。年老いて不安を抱えながら寄り添って生きる両親を見捨てるかのように実家を出る自分がとんでもない親不孝者に思えて仕方ない。何度も何度も心の中で「お父さんごめんね、お母さんごめんね」と言い、「神様が両親を守ってくれるしか方法はありません。どうか二人を特別に癒し、平安を与え、災いから遠ざけ、幸せにしてください」と祈った。

今日のこと

早朝から苦しむ母の声が聞こえた。飲んで良いのか悩んだが鎮痛薬を飲ませ氷水で冷やしたタオルを額にのせて落ち着かせた。その後落ち着いたのか眠ったので自分も少し眠った。

7時を過ぎたので朝食の準備、母に食べさせるアイスなどを用意した。歩いてトイレに行けない母を介助してトイレに行かせ、朝食。その後後片付けをして自分は聖書研究と聖書通読。安息日だけど両親のために買い物もした。風呂場の椅子が両親には低い気がしたのでもう少し高いものを購入した。他にシャワーヘッドが割れて明後日の方向からお湯が出てしまうのでヘッドを買い替えた。また至る所が汚れているので掃除もした。カビキラーを使い少しは清潔感のある風呂場にした。そして昼食を用意し、同時に夕食も作り置きした。

何度も泣く母

認知症と入院生活のため、自分の状況が十分把握できない母は「ここは家?それとも病院?」と何度も聞いてくる。昨日は私のことを不憫で不幸とばかり言っていたが、なるべく前向きな会話をするよう心がけたら「子どもたちは自分のことを心配してくれる」と言って私たち兄弟に対する感謝をしながら「ありがたいことだ」と言って何度も泣いていた。

15時に実家を出たのだが、出発の直前に弟夫婦から母に豪華な花のアレンジが届いた。自分たち兄弟は両親の誕生日や敬老の日、父の日、母の日には必ず贈り物をする。よほどのことがない限り記念日の当日に着くように手配するのだが、実は昨日の母の誕生日に弟からはプレゼントが届かなかった。珍しいな、と思いながら特に気にもとめていなかったが、私が実家を離れる直前に寂しい気持ちを堪えている両親を励ますかのように1日遅れのプレゼントが届いた。特に母は花が大好きなのでこのプレゼントを心から喜んでいた。神様のなさることは皆その時にかなって美しい、と聖書に書いてあるがその通りだと痛感した。

そして

作り置きした夕食の説明などをしていよいよ出発の時間になった。

自分もどうして良いのか、このまま青森に戻って良いのかかなり悩んだが帰るしかないので、両親に「もういかなくちゃならないけど、このまま帰るには不安しかないから最後に僕がお祈りするね」と言って三人で祈った。心の底から、神様に頼る以外に方法がないことを痛感した。

「神様が全てを導いてくださるから、私たちは平安です」などと祈る自分が滑稽に思えた。毎日神様に委ねながらも不安の方が勝り「心に平安がない、失望の中で生きるくらいならこのまま命をとってください」と祈ってばかりいる自分が、両親の前では「平安です」などと祈っている。しかし本当にそう思えたのだ。不思議なものである。

こうしている今も両親のことが気になって仕方ないが全ては神様が最善の道に導いてくださることを信じるしかない。実家滞在時間はたったの24時間。何もできなかったけど、祈り続けた24時間だった。

わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、 あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。
詩篇 94:19 口語訳

2021年10月9日 安息日礼拝LIVE配信(メッセージは7:40から)

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帰郷

半年ぶり

悩んだけれど結局実家に帰省した。昨晩の地震のこともあり余震で万が一青森に戻れなかったら仕事に支障があるのでどうしようか悩んだ。日曜日の勤務は絶対に休むことができない。仲間のドライバーが自転車での通勤途中にスピードの出し過ぎでカーブを曲がり損ね田んぼに突っ込んでしまった。10日間入院した。そのため上司である70歳の女性ドライバーが2週間休みを取らないで運転し続けている。この女性ドライバーの休日が日曜日なのだ。だから万が一自分が帰り損ねて日曜日に出勤できなかったらこの上司は3週間連続で休みがなくなってしまう。だから何としても帰らないといけない。更に心配なのは、自分が実家に戻ったら精神的に青森に戻れなくなってしまうのではないかと言うこと。精神的にかなり不安定なことを自覚している。1日も早くこの職場を抜け出したいと思っているところに、帰省したら里心がついて社会復帰できなくなるんじゃないかと不安に思っている。しかし、それ以上に両親に会いたい気持ちで結局帰省した。

母は昨日退院して今日が87歳の誕生日である。痛みがかなり残っているようなので何とか励ましたく決心して直ぐに駅に向かった。

実家には15時前に着いた。両親には途中で連絡しておいたのでふたり揃って自宅にいた。母はやはり苦しそうだ。痛みがひかないらしく、時々悲鳴をあげるような場面もあった。認知症もかなり進んでいるので会話は前に進まないが、「青森から来てくれて本当にありがとう」と何度も言いながら泣いていた。

そして例によって私の境遇を不憫だと言って泣き出す。「何であんただけいつも不幸なのかね」と歯に衣着せぬ言い方で同情してくれる。「結構幸せだよ。神様がいつも一緒にいてくれることがはっきりわかるから」と、少し強がってみるも「あんたが不幸だとお母さんは死ぬに死ねないよ」と言ってまた泣く。

いつまでたっても、また認知症を患っても子どもことをずっと気にかけてくれる、本当にありがたいことである。

 

好物

夕飯の支度をして両親と食べた。が、母は痛みがあるため食が進まない。当然である。「お母さんの好きなものを作るから食べたいものを言って」と質問したところ「アイスが食べたい」とのこと。今はご飯じゃなくても、栄養がなくても口から摂取することが大事なのですぐにコンビニに行ってアイスと炭酸のジュースを買って来た。炭酸のジュースの中にアイスを少し入れてクリームソーダのようにして見た。母が好きなやつだ。

母は殊の外喜んで美味しい美味しいと言って全部食べた。「お母さん、昔自分が病弱でお医者さんに行ってばかりだったけど帰りに必ずアイスを買ってくれたね。それと、池袋のキンカ堂にあった喫茶店でクリームソーダやレモンスカッシュを飲ませてくれたね」と言うと昔話を思い出し途端に饒舌になった。あの頃はまだ池袋周辺にトローリーバスが走っていた。東口駅前のロータリーで架線から外れたバスが時々動けなくなっていたことなどを思い出して笑った。久しぶりに人と会話した気分だ。やはり実家はいい。ここでネットを使った仕事ができ収入があれば間違いなく、ここで両親の面倒を見ながら仕事するだろう。年老いた両親がふたりで生活することに、もう限界がきているのがはっきりわかる。

「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、 白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。 わたしは造ったゆえ、必ず負い、 持ち運び、かつ救う。」
イザヤ書 46:4 口語訳

10月7日 第6回「ノアの洪水 その2 悲しき恐竜たち、その真実」 講師:山本哲也 『失われた世界とその回復の希望』

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