真の教育

預言者の学校

今日は朝から非常に大切なことを聖書や書物から教えていただいた。自分が理想とする教育の場「預言者の学校」について書かれている部分を読み多くの示唆をいただいた。いつの日にか神様のお許しの中でそのような働きに召していただけることを祈りながら読ませていただいた。

教育の真の目的は、魂のうちに神のみかたちを回復することである。最初に、 神は、ご自分のかたちにかたどって人を創造された。神は、人間にすぐれた性質 をお授けになった。人間の心は、良く均衡がとれていて、そのすべての能力には 調和があった。しかし、堕落とその結果によって、これらの賜物はゆがめられて しまった。罪は、人間の中の神のかたちを、ほとんど消し去った。これを回復す るために、救いの計画がたてられ、人間に猶予の期間が与えられた。最初に創造 された時の完全な状態に、人間を回復することが、人生の大目的であってその他 のすべてのものの根底に流れる目的である。青年の教育に当たって、神の目的に 協力することが、親や教師の務めである。そうすれば、彼らは、「神の同労者であ る」(Iコリント 3:9)。
人類のあけぼの電子版 p522  預言者の学校

さらに、青年教育の施設として、預言者の学校が建てられた。もし、青年が、 神の言葉の真理をもっと深くさぐり、上からの知恵を求めて、イスラエルの教師 になろうと望むならば、彼らは、こうした学校に入ることができた。預言者の学 校は、腐敗が広がるのを防ぐ防壁としてサムエルが創立したもので、青年の道徳 的、霊的幸福に貢献し、指導者や助言者として、神をおそれて行動する資格のあ る人物を養成して、国家の将来の繁栄に資するためであった。サムエルは、この 目的を達成するために、神をおそれ、知的で勤勉な青年を多く集めた。彼らは預 言者の子と呼ばれた。彼らが神と交わり神の言葉と神のみわざを学んだ時に、彼 らの生来の賜物に天の知恵が加えられた。
人類のあけぼの電子版 p520  預言者の学校

現代教育との違い

神の預言者が教えたこれらの学校と現代の教育機関との間には、なんと大きな 相違があることであろう。世の教訓と習慣に支配されない学校は、なんとその数 が少ないことであろう。適宜に制限を加えたり、正当な罰を与えたりすることが、 嘆かわしいほど欠けている。現在、クリスチャンと自称する人々の間での神の言 葉に関する無知は、驚くばかりである。表面的な話や、単なる感傷主義が、道徳 や宗教の教えとして通用している。神の正義と憐れみ、美と聖、正しい行為の確 実な報賞、罪の恐ろしい性質とその恐ろしい結果の確実性などが、若い者の心に 強く教え込まれていない。悪友たちが、犯罪と気晴らしと放縦との道を青年たち に教えている。
人類のあけぼの電子版 p522  よ預言者の学校

若者を指導者に育てる

聖書の教訓は、この生涯のあらゆる関係における人間の繁栄に、重大な関連を 持っている。それは、国家の繁栄の礎石である原則を提示している。それは社会 の幸福と密接に結びつき、家庭を保護する原則である。この原則を度外視しては、 誰一人現世で有用な人物として幸福になり、栄誉を受けることはできない。また、 将来永遠の生命を受けることを望むこともできない。人生のどんな地位、どんな 経験であっても、聖書は、それに対する必要な準備を教えている。神の言葉を研 究して服従するならば、人間哲学のあらゆる分野の周到な研究にまさって、もっ と強力で知性の活発な人物が、世に送り出されることであろう。それは、力と強 固な品性をもった人物、鋭い洞察力と正しい判断の人、神を敬い、世界の祝福と なる人々を起こすであろう。
人類のあけぼの電子版 p524  預言者の学校

まず教師が

この原則の重要性を認めて、それに忠実に従うならば、現代の教育法のどこか に根本的変化が起こることであろう。教師は、誇りと利己的野心に訴えて、競争 心をかき立てようとせずに、善と真理と美を愛する心を起こさせ、美徳を望む心 を起こさせようと努力するであろう。学生は、他を越えるためではなくて、創造 主のみこころを実現し、神のかたちに似るために、自分に与えられた神の賜物を 伸ばそうとするであろう。単に、地上の標準をめざしたり、それ自身萎縮作用を もっている自己高揚の欲望に動かされたりするかわりに、心は創造主に向けられ て、彼を知り、彼のようになろうとするであろう。
人類のあけぼの電子版 p523  預言者の学校

今日の御言葉

「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。」
ローマ人への手紙 8:31 口語訳

「国家と宗教」河原 久(SADA教団名誉牧師)

 

宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村


キリスト教ランキング


プロテスタントランキング


その他ランキング

肯定

集団教育

ある保護者さんとそのお子さんが別々に相談のメールを送ってきた。お互いに相手が私に対して相談していることを知らないようだ。内容は高校進学について。ミッション系の中学校に在学中である生徒さんは、校風や先生たちの冷たさに馴染めないという。親身になって心配してくれる先生も2名ほどいるらしいが学校全体が校長先生に気を遣い生徒の方を全く見ていない、と本人は言っている。系列の高校に進学するのはやはり価値観が合わない気がするので積極的ではないらしい。そして色々な面で「自分は他の子より劣っている」と思っているようで集団で受ける教育に合わないと言っている。

一方母親ははなから「うちの子は学力的にも周りについていけないので個人で学習する方が良いと思っている」と言っている。子どもはどうしたら良いか、という相談をするためにメールを送ってきた。一方母親は通信制の高校を考えているがどこが良いか、との質問であった。

通信教育

通信教育課程を実施する学校はここ数年で更に増えている。青森県だけでもざっと数えて20校ほどある。自分も通信課程の大学を考えたことがあったし現在も考えている。教育に関する別の免許を取得したく大学での勉強を考えている。生活に追われなかなか実現しないが今でも時々調べている。が、今回の相談は高等学校である。コロナ禍で集団教育を心配する方も多くその需要は高い。また個別指導や集団を気にすることなく自分のペースで学べることもメリットと考えられている。通信教育課程があることで更に選択肢が増え可能性が広がったと考えている。自分が高校生の頃は色々な事情から高校に進学しなかった人もいた。積極的な気持ちで高校進学しなかった人は一人しかいなかった。この人は司法試験を受けるために高校進学しなかった。が、それ以外は学力や経済的な理由で高校進学を「諦め」た。当時は定時制もあったが4年間かかることや年齢の違う人と机を並べることの違和感、そして雰囲気の問題があり敬遠されることも多かった。が、今は違う。もっと言えば高等学校に在籍、卒業しなくても「高等学校卒業程度検定試験」に合格すれば大学に進学できる。所謂、昔の「大検」である。学びたい人には色々な可能性がある。

学習意欲

学びたい、しかしその環境が整わないので普通科の高校に通学できない。ならどうするか?という考えの中で通信制課程や検定試験などの道を模索することは非常に積極的で素晴らしいと思う。

一方で「高校ぐらいは行かないとその先がない」「しかし普通科の高校に通学する気持ちはない」そのような中で通信制や検定試験を視野に入れる人も結構多いような気がしている。何か、その人たちが肩を落としてため息をつきながら高校を考えているように思えて胸が締め付けられる。

まず第一に「何のために学ぶのか」「何故学ぶのか」を考えることができたら良いと思う。神様は全ての方に対して計画を持っていらっしゃる。それが何かを模索するところから進路を考えられたら必ず有意義な人生が送れると思う。

もしも彼らが真の謙遜を持ち続けるならば、主は神の民のために、はるかに多くの ことをなさることがおできになる。しかし、大きな責任または成功が与えられても、 なお、自己過信に陥ることなく、自分たちが神に依存していることを忘れない者は、 実に少ない。主が、神の働きをする器を選ぶに当たって、世の人々から、偉大で タラント(才能)があり、そうめいであるとほめそやされている人々を見過ごされるのは、 そのためである。このような人々は、とかく高慢で、自己過信に陥っているもの である。彼らは、神の指示を仰がないで、行動することができると思っている。
人類のあけぼの電子版 p483  初期の士師たち

2022年9月17日 「互いに愛し合いなさい」 安息日礼拝LIVE配信

 

宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村


キリスト教ランキング


プロテスタントランキング


その他ランキング

因数分解 

因数分解と素因数分解

現在、ひとりの中学生と一緒に勉強している。科目は数学が中心になっている。先日中学3年生の因数分解を学んだ。その少し前に「素因数分解」も学んだ。よく聞くこれらの言葉だが、この単元をどのように理解してもらうかを考えていた。自分が解けても、生徒自身が解けなければ意味がない。無い知恵を絞って教案を考えてみた。

素数と素因数分解

3という数が「どのような数からできているか」を考える。「どのような数からできているか」とは「どのような数を掛け算しているか、という意味。

例えば3
3=3×1と分解できる

もうひとつの例 8
8=2×4 と分解できる。が、ここで4は

4=2×2 と更に分解することができる。もうこれ以上分解できない(その数と1でしか割れない)状態になった数を「素数」という。

素因数分解とは「もうこれ以上割り切れない」という数を掛け算のかたちにしたもののことをいう。

(やりかた)
素数は小さい順に2,3,5,7,11,13,17,19・・・と続く。素因数分解したい数を2から順に素数で割っていく。最終的に割った素数を掛け合わせた形が素因数分解の答えとなる。

2 )16       (素数2で割ったら)
2 ) 8      (商は8、これはまだ素数2で割れるので)
2 ) 4      (商は4、これはまだ素数2で割れるので)
2      (商は2、これは素数でこれ以上割れないから・・・)

16=2×2×2×2となる

因数分解

定数を素因数分解できた。今度は文字を含む式が分解できるか(素因数分解同様掛け算の形に変形できるか)を考えてみる。ここでは素数に分解するのではなく(   )の掛け算の形にするので「素数に分解する」とは言わず「因数に分解する」という。因数に分解するから「因数分解」という。式を掛け算のかたちにできると今後方程式を解いたり関数を解析するのに非常に役立つ。

因数分解の方法1「共通因数を見つける」

例えば次のような式を考える
3ab2+12a2b

ひとつずつ項をみていくと
3ab2=3×a×b×b
12a2b=3×2×2×a×a×b

ここで両方に共通しているものは

3×a×b=3ab  ここれを「共通因数」と言い、これを使って掛け算の形にすると3ab(b+2×2×a)
=3ab(b+4a)
となる。これが因数分解の解である。

因数分解の方法2「たすきがけ」

例えばx2+4x+3という二次式を考えてみる
x2の係数が1なので、

  • まず定数項に着目
    掛けて3になるふたつの数をイメージする           3×1
  • 次にxの係数に着目
    掛けて3になるふたつの数のうち(この場合は1組しか無い)足して4になる組み合わせを考える                                                     3+1
  • すると+3と+1が上記条件にあうので
    x2+4x+3=(x+3)(x+1)と因数分解できる

慣れてしまえば直感的にできるようになるがふたつの数のプラス、マイナスまで含めると少し混乱する場合がある。なので慣れるまでは次のルールを知っておくと良い。

  • 定数項が+、xの係数も+
    x2 + 9x + 20 = (x + 5)(x + 4)            両方ともプラス
  • 定数項が+、xの係数が−
    x2 − 5x + 6 = (x−3)(x−2)                両方ともマイナス
  • 定数項が−、xの係数が+
    x2 + 2x−15 = (x+5)(x−3)               大きい方がプラス
  • 定数項が−、xの係数も−
    x2 − 5x −24 = (x−8)(x+3)             大きい方がマイナス
  • 2乗の形になる場合もあるので注意が必要です
    x2 + 10x + 25 = (x + 5)(x + 5)=(x+5)2

因数分解の方法3「和と差の積」

例えばx2-25の場合

1次のxに関する項が無く、定数項が2乗の数になっている場合、和と差の積を使うことができる。

x2-25 = x2-52
=(x+5)(x-5)

これはたすき掛けよりも容易に解けることが多い。ただし定数項が100を越えると急に解けなくなる。次の2乗の数を覚えておくと良い。

102=100
112=121
122=144
132=169
142=196
152=225
162=256

 

宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村


キリスト教ランキング


プロテスタントランキング


その他ランキング

命の重さ

バス置き去り事件

また起こってしまった。静岡県のあるこども園にて3歳の女児が園バスに置き去りにされぐったりした状態で発見された。5時間放置されていたとのことで病院にて死亡が確認された。死因は熱中症の中でも最も重い熱射病とのこと。今日は青森も気温が高く午後自家用車に乗ろうとしたが暑すぎてしばらく車内に入れなかった。ちなみに気温28度。これよりも数度高い気温で太陽に照りつけられていた車内がどれほどになっていたか、想像しただけで涙が出てくる。登園の出席簿では「出席」扱いになっており事実上点呼が取られていないことも判明した。昨年福岡で同じことが起きたばかりなのに。お子様を亡くされた親御さんはじめおじいちゃん、おばあちゃん、ご兄弟のことを考えたら本当に苦しくなる。自分が親の立場だったら、子どもを失った悲しみから決して立ち直れないと思う。人生を諦めてしまうかも知れない。子どもがいなければ生きている意味を感じないだろう。

解決策

昨年の福岡の事件もマスコミが連日報道し社会的な制裁も受けていたと思う。間もなく公判になると聞いたことがあるが職を失うことにもなる。多くの人が非難の眼でこの園長をみたが事件は再発した。要するに社会的制裁や刑事罰は本人に対する、或いは意識の高い他者に対しては抑止力になるが元来ずさんな意識しかない人には何の抑止にもならなかったということだ。現在の自家用車の安全性は非常に高くなっている。特に高級車に見られる自動運転や危険回避の「見守り機能」は半年ごとに進化しているように感じる。そうやって高い安全性をアピールして車を売っていく。人の安全が先なのか企業の利益が先なのかは分からないがとにかく利益を追求することが安全システムの発展につながっている。企業の利益よりも人の命はもっと重いと考えている。ならば園バスには「人感知システム」なるものを搭載することを義務付けるなどの措置はとれないものだろうか。赤外線で人やペットを感知しエンジンを切ると「人が残っています」などの警告が音声で出るようなシステム。これは老健施設や患者さんを乗せる車にも必要だと思う。

教員時代にある自動車会社の見学に行ったことがある。色々な説明をしていただいたが、1990年代中頃から交通事故による死者が目に見える形で減少した。これはエアバッグ搭載車が一般車に普及したためだと聞いた。真の技術、システムの発展は人を生かすものと信じている。

教育現場において

前出の園バスの件だが、子どもさんを預かる仕事はどれだけ注意していてもトラブルは起きる。そして園児、児童、生徒、学生を傷つけてしまう。教員が傷つけてしまうのだ。自分も多くの生徒さんを傷つけてきた。自覚しているものもあるが、自覚していないものはその何倍もあるのだと思う。だから熱心に祈らないと失敗してしまう。自分に酔ってしまえばミスは増える。服装が整っていなければ緊張感が薄れ生徒さんを傷つけてしまう。取り返しのつかない失敗をしたこともある。教員という立場にあぐらをかくことなく、教員であることに緊張感を持ち真剣に臨まなければ私のようになってしまう。

アロン

出エジプトの民をカナンの国境近くまで導いたモーセ。モーセを支えたのがアロンだったがいよいよアロンの最期がきた。モーセとアロン、そしてアロンの後継者となるエレアザルがホレブの山にのぼった。3人で登ったが降りてきたのはモーセとエレアザルのふたりだった。アロンはその山で息をひきとった。

ついに、モーセとエレアザルが、ゆっくりと山をおりてくる姿が現われた。し かし、アロンは彼らと一緒にいなかった。エレアザルは、祭司服を身にまとい、 父の聖職を受け継いだことを示していた。人々は悲しみながら指導者のまわりに 集まってきた。モーセは、アロンがホル山上で彼の腕に抱かれて死んだことと、 彼らが、彼をそこに葬ってきたことを告げた。会衆は声をあげて嘆き悲しんだ。 彼らは、何度もアロンを悲しませたけれどもみな、アロンを愛していたのである。 「イスラエルの全家は30日の間アロンのために泣いた」(民数記 20:29)。

イスラエルの大祭司の埋葬に関して、聖書は、簡単に「アロンはその所で死ん でそこに葬られ」た、と記録しているだけである(申命記 10:6)。神の明白な 命令のもとに行われたこの埋葬と、今日の習慣とは、なんと著しく異なっている ことであろう。現代、高い地位の人の葬式は、虚飾と度を越した誇示の場となっ ている。世界最大の人物のひとりであったアロンが死んだ時には、彼の近親の友 が2人、彼の死を見守り、埋葬に列しただけであった。そして、ホル山上のあの ものさびしい墓は、永久にイスラエルの目から隠されたのである。死者のために は、とかく大げさな行事が行われ、彼らの肉体を土に帰らせるのに多額の費用が かけられるが、それは、神をあがめることにはならない。

人類のあけぼの電子版 p366  エドムを回避して

この情景を想像していたら涙が流れてきた。人の命の重さをもう一度考えさせられた。

20220827礼拝 説教 堀圭佑

 

宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村


キリスト教ランキング


プロテスタントランキング


その他ランキング

HPVワクチン

WEB説明会

医師向けのセミナーやオンライン会議の準備をすることがある。数日前にもHPVワクチン接種のオンライン説明会を準備し院長先生に言われ自分も視聴していた。医療者向けのコンテンツなので素人が聞いても分からないところがたくさんあるが大まかなところは理解できた。

HPVとワクチン

HPVはひとつだと思っていたが説明によればおよそ100種類の型があるとのこと。この辺から全く知識がなかった。現在接種できる2価のワクチンはHPV16/18型に、4価のワクチンにはHPV16/18/6/11型に効果があるという。更に9価ワクチンは4価に加えて31/33/45/52/58型にも有効とのこと。

自分が高等学校で教頭をしていた頃、このワクチン接種が学校でも行われた。が、それからしばらくしてHPVワクチンの話はどこかに消えてしまった。あまり気に留めていなかったが、2013年の定期接種開始直後、副反応の症状が多数報告され同年に厚労省は定期接種の推奨を中止していた。

そして2020年に厚労省がある資料を出した。HPVワクチンの副反応は1万人あたり9人にとどまるとの内容だった。これを機に厚労省は積極的推奨に舵をきった。

質疑応答

自分が受講したWEB説明会は「副反応の心配はないから積極的にワクチン接種をしよう」という趣旨のものであるから質疑応答もそれなりの意見がだされた。特に印象に残っている医師の発言があった。

(某医師):意見というよりお願いだが、弘前管内である保健所職員がHPVワクチンに消極的で「できれば接種しないように」と訴えている事例がある。また弘前管内のある医師のところにワクチン接種を希望する母子がやってきたところ医師が「本当に接種するのか、情報を集めてきちんと判断したことなのか」と言い、もう一度よく考えてそれでも接種したいなら改めて来院してほしい、と言ったという。医療従事者や医療関係者がこのような姿勢では困る。どこの医院、あるいは保健所なのかを特定し厳しい指導をすべきだ。

HPV

15年ほど前になるが、自分の尊敬する方を子宮頸がんで亡くした。家族でお世話になった方であり心の底から悲しく辛い思いになった。なぜ予防できなかったのか。早期発見はできなかったのか、と何度も思った。また現在もこの病と戦っている知り合いがいる。絶対に完治してくださるようにと信仰をもって日々祈っている。

この病を撲滅しこの病で苦しむ人がいなくなるのならやはりワクチン接種は必要だと思う。

しかし、一方で行政の方向性やその方法、情報発信の段取りなどにはいささか問題も感じている。副反応が問題になればすぐに積極的推奨を取り下げその後何も情報発信がないまま、ある時点で急に「接種しない人は悪だ。接種反対の医療者は糾弾すべき」という方向に転じてしまうことには不安を感じる。若年層の健康を考えているのか、それとも政治的あるいは金銭的アドバンテージに目を向けているのかよく分からない。

この時代、溢れる情報の中で最良の道を選択することは非常に難しいことだと思う。また国も組織も、あるいは団体や教会も個人を守ってくれる時代ではなくなっている気がする。

現在、聖書の箴言を読んでいるが、神様に知恵を求めること以外に安全な道は無いことを度々教えられている。

主を恐れることは知恵のもとである、

聖なる者を知ることは、悟りである。

わたしによって、あなたの日は多くなり、

あなたの命の年は増す。

もしあなたに知恵があるならば、

あなた自身のために知恵があるのである。

もしあなたがあざけるならば、

あなたひとりがその責めを負うことになる。

箴言9:10-12

The Perfect wisdom of our god Over Flower

 

宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村


キリスト教ランキング


プロテスタントランキング


その他ランキング

家庭の教育

ホームスクール

多くの子どもはまず家庭に於いて教育を受ける。親が意図するしないに関わらず同居する大人の影響を受け大人を真似る。動作を覚え言葉を覚えコミュニケーションを覚える。そしてこども園や幼稚園、保育園に進み小学校に進学する。中には目指すところが異なり公的教育機関に通わせず家庭での教育をそのまま継続するケースもある。所謂ホームスクールである。米国やイギリスではきちんとその存在が認知されているが日本に於いてはまだまだ、という感じである。随分昔に聞いた話だが法律家である父親が病に倒れ長期間入院することになった。父子家庭で面倒を見ることができず、少年は父親の病床で生活するようになった。勿論学校にも通えず、その代わりに父親が勉強を教えた。長い間父親から多くのことを学び結果的にはこの少年も司法試験に合格した。教育方針でホームスクールを選ぶこともあるが家庭の事情でそうせざるを得ない場合もある。

ホームスクールの種類

家庭で学校教育を行う、という程度にしか認識していなかったが米国などでは数種類のホームスクール形態がある。

・家庭にて親が教員となり学校の教科書を用いて学校教育を行う

・学校の教科書を用いず子どもの自由意志に任せて家で過ごさせ必要に応じて親が支援する

・上記ふたつのハイブリッド型

・子どもがメディアを通して影響を受けた人(この人のようになりたい、と思えた人)の真似をすることでその人に近づいていく

・公的機関(第三者)を入れて家庭でのホームスクールを評価してもらい、その評価を元に独自のカリキュラムをつくる

概ねこの5パターンがあるようだ。日本における現状はホームスクーラーの人数をはじめ詳細は分かっていない。

ホームスクールのデメリット?

自分はホームスクールの賛成者であり実践したいと思っている。が、ホームスクールよりも更に良い形態があると考えている。事情も分からないので迂闊なことは言えないが、ホームスクールにもいくつかのデメリットと言えるものがあるかも知れない軽々しくデメリットと言ってはいけないと思うが上手表現ができない。

まずは友達関係。家庭での教育で他との接点がなければ友達関係やそこから学ぶスキルの欠如があるかも知れない。また施設の問題もある。学校であれば飛び箱やマット、実験器具や薬品などがある。が、家庭でそれと同様の経験をさせようとすればかなり大変なことになる。現在のようにオンラインの映像で実験を視聴する手もあるが、実験器具は実際に操作しないと分からないことがたくさんある。またどこが危険なのかも実体験から学べる。要するにリアルの欠如をバーチャルで補うところがある意味でのデメリットになる可能性がある。

家庭教育

聖書の中にアロン、という人が出てくる。出エジプトの際、リーダであるモーセを補佐した人物でありモーセのお兄さんである。昨日も投稿したが、幕屋(聖所)の務めには「レビ族」が任命された。特に聖所で奉仕する「祭司」はこのアロンの子孫であることが条件となった。アロンには4人の息子がいたが、神様の命令に従わず聖所にて、神様が用意した「火」を用いず、自分たちが勝手に用意した「火」を用いたことで神様からの刑罰を受けた。

ナダブとアビウは、少年時代に自制の訓練を受けなかった。父親が相手の言い なりになる性質で、正しいことに対する確固たる態度が欠けていたために、彼は 子供のしつけをないがしろにした。むすこたちは好きなことをするにまかせてあ った。彼らはかってにふるまう習慣が長く続いたために、最も神聖な職務の責任 を負わせられても、その習慣からぬけきれなかった。彼らは、父親の権威を尊ぶ ことを教えられていなかった。そして、彼らは神の要求に厳格に従う必要を認め なかった。アロンがあやまってむすこたちを甘やかしたために、ついに彼らは神 の刑罰を受けなければならなくなった。

人類のあけぼの電子版 p300  ナダブとアビウの罪

家庭の教育の大切さを改めて痛感した。

What Heavenly Music – Golden Angels 16th and 17th Group

 

宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村


キリスト教ランキング


プロテスタントランキング


その他ランキング

サタンの嘘

シナイ山麓

モーセ率いるイスラエル200万の民。度重なる神様に対する背信。そしてついに偶像を自ら作りそれを拝むことで自分たちの信仰心に満足を得させようとした。

人間が地上にふえるにしたがって、ほとんど全世界が反逆の側に加わった。今 度も、サタンは勝利を得たように思われた。しかし、全能の力は、再び悪の活動 をさえぎり、地上は洪水により道徳的堕落から清められた。「あなたのさばきが地 に行われるとき、世に住む者は正義を学ぶ・・・・。悪しき者は恵まれても、なお正 義を学ばず、・・・・主の威光を仰ぐことをしない」(イザヤ 26:9,10)と預言 者は言っている。洪水後がそうであった。地の住民は、神の刑罰から解放される と、再び主に反逆した。この世は、神の契約と定めとを2度も退けた。洪水前の 民もノアの子孫も共に天の権威をかえりみなかった。そこで神はアブラハムと契 約を結び、律法の保管者となる民族を召された。この民をいざない滅ぼすために、 サタンはただちにわなを仕掛けてきた。ヤコブの子供たちは異邦の民と結婚し、 その偶像の礼拝に加わるように誘惑された。だが、ヨセフは神に忠実であった。 彼の忠誠は、真の信仰をたえずあかししていた。サタンがヨセフの兄弟たちにヨ セフをねたむ心を起こさせて、彼を異国に奴隷として売らせたのは、この光を消 すためであった。しかし、神は、エジプトの民にも神に関する知識が与えられる ように、これらのできごとを支配なさった。ヨセフはポテパルの家でも牢獄でも、 神を恐れつつ、国家の宰相という高い地位につくにふさわしい教育と訓練を授け られた。彼の感化力は、パロの宮廷から国土全体に及び、神を知る知識は遠く広 くゆきわたった。エジプトにいるイスラエル人も繁栄して富裕となり、神に忠実 な者はみな広範囲に及ぶ感化を与えた。
人類のあけぼの電子版 p276  律法に対するサタンの敵意

エジプトでのイスラエル人

イスラエルの民は元々神様の定めた方法で犠牲をささげていた。ところがヨセフの時代以降エジプトに住むようになりエジプトにおける価値観が犠牲として動物を屠ることを認めていなかった。

エジプト人は動物を迷信的に尊重していたために、ヘブル人は奴隷生活をし ている間、いけにえの供え物を捧げることが許されなかった。こうして、彼らの 思いは、犠牲を捧げることによって、偉大なるいけにえキリストに向けられるこ ともなく、彼らの信仰は弱まった。イスラエル解放の時がくると、サタンは強硬 に神の意志に反抗した。彼はなんとしても、200万人以上をかぞえるこの大い なる民族を無知と迷信の中に閉じ込めておきたかった。神が祝福してその数をふ やし、地上の強国にすると約束された民、そして、神がご自分のみこころを人々 に知らせるために用いようとされた民、すなわち、神が律法の保管者にしようと されたというそういう人々を、サタンは暗黒と束縛の中に置き、彼らの心から神 の記憶をぬぐい去ろうとつとめた。
人類のあけぼの電子版 p277  律法に対するサタンの敵意

異教の習慣

神様が決してゆるされないことがある。そのひとつが人身供養であった。聖書の神様は人身供養を決して要求しないし望んでもいない。恐ろしい罪だとしている。アブラハムがイサクをささげるように命じられたのは人身供養としてではなくアブラハムの信仰心をはかるためであった。が、異教の習慣には恐ろしいことに子どもたちを神にささげる習慣があった。

神の性質をゆがんで考えたために、異邦民族は、神の恵みを得るには人身御供が 必要だと信ずるようになった。そして、最も恐るべき残虐がいろいろな形の偶像 礼拝のもとで行われてきた。その1つは、偶像の前で自分の子供たちに火の中を くぐらせる風習であった。子供たちのなかで、この試練から無傷で出てくること ができたとき、民は自分たちの供え物が受け入れられたと信じた。このようにし て出てきた者は、神々から特に恵まれた者とみなされて種々の恩典を与えられ、 以後は大いに尊重され、どんな大きな犯罪を犯しても処罰されることはなかった。
人類のあけぼの電子版 p280  律法に対するサタンの敵意

似ているかも知れない

人身供養、人身御供など現代日本には存在しない。かつては人柱として自分の子どもや奥さんをささげた歴史もあったようである。何度作り直しても大雨で流される橋。何とかこれが流されないよう神に祈って与えられた啓示が人身御供だった。そのため人柱をたてた。その後その橋は決して流されなかった、という逸話がある沖縄の「真玉橋(まだんばし)」。

これとは全く違うと思うが、現代の教育がこれに似ている気がする。学ぶ意味もきちんと教えられないまま、学校や学問に子どもがささげられる。そこでうまくいく子は出世が約束されそうでない子は・・・。人の命の尊さが叫ばれている昨今ではあるが本当の意味で子どもたちが大切にされているだろうか。自分は時々分からなくなる。

2022827 礼拝「苦難を誇りとする」藤田 佳大 牧師

 

宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村


キリスト教ランキング


プロテスタントランキング


その他ランキング

届かない声、届かない想い

家庭教師

先週いっぱいで数週間に渡る補習授業を終えた。今週からまた勉強から離れる生活を送るはずだった。が、今日突然連絡がありもう一人家庭教師を頼まれた。恐らく「無料で勉強を見てもらえる」という話が広まっているのだろう。狭い地域なので「あの子にはやってこの子にはしない」という訳にはいかない。当然引き受けた。9月の後半までおよそ1ヶ月間殆ど毎日お願いしたいと言われた。とりあえず週5日の補習授業をすることになった。また忙しくなるけど苦ではない。はじめて本人と話してみたが、まだ完全に心を開いてくれているわけではないので十分に事情を把握していない。が、周りの大人や友達に自分が投げかけた言葉が通じていないことを悩んでいる。色々と叫んできたようだが、うまく伝わらなかったようだ。「分かってもらえない経験はとても辛かったね。自分は勉強を教えるだけの存在だけど、何をぶつけても必ず受け止めるからそれだけは安心してね」とだけ伝えた。結構利発そうに見えるお子さんだが、満たされていない子は能力を十分に発揮できないことを見てきたので、学習以上に大切なことを誠実にやっていこうと思う。そしてできれば神様を信じるきっかけになってほしいと願っている。

届かない想い

出エジプトをしたイスラエルの民はシナイまでやってきた。シナイ山はモーセが神様から律法を与えられた聖なる場所である。しかし、その聖なる山の麓ではなかなか帰ってこないモーセらを待ち焦がれて、愚かなことにアロンをたぶらかして偶像を作ってしまった。そしてそれを拝んでいる時にモーセが山から降りてきた。というより、神様から民が偶像礼拝をしているからすぐに山を降りるように言われた。

今日でも快楽を愛する心が「信心深い様子」のかげに隠れていることがなんと 多いことであろう。礼拝の儀式を守りながらなおかつ人々が利己心または、肉欲 の満足にふけることを許す宗教は、イスラエルの時代と同様に今日でも、多くの 人々に喜び迎えられている。そして、教会の権威ある地位の人が、清められてい ない人々の欲するところを受け入れて、彼らが罪を犯すのを助長する柔弱なアロ ンのような人々が、まだいるのである。
人類のあけぼの電子版 p263  シナイでの偶像礼拝

神様の優しさ、そして仲介者なるモーセの忍耐がイスラエルの民にはどうしても伝わらない。イスラエルの民を半ば見捨てるような発言が神様からあった。これに対して怒り心頭のモーセは急に態度を変え仲裁に入る。

「わたしをとめるな。・・・・わたし(は)・・・・彼らを滅ぼしつくすであろう」と神は 言われた。もし、神がイスラエルを滅ぼそうとなさるならば、いったいだれが彼 らのために嘆願することができようか。たいていの人は、罪人が滅びるのを、そ のまま放任しておくものである。人々の忘恩とつぶやきの声しか聞くことのでき ない苦労と重荷と犠牲の生活を捨てて、それに代わって安楽と栄誉ある地位とに 喜んでつかない人間がいったいあるであろうか。神ご自身がモーセを解放すると 言っておられたのである。
しかし、モーセは失望と怒りしか感じられないところに、希望を見いだした。 モーセは、「わたしをとめるな」という神の言葉を、哀願を禁じるのでなくて、そ れを奨励するものと解した。そして、モーセの祈りだけがイスラエルを救い得る ものであって、そのような祈りによって、神は、ご自分の民をお救いになるもの と考えた。「モーセはその神、主をなだめて言った、『主よ、大いなる力と強き手 をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの 怒りが燃えるのでしょうか』」(同・32:11)。
人類のあけぼの電子版 p264  シナイでの偶像礼拝

仲介者

自分は教員をしている頃、後輩の先生方に「生徒が親子でうまくいかなくなった時には教員が祈りながら知恵をいただいて通訳になることが大切である」と言ってきた。生徒(子ども)が「ぼく、親のことがあまり好きじゃないんです。おそらく親も自分のことを好きじゃないと思うので」と言った場合、親御さんに対してどのように伝えるのか。そのまま言葉を伝えるだけでは通訳ではない。言葉が通じないのに通じない言葉をそのまま伝えて良いわけがない。本当に嫌いな親に対して「自分は親が好きではない」と言うだろうか。本当に嫌いなら話題にすることすら嫌がると思う。また、嫌いな親が自分のことをどう思っても構わないはずなのに「親も僕のことを好きじゃない」と言うだろうか。

自分なら「お子さんは親御さんが大好きですが今はその気持ちをうまく表現できなくて悩んでいるようです。そして『僕のことをそのまま愛して欲しい』と叫んでいらっしゃいますよ」と通訳すると思う。生徒も親御さんもお互いにお互いをおもう強い気持ちを持っている。しかしそれがうまく伝わらない時がある。そんな時に周りの大人が上手に通訳してあげられると良いのだが。本来は、その役は学校が担うべきだと思っている。

恐らくモーセは神様の思いと民の思いの両方を理解していたのだろう。だから、上手に通訳できたのだと思う。

最終的に

モーセは史上最高に寛容な人、と評される。

あまりにも神様に背中を向けてばかりのイスラエルの民に対して「いい加減にしなさい」と言う気持ちに何度なったことだろうか。実際、モーセは2度目の水の奇跡の時に岩に対して命じれば良いところを怒りに任せて杖で叩いてしまった。これがモーセが約束の地に入れない決定打になってしまう。しかし、イスラエルの民に真剣に向き合うモーセはやはり彼らを心の底から愛していた。そのことが書物に書かれていた。
モーセの祈りの言葉は、われわれに天の記録のことを考えさせる。それにはす べての人の名がしるされ、善悪ともにその行為が正確に記録されている。命の書 には、神に奉仕したすべての者の名がしるされている。もしそのうちの誰かが神 から離れたり、または、頑強に罪から離れず、ついに聖霊の働きに心を堅く閉じ てしまったりするならば、彼らの名は、審判のときに命の書から消され、滅ぼさ れてしまう。モーセは、罪人の運命がどんなに恐ろしいものであるかを知ってい た。しかし、モーセは、もしイスラエルの人々が主に拒否されるならば、彼らと 共に自分の名も消されることを願ったのである。彼は、それほどまでに恵みに満 ちた救いにあずかった人々の上に、神の刑罰がくだるのを見るにしのびなかった のである。イスラエル人のためのモーセのとりなしは、罪人のためのキリストの とりなしを代表している。しかし主は、キリストが負われたような罪人の罪をモ ーセが負うことはお許しにならなかった。主は言われた。「すべてわたしに罪を犯 した者は、これをわたしのふみから消し去るであろう」(同・32:33)。
人類のあけぼの電子版 p270 シナイでの偶像礼拝

人がもし、自分の気持ちを上手に通訳してくれる存在に出会えなかったとしても、イエス様は唯一にして最高の仲保者である。望みさえすればこの方に間違いなくお会いすることができる。

宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村


キリスト教ランキング


プロテスタントランキング


その他ランキング

話しを聴けない親

医療現場と教育現場

医療現場は多少の例外はあっても話しをする患者さんとそれを聴く医療者は双方とも同じ方向を向いている。患者さんも自分の状況を伝えようとするし医療者もその声を真剣に聴き何を訴えているのかを聞き分けようとする。こういう現場では理解もしやすいしそうでなくてはならない。しかし教育現場では必ずしもそうならない。必死に訴える生徒に対して真剣に聴こうとしない教員。或いはその逆もあり、教員が一生懸命に生徒の声を聴こうとしているのに生徒の方が心を開けず本音を言わないことがある。医療現場と教育現場の違いは何なのかを考えてしまう。ひとつには信頼、かもしれない。患者として医師の前に出れば目の前の医師を信頼するしかない。しかし教育現場はそうはならない。目の前の教員が信頼できる人物かどうかの品定めからはじまる。

親の悩み

先日、ある保護者さんから連絡があった。お子さんのことで相談があるとのことであった。お子さんの高校進学を機にきちんと向き合おうとしたが、お互いに向き合えなくなっていることに気づき悩んでいるとのことだった。今まで一生懸命に愛情を注いで育てて来られた親御さんなのでそれほど深刻ではないと思ったが親御さんは憔悴しきっている。お子さんからは「自分に意見を言わないど欲しい、自分を否定しないで欲しい」と言われたそうだ。親御さんと話していくうちに少しずつ理由がわかって来た。

子どもの叫び

お子さんとも話した。屈託無くよく話してくれる。苦手意識のある科目もあるのでそのことを話題にすると是非教えて欲しいというのでオンラインで補習授業を行なっている。その中でいくつか見えて来たことがある。このお子さんは、自分の叫び声をきちんと正確に聴いて欲しい、というのがそもそもの欲求であった。しかし、親御さんはそれを解決しよう、或いは問題を回避しようとしてお子さんが話し終わる前に自分に意見を述べてしまう。それが正論だとわかるから、お子さんの方が口を閉ざしてしまう。そのようなことに子どもの方が辟易して、ここにきて爆発しているようであった。

叫びを聴く

親御さんともう一度話した。親御さんも真剣に悩んでおられるので傷つけないように言葉を選びながらお話しした。子どもの話を十分に聴けていないところに問題の根っこがあることを指摘すると親御さんも心当たりがあったようだ。しかし、更に付け加えた。「お子さんの本音は言葉で表現されるとは限りません。多くの場合言葉とは反対の欲求を持っています。お子さんの言葉を丁寧に聴きながら、しかし心を理解することが必要です。少し難しく感じるかもしれませんが、深い愛情をもって育てて来られた親御さんには必ず心の叫び声が聴こえます。だから何を訴えているのかをよく考え心で聴いてください」と。

子どもだけではない。みんな「だれか自分を分かって、理解して」と叫んでいる。

 

「神がご一緒の世界」 大川牧師 第3礼拝 (2022.8.7)

宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村


キリスト教ランキング


プロテスタントランキング


その他ランキング

現実と夢

母との再会?

14時から母とのアンライン面会ができると言われていた。オンライン面会は病院の1階にある特別な部屋に面会者が出向きそこにあるタブレットで病室にいる母に面会出来るというもの。オンラインではあるが面会室に入れるのは2人までとのことだったが事情を説明して3人入れてもらったようだ。姉夫婦と父の3人である。私と弟はLINEで画面越しの更に画面越しで母を見ることができた。元々の認知症に加えて今回の2回の脳梗塞により更に認知機能が落ちていた。父のことを理解できない。しきりに母は自分の弟の名前を呼んでいた。面会後、父は自分がわかってもらえなかったことにショックを受けていたようだがこれもまた現実のことである。特別に危険な状況の中にあってただひたすら祈ることしかできなかったが、今日生きている母を見てとても感動した。時々祈りながら母がこの地上にいないのではないかと思うことも度々あったので母との再会?は非常にインパクトがあった。LINE越しで母の顔を見ることはできたが母から自分を見ることは出来なかったのでとても不思議な気持ちになった。

電話の後、兄弟で少しだけ今後のことを話し合った。今後のことは容態次第だが近いうちにリハビリ病院に転院することになる。そして問題はその後である。どこで誰が両親の面倒を見るのか。一番動きが取りやすいのは間違いなく自分だと思う。在宅での仕事があればヘルパーさんの協力をいただきながら自分が面倒を見ることができるのではないかと思っている。しかし姉はまた違う考えを持っているようだ。今後状況に合わせて対応していく必要がある。

あの時のまま

今日もオンラインの礼拝を探してメッセージをたくさん聞いていたが、卒業生の話を久しぶりに聴くことができた。教頭をしているときに、ある担任の先生が体調不良で休職したため自分が教頭を兼務しながら担任になった時の生徒である。以前にも彼のことを投稿したことがあったが非常に実直で素直で常にクリスチャンとしての生き方を意識する素晴らしい生徒であった。そして今日の彼もあの時と全く変わらず、高校時代に黒板消しを決して忘れなかったように今も教会周辺のお掃除をしていることを知り胸が熱くなった。写真が上手でホームルームの記録写真は彼が全部撮ってくれた。だから自分はホームルーム全員ではなくカメラマンである彼を撮っていれば良かった。彼には人を癒す特別な力があったので時間を見つけては彼の部屋を訪問した。行くと嬉しそうに色々な写真を見せてくれる。自分も鉄道に興味があるので彼の撮影した鉄道写真を見せてもらい長期休暇を利用して旅をした時の話をたくさん聞かせてもらっていた。家族で信州の山に登った経験はとても嬉しかったようで何度も美ヶ原の写真を見せてくれた。卒業後も悩むことはあるようで、神様はなぜこのような若者が苦しみにあうことを許されるのかと思ってしまったが、それでも彼が必死に前を向いていることをとても嬉しく思った。礼拝メッセージの中で転校のことなどを語っているが、彼は学力面でも非常に真面目に取り組みいつも学年では上位の成績をおさめていた。将来は車のデザイナーになることを夢見ていた。神様から多くの祝福をいただきながらこれからも自信を持って生きていかれることを心から願うものである。久しぶりだが、彼に手紙を書いてみよう。

天沼教会202286日「主に仕える喜こび」杉本謙裕

宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村


キリスト教ランキング


プロテスタントランキング


その他ランキング