西日本豪雨災害1

2018年7月6日夕方

「T渕、このまま夜の集会に生徒を集めて大丈夫なのか?警報も出ているから今日は寮で待機してもらったほうがいいぞ」「でももうプログラム開始間近だし…。とりあえず集会は予定通りやることにしよう」。3年前の今日2018年7月6日夕方、同級生であり校長のTに電話をした。毎週金曜日の夜にはキリスト教関連のプログラムを行っている。男女各寮から1分ぐらいのところにあるチャペルでその集会は行われる。が、夕方からのひどい雨で寮から出るのも困難を感じるほどである。加えてニュースでは80年に一度の災害に発展する可能性があるので今すぐ命を守る行動を取るように、との報道がなされていた。校長は何とも呑気なものである。「命を守る行動」という言葉をニュースで聞いたのはこの時が初めてだった。何か不吉な予感がした。夜7時に予定通りチャペルに全員が集まり集会を持っていた。集会が始まってほどなくして出席していた教員の携帯に警報が鳴り響いた。土砂災害の警報である。実は自分たちの学校は北側を全面山で覆われる形の立地でそのほとんどの場所がハザードマップに載っているのである。急に胸騒ぎがした。とりあえず生徒を安全な場所に避難させたい、という気持ちで焦って来る。結局集会は少し早めに終了した。今後寮からは出ないようにという発表がされ生徒たちは各寮に帰って行った。学校は標高450mほどのところにあるが下の町は標高が100近く低い。そこで軽トラックを借りて下の町の様子を見に行った。国道432沿いに川が流れているがほぼ冠水状態であった。10分ほど町の様子を見て戻ろうとした時、来る時は通れていた道路が冠水して軽トラックが浮き上がるのを感じた。かなり焦った。少しでも浅いところを探しながら何とか脱出し学校に戻った。家に戻ってニュースを見ると地元のいくつかの地域で土砂崩れが起きていることを知らせていた。全貌は分からないがかなり大規模な災害であることは間違いない。

2018年7月7日早朝

学期に2,3回土曜日の食堂当番というものが回って来る。これは学級ごとに土曜日の食堂作業の全てを担当するもので、配膳や皿洗いや掃除などありとあらゆる仕事がある。この日の食堂当番は自分の学級が担当であった。昨晩は不安と雨音でほとんど眠れなかった。眠いのを我慢して食堂に向かった。生徒はまだ誰も来ていなかったが洗い物から始めていた。途中で少し様子が違うことに気づいた。電気が点いていない。停電しているようだった。急いで自宅から懐中電灯やヘッドライトを集めて再び食堂に戻った。そのうちにつくだろうと期待しながら洗い物をしているうちに1人また1人と生徒が集まり始めた。暗い中での食事で食器消毒の機械も停電で動かないので急遽ディスポザブルの紙食器に切り替えて配膳をした。学期末ということもありこれから色々なプログラムが目白押しという時期だったのでこれからどうなるのか不安がよぎった。体制批判をするつもりはないが校長も教頭も物事の優先順位が見えない人たちなので誤った判断をするのではないかと気が気でなかった。実際、この時全てのプログラムを中止して模擬試験だけを受けさせて早々に生徒を帰省させようという方向に話が向かっていた。昨晩からの大雨で地元でも亡くなられた方が数名いらした。バイクで行けるところまで行って見たが昨日までと全く違う光景が広がっていた。どこが道なのか分からない。何箇所も土砂崩れがあり学校にアクセスするふたつの道のひとつが長さが50メートルに渡って土砂で埋め尽くされていた。電柱も倒されていた。停電の原因はこれだろう。そう簡単に復旧しないことは容易に想像できた。悪夢というのはこういうことを言うのだと痛感した。

愚かな判断

9日日曜日に模擬試験だけはしようとする一部の教員グループがいたが停電しており生徒の安全を優先するために、希望者は帰省させる事になった。担任がひとりひとりの家庭に電話連絡するのだ。自分は日頃から親御さんとコンタクトを取るグループを作っていたので連絡は容易だった。が、自分は帰省させることが本当に良い事なのか迷っていた。と言うのも途中の交通機関が麻痺しているからだ。例えば在来線で広島駅に行くのに通常50分程度で行けるのだが、JRが普通であるため親御さんは土砂崩れを起こしているかもしれない山をこえて学校まで迎えに来なくてはならないのだ。地元のJR駅から東の方に行った隣駅である「本郷」と言う駅までが土砂崩れで大変な事になっていたのだ。結局この区間は復旧までに5ヶ月ほどの時間を要した。唯一安全なのは飛行機。だが、本来の帰省日は12日。それを9日のチケットに振り返るのだから多くの混乱があった。校長、教頭は何もしない。ならば自分で動くしかない。自分で全日空と日本航空に掛け合って災害で緊急避難を要するので12日のチケットを9日から12日までの期間で流動的に変更できるようにして欲しい、とお願いした。こう言う時、航空会社は頼りになる。すぐに確認をとってくれ自分たちがいる地域が甚大な被災地行きであることを確認したので自分の行った通りにすると言う返答が2社からあった。このことを担任と生徒に伝えチケットを振り替えた。こう言うことこそ教頭が動いてくれないと、と思ったがそんな悪口を考えるほどその時は暇がなかった。とにかくできることをできる人がやるしかなかった。評論家はいらない。口だけの人間もいらない。結局11日までに全ての生徒を帰省させた。こんなことで混乱しているのに模擬試験だけは受けさせるなどとんでもなく愚かな判断をしたものだ。

7月6日が来ると本当に悲しくなる。今まで平和だった田舎が牙を剥き出しにした自然界によって滅茶苦茶に壊されてしまった。はげた山肌を見るたびにこの恐ろしさを思い出しなくなった方々を思うのである。私たちの地域はかなり大きな被害を受けたが、幸い学校内で負傷したり亡くなった方はいなかった。結局電気が復旧するまでに1週間を要したがそれ以外は何とかなった。おかげさまで家にはキャンプ用品が沢山あるので炊事には不便を感じなかった。いちばん困ったのは子どもの吸入。車のバッテリーを交流に変換して吸入を行った。ガソリンがあまり入っていなかったのでいつ吸入ができなくなるか不安だった。

西日本豪雨災害2に続く

 

記録的豪雨の爪痕 広島を襲った土砂崩れ

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謙遜と柔和

教員という仕事をしていると

数ヶ月前、以前担任をした学年が同窓会を行った。直前まで何度も話し合いを重ねた様だが結局コロナの影響でオンラインでの同窓会となった。元々は横浜にて直接会える同窓会を計画していたが断念したそうだ。高校3年、卒業をするときに担任をしていたということでメッセージをビデオにて送ってくれる様頼まれた。また当日もオンライン上で出席して欲しいとのことであった。快諾した。メッセージといってもなかなか難しい。ある特定の生徒の思い出などを語れば一気にしらけてしまう。かといって彼らは教え子ではあるがもう教員と生徒という関係ではない。彼らを社会人としてリスペクトしてものを語る必要がある。そんなことを考えていたら結局、毎日彼らのために名前を挙げて祈っていることと、今の自分には力がないのでひとりの重荷を一緒に抱えるだけの精神的力はないけれどそれでも何かあったら頼りないこの自分に連絡してくれないかというふたつのことだけを話した。そして卒業後自分の思い描いた通りの道を歩いているならそれも結構、しかし理想とは違う道に迷い込み全てがうまくいっていない様に感じているのなら是非自信を持って欲しい。まだまだ人生始まったばかりだ、100m走の10mも走っていない。失望するには早すぎる。何も失敗していないしまだまだできるから自信を持ってと話した。90秒ほどのメッセージだ。

教員という生き物

同窓会では他の先生方からのメッセージもいくつか集められていてそれらが流された。ひとりを除いて全員同じタイプのメッセージを送っていた。要するに生徒に対する言葉遣いで、いかにも教員らしく説教しているのだ。「こいつよくこんなことが言えるな」と感心するほど偉そうだった。この卒業生は自分が育てたとでも言いたい様な口調で、正直がっかりした。この先生たちは生徒が本当に落ち込んで助けを求めているときに知らん顔をしたのに何故こんなに偉そうに語れるのだろう。この人たちは生徒が他の怖い先生からプレッシャーをかけられているときにそれに迎合して助けることをせず教員の味方をしたのに何故こんなに自分だけは生徒を思っていた様なメッセージが語れるのだろうか。この学校は既に終わっている、と直感した。
昔こんなことがあったことを思い出した。自分が教頭をしている時の話だ。ある生徒がいくつかの問題を抱えて相談に来ていた。生徒を取り巻く環境が原因の問題もあったが本人が考え方を変えることで解決する問題もあった。生徒が自分を頼る以上真剣に対応するが、本音をいうと教頭という立場上どこまで入り込んで良いのか悩むことが多い。担任が

いるので担任を超えて指導することはできない。しかし、担任が生徒の心に無関心である場合担任に全てを任せるわけにはいかない。そんなこともあり担任に「少し当該の生徒と関わって欲しい」と依頼した。不承不承当該生徒と面接をして色々な話しをした様だった。翌朝、誰も登校していない時間帯にその生徒が教頭室にやって来た。実は昨晩寮で友達が自分の話をゆっくり聞いてくれたという。そして共感し涙を流してくれたという。最後に一緒に祈ってくれたことが本当に嬉しかった様で、そういう友人がいるから自分はもう一度立ち上がれるという報告にきてくれたのである。やはり寝食をともにする仲間の存在が大きい。そしてその日の昼休み、昨日面接をする様依頼した担任が意気揚々教頭室にやってきた。「昨日面接して少しばかりガツンと言ってやりましたよ。昨晩の面接が効いた様で今日は朝から非常に元気です」と彼の報告をしてくれた。「ありがとう、助かったよ」とは言ったけど心の中はそれとは違ったことを考えていた。教員というのは常に自分が何かをしたことで生徒が変わった、生徒を指導できたと思いたがる存在なのだと思う。そういう意味では世界で最も愚かな人たちが集まる職域なのではないかと思う。かつて自分がいた学校が特別そうなのかもしれない。この先生たちが生徒の心の傷に気付いて、自分を顧みず彼らのために必死に働ける様になるには何億年かかるのだろう。救いようのない人たちだと思った。神様は人に手柄を立てさせそれを人々に自慢するために人を召すわけではないのに、何故この学校の先生たちは「自分、自分」と自分のことばかり考えるのだろう。そういう人の集まりだから神様の祝福から漏れてしまったのに。もっと謙遜に。さらに柔和に。謙遜と柔和、イエス様はこれを人々に教えようとしていたのではなかったか。

全能にして謙遜なるキリスト|高原剛一郎

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どういうことなのか?

初代文集

エレンホワイトの著書に「初代文集」がある。エレン・ホワイト自身が活躍した初期に見た幻を中心に文章は展開していく。非常にダイナミックで学ぶ所の多い書物である。先日Facebookを見ていたらどこかに「サタンは初代文集を読ませまいと必死に抵抗している。サタンはこの書物を人類が読むことを恐れている」という書き込みがあった。ならばサタンを困らせてやろう、と先週末から初代文集を始めから読み返している。多くの考えさせられる言葉に巡り会うことができた。自分が現在直面している状況、苦境についても多くのことを教えてくれている・

もしわれわれが試練に打ち勝ち、サタンの誘惑に勝利するならば、われわれは金よりもはるかに尊い信仰の試練に耐え、さらに強くなり、次の試練に当面する準備がよくできる。しかし、もしわれわれが、サタンの誘惑に圧倒されて負けるならば、われわれは弱くなり試練の報賞も受けず、次の誘惑に対する準備もよくできないのである。こうして、われわれは徐々に弱くなり、ついにサタンの思いのままに捕虜にされてしまう。われわれは神の武具をすべて身につけて、いつでも暗黒の勢力と戦う用意がなければならない。誘惑や試練が襲ってくる時に、神の所に行き、熱心に神に祈り求めよう。神は、われわれに何も与えずに去らせることをせず、われわれに、勝利するための、そして敵の力を打ち破るための、恵みと力とをお与えになる。ああ、すべての者がこれらのことの真相を知り、イエスのよい兵卒として困難を耐え忍んでほしいものである。その時、イスラエルは、神にあって力強く、神の勢いによって前進するのである。
初代文集 電子版P65

神は神の民を清め精練するために、彼らに苦い杯を飲ませられることを、わたしに示された。それは苦い杯である。そして、不平不満呟きによって、それをさらに苦くすることができる。しかし、このようにしてそれを受ける人々は、もう1つの杯を飲まなければならない。なぜならば、最初のものが、心にその意図された効果をあらわさなかったからである。もし2度目の杯が効果をあらわさなければ、その効果があらわれるまで、彼らはまたその次も、そしてまたその次の杯も、飲まなければならない。さもなければ彼らは、その心が汚れたまま放置される。この苦い杯は、忍耐、辛抱強さ、祈りによって甘くすることができ、それをこうして受ける人々の心に、その意図された効果をあらわし、神に栄光と誉れとが帰せられることをわたしは見た。キリスト者となり、神のものとなり、神に嘉されるということは、生やさしいことではない。主は、現代の真理を信じると言いながら、生活が、その言うところと一致していない人々を、わたしにお示しになった。彼らの信仰の標準はあまりにも低く、聖書の聖潔にははるかに及ばない。むなしい行状にふけり、利己心をほしいままにしているものもある。われわれは、自分を喜ばせ、世の中の人々と同様の生活と行動をなし、世の快楽にふけり、世の中の人々との交わりを楽しみながら、キリストとともにみ国で支配することを期待することはできない。
初代文集 電子版P65,66

頂いたメール

昨日も投稿に記したが、自分が教員を辞めたことを心配してメールをくれたアニメーターを目指す彼女からその後も何度かメールを頂いた。今日届いたメールに次の様な内容が書かれていた。彼女は現在アメリカでデザインの勉強をしているが現在日本に戻ってきている。実家である京都の教会に毎安息日出席しているがそこにshioriさんというこれまた自分が勤務していた高校の卒業生が出席している。彼女は2年前の卒業生。非常に高い能力を有しているにも関わらず自己肯定感が低く、自信なさそうに生活していた生徒である。そのshioriさんがアニメーター志望の卒業生(年齢は2歳離れている。アニメーターの方が上)に教会で私のことを話したらしい。私がshioriさんの下駄箱に「時間があれば昼休みに教頭室にきてください」と手紙を入れて彼女を呼び出したこと、そして彼女に対して「あなたは自分では考えられないほどの能力に恵まれている。だから自信を持ってもっと胸を張って生きなさい」と激励したことを。勿論そのことは覚えている。shoriさんはその後何度も教頭室を訪れ時に涙を流したり、時に自分の生い立ちや苦境を話して帰って行った。shioriさんは現在薬学部に在学し製薬の勉強をしている。shioriさんはアニメーターの彼女に、私と出会って話していなければ自分は薬学部はおろか大学進学すら果たせなかっただろうと話していたらしい。そのことを今日のメールで報告してくれた。その様に評価してくださり嬉しいが、とても恥ずかしい。自分がその様な人間でないことをよく知っているから。生徒の方が私のことを美化してくれているにすぎないのだ。
ところで、この様なことを言われるとまた教員に戻りたい気持ちが再燃してきてしまう。自分は教育の世界から排除された人間で、教員に戻りたいという気持ちを封印しなくてはいけないと自分に言い聞かせて毎日を過ごしている。しかしその様なことをすればするほど、教員に戻りたくなる様なことが起こる。神様は一体私をどの様に導こうとしておられるのだろう。教員から遠ざけ、遠ざかったところで今度は教員に未練を感じる様な状況を与える。どういうことなのか、神様の御意志、ご計画がよくわからない。が、現在与えられている場所は青森であり仕事は病院の送迎係である。置かれた場所で咲かなくては。勿論教員に対する強い思いがある。が、今は教員ではなく資格がなくても誰にでもできる送迎係である。誰にでもできるこの場所で咲くことを真剣に考えないといけない。

神が置いてくださったところで咲きなさい。しかたないと諦めてではなく咲くのです。咲くということは、自分が幸せに生き、他人も幸せにすることです。咲くということは、周囲の人々にあなたの笑顔が「私は幸せなのだ」ということを示して生きることなのです。神が私をここに置いてくださった、それは素晴らしいことであり、ありがたいことだとあなたの全てが語っていることなのです。置かれたところで精一杯咲くと・・・・・それがいつしか花を美しくするのです。

キリストの香り 5『置かれたところで咲く』

 

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祈りの本質

卒業生のこと

昨晩、急に数年前の卒業生か連絡をいただいた。彼女は付属の中学校出身ではなく高校から自分が務めていた学校に入学してきた。中学時代に何度も学校見学に訪れてくれたので入学前からよく知っている生徒であった。出身は京都であるが親御さんの教育方針で中学は沖縄の学校に在学していた。沖縄と言っても知る人ぞ知る久高島。神々の宿る島と言われあまり近寄ることが許されないことで有名な島である。沖縄本島南部からもよく見えるさ程遠くない離島であるが謎の多い島で中学時代を過ごした彼女が広島にある本校に入学してきた。明るく人柄がよく誰に対しても親切で誠実な彼女は入学してすぐに沢山の友達に恵まれた。少し天然なところはあるが実直で自分の意見をはっきりともつ彼女は2年生の時に生徒会の会長に選ばれた。学校行事の幾つかを大きく改善し生徒のために献身的に働く会長として支持された。そんな彼女からの連絡だった。彼女との接点は授業が主だったが何かにつけて色々な相談をしにきてくれたので、特に悩みの多くを共有してきた印象がある。彼女は自分が教員を辞めたことを知り驚いて連絡をしてきてくれた。最近この手の連絡が多いのだが急な連絡だったこともあり非常に驚いたがとても嬉しかった。彼女は現在アニメーター、イラストレーターの勉強をするために留学している、テネシーにある系列の大学でデザインの勉強をしているのだが将来は多くの人を絵やロゴを通して幸せにすることを夢にしている。昨晩から今日にかけて何度かメールの交換をしたが、自分が発した何気無い言葉や態度が高校時代の彼女を大きく支えていたとのコメントをいただいた。恐縮である。自分の様なものが誰かの役に立つ、誰かを支えるなどおこがましいが彼女はその様に評価してくれていた。そんなことを言われたらまた教員に戻りたくなってしまう。

祈りの本質

彼女のことをこれから毎日祈り続けることを約束した。早速昨晩から彼女のことを祈り続けている。そこで考えたのだが祈りとはそもそも何なのだろうか。自分の祈りを思い出してみるとその多くの時間を「願い」と「とりなし」に用いていることが分かる。毎日1時間を超える時間祈り続けるがその多くが「願い」である。自分の願いもあるが自分の周りにいる人の願いをささげている。ある人にはふさわしい伴侶を与えてくださる様に、ある人にはその病が癒されて健康が与えられる様に、ある人が真の神様を受け入れお酒をやめて神様との正しい関係に入れる様にと祈る。そして自分自身の悔い改めや自分の願いを付け足して祈りに加える。しかし、今日ある礼拝説教で祈りの本質に迫るお話を伺った。祈りとは神様との個人的かつ人格的な交わりである、とのことであった。そうであれば自分が一方的に願い事を連ね喋り続けていることが果たして、イエス様との個人的な交わりと言えるのだろうかと疑問

に思った。更に牧師は続けて、個人的なイエスキリストとの交わりを通して心に天国を再現することこそが祈りであると言う。自分がしている祈りとは程遠い気がする。何か自分が祈っていると思っていたものが本来の祈りとは別次元のものであることが示された気がした。祈りの本質をもう一度考えながら自分の祈りを正しいものにして行きたいと思わされる安息日であった。

2021年6月5日 「主のそば近くに」 礼拝LIVE配信  メッセージは24:40から

 

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サバイバルゲーム

勉強会のこと

今日も中学2年生と一緒に勉強する機会が与えられた。嬉しい限りである。今日も英語と数学の2教科を学んだ。英語は不定詞。不定詞の3つの用法、即ち名刺的、形容詞的、副詞的用法が分かることってそんなに大切なのだろうかと思う。意味を理解するときに「これは形容詞的用法だ」などと考えるだろうか。そんなことを一切意識しないで意味を捉えていると思う。こういうことにたくさんの時間を費やして来たから日本の英語教育は「会話できない英語」を学ぶ教育になってしまったのかもしれない。英語の後は数学を学んだ。数学は基礎力を確実に定着させるために2年生になって学んだ式の基本を最初から学ぶことにした。今日も式の計算をやったが、多くの生徒(高校生であっても)が間違える或いは苦手意識を持っている分数計算を試しにやってみた。1/4+1/3の様な問題である。彼女は少し困った様子だったがしばらく考えて2/7という答えを出した。

分数計算と学校教育

勿論これは誤答である。「惜しい。こうやって計算したくなるよね」と前置きをして分母を同じ数に揃える通分を説明した。途中から何と無く思い出した様で最小公倍数の見つけ方もわかり始めた。結局数分の解説で全てを理解しマスターすることができた。恐らく小学生の時にはもっと苦労して結局最後まで理解できなかったのかもしれない。が、今は理解できるのである。今日の分数計算を見て多くのことを考えさせられた。日本人はどこかサバイバルゲームをしている様に思えてならなかった。生まれたときからサバイバルゲームが始まる。先天的に能力的に劣っている人はその場で脱落。幼稚園、小学校と何度も何度もクリアすべき課題が与えられる。小学1年ではひらがなとカタカナを覚える。勿論その前から覚えている子はたくさんいる。小学2年では掛け算九九を覚える。これらを覚えられなかった子はサバイバルゲームの脱落者となる。一度も失敗しないで優秀な成績で全ての課題をクリアできた人に対して明るい将来が開かれる、そんなイメージを持ってしまう。中学生で分数計算ができないことはいけないことで脱落者なのだろうか?もっといえば誰が18歳で将来の方向性をはっきりさせないといけないと決めたのだろうか。そんなことを決めていない、と大人はいうかもしれないが社会は18歳では当然将来の方向性がはっきりしている前提で青年たちをみる。だからそうでない若者を見れば「遅れている」「脱落者」と評価してしまう。本当にそうなのだろうか。少なくとも自分が関わった多くの生徒たちは違っていた様に思う。一般的には「遅れている」と評される様な生徒たちもその後の人生を立派に切り開いている。決して脱落者などではない。

masaのこと

masaとは彼が小学生の時に知り合った。決して恵まれた環境で育ったわけではない。ご両親が離婚し母親に引き取られたmasaは再婚した父親から虐待され苦しい立場に置かれた。母親とは仲の良い虐待する義父のことを訴えることができず何年も我慢し続けた。結局母親が体のあざを見つけて虐待が判明しそのまま夫婦は別れた。masaは小さい頃からパイロットになりたいと思っていた。そのために必死に勉強したが成績は常に中の下、或いは下の上あたり。masaは試験が返却されるたびに私の家に来て泣いていた。「僕ってバカなんですかね?一生懸命勉強しているのに全然できないんです」と言っていた。勉強の方法、頭に定着する学習法を教え少しずつ成績は伸びたがパイロットを目指せるレベルではなかった。が、彼は夢を決して諦めずに努力した。また彼は熱心なクリスチャンで神様に対する篤い信仰を持っていた。留学し航空機のライセンスをひとつずつ取得していった。単発、双発。徐々にステップアップし日本に戻ってさらに訓練を積んだ。結局彼は不可能と思える夢を諦めることなく現実のものとしたのだ。現在は海外の航空会社で777を飛ばしている。パイロットがすごいと言っているのではない。追い続けた夢を現実のものにしたことが凄いと思っている。それこそmasaは高校でも小学校の勉強で抜けているところがあり「遅れている」生徒であり「脱落者」と評される人物であるかもしれない。が、結果をみれば決してそんなことはない。日本の教育、或いは教育現場の価値観は本当にこれで良いのだろうか?と思ってしまう。分数計算ができなかった中2の彼女に言いたい。「できないことがいくつあっても気にするな、人生まだ始まったばかりなんだから」。同様に社会や人を評価する人に言いたい。「できたこと、できなかったことで人を評価することが本当の評価ですか?その人の価値は存在ではないですか?人間の本質を評価できないあなたこそ哀れな人間と評価されてしまいますよ」と。

20210529礼拝 子ども 柴田照司

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理想の学び舎

勉強会

今日も中間休みで寮から自宅に戻って来ている中学生と一緒に勉強をした。仕事の合間を縫っての勉強会なので学校の授業とは違い集中することが難しかったがそれでも久しぶりに教員気分を味わうことができた。本当に感謝なことである。今日は英語と数学。英語の教科書を久しぶりに見たが内容や編集の方法がかなり変わっていることを実感した。生徒が興味を持って学べる様な事柄を題材に選び、また昔の様に文法重視の編集ではなくなっている。自分の記憶では関係代名詞を学ぶときは集中してそれだけを学び、who  when  why   what   thatなどを順番に習ったが今はそうではない。さりげなく関係代名詞を用いた文章が出てくる。しかもthatでいきなりこれを省略するパターンが用いられている。小学生の頃から英語を学んでいるのでこういうスタイルになるのかな?と思いながら学んだ。英語も数学もなかなか面白かった。

理想の学び舎 

久しぶりに教員気分を味わうことで、忘れようとしていた記憶が蘇って来てしまった。やはり教員はいいな、と心から思った。生徒の表情を見ながらその理解度を判断しながら授業を進めていく緊張感、そして要求される臨機応変な授業展開は正に教員しか味わうことのできないものだと思う。

自分は昔から理想の学校を自分で作ってみたいという夢があった。自分の理想というより神様が要求されるもので実際に旧約聖書の時代に存在した学校である。現代の学校教育とはかなり異なったカリキュラム、そして到達目標を掲げて運営される学校、そんな学校をつくってみたい。自分が信頼する教員だけが集まって、神様と生徒だけをみながら教育活動を行う学校。旧約聖書の時代にはその様な学校を「預言者の学校」と読んでいた。その預言者の学校が無性につくりたくなってしまった。学校教育や預言者の学校についてE.G.Whiteという人はたくさんの文章を残している。そのいくつかを紹介したい。

私たちの学校で行われる教育の内容はどのようなものであるべきでし ょうか。一般社会の知恵に準じるのでしょうか。それとも、天からの知 恵に従うのでしょうか。教師たちには単に書物からの知識を学生たちに 分け与えるだけではなく、それ以上の働きが要求されています。青年た ちの品性と精神を形作る大切な働きをする教師たちには、青年たちの指 導者であり解説者として、最も重い責任が負わせられています。この重 い責任を果たすために、教師たちは、均整の取れた品性と調和のとれた 精神を必要とします。彼らは、洗練された作法ときちんとした服装、そ して生活習慣に対する注意深さと、他人からの信任と尊敬を勝ち取る真 のクリスチャンとしての礼節を身につけなければなりません。教師たち は、学生たちに期待する彼らの将来の姿を、自分自身の中にはっきり描 いていなければなりません。教師たちは、羊の群れを見守る羊飼いのように学生たちを見守る必要 があります。彼らは貴重な評価を受けるべき魂として、学生たちを大切 に扱うべきです
次世代につなぐ信仰 電子版 p40

ある人々は、安全で危険性がないと思っている一般的な教育内容を教 会学校の教育内容に取り入れられると考えています。教会学校や病院な どで働いている人たちは、一般社会で行われている事柄を研究し、日常 的に使われている事柄を自分たちの学校や病院の運営に取り入れなけれ ばならないと考える傾向があります。しかしながら、神様の御言葉の研 究に特別な注意を払わないならば、私たちはたくさんの間違いと危険性 に出会います。教育内容に聖書を取り入れるとき、不信仰な教育内容と 併用するような方法を取るべきではありません。神様の御言葉の内容は 最優先される課題であって、主要科目なのです。私たちは聖書の研究に おいて過去の時代よりも進歩してきましたが、まだまだ多くの学びと研究を必要としています。
次世代につなぐ信仰 電子版 p6

サムエルが建設した預言者の学校は、イスラエルの背信の時代に衰微してしまっていた。エリヤはこうした学校を再建し、若い人々が律法を大いなるものとし、かつ光栄あるものとする教育を受けられるようにしたのである。これらの学校のうちギルガルとベテルとエリコにあったものが記録に記されている。エリヤが天に携え上げられる直前に、エリヤとエリシャはこれらの教育の中心地を訪問した。神の預言者は以前に訪れたときに与えた教訓を今、また繰り返した。特に彼は天の神に対して彼が真心から忠誠をつくすという彼らの大いなる特権について教えた。彼はまた彼らの教育のあらゆる面が、簡素を特徴とすべきであることの重要性を彼らの心に印象づけた。このようにして彼らは初めて天の型を受け主の道に従って行くためにでていくことができたのである。
国と指導者 上 P192

Golden Angels 6

 
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久しぶりに

今日のこと

今日もいつもと同じ様に5時過ぎに起床した。が、出勤できないのでゴロゴロとしていた。二度寝したわけではないが何と無く布団の上で本を読んだり聖書を読んだりしていた。朝食を摂ってボーッとしていたら午前9時過ぎにP.C.R.検査の受付をしてくれたクリニックから電話があった。相手が凄く恐縮した声で話すので「もしかしたら陽性だったのかな?」と一瞬不安になった。自分は濃厚接触者を車に乗せていたということで検査を受けた。即ち濃厚接触者の更に濃厚接触者として待機していた。そして濃厚接触者は陰性だった。だから自分も陰性だろうと思ったが、同時に最悪のことも考えた。即ち濃厚接触者が陰性で自分が陽性判定が出ること。こうなれば感染経路も分からないし、自覚がないから何人もの患者さんを車に乗せて送迎してしまっている。勤務先の医院でクラスター騒ぎになったら自分は首をつるしかない。そんな最悪なことも考えていたから、電話の暗いトーンが恐怖になった。が、次の瞬間「陰性でした」と言われて本当にホッとした。そのことをすぐに勤務先に報告した。「院長と今後のことを話し合って折り返し連絡します」とのことだったが5分後に電話があり「陰性で濃厚接触者も陰性だから問題ありません。すぐに出勤してください」と言われた。この様な展開を想像していなかったので出勤する準備は出来ていなかった。慌てて準備をすませ仕事についた。慌ただしかったが出勤できて本当によかった。やはり仕事ができるということは感謝すべきことでやっと社会の一員に戻れた気分だった。

もうひとつのこと

自分が出勤するのを今や遅しと待っている(?)人がいた。初対面の中学生だが、仕事場でお世話になっている方のお嬢さんだ。中間試験が終わって一息つくための中間休みで自宅に戻って来ている。彼女の家庭教師をすることを約束していた。勿論仕事があるので合間を縫っての勉強会ではあるが久しぶりに人に勉強を教えることができるので、自分はこの機会をとても楽しみにしていた。送迎がひと段落したところで彼女のところに行って自己紹介をした。そして数学から勉強することにした。今日の勉強は連立方程式。中学生にも分かる説明をしようと久しぶりに頭をフル回転させて頑張った。数の概念、特に正負の概念が少し曖昧になっている気がしたので数直線を何度も書きながら説明した。久しぶりに勉強ができ、しかも人に教えることができとても充実した時間を過ごさせてもらった。そしてとても楽しかった。明日も一緒に勉強することにしている。明日は数学と英語の2教科を勉強しようと思っている。彼女の母親曰く「be動詞が分かっていない」とのこと。自分も中学生の時にbe動詞がよく分からなかった。自分が勉強した頃は「…である」と説明されたが、これは正しくないことが後々分かった。しかし正確にbe動詞を説明しようと思えばかえって難しくなってしまう。聖書の中にもbe動詞が有名な聖句がある。”I am that I am.”という言葉だ。神様が自分自身を紹介するときに用いた表現である。日本語ではこれを「私はありてあるもの」と訳している。むしろ分からない。何れにしても明日の仕事、そして勉強会が楽しみである。短期間限定の教師復活。ありがたい。

When I Cry | Fountainview Academy | Official Cover | 4K

 

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それで大丈夫?

本当のこと

長男が寮生活に重荷を感じるようになり現在の家である妻のところに帰った。一昨日妻から電話があり本当にあったことを教えてもらった。確かに舎監が多くの仕事を寮長である長男に任せるので勉強との両立ができずパンクしてしまった面もあったようだが他にも理由があった。それはちょうど1週間ほど前に長男のバイオリンが誰かによって壊されてしまったのである。長男が所有しているが実は私のバイオリンである。長男には寮生活で高価なものを持つのはあまり良くないと30万円ほどのバイオリンを持たせていた。しかし私のバイオリンを一度弾いたことがありそれ以来このバイオリンが気に入ってしまったようだ。仕方がないのでおよそ100万円のバイオリンを長男に持たせることにした。そして自分は長男が使っていた30万円のバイオリンを使うようにした。確かに100万円は高価ではあるがバイオリンの世界では100万円のバイオリンといえば結構多くの人がこのクラスのものを使っている。だいたいい音楽大学でバイオリンを専攻する人で最低200万円程度のバイオリンを使うと言われている。手工品であればどんなに安くても50万円から80万円程度の値段なので100万円というには決して高価ではない。が、長男にしてみれば父親から譲り受けた大切なバイオリンが壊されたということがショックだったと思う。また寮のために一生懸命に働いて来たつもりなのに誰かの恨みを買っていたのではないかというのも落ち込む原因となった。そして子どもは母親の元に帰って行ったのである。子どもの学校から連絡があった。校長からだった。以前は彼は自分の部下だった人間である。真面目ではあるが機転が利かない。生徒に対する愛情が希薄でそのくせ役職にこだわる人間である。彼が教頭をしているときに、自分の同僚が暴力を受ける時間があったがその教頭(現在の校長)は被害者である同僚をかばうことなく加害者に加担する形をとってしまった。教育局長も間に入ったがこの教育局長が更に曲者で結局暴力被害を受けた同僚は「自分が選んだ」という形に追い込まれて他の部門に移動となり教員をやめることとなってしまった。現在の校長、そして教育局長がいかに間違った判断を意図的にしたかがわかる重大な事件だ。こんな問題を起こしてでも自分が校長になることに拘った人間であるので、今回の長男の問題も良い解決を導けるわけがない。

集団に訴える

この校長が何をしたか。実は中学生を集めて長男のバイオリンが壊されたことを報告しこれをやったものは名乗り出ろと訴えたのである。この手法はよく学校のドラマなどでも見ることがあり、実際にこのような指導を行う学校も多いのだと思う。しかし、自分はこの方法に疑問を持っている。正直な気持ちを言えば「こんな訴えでやった生徒が出てくるわけがない。むしろ逆効果だ」と思っている。なぜだかお分かりだろうか?こういう訴えかけをすれば、やっていない生徒たちの数名がいきり立ってくる。「誰だよ、そんなことをする奴は。出てこないなら自分たちで見つけてやる」と息巻くタイプの生徒たちである。一見正義感があるような感じがするが、この校長の訴えかけはこの息巻く生徒の行動を助長しただけで終わってしまうのである。バイオリンを壊した生徒は必ずいる。しかし、その生徒にも良心はあると自分は信じている。その良心に訴えかけて本人が「自分が悪いことをした」と反省することが優先されるべきである。暴力的に犯人探しをしてあぶり出す方法は警察の手法であって教育現場のやり方ではないと自分は思っている。やってしまった生徒のこれからのことも考えてあげなくてはならない。その生徒がみんなから後ろ指を刺されて学校に居づらくなる環境を作ることがまさに今回校長が全校集会を開いてしてしまったことなのである。教育者、学校の責任者なのにこのようなことも考えられないのが情けないし、こういうことだから生徒に寄り添えないのだと改めて実感した。やってしまった生徒もやられた生徒(今回はうちの長男だったが)も同じように尊い魂なのである。その愛が根底にない今回の校長の行動が自分には許せないのである。子どもが傷ついたことは悲しい。しかし今回はたまたまうちの子が被害者であったが、次はうちの子が加害者になることも十分に考えられるのだ。その時にうちの子は犯人探しの視線に晒され、万が一犯人だとバレたら立ち直れないくらいのショックを受けるのである。そのような教育をこの校長は自ら率先して「これこそ正義で、校長自ら訴えているのだから素晴らしいだろ!」と意気揚々と誇らしげにそのことを報告していた。何も言えなかったがどうしても加害生徒が可哀想になり「北林くんのしたことは警察では評価される。しかしミッションスクールでは最低の方法だと自分は考える。少なくとも自分は教員生活の中でそのような行動をしたことは一度もない」と言った。憮然としていた。人間には色々な面があり、時と場合によってその行動も大きく異なることがある。その中で犯してしまったたったひとつの失敗でその人を立ち上がれないほど傷つけても良いのだろうか。少なくても、この校長は自分の同僚には癒えない心の傷を与えておきながら一切意に介さない。恐ろしい校長だ。
Here I Am To Worship / The Call – Hillsong Worship

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長男のこと

帰省

今日の沖縄便で長男は広島から沖縄の家に帰った。母親のところに戻った。飛行機に乗る直前までLINEでやりとりをしていた。何とか元気付けようと励ましの言葉をかけ続けた。母親のところに帰れる安堵感も手伝って少しずつ声に張りが出てきたので少し安心した。大人ぶっているけれどまだ中学3年である。色々な重すぎる荷物を背負っている長男を本当に気の毒にまた申し訳なく思っている。自分がもっときちんとした父親だったら息子はこんなに傷つかずに済んだのに、自分がまともな父親だったらもっと幸せだったのにと思ってしまう。搭乗してからもしばらくはLINEが繋がっていたがしばらくすると機内モードに切り替えたようだった。それでも1人で飛行機に乗って2時間近くも旅をする子どもが心配で、趣味の航空無線を聴くために入れているアプリ「Flightradar24」というものを使って子どもが乗っている飛行機を追跡していた。このアプリは地図上に現在地を知らせるマーカーがつき、速度と高度も同時に表示されるものでとても重宝している。大分の東を過ぎ宮崎から鹿児島の上空を通り沖縄本島に向かう。基地がある関係で沖縄本島上空は低空飛行をしなくてはならない。およそ1200ftの高度を維持して本島西側を通り那覇空港に向かった。着陸は新滑走路で予定時刻よりも数分早く到着した。梅雨の影響もあり飛行機が揺れて怖い思いをしなかったか、酔わなかったかと心配になってすぐにLINEで確認した。空港には母親が迎えに来ているのでこれから合流すると言っていた。

妻のような教員

昨日も書いたが、やはり一番いけないのは親である自分だと思っている。家庭の重荷まで背負わせてしまい子どもを傷つけていることを十分反省している。そのことは妻にも何度となく話しているが聴く耳を持たない。子どもへのメールで、こんなことを書いて送った。
「今回○○君(子どもの名前)がこういう風になったのは決して自分のせいでは無いから自分のことを責めないでね。パパを筆頭に周りにいる大人の責任なんだよ。本当にごめんね。でもね、もしも○○君の学校にママがいたらきっと○○君は家に帰ることもなく学校でそのまま元気に生活できていたと思うよ。ママは担任をしている時も舎監をしている時も、困っている人や悩んでいる人を発見する天才だったんだよ。そしてそういう人を見つけると家に呼んでご飯を食べさせて、ドライブに連れて行き何時間でも話を聴いて痛んだ。それを毎日のように繰り返していたよ。だからママのホームルームは本当に笑顔の生徒が多くて仲がよかったんだ。ママはそういう先生だったんだよ。」
妻は本当にそういう能力に長けている教師だった。だから生徒はもちろん保護者からも特別に信頼されていた。かつて働いていた学校には、もうこういう先生がほとんどいなくなってしまった。こういうスピリットを持った先生は何故か排除されてしまった。神様は一体どこをご覧になっているのだろう。このままこの学校の教育力を低下させ学校を潰すことが目的なのだろうか。本当にまともな先生がいなくなってしまったのだ。2人ぐらいしか残っていない。いつかこの学校を追いやられた、本物の教員が集まって教育活動ができたらいいなと、夢のようなことを考えている。教育の目的、それは救済であり子どもたちをイエス様のところに導くこと。これ以外に無い。そして教育の根本に不可欠なものは「愛」である。所謂「教育熱心な方」にしてみたら「何をバカな、甘いことを言っているのか」と言われてしまいそうである。でも本当の教育の価値が評価されるのは間も無くおとずれるイエス様のご再臨の時である。その時になっていかに間違った価値観で子どもを育てていたかが明白になるだろう。自分がかつて働いていた学校も残念だけれどやはり道を誤った学校に成り下がってしまった。
数学ヤクザ 荻野 暢也 愛のある説教

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教える、教えられる

職場にて

毎日職場で色々なことを教えていただいている。早く仕事に慣れて少しでも職場に役に立ちたいと思っているがなかなかうまくいかない。まず仕事が覚えられない。今教えてもらっている仕事は透析患者さんの送迎。家までの道順を教わっているがメモをしながら何とか覚えようとしているが土地勘がないため思うように覚えられない。また致命的なのは病院から各自宅までの道は何と無く憶えているが先方から別の方の住宅までの道順は全くわからない。常に病院をスタートにしないと分からないのである。教えていただいているのになかなか理解できないので本当に申し訳なく思っている。あまりにも役に立たないので、時間外にコンピュータの入力作業などを毎日1時間から2時間手伝っている。役に立たないことが本当に苦痛で仕方ない。ところで教えて頂く自分に問題があるのだが、教員をしていたせいか教え方にもそれぞれタイプがあることを理解した。基本的に教えることがあまり得意でない人が多いのが一般の職場なのだと思う。自分が教えて頂く立場であれば、まず全体的なところから徐々に細部の説明に入っていくことの方が理解しやすい。が、ほとんどの方はいきなりコアな部分から教えようとする。また教えるよりも自分でやった方が早いので口頭で教えはするが作業は全て自分がしてしまうタイプの方もいらっしゃる。もともと津軽弁が理解できないから話の3割程度しか分かっていない。野球選手ならそこそこの成績だが教えて頂くものとしては3割打者はきつい。せめて7割は行きたい。

イエス様の教え方

イエス様は実践教育と例え話による教育が多かったように思う。湖上を歩くイエス様をみたペテロは自分もそのようにしたいと願った。イエス様は「あなたにはまだ早い」とも言わず「ではこちらに来なさい」とペテロに湖上を歩くよう促した。最初は歩けたが足元の荒波を見て怖くなると途端に溺れてしまった。不信仰によってこの世の恐怖に溺れてしまうことを実践的に教えられた。また一見分かりやすいようで実は内容が深くて濃い例え話をされることも度々あった。その教育により弟子たちはよく考えるように訓練された。しかし何よりも学ぶべき点は「愛情」である。自分も教員時代、イエス様の教育の根底には常に愛情があることを発見しそれを真似するようにしていた。愛情でしか子どもは育たない、というのが自分がイエス様から学んだことだ。知識を増やしたり計算力をつけるだけならば愛情は特に必要ないのかもしれない。しかし人間が全人的に成長するためには必ず愛情がないといけない。また、学ぶ側も常に教えてくださる方に対してリスペクトの気持ちを持っていないと学べないように思う。すなわち教育は愛情を根っこに持ち、人と人との人格的な交わりの中でのみ全人的な教育というものが成立すると思う。教員ではなくなったが、常に人に教えられ、教えることができる品性を磨いておきたいものである。

Make Me a Servant

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