浦添城

国保

今日で浦添市役所に通うのも5回目。毎回国保の加入でつまづいてる。今日こそは息子の国保加入が叶うことを祈りながら行ったが、要領を得ない職員が対応してくれた。窓口の対応は5名ぐらいいるがその中で2人の職員さんは全く事情が飲み込めていない。なのに指示を出すので毎回那覇市役所で必要書類を取り寄せて浦添市役所に行くも別の担当者に門前払いされる。こんなことを繰り返しているので埒があかない。前回、初めて事情がわかる職員さんがかなり切り込んだ対応をしてくださり、あとふたつの書類を揃えれば良い、というところまで漕ぎ着けたのに今日は再度事情の分からない職員さんが担当になってしまい絶望的な気持ちになった。案の定やり取りをしているうちに振り出しに戻ってしまった。泣きたい気持ちだったが祈りながら冷静に話していると、どこからともなく前回の担当者さんが現れて「あ、私が代わります」と言って自分の書類を持って奥の方に行ってしまった。しばらくしてその方が戻ってくると「必ず今日発行できますので安心してください」と仰った。本当に涙が出るほど嬉しかった。事実それから15分ぐらい待つと、待ちに待った長男の保険証が出来上がってきた。心から神様に感謝した。

浦添城

無事に保険証を発行していただいたので直ぐ郵便局から長男宛に書留で送った。この時点で午後1時すぎ。今日は市役所から3kmぐらい離れたところで妻、次男と待ち合わせしている。午後4時の約束なのでまだまだ時間がある。しかし徒歩なのでそれほど遠くには行けず、何度も行った浦添城とハクソー・リッジを見学することにした。市役所からはそれほど遠くないがそれでも歩きだと上り坂なので結構きつい。2km弱歩いてやっと浦添城跡に到着。浦添城の城壁は全て復元であるが、この場所に「浦添ようどれ」がある。英祖王と尚寧王とその一族のお墓である。お墓ではあるが、ここは大戦中に「ハクソー・リッジ」として有名になった激戦地である。お墓は無残にも破壊され、現在のものは修復を施したものである。以前にも投稿したがこのハクソー・リッジでデズモンド・ドスが敵味方関係なく前田高地という崖から負傷兵を下ろし続けた。デズモンド・ドスは敬虔なクリスチャン(セブンスデー・アドベンチスト教団)であり、その功績が評価され大統領から直接勲章を授与された。また日本でも敵としてではなく英雄としてその名が知られ後世に伝えられている。彼を主人公にした映画ハクソー・リッジは彼の証言を忠実に再現した映画と言われ高い評価を受けている。

祈り

デズモンド・ドスが「主よ、もう一人を助けさせてください」と祈り一人、また一人と多くの負傷兵を助けたその場所で自分も祈ってみた。自分にもまだ神様の働きで役に立つことがあれば用いてください、一人に福音を宣べ伝えさせてください、と。

 

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推薦状

受験用推薦書

今までどれほど多くの推薦状を書いてきただろうか。高校3年生の担任ともなれば毎年数十通の推薦書を書かなくてはならない。進学指導、進路指導を担当する時期が長かったので各種推薦書を書いてきた。推薦文だけを読むと「いったい誰のことだろう?」と思うほどの文章を書くので毎年いくつかの大学から受験生が指摘を受けてくる。「この書類は担任の先生が書いたのですか?」と質問されるらしい。受験生よりも推薦文に興味を持つらしい。国内だけでなく海外の大学にもRecommendationを書く。勿論稚拙な英文しか書けないから手伝ってもらう。また奨学金や就職先に対する推薦文も書く。稀に自分の名前で書く推薦書もあるが、基本的にはどれほど良い文章、面倒な文章を書いたとしても書類作成者は校長になる。全責任を校長が負ってくれる書類なのだ。教頭になってからは自分の名前で推薦書を書くようになったが、場合によっては推薦文によって合否、可否が決まることもあるので生徒の特性をしっかり捉え誇張の少し手前の文章を書く能力が求められる。

信徒が推薦状

パウロはコリントの信徒に対して、信徒自身がキリストの推薦状だと言っている。

パウロは、コリントの兄弟たちを、彼の推薦状と見なした。彼は、次 のように言った。「わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それ は、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読ま れている。そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られた キリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石 の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあ らわしている」。
患難から栄光へ電子版p249 患難と栄光

肝に銘じる

抜粋の文章は「牧師」と書かれているが、今現在イエス様を信じておりイエス様をのべ伝えようとする全ての信徒に当てはまる言葉だと思っている。いくつか思い当たることがあり、まさに自分のことだと肝に命じた文章である。

真の牧師は、主の働きをする。彼は、自分の働きの重要性を感じ、自 分の教会と世界とに対して、キリストが持続されたのと同様の関係を持 続すべきことを自覚する。彼は、うまずたゆまず、罪人をもっと高尚な 生活へと導き、勝利者の報賞を彼らに得させようとする。祭壇からの燃 える炭が彼のくちびるに触れ、彼はイエスを、罪人の唯一の希望として 掲げる。彼の説教を聞く者は、彼が、熱烈な力ある祈りによって神に近 づいたことを知る。聖霊が彼の上にとどまり、彼の心は燃えさかる天か らの火を受け、彼は、霊によって霊のことを解釈することができる。彼 には、サタンの砦を破壊する力が与えられる。人々は、神の愛について の彼の説教を聞いて、心をくだかれ、多くの者が、「わたしは救われるた めに、何をすべきでしょうか」とたずねるに至る。
患難から栄光へ電子版p250 患難と栄光

土の器

パウロは、続けて言った。「しかしわたしたちは、この宝を土の器の 中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたち から出たものでないことが、あらわれるためである」。神は、罪なき天使 たちによって神の真理を宣布することもおできになったが、しかしこれ は、神の計画ではない。神は、神の計画を実施する器として、弱さを持 った人間をお選びになる。この上なく貴重な宝が、土の器に盛られる。 神の祝福は、人間によって世界に伝えられるのである。彼らを通して、 神の栄光が、罪の暗黒の中に輝き出るのである。
患難から栄光へ電子版p251 患難と栄光

「陰謀論」と「時のしるし」

 

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ペテロの救出

ペテロ

最初にイエス様の弟子となったペテロが新約聖書に登場する。アンデレの兄である。直情型でお調子者。あまり深く考えずに不用意なことを言ってしまうところもある。が、一方でイエス様の様子やイエス様の信仰生活を間近で見ておりその影響を強く受けた。特にイエス様の十字架の場面ではあれほど深い愛情を示されたにも関わらず師なるイエス様を知らないと言ってしまう。後悔の涙をなんども流しながら反省した。自分なんかもうだめだ、と思ったことも何度もあっただろうがそれでもイエス様の憐れみ深い眼差しに触れて大きな回心を経験する。

そんなペテロが翻ってイエス様のために自分の命をも惜しいと思わない生き方に変えられていった。最終的には殉教するが、イエス様の十字架以降大きな活躍をする。その場面を今朝読んでいた。

不都合なペテロ

「そのころ、ヘロデ王は教会のある者たちに圧迫の手をのばし」た。当時、ユダヤの政府はローマの皇帝クラウディウスの支配下にあったが、ヘロデ・アグリッパ王が実権を握っていた。ヘロデ王はまたガリラヤの領主でもあった。彼はユダヤ教への改宗者であると公然と名のり、うわべだけはユダヤのおきての祭儀を熱心に守った。ヘロデはユダヤ人の支持を受けて、自分の地位と栄誉を確保したいと思い、ユダヤ人の望みどおりにキリスト教会を迫害し、信者の家や所有物を破損し、教会の指導者らを投獄した。彼はヨハネの兄弟ヤコブを 獄 に投げ込んで、もう1人 のヘロデ王が預言者ヨハネを打ち首にしたように、剣で彼を殺すために 死刑執行人を送った。このような行為が、ユダヤ人を喜ばせたことを知 って、彼はペテロをも投獄した。

患難から栄光へ電子版p109 牢獄から救われたペテロ

刑の確定

ついにペテロの処刑の日が決まったが、信者たちの祈りはなお天にのぼっていた。彼らが精力と同情の気持ちを注ぎつくして熱心に助けを祈 り求めている時、神のみ使いたちは投獄されている使徒を見守っていた。

ヘロデは以前に、使徒たちが獄から逃げたことがあるのをおぼえていたので、今度は用心に用心をした。どうみても救われる可能性がないように、 ペテロは16人の兵卒に夜昼寝ずの番で監視された。また獄房では2本 の鎖につながれて2人の兵卒の間におかれ、その鎖はそれぞれ兵卒の手 首に結びつけてあった。ペテロが少しでも動けば必ず彼らに気づかれた。

患難から栄光へ電子版p110 牢獄から救われたペテロ

処刑前夜

処刑が予定されていた前夜のことである。ペテロを助けるために力強い天使が1人送られる。神の聖徒ペテロを閉じ込めていた頑丈な門は人 手によらずに開く。至高の神のみ使いがそこを通り抜けると、門は音も なくしまる。天使が獄房に入っていくと、ペテロは神を信頼しきって安 らかに眠っている。

天使をとりまいていた光が獄房いっぱいにひろがるが、ペテロは目をさまさない。天使の手が触れるのを感じ、「早く起きあがりなさい」という声を聞いてはじめて目をさました彼は、天の光が獄房に輝き、大いな る栄光の天使が前に立っているのを見る。彼は語りかける言葉に機械的 に従い、立ち上がりながら両手をもちあげた時、鎖が手首から落ちてい るのにぼんやり気がつく。

再び天使の声が「帯をしめ、くつをはきなさい」と命じると、ペテロ は天使を不思議そうに見つめながら、機械的にその命令に従い、夢か幻 を見ているにちがいないと思う。またもや天使が「上着を着て、ついてきなさい」と命じる。天使が戸口のほうへ歩き出すと、日ごろおしゃべ りなペテロも、この時ばかりは驚いて物も言えずにだまってついていく。 彼らが番人をまたいで通り過ぎ、錠前の頑丈な門のところに来ると、門 はひとりでに開いて、すぐまた閉じる。その間、内側と外側の番人は動 かずにその部署についている。

患難から栄光へ電子版p111 牢獄から救われたペテロ

次にまた内外とも見張りのついている2番目の門に来る。それははじ めの門と同じように開き、蝶つがいのきしる音も鉄のかんぬきのガチャ ガチャいう音もしない。2人はそこを通り抜ける。門はまた音もなく閉 じる。第3の門も同じようにして通り過ぎ、表通りに出る。1言も声は なく、足音もしない。まばゆい光につつまれた天使は音もなく前を歩い ていくので、ペテロはとまどい、夢ではないかと思いながら、そのあと からついて行く。こうして2人が1つの通りを過ぎると、自分の任務を 果たした天使は突然姿を消す。

天来の光が消えると、ペテロは真のやみの中に取り残されたように感 じた。しかし暗やみに目がなれて来ると、その暗さも次第にうすらいで きた。彼はただ1人静かな通りに立って、冷たい夜風にさらされていた。 ようやく彼は自分が自由の身となって、なじみの深い町の一角にいるこ とを悟った。彼は自分のいる場所がわかった。そこは彼がたびたび来た ところで、翌朝はそこを通って刑場に向かうはずであった。

ペテロは過ぎ去った数分間の出来事を思い起こそうとした。彼はくつ も上衣も取り去られて2人の兵卒の間につながれ、眠ったことを思い出 した。今自分の身のまわりをよく調べてみるとちゃんと上衣を着て、く つもはいていた。残酷な鉄かせをはめられてはれあがっていた手首は自 由になっていた。彼は自分の救われたのが気の迷いでも夢でも幻でもな く、喜ばしい現実であることをさとった。あすは死刑に処せられるはず であったのだが、見よ、天使が彼を獄屋と死から救い出したのである。 「ペテロはわれにかえって言った、『今はじめて、ほんとうのことがわか った。主が御使をつかわして、ヘロデの手から、またユダヤ人たちの待 ちもうけていたあらゆる災から、わたしを救い出して下さったのだ』」。

使徒は、兄弟たちが集まって、彼のためにその瞬間も熱心に祈ってい る家へとすぐさま向かった。「彼が門の戸をたたいたところ、ロダという 女中が取次ぎに出てきたが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり、 門をあけもしないで家に駆け込み、ペテロが門口に立っていると報告し た。人々は『あなたは気が狂っている』と言ったが、彼女は自分の言う ことに間違いはないと、言い張った。そこで彼らは『それでは、ペテロ の御使だろう』と言った。

患難から栄光へ電子版p112 牢獄から救われたペテロ

守り

天使に命じられたところに行って、真理を求めている1人の人に会っ たピリポの経験、神からの使命をもった天使の訪問を受けたコルネリオ の経験、投獄され死刑の宣告を受けながらも無事に天使に助けられたペ テロの経験、どの経験もみな、天地間のつながりの密接なことを物語っ ている。

こうした天使のおとずれの記録は、神の働き人に力と励ましを与える にちがいない。今日、使徒時代と全く同じように、天の使者たちは地上 くまなくおとずれて、悲しむ者を慰め、罪びとを守り、人々の心をキリ ストに導いている。われわれは天使たちを見ることはできないが、彼ら はわれわれと共にいて導き、守り、行く手を示しているのである。

天はその神秘的なはしごにより、地へと近づけられている。その 土台は地に固くすえられ、その頂点は神のみ座にまで達している。

患難から栄光へ電子版p115 牢獄から救われたペテロ

試練に会っている者、苦しんでいる者、誘惑に陥っている者の近くに 来るのが天使の働きである。彼らはキリストが身代わりにいのちをささ げられた人々のために、たゆみなく働いている。罪びとが悔い改めて救 い主のみもとに行くと、天使たちはそのおとずれを天に携えて行く。す ると天使たちのあいだに大きな喜びが起こる「。罪人がひとりでも悔い改 めるなら、悔改めを必要としない99人の正しい人のためにもまさる大 きいよろこびが、天にあるであろう」(ルカ 15:7)。暗黒を追いやっ て、キリストについての知識をひろめるわれわれの努力が成功するたび に、天にそのことが知らされる。父なる神のみ前にその行為が取り上げ られると、全天軍は喜びにわくのである。

天の支配者や権威者たちは、神のしもべたちが、見たところ思わしく ない状況のもとでつづけている戦いを見守っている。クリスチャンが救 い主のみ旗のもとにはせ参じ、信仰の戦いをりっぱに戦いぬく時、新し い勝利が遂げられ、新しい名誉が勝ちとられているのである。天使たち はみな神のつつましい信徒たちに仕えている。

患難から栄光へ電子版p116 牢獄から救われたペテロ

Golden Angels Reunion Concert 2012 ‘One Voice, One Mission’ 01 Blessed Assurance’ HD

 

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医学部医学科

予備校事情

職場には時々医学部進学塾のパンフレットが届く。職場としては殆ど不要なのだが個人的に興味があるので目を通す。以前に「北○○予備校」という学校が各地に学校を展開して話題となったが前職の生徒も数名お世話になった。自分が受験生だった頃には両国予備校が似たような形態をとっていた気がする。生活も含めて管理し徹底した受験指導を行う。いくつか手元に届いたパンフレットもやはり同じようなものだ。それにしても費用がすごい。学費だけで550万円。そのほかの諸費用でおよそ100万円。更に寮費と食費でおよそ150万円。1浪したら800万円である。自分の通った大学にも医学部はあったが、記憶しているのは年間800万円ぐらいだったこと。物価の上昇に伴いこれぐらいが妥当なのかもしれない。しかし、この金額を払える家庭は非常に限られていると思う。この辺から医学部受験が始まっているのかもしれない。

大学事情

現在医学部医学科をもつ大学は82校。国立大学が42、公立8、私立31と防衛医科大学である。合計定員は令和4年で9374名。平成19年(増員前)の定員が7625人だったので1509人増えている。現在は工学系や情報系大学が人気を集めているので若干そちらに流れる傾向はあるものの受験生はほぼ横ばいである。また受験者、進学者ともに女性が増加しているところも注目すべき点かもしれいない。

背景

コロナの影響があった上でのデータなのか、或いは直接的な因果関係は無いのか分からないが医学部に限らず将来に対して資格や技術でチャレンジしようとする姿勢が若者世代にあるような気がしている。「無難」や「でもしか」という言葉の中で育った自分世代は大きな企業や国に抱え込んでもらえれば安全だと思っていた。が、今はそういう時代では無い。大手大企業が倒産したり改組、或いは他社に吸収される時代である。自分の身は自分で守る、という観点から資格や技術の取得習得に向くのは至極当然のことと言える。併せて、コロナが医療を脅かす昨今「何かの役に立ちたい」という思いから医療に志願する若者もいると思う。

医療だけではないが、全ての学生、生徒、児童さんたちが夢をもって将来を考えられることを願い祈りたい。

「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。 主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。 主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、 わたしの足を岩の上におき、 わたしの歩みをたしかにされた。」
詩篇 40:1-2 口語訳

 

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聖書

終末

各種SNSには終末に関する警告が溢れている。また終末予言も多く見かける。少し前のことではあるが「わたしが見た未来」という漫画(たつき諒さん作)話題になり近頃最新版が出版された。話題になったのは3.11やダイアナ妃の事故などを予言についてであった。今回出版された新版には「本当の大災難は2025年7月にやってくる」と帯に記されている。2025年は色々な意味で節目の年である。例の大阪万博が開催されるのが2025年、そして昭和100年問題も2025年。数名の「自称予言者」さんたちも2025年に何かが起こることを予言、警告している。実際、この年に何かが起こるのだろう。しかし、それに対してどのような備えをすべきなのか或いは何が自分を守ってくれるのかは誰も教えてくれない。

また終末論を発信するYoutuberの多くが引用ソースの一つとして聖書を用いる。聖書を文脈で読んでいないためかかなり大胆というか「少し違うのではないか」と思う解釈をしている。解釈だけではなく聖書に書かれていないことも付け加えて「聖書が預言している」と言っている人もいる。情報が錯綜する中で、多くの人がこの地球も終わりが近づいていることを何となく気づいている。しかし、あまりにも恐ろしすぎるので「普段と何も変わりません」というそぶりで日常生活を続ける。

預言

聖書は神様の愛を記した書物である。文学、歴史、教え戒めなどが含まれる中に「預言」もある。「予言」ではなく「預言」である。神様から受けた言葉や啓示を「預かり」記したので「預言」である。ダニエル書、ヨハネの黙示録があると言われるが勿論その要素も多分にある。が、例えばダニエル書のテーマは「神様と共にいること、祈ること」ではないかと思っている。ヨハネの黙示録もイエス様が自分のために何をしようとしてくださっているのかがよく分かる愛の書である。一方、聖書に馴染みのない方からは「預言書」として評価されることが少ない「イザヤ書」や「詩篇」にも多くの預言が記されている。これから起こることをその時代や個人、国に宛てて記すことで危険を回避しようとされたのは神様ご自身である。そして2023年から先の地球や世界がどのようになっていくのかも記されている。

聖書を読ませない

聖書には真理ばかりが書かれているので、サタン(悪魔)はこれを人類が読むことを極端に嫌う。そのため、聖書を人々に読ませないようにしてきた。また聖書を読んでもその価値を低め「価値のない本」と評価するよう人に仕向けた。また、とても悲しく残念なことだが聖書自身が人や教団教派を分断させた。

ローマ教会は聖書を解釈する権利を、聖職者のものとして保留してい る。神の言葉は、聖職者だけが説明することができるという理由のもと に、一般の人々には与えられていない。宗教改革によって聖書は万人の ものとなったが、ローマが主張したのと全く同じ原則が、プロテスタント諸教会の多くの人々が自分で聖書を探究するのを妨げている。彼らは、教会によって解釈されたものとして聖書の教えを受け入れるように教え られる。そのために、どんなに聖書の中にはっきり示されていても、自 分たちの信条に反するものや、自分たちの教会によって確立されている 教えに反するものは、あえて受け入れようとしない人々が何千といるの である。
各時代の大争闘電子版p597 ただ一つの防壁 聖書

ただ、聖書のみ

しかし神はこの地上に、聖書、そしてただ聖書だけをすべての教理の 基準、すべての改革の基礎として保持する1つの民を、お持ちになるで あろう。学識者の意見、科学の推論、教会会議の定めた信条や決議(これ らは、教会の数が多くてその主張も違うように、おびただしい数にのぼ って内容も千差万別である)、大衆の声、― これらのうちの1つであれ 全部であれ、それをもって信仰上の事柄に関する賛否の根拠と見なして はならない。どんな教理や戒めでも、それを受け入れる前に、「主はこう 言われる」という明日な事実をその裏づけとして要求すべきである。
各時代の大争闘電子版p596 ただ一つの防壁 聖書

One Voice, One Mission – Golden Angels

 

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究極の試練

イシマエルとの別れ

アブラハムの生涯は悩みと苦悩の中にあって祈り抜き神様と共に生きた生涯だったといえる。神様から「我が友」との言葉を頂くほどの信仰者である。老齢のアブラハム夫妻に子どもが与えられ、アブラハムから生まれた子どもたちがこの地に満ちることが神様の約束であった。今のように聖書があり同じ信仰を持つ仲間の証を自由に聴くことのできる時代ではない。時々、神様ご自身が語られたり啓示を与えることでそれを信じた。しかもその語りかけや啓示は数年或いは数十年に一度の割合。神様からの言葉を心に刻みつけて数十年信じ続けることは現代よりもはるかに難しいことだと思う。約束の成就が遅れているように感じたアブラハム夫妻は妻の侍女との間に子どもをもうけることが神様の約束だったのではないかと思いハガルとの間にイシマエルをもうける。しかしこれは神様の方法ではなかった。それから更に時を経て約束の子イサクが誕生する。しかし、約束の子どもの誕生でサラとハガルの関係は更に悪化し子どもの成長する環境として相応しくないという理由で、サラはハガルトイシマエルを追い出すようにアブラハムに提案。不承不承アブラハムはこれを受け入れ彼らを家から追い出すことに。子どもを失うことの辛さ、悲しさ、寂しさ、そして自分の判断が間違っていたことに対する後悔の念がアブラハムを苦しめた。神様は約束の子がサラとアブラハムとの間に生まれるように計画したのにそれを待てず自分たちの方法で子どもをもうけたこと、そしてサラを妹だと半分偽ったことをについてアブラハムの信仰を更に完成させる必要を感じられたようだ。

神は、アブラハムを信仰の父として召されたのであるから、彼の生涯は後世の人々の信仰の模範となるべきであった。しかし、彼の信仰は完全ではなかった。 彼はさきに、サラが妻であることを隠し、こんどはハガルと結婚して神への不信を示した。神は、彼が最高の標準に達するために、これまでまだだれも召されたことのないきびしい試練に彼を会わせられた。彼は、夜の幻の中でモリヤの地に行き、そこで示される山の上で、むすこを燔祭としてささげるように命じられた。
人類のあけぼの電子版 p107  信仰を試されたアブラハム

苦悩

イシマエルを失い、今度はイサクをささげるようにとの命令を神様から受ける。自分の知り合いの中にはお子様をなくされた方がいらっしゃる。癒えることのない心の傷を考えると胸が張り裂けそうになる。癒えない心の傷が少しでも和らぐことを祈ることしかできない。聖書の文面だけを読めば人ごとのように思えてしまうが自分が遭遇している場面だと思って読めば苦しくて読めなくなる。

彼は、天幕にもどって、イサクが若者らしく無心に熟睡しているところへ行った。父親は、むすこのいとしい顔をしばらくながめていたが、身震いして離れ去った。彼は、サラのところへ行ったが、サラもよく眠っていた。もう1度むすこを抱かせるために、彼女を起こすべきであろうか。神の要求を彼女に知らせるべ きであろうか。彼は、自分の心中を彼女に打ち明けて、この恐ろしい責任を彼女 にも共に負ってもらいたいと思った。しかし、彼女は、自分を妨害するかも知れ ないと恐れて思いとどまった。イサクは、彼女の喜びであり誇りであった。彼女の生命は彼にしっかり結ばれていて、母の愛情から、彼を犠牲にすることを拒む かも知れなかった。
人類のあけぼの電子版 p109   信仰を試されたアブラハム

アブラハムの生涯中の最長の日が、やっと暮れかけていた。むすこも若者たちも眠っている間、彼は祈り通した。そして、彼は、天使があらわれ、試練はもうすんだ、イサクを傷つけずに母親のもとに帰してもよいというのを期待していた。 しかし、彼の心の苦悩は取り去られなかった。長い日がもう1日続き、その夜も 彼は心を低くして祈った。しかし、耳に聞こえるのは、彼のむすこを奪い去る命令であった。サタンは、疑いと不信を耳もとでささやいたが、アブラハムはその 声にさからった。彼らが、3日目の旅を始めようとしたとき、アブラハムは、北のほうを見ると、モリヤの山には約束のしるしである栄光の雲がかかっていた。 そして、彼は、語りかけた声が天からのものであることを悟った。
それでも、アブラハムは神につぶやかず、主の恵みとまことの証拠を考えて心を強くした。このむすこは、予期しないのに与えられた。尊い賜物を与えたかた は、ご自分の与えたものを取りもどす権を持たれないであろうか。すると信仰は、 約束をくりかえす。「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。
人類のあけぼの電子版 p109  信仰を試されたアブラハム

真の理解者

イサクをささげる苦悩を誰よりも理解できる方が父なる神様である。大切なひとり子イエスキリスト様を死に渡さなければならなかった。

しかし、むすこを死にわたすという父の犠牲の大きさを理解できるのはただ神だけである。アブラハムは、別れの光景を神以外のだれにも見られたくなかった。 彼は、若者たちに残っているように命じ、「わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」と言った(創世記 22:5)。た きぎは、犠牲となるイサクが背負い、父は、刃物と火を持って一緒に山頂さして登った。このように、おりと群れから遠く離れたところで犠牲の羊はどこから来 るのかと、イサクは心の中で不思議に思った。彼は、ついに、「父よ、・・・・火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」とたずねた。ああ、これはなんという試練であったことだろう。「父よ」という愛のこもった言葉が、どんなにアブラハムの心を刺したことであろう。まだ知らせることはできなかった。 「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」(同・22:7,8)。
彼らは、定められた場所で祭壇を築き、その上にたきぎを置いた。そして、アブラハムは震える声で天からの言葉をむすこに知らせた。イサクは、自分の運命 を知って恐れ驚いたけれども、さからわなかった。彼は逃げようと思えば、彼の運命から逃げることができた。悲しみに打ちひしがれた老人は、恐ろしい3日間の苦悩に力がつきていて、元気な若者の意志に逆らうことはできなかったことで あろう。しかし、イサクは幼いときから、すぐに信頼して服従することを学んで いたから、神のみこころが知らされたとき、彼は喜んで従った。彼はアブラハム と同じ信仰を持っていたから、自分の生命を神の供え物としてささげる召しを受 けたことを名誉に感じた。イサクは、父をいたわり、悲しみを軽くしようと努めた。そして、父の弱々しい手を助けて、綱で自分を祭壇に結びつけるのであった。
人類のあけぼの電子版 p110   信仰を試されたアブラハム

試練の意味

苦しい状況。試練。それが仮に本人の蒔いた種であったとしても聖書の世界では因果応報とは言わず摂理と考える。原因がどこにあろうとも試練は神様の許しの中で起きている。その意味が分からず苦しむ。人生を諦めたくなる。刹那的な生き方になってしまう。しかし、アブラハムの生涯を追体験するときに試練が鍛錬であり人の品性を更に清め高貴なものにするためのものであることが分かる。歓迎できることではないが、それが最善の道だと信じることはできる。

神が、アブラハムにその子を殺すように命じられたのは、アブラハムの信仰をためすとともに、彼の心に福音を現実的に強く印象づけるためでもあった。あの恐ろしい試練の暗黒の数日間の苦悩は、人類の贖罪のために払われた無限の神の大犠牲を、アブラハムが自分の体験によって学ぶために神が許されたのである。 自分のむすこを捧げることほど、アブラハムの心を苦しめた試練はなかった。神は、苦悩と屈辱の死に、み子を渡された。神のみ子の屈辱と魂の苦悩を見た天使たちは、イサクの場合のように、介入することが許されなかった。「もうそれでよい」という声は聞かれなかった。堕落した人類を救うために、栄光の王はご自分 の生命をお捧げになった。神の無限のあわれみと愛の証拠として、これ以上の強力なものがあるだろうか。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらな いことがあろうか」(ローマ 8:32)。
人類のあけぼの電子版 p112  信仰を試されたアブラハム

2022813 「喜びが満ちあふれるため」 安息日礼拝LIVE配信

 

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ヤコブの悩みの時2

はじめに

今日も昨日引用した書物から、その続きを紹介したい。

恐るべき苦悩

サタンは神の天使たちの前でヤコブを訴え、彼は罪を犯したのであるから自分には彼を滅ぼす権利があると主張して、エサウに働きかけて彼のほうへと向かわせていた。そして、ヤコブの長い苦闘の夜の間、サタンは、彼に自分の罪を思い起こさせて、失望に陥れ、彼が神にすがっているその手を引き離そうとした。ヤコブはほとんど絶望しそうになった。しかし彼は、天からの助けがなければ自分は滅びるしかないことを知っていた。彼は、自分の大きな罪を心から悔い改め、神の憐れみをこい求めた。彼はその目的をすてようとはせず、しっかりと天の使いを捉え、苦悶の叫びをあげて熱烈に懇願し、ついに勝利したのであった。サタンは、エサウを動かしてヤコブに立ち向かわせたように、悩みの時に、悪人たちを煽動して神の民を滅ぼそうとする。そして彼は、ヤコブを訴えたように、神の民に対する非難を申し立てる。彼は、世界を自分の手中にあるものと考えている。しかし神の戒めを守る小さな群れが、彼の主権に反抗しているのである。もし彼が、彼らを地上から一掃することができるなら、彼の勝利は完全なものとなる。彼は、天使が彼らを守っているのを見て、彼らの罪が許されたことを推測するが、彼らの調査が天の聖所において決定されたことは知らない。サタンは、自分が彼らを誘惑して犯させた罪を正確に知っている。そして彼は、それらを神の前に大きく誇張して示し、この人々は自分と同様に神の恵みから当然除外されるべきであると主張する。主が、彼らの罪を許しながら、サタンとその使いたちを滅ぼすことは、正当ではないと彼は宣言するのである。サタンは彼らを、自分のえじきであると主張し、滅ぼすために自分の手に与えられるべきであると要求する。サタンが、神の民をその罪のゆえに責める時に、主はサタンが、彼らを極限まで試みることを許される。神に対する彼らの信頼、彼らの信仰と堅実さとが、激しく試みられる。彼らは、過去をふりかえると、望みを失ってしまう。なぜなら、その全生涯の中に、よいところをほとんど見ることができないからである。彼らは、自分たちの弱さと無価値とを十分に自覚している。サタンは、彼らの状態は絶望的で、彼らの汚れたしみは洗い去ることができないと思わせて、彼らを恐怖に陥れようとする。サタンは、彼らの信仰をくじいて、彼らを彼の誘惑に負けさせ、神に対する忠誠を放棄させようと望むのである。神の民は、彼らを滅ぼそうとする敵に取り囲まれるが、しかし彼らの味わう苦悩は、真理のために受ける迫害を恐れてのものではない。彼らは、自分たちがすべての罪を悔い改めているかどうか、また、自分たちの中の何かのあやまちによって、「全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう」という救い主の約束の成就を妨げるのではないか、ということを恐れるのである(黙示録 3:1 0 )。もし彼らが、許しの確証を持つことができるならば、拷問も死をもいとわないであろう。しかし万一、許しに値しない者であることがわかって、自分自身の品性の欠陥のゆえに生命を失うようなことがあれば、それは神の聖なるみ名を辱しめることになってしまう。彼らは、至るところに反逆の陰謀を聞き、暴動が活発に起きるのを見る。そして彼らの心の中には、この大いなる背教が終わるように、そして悪人たちのよこしまが終わるようにという、強烈な願望と熱望が起こる。しかし、彼らが、反逆の活動をとどめるよう神に祈っていながらも、自分自身には悪の大きな潮流に抵抗する力も押し返す力もないことを感じて、激しい自責の念にかられる。もし彼らが、彼らの全能力を常にキリストの奉仕に用いていたならば、そして力から力へと進んでいたならば、サタンの勢力はこれほど優勢な力をもって襲ってはこないだろうと、彼らは感じるのである。

金は火で練られる

彼らは、彼らの多くの罪をこれまで悔い改めたことを指し示して、神の前で彼らの心を悩まし、「わたしの保護にたよって、わたしと和らぎをなせ、わたしと和らぎをなせ」という救い主の約束をこい求める(イザヤ27:5 )。彼らの信仰は、祈りが直ちに答えられないからと言って、なくなってしまわない。激しい不安、恐怖、苦悩に苦しみながらも、彼らは祈り求めることをやめない。彼らは、ヤコブが天使をつかまえたように、神の力を捕える。そして、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と彼らは心の中で叫ぶのである。もしヤコブが、欺瞞によって長子の特権を得た罪をあらかじめ悔い改めていなかったならば、神は、彼の祈りを聞き、憐れみ深く彼の生命を保つことを、なさらなかったであろう。そのように、悩みの時においても、神の民は、恐怖と苦悩にさいなまれている時、まだ告白していない罪を思い出すならば、彼らは圧倒されてしまうことであろう。絶望が彼らの信仰を断ち切り、彼らは神に救いを求める確信が持てなくなることであろう。しかし、彼らは、自分たちが無価値なことを深く感じてはいるが、告白すべき罪を隠してはいない。彼らの罪は、前もってさばかれて、消し去られている。彼らは、罪を思い出すことができない。神は人生の小さなことにおける不忠実を見のがされると、サタンは多くの者に思い込ませている。しかし、主は、ご自分が、悪を是認することも大目に見ることもなさらないかたであることを、ヤコブの取り扱いにおいて示された。罪の言いわけをしたり、隠したりして、それを告白せず、許されないまま、天の書に残しておく者は、みなサタンに負けてしまうのである。口でりっぱなことを言い、栄誉ある地位にあればあるほど、その人々の行動は、神の目には嘆かわしいものであり、大いなる敵サタンの勝利はいっそう確実なのである。神の日のための準備を遅らせる者は、悩みの時やそれ以後においては、準備することができない。こうした人々は、すべて絶望である。なんの準備もせずに、最後の恐るべき争闘に当面するこれらの自称キリスト者たちは、絶望して、激しい苦悶の叫びをあげて彼らの罪を告白する。そして悪人たちは、彼らの苦悩をながめて勝ち誇るのである。このような告白は、エサウやユダの告白と同じ性質のものである。これをなすものは、罪そのものではなくて、罪の結果を悲しむのである。彼らは真の悔い改めをしておらず、悪に対する嫌悪感がない。彼らは刑罰を恐れて罪を認めるのである。そして、昔のパロのように、刑罰が取り除かれるとまた天に反抗するのである。ヤコブの生涯はまた、欺かれ、試みられ、罪に陥れられても、真に悔い改めて神に立ちかえった者を、神は見捨てられないという保証でもある。サタンはこのような人々を滅ぼそうとするが、神は天使を遣わして、危機の時に彼らを慰め、保護されるのである。サタンの攻撃は、激しく、断固たるもので、彼の欺瞞は恐るべきものである。しかし、主の目はご自分の民に向けられ、その耳は彼らの叫びを聞かれる。彼らの苦悩は大きく、炉の火は彼らを焼き尽くすように思われる。しかし、金を吹き分ける者であられる神は、彼らを火で練った金として取り出される。この最も激しい試練の時における、神のその子供たちに対する愛は、彼らの最も輝かしい繁栄の時と同じように、強く、やさしいのである。しかし、彼らは、火の炉に投げ入れられる必要がある。キリストの姿が完全に反映されるように、彼らの世俗的なところが焼きつくされねばならない。

われわれに必要なもの

われわれの前にある苦悩と苦悶の時は、疲労と遅延と飢えに耐えることのできる信仰、すなわち、激しく試みられても落胆しない信仰を要求する。その時に備えるために、すべての者に恩恵期間が与えられている。ヤコブは、断固として屈しなかったために勝利した。彼の勝利は、しきりに願い求める祈りに力があるということの実証である。彼のように神の約束をしっかりとつかみ、彼のように熱心で忍耐強い者はみな、彼が勝利したように勝利するのである。自分をすて、神の前で心を悩まし、神の祝福を求めて熱心に祈り続けようとしない者は、それを受けることができない。祈りによる神との格闘―このことを知っている人がなんと少ないことであろう。熱烈な願いをもって、心から神によりすがり、全力を注ぎ出す人がなんと少ないことであろう。嘆願者の上に、言葉では表現することのできない絶望の波が押し寄せる時に、確固不動の信仰をもって神の約束にすがる者が、なんと少ないことであろう。今、少ししか信仰を働かせていない者は、サタンの欺瞞の力と良心を強制する法令の下に屈してしまう危険が多分にある。そして、たとい彼らが試練に耐え得ても、常に神に信頼する習慣を養ってこなかったために、悩みの時には、さらに大きな苦難と苦悩に陥ることであろう。彼らは、自分たちが学ぶことを怠っていた信仰の教訓を、恐るべき失望のもとにあって学ばなければならなくなる。われわれは今、神の約束を試すことによって、神をよく知らなければならない。天使は心からの熱心な祈りをすべて記録している。われわれは、神との交わりを怠るよりも、利己的な満足を求めることをやめるべきである。神の是認の下にある最低の貧困、最大の自己犠牲は、是認のない富、栄誉、安楽、友情にまさっている。われわれは、時間をかけて祈らなければならない。もしわれわれが世俗のことに心を奪われているならば、主は、金、家屋、肥えた土地などの偶像を、われわれから取り去ることによって、われわれに時間をお与えになるかもしれない。もし青年が、神の祝福を求めることができる道のほかには、どんな道に入ることをも拒むならば、罪に誘われることはない。世界に最後の厳粛な警告を伝える使命者たちが、冷淡で無気力で怠惰な態度でなくて、ヤコブのように、熱烈に、信仰をもって神の祝福を祈り求めるならば、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」と言うことのできる多くの場所を見いだすであろう(創世記 32:3 0 )。天は彼らを、神と人とに勝つ力をもった王子たちとみなすのである。
各時代の大争闘 「大いなる悩みの時」より引用

2020年12月19日 礼拝 「信仰によって神のわざを見る」 森田一男名誉牧師

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帰省

目次
  1. 土地
  2. 帰省

土地

昨日、職場の方々から青森の観光名所を色々と教えていただいた。既に行ったことのある場所も多かったが、色々とコメントしてくださるので傾聴していた。その中に「恐山」がでてきた。勿論青森に来る前から恐山のことは知っていたが興味本位で行って良い場所ではない気がしているので行こうとは思わない。職場のある方は霊的な現象を経験したと言っていたのでやはりサタンの働く場所なのかもしれない。以前に行ったことのある「キリストの墓」も非常に不思議な場所であった。もう一度是非言って見たいと思うほどのところではなかったが独特の雰囲気を持つ場所だと思う。人には思い出の場所があり、その場所に行けば景色を見るたびにかつてそこにいた自分が再現される。また、一度も行ったことのない場所でも土地の持つ力みたいなものがあり、自分の心の波長と一致するととても懐かしい場所に感じ心癒されることがある。最初に沖縄に行ったのは今から33年前になる。沖縄本島だけの旅だったがとても強い印象をもって帰ってきた。異国情緒あふれる街並み、全く読めない地名、それでも人の優しさと花と音楽が心を癒してくれた。それから海に潜るようになり、沖縄の系列校で教鞭をとるようになった。
また人生で最も長く住んだ広島。ここも心の故郷である。最初に訪れた時に可愛らしい女の子が自分のことを「わし」と言ったことに軽いショックは受けたがその後住めば住むほど広島に惹かれていった。青森に住むようになってからも思い出すのは故郷でもなく、また沖縄でもなく広島である。いつか、自分にとって青森も忘れられない土地になるのだろうか。

帰省

実は今日、久しぶりに帰省する。母の状態が良くないので両親の様子を見に行く。今日もし最終電車に間に合えば今日から3泊できる。姉の話では更に認知症も進んでいるようなのでどのような展開になるかは想像できないが、もしかすると失明の危険もあるとのことなので目が見えるうちに会っておきたいと思っている。17時半終業なのだがいつも21時頃まで残って仕事をしている。が、今日は定時に上がらせてもらい何とか最終の新幹線に乗りたい。あと、何回両親の顔を見ることができるだろう。あと何回両親と喋れるだろう。そしてあと何回、両親と祈れるだろう。

しかし試みに攻められても、勇気を失ってはならない。困難な立場に おかれると、われわれは神のみたまが導いておられるのだろうかと疑う ことがたびたびある。だがサタンの試みを受けるためにイエスを荒野へ みちびいたのは神のみたまであった。神がわれわれを試みに会わせられ る時、神はわれわれの益のために達成すべきある目的を持っておられる。 イエスは神の約束につけあがって自分から試みの中にとびこんだり、あ るいは試みがやってきた時落胆してあきらめたりされなかった。われわ れもまたそうでなければならない。「神は真実である。あなたがたを耐え られないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、そ れに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」。神はこう 言われる、「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者 に果せ。悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわ たしをあがめるであろう」(Iコリント 10:13、詩篇 50:14、 15)。
各時代の希望電子版 p108 勝利

【スーパードクターは2児の母】一刻を争う命の危険と向き合う女性救命医 「後輩たちの“道しるべ”になりたい」【関西医科大学付属病院、高度救命救急センター】

 

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エレミヤ

バビロン

久しぶりの仕事。4日も休んでしまったので出勤が少し億劫にも感じられた。また、4日休んでも問題ない程度の仕事しかしていないということでもある。

休憩時間に、久しぶりに会う職場の方と聖書の話で盛り上がった。戦争の話から「ヨハネの黙示録」にまで言及する話だった。終末時代にいよいよ突入していることを実感する今日、自分は無知で何も知らなかったのだが大阪万博における「ムーンショット計画」について教えていただいた。この中には死者との交流をテーマにしたものもありいよいよヒューマノイドがここまで来たのかと驚かされた。死者との交流って、サタンの常套手段でイエス様が最も嫌うことのひとつではないか。本当に恐ろしい。戦争は一番気になるけど、水面下では更に恐ろしいことが徐々に進行していることを考えると、神様との個人的な交わりなしにこの時代を生きることが困難であることを痛感する。

そのような中で今朝の聖書通読がエレミヤ16章~25章だった。自分は特に24,25章が好きで読みながらワクワクしていた。24章には以前にも投稿したが良いいちじくと悪いいちじく」の話が出てくる。

3主はわたしに、「エレミヤよ、何を見るか」と言われた。わたしは、「いちじくです。その良いいちじくは非常によく、悪いほうのいちじくは非常に悪くて、食べられません」と答えた。

4主の言葉がまたわたしに臨んだ、 5「イスラエルの神、主はこう仰せられる、この所からカルデヤびとの地に追いやったユダの捕われ人を、わたしはこの良いいちじくのように顧みて恵もう。 6わたしは彼らに目をかけてこれを恵み、彼らをこの地に返し、彼らを建てて倒さず、植えて抜かない。 7わたしは彼らにわたしが主であることを知る心を与えよう。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは一心にわたしのもとに帰ってくる。8主はこう仰せられる、わたしはユダの王ゼデキヤとそのつかさたち、およびエルサレムの人の残ってこの地にいる者、ならびにエジプトの地に住んでいる者を、この悪くて食べられない悪いいちじくのようにしよう。 9わたしは彼らを地のもろもろの国で、忌みきらわれるものとし、またわたしの追いやるすべての所で、はずかしめに会わせ、ことわざとなり、あざけりと、のろいに会わせる。 10わたしはつるぎと、ききんと、疫病を彼らのうちに送って、ついに彼らをわたしが彼らとその先祖とに与えた地から絶えさせる」。
エレミヤ24:3-10

バビロンは異教の国であり真の神様を認めない人ばかりがいる場所。しかし、そこで捕囚の民となった人たちは良いいちじくとみなされた。そしてそれが神様のご計画だった。

神様の導きを信じる

自分が置かれている場所や状況などはすべて神様のお許しのなかで与えらえているもの。今朝、長男と電話で話したのだが、祈った道とは違うところに導かれることは非常に苦しいし神様を見失ってしまいそうにもなる。しかし、それでも神様がその道に導くのならそれが最善だと信じる以外に道はない。神様は決して人を困らせたり欺いたり、苦しむのを見て喜ぶような方ではない。何とか真の幸福に浴してほしいと心から願っていらっしゃる。その神様を信じ抜くことが要求されているのだと思う。

前述の同僚との話であるが、その方は「世の終わりの印」に非常に興味を持っていてコロナのワクチンやワールドリセットなどについて詳しく調べている。そう言うことは興味のある話題だし、知っておかなくてはならないことも沢山ある。しかし、一番大事なことは、どのような困難な時であっても神様が決して離れず共にいてくださると言うこと。ここから目を離して真の幸福はないと思う。今、バビロンに導かれているとしても神様が共にいてくださるなら「良いいちじく」の実にしていただけることを忘れないでいたい。

わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう

 And, behold, I am with thee, and will keep thee in all places whither thou goest, and will bring thee again into this land; for I will not leave thee, until I have done that which I have spoken to thee of.

創世記28:15

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