石からアブラハムの子孫

選民意識

古くからユダヤ民族は選民意識を持ってきた。アブラハムの子孫であることが神に受け入れられる条件であると信じていた。現にアブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)の神は歴代の信仰者を代表としイスラエル民族と契約を交わしてきた。

聖書には次のように書かれている。

それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。
出エジプト記19:5

神の声に聞き従い、契約を守るという条件をつけた上での選民だったがイスラエル民族はアブラハムの子孫であることが条件であるとの勝手な解釈をしてしまった。

このことに対してイエスキリストは次のように言う。

だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。
ルカによる福音書3:8

与えらえた光

自分が所属する教団はプロテスタントの中でもかなり特異な教理を持っているグループだと思う。安息日を礼拝日として遵守し聖所の解釈こそイエスキリストの救いの道だと信じている。自分たちが残りの民であることも自認しておりヨハネ以降の預言者としてE.G.Whiteと言う人物が与えられ、彼女の霊感を受けて著した書物が聖書を明るく照らす小さな光であると考えている。確かに教えは聖書に立脚しており余計な解釈、聖書に無い思想を一切排除している。全くの聖書主義である意味原理主義であるとも言える。しかし、教会の内部はどうだろうか。自分が通うとても小さな教会ですら以前は教会が二分する様な争いがあったと言う。いまでもその残党が教会におり「自分こそこの教会のリーダーだ」と言わんばかりになんでも仕切ろうとする。教団全体について概して律法主義的な雰囲気が無いとは言えないと思っている。セカンドチャンスという考えが教会の中に持ち込まれそれを叩く人、叩かれる人がいるが日本でその考えの中心となっているメガチャーチであるとある教会に数年出入りした経験がある。とても大きな規模の教会だが礼拝前には牧師先生自ら会場を歩いて一人一人に挨拶をされる。当時は1000人の信徒を3回の礼拝に分けて養っていたが、自分が参加する第三礼拝は400人位の人が礼拝堂に入る。そのひとりひとりに挨拶をするのだ。しかも自分も様な流れ者神とのことも記憶していてくださり名前や背景など全て覚えていてくださる。自分の所属する教団は決してそうでは無い。今日、あるキリスト教書を読んでいたが「クリスチャンはその与えられた光に応じて裁かれる」と記されていた。自分の所属する教団は非常に多くの光が与えられていると自覚しているがその分厳しい裁きを受けることも決して忘れてはいけないことだと思う。

隅のかしら石

熊本城が震災で大きな被害を受けたが、隅のかしら石によって支えられた映像を見た。二方向の壁を支える隅のかしら石は非常に大きな重力がかかる為堅固で大きく加工されていない石である必要がある。一方で城壁に積まれる石は配置される場所に応じて形が整えられる必要がある。余分な角が削られなければならない。イスラエル民族も余分な角が削られる必要があったが彼らはそれを好まなかった。何故ならそれには痛みが伴いプライドが傷つけられるからだ。何度もこの加工作業をしようと試みられたがイエス様は最後に非常な悲しみと涙をもって次の様に言われた。

「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。」
マタイによる福音書 23:37 口語訳

自分の人生にイエス様がご介入してくださっていることを毎日実感している。寂しさや空虚感、あるいは失望と戦いながら必死にイエス様にしがみつく生活である。できれば今すぐこの生活から解放されたい。しかしこれが自分の品性を整える訓練であるならばもう少し忍耐しないといけないと思っている。自我がまだまだ残っている。このままではまだ器になれない。

石ころが宝となるとき

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